句集 永平寺

  句集永平寺・伊藤柏翠
  句集永平寺・伊藤柏翠

 

句集 永平寺

 

「句集 永平寺」は永平寺高祖七百回忌大遠忌に際し、伊藤柏翠が中心となり、熊沢泰禅禅師をはじめ、高浜虚子の協力を得、大勢の人々が「永平寺」の句を寄せ、昭和27年4月16日、伊藤柏翠が編者となり、句集永平寺刊行会が発行したものです。

尚、永平寺では、昭和23年より伊藤柏翠の指導を受けて、安居中の雲衲を中心に「枯木会」と称し、句作の集いをつくっていた。 

この「句集 永平寺」は永平寺役寮、雲衲をはじめ、全国の有名無名の俳人から投ぜられた永平寺についての俳句およそ七百五十句が収められている。

 

句集 永平寺

「逢ひ難き高祖七百回の大遠忌に当たり、道元禅師の御霊前に句集『永平寺』を捧げまつることを得てまことに光栄且つ喜びに堪えません。
ひとへに人天の加護の厚きことを感謝致します。
本山よりは貫主(貫首の間違い)猊下他大遠忌関係役寮、枯木会の雲水諸氏の御力添を得、又恩師高浜虚子先生他俳句界の先輩知友の御協力を得られました事を衷心より御礼申し上げます。
尚印刷に格別の御配慮を得たる福井印刷株式会社並びに竹下印刷所にも御礼を申述べます。
この句集を以て大遠忌奉賛の俳諧結縁と致したく存じます。」
 昭和二十七年四月
  越前三国にて 伊藤柏翠

 


 

尚、伊藤柏翠の略歴、出版本についてはこの頁の中段より記載してあります。 

 


 

熊沢泰禅禅師


高祖大師七百回忌
「殊にこの 御法の梅の 早きかな」永平雪庵

 

 殊にこの御法の梅の早きかな・永平雪庵
 殊にこの御法の梅の早きかな・永平雪庵

 

高浜虚子

 


「この滝の 上に山田の ありとかや」



「黄葉山 左右に迫りて 永平寺」

「大杉に 紅葉打ち映え 永平寺」

「紅葉よし 雪来るまでの 永平寺」

「廻廊を 登るにつれて 紅葉濃し」

「木々紅葉 せねばやまざる 御法かな」


道元禅師
「今も尚 承陽殿に 紅葉見る」

 

  道元禅師今も尚承陽殿に紅葉見る・高浜虚子
  道元禅師今も尚承陽殿に紅葉見る・高浜虚子

 


「小春日を こゝにもて来て 永平寺」

「滝風は 木々の落葉を 近寄せず」

「廻廊を 登るにつれて 時雨冷え」

 


 

星野立子

 

「滝の前 過ぎて橋あり 渡り行く」


「七堂や 杉に紅葉に うづもれて」

 



近藤いぬゐ

 

「一本の 餘花いたみをり 永平寺」

 


 

京極杞陽

 

「栗を搗く 笠をかむれる 女かな」


「法堂に 干しある木綿 布団かな」

 



鈴鹿野風呂



「藩公の 卵塔は古り 木下闇」

「藤むしろ 隙なきまでに 長廊下」

「作務僧や 大木樵りて 汗淋漓」



「すりこ木は 柱の高さ 堂の秋 」

 鈴鹿野風呂・永平寺
 鈴鹿野風呂・永平寺


「撞きべりの 魚板雲板 秋の風」

「露しぐれ あした夕べの 掃除作務」

 



森川暁水



「雨安居の はつと胸つく 鼓鳴るなり」


「蓋固き 大炉寂たり 安居寺」

 


 

皆吉爽雨

 

「滝壺に しりぞきめぐる 深雪かな」
「銅蓮の 掘られて噴ける 深雪かな」
「解きおとす 鼓楼の囲ひ 雪解庭」
「滝口に 雪解の仏 欠けおはす」

 


 

岡田耿陽



「霧こめて 七堂伽藍 なき如し」

「雪囲ひ しかけてありぬ 永平寺」
「ほとばしる 永平寺川 紅葉散る」
「就中 禅堂暗き 深雪かな」



伊藤柏翠



「一管の 横笛を置く 花の坊」

「味噌汁を はこぶ手桶に 山の蜂」



「あな白し 山雨の後の 朴の花」

「朴咲いて 散って伽藍の 月日はや」

「大擂と いふ大太鼓 明易し」



「月の空 支へたりやな 五代杉」

「大杉の 根のいだき合ふ 夜寒かな」



「深雪なる 幾村すぎて 永平寺」

「大雪の 止みて月夜や 永平寺」

「雪深く 仏も耐えて 在しけり」

 

  雪深く仏も耐えて在しけり・伊藤柏翠
  雪深く仏も耐えて在しけり・伊藤柏翠

 

「雪囲 して三百の 僧住めり」

「めざましや 七堂伽藍 雪囲」

「旅立ちの 一僧出づる 雪囲」

「巡錫の 輿を深雪に 舁き出づる」

「一僧の 聾にして篤 雪安居」

「雪の杉 のみの眺めの 坊泊り」

 



森田愛子

 


「雲水等 滝に涼みて 永平寺」

「滝に向き 経読む僧や 永平寺」



「紅葉山 間近くなりて 永平寺」

「宝物に 紅葉明りの さし及び」

「山門に たゝれたる師に 紅葉濃し」

「滝音の ひゞき紅葉の 法の山」



「昼灯 つけて時雨の 永平寺」

「二三祠へ 落葉の橋の かけてあり」

 


 

小幡九龍(福井県知事・小幡治和)

 

(句集永平寺の春夏秋冬の扉題字は小幡九龍)



「七堂を どよもし落ちる 雪崩かな」


「不老閣 猊下すこやか 柿をむく」
「秋晴れや 今日法楽の 永平寺」
「満月や 大本山の 堂伽藍」

「魚板鳴る 大本山の 年籠」
「全山の 吹雪の中の 永平寺」

 

  句集永平寺・表裏
  句集永平寺・表裏

伊藤 柏翠

 

伊藤柏翠【いとう はくすい】

(1911~1999)

 

明治44年(1911)5月15日、生まれ。本名は伊藤勇。


実父は櫻孝太郎(茨城出身、海軍主計中将)、実母は大久保喜久(東京三田台町)であるが、東京市浅草区千束町二丁目百十四番地、伊藤専蔵(父)、ひで(母)に育てられる。(伊藤家の養子)
祖父、七蔵は千住の花畑、伊藤谷の鄕士の末で、浅草田圃千束村の大地主松崎文吾の姉いそのと連れ添い、松崎文治の後見をしていた。
幼い時、池に落ちて溺れかかったのを、この祖父に助けられる。
可愛がってくれた母(ひで)が離縁され、継母、正木ミヨ(芸妓)、石川コノ(北海道厚岸出身)が来るが、二人共離縁。
大正期の浅草で育ち、浅草千束小学校、東京府立第三中学校を卒業。

 

16歳、伊藤専蔵の葬式の折、「お前は伊藤の子ではないのだよ。海軍さんの子で、その海軍さんの死んだ時は新聞に出た様な人の子だ」と親戚より知らされる。

 

 伊藤家の菩提寺は曹洞宗萬隆寺で住職は来馬琢道(福井県丹生郡出身)師。


16歳で胸を病み、1929 昭和4年、19歳の頃、鎌倉七里ヶ浜の鈴木療養所(院長・鈴木幸之助)に入院、療養する。


1931 昭和6年、東京日々新聞の「日本新名勝俳句」(選者・高浜虚子)の帝国風景院賞入選二十句の香気の高さに胸を打たれ驚き、急速に俳句に傾斜する。
この年の秋からホトトギスを読み始め、雑詠に投句する。


1932 昭和7年、初夏に初入選する

 

「うかみ来る顔のゆがめり鮑採り 柏翠」


松原泊川と共に松原地藏尊の「句と評論」に句稿を送る。


1935 昭和10年、「鎌倉俳句会」へ入会し、高浜虚子に師事し、星野立子、松本たかしなどと共に句作を重ねる。


その後、「九羊会」に入会する。
ホトトギス発行所と鎌倉「虚子庵」に出入りし、高浜虚子の揮毫の手伝いをする。


1939 昭和14年早春、森田愛子が入院してくる。森田愛子に俳句をすすめる。


臨済宗宗雲寺住職足立義関と知り合い、建長寺の曇華窟に通い参禅弁道する。


1940 昭和15年春、森田愛子に俳句を指導する。


1941 昭和16年秋、森田愛子、父(森田三郎右衛門)母(よし)の住む越前三国に帰郷する。


1941 昭和16年頃より、一年に三、四回は三国に行くようになる。

 

1943昭和18年11月16日、高浜虚子を永平寺に案内して「永平寺・翠雲室」にて句会を開く。


1943 昭和18年11月17日、高浜虚子を三国に迎える。

 

1944 昭和19年
「雪囲して三百の僧住めり 柏翠」
この頃「愛子や美佐尾や信子、芳子と永平寺へよく吟行した。太い丸太と竹簀で七堂伽藍は堅固に雪囲いされていた。」と「伊藤柏翠集-P54」には書かれている。


1945 昭和20年2月27日頃、越前三国へ疎開する。
(昭和4年秋、入所以来17年の入院療養生活を終える。)


当初、森田愛子宅の近く永正寺に居を構えたが、3月、「愛子居」の川座敷に移る。


1945 昭和20年9月3日、自然気胸で死に直面するが、奇跡的に助かる。


10月、伊藤柏翠、ホトトギス同人に推薦される。

 

11月6日、「愛子居」にて倉と倉の間に造られた六畳二タ間の離室を高浜虚子は「愛居」と命名する。 

 

昭和21年、俳句雑誌「花鳥」を発刊、主宰する。


1946 昭和21年初夏、「ホトトギス」六百号祝賀大会が催される小諸に行く。


1947 昭和22年4月1日、森田愛子逝去。

 

1948 昭和23年、永平寺に雲水の俳句指導に行くようになる。

 

1948 昭和23年6月、高浜虚子と共に、森田愛子の母を伴って、北海道旅行する。
函館港を経て、小樽に着く。登別温泉第一滝本館に宿泊。白老、支笏湖を経て札幌に。北大の「虚子先生歓迎全道ホトトギス大会」に出席。北見へ行き、阿寒湖荘に宿泊し、小樽から古平港へ古平で滞在。帰路、東北線、北陸線で福井大地震の後の三国に到着。

 

大雪のやみて月夜や永平寺 伊藤柏翠・昭和24年作
大雪のやみて月夜や永平寺 伊藤柏翠・昭和24年作

自註現代俳句シリーズ・Ⅳ期8「伊藤柏翠集-P78」には この「大雪のやみて月夜や永平寺」の處に『この頃永平寺六十三世の熊沢泰禅禅師より芭蕉道を学びたいからと御親書を賜り折々不老閣へお訪ねした。それは禅師の逝去まで続いた。』と書かれている。

しかし、六十三世は七十三世の間違いであり、又、熊沢禅師の親書受け取りは別な本には昭和33年と書かれているのが多いので、ここでは昭和33年を採ることにする。 

 

 

1949 昭和24年7月17日、料理旅館「虹屋」を開業する。
「虹屋」は繁盛し、東京大角力の横綱(横綱照國、双葉山定次親方、横綱東富士、横綱鏡里など)が次々と宿泊する。

1952 昭和27年4月16日、編者伊藤柏翠の高祖道元禅師七百回大遠忌奉賛「句集永平寺」が句集永平寺刊行会より発行される。

 

1953 昭和28年10月8日、伊藤柏翠は山下千鶴と結婚する。 

 

この頃、毎日新聞の通信員となる。
NHKのラジオ放送文芸の俳句の選者として、毎月選評の放送をする。
「佐々木小次郎」、「ウッカリ夫人、チャッカリ夫人」にも出演する。
1955 昭和30年4月、芦原温泉の大火の実況中継が福井放送から全国中継放送となる。
福井放送に伊藤柏翠の番組ディスクジョッキーが生まれる。
北陸テレビ株式会社で上田悟社長の急逝により、後任の社長となる。

 

1957 昭和32年6月30日、「虹屋」を廃業する。 

 

1957 昭和32年頃、成田山福井別院建立に盡力する。

 

1958 昭和33年2月頃、永平寺熊沢泰禅禅師より「これから芭蕉道を志したいから話し相手に時々不老閣へ来るように」との親書を受け取る。

 

この頃、永平寺で得度を受ける決心する

 

「帰る雁得度の心定まりし 柏翠」
 

1958 昭和33年5月8日、不老閣にて秦慧玉後堂の介添えで得度する。


「薫風に得度の香のたちのぼる 柏翠」

 

永平寺73世熊沢泰禅禅師より得度を受け「天真柏翠居士」となる。

 

「私は仏教のほうにたいへん興味を持っているというか、縁があるんだね。
永平寺の第七十三世の禅師さんの熊沢泰禅という方が俳句をなさって、私の俳句のお弟子さんになったので、禅師さんがお弟子なんて申し訳ないから私が禅師さんのお弟子になりましょうと言ったら、じゃあ交換条件でということになって、一応私は永平寺不老閣で出家得度しているんです。だから天心(天真?)柏翠という法名はいただいているんですよ。」
~「虚子先生の思い出」92~93頁参照~

 

ただ、この法名の「天心」は「天真」の間違いか?
「花鳥禅」118頁に「昭和三十三年、永平寺不老閣にて得度、宝鏡三昧の『天真にして妙なり迷悟に属せず』より禅師は採られて、天真柏翠の名を賜わった。」とあるので「天真」が正しいのではないか?。


1958 昭和33年秋、高浜虚子を敦賀ホトトギス会へ迎える。

 

1959 昭和34年4月8日、高浜虚子、自宅にて逝去する。八十五歳。

 

  ホトトギス・虚子追悼・七百五十號
  ホトトギス・虚子追悼・七百五十號


1964 昭和39年、虚子渡道記念北海道俳句大会の選者として、渡道する。

 

1967 昭和42年5月27日
川端康成氏と永平寺へ
「滴らんばかり新緑濃かりしを 柏翠」
「而して法の濃紅葉見んと約 柏翠」

 

1968 昭和43年1月1日、熊沢泰禅禅師より別号「梅庵」を授与され、「梅庵天真柏翠居士」となる。

 

1968 昭和43年1月7日、熊沢泰禅禅師、遷化。世壽九十六歳。

 

1976 昭和51年7月15日、「句集 花鳥」を編集発行する。

 

1978 昭和53年2月15日、「句集えちぜんわかさ」を福井豆本の会より発行。

 

1980 昭和55年2月1日、「花鳥禅 禅と諷詠の世界」伊藤柏翠著、曹洞宗宗務庁発行。

 

昭和55年(1980)秋
熊澤泰禅禅師十三回忌を記念して、句碑が花鳥俳句會により永平寺鎮守堂の横に建てられる。
 

1981 昭和56年、福井県文化賞を受賞する。

 

1982 昭和57年11月20日、自註現代俳句シリーズ・Ⅳ期8伊藤柏翠集」を社団法人・俳人協会より発行。

 

1985 昭和60年、文部大臣地域文化賞を受ける。

 

1988 昭和63年7月2日、喜寿記念の「伊藤柏翠自傳」を著し、鬼灯書籍(株)より発行する。


1989 平成元年7月、三国より福井市に転居する。

 

尚、この年、勲五等に叙せられ、雙光旭日章を授与される。


1990 平成2年8月17日、実母、大久保喜久の眠る中国大連に行き墓参する。

 

1990 平成2年9月20日、「伊藤柏翠自伝(増補版)」を鬼灯書籍(株)より発行する。 


1995 平成7年4月8日、「虚子先生の思い出」を著し、(株)天満書房より発行する。

 

1996 平成8年10月25日、「伊藤柏翠句集 昭和編」を永田書房より発行。


1998 平成10年、再度、中国大連に墓参する。


1999 平成11年9月1日、伊藤柏翠、八十八歳にて逝去。

 

高浜虚子に師事し、俳誌『花鳥』を創刊主宰する。別号「梅庵」。
NHK、朝日新聞、福井新聞、FBC、の俳壇の選者、福井エフエム株式会社取締役、北陸テレビ株式会社社長、福井アドーニスクラブ会長、日本俳人協会評議員、日本伝統俳句協会副会長、ホトトギス同人会会長、国際俳句交流協会副会長等を歴任する。
福井県文化賞、昭和六十年度地域文化功労者文部大臣表彰を受賞。

棟方志功、三好達治とも親交があった。


著書は『句集永平寺』、『句集虹』(森田愛子共著)、『句集えちぜんかわさ』、『花鳥禅-禅と諷詠の世界』、自註現代俳句シリーズ・Ⅳ期8「伊藤柏翠集」、『伊藤柏翠自傳』、『虚子先生の思い出』、『伊藤柏翠句集-昭和篇』、「句集 花鳥」、「霧笛」などがある。

 

鷲の我鷹の汝と相許す・伊藤柏翠
鷲の我鷹の汝と相許す・伊藤柏翠

 

熊沢泰禅禅師と俳句と伊藤柏翠

 

ホトトギス同人の俳人伊藤柏翠(福井県三国町在住)の指導のもと、永平寺安居中の俳句同好の雲衲を中心組織された「古木会」は昭和23年1月より「祖山枯木俳句集」をガリ版刷りで月刊するようになる。

 

熊沢泰禅禅師は伊藤柏翠の依頼により「虹」の詩を詠んでいます。
「虹」 伊藤柏翠氏頼
七色架空何物変。 七色空に架く何物の変ぞ。
非無非有一時標。 無に非ず有に非ず一時の標。
功名虚實永難定。 功名虚實、永えに定め難く。
天気浮来千丈橋。  天気浮べ来る千丈の橋。 


熊沢泰禅禅師が熱心に俳句を始められたのは昭和33年からのようです。

それまで雲衲の俳句指導に永平寺に登っていた伊藤柏翠に昭和33年2月頃、熊沢禅師は「これから芭蕉道を志したいから話し相手に時々不老閣へ来るように」と手紙を送っています。

伊藤柏翠は熊沢禅師の俳句の手控えの帳面を見て、「作句の当初よりすでに俳句の正道を着実にお進みになる句境界をお持ちであった」と敬服しています。


さらに熊沢禅師は伊藤柏翠に弟子入りしたいともちかけたようで、「(熊沢禅師が)私の俳句のお弟子さんになったので、禅師さんがお弟子なんて申し訳ないから私が禅師さんのお弟子になりましょうと言ったら、じゃあ交換条件でということになって、一応私は永平寺不老閣で出家得度しているんです。」と伊藤柏翠は「虚子先生の思い出」の中で書いています。
即ち俳句では熊沢禅師が伊藤柏翠の弟子、仏法では伊藤柏翠が熊沢禅師の弟子となって落ち着いたようです。


 自註現代俳句シリーズ・Ⅳ期8「伊藤柏翠集」150頁には昭和三十三年作として


「得度式終へて師弟の春惜しむ」


の句があり、その注には「得度式は香の焚かれた小机を前に道元禅師の古式にのっとり行われ、天真柏翠となった。その後『梅庵』の別号も賜り、梅庵天真柏翠居士となった。」と書かれています。

 

熊沢泰禅禅師の俳句

 

俳句始めの頃(二百二十句の内)


「我が庵は雪なほ深し越の山」

「音もせで夜半に降り積む春の雪」

「冬ごもり谷水わかし蕎麦粉練る」

「欄干にもたれて眺む今朝の雪」

「植え替えし我が窓先の梅かほる」

「わが祖師の在せし如く夜の雪」

 

その後、雑詠(伊藤柏翠選)

   

「梅落つる音のしずかに僧ひとり」

「春風にまかせて今日も旅にあり」

「補陀山の戒会もすみて菊日和」

函館高龍寺芭蕉像、手向けの句
「飛びこみし蛙は今も鳴きつづく」

空即色
「春は花秋は御山の照紅葉」

色即空
「来ても見よ卍字巴と散る紅葉」

帰祖山
「帰去来(かえらなん)山の紅葉は今さかり」

祖山にて

「吾が祖師の兀坐偲ばる雪の庵」

「雪の夜も祖師は庵に筆とりて」

 

昭和33年以降、伊藤柏翠は熊沢泰禅禅師と深く親交を結ぶこととなります。

 

伊藤柏翠は「不老閣」と題して

「老梅の真珠の如き蕾かな」の句を

さらに熊沢泰禅禅師遷化には

「寒月下大本山は喪に籠る」

「清淨の祖山の雪に大示寂」

通夜には「御ン通夜の志比の雪谷(ゆきだに)大月夜」の句を詠んでいます。

 




伊藤柏翠の永平寺に関する俳句

 

道元忌
「胸に浮く 新(さ)ら絡子や 道元忌」
「露の庭  こめて修しぬ 道元忌」
「早ひきし かぜかこち合ひ 道元忌」
「経蔵を めぐり白露 らんらんと」
「水晶を 飛ばして瀧や 秋日和」
「放参の 沙彌かがめり あり地獄」
「蔵侍来て 経読むのみの 露の堂」

 

道元忌
「開山忌 旧街道は 今もあり」
「旧道に 旧山河あり 道元忌」
「木犀の 金こぼしつゝ 道元忌」

 

永平寺
「降る雪と 滝の白さの いづれとも」

 

永平寺
「瑞雪を 被(き)て緑なり 五代杉」
「老杉(ろうさん)の 根の一仏も 雪囲い」
「炭二俵 負う雲水の 雪を行く」
「芽杉より 霧湧きのぼり 永平寺」
「雪籠(ごも)り 大本山に 僧二百」
「竜膽(りんどう)を 活けある頃の 永平寺」

 

外にも沢山、永平寺に関する俳句を詠んでいます。

 



 

伊藤柏翠・著書紹介

 

「句集 花鳥」伊藤柏翠編

1976 昭和51年7月15日、「句集 花鳥」を編集し発行する。
この「序」には次のように記載されている。
「序」
雑誌「花鳥」ははじめ昭和十五、六年頃、鎌倉の鈴木療養所時代に謄写版で十号余り発行した。戦争がはげしくなり、私が福井県三国に疎開。終戦のあと、昭和二十一年に三国から活字印刷で再刊した。虚子先生の御来訪があったりして、その御作や手紙も掲載、三好達治氏の句や多田祐計氏の句、森田愛子の文章もその死までつゞけて紙面に乗せ、その後宝生流の近藤乾三氏と小生との福井における芸談が「近藤乾三師聞き書き」として紙面を飾った。虚子先生も「花鳥」は面白いよ・・・・・・・と洩らされた事があった。やがて小生の病気などで休刊が長くつゞき、昭和三十五、六年頃から再び第三種郵便として、復刊、花鳥句会同好の有志によって編集が助けられた。
最近七、八年は会員諸氏の協力で毎月順調に発行がつゞいており、会員も増加している。(以下省略) 伊藤柏翠

「句集 花鳥」伊藤柏翠編
「句集 花鳥」伊藤柏翠編

 

「句集えちぜんかわさ」伊藤柏翠著 

1978 昭和53年2月15日、「句集えちぜんわかさ」を福井豆本の会より発行した。

共著は句集「虹」、「句集永平寺」、「ホトトギス同人句集」、「句集花鳥」等があるが、「句集えちぜんかわさ」は伊藤柏翠の初めての個人句集である。

著者「後記」によると発行前は伊藤柏翠自身、この本の題名を「句集越前若狭」と漢字で表記している。
福井県内での作句、三百句を載せてある。
表紙等の写真は八木源二郎の撮影のもの。 

「句集えちぜんかわさ」伊藤柏翠著
「句集えちぜんかわさ」伊藤柏翠著

 

「花鳥禅 禅と諷詠の世界」伊藤柏翠著

1980 昭和55年2月1日、伊藤柏翠著「花鳥禅 禅と諷詠の世界」が曹洞宗宗務庁より発行された。
この「花鳥禅 禅と諷詠の世界」は随筆集『花言鳥語』と対談『世界に弘まる禅』と随筆集『禅風俳話』さらに句集『花鳥巡禮』の四部からなっている。
著者「あとがき」には修証義の「人身得ること難し、佛法値うこと希れなり・・・」を踏まえ『常にこの勝縁を感謝し、相逢う人にも見聞する花鳥にも親しみ学んで今日に及んだ。又、幼少よりいまだ見ずして慕いつづけた父母の面影もこの中に見る思いがした。・・・』と書かれれいる。

 

  「花鳥禅」禅と諷詠の世界・伊藤柏翠著
  「花鳥禅」禅と諷詠の世界・伊藤柏翠著

 

自註現代俳句シリーズ・Ⅳ期8「伊藤柏翠集」

1982 昭和57年11月20日、自註現代俳句シリーズ・Ⅳ期8「伊藤柏翠集」を社団法人・俳人協会より発行した。
この本は「自註」とあるように伊藤柏翠自身がそれぞれの句に作句の背景を描いている。
昭和7年、初めてホトトギスに初入選した句から、昭和33年、高浜虚子没前までの厳選された300句が収められている。
著者「あとがき」の最後には「平明にして余韻ある句を志し天寿を全うしたい。」と書かれている。 

自註現代俳句シリーズ・Ⅳ期8「伊藤柏翠集」
自註現代俳句シリーズ・Ⅳ期8「伊藤柏翠集」

 

「伊藤柏翠自傳」

1988 昭和63年7月2日、喜寿記念の「伊藤柏翠自傳」を著し、鬼灯書籍(株)より発行する。
目次
一、大正期の浅草で育つ
二、胸を病み句作の日々
三、ホトトギスの人々
四、福井に住んで四十余年
五、花鳥巡礼(句集)
後記
昭和62年8月15日に記した著者「後記」に、実父「櫻孝太郎」のことを詳しく知り、母の違う義兄弟に出会ったこと、「大連に渡って一人淋しく死んで行った母」実母「大久保㐂久」のことが書いてある。
尚、この本は「ケルスティン・ティニ・ミウラ女史」が装丁されており、箱、表紙共に美しい本である。

 

 

  「伊藤柏翠自傳」喜寿記念出版
  「伊藤柏翠自傳」喜寿記念出版

 

伊藤柏翠自伝(増補版)」 

1990 平成2年9月20日、「伊藤柏翠自伝(増補版)」を鬼灯書籍(株)より発行する。 

  「伊藤柏翠自傳」(増補版)
  「伊藤柏翠自傳」(増補版)

 

「虚子先生の思い出」伊藤柏翠著

1995 平成7年4月8日、伊藤柏翠、「虚子先生の思い出」を著し、(株)天満書房より発行する。
著者「あとがき」には次のように書かれている。
「(前述略)虚子先生の今日の俳句への恩恵又量り知れない。各派の俳句の先覚者、指導者にして、先生の影響を受けぬ方は殆どないと思うのである。その虚子とは如何なる人であり、又その時代を支え佳句を輩出した人々にどういう人々があったかを私の知るところを二三書きしるして大方の参考にしたいと思い、この思い出を月刊『俳句文芸』に連載した。これを集めてここに出版する。(後述略)」
又、この本の最後の章「虹物語」の中で、伊藤柏翠が強く主張している点が二つある。
その一点は寿福寺に建っている森田愛子の墓のこと。
高浜虚子の方に向いて建ててあるので誤解されている。
「森田愛子というのは、虚子先生の隠れた思い人の一人だと説明する鎌倉の観光ガイドみたいなものがあるそうですけど、そういうことは全然ないんです。」(本文199頁)
もう一点は「虹」の映画化について。
「東京12チャンネルというテレビ会社にホトトギス同人の成瀬正俊氏がいて・・・・脚本家と市川監督が福井の私までやってきて・・・・色々なことを言うんです。それでその脚本を見ると、やはり老の中に若い女性を思うという感情の流れというものが、どうも一番強く出してある。だからこれは実際とは違いますよ。・・・・事実と違ったことに対しては納得出来ないと言うと、脚本家と監督は今度は懇願に変わったんです。お願いしますお願いしますってね。」(本文206~207頁)と書いてあり、映画と事実とは違うことを主張している。

 

尚、この本の扉には「浅草に観世音あり年暮るゝ 柏翠」の自筆の句が書かれていました。  

  「虚子先生の思い出」伊藤柏翠著
  「虚子先生の思い出」伊藤柏翠著
浅草に観世音あり年暮るる・伊藤柏翠
浅草に観世音あり年暮るる・伊藤柏翠

 

「伊藤柏翠句集」昭和篇

1996 平成8年10月25日、「伊藤柏翠句集 昭和編」を永田書房より発行。


編集後記
(前述略)
著者(伊藤柏翠)は、師虚子の詩塊の聖域に踏み入って、客観写生俳句一筋に歩むこと六十有余年。
本書は、伝統俳句の遵奉者伊藤柏翠の、昭和七年から昭和六十四年までの精選された昭和作品を収めた集大成の一巻である。
収載総句数は、一万三千句で、その掲出句採集方法は左記のとおりとなる。
一、昭和七年から昭和二十三年迄の句は、森田愛子遺作集を兼ねた共著、著者第一句集『虹』(昭和二十四年、七洋社刊)の全句と、昭和三十三年に至るまでの句から自選した『自注・伊藤柏翠句集』(昭和五十六年俳人協会刊)の全句を収めてある。
一、昭和二十九年十二月から昭和五十九年十一月までのものは、主宰誌「花鳥」に連載された「南詠北吟」より厳選した句を収めてある。
一、昭和五十九年十二月から昭和六十四年一月までの句は、句帳から自選されたものが収めてある。
(中略)
尚、続刊「平成編」は三年後の平成十一年とし、つまり著者八十八歳の米寿を期しての刊行予定になっている。
従って著者は、既に平成年度の作品の自選作業にとりかかっていることを茲に付記して、本書の後記とさせて頂く。
 平成八年九月   永田龍太郎 

  「伊藤柏翠句集」昭和篇
  「伊藤柏翠句集」昭和篇

 

(参考)

「虹 虚子著」

 

目次
虹・・・・・・・・・・・・・1
愛居・・・・・・・・・・・25
音楽は尚ほ續きをり・・・・41
櫻に包まれて・・・・・・111

 

昭和22年12月20日
著者  高濱虚子
発行所 株式会社・苦楽社

 

  「虹 虚子著」
  「虹 虚子著」
  「虹 虚子著」目次・外
  「虹 虚子著」目次・外

 

(参考)

「人の世も斯く美し~虚子と愛子と柏翠と~」森谷欽一著

 

目次
一  プロローグ
二  三国の豪商・森田本家の歴史
三  柏翠の生い立ち
四  愛子の生い立ち、転地療養、柏翠との出逢い、俳句入門
五  虚子との出逢い、実朝忌
六  柏翠三国移住、愛子と柏翠の生活
七  虚子三国訪問、虚子・愛子と虹
八  虚子の酔い泣き、山中温泉、能『木賊』
九  疎開先小諸での交流、虚子を慕う愛子
十  俳人たちの三国訪問
十一 愛子三国周辺の吟行
十二 愛子の友人たち、生前の美しい語らい
十三 三好達治と棟方志功
十四 愛子の臨終
十五 鎌倉寿福寺、愛子墓
十六 愛子亡き後、北海道吟行、虹屋旅館、句集発行、柏翠結婚
一七 虚子・愛子・柏翠句碑の建立
一八 虚子と叡子
一九 虚子の臨終
二十 柏翠、愛子の母「田中よし」の臨終と墓
二十一 エピローグ

 

人の世も斯く美し~虚子と愛子と柏翠と~森谷欽一著
人の世も斯く美し~虚子と愛子と柏翠と~森谷欽一著