永平寺六十一世 久我環溪禅師

 

永平六十一世 久我環溪禅師

 

 

(世称)
  久我密雲(こが みつうん) 

  久我環溪(こが かんけい) 

  (細谷環渓)


(道号・法諱)
  環溪密雲(かんけい みつうん)


(禅師号)
  絶學天真禅師
  (ぜつがくてんしんぜんじ)


(生誕)
  文化14年(1817年)2月8日


(示寂)
  明治17年(1884年)12月7日


(世壽)
  68歳


(別号)
  雪主。雪主翁。幻斉。

  成名毎在窮苦日 (東川寺所蔵)
  成名毎在窮苦日 (東川寺所蔵)

環溪禪師の書

「成名毎在窮苦日」は中国の故事のよるものか?。出典は不明。

「成名毎在窮苦日 敗事多因得意時」(破事多在得意時)。

 

久我環溪禅師の略歴

 

文化14年(1817年)2月8日 越後國頸城郡高田村の高田藩士族、細谷勘四郎と勧子の次男として生まれ、幼名を「與吉(与吉)」という。

 

文政4年(1821年) 5歳 出家。 庄屋・歌川家の養子となり、楞伽和尚に就いて清凉寺に行き、のち月峰庵に止住する。

 

文政5年(1822年)5月18日 6歳 実父、細谷勘四郎亡くなる。

 

文政6年(1823年)4月6日 7歳 実母、細谷勧子亡くなる。

 

文政6年(1823年)7月2日 7歳 楞伽和尚が遷化されたことにより、清涼寺に移り、寂室堅光(じゃくしつけんこう)に師事する。

 

「近古禪林叢談」より

法諱は密雲、環渓と號す。
環渓、天資卓犖にして、幼時より群童と同じからず。
ある年、清凉寺堅光の徒、梵雅たまたまその父歌川微精を名立町に省し、環渓の群に異なるものあるを見て、懇ろにその父に請い、相携えて清凉に帰り、堅光を禮して、薙染せしめたりき、時に環渓の年甫めて十二なりきという。 

 

文政11年(1828年)2月15日 12歳 彦根、天寧寺に転住した寂室堅光につき剃髮、得度する。僧名を「象峰」と命名される。

 

天保元年(1830年) 14歳 摂津国神宮寺松濤大巖和尚に転師して儒教を修学する。

 

天保3年(1832年)春 16歳 肥後廣福寺に二年摂心打坐、肥後報恩寺に二年儒道を研学する。

 

天保7年(1836年)春 20歳 長崎晧臺寺に祖芳和尚を訪ね弁道修学、二年。

 

天保9年(1838年)秋 22歳 神宮寺に帰省す。

 

 森大狂著「近世禪林言行録」より

「環渓、興聖寺回天の爐鞴(ろはい)太(はなは)だ盛んなるを聞き、直ちに行きて之に参ず。
回天その大器なるを知り、怒罵瞋拳(どばしんけん)、常に悪辣の手段をもって之に接す。環渓少しも屈することなく、兀兀参究し、寝食ともに廃す。
この間、また妙心寺蘇山に謁して、臨済の仏法を叩きぬ。
かくの如きもの十余年、遂に回天の法を得て、興聖の席を匡(ただ)し、常に百余の雲衲を接し、法席の盛んなる、一時に冠たり。」

  

天保12年(1841年) 25歳 城州(宇治)興聖寺二十八世回天慧杲(かいてんえこう)の冬制中首座にて立身する。この時より「環溪密雲」と改名する。

 

天保14年(1843年) 27歳 回天慧杲の室に入り法を嗣ぐ。

 

嘉永3年(1850年)3月15日 34歳 河内國茨田郡岸和田村、長福寺に首先住職となる。

  

嘉永4年(1851年) 35歳 長福寺において初会結制を修行する。

 

安政元年(1854年)2月 38歳 和泉國泉北郡信太村、蔭凉寺に転住する。

 

(尚、この年静岡の清源院の初会結制で西堂、即ち助化師となり、その後、各寺より助化師の拝請を受け、毎年のように助化師を重ねてゆく。) 

 

蔭凉(寺)退鼓偶成
住名十有一年間。 住名、十有一年間。
未暇旬餘坐我山。 未だ旬餘も暇あらず我が山に坐するに。
西泊東飄平日事。 西泊東飄、平日の事。
臨行脚下自閑閑。   行に臨みて脚下、自ら閑閑。

 

元治元年(1864年)6月 48歳 武蔵國荏原郡世田谷村、豪徳寺に転住する。

 

慶応3年(1867年)7月 51歳 (山城國)城州(宇治)興聖寺三十世に転住する。

 

  宇治 興聖寺 本堂 絵葉書(東川寺所蔵)
  宇治 興聖寺 本堂 絵葉書(東川寺所蔵)

 

慶応4年(1868)旧9月8日 1月1日に遡って明治元年(1868)とする改元の詔書が出される。

 

明治2年(1869年)秋 53歳 大本山永平寺の西堂となる。

 

明治4年(1871年)4月 55歳
戸籍法公布により、僧侶も苗字を設けることとなり、環渓禅師は「細谷」の姓を名乗る。

 

明治4年(1871年)10月9日 55歳 大本山永平寺六十世臥雲童龍禅師遷化のあと、太政官より大本山永平寺六十一世住職を任命される。

それまでの関三刹からの昇住の慣例を打破した永平寺住職任命であった。

 

  環溪密雲禅師(東川寺所蔵)
  環溪密雲禅師(東川寺所蔵)

明治4年(1871年)10月22日 55歳

晋山の大礼を挙げる。

 

明治4年(1871年)12月26日 
「可禅師号紫衣参内] の綸旨を受ける。

  

同年、3月24日 永平寺、総持寺、協和盟約成る。

 

この春、永平寺除地の儀、境内を除いて上地(官地)となる。

 

(同年、4月25日 政府「僧侶肉食妻帶蓄髪等可為勝手」の布告を出す。) 

 

同年、6月13日 教部省より大教正に補任される。

 

この夏、東京に永平寺出張所を設置する。

 

秋、随徒六十名とともに武蔵、伊豆を巡教する。

 

明治5年(1872年)9月2日 56歳
教部省より七宗管長、及び禅三派(曹洞・臨済・黄檗)の管長に任ぜられる。

 

同年、10月30日 両本山、碩徳会議を開き、衣体、結制、罷参斎、打給、戒会等の諸件を決定し、これを全国録司に通達する。

 

明治6年(1873)4月 57歳 教部省より七宗管長および禅宗三派の管長に命ぜられる。

 

同年4月「三条辨解」を著す。


「三条辨解」

明治五年四月、新政府は「三條の教則」を出し、およそ宗教に関する者、神主(神官)、僧侶等はこの国家神道の教えにより国民を導くようにさせ、教導職に就かせた。

「三條教則」は、第一條「敬神愛國ノ旨ヲ体スヘキ事」、第二條「天理人道ヲ明ニスヘキ事」、第三條「皇上ヲ奉藏シ朝旨を遵守セシムヘキ事」と云うものであったが、あまりにも漠然としているため、これを詳しく解説したものが「三条辨解」である。

 

 三條辨解・表紙(東川寺蔵書)
 三條辨解・表紙(東川寺蔵書)
 三條辨解・表紙裏・内容
 三條辨解・表紙裏・内容

「三條辨解」

 明治六年四月 禪曹洞本山藏


三條辨解

敬神愛國ノ旨ヲ禮スヘキ事

皇國ハ神ノ御國ニシテ、神代モ今モ隔テナク神祇ヲ崇敬スルヲ以テ不抜ノ要道トス。竊ニ按スルニ、天祖ハ躬ヲ神衣ヲ織ラセラレ、大祖ハ靈峙(レイシ)ヲ鳥見(トリミ)ノ山中ニ立テ、皇祖天神ヲ祀リ玉フ。敬神ノ大義早ク神代ニ顯ハル。是以列聖ノ踐祚ニハ神祇ニ大嘗シ、中臣(ナカトミ)天神ノ壽辭(ヨコト)ヲ《以神代之故事爲万壽寶詞》奏シ、齋部(イミベ)三種ノ神器ヲ奏スルコト、是ミナ孝敬ヲ祭祀ノ中ニ寓シ、至教ヲ器象ノ上ニ示シ玉フ處ナリ。器象トハ 天祖ノ邇々杵尊(ニニギノミコト)ニ賜ヒシ八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)八咫鏡(ヤタノカヽミ)艸薙劍(クサナギノツルギ)三(ミ)クサノ寶物ナリ。・・・(後略)


同年、8月 宮城県下へ巡教する。

 

(明治6年(1873年)9月 西有穆山、北海道を巡錫し、次いで札幌中央寺を開く。)

 

明治7年(1874年)3月1日 曹洞宗名称呼を期として、両本山東京主張所を曹洞宗務局と改称する。

同年、3月2日 全国録所の称を廃して、曹洞宗務支局と称す。

同年、5月 西三條季知公とともに長崎を巡教する。

 

明治8年(1875年)4月1日 59歳 曹洞宗管長に就任する。又、永平寺に金一千円を寄付し、法堂の瓦葺を行う。

 

明治8年(1875年)4月 59歳
能仁柏巖著「曹洞宗問題十説」が出版され、細谷環渓禅師その巻頭題を寄せる。 

 

  能仁柏巖著「曹洞宗問題十説」  (東川寺蔵書)
  能仁柏巖著「曹洞宗問題十説」  (東川寺蔵書)
  「曹洞宗問題十説」 細谷環渓禅師 巻頭題 (東川寺蔵)
  「曹洞宗問題十説」 細谷環渓禅師 巻頭題 (東川寺蔵)

 

 

明治8年(1875年)6月18日 59歳 久我建通の猶子(ゆうし)となり久我家に入籍、細谷の姓を改め、「久我」の姓を称し、久我環溪と名乗る。

 

 

  (参考) 「寄國祝」久我建通 (東川寺蔵)
  (参考) 「寄國祝」久我建通 (東川寺蔵)

 

明治8年(1875年)7月24日 59歳
「正法眼蔵弁注」出版願を教部大輔宍戸璣宛てに提出し、許可される。

 

明治8年(1875年)8月23日 59歳

「孝論」を出版し、その序を記す。

 

「明教大師孝論」

明治八年七月三十日 許可

出版願人 曹洞宗本山永平寺住職 大教正 久我環溪

 

 孝論 全 (東川寺蔵書)
 孝論 全 (東川寺蔵書)
 孝論・表裏扉
 孝論・表裏扉
 孝論・序・久我環溪
 孝論・序・久我環溪

 

明治9年(1876年) 60歳」 4月、東京を出発し、5月若州、7月越前、9月加賀、10月越中、11月越後、12月信州の各地を巡教する。

 

同年、10月26日 「曹洞宗教會條例」を出す。

 

明治9年(1876年)冬 60歳 絶學天真禅師」を勅特賜される。

 

明治10年(1877)61歳 3月伊勢、伊賀、4月志摩を巡教し、5月帰京する。

 

明治11年(1879)62歳 3月茨城、4月埼玉、5月山形に巡教し、6月帰京し、7月美濃に巡教する。

 

明治11年(1879)8月16日 永平寺、僧堂を開單し、雲衲五十名の掛塔を許す。

 

明治11年(1878)9月22日 62歳

永平寺にて、永平二祖六百回大遠忌を奉修し、次いで授戒会を修す。

 

同年、10月 岩倉具視、永平寺に参詣する。

同年、11月 大和、伊賀、伊勢を巡教する。

 

明治12年(1879年) 63歳 伊勢の四日市で越年。続いて尾張を巡教する。4月奥羽を巡教する。

 

明治12年(1879年)己卯春

曹洞宗大教院執事・権中教正・辻顕高纂述の「曹洞教會・説教大意併指南」に總持寺奕堂禅師と共に巻頭題を寄せる。

尚、下写真の書では、第一篇大意は明治12年3月13日出版御届、第二篇は明治12年11月19日出版御届、第三篇は明治13年12月3日出版御届で三篇合本、曹洞宗大教院藏版となっている。

 

曹洞教會説教大意併指南(東川寺蔵書)
曹洞教會説教大意併指南(東川寺蔵書)
久我環溪禅師巻頭書「説教大意併指南」(東川寺蔵書)
久我環溪禅師巻頭書「説教大意併指南」(東川寺蔵書)
  焼失前の開山堂(承陽殿)・拝殿・孤雲閣
  焼失前の開山堂(承陽殿)・拝殿・孤雲閣

 

明治12年5月3日(1879年) 63歳 

陸前を巡教中、大本山永平寺の承陽殿、孤雲閣焼失の電報を受け、6月、急遽大本山永平寺に帰山する。

 

明治12年(1879)5月15日

滝谷琢宗「総持開山太祖略伝」を著し曹洞宗務局版を鴻盟社と明教社より発刊される。

環渓密雲禅師、その巻頭題を寄せる。

 

「総持開山太祖略伝」・環溪密雲禪師巻頭題① (東川寺蔵書)
「総持開山太祖略伝」・環溪密雲禪師巻頭題① (東川寺蔵書)
「総持開山太祖略伝」・環溪密雲禪師巻頭題②
「総持開山太祖略伝」・環溪密雲禪師巻頭題②

 

同年、7月1日 承陽殿、孤雲閣の再営を全国末派寺院に論達する。

 

明治12年8月(1879年)

白鳥鼎三(愛知縣)「洞上二世 光明蔵三昧」(永平寺僧堂藏版)を出版し、環溪密雲禅師、その序を寄せる。 

 

洞上二世・光明藏三昧(東川寺蔵書)
洞上二世・光明藏三昧(東川寺蔵書)
  洞上二世 光明蔵三昧-環渓禅師序1 (東川寺蔵)
  洞上二世 光明蔵三昧-環渓禅師序1 (東川寺蔵)
  洞上二世 光明蔵三昧-環渓禅師序2
  洞上二世 光明蔵三昧-環渓禅師序2
  洞上二世 光明蔵三昧-環渓禅師序3
  洞上二世 光明蔵三昧-環渓禅師序3

 

同年、11月5日 総持寺独住一世旃崖奕堂の本葬乗炬師を務める。

 

明治12年11月22日(1879年) 63歳 宮中に参内し、道元禅師(佛性傳東國師)への「承陽大師」諡号(しごう)を拝受する。

 

 諡號、承陽大師 (永平寺所蔵)
 諡號、承陽大師 (永平寺所蔵)
 諡號、承陽大師、副達 (永平寺所蔵)
 諡號、承陽大師、副達 (永平寺所蔵)

 

明治13年(1880)64歳 2月愛知県を巡教し、3、4、5、6月、備前、7、8、9、10月、肥後、11月薩摩、豊前、豊後を巡教する。

 

明治13年(1880)3月2日 64歳
「随喜稱名成佛決義三昧儀疏」(栖川興厳・注解人狩野逸郎)を森江佐七が発行し、題扇の書を掲載する。

 

随喜稱名成佛決義三昧儀疏・環渓禅師題扇
随喜稱名成佛決義三昧儀疏・環渓禅師題扇

 

尚、福昌寺最興資金として七百余円を出資し、永平寺開祖、三代尊の石塔建立資金として三百余円、紅谷庵へ隣地屋敷購入資金として三百余円を寄付する。


同年、12月 備中、備後および長州を巡教し、下関、功山寺で越年する。

越年の偈
簑笠飄々既古稀。
西州踏尽暮年時。
豈図今夜金山頂。
守歳道袍皆旧知。

 

明治14年(1881年)65歳 
1月4日、高杉晋作の妾「おうの」を尼僧として出家得度させ、僧名「雪庵梅處」を授ける。
1月、帰京。2月より8月まで信濃、奥羽を巡教する。

 

明治14年(1881年)1月

「標註・参同契寶鏡三昧・不能語」(古田梵仙編輯)が刻成され、その書に讚題を寄せる。

 

 「標註・参同契寶鏡三昧・不能語」(古田梵仙編輯)(東川寺蔵)
 「標註・参同契寶鏡三昧・不能語」(古田梵仙編輯)(東川寺蔵)
 「標註・参同契寶鏡三昧・不能語」・大教正永平環渓題
 「標註・参同契寶鏡三昧・不能語」・大教正永平環渓題


明治14年(1881年)9月 65歳 

大本山永平寺承陽殿・承陽門・孤雲閣等を再建し遷座式(せんざしき)及び諡号慶賛会を挙行。その折、孤雲閣に「追慕」を揮毫し額を掲げる。


  再建新築された承陽殿・絵葉書(東川寺所蔵)
  再建新築された承陽殿・絵葉書(東川寺所蔵)
  承陽殿・従一位岩倉具視(永平寺所蔵)
  承陽殿・従一位岩倉具視(永平寺所蔵)

承陽殿御遷座式の折は拝殿正面より内陳に登る正中に右大臣従一位岩倉具視の揮毫なる「承陽殿」の額が掲げられていた。

今はこの額は掲げられていない。


現在は久我通久揮毫の「承陽殿」の額が承陽殿入口に掲げられている。

 

  承陽殿-久我通久書(永平寺)(撮影・東川寺)
  承陽殿-久我通久書(永平寺)(撮影・東川寺)
  再建新築された承陽門・絵葉書(東川寺所蔵)
  再建新築された承陽門・絵葉書(東川寺所蔵)
  再建新築された孤雲閣・絵葉書(東川寺所蔵)
  再建新築された孤雲閣・絵葉書(東川寺所蔵)
  再建された承陽殿・孤雲閣等(東川寺所蔵図より)
  再建された承陽殿・孤雲閣等(東川寺所蔵図より)

 

明治14年、11月、美濃、若狭を巡教する。 

 

明治15年(1882年)2月15日 66歳
笠間龍跳編輯「承陽大師傘松道詠集」の巻頭に書を寄せる。

 

  承陽大師傘松道詠集・(久我環渓)守塔六十一世敬題
  承陽大師傘松道詠集・(久我環渓)守塔六十一世敬題

 

明治15年(1882年)3月 66歳

大本山永平寺の監院寮が再建され「唯務」の扁額を掲げる。

 

「唯務」守塔六十一世 (永平寺監院寮)(撮影・東川寺)
「唯務」守塔六十一世 (永平寺監院寮)(撮影・東川寺)

 

明治15年(1882年)4月13日
總本山(永平寺)侍局は白石幸造が金壹圓を不老閣大禅師(環渓禅師)に献進したことにより「高祖大師御真影・久我環溪禅師賛」の印刷したものを与えている。

 

 明治十五年・寄進證(東川寺所蔵)
 明治十五年・寄進證(東川寺所蔵)
 明治十五年・高祖大師御真影・環渓禅師賛(東川寺所蔵)
 明治十五年・高祖大師御真影・環渓禅師賛(東川寺所蔵)

 

同年 山梨県を巡教した後、北海道に向けて巡教する。5月、青森。6月、函館。7月、江差。8月、小樽。9月、後志高島。

 

明治15年(1882年)10月10日 66歳

北海道より帰京し、曹洞宗大學林開筵式に臨席する。

 

この後、再び北海道に渡り、札幌地方を巡教する。

この折、札幌中央寺の請に応じ開山となる。

 

下記 中央寺 参照

 

明治15年(1882年)10月10日 66歳 永平寺を退休せんとし、副住職の儀を出す。 しかし、この建議は退けられる。

 

同年、11月七戸、12月石巻を巡教する。 

 

明治16年(1883年)3月29日 67歳 久我建通、通久に対し、永平寺住職は代々久我姓に附籍し、姓を改めることを請す。

 

同年、4月 尾張を巡教する。

 

明治16年(1883年)8月

「冠註・永平元禪師清規」乾、坤(永平精舍蔵版)を再版刻成し出版する。

 

  「冠註・永平元禪師清規」乾、坤(永平精舍蔵版)(東川寺蔵)
  「冠註・永平元禪師清規」乾、坤(永平精舍蔵版)(東川寺蔵)

 

明治16年(1883年)8月 永平寺住職退隠の願いを出す。

 

同年、9月2日 金六十円を納入し、十霊を入祖堂さす。

 

明治16年9月22日 大本山永平寺後任選挙(初の貫首公選)の結果「青蔭雪鴻」当選と判明する。

 

同年、10月5日 遷化後、曹洞宗務局へ寄付する件を嘱託する。

同年、10月10日 興聖寺へ道元禅師茶湯料として、金一千円を寄付する。

 

同年、10月24日 永平寺の退隠の免許を受ける。

同年、11月24日、永平寺退院上堂を修す。

 

本山退院偶成
扶宗素志愧無功。 扶宗の素志、功無きを愧ず。
甘作人間不用躬。 甘んじて人間不用の躬と作る。
幸有瀧川釣魚處。 幸に瀧川釣魚の處有り。
樵歌和罷出幽叢。   樵歌、和し罷り幽叢を出る。

(樵歌しょうか-樵きこりの歌)

 

明治16年10月24日 内務省より青蔭雪鴻、永平寺六十二世住職の辞令を受領する。

 

同年12月、東京昌林寺に隠棲する。

 

明治17年(1884年)10月、豪徳寺の授戒会で最後の戒師を務める。

 

明治17年(1884年)12月7日  68歳 東京昌林寺にて遷化する。

 

12月10日  密葬し、遺骨を永平寺へ護送する。 

 

遺偈 「七轉八倒 六十八年 末期一句 双脚柱天」

 



 

環渓禅師は生前、命日をいつ死んでも4月5日とするよう遺囑されている。


この忌日遺囑は環渓禅師の師、回天慧杲も忌日を遺命していることによるものか?

「近古禪林叢談」より
「回天、滅に臨みて、門人に遺命し三月十三日をもって忌齊日とす。けだしこの日をもって入院したるに依ると云う。」    

 


 

明治18年(1885年)5月5日 
永平寺本葬。(荼毘式)
 秉炬師 青蔭雪鴻禅師(永平寺六十二世・円応道鑑禅師)
 奠茶師 笠松戒鱗(宝慶寺)
 奠湯師 福山堅高(大慈寺)
 起龕師 堀 麟童(大乗寺)
 鎖龕師 大沢大乗(龍渓院)
 掛真師 満岡慈舟(龍門寺)
 移龕師 大安麟乗(長英寺)
 入龕師 辻 顕高(孝顕寺)

 

永平六十一世勅特賜絶學天眞禪師本葬 秉炬法語青蔭雪鴻禅師語録より)

 

一片閑雲雖無跡。
巻舒出沒在谿山。
渓山千古唯如此。
即是禪師不變顔。
恭惟
勅特賜絶學天眞禪師當山六十一世密雲環渓老和尚。
言爲模範。術解連環。
曾參堅翁拈壽山。窮禪旨教意。
遂見回老於宇水。透金鎖玄関。
正法説法々不乏。
長物施財々無慳。
蔭凉尋常玄談。除他熱瞞。
豪徳有時作略。救人辛艱。
宇川垂釣。則鯨鯢躍。
祥峰展手。則麟鳳攀。
加之。
侍祖塔而親密。最有功績。
遵家訓而謹直。一無等間。
豪邁之機。如山兀兀。
晒落之用。似水潺潺。
箇是絶學天眞大禪師。居常無礙活三昧也。
即今遊化無生國裏底消息以何爲證。
花落鳥啼空山暮。
半輪春月印渓灣。

 

「近古禪林叢談」より

環渓、躯幹肥大にして、梵容凡ならず。
眼光爛々として、岩下の電の如し。
平生怒罵瞋拳をもって、人に接す。
然れども、その世を益し、時に補ある事に至りては自他を忘れて労を厭わず。
此を以て、大官鉅公より翁媼に至るまで、争うて瞻禮し、その錫を飛ばす所、市を成したりきという。

 

 日本曹洞第二道場・久我環溪禅師書(寶慶寺所蔵)(撮影・東川寺)
 日本曹洞第二道場・久我環溪禅師書(寶慶寺所蔵)(撮影・東川寺)

環渓密雲禅師・手本金寄附記

 

環渓密雲禅師・手本金寄附記  「環溪禅師語録」より

 

環渓密雲禅師は下記のように永平寺貫首時代に各所に寄附され、又、永平寺退院後寄附、さらに示寂後、各所に手元に残ったお金を寄附するよう遺囑されています。

 

金八千円也 寄附 曹洞宗務局


金一千円餘 寄附 越本山屋根葺


金二百円餘 喜捨 同本山三代塔費


金五百円餘 喜捨 同本山世代塔費


金一千円也 補助 興聖寺永続基


金四千円也 補助 久我家永続基


金五百円也 補助 陽松庵永続基


金二千五百円 新刻正法眼藏天桂辨注版


金三百円餘 購求 紅谷庵之隣地


金七百円餘 補助 薩州廃寺復事


金三百円餘 附与 諸徒弟学費等


金一千円餘 補助 他書生等学費


金幾多円 

二十箇所之開山地毎一箇寺寄附 二百円以下五十円以上之金員也

 

此外、献納施与等之金員雖有多分不詳焉

 

行公去私悪-大教正永平環渓禅師 (東川寺蔵)
行公去私悪-大教正永平環渓禅師 (東川寺蔵)

永平寺には環溪密雲禅師の扁額が残されています。

 

「照第一天」- 承陽門

「追慕」- 孤雲閣

「唯務」- 監院寮

「看青」- 接賓

「錦藍」- 舎利殿

「白山水」- 承陽殿横

 

 永平寺・承陽門「照第一天」(撮影・東川寺)
 永平寺・承陽門「照第一天」(撮影・東川寺)
 永平寺「白山水」久我環溪禅師(撮影・東川寺)
 永平寺「白山水」久我環溪禅師(撮影・東川寺)
 永平寺・看青・守塔六十一世久我環渓禅師(撮影・東川寺)
 永平寺・看青・守塔六十一世久我環渓禅師(撮影・東川寺)

久我環溪禅師の俳句

環渓禅師は俳句を好まれ、俳号を「雪主」「雪主翁」とされた。

 

下の短冊の句は

「晴さへ天(て)花の香毛(も)あ梨(り) 春の月  雪主翁」

 

「元旦」
初日の出 ことしはわけて 照渡る
還暦の しるしや前歯 落ちかかり
愛たしや 金の山にて かがみ餅
西が原 田毎に富士や 初日影


「祝 宗局新築移転」
わたましに 雪や清めの しるしかな
武蔵野の 数にも入るか 庭の空

 

「祖堂炎上」
火花やと 驚く庭の ちるさくら

 

「祝 高祖大師諡號拝戴」
日の恵み 草にたふとし 冬牡丹

 

「祝 祖廟落成御遷座式修行」
御遷座や 輝き初む 三日の月

 

「越年」
若狭とも 思わぬ今日の 年のくれ

 

「歳旦」
初暦を 開けば我は 六十六

 

「留別」
初雪を 譲りて出るや 越の山
雪がこい 押分て出る 名残かな

 

「九月観月」
秋の夜も 名残となりし 後の月

 

「述懐」
生のびて また邪魔になる 冬の蠅

 

「折りにふれて」
箔置た 仏は人の 案山子かな
練兵や もと細川の 花畑
蚤蚊にも 破戒の僧は 笑はるる
此暑さ 寝ながら足で さそふ富士
獅子吼る 音や谷間の 雪解水
貸切の 舟に世帯や 雪のよる
達磨忌や 玄界灘に 蘆一つ
六十の 春や行脚の 旅仕たく

 

「環溪禅師語録」より

 

  環溪禅師の俳句(東川寺蔵)
  環溪禅師の俳句(東川寺蔵)

 

明治15年(1882)11月に出版された「古今図画・発句五百題」・春夏秋冬(全四冊)[ 其角堂永機、雪中庵梅年、編・東京、定訓堂藏 ] の中に雪主の俳句が六首あるが、恐らく環渓密雲禅師の句と思われる。

 

  雪主俳句「古今図画・発句五百題」より(図画作成・東川寺)
  雪主俳句「古今図画・発句五百題」より(図画作成・東川寺)

 

「北越詩話」


(巻七・釋密雲


 字は環渓。雪主と號す。俗姓細谷。名立町の人。越前永平寺に住す。

環渓、天資卓犖。丱角已に群兒と異なり。里人釋梵雅、清涼寺堅光の徒弟なり。環渓を見て之を奇とし。携へて清凉に至り。堅光を禮して薙雅せしむ。環渓時に年甫めて十二。頭角𣇄?然にして一山の龍象を凌ぎ。去りて興聖寺の回天に參す、回天謂ふ是れ麒麟なり。未だ銜轡の制に就かず。鞭策せざる可からずと。之を待嚴属する所なし。環渓屈せず。精苦研鑽。十餘年。遂に回天の法を得て、興聖の席を繼ぎ。恆に百餘の雲衲を養ひ。法幢の盛、一時比なし。既にして豪徳寺の請に赴き。英名又關東を動かす。明治四年辛未、永平寺臥雲、遷化す。環渓、遺囑に因りて其後を襲ぐ。當時永平、頽癈殊に甚し。環渓、拮据經營、遂に能く之を興復す。永平の今日ある。實に環渓の力なり。教部省新置せらるヽや。環渓、總持寺の奕堂と同く東京に上り、大教正に補せられ。永平管長たり。此時排佛の説、盛に興り。大雄氏の教、將に地に墜むとす。環渓大に之を慨し。奕堂及び相國寺獨園・増上寺行誡と、朝野の間に斡旋し。遂に頽瀾を既倒に回す。世其の偉功を稱す。十七年甲申、示化  す。勅して絶學天眞禪師の號を賜へり。環渓爲人豊躯偉幹。眼光爛爛電の如く。頗る威容あり。家法嚴属。怒罵人に接すと雖も。道俗歸仰。一時、叢林の泰斗たり。十三年庚辰、勅して開祖道元に承陽大師を賜ふ。一宗相謀り、諡號會を青松寺に開く。岩倉左大臣、勅を奉じて親臨す。朝野其の盛儀を見むと欲し、萬衆雑踏。喧囂殊に甚し。司儀の僧、制する能はず。環渓一たび臨みて大喝すれば、喧囂頓に止み。萬衆肅然たり。曾て教部省に在り。神官と事を共にす。神官之を困めむと欲し。謂うて曰く。神祭に列するときは。僧侶と雖も烏帽直垂を用う可しと。環渓曰く。大に好し。諸君寺に來らば剃髪黒衣す可しと。一日久我侯に造る。軍人數輩座に在り。酒正に酣なり。大杯を擧げて環渓に属す。環渓一口之を盡す。衆以て快と爲し。獻酬數巡。爛酔泥の如し。環渓獨り自若として曰く、百萬の大敵と雖も一口に呑却する底の漢に非ざれば、以て英雄と爲すに足らず。公等數杯の酒に堪へじ。平生の修養知る可きのみと。哄笑一番。傍に人なきが若し。其の意氣の豪、概ね此の如し。禪餘、俳諧を嗜み。芭蕉の古池因縁を評して古池眞傳を作る。詩偈亦た見るに足るものあり。但だ多く存せず。遠城謙道に贈るに云く。

 非僧非俗又非儒。黧面白鬚窮禿奴。爲示生涯莫好事。時時提箒掃浮圖。

謙道、彦根藩士、曾て其主井伊直弼の非命を悼み。豪徳寺に投じて髪を剃し。其の墓畔に盧して以て身を終ふ。岡本黄石亦た詩を贈りて云く。三間草屋近孤墳。壯歳抛家報主恩。烈日嚴霜磨勁節。松風蘿月養靈根。豈無幽砌聽經鶴。應有前林學定猿。二十四年如一日。朝朝薦藻拂苔痕。と。亦た奇節の士。環渓に師事して尤も謹めりといふ。

 

貧困時代の永平寺安居 ~「秦慧昭禪師傳」より

貧困時代の永平寺安居 ~「秦慧昭禪師傳」より

 

掛錫」より抜粋(347~,348頁)
日を重ねて漸く永平寺に到着いたしました。
永平寺は雪が深い。
高祖大師は、
西来祖道我伝東 釣月耕雲慕古風
世俗紅塵飛不到 深山雪夜草庵中
と頌していらせられる。
大師の御心鏡から深山の雪を御覧になるとこうごうしくさえ感ぜられるのでありますが、未熟な若僧、十八歳の衲には、雪に埋まった永平寺が、恐ろしい穴のように感ぜられた。

貧寒」より抜粋(348頁~)
その頃の永平寺はお話にならぬほど貧乏でした。
明治の始め頃は、面倒なことがあって、時の貫首臥雲禅師は十五万石の格式で、都に出ていられる。
種々の費用が嵩(かさ)んで永平寺は財政上非常な窮地に陥っていた時であった。
その後をうけての永平寺です。
当住の環渓禅師がいくら復興に努められても、そう安々とはまいりません。
環渓禅師が興聖寺から昇住された頃には、永平寺は庫裡も方丈も屋根が腐朽していて居ることが出来ぬ。
塔頭の地蔵院に寝泊まりされて、承陽殿や仏殿へ仏祖のお給仕に上がるという有様だったそうであります。
衲が安居しました明治十二年頃でもまだまだ再興は半ばで、法堂の屋根に瓦が、前方を半分、後方を半分、半分ずつ葺いてありました。
屋根全部一度に葺く金がないので、半分ずつ葺く。
前方を葺いて後方を葺かずに置いては、建物が狂ってしまう。
よって前方を半分、後方を半分、釣り合いを取って葺くのだということでした。
庫裡は瓦葺きなど思いもよらぬので、板で葺いてありました。
雪ずれがして板まで持っていってしまう、屋根に穴があく、下から小さく見えても、なかなか大きなもので、その穴一つ繕うにも二百何十円かかるということでした。
環渓禅師を始め役寮の方々のお骨折りは大変だったろうと、今から考えますと涙が出ます。
そういう中にあっても、修行僧の世話は一日も疎かにならぬというので、僧堂が開単され、かれこれ五十人からの雲水が、僧堂で坐禅修行を許されたのであります。
衲も師匠から、永平寺で開単いたされるのだから、おまえ是非行くがいい、といわれてまいったのでありました。

(中略)
衲が永平寺に安居しました秋、環渓禅師は東京から御帰りになり、雲水にも親しく御提撕をして下さいました。
衲は禅師の行者として、不老閣(永平寺貫首の御居間)詰めとなりましたので、一層深い御導きが得られた訳です。
禅師はどうした加減でしたか脚が起たなくなって、起居が頗る御自由になられました。
衲は毎日、毎日三十日間ほど、禅師の脚にお灸をすえて差し上げました。
これがききましてか、すっかりお治りになり大層お喜びになりました。
(中略)
環渓禅師は良範老師に向かって「この坊さんは慧芳師の弟子です。本山で長老にしてやって下さい」と仰しゃって、衲が利益(りやく)を得た翌くる年、本山で立身させて下さいました。

~「秦慧昭禪師傳」より抜粋 ~ 

 

久我環溪禅師の逸話

釋道圓著 「禅林逸話集」より

「聞いて百文、見て一文」

 

環溪和尚は越後の人で、久我建通侯の養子となり、久我を名乗っていたが、頗る剛腹なる禪僧であった。
ある時、陸軍知名の将校連が五六人、久我家に集まって酒を飲んで居るところへ、偶然和尚がやって来たので、「一つ和尚を盛り潰してやろう」という事になり、一同が矢つぎ早に大杯を差し向けたところ、和尚は平気で差しつめ引きつめ、綺麗に飲んでは返盃し、いつまでたっても自若(じじゃく)として居るので、却って将校連の方がお先に満酔(まんすい)し、遂に一同が和尚の盃を受け得ないようになってしまった。
かくと見たる和尚は大いに笑い、『面前に百萬の強敵を控うるとも、之れを呑却(どんきゃく)する底の者にあらずんば英雄というべからず。然るに貴公達はこれしきの酒に酔いしれてしまうとは、何たる醜態であるか。もう少し修養さっしゃい』とばかり、五六人を一緒に吹き飛ばしてしまったのであった。


又、ある時、時の内閣大臣諸公列座の席において、和尚は伊藤博文を引っとらえ、『おお、貴公が伊藤博文か、若いのに随分悧巧(りこう)だそうじゃのう。聞いて百文、見て一文か、ハッハッハ・・・・』と、小僧扱いにしてしまった。
その後、伊藤公が和尚の隠寮(いんりょう)を訪らい、久濶(きゅうかつ)を謝すると、師は公の素行治まらざる事を知っているので、いきなり曰く、『どうじゃな、貴公相変わらずか、ハッハッハ』
さすがの伊藤公も、この一問に逢っては言句なく、顔を赤らめて頭を掻くばかりであったそうだ。

 

「近古禪林叢談」より

「神官も髪を剃りおろせ」

 

教部省、かって神佛二宗を合して大教院を設け、神官、僧侶おのおの一人を擇て、輪番を以て二教に関する事を行わしむ。たまたま環溪の輪番管長たるや、神官某ひそかに環溪を困らしめんと欲し、漸く一策を按じ、相語って曰く、神社の祭典を行う時に當(あたり)て僧侶が法衣を著し、珠数を爪まくり、我らと共に死したる鳥魚を捧(ささげ)るは不可なり。かかる時には、僧侶にもまた烏帽子を被(かぶら)せ、直埀(じきすい)を著せしむ。神官ら手を拍って妙とし、一神官をして、之を環溪傳う。環溪つゆ驚かずして曰く、いとおもしろし。そも、僧侶は死人にさえも、手を触るるものなれば、魚鳥の死したるを捧るも、何の不可かあらん。また、烏帽子を被ぶるべし。直埀も著るべし。さあれば子(し)らが寺に来たりたる時は、髪をそりおろさしめて、法衣を掛けしめんのみと。神官ら、大に仰損(ぎょうそん)し、またこの事を言わず。

 

秦 慧玉著 「随想百話 渡水看花」 第八十六話より抜粋

「母の命日」

 

(前述略)
禅師は平生、近侍に、わしは何日に死んでも命日は四月六日とせよといわれていたというが、今までその理由はわからなかった。(4月5日?)

細谷家で過去帳を拝見すると、禅師の生母は文政六年四月六日に亡くなっている。
禅師はそれで四月六日を自分の命日とされたのかと気がついた。
なお近くにある同家の菩提寺たる名立寺に行って、そこの古い過去帳を見せてもらった。生母の戒名・古岸貞葉信女の横に「明治九年十月二十二日環溪禅師が祠堂金をあげて信女を大姉に改む」と書き入れてあるのを見つけた。
何という深い孝心であろう。
禅師は六歳で出家、十一歳でこの母は亡くなったが、修行中で、その葬式にも行かせてもらえなかったという。
禅師は自分の命日を母の命日と同じにしておけば、未来永劫に母は自分と一緒に祭られるものと思われたに違いない。
なお、その寺には「孝を師とすべし」という立派な禅師の筆跡もあった。
(後述略)

 

(注意)六歳で出家、十一歳でこの母は亡くなった」は秦慧玉禅師の数え間違いか? 

中央寺 (北海道、札幌市)

  札幌・中央寺・寺号額(福井天章老師)(撮影・東川寺)
  札幌・中央寺・寺号額(福井天章老師)(撮影・東川寺)

 

中央寺(北海道、札幌市)

 

明治7年(1874年)12月25日
西有穆山師、曹洞宗管長代理として北海道布教に渡り、時の長官島判官に請い、札幌南二条西九丁目に一千六百二十坪の地所を受け、同年12月25日教部省の認可を得て小教院を開設する。


明治8年(1875年)
大教院派遣の(小講義)小松万宗師、渡道し中教院に昇格す。


明治11年(1878年)
本堂(七間四方)、その他重要な伽藍を建立する。


明治15年(1882年)1月11日
「宲相山中央寺」と寺号公称する。

(宲→実)


明治15年(1882年)10月
永平寺六十一世勅特賜絶學天真禅師(久我環溪禅師)、札幌中央寺の請に応じ開山となる。


「壬午(みずのえうま)秋、北海道巡教の途次(とじ)中央寺に滞錫(たいしゃく)す。寺は禪外萬宗和尚、草創に係わる。

乃って請に応じ開祖と為る。」

 

 宛然瑩祖於諸嶽

 徒為中央開闢翁

 滞錫一句超曠劫

 北方従是振宗風  (環溪禅師語録より)

 

 西有穆山禅師-観音自画賛(東川寺蔵)
 西有穆山禅師-観音自画賛(東川寺蔵)

明治23年(1890)12月27日
認可を得て現在地(札幌市南6条西2丁目1番地)に移転する。

 

明治35年(1902)

北海道札幌中央禪外萬宗大和尚 下炬 「大休悟由禪師廣録」より


曾向北溟浮銕船。随波逐浪犯風煙。忽抛蓑笠藏身去。多少愁人空刻舷。
恭以
脱禪機穎。縦教外傳。
創草中央活伽藍。能度難化。
擧揚永平正法眼。妙弄空拳。
世出世間。入粗入細。
應機接物。有實有權。
萬象森羅一法印。宗通説通雙眼圓。
此是。大和尚一生神通三昧也。
卽今。藏身北斗裏底一句。以何爲驗 (一払子云)
山雪河氷未全盡。春風促緑楊柳邉。

 

  札幌・中央寺・山号額(永平悟由禅師)(撮影・東川寺)
  札幌・中央寺・山号額(永平悟由禅師)(撮影・東川寺)

 

中央寺・開山歴住

 

開山 永平寺六十一世勅特賜絶學天真禅師(久我環溪) 

開基 總持寺独住第三世勅特賜直心浄国禅師(西有穆山)

二世 禅外萬宗大和尚(小松万宗)

三世 祖庭松偃大和尚(三沢松偃)

四世 鶴湛文英大和尚(尾崎文英)

五世 大応成典大和尚(橘 成典)ー永平寺後堂・監院

六世 天章昇龍大和尚(福井天章)-永平寺監院・副貫首

七世 明峰慧玉大和尚(秦 慧玉)-永平寺七十六世慈眼福海禅師

八世 栴崖奕保大和尚(宮崎奕保)-永平寺七十八世黙照天心禅師

九世 超山俊好大和尚(坪田俊好)

十世 祖苗道人大和尚(南澤道人)-永平寺八十世黙室玄照禅師

十一世 熊谷忠興大和尚

 

  札幌・中央寺・山門 (撮影・東川寺)
  札幌・中央寺・山門 (撮影・東川寺)
「與乾坤而永大共日月以倶升」 大教正永平環渓禅師 (東川寺より中央寺へ贈呈)
「與乾坤而永大共日月以倶升」 大教正永平環渓禅師 (東川寺より中央寺へ贈呈)
大教正永平環渓禅師    (東川寺蔵)
大教正永平環渓禅師    (東川寺蔵)
 大教正永平環渓禅師(東川寺蔵)
 大教正永平環渓禅師(東川寺蔵)

参考資料

「環溪禅師語録」 大本山永平寺・発行

「久我環溪禅師詳傳」 郡司博道編集 宗教法人昌林寺・発行

「洞上二世 光明蔵三昧」(永平寺僧堂藏版) 白鳥鼎三・出版

「明治前期曹洞宗の研究」 川口高風著 法蔵館・発行

「近世禪林言行録」 森 大狂著 金港堂書籍・発行 

「近古禪林叢談」 森 大狂著 (株)蔵経書院・発行

「禅林逸話集」 釋 道圓著 聖山閣書店・発行

「随想百話 渡水看花」秦慧玉著 後楽出版株式会社・発行