永平寺六十三世 滝谷琢宗禅師

 

永平六十三世 滝谷琢宗禅師

 

(世称)
  滝谷琢宗(たきや たくしゅう)


(道号・法諱)
  魯山琢宗(ろざん たくしゅう)


(禅師号)
  真晃断際禅師
  (しんこうだんさいぜんじ)


(生誕)
  天保7年(1836)12月22日


(示寂)
  明治30年(1897)1月31日


(世壽)
  62歳

 

(別号)

  蘇翁

 

(特記)

曹洞教會修證義」編纂

直心是道場・東川寺蔵
直心是道場・東川寺蔵

滝谷琢宗禅師の書
「直心是道場」
「維摩経、菩薩品第四」の『我問道場者何所是 答曰 直心是道場無虚假故』より。

 

滝谷琢宗禅師の略歴

 

天保7年(1836)12月22日 越後国中魚沼郡仙田村、小川六左右衛門(父)すな(母)の次男として誕生。幼名は「五三郎」。(異説あり)

 

嘉永元年(1848)4月8日 13歳、越後国刈羽郡結城野村の真福寺二十一世貫明祖珊について得度。「琢宗」と改名す。號は「魯山」(異説あり)

 

嘉永6年(1853)3月18日 18歳、江戸駒込吉祥寺の旃檀寮に掛錫する。

 

安政元年(1854)冬 19歳、吉祥寺旃檀寮において道誼頭となる。

 

安政6年(1859) 24歳、吉祥寺旃檀寮の越後寮主となる。

 

蔓延元年(1860)7月28日 25歳、真福寺大圓俊道の室に入り嗣法する。

 

文久元年(1861)10月8日 26歳、大本山永平寺にて瑞世する。

 

元治1年(1864)11月6日 29歳 越後北魚沼郡小出、正円寺に住職する。

 

慶応元年(1865)2月 30歳 吉祥寺旃檀寮を退き、加賀天徳院に掛錫する。 

 

慶応3年(1866)9月 32歳 大蔵経閲覧の大願を起し、肥娯山麓に庵を結ぶ。これより明治3年2月まで前後5年間、専ら大蔵経を閲覧する。その生活を「肥娯林日鑑」に記す。

 

慶応4年(1868)旧9月8日 1月1日に遡って明治元年(1868)とする改元の詔書が出される。 

明治3年(1870)3月20日 35歳 新潟中蒲原郡村松の英林寺の住職となる。

 

明治4年(1871)12月3日 36歳 新潟中蒲原郡村松の慈光寺住職に転住する。

 

明治5年(1872)4月7日 37歳 総持寺の旃崖奕堂の請により、東京総持寺出張所に勤務する。


この年、太政官布告により苗字を設けることとなり「滝谷」を姓とする。

 

明治8年(1875)5月3日 40歳 慈光寺住職滝谷琢宗、曹洞宗務局監院に青蔭雪鴻と共に命ぜれる。

 

明治9年(1876)10月26日 41歳 滝谷琢宗の発案により教會条例を発布し「曹洞教會」を組織する。

 

明治12年(1879)3月25日 44歳 総持寺監院を免ぜられる。


同年、5月15日「総持開山太祖略伝」を著し曹洞宗務局版を鴻盟社と明教社より発刊す。

(下 左表紙裏-白~鴻盟社。右表紙裏-赤~明教社。両方共東川寺蔵書) 

 

  總持開山太祖略傳(東川寺蔵)
  總持開山太祖略傳(東川寺蔵)
總持開山太祖略傳-瀧谷琢宗撰
總持開山太祖略傳-瀧谷琢宗撰
總持開山太祖略傳-瀧谷琢宗撰
總持開山太祖略傳-瀧谷琢宗撰

 

明治13年(1880)45歳 総持寺貫首選挙で滝谷琢宗は最高点であったが辞し、2月26日、畔上楳仙が総持寺貫首に就任され、その補佐を行う。

 

明治15年(1882)10月10日 47歳 宗務局に護法会係を置き、護法会総轄に命ぜられる。

 

明治16年(1883)4月30日 出版御届

「釈門事物紀原. 初篇 上巻」大内青巒 編(鴻盟社)

「釈門事物紀原・校訂」大内青巒 編(鴻盟社)

 

釋門事物紀原序

胡氏校正事物紀原。行于世者久矣。其紀事物之原始。一千八百六十餘條。而釋門之事。不過於三十餘條。故我徒之於此書。常有枵然之思矣。今玆友人藹々居士。編纂本篇。初編已成。自佛教東漸。至于僧史。無慮一百則。紀其原始。考證確實。使我徒。漸有使腹之思矣。蓋居士意。凡釋門之事物。在於本邦者。網羅細大將無漏洩。豈惟千百事耶。夫即事而契理。繹始而知終。而後參學之事畢矣。與夫胡氏校正事物紀原。固不可同日日而論也。慕道之徒。請高著眼焉。

 明治十六年五月上浣  中教正 瀧谷琢宗

 

明治16年(1883)11月1日 48歳 神奈川県の大雄山最乗寺住職となる。

 

下記「大雄山最乗寺」参照

 

  最乗寺御真殿石段・絵葉書(東川寺所蔵)
  最乗寺御真殿石段・絵葉書(東川寺所蔵)

 

明治17年(1884)8月14日 49歳 両本山貫首より「曹洞宗宗制」の編纂を命ぜらる。

 

(参考)
 曹洞宗宗制御認可願
明治十七年太政官第十九號布達第四條ノ政令ニ據リ自今曹洞宗内ニ頒布シテ遵守セシムルヘキ事考従前不文慣習ノ宗法ヲ折衷シ別冊之通編製イタシ候支牾ノ廉無之候ハヽ御認可相成度此段相願候也
   曹洞宗管長 畔上楳仙
 明治十八年四月二十日
内務卿伯爵 松方正義 殿

 

 御指令朱書
書面之趣認可候事
 明治十八年五月二十八日
内務卿伯爵 山縣有朋 ㊞

 

明治18年(1885)5月28日 50歳 明治政府より「曹洞宗宗制」が認可され、8月1日より実施する。

 

同年、8月6日 滝谷琢宗、両本山貫首より「曹洞宗宗制」編纂の尽力に対し「僧伽梨衣一肩」を付与される。

 

明治18年(1885)11月6日 50歳 永平寺六十二世青蔭雪鴻示寂に伴い、永平寺後董選挙の結果、当選となり、滝谷琢宗は再三これを辞するも遂に承諾し、永平寺六十三世貫首となる。12月15日、真晃断際禅師」の勅賜号を贈与される。

 

明治19年(1886)初春 51歳 「徳翁良高和尚示衆(注1)の巻頭に書を寄せる。

 

 徳翁良高和尚示衆(東川寺蔵)
 徳翁良高和尚示衆(東川寺蔵)
  徳翁良高和尚示衆-滝谷琢宗禅師の巻頭書
  徳翁良高和尚示衆-滝谷琢宗禅師の巻頭書

 

明治19年(1886)4月29日 51歳 永平寺にて晋山開堂する。

 

明治20年(1887)4月1日 52歳 曹洞宗管長に就任する。

 

明治20年(1887)2月19日 52歳
水谷忠厚(世に天爵大神と尊称す)福井県越前松岡より永平寺に至る四千零四十一間余の峻路を開鑿し、永平寺参拝の便を計らんとし、是日、福井県知事石黒務の賛成を得、尋で六月十一日、永平寺貫首滝谷琢宗その義挙に賛成す。
同年、8月26日 両本山貫首、永平寺参道改鑿募縁の告論を発す。
同年、9月10日 宗務局、永平寺参道改修寄附勧募法を各府県支局に普達す。

 

明治21年(1888)3月23日
永平寺道路開鑿工事に着手(天爵大神水谷忠厚を第一区施工と定む)。

 

明治21年(1888)9月12日 53歳 自ら切望していた永平寺参道改修工事が完工し、福井市での永平寺道路開通式に出席する。

 

  雨中の永平寺・絵葉書(東川寺所蔵)
  雨中の永平寺・絵葉書(東川寺所蔵)

 

明治22年(1889)1月 54歳 「洞上行持軌範」の編纂を委嘱される。8月15日、「明治校訂・洞上行持軌範」を出版する。

 

  「明治校訂・洞上行持軌範」 (東川寺所蔵)
  「明治校訂・洞上行持軌範」 (東川寺所蔵)

 

明治23年(1890)8月28日 55歳 畔上楳仙禅師などと共に大内青巒等の「曹洞扶宗會」作成の「洞上在家修証義」に大胆な改訂を加え「曹洞教會修證義」と命名し、9月5日、「曹洞教會修證義」を完成し曹洞宗務局より発行される。


又、12月1日、両本山貫首は「曹洞教會修證義」を曹洞宗布教の標準となす趣旨の告論を出す。

 

「修證義発布告論」

 

曹洞宗の依止して以て今古に貫通せるは唯だ佛祖單傳の正法眼藏のみ
衲等欽んで高祖承陽大師正法眼藏の中に就て宗教の大意安心
正依の標準を撰出してこれを曹洞教會修證義と名けたり。
夫れ生を明らめ死を明らめ即心是佛を承當するを宗教の大意とす
本文首尾に於て之を標示す
中間に其準則を開演せり。
凡そ五章三千七百零四字悉く
高祖の金言にして皮肉骨髓今尚暖なるものに非ざるはなし
況や廣大の文字は萬象にあまりて猶豊かなり
轉大法輪また一塵におさまれり
生も一時の位なり死も一時の位なり
然れば則ち即身是佛の言猶是水中の月なり
生死透脱の旨更に鏡裡の影なることを認得せんを要す
自今以後一般に此修證義を用て布教の標準となし
自から信じ人をして信ぜしめ吾が宗教を顯揚せよ


 明治二十三年十二月一日


  永平寺住職 瀧谷琢宗
  總持寺住職 畔上楳仙

 

(本文のカタカナにてあるをひらかなに直す。)

 

  曹洞教會修證義 (東川寺所蔵)
  曹洞教會修證義 (東川寺所蔵)

 

明治24年(1891)1月6日 56歳 3月限りで永平寺を退休する旨を宗務局詰本山執事に進達する。1月10日、畔上楳仙禅師ら永平寺に上山し「御永住を懇願する書」を提出する。その後何度も畔上楳仙禅師、両本山監院らが永平寺永住を懇願するが、滝谷琢宗禅師承諾せず。

 

同年、4月30日、永平寺を退堂する

 

詠鶴  永平寺を退き鶴見に隠す依って此の作有り
脱却巾箱繍穀憂。飛鳴自在獨優優。
羅籠不到天涯濶。三島十洲任縦遊。

 

同年、「永平寺年表」撰す。又、「曹洞宗革命策」を著す。

 

明治25年(1892)3月19日、両本山分離問題(能本山分離事件)が起こる。

 

明治26年(1893)1月 58歳 東京麻布区富士見町に隠寮を建てる。

 



 

明治26年11月8日 58歳 「曹洞教會修證義筌蹄」を明教社より刊行する。

曹洞教會修證義筌蹄

曹洞教會修證義筌蹄-滝谷琢宗編輯(東川寺蔵書)
曹洞教會修證義筌蹄-滝谷琢宗編輯(東川寺蔵書)
  曹洞教會修證義筌蹄-畔上楳仙禅師題字(東川寺蔵)
  曹洞教會修證義筌蹄-畔上楳仙禅師題字(東川寺蔵)
  曹洞教會修證義筌蹄-森田悟由禅師題字(東川寺蔵)
  曹洞教會修證義筌蹄-森田悟由禅師題字(東川寺蔵)

曹洞教會修證義筌蹄のはしがき

曹洞教會修證義筌蹄のはしがき

曹洞教會修證義頒布以来日なお浅しといえども 承陽の流をくむもの出家在家を問はず之を實参し、之を實究すること日に月に盛んなり。
既にして本文に注釈を加えて刊行し、世に流布するもの両三家あるを見る。
豈に歓喜に堪えんや。
山僧、明治二十五年北漫遊の因み、越他の請に依りて一回全篇を講述し、且つ侍僧をして筆記せしめたり。
高祖大師の御歌に「いい捨てし其の言の葉の外なれば筆にも跡をとどめざりけり」と。
元来、修證義は安心の法門なるがゆえに、いい捨てし其の言の葉の外に向て、各自に承當せざるべからず。
苟も筆のあと、文のおもてに拘泥するときは、たとい驢年に至るも他の寳をかぞふるのみ。
己れに於いて何の益あらんや。
然らば即ち山僧徒らに両片皮を鼓し、侍僧をして筆記せしめたりと雖も、只是れ跡をとどむるもののみ。
故に久しく筐底に投じ蠹魚の衆生に供養し置きけるが頃日、蠹魚の餐餘を請うて巳まざるものあり。
山僧意らく魚兎を得んには先づ筌蹄を要す。
已に得てのち之を拾れば、彼の筆にも跡をとどめざりけるの意を知らん。
こゝに於いて蠹残の冊子を筐底に取り出し先づ 能本山貫首の是正を仰ぎて其の協賛を得たり。
乃ち知りぬ最初共同編纂の原旨に辜負せざることを。
更に 越本山貫首の斧斤を請うて亦其の協賛を得たり。
是に於いて乎請者に附與す。
 于時、明治二十六年八月のはじめなり。
  蘇翁布衲琢宗しるす。

 



洞上高僧月旦-瀧谷琢宗禪師(大本山永平寺前貫首)
 
大本山永平寺前貫首勅賜眞晃斷際禪師瀧谷琢宗和尚を以て潜かに王安石に比するの徒あり。
其の言に曰く、彼れ天禀の敏慧を以て一世をタク睨し猥りに新法を布き末派寺院を虐げて自から利す、佛祖の罪人と謂つべしと。
佛祖の罪人か佛祖の罪人にあらざるか居士は之を知らず。
然れども勝敗豈に英雄を議すべき恰當の標準ならんや。
勝敗既に英雄を議すべき恰當の標準にあらずとせば勝敗の外別に英雄を議すべき恰當の標準なからざるを得ず。
居士を以て之を見れば謂ゆる英雄を議すべき恰當の標準なるものは英雄其の物の勝敗にあらずして、即ち其の心事に在り、果して其の心事に在りとせんか。
禪師を以て王安石一輩の徒に比す酷と云はざるを得んや。
維新草創の際、禪師が故青蔭禪師と共に日夜苦心して遂に両山併立制度の基礎を固めたるが如き事奮聞に属するを以て敢て茲に言はず。
而して彼の明治十二年に於ける両山盟約の起草、明治十八年に於ける曹洞宗宗制の編纂の如き、禪師に於て一種の功勲たるに相違なきも當時別に責任者の在るあれば又敢て茲に言わず。
獨り彼の護法會を設立し三十萬圓の基本財産を新設したる一事是れ實に禪師半生の大勲偉蹟にして、而して毀誉の係る所亦實に此に存せり有志會なるものの明治二十二年に起る其の遠因近因果して何れに在りしや、居士は之を知らず。
然れども當時禪師が護法會金を處理するの敏速なる恰も電光の閃くが如きものありて遂に有志者に勃興の機會を與へしにあらざるか。
之を要するに有志會なるものの勃興の原因各種ありしと雖も護法會金に対するの疑團其の第一に位しありしや疑ひなし。
然れども有志會の此の疑團一先冰解して明治二十三年十二月同會は遂に解散し禪師も亦尋で大本山永平寺貫首の栄職を退きたれば此の一事、居士は未だ容易に其の勝敗を明言すること能わず。
若し強いて其の勝敗を言はんか、謂ゆる護法會の一挙は禪師自ら敗を取るの已むを得ざるに至らしめたるなり。
有志會なるものをして勃興せしめざること三年、而して禪師をして拮据其の處理に従事せしめたりしならんには基本財産の成立或は保すべかりしならん。
然れども平松六十両銀行に対する預金一條に就ては禪師は徳義上無論其の責を辞することを得ず。
久次米銀行の如き今日未だ其の前途を予言する能はざるも同行にして若し異日倒産の不幸に遭遇するあらんか。
之に対する預金の一條禪師は亦徳義上其の責を辞するを得ず。
禪師の苦心茲に至りて一層深しと謂ふべし。
禪師年歯漸く五十七八決して頽齢と謂ふべからず。
而かも跡を韜みて城南麻布の富士見街に在り、潜かに之を「エルバ」島に於けるナポレオン、ボナパート」に比す中らずと雖も蓋し遠からざらんか。
之を要するに禪師は駒込學寮の出身にして奕堂禪師七本槍の一たり。
其の學其の膽固より尋常老宿の企て及ぶ所にあらず。
況んや經論は其の長處なるをや、前半生の事業得失相半ばすと雖も尚後半生の在るあり。
英雄の草盧を出づる、果して何の時ぞ、秋風英雄を吹老ふ、禪師の威掬するに餘りあり。
 
洞上高僧月旦-山岸安次郎 (頑石点頭居士) 著(明治26年12月9日発行)より
 


 

明治28年(1893)7月15日 60歳 「永平正法眼藏顯開事考」一巻を著す。

永平正法眼藏顯開事考

 永平正法眼藏顯開事考-表紙(東川寺蔵)
 永平正法眼藏顯開事考-表紙(東川寺蔵)
  永平正法眼藏顯開事考-1
  永平正法眼藏顯開事考-1
  永平正法眼藏顯開事考-2
  永平正法眼藏顯開事考-2
  永平正法眼藏顯開事考-3
  永平正法眼藏顯開事考-3

永平正法眼藏顯開事考 跋

永平正法眼藏顯開事考


吾が承陽大師の正法眼藏一百巻は文化十二年始めて印刷流布せしより、今明治二十八年に至り八十一歳を得たれば、今日の法孫は之を知らざるなし。
然れども、其の御撰述以後、編集の事実及び開版に至るまでの経歴に就いて詳細に取り調べたるものを見ず。
尤(もっと)も歴史は固より本文宗意に関係なきことなれば、言わばどうでも宜しき次第なれども、編集、書写、講演、開版に就いて、古人艱難を尽くされたる事実を知るときは今日たとい容易に拝覧し得るとも、亦大いに尊重して等閑に世典と同視せず、多少道心を発すの利益あるべし。
山僧、明治二十八年四月十九日より七月五日に至るまで、本宗大学林の請に応じて、隔日に正法眼藏、道心、三時業、帰依三宝、行持、仏向上事の五巻を講す。
因みに、嘗て、本山住職中、宝庫を閲覧し記録を査察して、まさしく記憶する所の事実に據り、前に述べたるが如く、第一撰述、第二標題、第三編集、第四謄写、第五講演、第六開版、第七餘論の七項に分けて正法眼藏の経歴を略記せり。
去れども元来、浅見薄識なれば尚お必ず誤謬を免れざるべし。
後賢、更に是正せば幸甚。
   明治二十八年乙未七月十五日書于東京麻布富士見街隠棲
                                            永平前住蘇翁布衲琢宗

           明治二十八年十月十九日  印刷
           明治二十八年十月二十二日 発行
           著作者  瀧谷琢宗
           発行者  児島碩鳳
           印刷者  佐久間衡治
           印刷所  株式会社 秀英舎
           賣捌所  國母社

 

明治30年(1897)1月31日 午後7時 隠寮にて示寂。世壽六十二歳

 

同年2月5日 密葬。

 

遺偈「頭出頭没 六十二年 機輪転処 雙脚朝天

   咦

   無端触着虚空骨 削作杓柄汲黄泉」 

 

同年9月26日 永平寺本葬。

 秉炬師 森田悟由禅師(永平寺六十四世、性海慈船禅師)
 奠茶師 戸澤春堂(孝顕寺)
 奠湯師 笠松戒鱗(宝慶寺)
 鎖龕師 水上大舟(龍門寺)
 移龕師 鷹林冷生(慈照寺)
 起龕師 田村泰舜(臥龍院)
 掛真師 満岡慈舟(龍泉寺)
 入龕師 光山大童(龍澤寺)

 


 

永平六十三世眞晃斷際禪師魯山琢宗大和尚 秉炬法語
(秉炬師 大休悟由禅師)   「永平重興大休悟由禅師廣録」より

 

少小歸投仏法僧 精神一片誓傳燈 浮雲六十餘年事 穿鑿還他愛與憎
恭惟 新般涅槃
專提祖印 高演宗乗
照心駒野螢雪 研參教理
脱骨龍淵毒氣 點破心澄
不追彼面壁 自有人伏膺
處時世變 撥轉兩山紀綱樞軸
察因縁熟 受用一條與奪爛藤
依前來腕力 見今日繁興
跛鼈胡爲窺脱轡之逸馬
尺鷃焉得認展翼之大鵬
個是 先董禪師六十年來
是非海裡東湧西没之游戯三昧也
這回 轉歩那邊千聖外 随縁妙弄火中氷
豈待山僧之之乎者也
雖然 不唱蒼天句爭報爲同床穿被朋
鈴鐸丁東空裏響 作麼生瞻仰飛騰
莫探烟滅灰冷處 月朗孤峰最上層

 


 

滝谷琢宗と青蔭雪鴻


時代の要請にて宗門でも全国寺院を統括する事務的な機関として明治五年、「宗衙」(しゅうが)を設置した。
それまでは両本山別個に事務を取り扱ってきたが明治五年三月二十四日、両本山は親睦修交の盟約を結び、両寺一体の宗制施行のため両本山出張所を東京青松寺に移した。
これが「宗衙」である。
そして両山より執事を選んだ。今の宗務総長にあたる。
永平寺執事が雪鴻、總持寺執事が琢宗であった。
琢宗の書簡に「局中表向役員詰合極質素にて去るかわり互いに昼夜を分たず休日もなし。(中略)此節は両山極々平和にて孝顕(雪鴻)教院への出勤の時は拙子(琢宗)両山の事を取斗、拙、教院へ出勤なれば孝顕両山の事を取斗、決して彼是の隔なく誠に運方宜敷御座候」とある。
琢宗は明治十八年、雪鴻示寂のあと選ばれて、永平寺に上るまで終始一貫して宗制運営の任にあたった。
つまり雪鴻と机をならべ両山協調の実を挙げたのであった。
十年余の間、同じ所に勤めたのだから能所相い許した仲であったろう。
琢宗は筆をくわえて算盤をはじき、片や雪鴻は詩箋と三重韻とを前にして空を仰いで琢宗と対坐したという。
これほど因縁のある両者の韻事唱酬が残っていないのは残念である。


滝谷琢宗と森田悟由


両者の年齢は二歳、悟由が長じている。
初相見は慶応元年、琢宗三十の時、天徳院に安居し、既に古参となっていた悟由と同床に起臥したのである。
そしてこの夏、悟由が首先住職していた金沢の龍徳寺を尋ね、一日中ゆっくり胸襟を開いたのであった。
 夏日訪悟由兄於龍徳寺
  琅□繞寺緑陰濃。連雨方知長◇龍。 (□は王へんに千。◇は竹かんむりに擇)
  爽気颯然浄満室。羨君解帯盪吟胸。

悟由も琢宗が天徳院を乞暇するとき、一絶を送っている。
 送別
  揆膽多少冐風雪。得得何嫌越路長。
  切忌甘閑放参去。再来須踏倒禅床。

その後の両者の交渉は宗門の要人として注目され続けてきたが、琢宗のあと、悟由が永平寺に南面することになった。
 新董永平悟由老師 有高吟二首 代春詞 以見寄 塵其韻道謝
  卑身謝我壑船安。得宇欽師海様寬。
  春信飛来恩□暖。茅席方免竈烟寒。 (□は貝へんに兄)
 其二
  創業饒蚰廻倒瀾。辛酸豈似守成難。
  金龍一躍占獅座。法席誰容鳴野干。

さて琢宗が示寂した時、(悟由の)追悼の詞がある。
 浮世六十二年春。俄示色空幻化身。
 鴨水東出帯霞日。可憐花鳥却傷人。

共に奕堂門下として、しかも永平寺に南面した者同志として余人の覗き得ない清澄な付き合いに終始したようだ。

 

以上「琢宗禪師語録」八十八、八十九頁より

 

大雄山最乗寺

 

大雄山最乗寺(だいゆうざん さいじょうじ)

 

大本山総持寺末で相模(神奈川県)南足柄市関本にある曹洞宗の寺院。
開山は了庵慧明で通幻寂霊に嗣法した。
了庵慧明は応永元年(1394)弟子の妙覚道了と共に現在地に伽藍を建立し、唐の百丈山にちなんで「大雄山最乗寺」と名付けた。
山内には3世大綱明宗が応永17年(1410)に大慈院、五世春屋宗能が嘉吉元年(1441)に報恩院をそれぞれ開き、門下の輪番で住持する輪住制度が設けられた。
最乗寺本院も9世在仲宗宥の代に輪住制が設けられ、10世安叟宗楞の代に輪住の順序さらに任期を一世一年とすることが規定され、文明2年(1470)即庵宗覚から実施された。
輪住は186世応山法伝まで続けられ、それ以降は輪番地による輪住となり、明治7年(1874)5月に輪住制が廃止されるまで412世を数えるに至った。
その後、独住制となり明治7年11月、畔上楳仙が独住第一世となる。
最乗寺の末流寺院は4,004ヶ寺あり、実に曹洞宗寺院の約三分の一を占めている。
又、道了大薩埵・どうりょうだいさった(道了尊)で有名であるが、道了大薩埵とは最乗寺開祖の了庵慧明に随侍して、怪力をもってその功を助けた道了が了庵慧明の寂後は山門鎮護を誓って、天狗に身を変え空中に飛び去ったと伝えられている。

道了尊は最乗寺伝説の伽藍守護神である。

 

  ~ 参考「禅学大辞典」~

 

(紹介)大雄山最乗寺ホームページ

 

  大雄山最乗寺・仁王門・絵葉書(東川寺所蔵)
  大雄山最乗寺・仁王門・絵葉書(東川寺所蔵)
  大雄山最乗寺・円通門と総受付・絵葉書(東川寺所蔵)
  大雄山最乗寺・円通門と総受付・絵葉書(東川寺所蔵)
  大雄山最乗寺・神通門・絵葉書(東川寺所蔵)
  大雄山最乗寺・神通門・絵葉書(東川寺所蔵)
  大雄山最乗寺・道了大薩埵御真殿・絵葉書(東川寺所蔵)
  大雄山最乗寺・道了大薩埵御真殿・絵葉書(東川寺所蔵)

徳翁良高

(注1)

徳翁良高(とくおうりょうこう)
(1649~1709)

備中西来寺中興、越前慈雲寺開山。
字は道山、号は徳翁、俗姓は藤原氏、宇都宮氏の一族で、母は大曽根氏の出である。
慶安2年(1649)江戸に生れる。
13歳の時、吉祥寺の離北良重について童子となり、15歳で薙髪し、諸方に遊して寛文9年(1669)冬、遠江の初山で独湛に謁し、翌年黄檗山の木庵によって大戒を受けた。
さらに摂津興禅寺の月舟宗胡に参見し、また泉南蔭涼寺の鉄心道印ついた。
後、郷里に帰り、25歳の時、館林で潮音のもとに入室して印可を受けた。
次いで瑞聖寺にいって再び木庵に会い、翌年秋に月舟宗胡が加北に教化を布くと聞いて礼謁し、三年服勧したのち、館林でまた潮音についた。
延宝8年(1680)美濃智勝寺南鍼の結制に首座となった。
天和2年(1682)下総正泉寺に住し、翌年禅定寺で月舟に教えを受け、衣法並びに永平戒本を付与されて總持寺に昇り、また正泉寺に戻った。
出羽の刺史水谷氏は師を招いて、備中定林寺の空席を継がしめた。
ほどなくして、加賀の本多政長に迎えられて大乗寺に住したが、元禄9年(1696)退いて備中明崎に居し、秋には新見府に西来寺の旧跡を得て再興した。
府主関道空居士の帰依が最も深かった。
玉島の円通寺、矢野の龍洞寺、永寿寺、武蔵の徳昭寺、越前の慈雲寺等はみな師を開山とした。
宝永3年(1706)秋、円通寺に戻り、翌秋美濃の大慈寺で教化を助け、同5年(1708)冬、播磨の久学寺で病を得、翌、宝永6年(1709)円通寺に帰ったが、2月7日、世壽61歳、法臘46歳で寂し、西来寺に葬った。


遺偈 「大地山河 一堆塵埃 今日消盡 分明没跆 咄」


著作には「続日域洞上諸祖録」「徳翁良高禅師語録」「護法明鑑」「洞宗或間」等がある。

 

(参考-曹洞宗人名辞典・禅学大辞典)



参考資料

「琢宗禅師語録」 琢宗禅師語録刊行会編 大本山永平寺・発行

「総持開山太祖略伝」 瀧谷琢宗 著(曹洞宗務局版)鴻盟社・発刊 

「曹洞教會修證義筌蹄」 瀧谷琢宗 編輯 明教社・発行

「永平正法眼藏顯開事考」   瀧谷琢宗 著 國母社・発行

「明治校訂 洞上行持軌範」上中下 著作者 兼 発行者 曹洞宗務局

「曹洞教會修證義」 発行者・曹洞宗務局 発売所・鴻盟社

「修訂復刻 修証義編纂史」 岡田宜法 著 曹洞宗宗務庁・発行

「明治前期曹洞宗の研究」 川口高風 著 法蔵館・発行