永平寺六十七世 北野元峰禅師

 

永平六十七世・北野元峰禅師

 

(世称)
  北野大夤(きたの だいえん)


(道号・法諱)
  元峰大夤(げんぽう だいえん)


(禅師号)
  圓證明修禪師
  (えんしょうみょうしゅうぜんじ)


(生誕)
  天保13年(1842)11月1日


(示寂)
  昭和8年(1933)10月19日


(世壽)
  92歳

乾坤第一峰(東川寺所蔵)
乾坤第一峰(東川寺所蔵)

北野元峰禅師の書
「乾坤第一峰」
乾、坤は共に易の六十四掛中の名。天と地、陽と陰、日と月等にあて、転じて全世界を指す。乾坤第一峰は富士山を褒め讃えた言葉。

 


北野元峰禅師の略歴

 

天保13年(1842)11月1日
越前国大野郡小山村字鍬掛の北野孫四郎の末子(十人目の子)次男として誕生。幼名は「十吉」と云う。(生家は代々、孫四郎を名乗っている。)

 

北野元峰禅師のご生家なる北野家は一農家であるが、屋後に峙立する亥山城主に仕えた落人の末裔と称せられ、此の土地の草分けの旧家である。

生父孫四郎は夙に信仰篤く、在家のまま大野町洞雲寺の孝禅和尚に就いて得度し、「清岳浄心上座」の名を授かり、剃髮、法衣を着し、全くの出家生活であった。その薫化を受けた妻、即ちご生母も遂に得度して「本室慧心尼上座」となり、夫が朝夕の礼拝に侍したりと。是れが為に禅師には三人の姉ありしが三人とも出家して、長姉は「光林祖山尼和尚」、次姉は「智海円定尼和尚」となり、末姉は「大安春道尼和尚」となり、かくして禅師と両親を加えて六人の出家であって、元峰禅師が禅師たるの根芽は此の家庭に萌え立ったものである。禅師は生母四十七歳の時の誕生で、而かも同区の洪泉寺本尊延命地蔵菩薩にその長姉光林祖山尼和尚が祈願せられた申し子であったが、特殊なることは生後六十日目に初めて呱々の声を上げ、両眼を開かれたという異例であった。(「傘松」昭和8年11月号より)

 

嘉永3年(1850)9月 9歳
群馬県北甘楽郡吉田村南蛇井の最興寺哲量和尚の許に連れて行かれる(余話1)


最興寺哲量和尚の法嗣、西方院碩童和尚に添い出家し、「大夤だいえん」と改名する。


( 注意 )
「禅師は自身でも常に元峰の方を署せらるゝので、世人もそれが名であるように思ふて居るが、實は元峰は道號であって、大夤(だいえん)が名であることは、法脈嗣書の上にも、又、改まって自署せられた遺物の上にも元峰大夤と明らかに記してあるのが其の確証である。」 

  ~「永平元峰禪師傳歴」細川道契編述 ~

 


嘉永4年(1851)4月8日 10歳
西方院碩童和尚に就いて得度する。

此の年、碩童和尚は同国一ノ宮町三會寺(さんねじ)に転住するに随い、十歳から十六歳まで同寺にあって受業師の許に修学。


安政4年(1857)春 16歳
碩童和尚に連れられ、武蔵国赤塚村松月院の魯衷(ろちゅう)和尚の許に預けられる。

 

北野元峰禅師・後談話
「どーもあの当時は、老衲が餘りいたずらが激しいので、碩童和尚の手に合わず、此の小僧は毎日こんなことでは、とても末の見込みが無いと云って、見放されただよ。それで法叔の魯衷和尚に鍛えて貰うつもりで同伴したのさ。」

 

北野元峰(禅師)が投ぜられた赤塚の松月院には、其の当時二十四五人の雲衲が常詰して、此の道行綿密なる魯衷和尚の提撕を受けていたが、法益は永平家訓、宝慶記、健康普説などであった。それに魯衷和尚は漢籍の造詣が非常に深くて、四書、五経、文選などの輪読を盛んにされた。
受業師碩童和尚に末の見込みがないと見離されて、本気になられた北野元峰(禅師)の此の時代の苦学は、とても尋常ではなく、開枕後に他の就寝するを待ってソッと蒲団から這い出し、線香の火を持って文選の山子點の素読を熟練せられたのも、此の時代であった。又、「蒙求」は此の時代に殆ど暗誦されたもので、それが青松寺時代以後の布教にどれだけ活用したかも知れぬ、「蒙求」は禅師愛読書の一つで、それが御遷化前まで続いた。
 ~永平元峰禪師傳歴・32,33頁より


安政5年(1858)8月 18歳
魯衷和尚が青松寺に昇住されるに従い之に伴う。


万延1年(1860)4月 19歳
前年より駒込学寮で修学していたが、武州世田谷豪徳寺に掛錫し、竣龍和尚に随身する。

 

文久1年(1861)春 20歳 一時故郷に帰省する(余話2)

 

文久3年(1863)冬 22歳 青松寺魯衷和尚冬安居、首座に就く。

 

元治元年(1864)23歳
此の年立身も無事円成したので、 北野元峰(禅師)は群馬県の受業師碩童和尚の許に帰省して嗣法を請われた。然るに碩童和尚が北野元峰(禅師)に言わるるには、「立身も無事に済みたれば、拙衲が嗣法したくもあり、嗣法すべきなれども、魯衷和尚から懇書が来ているので見合わせねばなるまい」とのこと故、其の懇書とはどんなものでありますかと聞かるると、之を見よとて出された。
北野元峰(禅師)がそれを読んで見らるると、「今や面山下の法系も頗る人物が払底して秋風寂寞の観があるから、何とかして之を復興せねばならぬが、それについては元峰ならば必ず之を成すであろうから、どうか面山下復興の為に、元峰を老衲の弟子に譲ってくれ」という懇書であった。
そこで碩童和尚に此の懇書に対する決心を北野元峰(禅師)が聞かるると、「どうも魯衷和尚の請意に背く訳にはゆくまいから、是は思い切って尊公を譲るつもりである」といわるるから北野元峰(禅師)も然らばというので、遂に当時青松寺境内吟窓院に住したる碩童和尚の法弟増進和尚を通じて、碩童和尚から魯衷和尚へ懇書承諾の旨を告げ、北野元峰(禅師)は茲に改めて魯衷和尚を本師と仰ぐこととなった。

 

慶応2年(1866)8月 25歳
青松寺三十八世素信魯衷和尚の室に入り嗣法する。

 

慶応3年(1867)26歳
8月20日大本山永平寺に上山して転衣瑞世し、同月28日、京都に入って参内綸旨を拝受した。それから間もなく年号は明治となり、綸旨拝受の制は廃止となったので、北野元峰の綸旨拝受は曹洞宗僧侶の最後のものとなった。

 

慶応4年(1868)1月15日 27歳

二年間安居した飛騨高山の素玄寺を送行して、江州彦根の清凉寺の清拙和尚青蔭雪鴻禅師の師僧)のもとに参じ、安居する。

 

慶応4年(1868)旧9月8日 1月1日に遡って明治元年(1868)とする改元の詔書が出される。 

 

この年の冬、12月2日、臘八大接心の第二日の夜、豁然として大事を了畢し、即時に清拙和尚(後の鴻雪爪)の室に入って証明を受ける。

 

明治3年(1870)3月15日 29歳
西方院に首先住職する。


明治6年(1873)2月16日 32歳
北野元峰、東京青松寺四十世住職となる。次いで小講義に補せられる。

 

この間のことは下記参照

「北野元峰禅師と般若心経」

 

明治21年(1888)1月 47歳
法式改正委員となる。
同年11月、法式改正委員等、「明治校訂・洞上行持軌範」三巻を編す。

 

  「明治校訂・洞上行持軌範」(東川寺蔵書)
  「明治校訂・洞上行持軌範」(東川寺蔵書)

 

洞上高僧月旦-北野元峰師(東京市芝区愛宕町青松寺住職)

 

東京は皇居所在の地にして大日本帝国の首府なり。
明治二十五年十二月三十一日の調査に據るに人口を有すると實に百十八萬零五百六十九人、皇族あり華族あり、大将あり、學者縉紳より以て富商豪賣に至る一に全國の枠にあらざるはなし。
此の間に在りて宗門布教の樞機を握り貴族縉紳の歸仰を受けて道譽を宗門の内外に駛す北野元峰師の如きは實に明治の忠國師と謂つべき歟。
政令の本源が東京に在ると同時に教化の本源も亦東京に在り。
試みに之を時々の流行に徹するに東京先づ唱へて、而して後、地方之れに和す。
中央集権の余弊未だ去らざるの致す處、勢い實に然らざるを得ず。
故に其の佛教と耶蘇教とに論なく苟も之を全國に播布せんと欲せば、先ず本城を東京に定め、而して後地方に及ぼさざるを得ず。
是を以て東京に於ける教勢の盛衰は即ち全國に於ける教勢の盛衰なり。
師の東京に據りて化門を開く、實に地の利を得たるものと謂つべし。
師既に地の利を得大いに化門を東京に開く荀も利を得ば即ち尋常の碩徳高僧を以てするも尚一國の教勢を振興せしむることを得べし、況んや碩徳中の碩徳、高僧中の高僧を以て此の大任に當るをや、是れ宗門の紛擾連年熄まざるにも拘らず全國宗風の旺盛豪も昔日と相異らざる所以歟。
師宗學に於て独特の妙を有す故を以て、學者縉紳の輩一たび師の説法を聽聞せば幽玄の理高妙の談に感じ、赤誠を傾けて之れに帰依せざるはなし。
況んや操行の高潔なる能く一世に模範たるをや、乃ち師の信者中貴族縉紳學者軍人の多き何ぞ怪むに足らんや。
之を要するに師は實に宗門東京布教の全権を握る者なり。
而して荘重の言辞を以て深遠の理を談ず、尤も學士博士の歸仰を博する所以歟。
但し師が曾て管長代理として宗門に臨み、今や紀綱寮司として三十萬圓の基本財産を管理するに拘らず、此の如き俗務に於て甚だ巧妙ならざるは甚だ惜しむべしと云う者ありと雖も是れ僧家の本事にあらざれば拙も亦妨げず。
然りと雖も井上内務大臣が曾て両本山の紛擾を和解せしめんとし両本山の當路者其の官邸に招きて饗宴を張るに當り、師が中立派に領抽たるを以て深く公平無私の人なりと信じ、師を招きて其の席に列せしめたるが如き以て師の人と為り如何を卜するに餘りあり。
師にして一日東京を去るあらんか、東京の佛法は夫れ闇黒世界たらん、明治の忠國師其の任亦偉大なる哉。

 

 山岸安次郎 (頑石点頭居士) 著(明治26年12月9日発行)より 

 


「永平元峰禪師傳歴」細川道契編述 より(113~114頁)

(明治30年56歳頃)
北野元峰師(禅師)の教線は継続して、川崎、高崎、横浜等の地方を始め市内の家庭説法学校巡講、毎月半ば以上に達したる。
若し檀用や其の外で、又如何なる富豪高家の法事に特請するも、説法時間と差し支えの時は、断然之を延ばすか繰り上げて説法に出かけられた。
此の事に関して弘津説三師、記して曰く
「衲、往年仏教全体に関するの要件を以て、数回寺内伯に会唔せしに(寺内伯は当時総理大臣たりし時なり)、伯一日従容として教界の高僧を品評し、元峰師のことに及ぶ、曰く大凡厳正なることと根気の強きことは元峰師に及ぶ者なからん、東京陸軍衛戌病院に月一回づつの説法を願いしに、十有七年の久しき、未だ曾て其の日時を違えられしことなく、又自宅に月一回づつの説法を願いたるに、是れ亦曾て其の日時を誤られしこと無しと、衲は伯に対してあの老僧ぐらい六ヶしき人はなしと申せしに、伯は声に応じて曰く、末世には容易に得られぬ有難き人なり成るべく大切にすることを頼む」と云々。
以て北野元峰師(禅師)が如何に爲人度生の願輪の絶大なりしか、爲人説法の前には檀用法事を差し繰って厳守し、この事を重んじられたかを知るべきである。

 

明治35年(1902) 3月 61歳
青松寺住職以来三十年のため偶吟一首


回顧住山三十年。 回顧す住山三十年。
叱呵風雨耕教田。 風雨を叱呵して教田を耕す。
単身擔道道更遠。 単身、道を擔(にな)ふて道更に遠く。
鬚髪帯霜猶未全。 鬚髪、霜を帯びて猶ほ未だ全からず。

 

明治36年(1903) 5月 62歳
本年五月頃のこと、桑田鐵肝居士は赤坂の、現在乃木坂の付近に所有の地所を、当時露国公使であった栗野慎一郎氏に売却して得たる中より、五千圓携えて北野元峰師を訪い、是は私の志であるから、なんなりとも勝手に御使用下されと差し出された、ところが北野元峰師は今そんな金子の入用は無いから芳志だけ受けておくよと云って返された。北野元峰師平生の家風が此處にもあらわれている。

 

明治38年(1905) 1月16日 64歳
佐藤鐵額和尚を青松寺後董として退鼓をうち、寺中の門傍に隠寮を新築して住す。

 

明治44年(1891)9月 70歳
朝鮮布教総監に任ぜられる。(東京と京城との往復、約5年間)

 

 明治45年(1912)(1月1日-7月30日)
 大正元年(1912)(7月30日-12月31日)
 


大正4年(1915)7月24日 74歳
朝鮮布教総監を辞す。


★大正9年(1920)10月23日 79歳
北野元峰、永平寺六十七世貫首に当選する。

同年11月17日 永平寺入山式
同年11月18日 曹洞宗管長に就任する。
同年11月25日 北野元峰禅師、圓證明修禪師」の勅號を賜う。

 

大正10年(1921)4月15日 

法華寺発行の「瑞岡珍牛禪師」に巻頭賛を寄せる。 

 

大正10年(1921)4月22日 80歳
北野元峰禅師、永平寺晋山式を修す。

 

同年4月17日 鶴見の大本山總持寺にて故石川素童禅師の本葬に臨まれ、乗炬大導師を勤める。

 

同年6月3日 愛知で車夫の過ちより大怪我をし、名古屋奉安殿護国院不老閣に四十三日間、治療滞在する。

 

名古屋の奉安殿は珍牛和尚を開山とする護國院を門内大英和尚が再興した。その折、京都の道正庵傳来の高祖大師の御木像を迎えて、この寺に奉安した故、奉安殿と称す。

 

同年7月30日 箱根強羅の齋藤亀之丞家の別荘に避暑。爾来毎年同所に銷夏。

 

大正11年(1922)1月10日 81歳

北野元峰猊下親述「證道歌講話」(佛子因生編輯)を鴻盟社より発行する。

 

「明治四十三年初めて慈雲法雨に逢ふ、千葉縣作倉町薫風會の諸士我が禅師に請ふに、證道歌の講話を懇請せらる。其の請に應ぜられ、毎月講話の日を期して、作倉町の會員諸士の為めに講話せらる。・・・法筵の都度これを速記し、講話完結の際、これを印刷に附し、纂輯して有志者に頒布せしも、部數僅少にして頒布に遺憾の點ありしなり。・・・再刊の事を、特に禅師に請ふて、之を上梓する事とはなしぬ。・・・大正十年十二月 不老閣侍局にて 佛子因生謹識」

 北野元峰猊下親述「證道歌講話」緒言1~3頁より

 

北野元峰猊下親述・證道歌講話(東川寺蔵書)
北野元峰猊下親述・證道歌講話(東川寺蔵書)

 

この年、永平寺大庫院に扁額「法喜禅悦」を書し、此を掲げる。

この「法喜禅悦」の言葉は永平清規の赴粥飯法の中に書かれている。

 

「法喜禅悦」六十七世元峰八十一  (永平寺大庫院)(撮影・東川寺)
「法喜禅悦」六十七世元峰八十一  (永平寺大庫院)(撮影・東川寺)

 

大正12年(1921)1月31日 82歳
管長北野元峰、大本山台北別院新築落成、入佛遷座式、及び全島巡錫の為、東京を出発。

  

同年、4月15日 「承陽大師御略傳」を永平寺出張所より発行する。代表者は丹羽佛庵、印刷は秀英舎。

 

  承陽大師御略傳(東川寺蔵書)
  承陽大師御略傳(東川寺蔵書)
永平元峰八十二翁(東川寺蔵)
永平元峰八十二翁(東川寺蔵)

 澗水無声繞竹流  澗水 声無く 竹を繞って流れ
 竹西花草弄春柔  竹西の花草 春柔を弄ぶ
 茅簷相対坐終日  茅簷 相対して 坐すること終日
 一鳥不鳴山更幽  一鳥 鳴かず 山更に幽なり

 

 

大正13年(1922)春 83歳

「玲瓏閣」(永平寺)

 

 玲瓏閣・六十七世元峰八十三(永平寺蔵)(撮影・東川寺)
 玲瓏閣・六十七世元峰八十三(永平寺蔵)(撮影・東川寺)

 

大正13年(1922)4月22日

「永平寺真景」 編輯兼発行者・永平寺、代表者・丹羽佛庵、永平寺・発行

 

  「永平寺真景」大正13年発行(東川寺蔵書)
  「永平寺真景」大正13年発行(東川寺蔵書)

 

大正13年(1922)4月28日

永平寺貫首勅賜圓證明修禪師「禪道法話集」 細川道契編輯 永平寺出張所・発行

 

永平寺貫首勅賜圓證明修禪師「禪道法話集」 細川道契編輯

古今參禪學道の士の最も憂とする所は、眞實提撕の生師を得ること難きにあり、殊に現代我が洞門に於て然りとす、世の多くの禪を談じ、悟道を口にする者を観るに、一たび其修行地を點検すれば、足未だ實地を踏まず、悟道の邊際を究めず、而して謾に單傳を商量す、是を以て其所談は悉く謂ゆる輪廻の妄見を出でず、故に云く生滅の心を以て實相を解すれば、實相却つて生滅となると、慎まざる可けんや。

未だ生滅を出ずして輪廻の妄見を談じ、濫りに求法の道士を延いて邪路に陷らしめ、或は見性を否し、悟道を疑はしむ、悪邪師の人を謬ること、それ此の如し、懼れざる可けんや、永平高祖示て曰く、正師を得ざれば學ばざるには如かずと、宜なる哉。

本集は我が貫首禪師猊下、今より十七八年前、萬年山青松寺の隠寮に閑棲し給ふ頃、深く時弊を痛感したまひ、自ら參禪學道の正路を開き、其座下に投ぜし出家在家の為に、親しく接得し給ひし座堂の垂誡、並に當時余が巾瓶に侍して參聞したるものヽ片鱗なり、即ち片鱗なりと雖も片々悉く佛海の靈光、後學の指針にあらざるはなし、たとひ我が禪師百年の後と雖も、其遺身舎利は、蒐めて本集数篇の中に存すといふも、敢て過言にあらざるを覺ゆ。

若し現在未来に於て、眞に求法の道士たらん者は、其身の出家在家を繙いて信受奉行し、正念工夫することを得ば、啻に悪邪師の誘引を免るヽのみにあらず、親しく猊下の室に入つて獨參すると毫も異ることなし、本書は眞に學道の正師なり、參學の士は切に此の垂誡を通じ、猊下を仰いで提撕の正師と為し、是に由つて工夫の正路を得進んで佛祖の正法を單傳することを得ば、啻に猊下徹悃の本懐のみにあらず、亦以て特に乞ふて鉛槧に附したる編者の光榮何物か是に如かんや一言以て謹輯の由来を記するといふ。 大正十二年十二月三十一日除夕  參學弟子 細川道契 謹白

 

禪道法話集-北野元峰禅師(東川寺蔵)
禪道法話集-北野元峰禅師(東川寺蔵)
 永平六十七世・北野元峰禅師「禪道法話集」より
 永平六十七世・北野元峰禅師「禪道法話集」より

 

大正14年(1925)9月16日 永平寺鉄道、永平寺門前駅を開業する。 

 

(東川寺所蔵)
(東川寺所蔵)
永平寺鐵道京善付近ノ線路・絵葉書(東川寺所蔵)
永平寺鐵道京善付近ノ線路・絵葉書(東川寺所蔵)

大正15年2月25日 85歳
この日発行の森田清之助著「傑僧卍山」に「萬古放光」の賛題を載せる。 

 

大正15年(1926)春 85歳

本山、祠堂殿の扁額「總祠堂」を揮毫する。

 

「總祠堂」-大正十五年春・元峰八十五叟(東川寺撮影)
「總祠堂」-大正十五年春・元峰八十五叟(東川寺撮影)
北野元峰禅師-大正15年1月26日撮影(般若心経講話より)
北野元峰禅師-大正15年1月26日撮影(般若心経講話より)
曹洞宗大本山永平寺改築全圖 (黄色は改築の印)-大正15年10月10日発行(東川寺所蔵)
曹洞宗大本山永平寺改築全圖 (黄色は改築の印)-大正15年10月10日発行(東川寺所蔵)

 

 大正15年(1926)(1月1日-12月25日)
 昭和元年(1926)(12月25日-12月31日)

 

昭和2年(1927)3月 永平寺機関誌「傘松」が創刊される。

 祖山重興森田悟由禅師十三回忌を記念し傘松会会報発刊となる。 

 

 傘松・創刊號
 傘松・創刊號

 

 

昭和2年(1927)3月16日 汽車中で発病し、山口県冨田の道源家の別荘で約一ヶ月治療療養する。(尿道狭窄症再発)

 

昭和2年(1927)4月30日 86歳
本山、大庫院、光明蔵、傘松閣起工式を挙げる。

 

名古屋宿坊が総受付の裏手に建てられて小庫院となる。
大光明蔵は愛知県下一圓の御寺院、檀信徒よりの寄進による。

 

尚 光明蔵に関しては永平寺光明蔵と建築図集参照


新傘松閣(元越前宿坊の空地に建立)は山形県下一圓の御寺院、檀信徒よりの寄進による。

大庫院は元傘松閣、味噌蔵、薪小屋を取り払い、今までの瑞雲閣から薪小屋の間の敷地に建てられる。

 

(昭和2年(1927)12月26日、熊澤泰禪、永平寺監院に任ぜられる。)

 

昭和3年(1928)2月15日 87歳

昭和三年春二月本書(永平寺貫首勅賜圓證明修禪師「禪道法話集」)第四版を発行するに當り、第一則第二則及び第十六則以下第二十二則までの九則を新に增補し、特に二祖禪師の遺徳と自賛偈との二則を巻頭に掲載する所以は、大遠忌既に切迫して、二祖の芳躅遺徳を大に内外に発揚するの要あればなり、而して今回新增補の九則は、我が師父禪師、本山昇住以後の垂誡及び説法の片鱗を将来に記念せんが為めのみ、豈に他あらんや。 

 昭和三年二月十五日大聖世尊入涅槃の日   (細川)道契 追記

 

昭和3年春・北野元峰禅師
昭和3年春・北野元峰禅師

 

昭和3年(1928)2月28日 

鐘引供養(鐘初の第一声は熊沢監院) 

大梵鐘鋳造、寄進者・京都無學寺主諏訪晩成師。(国宝大梵鐘の副貳)

 

  永平寺・大庫院・絵葉書(東川寺所蔵)
  永平寺・大庫院・絵葉書(東川寺所蔵)
  永平寺・大光明蔵・絵葉書(東川寺所蔵)
  永平寺・大光明蔵・絵葉書(東川寺所蔵)
  永平寺・傘松閣・絵葉書(東川寺所蔵)
  永平寺・傘松閣・絵葉書(東川寺所蔵)

 

昭和3年(1928)3月24日
露国より帰朝して芦原温泉に静養中の後藤新平氏が永平寺参詣。
(氏は久しき以前より正法眼蔵を拝覧して居られたとのこと。)

 

昭和3年(1928)6月30日
永平寺に私立中学校令による中学校「傘松學園」が小濱福井県知事より認可される。 

 

昭和3年(1928)11月1日 87歳

二祖650回大遠忌を記念し出版される、村上素道編輯兼発行「永平二祖孤雲懐奘禪師」に北野元峰禅師巻頭題字を寄せる。

 

「永平二祖孤雲懐奘禪師」(東川寺蔵書)
「永平二祖孤雲懐奘禪師」(東川寺蔵書)
「永平二祖孤雲懐奘禪師」北野元峰禅師巻頭題
「永平二祖孤雲懐奘禪師」北野元峰禅師巻頭題

 

昭和4年(1929)3月15日
祖山傘松会「傘松」誌上にて熊澤泰禪監院「二祖禪師大遠忌延期に就いて」を発表し、二祖禪師大遠忌の期日を一ヶ年延期し、昭和5年4月24日より30日までの春期報恩會の後、引き続き5月1日より14日に至る二週間、二祖孤雲禪師六百五十回大遠忌を奉修することと決定された。(2月15日発行の「宗報」にて同上の管長告論が発せられた。)

 

昭和4年(1929)7月 永平寺参道の橋名決定。

 

永平寺電鉄永平寺門前駅より永平寺に達する県道の改修工事進む。
その途中にある二つの鉄筋コンクリート橋名は「その流水は一万五千の末寺に及ぶとの意から曹源橋」と「高祖大師が半杓の水を門葉に残されし勝躅に因み半杓橋」に決定する。

 

  曹源橋 (永平寺参道)・絵葉書(東川寺所蔵)
  曹源橋 (永平寺参道)・絵葉書(東川寺所蔵)
半杓橋(永平寺参道)・絵葉書(東川寺所蔵)
半杓橋(永平寺参道)・絵葉書(東川寺所蔵)
永平寺半杓橋と本山正門通・絵葉書(東川寺所蔵)
永平寺半杓橋と本山正門通・絵葉書(東川寺所蔵)

 

昭和4年(1929)7月15日 88歳
二祖650回大遠忌を記念し、本山蔵版正法眼藏全二十一冊を上梓、頒布する。(一百部限定)

 

昭和4年(1929)9月
傘松閣格天井に画壇大家の揮毫を依頼する。


今回改築された傘松閣(建坪百三十餘坪)の格天井に現代画壇諸大家の揮毫の喜捨を仰いで、これに一大荘厳を施すべく画家高須芝山氏の斡旋により、すでに本山顧問栗木智堂、福山界珠、高井宏道、上野出張所監院四老師の名の下に日本画会を中心とした大家百十餘名に依頼をなす。
一名二葉づつとし、既に翠雲、玉堂、素明、百穂の諸大家の外、七十餘名承諾をされた由。これが完成の暁は昭和新時代に於ける禅画一致の大書院となることならむ。

 

昭和4年(1929)11月24日

永平寺参道の開通
この日、午前11より「下馬先」に於いて竣工式を厳修し、了って曹源橋、半杓橋の二橋の渡橋式を挙げる。

 

昭和4年(1929)12月10日 永平寺電鉄全線が開通する。

北陸線金津駅から本山まで15哩1分の永平寺電鉄全線が開通する。 

 

昭和4年(1929)12月11日
小室翠雲画伯と同家執事竹内苞雄氏一行が祖山に上山する。(一泊)
之は大光明蔵の壁画揮毫を小室翠雲画伯が快諾された為、その実地視察のための永平寺に上山されたもの。
この時、六曲屏風一双分の書画十二枚、さらに秋塘の焼火鉢二対を寄進す。

 

下掲載写真はその完成した大光明蔵正面の小室翠雲筆大画。

尚、中央写真は北野元峰禅師 

大光明蔵内部・小室翠雲筆大画・絵葉書(東川寺所蔵)
大光明蔵内部・小室翠雲筆大画・絵葉書(東川寺所蔵)
光明蔵・永平元峰八十八書(印刷)(東川寺檀徒所蔵)
光明蔵・永平元峰八十八書(印刷)(東川寺檀徒所蔵)

 

昭和4年(1929)には、全国より上山する一般檀信徒の接待所及び宿所として三階建ての鳳來閣が大改築される。

 

永平寺・鳳來閣・絵葉書(東川寺所蔵)
永平寺・鳳來閣・絵葉書(東川寺所蔵)
曹洞宗大本山永平寺全圖-昭和5年3月15日発行(東川寺所蔵)
曹洞宗大本山永平寺全圖-昭和5年3月15日発行(東川寺所蔵)

 昭和5年(1930)1月15日


大遠忌工事現況


一、大庫院建設工事 完成
付属炊事場諸機械設備は1月中に据え付け完了の予定。瑞雲閣便所浴場は1月中に完成。
一、傘松閣工事 完成
内部全国知名画伯揮毫天井は2月中旬完了の予定。
一、大光明蔵及び監院寮 旧臘完成
一、諸回廊 旧臘建方終了、本年2月完成予定
一、水道工事 第一期計画工事完了
一、宝物館 12月工事着手、2月完成の予定
一、勅使門筋塀屋根改修及び勅使門前歩道改修工事、旧臘完成
一、舎利殿屋根改修 12月中旬着手、本年1月完成の予定
一、山門屋根瓦替工事 完成
一、総受付 完成  (以上)

 

昭和5年(1930)2月25日 89歳 

「永平寺二祖 孤雲懐弉禪師」小冊子、上野舜頴編輯にて曹洞宗大本山永平寺より発行する。 

永平寺二祖 孤雲懐弉禅師(東川寺蔵書)
永平寺二祖 孤雲懐弉禅師(東川寺蔵書)
「轉大法輪」・六十七世元峰八十九 (永平寺光明蔵)(東川寺撮影)
「轉大法輪」・六十七世元峰八十九 (永平寺光明蔵)(東川寺撮影)

 

昭和5年(1930)3月26日

法堂大磬子が東京吉祥講本部第二部より寄進される。

 

昭和5年(1930)4月28日

「永平寺真景」 編輯兼発行者・永平寺、代表者・薄金次郞、永平寺・発行

 

永平寺真景 (昭和5年)
 題永平寺 監院 熊澤泰禪
高低遠近幾崢嶸 古殿深沈鎭梵城
偃月橋邊碧潭淨 玲瓏巌上白雲横
渓聲自説禪心冷 山色常標道骨清
七百年來香火處 紅塵不到愜幽情

「永平寺真景」昭和5年発行(東川寺蔵書)
「永平寺真景」昭和5年発行(東川寺蔵書)

 

昭和5年(1930)5月1日 89歳
永平二祖六百五十回大遠諱法会を開始する。

5月11日 正当法要厳修

(5月14日、大遠諱を終了する。)

 

この大遠忌を迎えるにあたって新築あるいは大改築されたのは大庫院、大光明蔵、傘松閣の外、祠堂殿、総受付(副寺寮)、聖宝館、宝來閣などがあり、回廊等を含めると正に伽藍を一新する大工事であった。

その為、諸堂の建築が間に合わず、本来の二祖650回大遠忌は昭和4年が正当であったが一年遅らせて昭和5年の大遠忌法要となった。

 

孤雲懐弉禅師六百五十回大遠忌(東川寺所蔵)
孤雲懐弉禅師六百五十回大遠忌(東川寺所蔵)
 二祖孤雲禪師六百五十回大遠忌大法要  (東川寺所蔵)
 二祖孤雲禪師六百五十回大遠忌大法要  (東川寺所蔵)
永平寺・祠堂殿・絵葉書(東川寺所蔵)
永平寺・祠堂殿・絵葉書(東川寺所蔵)
永平寺、副寺寮・一葉會本部・絵葉書(東川寺所蔵)
永平寺、副寺寮・一葉會本部・絵葉書(東川寺所蔵)
永平寺・聖宝館・絵葉書(東川寺所蔵)
永平寺・聖宝館・絵葉書(東川寺所蔵)

尚、玲瓏閣の玄関は元光明蔵の玄関をそのまま移設したもの。

永平寺・玲瓏閣・絵葉書(東川寺所蔵)
永平寺・玲瓏閣・絵葉書(東川寺所蔵)

 

昭和5年(1930)5月12日
二祖孤雲懐弉禅師に「道光普照国師」の諡號を賜う。

 

諡號、道光普照國師(永平寺所蔵)
諡號、道光普照國師(永平寺所蔵)

 

昭和5年(1930)夏頃

安藤文英著『永平大清規通解』に「威儀即佛法」の賛題を寄せる。

(尚、上著の刊行は後年、昭和11年10月30日に鴻盟社より出版される。) 

 

昭和5年(1930)11月9日

永平寺にて各宗管長会議が開催される。不老閣猊下御臨席。 

 

昭和5年(1930)12月28日

「傘松餘翠」(編集兼発行者・大本山永平寺)を大本山永平寺出張所より発行する。

北野元峰禪師、その巻頭に書を寄せる。

 

「傘松餘翠」(東川寺蔵書)
「傘松餘翠」(東川寺蔵書)
  「傘松餘翠」北野元峰禪師巻頭題
  「傘松餘翠」北野元峰禪師巻頭題

 

昭和6年(1931)6月28日 90歳

東京芝愛宕町青松寺に於いて、北野元峰禅師御親修のもと洞上記者団主催にて二祖孤雲禅師國師号宣下慶讃大法要を厳修す。
又、その折り、北野元峰禅師九十歳の祝賀会が催される。 

 

昭和6年(1931)7月14日 90歳

午前10時より永平寺東京出張所での、北野元峰禅師御親修の盂蘭盆会法要と福井天章師の法話が東京中央放送局より放送される。

 

昭和6年(1931)10月 初旬 90歳
北野元峰禅師御染筆の仏殿聯額が作成され仏殿入口大柱に掛けられる。
寶座鎭乾坤千秋護國
霊光照日月萬世利人

 

仏殿聯-北野元峰禅師(東川寺撮影・加工)
仏殿聯-北野元峰禅師(東川寺撮影・加工)

 

昭和6年(1931)10月28日 90歳 

大判の永平寺写真集「永平寺大観」を大本山永平寺より発行する。

北野元峰禅師、巻頭書を寄せる。 

 

「永平寺大観」(東川寺蔵書)
「永平寺大観」(東川寺蔵書)
  永平寺大観・北野元峰禅師・巻頭題
  永平寺大観・北野元峰禅師・巻頭題

 

昭和7年(1932)4月1日 91歳
心月院にて故弘津説三永平寺西堂老師の本葬乗炬を勤める。

 

昭和7年(1932)5月13日
誕生山明覺寺(京都府乙訓郡久我村)御親修。

 

昭和7年(1932)7月15日
玲瓏の滝開き
永平寺鐵道会社では愛宕山公園の整備をし、玲瓏の滝を一般公開した。

 

昭和7年(1932)9月25日
名古屋放送局の懇請により、永平寺法堂にマイクを設置し、午前7時より彼岸法要として皇霊諷経を全国ラジオ放送する。
法要後、禅師の授三帰戒、法話15分をも放送となる。

 

陶祖加藤景正の後裔判明
高祖大師と因縁深き陶祖加藤春慶景正の子孫が五十年前より所在不明のところ、瀬戸市長小出氏等の有志者の探索によって三重県四日市に在住している陶祖二十三代の後裔加藤竹太郎を発見し、九月二十六日無事瀬戸市に迎えられた。
これで洛の道正庵、越の波多野家等と共に高祖と因縁深き名家が全部揃てその子孫が現存することとなった。

 

壽-元峰九十一(東川寺所蔵)
壽-元峰九十一(東川寺所蔵)

 

昭和8年(1933)3月15日 92歳

「單身に道を擔へ」 不老閣猊下御垂示

年を取ると子供に歸るといふが、妙なものだ、閑に乘じて、昔日のことを色々と考へて時には父母のことなど思い出すことがある。老衲は幼時に餘程眠ることが好きであつたと見えて、九歳の時に上州の高崎在の南蛇井の最興寺で出家した。さうすると越前の大野在の實家の父親が、わざわざ上州に来て、老衲の師匠に向つて、此の兒は眠ることが好きだから、時々充分に眠らせてくれと頼むだ。それが往復三百里の路を来て此の通り頼むといふ、この親の慈悲といふものは有難いものぢや。ナニそれで眠らせもしない、朝は二時から起こされて、お經ぜめだつた。

近頃、老衲の昔日の説法の俤を遺すといつて、梧蔭が「北野元峰禪師説法集」といふものを編纂しておる。大分厚い本にあるさうなが、老衲が四五十から七十代までは、布教については實に献身的にやつたものだ。(中略)

 随化應縁五十年。叱呵風雨耕心田。單身擔道道更遠。鬚髪帯霜猶未全。

是れは老衲が八十四歳の時に、自像に題した句であるが、此の心持は九十二の今日まで少しも變らない。あヽ『單身道を擔つて道更に遠く、鬚髪霜を帯びて猶ほ未だ全からず』死ぬるまでさうぢや。修行して居る者も單身道を擔ふのぢや。布教傳道の上にある者も單身道を擔ふて重擔となすのぢや。唯此の正法眼藏を以て随處に主宰となるべしぢや。是が布教の第一義ぢや。 (「傘松」昭和8年3月号より)

 

昭和8年(1933)3月27日 92歳 

不老閣侍局・細川道契、「北野元峰禪師説法集」を編輯し、永平寺出張所より発行する。

「北野元峰禪師説法集」(東川寺蔵書)
「北野元峰禪師説法集」(東川寺蔵書)
  「北野元峰禪師説法集」巻頭書
  「北野元峰禪師説法集」巻頭書

 

昭和8年(1933)10月19日 
北野元峰禅師、遷化す。世壽九十二歳。
22日、永平寺東京出張所にて密葬。

 密葬秉炬師 兵庫県 福昌寺 秦慧昭老師 


昭和9年(1933)4月21日
本葬儀(荼毘式)

 秉炬師 栗山泰音禅師(総持独住八世・覺同行智禅師)

 

遺偈 「侶伴風雨 九十二年 阿仏罵祖 蓋天蓋地 喝 生涯用不尽 唯此一空拳」

 

北野元峰禪師・本山最後のお写真(永平元峰禪師傳歴全より)
北野元峰禪師・本山最後のお写真(永平元峰禪師傳歴全より)

(余話1) 北野元峰禅師の出家

北野元峰禅師の出家

 

禪師は十人兄弟の末子であるが、生母四十七歳の出産であった。
この生母出産の一子が男児であるので、非常にこれを喜んだのは長姉の光林祖山尼であった。
祖山尼は予てより我が母によって、一男児を得て、出家にせんと、人知れず延命地藏尊に祈願していたのである。 

禅師の長姉、祖山尼は、自ら祈って地藏尊から授かった一男児、しかも出家せんとて授かった一男児が、その祈願に基づいて成育し、一日も早く出家の期を楽しみつつありましたが、嘉永三年の秋九月、いよいよその時期の熟せるを知り、次姉円成尼と共に、生母の恩愛を割いて、禅師を誘うて郷里越前を出て、はるばる群馬県北甘楽郡吉田村南蛇井の最興寺哲量和尚の許に投ぜられた。
祖山尼が哲量和尚の許を指して来られたのは、いかなる因縁によるのであるかというに、哲量和尚は禅師の生家の所在地、鍬掛の隣村で、今は大野町に編入されておる清滝町の広瀬という家の出生であって、禅師の生父なる孫四郎浄心上座とは、まことに竹馬の友であったのが、これが今は上州最興寺の和尚様となっておるというので、之を縁として禅師の師と仰がんとしたものであった。
然るに九歳の禅師は最興寺に到着して、哲量和尚を一見すると、意外にもこんな年を取った和尚さんはモー先が短いから、弟子になるのは厭やであるといって、どうしても祖山尼や円成尼の言を聞かれない。
越前の国からはるばる連れて来て、折角たよりにと思った師匠へこちらから気に入らぬというのであるから、両尼もホトホト困らされた。
然るに哲量和尚も両尼の苦衷(くちゅう)を察して、それならば此の老僧の弟子が傍らの西方院に住しておる、あれならば若いからよいであろうというので、その西方院に連れて行かれて一見すると、これならば弟子になるというので、遂に哲量和尚の法嗣、碩童和尚の西方院に投じて出家ということに決した。
祖山尼、多年の宿願もここに漸く遂げられて、ホット一安心をしたのであった。
~永平元峰禪師傳歴より~

 


(余話2) 北野元峰禅師と生母

北野元峰禅師と生母

 

(禅師二十歳)
文久元年の春、越前の郷里に還って両親を省せられたが、九歳の時、郷を辞してより、正に十二年目の還郷であった。
英気溌溂として堂々たる修行盛りの成長ぶりを見たる父母および祖山尼の歓喜は幾許(いかばかり)であったろうか。
(中略)
いよいよ鄕に帰って両親にまみえて別かるゝ時に、禅師が両親に向かって「自分はこれから更に修行を励んで立派になるつもりであるが、もしも間違ってヤクザ者にでもなれば、再び帰って来ないつもりだ」といわれると、生母が直ちに「ヤクザ者になって人に迷惑を掛けてはならぬから、なお帰って貰わねばならぬ」と。
此の深き母性愛に如何に禅師が感激せられたことか、此の慈愛の温言(おんごん)に深く感奮せられた禅師は、遂に大修行底の人となられた。
後に、昭和三年秋八十七歳の時、郷里に最後の展墓を為し、生家の菩提所、大野町洞雲寺にて、郷人満堂の前で、此の追懐談をせられた時は、禅師も双眼に涙潜々(さんさん)であったが、満堂の誰一人泣かされぬものはなかった。

 

(禅師二十八歳)
十月の末、越前の郷里に帰省して越年せられた。
その帰省は生母の重病の為であった。
重病の便りを得て帰り、生母の枕頭に帰省を告げられるゝと、生母は禅師を一見するなり「一日も忘れん」といわれたそうである。
その一日も忘れないは二十八年間である。
禅師が末子として一層の愛念はあったであろうが、後来の説法中に、四恩を説いて父母の恩に至り、此の実際の母性愛を説いて謂ゆる「一日も忘れん」に至るゝと自らも落涙滂沱(らくるいぼうだ)、聴衆も皆泣かさるゝのであった。

~永平元峰禪師傳歴より~

 

 


北野元峰禅師と般若心経

北野元峰禅師と心経

 

我が(北野元峰)禅師が最初の「心経」開講は、明治十年頃である。
その最初の聴講者はたった二人、その一人は鈴木龍六といって、もと徳川の藩士即ち旗本で、当時フランス公使館の通訳官であった。
他の一人は当時の外国語学者にして篤学者たりし浅岡岩太郎という人。
この二人は共に熱心な耶蘇教信者であったものが、研究の為に仏教を聞きたいといって来たので、まずその初門として「心経」を講じて聞かせられた。
ところが「心経」によって「諸法皆空の理」を聞いた此の二人は、翻然、耶蘇教を転じて信仏の徒となったのである。(中略)
その次は当時の慶應義塾や海軍大学の講師として長く日本に滞在していた、英国人のロイド氏。

このロイド氏が一日青松寺に禅師を訪うて、是非共仏教の講義を聴きたいとのこと。

それから三田の薩摩ツ原に在った氏の宅へ行って、一人の為に「心経」を講ぜられた。
外人なれども日本語には充分通じていたので、よくその講義が分かったとみえ、その後、氏は日本の新聞に文章を寄せて、日本には仏教の如き結構な教えがあるから、耶蘇教の牧師はもう用事がない、よろしく笈(おい)を負うて本国に帰るべしということを書いた。
したがってロイド氏は禅師の「心経」提唱によって、初めて日本にある仏教の何物であるかを知ったのである。
その後は当時永平寺を退いた瀧谷琢宗禅師が引き受けられたとのことである。

(中略)

禅師が仏教復興の根底を据えられた、その第一線は今の神田駿河台にある佐々木病院の(中略)佐々木東洋先生と、陸軍少将男爵福原實氏がある日のこと、窃(ひそか)に青松寺に来て、仏教を少々研究して見たいが、それも他人に知られては困るから、どうか内密で何か講義をして下されということであった。
これが明治十年の冬頃のことである。
すなわち明治十年頃はまだまだ廃仏の余勢がよほど強かったので、彼の人は仏教を聞いているとか、お経を読んでいるとかが、人に知れると外聞が悪いというような時節であったのである。
そこで禅師は相談の結果、最も秘密に今の麹町の英国公使館の傍にあった、福原少将の宅に夜中出かけて、初めは佐々木氏と二人の為にまず「證道歌」の提唱であった。
ところが講話聴聞の回数を重ねるに従って、佐々木先生が深くその妙理を感じ、これほど結構なものを内密で聴くなどということは勿体ないというので、遂に講場を佐々木氏の本宅に移して堂々と開会することとなり、殊に十年の冬を越えて十一年の一月の年始廻りに、年頭の詞(ことば)を云わずして直に仏法の妙理を鼓吹せられるので、当時の人は佐々木先生は仏教狂いになったと評しあったものだということである。
それほど熱心な信者となった佐々木先生であるから、その本宅に講場を移すに当たっては、その聴講者は、実に当時教育界、医界の代表的名士のみを集められた。
その数二十八名にして、その現存せらるるのは石黒忠悳、金子堅太郎の両子爵と、前帝大総長三宅秀博士だけであるが、物故せる名士には、帝大総長あり、侍医あり、病院長あり、ことごとく一方の代表的人物にして、その名は「禅道法話集」に記載した通りである。
しかして、この講場において最初の提唱が「般若心経」であった。

禅師が帝都の仏法興隆はかくの如く「心経」講義に始まったが、地方の開拓もまた「心経」をもって始められておる。
その中、最も著しいものを二、三記して見ると。
まず明治二十一年から、仙台仏教の開拓である。
これは元来同地方は、寺院はあってもほとんど一百年来、布教ということは皆無の状態で、全く無仏法となっていた。
その処に乗じて基督教が入り込んで、仙台はなかなか盛んになりつつあったのである。
これがために同地方の寺院も大いに覚醒するところがあった。
そういうわけで仙台宗務所の特請というので、聴講者は寺院と官史、県会議員というようなもので、ちょうど二十一年から、二、三年まで三年間、毎月東京から通うて開拓せられた。
その感化には今に同地方に存して、当時聴講者の一人なりし県会議長遠藤温氏は実に三百年来仏法の盛事なりと称した程である。
これもその初講は「般若心経」であった。
その次は上州前橋もまた無仏法の地であったが、これは当時の知事中村元雄氏の特請で、聴講者は県庁裁判所等の諸官史と典獄等の為に、同市の臨江閣に於いて始まり、これも三年間続いたが、それと同時に、高崎市に於いても、聯隊の将校会議所で、将校士官の為に開講せられた。
それが皆「心経」から始まったのであるが、これは仙台に次いでの年次となる。
それに次いでは、川越市の広済寺に於いての開講で、これも「心経」から始まって、聴者は広く一般に渡っていたが、実に十五ケ年の長日月であった。
それに次いでは横須賀の良長院にて、海軍士官の為に、又は前記浅岡岩太郎氏の発起にて、神奈川の本覚寺に於いての開講、ともに「心経」に始まったのである。
(後略)
 大正十四年十二月二十七日
        梧蔭 細川道契 謹識

 

  ~「般若心経講話」細川道契編より抜粋 ~

 

参考 佐々木東洋 Wikipedia

 


般若心経講話(東川寺蔵書)
般若心経講話(東川寺蔵書)
  永平元峰八十五叟-般若心経講話の巻頭の書
  永平元峰八十五叟-般若心経講話の巻頭の書


富不過知足一生不求人

 

富不過知足一生不求人 ①

 

禅師は青松寺住職中、三つの主義を立てて、頑固にも三十二年間の住職中、之を実行せられた。
其の一は住職中一回も檀家へ寄附勧募を申し込まれなかったことである。
是は普通にはなかなか出来ないことであり、法施に対する財施として寄附勧募は決して絶対に忌むべきことではない。
或る場合には大いに勧募せねばならぬ事もあり、勧むる功徳倶に成佛とさえ称して、財施によっての本人のみでなく、その勧むる者さえも功徳を受けるという場合もあるのであるから、大いに考えねばならぬことであるが、禅師の場合に於いてはその如何に拘わらずして其の主義を貫かれた。
禅師は其の当時、我が宗立の麻布笄(こうがい)町高等中学林や、時には北日ケ窪町の大学林に、職員の懇請によって生徒に訓誡に行かれたが、その時によく「折角学校を出て、勧化坊主になるなッ」と呵せられた。
又よく人に書して与えられた墨蹟の中で、最も多数を占めて居るのは「富不過知足一生不求人。富は足ることを知って、一生人に求めざるに過ぎず。」というのであった。
如何なる場合でも人に求めることが天性嫌いな禅師は、此の語を以て人に授けて教え、知足の者は地上に臥(ふ)すと雖も安楽なりとすとある佛の遺誡を其の儘に実行せられた。

~「永平元峰禪師傳歴」より ~

 

富不過知足一生不求人(法輪寺蔵)
富不過知足一生不求人(法輪寺蔵)

富不過知足一生不求人 ②

 

北野元峰禅師、青松寺時代について、今一つ伝うべきことがある。
禅師はよく「富不過知足一生不求人。富は足ることを知って、一生人に求めざるに過ぎず。」という語を書して人に与えられたが、此の語を文字通り一生実行された。
その一例として桑田鐵肝居士の五千圓を拒絶せられた如く、当時随身せられた高田道見師の記述によると、こんなこともあった。
当時青松寺の檀家総代に駒井信好という清貧の一信者があったが、到底子孫が永続せず必ず断絶するものと察して、祠堂金として五百圓を寺納したいと申し込んだ。
所がそれをキッパリ断って曰く、老衲一代は回向も供養もする、またそれを後住が代々相続すれば受納してもよいが、代が替わればどうなるか知れぬ、然る時は布施物虚用の罪を造らねばならぬから受けられぬと。
更に当時のこと、本堂の屋根替え中、今井兼輔という一信者が見るに見かねて、寄付金を持参した。
すると御厚意は忝ないが、この位の金を貰ったところで、さのみ助けにもならぬから一層貰わぬ方がよいといって、是も返戻せられた。
そうして屋根替も普請も檀家に一文も寄附を申し込まず、住職中、寄附単も寄附石も設けられなかった。
まことに頑固な禅師ではあった。
~「永平元峰禪師傳歴」より ~

 


北野元峰禅師の三主義(青松寺住職中)

 

北野元峰禅師は青松寺住職中、三つの主義を立てて、頑固にも三十二年間の住職中、これを実行せられた。
その一は上記の如く、住職中一回も檀家へ寄附を申し込まれなかったこと。
その二は寄附を申し込まないくらいだから、檀家総代を寺に招いて饗応することは一回もなかった。
「全体住職が檀家の者に対して機嫌を取るなどということは間違っている。彼等には法益さへ与えれば、彼等の方から住職に対して尊敬を払うべきものだ。総代だからとて特別に権利を持たせるようなことをすると、色々な弊害を生じてくる前例が沢山ある」との禅師の言い分であった。
その三は禅師自身も一滴の酒も口にされなかったから、非情に厳粛な禁酒家で、地方巡教の説法中にも戒会中、必ず一回は禁酒説法をされ、飲酒の害を説くことその材料至れり尽くせりであるのは有名なもので、日本全国で禁酒宣伝九家の一に数えられたほどである。青松寺住職中三十二年間、門内には一滴も酒を入れることを厳禁実行せられた。
「永平元峰禪師傳歴」より

 



 

“承陽大師を追慕せられし”
「文学博士村上先生に就いて」 曹洞宗師家 細川梧蔭(道契)


(前述略)
東京帝国大学名誉教授・村上専精先生は明治二十年曹洞宗大学の請に応じて始めて東京の空気を吸うたと云われて居るが、其の出京前の先生は、豊川妙厳寺に性相学の講義をして居られたものを、黙堂禅師の推薦によって、我が宗大学に奉職することとなったと、自伝に書かれてある。
是れによって黙堂禅師とも因縁があった。
西有禅師との因縁は前記如くであるが、更に先生は悟由禅師の處に時々訪問せられた。
別に(悟由)禅師とは宗義上の研究ではなかったが、禅師の高き人格に傾倒して居られたことは、度々余の先生から聞いた所であった。
次に先生は故安田善次郎翁の家庭法話に請せられた、其の結果同翁から百五十万円の寄付を得て帝国大学に安田講堂を建て、是れによって又、仏教講座の独立を見るに至った。
安田家と先生の此の因縁を結ばせたものは、北野禅師である。
北野禅師は、安田家に同翁の存命中十数年間の長い家庭法話を試みられたが、もう此の位で御免被ると云われたらば、同翁が然らば適当の後任をお見込みで推薦して下されとのことで、さればと村上先生を推されたものであるから、先生は北野禅師とも因縁があるといってよい。
こんなことを書き立てゝ見れば、先生は色々の方面で我が宗には因縁の深い人であった。(後述略)

 「傘松」昭和6年2月号より

 



参考資料

「證道歌講話」北野元峰猊下親述 佛子因生編輯 鴻盟社・発行

「永平元峰禪師傳歴」 不老閣侍局 細川道契著 永平寺出張所・発行

「禪道法話集」永平寺貫首勅賜圓證明修禪師 細川道契編輯 永平寺出張所・発行 

「般若心経講話」 細川道契編 永平寺出張所・発行

「北野元峰禪師説法集」不老閣侍局 細川道契編輯 永平寺出張所・発行