永平寺六十世 臥雲童龍禅師

 

永平六十世 臥雲童龍禅師

 

(世称)
  上村童龍(むらかみ どうりゅう)


(道号・法諱)
  臥雲童龍(がうん どうりゅう)


(禅師号)
  大晃明覚禅師
  (だいこうみょうがくぜんじ)


(生誕)
  寬政2年(1790)2月8日


(示寂)
  明治3年(1870)11月3日


(世壽)
  81歳

 

(別号)

  螺睡翁 不昧 兀庵 万休庵

 永平臥雲禅師(東川寺蔵)
 永平臥雲禅師(東川寺蔵)

臥雲童龍禅師の略歴

 

寬政2年(1790)2月8日
薩摩国日置郡市来郷大里、弓削(ゆげ)家の8人目の子として誕生。幼名「八次郞」。 (異説あり)

その後、6歳で上村八左衛門清堅の養子となり「上村清次」と改名する。(異説あり)

(注意)

臥雲禅師の出生については、以前は寬政8年(1796)説を採っていたが、最近は寬政2年(1790)が有力である。

又、遷化示寂のことについても、総持寺と紛争中の為、臥雲禅師の喪を隠し1年後に発表したと云う説が有力です。 

文化元年(1804)14歳 (享和二年(1802)7歳、得度の説あり)
薩摩国松原山南林寺の一呑素戒について得度す。
次いで浪華、宇水に赴て研鑽す。更に江戸旃檀林の薩摩寮に掛錫すること十一年余に及ぶ。

 

(参考)

高祖五百五十回忌永平寺古図

下の図は文化三年(1806)となっているが、訂補建撕記が発行された歳と混同したものか?。

実際の高祖五百五十回遠忌は享和二年(1802)八月二十八日に厳修された。

 

尚、その下に「訂補建撕記」巻末掲載の永平寺境内図を示す。

 

  文化三年?高祖五百五十回忌永平寺古図?(東川寺所蔵)
  文化三年?高祖五百五十回忌永平寺古図?(東川寺所蔵)
 訂補建撕記圖會の永平寺境内図(東川寺所蔵)
 訂補建撕記圖會の永平寺境内図(東川寺所蔵)

 

文政9年(1826)36歳
相州久井郡功雲寺、泰船和尚の会下で立身。


次いで江戸大円寺二十五世の大円瑞峰より嗣法。


更に相州鎌倉永林寺二十二世として首先住職。又、大本山永平寺に瑞世し参内する。


天保4年(1833)12月4日 大本山永平寺大火災(永平寺57世載庵禹隣の代) 永平寺、因縁殿が火元となり法堂、妙高台、不老閣、光明蔵、接賓等の伽藍を焼失する。
(この時焼失した伽藍の復興は、60世臥雲童龍禅師の代以後まで続く。)

 

天保6年(1835)5月 46歳
薩摩藩の菩提寺、江戸伊皿子(いさらご)大円寺二十八世住職となる。在住八年。

 

天保13年(1842)12月5日 53歳
幕命にて関三刹の下野国大中寺、四十二世住職となる。在住六年。

 

曹洞宗下野大中寺山門・絵葉書 (東川寺所蔵)
曹洞宗下野大中寺山門・絵葉書 (東川寺所蔵)

関三刹

下野国の大中寺、下総の總寧寺、武蔵野の龍穏寺が関三刹。

この三ヶ寺より永平寺の住職が選任された。

 

嘉永元年(1848)5月28日 59歳
臥雲、越前永平寺六十世住職の台命を受ける。

同年9月29日 上洛、参内し大晃明覚禅師」の勅号を賜う。

 

嘉永3年(1850)5月8日 61歳
寺社奉行所より、訴状を提出していた「制飾の袈裟改め、古規準行」を許可される。
(三衣論争の始まり)

 

嘉永4年(1851)3月 62歳
臥雲禅師、彦根井伊家より天徳院殿の諷經として白銀十枚を賜う。


同年12月、越前大野、洞雲寺の薩州金鐘寺より永平寺への本寺替えを認め、臥雲禅師は伝法開山となる。

さらに臥雲禅師は洞雲寺二十六世、二十七世と法子弟を送り、荒廃していた洞雲寺の伽藍を復興させた。 

(尚、現在も臥雲禅師の法系が続き、洞雲寺を守塔している。)

 

 洞雲寺(福井県大野市)

 

  洞雲寺山号額(月舟宗胡書)(撮影・東川寺)
  洞雲寺山号額(月舟宗胡書)(撮影・東川寺)
  洞雲寺山門(撮影・東川寺)
  洞雲寺山門(撮影・東川寺)

 

嘉永5年(1852)1月 63歳
臥雲禅師、入山以来豪雪にて接賓、法堂、山門等の屋根大破を江戸長泉寺応龍へ通知する。
本山副寺、大辻是山、福井寺社役所へ大遠忌につき金一千両の借用を願う。

 

(大辻是山については頁末に略歴を記す。)

 

同年6月 備中円通寺覚巌心梁、六百回忌を記念して「永平高祖傘松道詠略解」乾坤二巻を撰す。

臥雲禅師、之に序を与える。

 

道詠序
高祖大師そのかみ星月夜かまくら最明寺道崇禪門等のもとめによりよみ給ひし これのうた若干首今も世に行なはれてあれと正法眼藏の開示なれは難解難入にして初心晩學の手にはたやすく得かたし しかあるにことし壬子(みずのえね)の秋大師百年六回りの遠忌にあたれせ給へるによりて 黃備の國玉島圓通寺覺巖主盟報恩のため 山すけのねもころに注解をくはへ通暁しやすきさまにものして 七十あまり五つの年老の坂いとはす超え来て これの序をもとむるのこと頻りなり されは參禪の高流道詠深妙の宗意を得て三昧王三昧を盡未来際受用せんことをいのりつゝ筆をとりてかくなん
 勅特賜大晃明覺禪師
  遠孫 臥雲 

 

嘉永5年(1852)8月
道元禅師真筆本の「普勧坐禅儀」一巻が古筆了伴より永平寺に寄進される。


(寄進状)
道元禅師真跡普勧坐禅儀一巻、年来私所持仕候所、此度御当山江寄進仕度奉存候、尤右品寄進仕候ニ付、外ニ願ケ間敷儀、毛頭無之候段、宜敷奉願上候  以上
  子七月 古筆了伴(判)
永平寺様
 御役僧衆中

「永平寺雑考」452~453頁より

 

同年8月15日、永平寺道元禅師六百回大遠忌 を啓建する。(28日まで二週間)

この折、大梵鐘を鋳造する。 

 

同年8月28日、永平寺道元禅師六百回大遠忌の正当法要を挙げる。

この法会に十万人余上山する。

 

下の写真は現在、永平寺法堂前にある一対の鉄水桶で、嘉永五年八月高祖六百大遠忌に奉納されたものです。

 

 永平寺法堂前の鉄水桶(撮影・東川寺)
 永平寺法堂前の鉄水桶(撮影・東川寺)
 嘉永五年奉納鉄水桶・永平寺法堂前(撮影・東川寺)
 嘉永五年奉納鉄水桶・永平寺法堂前(撮影・東川寺)

 

同年9月2日より七日間、授戒会を啓建する。 


同年9月8日、薩摩大守、供養料として銀百枚、代金六十八両一歩と銀二百一文を寄進する。

 

永平寺 大梵鐘(高さ九尺、口径五尺)鋳造
    鐘楼堂、不老閣、経蔵、中雀門建立
    越前寺社奉行より一千両を借用

 

  大本山永平寺・不老閣・絵葉書 (東川寺所蔵)
  大本山永平寺・不老閣・絵葉書 (東川寺所蔵)
  大本山永平寺・経蔵 (輪蔵)・絵葉書 (東川寺所蔵)
  大本山永平寺・経蔵 (輪蔵)・絵葉書 (東川寺所蔵)
  大本山永平寺・中雀門・絵葉書 (東川寺所蔵)
  大本山永平寺・中雀門・絵葉書 (東川寺所蔵)
 (木版刷り) 越前州吉田郡志比荘吉祥山永平禪寺全圖(嘉永年間版?)東川寺所蔵
 (木版刷り) 越前州吉田郡志比荘吉祥山永平禪寺全圖(嘉永年間版?)東川寺所蔵

 

嘉永7年(安政元年)(1854)2月24日 65歳
高祖大師御生家・久我家の上奏と、井伊直弼候の助力により、孝明天皇より道元禅師へ「佛性傳東國師ぶっしょうでんとうこくし」の謚号が下賜される

 

  佛性傳東國師(永平寺蔵)
  佛性傳東國師(永平寺蔵)

勅す、吉祥山永平寺開基道元禪師は、本、華冑より出でて便ち桑門に入る。重瞳、室を照して夙に人天の師を表し、一葦、海に航して、遥かに佛祖の道を求む。禪慧圓淨にして彼の震旦の雲を辞し、身心解脱して我が日出の邦に帰る。有爲の法を観じて、萬物を普濟し、無礙の慈を以て、衆生を覺悟す。興聖を城南に創め、吉祥を北越に闢く。玄化偏く覆いて、芳聲遠く播き、九重、想を延きて、萬里、誠に契う。相門は貴を降り、武夫は勇を銷す。盛んなる哉、妙機、大いなる哉、道徳。爾来、瓜◆(瓜失てつ)綿綿として永平六百の星霜を閲みし、馨香芬芬として楓宸、一脈の天風に薫す。緬に厥の人を懐う。豈に徽號無からんや。宜しく佛性傳東國師と諡すべし。

 嘉永七年二月二十四日 

 

 執奏勧修寺前左少辨副翰

越嶺吉祥山永平寺開基道元禪師は、道を幼冲に踏み、法を天童に極む、豊荘を謝め、猿鶴に伴い、竟に邈世に祖たり、綿々たる道場、美なるかな裔戚、潔なるかな道心、其の徳聲遠く昆代に響き、高く天朝に達す、聖旨を降して、爰に徽號を賜い、佛性傳東國師と諡す、是れ偏に祖師の流徳、當任至誠の致す所なり、加之(しかのみならず)上洛参内の令者は寔に以て桑門の紹隆永林の光輝と為るか、因て微意を染め祝毛の状、件の如し。
 嘉永七年四月三日  前左少辨(華押)
永平寺明覺禪師

 

永平寺御開山佛性傳東國師(東川寺所蔵)
永平寺御開山佛性傳東國師(東川寺所蔵)


尚、臥雲禅師、井伊直弼候(近江、第15代・彦根藩主)に本山版「正法眼藏」二十冊を贈り、国師号宣下の助力に酬いる。

 

  (近江) 彦根城天主閣・絵葉書 (東川寺所蔵)
  (近江) 彦根城天主閣・絵葉書 (東川寺所蔵)

 

安政6年(1859)9月12日 70歳
前薩摩大守島津斉興候、逝去する。臥雲禅師、島津斉興候(金剛定院殿明覚亮忍大居士)の供養を七日間修す。

 

万延元年(1860)3月3日 71歳
大老井伊直弼候、桜田門外の変で倒れる。

 

  皇居・桜田門・絵葉書 (東川寺所蔵)
  皇居・桜田門・絵葉書 (東川寺所蔵)
  櫻田血染の雪(東川寺蔵)
  櫻田血染の雪(東川寺蔵)
井伊直弼・画像(ブロマイド)(東川寺所蔵)
井伊直弼・画像(ブロマイド)(東川寺所蔵)
井伊直弼・文面(ブロマイド)(東川寺所蔵)
井伊直弼・文面(ブロマイド)(東川寺所蔵)
 井伊大老茶道談・上下巻・東川寺蔵書
 井伊大老茶道談・上下巻・東川寺蔵書

 

臥雲禅師は井伊直弼大老(宗観院殿正四位中郎柳暁覺翁大居士)の供養を修す。

 

宗観院殿 井伊 掃部頭(かもんのかみ)追悼 「臥雲禅師語録」より

(逮夜香語)
君若於吾二十年。 君吾れより若きこと二十年。
何圖今日侍茲莚。 何ぞ図らん今日この莚に侍す。
悲風誘涙黄梅雨。 悲風涙を誘う黄梅の雨。
暁影失光月一天。 暁影光りを失う月一天。

(當日拈香)
抱断絃孤無訴處。 断絃を抱いて孤り訴処無し。
他時憑孰奏陽春。 他時孰れに憑ってか陽春を奏せん。
為人為法再難得。 人の為に法の為に再び得ること難し。
嗟若人乎嗟若人。 嗟若人や嗟若人。
恭惟大居士。 恭しく惟んみれば大居士。
大履柱石。武衞角麟。    大履の柱石。武衞の角麟。
補翼萬乘兮代垂帳裏之耳目。 萬乘を補翼して垂帳裏の耳目に代わる。
匂當有政兮拳柳營中之重權。 有政を匂當し、柳營中の重權を拳す。
温乎仁心容物如綿輭。 温乎の仁心物を容れ、綿の如く輭し。
凛乎義骨當機似鐵堅。 凛乎として義骨、機に當って鐵よりも堅し。
爲公爲國再難得。 公の爲に國の爲に再び得難し。
嗟若人乎嗟若人。 嗟若人や嗟若人。
如上。爲大居士。伸追慕之意。 如上は大居士の爲に追慕の意を伸ぶ。
伏願。慈愍願力無人棄。 伏して願わくは慈愍の願力、人の棄つる無し。
不隔生生肫再身。 生生を隔てず再身を肫せん。
咦。
不待再生不隔生死。 再生待たず生死を隔てず。
直下相見奈通言詮。 直下の相見、言詮に通ずることを奈んせん。
(拂一拂曰)
只留瓊貎難忘處。 只だ瓊貎を留めて忘れ難き處。
瞻仰虚空忽掛眞。 瞻仰す虚空忽ち眞を掛くることを。

 

 

4月27日 臥雲禅師、永平寺の窮乏を関三刹に訴え、末派寺院へ今御征忌より応分の香資を献備すべき旨、達す。

 

文久元年(1861)酉12月 72歳
舎利殿建立につき万人講日供牌供養の寄付を募る。

 

永平寺舎利殿図絵・東川寺所蔵
永平寺舎利殿図絵・東川寺所蔵
舎利殿舎利龕万人講位牌図絵・東川寺所蔵
舎利殿舎利龕万人講位牌図絵・東川寺所蔵
永平寺万人講日供牌之図絵・東川寺所蔵
永平寺万人講日供牌之図絵・東川寺所蔵
  大本山永平寺・舎利殿・絵葉書 (東川寺所蔵)
  大本山永平寺・舎利殿・絵葉書 (東川寺所蔵)

 

文久3年(1863)74歳
(4月15日 泰成和尚への瑞世許状。)

 

  文久3年4月15日  臥雲時代の瑞世許状 (東川寺蔵)
  文久3年4月15日  臥雲時代の瑞世許状 (東川寺蔵)

 

慶応2年(1866)4月27日 77歳
永平寺本山窮乏を監院名にて関三刹や可睡斎に訴える。

 

慶応4年(1868)旧9月8日 1月1日に遡って明治元年(1868)とする改元の詔書が出される。

 

明治元年(1868)3月6日 79歳
地蔵院龍山をして太政官に永平寺「一派総本山」の願書を提出する。

 

(総持寺との争いの発端)

 

同年6月6日 太政官、永平寺へ「総本寺に於いて学寮を創立致し宗門の制度、碩徳の公議を遂げ、宗規一新、諸民を教化し、国恩に報ずべく」勅裁される。

 

同年10月2日より3日間、京都天寧寺にて宗門の碩徳会議が開かれる。

 

明治2年(1869)9月23日 80歳
この日より一週間、越前大野、洞雲寺にて授戒会を修す。

 

慶応4年3月13日に発令した太政官布告「神佛分離令(しんぶつぶんりれい)」と、明治3年1月3日に出された詔書「大教宣布」により、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こり、仏教弾圧がなされた。特に禅師の故郷薩摩藩では藩主菩提寺福昌寺をはじめ、寺院が殆ど無くなるほど破壊された。

 

明治3年(1870)11月3日
臥雲禅師、大円寺にて遷化する。世壽81歳。


但し、能登総持寺との公事の故、遷化の公表を秘す。 (異説あり)

 

(明治4年(1871)7月30日 臥雲禅師、隠退願いを福井藩庁へ提出。)

(明治4年(1871)11月3日 臥雲禅師、示寂公表。) 


明治4年(1871)12月26日 
天璋院(13代徳川家定候御内室)より臥雲禅師の御牌前へ「菓子料金三百疋、香料金百疋」を賜う。

 

  天璋院篤姫・明治英名百首・鮮齋永濯画(東川寺蔵)
  天璋院篤姫・明治英名百首・鮮齋永濯画(東川寺蔵)

 

永平寺には臥雲童龍禅師揮毫の扁額が多く残されています、

中雀門の「梅熟」、瑞展玄関の「瑞雲閣」、経蔵の「標月」、鎭守堂の「無私」等があります。

 

「梅熟」・臥雲禅師揮毫額 (永平寺中雀門)(東川寺撮影)
「梅熟」・臥雲禅師揮毫額 (永平寺中雀門)(東川寺撮影)
「無私」・臥雲禅師揮毫額 (永平寺鎭守堂)(東川寺撮影)
「無私」・臥雲禅師揮毫額 (永平寺鎭守堂)(東川寺撮影)
「瑞雲閣」臥雲禅師(永平寺瑞雲閣)(東川寺撮影)
「瑞雲閣」臥雲禅師(永平寺瑞雲閣)(東川寺撮影)

臥雲童龍禅師の逸話

「臥雲禅師語録」より

禅師と礼儀

 

或る時、越前鯖江藩主、間部下総守が鷹狩りの折、永平寺に立ち寄って、臥雲禅師に拝謁を申し込まれた。
役寮は下総守を菩提座にお通ししてから、禅師にその旨をお伝えすると、禅師は面会を承諾し威儀を整えて菩提座に行かれた。
すると下総守は野袴で座しており、禅師は之を一見せられ、一言の挨拶もなしに憤然として不老閣に帰られた。
その役寮は理由が分からず、恐る恐る禅師にその訳を尋ねたところ、禅師は「下総守は礼儀を知らない野人である。本山に来て初対面しようとする者が野袴とは何事か、かかる無礼者は速やかに追い返しなさい。」と申された。
禅師の思いもよらぬお怒りに役寮も仕方なく「本日は都合で面謁は出来かねるので、重ねて上山してもらいたい。」と述べて、下総守を帰された。
その後、間部下総守は、野袴の為に拝謁出来なかった事を遥かに伝え聞いて、過ちを反省し、再び威儀を整えて上山し、先般の無礼を謝すと、禅師も快くご対面され、あたかも旧知の如く談笑された。
その後、双方ともに度々往来し、胸襟を開いて語り合わられた。
又ある時、下総守が「私がこのように度々上山して面謁するというのは大きな因縁であり、拙いけれど私が書いた額を御山のどこか片隅にでも掲げて、之を後世に遺したい。」と云われ辞令は懇ろであったが、禅師はあまり意に介さずに過ごされた。
その後、下総守の懇望が再三に及ぶと、禅師は厳然として言われた「永平寺は勅願の道場である。此の間に俗儒の掲額を許していない。」と。
この一喝に流石の下総守も自らの不徳を大いに恥じて謝して帰城したということである。
(渡辺源蔵氏談)

 

臥雲禅師の道中

 

臥雲禅師の道中の御様は実に荘厳であり、先ず金紋を真先きとし、朱網代に銀の金物を打った三十六貫余の輿(こし)に乗り、棒中十人、棒後八人、肩替り十五人、輿側の武士十人余を従える。
外に役僧十人が遠く離れて随侍し、料理番三人が膳道具を荷なって隨行する事を例とし、道中の隨行員合計五十有余人、その費用もまた莫大なものであった。(宮本彌左右衛門、談)


京都への御出張の時はいつも「禁裡御用」の旆(はた)を立て、途中、他の大名に逢おうとも、更に一歩も譲らず進んで通られた。
或る年の暮、凛烈肌をつく寒さをも厭わず、本揃の儘で川中を渉られた時は流石の供人も大閉口するほどの体であった。

又、途中、諸大名に逢って通過の時、面倒が起こった際には禅師御自身がその対応に当たられた事もあった。


かって、明治元年二月十四日の事と記憶しているが、道中大津の水口の宿の差しかかった処、ある茶屋の前に槍二本を立て掛けて、武士二人が茶を飲んでいた。
ところが、露払いが来るのにも拘わらず、悠々としている姿が禅師の眼に入ると、早速、源蔵に命じて二人を呼ばせた。
源蔵は意を得て、突然片足で右の槍を蹴倒し、彼等二人に何故土下坐をしないのかと詰問した。
彼等は会津藩の者で、我が主人の外に土下坐の必要はないとして、一向に聞入れない樣子であったので、源蔵は、日頃「死ね、死ね」と仰せられるのは此の時と思案して、やにはに一人の胸倉を取ってねじ伏せ、更に又一人の胸倉を取ろうとした。
ついに彼等両人は土下坐して詫びたので之を許した。
此の時、禅師は非常に喜ばれ「源蔵出来したり」と、大いに賞揚に預かり、源蔵は面目を施したと云う事である。(渡辺源蔵、談)


後、大内青巒居士が来馬琢道師に語った事がある。(第一義「街頭仏教」より)
「臥雲禅師が嘗て駿州三島の宿に泊まられた時に、駅の入口に係の者が『明覚禅師御宿』と云う立て札を出された。
勿論、永平寺とも大本山とも書かなかった。
そのことで諸侯以下三島の宿に入れなかったと云う。
その勅賜号に対する自重の厚さ、また世間がこれを畏れたるの甚だしきを知る一資料だ」と。

 

臥雲禅師と島津公


臥雲禅師の御生家が薩州の鄕士である為、島津家の帰依もあり、禅師の江戸御出府の際は、必ず島津家を訪ねる事を常とし、島津家も亦厚く待遇され、私が禅師に従って出府し、島津家に行き藩公より紙鳶(凧)を貰って飛ばした事は、小僧時代の唯一の楽しみであった。(大洞慧全師談)

 

臥雲禅師と維新の元勲


臥雲禅師は少壮の時から西郷隆盛、大久保利通等の維新志士と親交があり、しかも禅師は彼等の先輩であり常に往復来談し、永平寺住山の後も、上洛の際は京都の天寧寺にて交際された。西郷隆盛などは永平寺に迄も来ており、禅師は常に彼を「吉之助」と呼ばれた。又、禅師は三口の太刀を所持されていたが、その内の一口を大久保市蔵(利通)へ与えられた。(蓑浦雪湖師談)

 

この「大久保市蔵(利通)への太刀」は上村家保存書翰の付記三枚の中に「禅師、秘蔵の名剱一振は遺言に依り大久保市蔵(利通の事)氏へ贈れり、今猶同家にあるべしと存じ候。」とあることから臥雲禅師の遺贈によるもの。
「臥雲禅師語録・下巻」百三頁より

 

  西郷隆盛と大久保利通(ブロマイド)(東川寺所蔵)
  西郷隆盛と大久保利通(ブロマイド)(東川寺所蔵)

西郷隆盛伝-終わりなき命


「西郷隆盛伝-終わりなき命」南日本新聞社編の41頁には次のように書かれている。


『(西郷は)江戸滞在中にはよく芝の大円寺に通った。ここの住職は大辻是山といい、薩摩の出身である。曹洞宗大本山越前永平寺の第六十世である童竜臥雲禅師(薩摩東市来の出身)の高弟で、のちに大本山に上って大晃明覚禅師と称された。斉彬の信任が厚く「有事の際は臥雲、是山を使うべし」と語っていたという。』

 

しかし『大辻是山が、のちに大本山に上って大晃明覚禅師と称された。』とあるのは臥雲童龍禅師と大辻是山とを混同して書かれたものであり、全くの間違いである。

 

参考資料

 西郷隆盛の写真の裏・説明文(ブロマイド)(東川寺所蔵)
 西郷隆盛の写真の裏・説明文(ブロマイド)(東川寺所蔵)
  大久保利通の写真の裏・説明文(ブロマイド)(東川寺所蔵)  
  大久保利通の写真の裏・説明文(ブロマイド)(東川寺所蔵)  

 

【大辻是山】(東京府芝區伊皿子町大圓寺住職)

 

大辻是山は大本山永平寺の大忠臣にして而して宗門の元老たり。
永平寺に対して歴史的人物たることは猶在田彦龍、安達達淳諸師の大本山總持寺に対して歴史的人物たるが如し。
就て永平寺の近世史を問うべきもの宗門唯一個の師を餘すあるのみ、師たるもの安んぞ自重せざるべけんや。
師は永平寺故貫首臥雲禪師の高弟にして大政維新の前後に在りて久しく永平寺の役者を勤めたる人なり。
故に両本山の歴史に明暢ねることは固より論ずるを俟たず。
大政維新の時に際し臥雲禪師の主として永平寺總本山論を唱うるや、師は實に参謀として其の帷幄に在りたり、是を以て大本山總持寺を観ること殆んど倶不戴天の●敵如し。
之に加うるに一徹なる薩摩気質を以てし、其の一念今日に至るも尚牢として抜くべからざる所以。
若し夫れ師が維新前後に於ける事業を挙げ来らば一夕の談能く盡くす所にあらざれば、茲に之を省くと雖も、要するに師が其の際に於て永平寺に盡したる大勲偉蹟は少しく當時の事情を知るものは何人も能く記憶する所なり。
明治二十五年の夏、師が擧げられて曹洞宗事務取扱の任に就くや在田彦龍師も亦擧げられて曹洞宗事務取扱の任に就けり。
彼れは總持寺の大忠臣にして歴史的関係を總持寺に有し、此れは永平寺の大忠臣にして亦歴史的関係を永平寺に有し、且つ三十年來の宿仇解け去りたるに似て、而して未だ毫も解け去らざれば両師の閲歴を知るものは孰れも其の衝突の到底免るべからざることを期したりしに、果せる哉、両師の意見氷炭相容れず、遂に爲めに内務大臣をして其の職を解くの已むべからざるに至らしめたるは両師閲歴の然らしむる處亦是非もなき次第と謂つべし。然りと雖も師は之に依りて益々硬骨の誉を博す。
則ち師や亦實に一種の奇丈夫なる哉。


洞上高僧月旦-山岸安次郎 (頑石点頭居士) 著(明治26年12月9日発行)より

 

[略歴]
文政元年(1818)11月1日 薩摩にて誕生す。
文政9年(1826)九歳で薩摩日新寺曹受に就いて得度す。
天保3年(1832)薩摩福昌寺琨山の会下に入衆
天保7年(1836)3月 西海、南海諸山の知識を偏参す。
天保9年(1838)江戸旃檀林に学ぶと共に漢学、天台学を修す。
天保14年(1843)江戸吉祥寺竺邦の下で立身。
弘化元年(1844)10月5日 下野大中寺臥雲童龍より嗣法。
弘化4年(1847)永平寺に安居。
嘉永元年(1848)永平寺の副寺となる。
嘉永6年(1853)永平寺監院となる。
安政元年(1854)3月15日 大円寺三十世住職となる。
明治8年(1875)東京選挙区より宗会議員に選出される。
明治25年(1892)永平寺側代表として管長事務取扱に任命される。
明治26年(1893)6月2日 永平寺顧問に就任。
明治33年(1900)4月9日 83歳にて遷化す。

 

越前丸岡台雲寺住職、相州川島随流寺住職、伊皿子大円寺住職。
大辻是山著「両山は分離すべからず」の著書有り。

 

参考資料

「臥雲禅師語録 上巻・下巻」 臥雲禅師語録刊行会編 大本山永平寺発行

「雲水街道をわたる 越前永平寺六十世住職・臥雲童龍の生涯」 尾辻紀子著

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