小室翠雲・高橋竹迷

 

小室翠雲は明治から昭和にかけて活躍した日本南画界の巨匠です。

小室翠雲と高橋竹迷は親友であり、共に永平寺と深く関わりを持っています。
小室翠雲は永平寺光明蔵正面の大壁画を描き、傘松閣の天井絵完成に盡力し、又、高橋竹迷はその幅広い人脈から当時の禅師、役寮達と親しく交際していました。
当時永平寺監院であった福山界珠師は高橋竹迷と共に小室翠雲に永平寺光明蔵大壁画の揮毫をお願いし、大壁画は完成したのです。

 

小室翠雲

  小室翠雲と「翠雲随筆」
  小室翠雲と「翠雲随筆」

 

小室翠雲・「翠雲随筆」より

 「翠雲随筆」昭和18年8月25日 於保博:編 丹青書房:発行


「永平寺の一夜」(135~142頁より)


『修行の活模範』

 

永平寺大遠忌建築中の一たる「大光明蔵」の壁画揮毫を需められて以来、永平寺に登拝の意が頻りに動いていたが、昨年末昭和4年12月11日押しつまって、この誓願を果たすの機を得た。
元来、永平寺は二十年前会遊の地である。
老杉の矗々として昼なお昏かりし、その当時も覚えがある。
伽藍の宏大なりしもやゝ覚えがあるが、今、目のあたり見て、殆ど別天地の感がある。
案内せられて普請中の傘松閣玄関より入り、その控え室に入った。
鼻を撲つ芬々たる木の香、木割の大きい、しっかりした所など、外には見るべからず、誠に大本山らしい。
早く「大光明蔵」を見ばやと、副監院小泉鐵心師の先導にて、山門より僧堂に行く。
僧堂とは坐禅堂にして、永平寺の真面目である。
時恰も雪除作務の最中で、合山百五十人の血気盛りの雲水より、老々たる性格の人までが、足の踏み場もないほど萓(かや)の簀(さく)を編んでおられる。
ここに禅的修行があり、生きた学問があって有難い。
堂という堂、柱という柱に、額や聯が立派に懸かっていて、恰も(黄)檗山へ行った感がする。
併(しか)してその大半が、永平寺中興にして、百年ほど前の玄透禅師の書が多い。
玄透禅師の人物、力量さてはその書のついては、なお多く聞くべきことがあると思う。
承陽殿は、道元禅師の廟所にして、最も森厳、一味の霊感あるを禁ずる能わず。
その隣りに、明年(昭和5年)大遠忌の修行せらるゝ、孤雲禅師の「孤雲閣」あり、死しても御師匠の側を離れず、左右に給侍する意なりという。
誠に有難き次第である。
その廊下には、淙々(そうそう)として玉を碎(くだ)くの筧(かけい)あり。
加藤師はこれを説明して曰く、「御開山様がこれをお使いになった。流るゝ水とても粗末になさらず、杓柄に半分は元の渓(たに)にお返しになった。」と、実に有難い、この余徳が今日の法子法孫に溢れているのだ。
これは一大教訓であると、感に堪えずして、漸(ようや)く一詩をまとめたのは翌朝のことであった。

 老杉□鬱暁雲蒼。石燈苔蒸聴異香。仰見宗風高且潔。寒泉半杓禮承陽。

 (□は艹冠に公と心、窓か?)

それより佛殿、妙高臺より不老閣を一巡して、第一目的たる「大光明蔵」に入った。

 

『大光明蔵の壁画』

 

七間に十二間、それが総檜でしかも木曽檜に無節、柱も大きい、芬々たる木の香、とても人間世界の臭いに非ず、まことに永平寺境内唯一というべく、光線の具合が非常に好い。
こんな立派な普請は今日は恐らくは他に見ることが出来ない。
「大光明蔵」は貫首謁見の間にして、貫首が演法の道場なりという。
壁画を描くべき上段は、高さ一丈三尺にして幅三間、左右に三間づつ折り曲りあり、都合四間の大ものである。
その上、楣(のき)上に五尺三寸の高さに二間のもの二つ、合わせて八間、これが上段にして普通の床の間になる。
この床の壁を画にするは、建築の作法によるもの、下って左右の上使口というが二間づつ、都合十二間の大作となるわけである。
この座敷の性質上、最も気品に富んでしかも見栄えのあるものとせねばならぬ。
塗沫是れ事とし、粉飾是れ能とする俗流とは、自ずからその趣を異にし、飽くまでも南画本来の面目を竭(つ)くさんと、日夜辛苦しているのである。
今この立派な建築を見て、描く上に非常に張り合いのあることを喜んだ。
殊に本山役員諸師が擧って誠意ある歓待は、わが信仰気分をして、一層濃厚ならしめた。
画題は何を描くかと、各方面から屢々(しばしば)問わるるが、元来、壁画の如きものは、むしろ四條派、狩野派の本領というべく、気品を生命とし、清楚淡泊を旨とせる南画でこれを描くは、餘りない。
それだけ画家としての辛苦があって、体裁と品位とを考えねばならぬ。
或いは上段を松にし、左右の襖(ふすま)を梅を竹とし、松には国家的瑞鳥たる鷹を描いたらと、一寸思いついたがいよいよ筆執るまでは少なからぬ辛苦がある。

 

  永平寺光明蔵壁画・小室翠雲
  永平寺光明蔵壁画・小室翠雲

 

『古来有名な壁画』

 

前後十二間に渡る壁画を、この天下第一の大伽藍の永平寺に留むることは、更に永平寺に光彩を添えると共に、画としては仕合わせである。
干戈の巷を離れ、紅塵の境を脱してこの不便なる山中に永平寺を建てられたについて、坐に道元禅師の遠大なる思想を尊敬せざるを得ぬ。
このお陰に、第一、この大伽藍が保存せられ、幾多の史料什宝等が保護せられたことは啻(ただ)に曹洞宗の名誉なるのみならず実に国家の幸福である。
歴史の上芸術の上から論じても、仏教之国の真精神を思わねばならぬ。
此の如き所に置いてこそ、真に千百年に残る傑作が保護されるのだ。
(中略)
わがこの壁画も、永平寺と共に永遠に残って、日本の芸術史上の「大光明蔵」となるであろう。

 

『記念の翠雲室』

 

それから建築中の諸堂を巡覧した。
庫裡は地下室とも五階で、大広間あり、小座敷あり、その宏大に驚く。
監院寮は日当たり好く、眺望好く、誠に本山一である。
大工事最中に、吾輩を迎うるために、永平寺の諸役員は熱誠奮励して漸くこの室を間に合わせられたので、畳が漸く昨朝出来、電灯が昨夜点いたので、ここに坐り、ここに臥るものは、真に吾輩が御開山である。
誠に尊い極みである。
永平寺に来ることの楽しみの一つは禅的の精進料理を食うことであった。
逸話を留めた伊藤春畝公の額ある食堂へ案内せられては、御役僧の相伴や接待に楽しく食べた。
夜分には「そば」が出た。
吾輩、由来「うどん」は好きだが、、「そば」はあまり食わない。
然るに今晩の「そば」は実にうまく、またたく間に三椀を平らげた。
恐らくは空前にして又絶後ならん。
これその御馳走が好いのと、境致が好いのと、更に若い坊さんの給仕、禅的なる所が、覚えず吾輩をして満喫せしめたのである。
一禽啼かず、山更に幽に、この時聴ゆるものは唯泉聲のみ。
泉聲を聴くは箱根の山荘で馴れているがここでは更に静かである。
かつて菅原曇華老師から聴いた「泉聲中夜後、山色夕陽時」の句の妙味が初めて合点せられた。
空晴れて月出づ、月に何の心かある。
われに相語らんとするが如く、青き光を窓に投げて来る、明月相照ものあり。
これこそ予想外の御馳走なり。
床に入ってから詩を考う。

 重倚玲瓏般若臺。千峰老樹拂雲堆。夜闌寂寂絶諸念。時有窓前大月来。
永平寺に来た「おみやげ」として百五十人の修行僧のために「うどん」の供養をした。
その御礼として、広き法堂において、わが両親のために大施餓鬼会を修行せられた。
規矩森然、進退如法にして法要の厳粛、穏便、壮大なる、かって経験のなき有り難さで、真に亡き両親の大供養であった。
同行の者は何れも随喜の涙にむせんだ。
樹間に響く殷々たる巨鐘、谷を渡る鼕々(とうとう)たる太鼓、叢林の規則として九時には皆臥るが、われ等はあまりのうれしさにこれを過ぎた。
高橋副寺和尚来たりて曰く「この室を先生に開眼して戴いたことは本山永久の記念である。願わくば先生の号を戴いて、翠雲堂にしたい。」と。
誠に好個の記念なり「吾輩、門外の俗人、却って靈地を汚すを惶(おそ)るるのみ」と辞したが許されず扁額を書けとの絶対命令。
ここは水の音も聞こえぬ。
天地寂として何物もなく、真に天地とわれと一枚になるを覚ゆのみ。
この清淨境に枕をならべて眠ったのはすでに十一時であった。

 

  永平寺大光明蔵
  永平寺大光明蔵
  永平寺光明蔵中央壁画・小室翠雲
  永平寺光明蔵中央壁画・小室翠雲

 

「三たび永平寺の詣づ」(142~151頁より)


『深重の因縁』

 

越前の国は比較的に画縁薄く、三十年前一たび筆を携えて福井に遊び、今復た画友に招かれて芦原温泉に入る。
而もこの間、五年にして三たび永平寺に詣ず。
画縁の薄きに反して佛縁の何ぞ深きや、誠に歓喜の極み也。
三十年前遊んだ時も亦永平寺に案内せられたり。
去る昭和四年十二月、新潟より竹迷和尚の東道に依りて永平寺に来る。
即ち「大光明蔵」の壁画揮毫のために実地検分なり、二十餘年ぶりにして伽藍の結構、更に面目を一新せりしと雖も、鬱蒼たる老杉と潺湲(せんえん)たる渓声は昔ながらに依然たり。
次いで一昨年の冬、名古屋より来たる。
この時は已に「大光明蔵」は完成せられたり。
而して今は近き芦原より来たる。
一行同勢実に二十四人。
一人も多くこの靈地を踏ましめ、この佛縁を結ばしめんと思う微衷(びちゅう)のみ。
電車の永平寺駅に着すれば、破顔一笑、そこに立ちたるは竹迷和尚なり、四五の大衆と共に歓迎せらる。
竹迷和尚とは三生不思議の縁あり、別して永平寺を通じて影の形に随うが如く相離れざるは実に宿縁なり。
初めは新潟より、次に名古屋より共に同道なり、今は先に来って待つ、感謝曷(なん)で罄(つ)きん、窃(せつ)に想えば、吾輩と和尚とは画に於いては師弟にして、和尚が初めて我が門に入れるは実に三十年前なり。
而して詩に於いては兄弟にして共に福井學圃先生の門に学ぶ。
然れども禅に於いては画と丁度反対に、君が我が師にして、吾輩は実にその門人たり弟子たり。
この深重の因縁を以て、福山界珠老師を伴い来たって「大光明蔵」壁画の揮毫を慫慂(しょうよう)す、我れ豈辞するを得んや。
これがために霊境永平寺との関係を深うす、真に感激の至りなり。
況んや福山老師が一山総師たる監院なるに於いてをや。(後略)


以上「翠雲随筆」昭和18年8月25日、青丹書房発行より抜粋

 



「傘松閣天井絵」

 

永平二祖六百五十回大遠忌記念事業として「大光明蔵」と共に改築完成したのが「傘松閣」です。
「傘松閣」には144名の画家の揮毫なる230枚の絵が天井格子の中に収められています。
小室翠雲は直接には「傘松閣天井絵」を一枚も描いてはいませんが、この「傘松閣天井絵」には深く関与したものと思われます。
尚、その後、小室翠雲が衝立に描いた「青山白雲」の絵が掛け軸に仕立て直され、「傘松閣」床の間に掲げられました。

 

小室翠雲画伯描青山白雲図見寄
賦一絶以謝 監院 熊澤泰禪

 

 青山父與白雲兒。 青山の父と白雲の兒。
 終日相依總不知。 終日、相い依り總に知らず。
 濃淡縦横趣千様。 濃淡縦横、趣き千様。
 無心静看自然誌。 無心、静かに看る自然の誌。

 

尚、今は「青山白雲図」は傘松閣には掲げられていません。

さらに、永平寺所蔵の小室翠雲の作品は下記のもの。
一、濯足万里流図(第十回帝展出品)
一、振衣千仞岡図
一、長興山荘(第八回南画院展出品)
一、富士山大幅(昭和16年永平寺にて、水墨)
一、富士山書幅

 

  小室翠雲・青山白雲図 (昭和16年、永平寺にて)
  小室翠雲・青山白雲図 (昭和16年、永平寺にて)
  永平寺傘松閣・天井絵
  永平寺傘松閣・天井絵
 永平寺傘松閣天井絵
 永平寺傘松閣天井絵

高橋竹迷

 

高橋竹迷(たかはし ちくめい)1883~1951


曹洞宗清光寺住職、正福院住職。
高橋竹迷はこの時代にあって、全く希有の僧侶であった。
それは高橋竹迷の人脈、交際範囲の広さである。
曹洞宗の永平寺、總持寺の禅師、役寮を初め、駒沢大学、画壇、文壇、政治家、軍人など様々な人々と親しく関わりを持った。
高橋竹迷が関わった人物の名を挙げれば切が無いが、禅師では森田悟由禅師日置黙仙禅師北野元峰禅師秦慧昭禅師鈴木天山禅師大森禅戒禅師高階瓏仙禅師熊沢泰禅禅師山田霊林禅師秦慧玉禅師、石川素堂禅師、新井石禅禅師、秋野孝道禅師、栗山泰音禅師、伊藤道海禅師、福山界珠禅師などがいる。
禅師以外では、大町桂月、幸徳秋水、木下尚江、大内青巒、小室翠雲、橋本関雪、橋本邦助、相馬御風、村松梢風、芥川龍之介、中村元、若槻礼次郎など枚挙に暇が無い。

また、永平寺機関誌「傘松」編集者、笛岡自照師とも親密な交際をしていた。
このことは高橋竹迷の小柄な躰から醸し出す人柄と文才、画才、詩才、弁才、書才に依る所が多い。
尚、竹迷は雅号であって、僧名は定坦(じょうたん)である。

 

  「山水と人物」と高橋竹迷
  「山水と人物」と高橋竹迷

 

[高橋竹迷・略歴]


明治16年(1883)5月13日、岐阜県岐阜市今泉の矢島金次郞を父とし、伊藤ともを母として生まれる、幼名は矢島喜一。
しかし生後間もなく父母は離婚し、複雑な家庭環境の中で育つ。
明治27年7月、岐阜県武儀郡安曽村安毛、永昌院住職高橋慧定の弟子養子となり、得度して高橋定坦(たかはし じょうたん)となる。
明治32年冬、美濃大禅寺の大平龍潭の下、安居し立職する。
明治35年、上京し、曹洞宗大学林の大森禅戒の下、秘書兼行者となる。
明治36年頃、福井学圃の門に参じ漢詩漢学を学ぶ。この時、小室翠雲と知り合う。
明治41年、總持寺再建本部に勤務する。

明治42年、二松学舎で学ぶ。

明治45年、總持寺石川素堂禅師の下、録事となる。


時代は大正に移り、次々と著書を出版する。

大正2年「山水と人物」鴻盟社・発行
大正2年「実験の因縁」鴻盟社・発行
大正3年「求道の因縁」鴻盟社・発行
大正4年「修養禪話 一休奇行録」東亜堂書房・発行
大正5年「白隠禅師言行録」東亜堂書房・発行
大正5年「隠元・木庵・即非」鴻盟社・発行

大正5年「金剛力」鴻盟社・発行

大正6年「常済大師の教訓」鴻盟社・発行
大正7年「婦女の信仰」鴻盟社・発行
大正8年「羅漢尊者の因縁」(新井石禅共著)大蓮寺・発行

大正8年、山梨県北巨摩郡長坂町の清光寺の住職となる。

大正10年、曹洞宗宗議会議員となる。
大正11年7月19日、高橋竹迷(定坦)は(長沢)キミと仏前結婚式を挙げる(式師は大森禅戒師)。

この頃、鴻盟社の月間雑誌「護法」編集主幹となる。
大正11年、秋野孝道(禅師)に随行し中国祖蹟を参拝する。

大正12年夏には芥川龍之介が清光寺(住職・高橋竹迷)を訪れる。
大正13年8月、大町桂月と八ヶ岳に登り、その時赤岳より転落し大怪我をする。

大正14年「山岳の宗教」中央仏教社・発行
大正15年「秋野老師 支那祖蹟参拝紀行」中央仏教社・発行、「信仰の人々」発行

昭和4年夏、樺太布教中、長男、次男を亡くす。追悼文集「二児面影」

昭和4年「応用引導大全」鴻盟社・発行

昭和5年、豊川妙厳寺修史局に勤める。

昭和8年「挙国更正の新年」
昭和8年「人生浄化の要道」

昭和10年頃より駒沢大学で詩偈を講義する。(昭和20年まで)

さらに、この頃より永平寺機関誌「傘松」に種々の寄稿文を寄せる。 

昭和10年「永遠の更正」
昭和13年「永平黙童禅師語録」を編纂
昭和13年「応用戦時引導法語大全」鴻盟社・発行
昭和15年「永平寺聯額解説」鴻盟社・発行
昭和18年「承陽大師御画傳」(伊藤龍涯画)発行

昭和20年、山梨に疎開し、中巨摩郡甲西町の正福院住職となる。
昭和22年、この頃より、熊沢泰禅禅師と共に全国を巡錫し布教師を勤める。

 

奉謝不老閣猊下賜珊瑚念珠
  竹迷 高橋 坦
 一連百八白珊瑚。顆顆光明好念珠。
 喜我三生拝慈賜。朝朝念念只南無。

 

昭和25年、眼病を患い入院する。


昭和26年(1951)4月10日、脳溢血にて急逝する。仭崖定坦大和尚(69歳)

 

 

尚、高橋竹迷(定坦)に関しては、曽て「傘松」に連載され、平成五年二月二十日、大本山永平寺祖山傘松会より発行された中嶋繁雄著の「永平寺風雲録第三部-天よりの聲」に詳しく書かれている。 

「帯」
漂泊の禅僧!
幸徳秋水・芥川龍之介・竹久夢二らと縁を結び、明治・大正・昭和を生きた“現代の良寛”の波瀾の人生行 ―。 

  天よりの聲・中嶋繁雄著
  天よりの聲・中嶋繁雄著

高橋竹迷・禅師との余話

高橋竹迷・禅師との余話

 

森田悟由禅師
明治32年の春、竹迷和尚は尊敬し憧れていた森田悟由禅師に逢うことが出来た。
その他・森田悟由禅師関係」の「森田悟由禅師の思い出」記載参照。

 

日置黙仙禅師
「日置禅師の思い出」高橋竹迷
「・・・歴代禅師様の内で、一番なつかしく、一番親しく、叔父さんのように感じたのは実に我が日置禅師である。・・・黄檗研究の要件で名古屋へ行った。丁度、日置禅師が覚王山に来ていられるというので拝謁にいった。『あゝ好いところへ来た。直ぐ啓白文を作れ!』と云われた。それは日置禅師が十七年来、身を粉にして苦辛せられた覚王山に、仏舎利を入れる黄金塔が出来て、それを犍陀羅式の大塔の中へ入れる遷座式だ。禅師は十七年来曾苦辛。黄金骨入黄金塔云々の一偈を示されて、その苦辛談を一節語られた。その尊、啓白文を作れとの仰せ、一画生として実に身に余る光栄、奥の一室を借りて暫く推敲してやっと出来た。如何やと怖れつつ差し出すと、禅師は『これは上手い、流石は本職だ』と有難いお褒めの御言葉、『さあ上手に書いてくれ』と、奉書が出された。汗ダクダクで漸く書いた。慚愧千万なものを『これは好い好い』と莞爾とされて、その日の引出物を下さるさえあるに、書生には過分な御礼を、丁寧に可漏に入れて下さった。こんなに感激に満ちたことはなかった。」

(昭和11年「傘松」拾月号より抜粋)

 

秦慧昭禅師
「深重の因縁」高橋竹迷
「秦禅師の推薦事務所が開かれる時、多くの人々よりも最も喜んだ一人である。それは殆んど三十年前から既に禅師の徳風を敬慕していた。
選挙事務所へ行った時、まづ慧錦さん慧玉さん等の顔を見て、実になつかしく我が家の大祖父でも迎えるような気がした。その時、初めて竹内道説君に逢った。自分は遭難後ここに十年、活動的に宗門に出ないので、竹内君の名は誌上で知っていたのみであった。この有爲なる先生が、秦禅師の会下であると聴いて更に驚異の目を見張らざるを得なかった。さても禅師の高徳なることよ。竹内君はさも懐かしそうに『あなたの名は慧伸さんから疾くに聴いていました。その頃、長松寺で、あなたから詩や書が来ると、慧伸が必ず自慢して見せられた』と話されて、慧伸君との深重な因縁に感激した。慧伸君と僕とは一緒に總持寺の再建本部に勤めていた。・・・御師匠慧昭禅師から御返事の来たことがある。慧伸君の室へ入った折、不図、その手紙を拝見した。
先づその筆跡の見事なるに驚く。次いで徹悃の親切、諄々としてその不心得を誨される。読んでいて自ら熱き涙の泌むを禁じ得ない。実に有難いと想った。而もその文面の暢達にして自由に禅句を応用されたる、覚えず『これ一巻の正法眼藏なり』と叫んだ。」
(昭和9年「傘松」五月号より抜粋)

 

熊沢泰禅禅師
熊沢禅師が永建寺住職のころから特に詩偈を通して竹迷和尚と付き合いしていた。
それも熊沢禅師が永平寺副監院、後堂、監院、さらに不老閣に登った後も、誠に親密に交際していたのである。
高橋竹迷が急逝したとの訃報を聞いた熊沢禅師は「竹迷和尚は、あれほど御開山の大遠忌、大遠忌といって、来年春の大遠忌を待ちあぐんでいたのに、俄かな遷化とは、まことに惜しいことをしたものでだ。せめてもう一年生かしておいて、大遠忌にだけは遇わせてやりたかった。」と、その突然の示寂を惜しまれたと云う。

(続続永平寺雑考より)

 

 一詩を賦し、大寂定中の竹迷雅老に寄せる。
  風流自楽画兼詩。 風流、自ら楽しむ画と詩と。
  筆硯悠悠一世師。 筆硯、悠悠たり一世の師。
  此土安康春四月。 此の土、安康、春四月。
  告君處處百花滋。 君に告ぐ、處處百花滋ししを。

 

昭和34年秋、永平寺寂光苑(歴代禅師の墓所)の一隅に小さな碑が建てられた。
それは熊沢禅師が高橋竹迷を想い、竹迷和尚の遺品として禅師に贈られた生前愛用の筆、筆洗い、文鎮などをその下に埋め、さらに回りに丈の短い竹を植え建てられた追慕の石柱だった。
その石柱正面には熊沢禅師の揮毫で「竹迷雅契仭崖定坦大和尚小域」とあり、向かって右側と裏面には「無声詩与有声画 拈出風流文墨心 常寂苑中清淨境 為君植竹慰幽吟」とあり、左側には「昭和己亥年秋日 雪庵吟建」と刻まれている。

(続続永平寺雑考より)

 

石川素堂禅師

竹迷和尚は大正2年、自著「山水と人物」の中で次の様に記している。
「大本山總持寺の移転と云う聲は、正に教界の霹靂であった。殊に六百年来栄華の歴史を持って居た能登では極力反対した。が、痛激なる時代の要求は遂にそれを許さなかった。・・・時代の先覚者となり、移転の大英断を決行したからである。此に於て一時は敵とした能登の人達も、今日却て貫首石川素堂禅師を以て、大いに徳として居るのである。」
「(石川素堂)禅師を知らむと欲せば、先づ新しき總持寺を見れば可い、總持寺は直に禅師の具体化せるものである。總持寺が振古未曾有の大発展を試みて、敢然として移転を決行したのは、実に禅師があったからである。即ち禅師は果斷決行に富み精力非凡の人である。『石川禅師も亦た耄せるか』と言った人がある。傍らに客ありて曰く『然り。禅師も耄せり。然れども今の若い者ほどは耄していない』と、呵々と笑った。この人にして初めてこの偉業が出来たのである。」

 



 

「実験の因縁」高橋竹迷著 大正2年2月25日 鴻盟社発行

冒頭の扉に小さく「幼き折、母に代りて我を育み給ひたる、祖母の霊前に、謹んで此書を供ふ」とある。

 

「告白」

 我が意遂に決しぬ、乃ち敢て三個の大なる理由に依りて本書を公にせり。曰く、悲惨なる信者の為め、曰く、不運なる戀人の為め、信義ある友人の為め是れ也。

 悲惨なる信者の為めとは、救濟の聲也。信者が過去三十年の歴史は、絢爛寔に花よりも鮮かに、その半生涯は、濃艶宛として繪巻物の如し。曷んぞ知らん、その世に誇るの微笑は、却て是れ人に訴ふるの暗涙ならんとは。开は實に悲惨也。今や浮生の夢、豁然として覺め、忽ち僞善と虚栄とを捨てヽ、思索なくも我が信仰の門を敲けり。敲けば門は必ず開かるべし、開かるヽは是れ救はるヽの時也。

 君よ。怪しむこと勿れ。不運なる戀人とは我が幼馴染の女也。彼女は幼にしてその母に別れ、長じてその父に別れ、嫁して又その夫に別る。友は彼女を「不運なる戀人」と歌ひぬ。

 眞に不運なり。彼女は今や年若き一人の弟を慕ひ、故園墳墓の地を捐て、孤影㷀然として北の方遙に支那に旅立ちぬ。實に是れ去年十一月の半也。長白山下春猶ほ寒し、彼女恙無きや否や、我れ幾度か彼女の為めに、佛陀の御恵み偏に祐ならむことを祈りぬ。

 友は鹽也。糧也。力也。我が霊肉雙ながら今日に全きことを得て、菲才猶ほ人伍に堕するなく、時に聊か事を作してその業を卒ふは、亦是れ信義ある友の力也。感謝の意、日夜油然として湧く。

 我れ毎にこの三人の為めに、純潔熱烈なる信仰を説き、真摯遒健なる傳道を試む。即ち是れ五十齣の因縁は、この三人に對する随時、随感、随説せるの説法也。教化也。涙に答ふるの涙也。愛に報ゆるの愛也。而も一齣に一國あり。一國に一如来あり。五十個の佛國土儼然として茲に現成し、五十個の活如来、活溌々地に出頭し来ることを信じて疑はず。顧みて聊か自ら安んずる所也。

 遮莫。君よ。その杜撰ふことを休めよ。啻この三人の信受、随喜、満足を得ば、可憐なる我が宿願亦茲に全く終んぬ。

 大正二年古暦立春第一日

  常載庵南窓の下に於いて 髙橋竹迷

 

(本文略)

 

「終に蒞みて」

この本を讀んで、信仰上に所感の有つた方は、どうかお聴かせ下さい。

世には悲惨な人、不運な人が澤山ある。私共は常にそう云ふ方々の慰安となり、救濟となり、友となりたい。

私はこの本が、そう云ふ悲惨な人や、不運な人達に最も多く讀まれるのを、一番心嬉しく思います。

 癸丑紀元節校了の日 竹迷記す

 

実験の因縁・髙橋竹迷著
実験の因縁・髙橋竹迷著

 

「求道の因縁」髙橋竹迷著 大正3年9月15日 鴻盟社発行

「敍言」

歐州の山河、兵塵漠々として、極東の天地亦風雲甚だ急を告ぐ、正に是れ男兒起つべきの秋たり。この時に方つて我が『求道の因縁』將に成らんとす。豈多少の感懐無きを得んや。昨春、余が『實験の因縁』を刊行して、自ら純潔熱烈なる信仰を披瀝するや、過ぎて教界に多大なる驩迎を受けたるは、誠に一期の幸福たり。而して『求道の因縁』は、未だ『實験の因縁』に盡さヾりし所を補ひしものにして、全くその分身なり、姉妹なり、自ら二にして不二なり。

『實験の因縁』を發售するや、二十年來未だ曾て書籍を手にせざりし者が、一たび抜ひて巻を措くことおを知らざりしと云ひ。佛教を以て一途に難澁にして枯淡なるものと斥けしを、却て明快切實なるを會得して遂に大歓喜心を起せりと云ひ。其他幾多の新れしき信者の随喜を得たるが如き、余をして頗る感激せしめたり。これ亦本書發售の近き縁起たり。顧みれば、吾人、身を三寶に依怙し、任を佛祖の慧命相續に負ふ者、親しく教界の現状を視て、轉た慷且つ慨せずんばあらず。夫れ懈怠、懶惰は佛陀の深く教誡せらるヽ所たり、正に速に大勇猛精進の最も切なるを覺ふ。菲才自ら揣らず。敢て本書を刊行するもの亦聊か茲に在りて存す。願くは諸君と倶に、行持報恩の宗旨を全うせんことを望んで止まず。終に蒞み、最も畏敬せる南條博士が、任を大谷大學の學監に擔ひ、近く京都に赴かれむとして行李匇忙の際にも拘はらず、能く微衷を容れて特に序文を寄せられたるは、余の最も光榮とする所なり、茲に謹て感謝の意を表す。

 大正三年八月念一日

  麹街寓居の梧桐窓下に  著者誌す

 


 

「修養禪話 一休奇行録」髙橋竹迷著 大正4年5月17日 東亜堂書房発行

 

「はしがき」(序文)

秋の山寺の淋しい夜、師匠の膝の下に一休の頓智談を聴き、己れも一つ其麼偉い和尚になつて見たいと思つたのは、早や二十年の昔である。その己れは一向に偉くもならないが、その時の心は今も猶ほ存して居る。時折は興趣深かりし頓智談を思ひ出づるにつけ、後の若き人々が參禪の手引にもと、東亜堂主人の需に應じて本書に筆を執つた。 大正四年春風彼岸の日  著者誌す

 

修養禪話 一休奇行録 髙橋竹迷著
修養禪話 一休奇行録 髙橋竹迷著

 

「白隠禅師言行録」高橋竹迷著 大正5年1月1日 東亜堂書房発行

 

「叙言」

一、白隠禪師に關する著書は決して鮮くない。而もその傳記は未だ歴史的に研究されてゐない。從て其の眞面目が眞箇に紹介されてゐない。斯の如きは其の兒孫として甚だ忠實なる所以ではない。且つ禪師のために誠に惜むべきことである。本書は此の缺陷を補ふことに最も黽めた。

一、本書は元より歴史的缺陷を補ふことに黽めたとは云へ、唯だ是れ一般の讀者に白隠禪師の言行を納得せしむるを目的とした故に、研究的事項は概ね避けて、平易に其の生涯を叙述するやうにした。但しそれを機會として私は白隠禪師の研究に菲才を盡すつもりである。

一、白隠禪師の逸話は随分多く人口に膾炙して居る。が、今は叙述の都合で多く取捨した。その代り餘り世間に流布されてゐない逸話を間々挿入した。それは重に長安寺住職通山翠巖師の賜物である。師は白隠禪師が開創の道場たる龍澤寺に剃髮せられ、前後三十年も行住せられたので、山門不出の秘書や地方特種の傳説に依て、惜氣なく語られた。而も私は此の時に初めて師を知つたのである。特に師の寛大なる厚意を謝する次第である。

一、白隠禪師は實に臨濟宗中興の祖である。故に禪師を知らんとせば正に臨濟宗を知らねばならぬ。然るに私は不幸にして臨濟宗の知識に頗る乏しい。而し幸にして禪師の生涯に最も因縁の深い美濃に生れた。乃ち禪師が美濃の因縁を説いて稍や盡くせるは、或は臨濟宗を説いて足らざるあるを補ひ得たることヽ信じて居る。

一、禪は元是れ不立文字、教外別傳である。而して白隠禪師は實に是れ五百年間出の禪僧である。その提唱された「隻手の聲」は、眞に是れ禪の第一義である。銀山鐵壁、能く文字語言の攀ぢ得る處でない。徒に閑言語話を弄して白隠禪師に相見せんと擬すれば、既に是れ白雲萬里である。余素より禪師の眞面目を擧示すとは云はぬ、纔に是れ眞龍の片麟を描き得て、初學者のために禪師の門墻を窺はしめ得ば望外の至孝である。

一、枉げて黄葉を以て兒啼を止めしむるは亦是れ接化の手段である。姑らく第二義門に降つて白隠禪師の音容を髣髴せしめんとした。然るに種種の約束があつて、所期の十一も盡くすことが出來なかつたは、自ら深く遺憾とする所である。速に眞消息に徹底されんことを望むのである。

一、本書の照會に就いては東光寺豊田愚中師、蔭凉寺青木徹成師等の手を煩はした。茲に謹んで其の道誼を謝す。

 大正四年秋風彼岸の日

  香魚肥ゆる長良川の涯なる郷家に在りて  著者誌す

 


 

「山岳の宗教」髙橋竹迷著 大正14年7月20日 中央仏教社 発行

 

「啓白」

八ヶ嶽の遭難は、予が過去に於ける、最も悲痛にして且つ偉大なる記念である。

一たび之れを追想する時、竦然として寒毛の卓立するを禁じ得ない。更に雲水療養十ヶ月間の、永き所感は、實に活ける人生の大教訓である。

涙を以てこれを綴ることは、蓋し我が使命であり、責任である。且つ非常なる厚誼を受けた多くの人々へ、聊か謝意を表する所以であると信じた。

我が「思い出の記」として、我が「偽らざるの記」として、「病間録」として、「仰臥一年」として、將た又「死の體験」として、「再生の歡喜」として、苦痛の中を、凡そ一ヶ月間、孜々としてペンを執つた。凡そ本書に十倍するほどの厖大なるものになつた。

偶ま翻然として感ずる所あり、斷然、これを中止した。辛苦して書いた原稿は、總てこれを火中に投じた。

残されたるものは、不思議なる一つの謎となつた。これを知るものは、尊き佛陀と、貧しき予とのみである。

一々謝意を表することの出来ぬは、甚だ遺憾に堪えぬ。

今は唯その一分を採つた、登山の精神と、山岳の宗教とのみを語る。

 

「發行に際して」

(前述略)・・・・本書の、將に校正にかヽらんとした時、遽に、大町桂月先生の訃音に接して實に愕然として驚いた。若し本書の成るや、正にその一部を、先生の机邊に呈して、大に叱正を仰がんとしてゐたが、その事適はずして、却てこれを靈前に捧ぐるは、實に、萬斛の遺憾である。

八ヶ嶽で、當然、死んでゐた予が再生して、その時、無事なりし先生が、却て先だつて逝くなつた。香を手向けらるべき身が、却て香を手向けることになつた。

予が遭難に、非常に同情せられた、畫道の師匠と仰ぐ小室翠雲先生は、深請を入れて、觀音薩埵を拝寫して贈られ、巻頭に一大光彩を添えられた、のみならず、多大なる出版費をも惠まれたことは、歡喜、何ものか之れに如かん。・・・(後述略)

 

山岳の宗教 髙橋竹迷著
山岳の宗教 髙橋竹迷著
髙橋竹迷著「山岳の宗教」より 大町桂月先生・髙橋竹迷遭難慰問扇面
髙橋竹迷著「山岳の宗教」より 大町桂月先生・髙橋竹迷遭難慰問扇面
金剛力 髙橋竹迷著 鴻盟社・発行
金剛力 髙橋竹迷著 鴻盟社・発行
羅漢尊者の因縁(髙橋竹迷・新井石禅共著)
羅漢尊者の因縁(髙橋竹迷・新井石禅共著)
永平寺聯額の解説 髙橋竹迷著
永平寺聯額の解説 髙橋竹迷著

昭和15年(1940)8月、皇紀二千六百年を記念し「承陽大師御画傳」(伊藤龍涯・画、高橋竹迷・文)折り本を作成。

 

承陽大師御畫傳

 

  寫眞題字 秦大禪師猊下

  表紙題簽 丘球學老師

  繪畫   伊藤龍涯先生

  文章   髙橋竹迷先生

 

著者の誓願

 承陽大師の御畫傳は、十年來苦辛の事業でありました。第一その畫家を得ることが困難であった。それは信仰家で且つ歴史畫家でなくてはならぬ。幸ひに伊藤龍涯先生を得たことは無上の幸福であった。

 先生は曩に高田道見師の「通俗佛教新聞」紙上に於て、承陽大師の御傳記畫として「深草の閑居」や「一葉觀音」等を描かれて、深切な研究を以て居られ、先年、帝展に「一葉觀音」を出品せられ、それが評判の目黒雅叙園に入り、永平寺へも福山老師の寄附で納められた等承陽大師と格別の因縁がある。この人を措いて他にない。加ふるに自分と多年の道交あり、無理にお願ひした。

 先生は殆ど半年の間、これが為に精魂を盡くされて、最初は五十枚位の畫を入れるつもりであったが、時局から統制々々で十分出来ず、極めて簡単なるものになった。それでも、子供から、家庭から、承陽大師を知らせ、その光明に浴させたい。曹洞宗二百萬戸の信檀家、一家に一冊づヽ、少くも二百萬冊は發行したい。これが私の小さき誓願である。

 これは他日、修正し增補して立派なものを出したいと、念願して止まない。願くは共に随喜し援助されたい。

承陽大師御畫傳
承陽大師御畫傳


 

高橋竹迷・参考文献

 

新撰引導法語大全」髙橋竹迷著、橋本定芳:撰 昭和29年 山喜房佛書林・発行

高橋竹迷の思い出」高橋民夫、高橋文二共著、昭和58年・発行
新編 応用引導大全」高橋竹迷著、の中「付編第三章 父・高橋竹迷(定坦」の追懐」高橋文二著、昭和59年11月30日・(株)名著普及会・発行
続続永平寺雑考」笛岡自照著、昭和62年5月5日、耕雲軒・発行
天よりの聲」(永平寺風雲録第三部)中嶋繁雄著、平成5年2月20日・大本山永平寺祖山傘松会・発行
竹迷和尚遺聞」高橋民夫(定詮)著、平成8年10月30日・大本山永平寺祖山傘松会・発行 

 「竹迷和尚遺聞」高橋民夫(定詮)著
 「竹迷和尚遺聞」高橋民夫(定詮)著