杉浦鏡華居士

 

杉浦鏡華居士は森田悟由禅師とはとても親しくお付き合いしていた居士であり、東京品川円福寺内に悟由禅師の不老閣を建設寄進され、鎌倉に住んでいたことは分かっていましたが、それ以外の鏡華居士に関して詳しい事は分かりませんでした。

 

昭和39年4月26日に森田悟由禅師の五十回忌正当法会が厳修されることとなり、永平寺機関誌「傘松」の288号(昭和39年3月発行)で悟由禅師の特集が組まれています。

 

その特集の中で、宮川敬道師の「悟由禅師さまへの追恩」という寄稿文があり、その寄稿文により杉浦鏡華居士が「杉浦嘉七(福島屋三代目)」であることが、ようやく判明したのです。

 

宮川敬道師の父親・三戸貞三は北海道函館より北辺の長万部(おしゃまんべ)国縫(くんぬい)で郵便局の局長をされていて、森田悟由禅師のご木像に対して懇ろに供養を尽くされ、森田悟由禅師より得度を受け「知足庵恵心」となり、森田悟由禅師の信奉者の一人であったのです。

そして父親・知足庵は森田悟由禅師の開山所建立の悲願を遂げられず、四十四歳で逝去されたのでした。

しかしその後、鈴木天山師の計らいにより、大正六年に森田悟由禅師を開山に拝請し「六湛山・圓通寺」と寺号公称しています。 

宮川敬道師はそんな父親の影響からか出家して僧侶となり、昭和15年、北海道虻田郡倶知安町大佛寺住職となり、さらに熊沢泰禪禅師の侍局を永く勤められ、この寄稿文を寄せられた時は鳥取市天徳寺住職となっています。

 

杉浦鏡華居士函館「福島屋」三代目杉浦嘉七が結び付けられたことにより、色々なことが分かってきました。

 

函館「福島屋」は高田屋と共に、昆布などの海産物、蝦夷地産物を商い、北前船により全国に販売して莫大な利益を得た豪商で、汐見町に大邸宅を所有していました。


杉浦嘉七(三代目)

 

1843天保14年4月5日 杉浦與七の長男として江戸で誕生。幼名は「恒次郞」
文政年間 初代杉浦嘉七(祖父)等と共に函館に移住するが、六歳にて父與七が病死し継父(二代目嘉七)に育てられる。
慶応2年 23歳 三代目杉浦嘉七を襲名する。
明治3年 一萬餘圓を費し新築した家屋倉庫を献納して小学校に充つ。
明治4年 開拓使産物係御用達。翌、明治5年 貸附所御用達。
明治7年 旧館藩用達金三千両を政府に献納。
明治8年 学務世話係。萬餘圓を費し海岸埋立工事完了。
明治10年 印刷所北溟社を創設し、函館新聞を発行。
明治11年  第百十三国立銀行が開業となり、初代頭取となる。又、函館區會議員に撰ばれ初代議長となる。
明治17年 共同商会を設立し、取締役に推される。
明治26年 病気保養の為、第百十三国立銀行を辞す。
明治29年 家督を養子の豊太郎(四代目嘉七)に譲り、隠居し、東京に移転し、鎌倉に別荘を構える。
1923大正12年6月16日 鎌倉にて逝去。81歳。

 

詳しくは「北海道人物誌第2編」杉浦嘉七君傳 参照。 

 

尚、杉浦嘉七は度々北海道を訪れていた永平寺の森田悟由禅師と親交を深め、鈴木天山師、新井石禅師など曹洞宗・永平寺関係の僧侶とも親しく交際されたものと思われます。 

杉浦鏡華居士の道号法名は「寂照鏡華」です。

杉浦鏡華居士が大休悟由禅師より賜った多くの詩偈を一括して雅帳となし、新井石禅禅師はこれを「恩露聯珠」と名付けた。
この跋に鏡華居士が悟由禅師を追慕する長編の詩が書かれている。
(尚、この雅帳は本山と最も縁の深い老宿が秘蔵されているとの事。)

 

  追慕六湛恩師-石禅盤談
  追慕六湛恩師-石禅盤談

 

は鏡華居士が大休悟由禅師の遷化により、その追慕の詩偈「雪花片々」をいつも懐にしているのを拝見し、その心に打たれた新井石禅師の追懐の詩偈です。

 


 

は鏡華居士の「雪花片々」に和韻作成した八偈と、鏡華居士の赤心に感じ入り作成した一偈です。

 

  和 鏡華居士雪花片々-1
  和 鏡華居士雪花片々-1
  和 鏡華居士雪花片々-2
  和 鏡華居士雪花片々-2
  和 鏡華居士雪花片々-3
  和 鏡華居士雪花片々-3

 

さらに、新井石禅師と同じく大休悟由禅師に随侍していた「鈴木天山師」の杉浦鏡華居士への手紙が有り、下に掲載致します。

 

  手紙宛名・杉浦鏡華様-鈴木天山
  手紙宛名・杉浦鏡華様-鈴木天山
  手紙・杉浦鏡華老仁者机下
  手紙・杉浦鏡華老仁者机下


 

「北海道人物誌第2編」岡崎官次郞編には下記の如く記載してある。
 
杉浦嘉七君傳
  函館區汐見町拾七番地   (○は判読不明字)
 
函館汐見街山に枕し、海を負い観望掬くすべきの所宏壮なる層閣を築き庭園花卉ありて以す朝夕眼を癒するに足るべく愛子の為めには特に邸内に校舎を設け良師を聘し讀書弾琴の聲を絶たず以て子孫の昌營を期するに足るべく嘯咏の楽に供せんが為めには谷地頭幽邃の地を相し此に別野を構え山を築き池を穿ち花木を栽え粛然として脱塵の仙境を為す。
時あって杖を曳き吟風弄月を楽み身体の保養に余念なし。
此高厦に住し此仙境に遊ぶもの之れを離れりと為す。
之れ有名の富豪杉浦嘉七君其の人なり。
君は徳高く気清く居常君子の風あり、世の軽佻浮薄の徒は直ちに此の境遇を羨むなるべし。
然れども君をして此の閑天地に在らしめたるもの君をして年歯未だ老いたりと云うにあらざるに明秀なる状貌をして稍や○衰を現わしめたるものはなんぞや。
前者は君が多年辛苦経営に酬ゆる賜にして、後者は君が深慮密察の為め心神を傷たましめたる結果なるべし。
俗諺に謂わずや「賣り家と唐様で書く三代目」其の意甚だ深長を寓せり、二代目は乃父の勤倹克己の状に親しく接するが故に奢侈放迭を警しむるに足るも三代目に至れば初代の勤労を感ずること浅く佚樂に耽り家道をして衰頽せしむるもの比々皆是れなり
君は実に杉浦家三代の人にして家道の安全資産の増殖を計らんが為め百難を排して祖先の遺法及び業務を理革し家道を泰山の安きに置き而して資産を増殖すると祖先に幾倍するを知らず
君の資産を作るや権門に媚い哘々裏に巨利を得たるにあらず。
亦冒険投機一挙して大利を博したるにあらず、唯だ正道により秩序を乱さず勤倹貯蓄と正實刻苦とを以て漸次家産を増殖す、世の奇道に依り大利を博せんとして汲々たるもの須らく一顧すべし。
君、天資温厚篤実深識周密にして寛容を以て人に臨み慈善を以て窮を賑わす。殊に巨額の資を公益に捐つ蓋し其の比を見ず。
君が功績の顕著なるものは第百十三国立銀行に於ける、西濱町海岸埋立事業に於ける、壹萬餘圓の大厦を小学校の校舎に寄附したるに於ける、挙げて数うべからず。
世の貪欲者流の輩家費萬計にして公益の何者たるを解せず、慈善の行うべきを知らず、役々たる細民の財を貪らんと計る君の伝記を読め、宜しく反省する所あれ。
 
君は元江戸の人なり、文政年間一家挙げて函館に移住す、母は白鳥氏の次女にして一男三女を挙ぐ、君は其の嫡男なり。幼名恒次郞と呼び、後ち嘉七と改む。六歳にして父に訣れ継父忠三郎氏に養育せらる。君の家は世々藩に功労多かりしを以て松前侯より特に士席に列し家禄を賜わる。君十七歳の時其の禄を奉還して志を商業に傾け商况を視察せんとて江戸に上り尋て京阪地方を漫遊し、後ち北海道の漁場を巡回し函館に帰りて継父の業を助け孜々として怠らず、明治四年開拓使産物係御用達命ぜられ翌五年貸附所御用達を命ぜらる。
此の時頻年漁獲頗ぶる多しく利潤殊に著しかりき。
継父性活潑穎敏にして久しく町年寄を勤め漁業を営み屋号を福島屋と称す。
当時福島屋の名既に四方に聞ゆ。明治六年継父病て歿す。君其の後を継承す。時に年三十一歳なりき。
而して維新の後従来総括の漁場を変更せらる復た昔日の利益を見る能わず然るに家政は舊習を脱せず華奢に流れ家運漸く衰頽せんとす。
君以為らく栄枯浮沈は掌を翻えすが如く悠忽として至る故に正道を踏んで以て安全を計り迂遠なるも敢て冒険大利を企てず勤倹刻苦以て子孫百年の家道を鞏固ならしめんと意を決して改革に著手す親戚及び年来の傭役者は君の改革考案善耳にして自他共に其の利益を与えんとするを解せず。皆な祖先の遺法を破るものと為し不可を唱えて止まず。
君徐々として之れに着手し数年継続したる預金は悉く預主に返戻し親戚兄弟には各独立の資を分与し傭役者には彼等をして漁業組合を設けしめ其の組合に向って君が旧来所有し来りたる漁場を廉価を以て挙げて彼等に売渡し其の代価は年賦払込みの事とし、且つ漁業に要する機具米噌は一切君より仕送る事と定む。
傭役者此の恩恵に接し歓喜満足之れに過ぎず。
衆皆な業を励みければ其の年に至りて稀なる漁獲を得各々利潤を得る事夥多しく随て君の収益も又尠なからず、所謂一挙両善なりき。
而して年来所有する所の船舶の處分を為さんが為めには各船主をして船舶の価格を書き出さしめ其の書き出したる代価の半額を以て各船主に売渡せり。船主皆其の恩に感ぜざるもの無し。
此に於て漁場及び船舶の處分を全うせり、然れども祖先年来の家屋は漁業を廃し海運業を止めたる暁には宏大に失し冗費亦た嵩み君が理革の旨趣に副わず、之れを沽御せんか、祖先永住せし家屋は何如なる事の為めに供せらるるや計るべからずと曾たま函館區内人口日に月に増加し而して当時未だ学校の設備莫し、為めに子弟の就学に由無し。
君深く之れを憂い明治三年一萬餘圓を費やし新築したる該家屋倉庫を悉く献納して小学校に充つ、内澗学校則ち是なり。
凡そ公益の事一ならずと雖も蓋し此の美学に過ぐるものあらざるべし。
一は以て国家を裨益し、一は以て祖先の霊を慰むるに足る。
君は種々なる艱難を排し其の希望を達し結果は君の財産悉く安全鞏固のもとと変し家費其の三分二のを減するに至れり嗚呼君の寛容深識なくんば君の家は蓋し今日の如く隆々たる家名を輝かすこと難かるべし。
旧来の各藩用達金は公償証書を以て交付せらるるを常とす。
然るに君は明治七年旧館藩用達金三千両を政府に献納せり。
明治八年学務世話係命ぜらる。
同年日高州仕入御用達を辞し、併せて十勝州漁場一円を悉く官に返上す。
明治九年辨天町狭隘にして市民の不便を感ずること少なからず、君復た之れを憾とす。
會たま官衛にの勧告あり、市民の希望あり、君独力を以て海岸埋立の土功を起す。
此の擧其の年五月に起し翌八年九月に竣る無慮弐萬餘圓を費せり。是に於て蒼々たる海面忽ち変して熱閙の市街と為る、今の幸町是れなり。
蓋し市民は君の功労を不朽に傳へて忘れざるべし。
明治十年函館相場會所委員命ぜらる。
明治十一年函館有志相謀り私立鶴岡小学校を設け、貧民の子弟に就学せしむ。君復た之れを賛し爾来資を投じて同校を補助せり。同年学事取締命ぜらる。
又、區會議員に撰ばれ議長に推薦せられ十七年九月區町村會法改正に至るまで、其の重任にありしと。
而して函館は我国五港の一にして北海道の咽喉に位す。然るに銀行の設立なく商業上の利便発達を妨ぐること尠なからず。
君夙に之れを憂え率先して同志を募り拾五萬圓を以て第百十三国立銀行を創立し翌明治十一年開行す。君推されて頭取と為り日夜励精業に服し役員復た忠実勤勉なりければ業務年を追うて繁栄を加え資本金を増額するに至れり十二年函館區大火あり内澗学校を始め銀行及び君の居宅其の災に罹り倉庫十余棟復た灰過となる君の此の損耗の於ける實に莫大にして非常の困難に陥りしも君の勤倹刻苦と経営措置は数年ならずして其の功を現はし莫大の損失を補い尚ほ若干の増殖を為せり。
明治十三年道路改正委員を命ぜらる。
翌十四年車駕北海道御巡幸之砌辱くも有栖川親王殿下より左の賞詞を賜われり。
君の此の栄誉を辱うするもの豈に偶然ならんや。

 

其方儀節倹家ヲ治メ信義人ニ交リ區民ノ為メニ夥多ノ貨財ヲ出シ海岸ヲ埋立テ又居宅ヲ分ケ小学校トナシ其他賑窮救災衆人ニ率先候條奇特ノ至リニ候尚此後モ盡力可致候
 明治十四年九月十六日  左大臣 熾仁親王

 

明治十六年同志と謀り北海道運輸会社を設立し君取締役に挙げらる。
数年ならずして同社東京共同運輸会社へ合併す。
明治十七年官の勧めに依り君同士と共に共同商会を設立し君取締役に推さる。
明治二十年函館水道委員を命ぜらる。君夙に此の計画あり、率先して公借金を募集し僅々十七ケ月を以て竣工を告ぐ。
函館港民が戸々清水を飲用し鐵管を開けば清水忽ち湧出するの便を得たりしは君等経営の賜なり。
同年函館區共有財産理事者に撰ばれ財産の鞏固増殖を謀れり。
同年同志者と共に商工会を設立し君会頭に推撰せらる。
明治二十三年函館商業学校商議委員の嘱託を受く。
同年米価騰貴細民困窮して活路に迷う君深く其の状を憐み率先同志を説き救濟會を設立す。
義捐金忽ちにして七千圓に達す。此に於て貳千圓を以て米穀を購い之れを細民に救恤し残金五千は區の共有金と為し備荒の為め積立つることとなせり。
明治二十六年君病痾保養の為め第百十三国立銀行を辞す。
同行今日の昌大を期す。偏に君の多年辛苦経営の賜なりとて君の功績を永久に傳へ且つ感謝の意を表せんが為め黄金製の腰高の盃壹對に九龍鳳凰の浮彫あり。
其の中央に彰功の二字を彫し巌谷一六居士の記する所の左の彰功記を添え君に晋呈せりと其の他君が年来賞状又は金盃を受けたると枚挙に遑あらざれば之れを略す。
 
函館紳商杉浦嘉七君頭取於第百十三国立銀行者十有五年綜理稱職衆皆推服今也辞職株主諸氏新製金盃一對贈君以謝積労属余記其由初君就職方本行創業君鋭意盡力拮据経営規画得宜信用日厚遂致方今之隆盛苟自非誠忠實忘私奉公者焉能如此乎嗚呼嘉七君之偉功永可傳哉
 明治二十六年十月
  従四位勲三等 巌谷 修記

 

君今や凡ての業務を辞し病痾閑養と瑯咏の楽みと書画珍玩の蒐集と此の三つの外餘念なきが如し。君商家に生れ営々牙爵の事に馳驅したりと雖も幼より頗る雅道を好み號を除柳と云う左に掲ぐるものは君の近咏にして一讀以て君の風采を知るに足る嗚呼功成り名遂げ老て楽む君の如きは實に稀有の人と謂うべし。
 
雪白く水みとりなり今朝の春
霜に雪にうたれて梅のにほひ哉
能くきけば雀なりけり花の鳥
耳にあらず眼にあらず涼しきは我心かな
竹の子の伸をいそきて痩にけり
譽らるる日まては菊も手入かな
雨に風に老行く秋の姿かな
心先つ動きて秋の風白し
 
「北海道人物誌 第貳編」明治27年3月20日発行 著作者兼発行者・岡崎官次郞

 



永平悟由禅師・左佛庵鏡華居士
永平悟由禅師・左佛庵鏡華居士

不許浮游漫近傍。山僧借作坐禪堂。道微三有縦難度。任重四恩豈可忘。
東里主人尤雅致。西來祖意自深長。松風奏瑟梅薫月。此土誰知極樂鄕。
 明治三十五年二月 訪左佛庵次主人鏡華居士清韻 永平悟由

 

 

森田悟由禅師「永平重興大休悟由禪師廣録」より 杉浦鏡華居士に関する詩偈などを探して下に記載しました。 

 

●明治三十二年
謝杉浦鏡華居士惠贈北海道海鮮。(一首)

「香味淡然紫海苔。包含多少道情来。春頭頼點雲門餅。毎感飢寒養聖胎。」

●明治三十三年
酬杉浦鏡華居士見贈彫蟲窟印藪一帙二冊。(一首)

「銕筆縦横作一家。家傳豈可混冬瓜。蟲文鳥篆看神化。箇裏誰能辨點瑕。」

謝杉浦鏡華居士贈惠シロープ。(一首)

「淡交如水不通書。千里同風意豈疎。多謝北天甘露味。一杯忘暑臥清虚。」

 

この「大休悟由禪師廣録」によると親しくお付き合いを始めたのは明治32~33年からと思われます。

上記のように、北海道の海産物、シロップなどを杉浦鏡華居士大休悟由禪師に贈り、その返礼の詩偈が遺されています。


●明治三十四年
八月十四日。訪鎌倉左佛庵(一首)外偶成、謝左佛庵主。(二首)

 

明治34年からは「左佛庵」の言葉が見られます。

左佛庵」とは杉浦鏡華居士の鎌倉の別荘の名で、鎌倉大仏の左側に建てられたので左佛庵と称したと伝えられています。

 

●明治三十五年
壬寅孟春。次鏡華居士見寄韻以酬。(一首)五律。(一首)
二月三日。有約赴相州鎌倉即事(二首)
左佛庵主席上有昨秋辞同案詩用其韻。(一首)左佛庵偶成。(三首)
鎌倉客居贈鏡華居士。(一首)
次鏡華居士左佛庵雑吟韻(七律一首)
次来韻贈鏡華居士。(四首)贈左佛庵鏡華居士。(一首)
●明治三十六年
癸卯孟春。用鏡華居士壬寅除夕韻。癸卯開春重贈。(一首)
癸卯孟春。王春次鏡華居士韻(七律一首)
六月十七日。訪鎌倉左佛庵和前来題壁韵(四首)
八月下浣。贈左佛庵主。(二首)
十一月二十一日。訪左佛庵。滞留三日中偶成書贈。(四首)
次鏡華居士歳晩韻(客作賤人法華之字)(一首)
●明治三十七年
庚辰孟春。次杉浦鏡華居士庚辰歳旦韻。(七律一首)
(春)次麻蒔監院韻贈鏡華居士。(二首)
寄鏡華居士寓左佛庵主。(一首)
次杉浦鏡華居士。(七律一首)
次杉浦鏡華居士。(一首)
謝鏡華居士見惠米国産乾葡萄。(一首)
謝杉浦氏二女子佳惠(衣子千代子姉妹同意贈也)。(一首)

 

杉浦鏡華居士の二人の娘、衣子、千代子姉妹にも悟由禅師は詩偈を贈っています。


●明治三十八年
乙巳孟春。贈杉浦鏡華居士。(二首)
復杉浦鏡華居士。(一首) 次鏡華居士韻。(七律一首)
次鏡華居士来韵。(三首)
用同居士江州青岸境内六湛庵偶成韻。(一首)

 

この「江州青岸境内六湛庵」とは滋賀県米原市にある清岸寺に建てられた悟由禅師の休憩所で悟由禅師の別号「六湛」より由来し、「六湛庵」と名付けられた建物のことです。


次同居士遊繪之島韻。(一首) 次同居士遊清水寺韻。(一首)
三月六日。訪大異山中左佛庵主。(三首)
九日。留別主人(一首) 外贈左佛庵鏡華居士。(一首)
和鏡華居士韻。謝巴港高龍大法和尚。見贈恤兵寒行乞写真。(七律一首)
贈杉浦氏提携家族入祖山。(一首)
謝杉浦鏡華居士贈。(一首)
示鏡華居士失令妹(一首)
●明治三十九年
一月二十三日。訪左佛庵。(三首) 二十四日。早起即事。(一首) 二十五日。謝同庵主人接待。(一首)
次杉浦鏡華居士来韻。(一首)
●明治四十年
二月二十日。訪左佛庵主人。主人不在。不感不遇。三宿而逢主人。同伴二十三日入京。
庵中偶咏。(四首)
次杉浦鏡華居士来韻。(七律一首)。次杉浦鏡華居士来韻。(二首)
函館火後示杉浦鏡華居士。(八月二十五日北海道巴港有火焼失戸数一萬餘)(一首)

 

明治40年8月25日、函館の大火があり、悟由禅師が杉浦鏡華居士に御見舞いの詩偈を贈っています。

 

●明治四十一年
二月十二日。訪鎌倉左佛庵有作。(一首)(外偶成、観梅、偶成、聞鶯の四首)
●明治四十二年
次杉浦鏡華居士元旦韻。(一首)
贈杉浦鏡華居士。(一首)

二月四日高輪六湛堂(圓福寺中)
高輪圓福境内六湛堂落成鏡華居士有呈偈次其韻。(一首)
六湛堂新築施主杉浦鏡華居士故及句。(一首)

 

「居士、余の為、枉げて功を費やす。誠心、唯だ要す、微躬を保つを。
 試みに衣鉢を移す清虚室。方に是れ夕陽、晩楓を映す。」

 

高輪の円福寺に杉浦鏡華居士が悟由禅師の為に建てられた「六湛堂」新築の偈ですが、滋賀県米原の「六湛庵」と間違え易い為、「空華室」と呼ばれていたようです。

「空華」も悟由禅師の別号です。

 

席上偶成。(一首)。空華室偶成。(一首)
二月二十三日。宿湘南鏡華居士梅荘(一首) 翌二十四日。謝同居士。(一首)
臘月二十七日。宿鎌倉花香書院。(一首) 二十八日。贈主人鏡華居士。(一首)

 

この頃から「左佛庵」ではなく「花香書院」に悟由禅師は訪れています。


●明治四十三年
庚戌孟春。訪湘南花香書院。(一首) 書院偶吟。(一首)
庚戌孟春。示杉浦氏姉妹両善童女。(一首)
五月中旬。次鏡華居士来韻(一首)同月二十六日。次鏡華居士韵。(一首)
湘南鏡華居士見未開蓮並七絶因次其韻。(一首) 次同居士呈偈韵。(一首)
臘月中浣。鏡華居士。提携家族。見訪湘南僑居。一絶以謝。(一首)
●明治四十四年亥年
酬杉浦鏡華居士韵。(一首)
歩前韻酬鏡華居士。(一首)
歩来韻謝同居士惠梅花。(一首) 歩来韻贈同居士。(一首)
杉浦鏡華居士。被惠新設筧泉之水両瓶並絶句一首。歩其韻以伸謝。(二首)
贈鏡華居士。(一首) 申寅歳晩贈鏡華居士。(一首)
●大正元年
二月十一日。青柳賢道老禪。杉浦鏡華居士。偶然来訪各有詩。(居士韻一首)
●大正三年
一月二十二日。謝杉浦鏡華居士来訪。(一首)


十二月十四日。喜杉浦鏡華居士来訪。(令弟守氏同伴)熱海客舎にて(一首)
「提携遠来客。多謝慇懃情。燈下暫時話。分明了一生」
鏡華居士の和韻。
「忘却来時路。松濤鎖世情。半宵燈下夢。形影伴三生。」

 

大正3年12月14日、杉浦鏡華居士は、弟、守氏と共に、熱海に滞在している森田悟由禅師を訪れました。
悟由禅師は鏡華居士の訪問を大層喜ばれ、暫しの間、親密にお話されます。
「提携す遠来の客。多謝、慇懃の情。燈下、暫時の話。分明す一生の了るを。」
親しくお付き合いしてきた鏡華居士に悟由禅師は「分明す一生の了るを」と死期が近いことを感じていることを話されます。
これに対して鏡華居士はそのことを否定せず、和韻して、「忘却す来時の路。松濤、世情を鎖す。半宵、燈下の夢。形影、三生を伴う。」と答え、「影、形に添うが如く、三生までも伴いたい」と、たとえ今生の別れがこうようとも、生まれ代わった世にも随伴したい、悟由禅師にどこまでも付いて行くと述懐しています。
年が変わって、大正4年1月中旬、悟由禅師は体調を崩し、2月4日、重患となり、2月9日、遂に世壽82歳をもって遷化されたのです。
悟由禅師遷化の後、杉浦鏡華居士の歎きは一様では無く、追慕の情を書き留めた「雪花片々」を懐に悟由禅師の影を追い続けて生きて行きます。

 



鈴木天山禅師「白龍天山禅師語録」より

 

杉浦鏡華居士に関する詩偈

 

1. 鏡華居士、不老閣法王に呈す之の韻に歩し却ち酬ゆ。(一首)
2. 鏡華居士、寄せる所の韻の次いで以て酬ゆ二首。
3. 春日鎌倉を訪ねる暇無し、賦して鏡華居士に寄せる。(一首)
4. 鏡華居士、永平寺に登り拈香四首有り、雅趣、信念之心事と感じ、卒、芳礙に歩み同居士に寄せる。(八首)
5. 鏡華居士、別業観蛍時に至るを聞く、之を賦して自ら情を慰め以て居士座右に寄せ一粲を博す。(二首)
6. 杉浦鏡華居士、性海慈船禅師示寂の堂奥に拝登す、之韻の次いで。(二首)
7. 丙辰四月念一日、鏡華居士、永平祖山に上り三首有り、却ち同居士に呈す。
(性海慈船禅師荼毘式執行予定日也)(六首)
8. 杉浦鏡華居士、大正五丙辰十一月大祖山に上り、性海慈船禅師の真前に供し奉る。之韻に唱和す五首。
9. 大正六年二月初九日、鏡華居士、慈船禅師三回忌于祖山に拝登す。
雪花片々二十五首と律三首有り。遠く餘に寄り、餘亦黙止に堪えず。
之に和して七首、坐中の消息に叙す次いで七首、古佛を追慕す次いで六首、客意片々に歌う次いで五首、遙か祖山を想う律三首。
恭しく古佛の真前に供して云。(二十八首)
10. 鏡華居士、遠く千巖の雪に寄せるを謝す。(「小詩偈集」慈船禅師三回忌追悼の故句に及ぶ)(一首)
11. 再び鏡華居士雪花片々の玉礎に和し、慈船禅師在世度生の風様に叙し、以て自ら追慕の情を慰む焉(二十五首)
12. 鏡華老居士、雪花片々原唱に寄せて随感随録二十又五首有り。之に吟誦し則ち行雲流水の趣有り。又、断腸悲風の思い有り焉。迂衲卒、初後二韻に和す。以て呈し老居士の道誼に謝す。(一首)
13. 鏡華居士、常に慈船禅師に供養す焉。今、居士、予この禅師と因縁有るを以て遠く御用遺品を寄贈す。故に賦して厚意に謝し初めて衣を載して謝す。(花香院即是書院之名也)(一首)
14. 次に菓子食籠に謝す。(一首)
15. 鏡華居士、歳旦口上二首に寄せる所に依り其の韻に次ぎ却ち呈す。(二首)
16. 更に一詩有り併せて同居士に呈す。(一首)
17. 杉浦鏡華居士の韻に和し悟由禅師滅後五周年に達す。故に句に及ぶ。(二首)
18. 杉浦鏡華来韻に和す(一首)
19. 杉浦鏡華梅香書院主人に寄せる。(一首)
20. 鏡華居士、大雄山十絶を読む韻に依り近懐を書き以て同居士一粲に博す。(十首)
21. 鏡華居士の寄せる所の玉韻に謝す。(一首)
22. 鏡華居士の韻に和し、却ち呈す六首。
23. 杉浦老居士の来韻に和す。(虚空葛藤眼藏中巻名、原唱餘之眼藏提唱に賛在り)(一首)
24. 同居士野趣の韻に和す。(二首)
25. 同居士偶成の韻に和す。(時、越山禅師迂化期に当たる)(二首)
26. 鏡華居士清囑に應じ行雲流水集に題す。(一首)
27. 鏡華居士和韻を得、感興に耐えず、再び原韻を踏み却ち呈す、三首。
(曾て慈船禅師に随侍し鏡華居士梅香書院に宿す両回、往時を追懐し此の句に及ぶ)
28. 杉浦老居士を悼む(一首)

 

その他
1918大正7年9月14日
本山後堂拝命に、鏡華居士遠く玉韻を寄せて祝す。

 

以上、杉浦鏡華居士に関する詩偈を「白龍天山禅師語録」より拾ってみましたが、28項目に亘り、記載されています。

(もっとよく読めばまだ有るかも知れません。)


鈴木天山師と鏡華居士との親交の深さが偲ばれます。

 



 

献香餘吟 杉浦鏡華居士

 献香餘吟・杉浦鏡華居士
 献香餘吟・杉浦鏡華居士
 献香餘吟-1
 献香餘吟-1
 献香餘吟-2
 献香餘吟-2
 献香餘吟-3
 献香餘吟-3
 献香餘吟-4
 献香餘吟-4
 献香餘吟-5
 献香餘吟-5
 献香餘吟-6
 献香餘吟-6

 

「献香餘吟」

 

明治39年(1906)1月 杉浦鏡華居士、「献香餘吟」を発行する。

 

不老閣古佛法王猊下賜吟

 次鏡華居士上山之韻

四時風物逐番新、依舊守株老屋人、行道倦時倚禪榻、和衣放倒臥雲身。

扶桑第一妙高峰、仰徳齋歸洞上宗、諸見抽孫枝子葉、逐年彌茂蔭凉松。

參禪學道絶知音、蒲上黙遊憶少林、從古世間多損友、同塵不用刺當今。

 次青岸寺六湛堂韻

高倚翠微古佛龕、光明照破拂煙嵐、衆生三六昏々客、入此門來活句參。

 次遊清水寺韻

無端自一入空門、忘却昨非今是痕、唯仰圓通大悲力、皇恩佛徳及雲孫。

 示鏡華居士失妹

遙接訃音毛骨寒、人情到此涙闌干、須将學佛參禪力、一片氷心剛自寬。

 

「献香餘吟」  鎌倉 鏡華居士艸

 明治壬寅四月。會永平高祖承陽大師大遠

 征忌之晨。因禮詣吉祥祖山。賦五律以奉供。

 

朝露幸逢大遠秋。焚香來禮越前州。十年疑着彼時解。三世恩讎此日酬。路上無蹤還與往。雲中有影塔連楼。勝因誰結曹溪夢。一宿僧堂百念休。

塵胸暫拂是非忙。竹杖芒鞋攀道場。教外禪林方外境。寂中眞諦法中王。龕頭有瑞天華隆。階下無塵異草香。落々不懐來去跡。永平此處是家卿。

落花時節遇清晨。芳草踏來金界新。抱石老杉臨翠澗。出雲楼閣絶紅塵。白山千里不窮水。梅熟四時無盡春。三世勝因鍾一宿。吉祥山裡吉祥人。

一義天開古刹前。祥雲堆裡寶燈鮮。道根扶植三千里。祖意傳來七百年。塔影高連烟樹外。鐘聲遠落碧潭邊。豫懐今夜覊亭夢。猶拝如來繞法筵。

琳宮寶殿翠微間。報謝捧花入祖關。渉谷牧童多道骨。出林樵叟亦仙顔。玲瓏巌下珠爭砕。中雀門前雲自還。靈跡攀來何物着。身心脱落吉祥山。

 (中略)

 遊青岸寺恭題 法王垂跡 六湛堂

峰巒畳々繞禪龕。坐聴鐘聲伴翠嵐。可仰法王轉輪跡。三藏六度總湛々。

 遊清水寺

半生無爲歸佛門。白衣未染是非痕。遠來亦上大悲閣。一片福田分子孫。

補陀巖上白雲間。慈眼無邊垂九寰。竹杖攀緑千百里。靈場禮去亦名山。

 (中略)

 有妹子病没之訃音。自郷里到。寄一首以吊。

遠隔病床在古關。夢中幾對舊時顔。分襟豫識無期別。為爾禮來吉祥山。

 登青松寺。為亡妹拈香賦一首

一炷香消梵唄間。花飛流水奈難還。半生不借青松壽。幽鳥空啼萬年山。

 (後略)

 

題献香餘吟之後

 (中略)

丙午一月(明治39年)左佛 鏡華居士