永平寺七十一世 高階瓏仙禅師

 

永平寺七十一世 高階瓏仙禅師

 

(世称)
  高階瓏仙(たかしな ろうせん)


(道号・法諱)
  玉堂瓏仙(ぎょくどう ろうせん)


(禅師号)
  大鑑道光禅師
  (だいかんどうこうぜんじ)


(生誕)
  明治9年(1876)10月14日


(示寂)
  昭和43年(1968)1月19日


(世壽)
  93歳

 

(別号)

  玉山人

 

(特記)

  曹洞宗管長在位 25年

  總持寺独住第十二世貫首

  親友・熊沢泰禅禅師

流水無心送落花(東川寺所蔵)
流水無心送落花(東川寺所蔵)

高階瓏仙禅師の書
「流水無心送落花」
「従容録」の「落花有意随流水 流水無情送落花」の意を採ったもの。

 


高階瓏仙禅師の略歴

 

明治9年(1876)10月14

戸籍は明治10年12月15日になっている。)

 福岡県嘉穂郡上臼井村の永泉寺に誕生する。幼名は「玉雄」

 

高階瓏仙老師は後年、還暦祝いの謝辞で次のように述べている。
「戸籍上から云いますと還暦は明年になるのでありますが、真実は明治九年十月十四日に生まれたのでありますから、丁度今年還暦を祝っても差し支えないと云う訳であります。(中略)今も口のこヽに傷がありますが、これは私の生家の前に川があって母が水を汲みに行った時、私もついて行ってその土橋から落ちてそこに立っていた乱杭でこヽの怪我をしたのであります。母は非常に驚いてすぐさま医者に連れて行きましたが、その時は何分今日の様に外科の技術も進歩していませんので、患者を見て針を研ぐと云う始末でありましたから、中々思うような治療をして呉れる訳でもなく、私が痛がるものだからもう一針縫えば傷口もあまり残らず済むと云うのを母は到底それに忍びず、私を連れて帰ったのでありました。口の傷であるから乳を呑む事も出来ず腹を乾して死ぬと云われていたそうですが、それでも死なず今日まで来たのは仏様の加護の依るものと思い、一度死んだ命だから仏様のお手伝いを仕様と決心している訳であります。(後述略)」『高階瓏仙禅師傳』55~56頁より

 

明治23年(1890)15歳
永泉寺住職、高階黙僊和尚に就いて得度。


明治24年(1891)16歳
福岡県朝倉郡把木町円清寺の石井禅海和尚に随身修行し、同師について立身。
同年11月開校の熊本市曹洞宗鎮西中学林に入学。


明治29年(1896)21歳
鎮西中学林卒業。直ちに曹洞宗大学林に入学。
在学中、法兄梵海和尚の誘引で日置黙仙師に接見、随身の縁を結ぶ。

 

明治33年(1900)25歳

冬、可睡齋住職日置默仙師について立身。


明治34年(1901) 26歳
曹洞宗大学林卒業。宗門給費内地留学生に選ばれ、京都において三年間仏教研究。

 

同年9月20日 高階默僊の室に入り嗣法す。


明治36年(1903) 28歳
師席をつぎ永泉寺に住職。


明治37年(1904) 29歳
可睡斎に上り日置黙仙師について参学修学。あわせて副寺に任ぜられ四年間寺務をとり補佐す。


明治38年(1905) 30歳
静岡県周智郡飯田村の崇信寺に住職。


明治42年(1909) 34歳
曹洞宗大学林教授に任ぜられる。

 

 明治45年(1912)(1月1日-7月30日)
 大正元年(1912)(7月30日-12月31日)
 


大正4年(1915)40歳
大学林教授を辞任。福岡県材木町安国寺の住職となる。

 

 福岡市安国寺・奥書院・位牌堂・絵葉書(東川寺所蔵)
 福岡市安国寺・奥書院・位牌堂・絵葉書(東川寺所蔵)


大正5年(1916)41歳

日置黙仙禅師永平寺六十六世になるに及び隨行長となる。

 


 

大正8年(1919)8月25日 58歳 「悟道の妙味」を著し、隆文館図書株式会社より発行する。

 

「悟道の妙味」 高階瓏仙著(東川寺蔵書)
「悟道の妙味」 高階瓏仙著(東川寺蔵書)

「悟道の妙味」

 

夫れ禪道の極地は言詮不及意路不到なり、故に教外別傳不立文字と云う。
對機の説法、舌頭を皷して微妙の法門を普説し、管頭を弄して這箇の眞諦を闡明するは又た何んぞ妨げん。
故に須らく此意を體して、言衆文體の外に向って妙所に承當せんことを要す。
今、衲が久参の随徒高階瓏仙和尚が随時の葛藤を集めて一巻と為し、名(づ)けて悟道の妙味と云う。
是れ蓋し叩門の瓦子、示月の指頭なりと雖も、讀者若し砂中に眞金を辨得するの一隻眼を具せば、亦た以て妙悟に入るの一助たることを得ん歟。
依て為めに一言之れを序す。
  大正八年五月一日
    吉祥山主 日置黙仙

 

自序
拙納元より道味に貧しと雖も、時に随って接物応機に務む。
其間縁に応じて随所に宣述したる落草の筌蹄、輯めて一巻と為し「悟道の妙味」と名づけて刊行せんことを覓めらるるまま、其の編輯配置の凡てを菅原洞禪師に一任することとなせり。
若し此の閑文字僅かに世益に値することを得ば、法施一分の功徳を成就することを喜ぶものなり。
此書刊行に際して、永平寺貫首不老閣猊下は特に序を賜うて畫龍に点眼し玉うの栄を蒙る、感激の至りに堪えず、謹んで謝し奉る。
  大正八年東宮御成年式典の日
    福陵鐵馬臺 高階瓏仙誌

 


 

大正9年(1920)45歳
日置黙仙禅師遷化後、新井石禅禅師の隨行長を勤める。

 

大正12年(1923)48歳
インド仏跡参拝。あわせて海外居留邦人慰問使を兼ね、帰途、中国の天童山、育王山などの祖蹟巡拝。


大正13年(1924)49歳
曹洞宗宗議会特撰議員となる。

 

 大正15年(1926)(1月1日-12月25日)
 昭和元年(1926)(12月25日-12月31日) 

 

昭和2年(1927)52歳
曹洞宗宗議会議員改選に際し、公選議員第三十一次、第三十二次、宗議議会議長。


昭和3年(1928)53歳
五十嵐総監に代わり、曹洞宗朝鮮布教総監に就任する。


昭和6年(1931)56歳
静岡県秋葉総本殿、可睡斎に転住する。

 

昭和7年(1932)11月3日 57歳

可睡斎晋山式を厳修する。

 

大乗禅」第九巻第十二號は高階瓏仙老師晋山號として特集を組む。

 

 「大乗禅」高階瓏仙老師晋山號(東川寺蔵書)
 「大乗禅」高階瓏仙老師晋山號(東川寺蔵書)
 大乘禪・高階瓏仙老師晋山號より(東川寺蔵書)
 大乘禪・高階瓏仙老師晋山號より(東川寺蔵書)
可睡斎法堂・絵葉書(東川寺所蔵)
可睡斎法堂・絵葉書(東川寺所蔵)

 

祝辭 (高階瓏仙老師・可睡齋晋山式)

高階師と予とは誠に不思議な因縁がある。明治二十九年に曹洞宗大學林に一所に入り、三十三年のストライキも一所にやつて一年間卒業を延ばすやうな苦心を共にし、其の後、師は留學生となつて三乘部の研究をして居たが、後曹洞宗大學林の教授に就任することになつた。其の時予は遙々學校に行つて推薦の辭を述べたものである。福岡の安國寺住職となつた爲に曹洞宗大學林を辭して故郷へ戻つて行く時大學林関係者其他主催の送別會が行はれたが其の時も會場の都合で予の自坊で送別宴を張ることヽなつた。

師が印度の佛蹟を參拝して歸つた時の歓迎會も亦我が萬隆寺に於て行はれた。師は初から日置門下と云ふわけではなかつたが、日置禪師の下に走り、予も亦西有禪師の関係から日置門下に赴き、日置禪師の遷化せらるヽまで共に日置門下と云はれてゐた。禪師遷化の後、予が特選議員となれば師も亦特選議員となり、予が公選議員となれば、師も亦公選議員となり、議場に於て相見ゆること六年、予が豫算委員長とか院内總務とか云ふ實際的方面に働いて居る時に師は議長の榮位を得た。二年の後議長を辭する時も豫め予の所に相談に來られたくらゐで會派は違つて居ても意氣相投ずる人として、予に取つては殆ど他に類の無い好き友人である。師は其の後朝鮮布教總監となり、福岡と京城との間を毎月往復する慌しい生活をして居たが、今回可睡齋の請を受けて茲に晋山式を擧げることになつた。師の寺門經營の才は蓋し日置禪師に學ぶ所多く、又其の天才も備つてゐる事であるから穆山、默仙兩禪師相次いで御盡力になつた可睡齋も茲に好き相續者を得て必ず大発展をすることであらう。殊に師が可睡齋に出らるヽと云ふ事は我が宗門が適材を適處に置く爲には法系又は俗縁のみに依つて寺院の相續者を定むるものではないと云ふ一大模範を示したものである。穆山禪師は法系に執着せずして適材と認めた默仙禪師を後董に請し默仙禪師は又同じ意味を以て(秋野)孝道禪師を後董とした。師が今孝道禪師の志を承け乾堂和尚の後任として可睡齋に住職するのは兩禪師の意志は自ら通じたものと云へやう。・・・(後略)

  昭和七年十一月三日

      東京、浅草、萬隆寺 

            辱知 來馬琢道

 (「大乘禪」32~33頁より)

 


可睡瓏仙(東川寺所蔵)
可睡瓏仙(東川寺所蔵)

足ることを知って不足を思わず

堪忍を守って腹を立てず

明見を能くして愚癡を言はす

 滅之毒訓 昭和九年六月 可睡瓏仙

 

精進-可睡瓏仙書(東川寺所蔵)
精進-可睡瓏仙書(東川寺所蔵)

精進

『汝等比丘、もし勤めて精進すれば、すなわち事として難(かた)きものなし。
この故に汝等まさに勤めて精進すべし。
たとえば少水(しょうすい)の常に流れて、すなわち能く石を穿(うが)つが如し』

「佛垂般涅槃略説教誡経・仏遺教経」より

 

(紹介)

秋葉山総本殿・可睡斎ホームページ

 

昭和10年(1935)12月27日 60歳

高階瓏仙著「禪と日常生活」を鴻盟社より発行。 

 禪と日常生活・高階瓏仙著
 禪と日常生活・高階瓏仙著

 

「禪と日常生活」 高階瓏仙

 禪とは佛心宗なり

私の題は、只今御紹介のやうに「禪とは佛心宗なり」と出して置きました。今日まで十回に亘り種々なる方面から禪のお話が出されました。いづれは同じやうなことでありますが、私の今日お話せようとすることは、提唱でも講義でもありません。これから禪を知りたい、求めて見たいと思ふ人、いはヾ初心の人の爲めに、禪宗の一端をお話するつもりであります。依つて、すでに禪に御経験のある方には、河端で水を賣るやうなもので、敢て珍しくもないお話であることをお斷りいたして置きます。

 佛心宗と佛語宗

今、日本の佛教が分れて十三宗ありますが、これを大別しまして、佛心宗と佛語宗といふことを申します。

佛語宗とは、佛(ほとけ)が言葉で説かれた教法、即ち經典に依つて開かれた宗旨のことであります。例せば、法華經に依つて開かれたのが、天台宗及び日蓮宗であり、淨土の三部經によつて開かれたのが、淨土宗及び眞宗であり、華厳經に依つて華厳宗が開かれてゐるやうなのを云ふのであります。

然るに、禪宗は、坐禪をする宗旨であるから「禪宗」で名が通つてゐるけれども、その坐禪は何の爲めにするかと云へば、佛の悟(さとり)である佛心を學び傳へるのであるから、禪宗のことを、また「佛心宗」と申すのであります。

佛語(經典)に依らずして、佛心(さとり)を主とする故に、禪宗の宗格はといへば、以心傳心であるとか、教外別傳であるとか、不立文字であるとか申すのです。(後略)

(高階瓏仙著「禪と日常生活」1~3頁より)

 

 禪と日常生活・講演放送中の高階老師
 禪と日常生活・講演放送中の高階老師

 

昭和13年(1938)63歳
3月から4月、及び8月から9月に亘り、管長代理として北中支派遣軍慰問する。

 

同年、8月25日「禅乃要諦 清談金剛経」を著し、中央佛教社より出版する。

 下記「禅乃要諦 清談金剛経」参照

 

 禪之要諦清談金剛経より高階瓏仙老師近影
 禪之要諦清談金剛経より高階瓏仙老師近影

 

昭和16年(1941)6月28日 66歳
総持寺独住第十二世の貫首に晋住する。


同年7月17日、永平寺七十一世貫首に晋住する。

 
同年7月23日、大鑑道光禅師」の禅師號を勅賜される。

 

 月落不離天-永平七十一世瓏仙(東川寺所蔵)
 月落不離天-永平七十一世瓏仙(東川寺所蔵)

『大衆且道 從甚麼處得。
良久曰 水流元在海 月落不離天』 「五灯会元」より

『水流れてもと海に在り 月落ちて天を離れず』

  永平七十一世瓏仙

 

昭和16年(1941)12月8日 日米開戦(真珠湾攻撃)

 

昭和18年(1943)3月
本山僧堂併置の禅林付属「傘松学園」は昭和3年5月1日付けで設立され、爾来十五ヶ年の歴史があるが、祖山の一隅より「傘松学園」の表札が取り去られ廃止となった。

 

昭和18年(1943)5月28日 68歳
五月初旬体調を崩したが健康回復し、同日、満州および北支方面へ巡教の旅に出る。
曹洞宗両大本山北京別院・観音寺、入仏式。
雲崗石仏参拝。
北京軍病院を慰問し、北京市内で講話し、その後朝鮮各地を巡錫し帰国。

 

昭和18年(1943)9月20日
永平寺四門首の一つたる肥後国大慈寺の新命望月義庵師、晋山上堂の式典を挙げる。
白槌師は伊豆修禅寺住職丘球学師。
望月義庵師は種田山頭火の師僧。

 

昭和18年(1943)9月30日

大梵鐘の應召

苛烈きはまれる此の大戦争、鉄量の戦いと云われる此の激戦を断固戦いぬくためには国内あらゆるものが進んで戦力化さねばならむ要請に応えて、祖山でも多量の金属佛具什物その他金属製品を供出したが、今回は愈よ文字通り音に響いた山門前の大梵鐘と承陽殿前の梵鐘が勇躍應召することとなり、九月三十日、一山清衆総随喜のもとに歓送供養法要が厳修され、多数人夫の手によって直ちに引き下ろし作業が進められた。
この大梵鐘が鋳造されるに至った来由は大要左の如くである。
 明治三十五年は高祖大師六百五十回大遠忌の辰に正當し、盛大裡に其の大法要が營辨されたのであるが、これが記念事業としての仏殿、僧堂を始め其の他幾棟かの伽藍が大々的に増改築され、祖山は其の面目を一新するに至った。
 然るに只一つ祖山の大伽藍には不相応に貧弱だったのは其の梵鐘だった。
 特にこれを痛感されたのは豊川妙巖寺住職福山白麟和尚(本山六十五世黙童禅師の法嗣、福山界珠禅師の本師)であった。
そこで白麟師は其の師黙童禅師および檀信徒と相謀り、巨額の淨財を集め投じて此の大梵鐘を鋳造する運びとなった。
 鋳工は豊川の名工中尾十郎兵であった。
 時に明治三十四年、祖山貫首は六十四世森田悟由禅師であった。
 爾来四十有二年、梵鐘としては敢えて古いものではないが、音響絶佳一声まことに聞者の耳根心根を浄め迷夢を驚覚して大圓通に入らしむる底のものであった。
 志比の谷間に峰々に其の妙声を響かせてここに四十余年。
 去る御忌のおつとめを最後に鐘楼を下り、身をくだいて怨敵退散の弾丸と化することなったのである。
 尚、平日撞きつづけられていた承陽殿前の梵鐘も應召となったので、それに代わって国宝の名鐘が再び鐘楼にのぼることとなった。
 此の国宝の梵鐘は今を去ること凡そ六百余年、五世中興義雲禅師が開基家当主波多野通貞公の助縁のよって鋳造されたものであり、大正十年国宝に指定され、ここ十余年この方は聖寶館に秘蔵されていた。
 久々に再び国宝中興古鐘の妙音を聞くわけである。

 (「傘松」昭和18年十月号、27~28頁より)

 

昭和18年(1943)11月16日
高浜虚子は靡下の十哲等と共に上山。往昔俳聖芭蕉は辿りし祖道を訪ねて句会を開き、夕刻に下山する。

 

昭和19年(1944)1月19日
曹洞宗管長秦慧昭禅師の遷化に伴い、宗制第三十条によって高階瓏仙禅師は永平寺住職を退任して曹洞宗管長に就任し、宗制第二百九十九条によって大本山總持寺貫首佐川玄彝禅師が永平寺に転住して永平寺第七十二世住職となり、宗制第三百条に従い永平寺西堂熊沢泰禅師が總持寺独住第十六世住職となる。
しかし間もなく、昭和19年(1944)2月8日、佐川玄彝禅師は四大不調により永平寺を退董されたので、總持寺独住第十六世熊沢泰禅住職が永平寺七十三世住職に転住し、金沢大乗寺住職渡邊玄宗師が總持寺独住第十七世住職となった。

 

昭和19年(1944)2月4日 69歳
曹洞宗管長に就任する。以来、全国を巡錫される。

 

曹洞宗管長・可睡斎瓏仙(東川寺所蔵)
曹洞宗管長・可睡斎瓏仙(東川寺所蔵)

「信仰は心の安宅なり」

 曹洞宗管長 可睡斎瓏仙

 

昭和20年(1945)8月15日 太平洋戦争終結(ポツダム宣言受諾、敗戦)

 

  終戦勅語旨
 (堪へ難きを堪へ忍び難きを忍び以て)萬世の爲に太平を開かん


昭和25年(1950)75歳
セイロンにおける第一回世界仏教徒会議日本代表として出席する。

 

再度渡印された高階禅師

去る五月から六月初にかけてセイロン島コロンボにおいて開催された世界仏教徒大会の招請に応じ、全日本仏教界を代表して出席されることとなった管長高階禅師は、五月二十二日夜半、侍局員佐瀬じゅん光師を帯同してパンアメリカン機で羽田を出発、二十五日夕刻無事コロンボ、翌二十六日にはコロンボの競馬場で開催されたセイロン国総理大臣の司会にかかる大会席上において長文のメッセージを朗読、敗戦日本国の仏者として、全世界の仏教徒代表に向かって大いに訴えるところがあった。
無事大会出席の使命を果たされた禅師は、帰路も飛行機だったが、途中印度の聖地ブッダガヤに立寄られた。
高階禅師はすでに大正十二年一月、印度仏跡をくまなく巡拝されており、仏陀正覚の聖地ブッダガヤは再度の参拝であるが、特に禅師が今回の忙しい飛行機旅行の途次この地に立寄られたのは、高祖大師の御霊骨を奉持し、いわば高祖大師のお伴をしてのブッダガヤ参拝だったのである。
なお禅師が奉持して渡印された高祖大師の御霊骨というのは、こうした因縁によるものである。
明治十二年祖山の承陽殿が火災に遭って炎上したとき、高祖大師の御霊骨が一旦掘り上げられた。
時の住職は六十一世の久我環溪禅師であったが、当時可睡斎の住職だった西有禅師は、東北地方の宗門の檀信徒は、遠隔のため祖山参拝は容易でないから東北の地に高祖大師の御霊骨の一分をお迎えしたいと懇願し、その望みがかなって、高祖の御霊骨一分が、青森県八戸の法光寺に祀られることとなったのであるが、更にその一分が遠州の可睡斎にも分けられたのであった。
今回高階禅師が、はるばるセイロン印度へ奉持された御霊骨というのは、こうした因縁による御分骨である。
(「傘松」第十六号・昭和二十五年七月発行 十一頁より)


昭和27年(1952)77歳
東京における第二回世界仏教徒会議の総裁に就任する。

 

昭和27年
高祖道元禅師七百回大遠忌・記念色紙(於永平寺) 

山色清浄身・高祖大師七百大遠忌記念・管長高階瓏仙
山色清浄身・高祖大師七百大遠忌記念・管長高階瓏仙

 

昭和28年(1953)4月25日

高階瓏仙逑「舌頭禅味・・眞味は自知すべし・・」を鴻盟社より出版す。

「後記」

本書は管長高階瓏仙猊下が、時に臨み折にふれての御親教を、随身が筆録しそれに旧稿を加え猊下の御訂筆を得て編纂した。

この出版は前からの企てもあつたが、今回御渡米に当り、日時おしつまつてハワイ等から是非禅師の御著述をという注文にて、止むを得ず急に編纂し、傍の見る目も御気の毒なほど御多忙の猊下が、夜中、曉天の寸毫を惜んで閲覧され、鴻盟社主の好意により漸く御出発までに間に合つたのである。(高階管長侍局謹記)

 

昭和28年(1953)5月5日 78歳
ハワイに向け出発する。

ハワイ及び北米に巡錫する。

 

昭和29年(1954)2月 79歳
可睡斎、再住。
同年6月、仏教親善使節及び戦跡慰霊のためビルマに赴き、同年12月、第三回世界仏教徒会議に日本代表団六十八名の名誉団長として出席する。

 

昭和29年(1954)9月29日
京都東山の高台寺の近く、円山公園の音楽堂の横の西行庵の真裏に在る、道元禅師荼毘塔は荼毘塔の保護と顕彰を目的とする正法会により霊域拡張整備工事が進められ、第一期工事完了し、塔前において高階管長導師のもと、盛大な落成法要が営まれた。


昭和30年(1955)80歳
9月より約二ケ月にわたり、南米、ブラジル開教のため巡錫。帰途、北米、ハワイに巡錫する。

 

昭和32年(1957)5月18日 82歳

鎌倉、大船観音起工式を挙げる。

 大船観音起工式・啓白法語

恭しく惟るに当大船大観音の尊像は、曾て建立発願者の当時国民の不安を憂い、民心の浄化、国家の平安、世界の平和を祈願する広大無辺の意志を継承し、更に万世の為に太平を開く終戦の聖旨を奉体して、今般尊像の完成を達成すべく新たに設立せる、財団法人大船観音協会の理事評議員顧問等の役員を代表して、今月今日、大鑑道光禅師瓏仙、大慈悲父広大霊感観世音菩薩の大宇宙に恒存し玉う照鑑不昧の真霊に対し奉り敬って白す。

今や世相の現象は、人間の俗膓より吐出す三毒煩悩の毒気充満して人心甚だ不安の時、天地の清明を開きて人心の不安を除き、平和を招来して地上の仏国土を開顕することは、偏に人間の秘蔵する仏心を啓発するにあり。

而して仏心とは大慈悲心是れなり。此の大慈悲の仏心を開発して人心を浄化する。是れ則ち観世音菩薩の大誓願なり。然るに当大船大観音の尊像は、時到らず縁熟せず、久しく光明を開き玉わざりしに、茲に時節到来して諸仏諸菩薩及び仏法守護の諸天善神、日本国中大小神祇の冥加を仰ぎ、尊像完成の大工事に着手す。希くは、諸の支障なく速かに菩薩の微妙相を示現して、十方を慈照し衆生の困苦を救い、五濁の世相を浄化して世界平和の象徴と護国安民の大光身を出現し玉わんことを祈願し奉る。

  畢竟如何が宣揚せん。

 大悲願力対縁親。(大悲の願力、縁に対し親し。)

 自在神通現浄身。(自在神通、浄身を現ず。)

 時節到来機亦熟。(時節到来し機も亦た熟す。)

 完成聖業起工新。(完成の聖業、起工新たなり。)

  (「高階禅師香語集」168~169頁より)

 

昭和32年(1957)5月
全日本仏教会会長に就任する。

 

昭和34年(1959)84歳
仏教界代表として、皇太子ご成婚式に招待される。
同年10月、日中仏教交流のため、日本仏教団四十余名の名誉団長として、中国に赴く。

 

昭和35年(1960)4月28日 85歳

鎌倉、大船大白衣聖觀世音の開眼供養及び落成式。

 

昭和36年(1961)1月20日 86歳

高階瓏仙著「舌頭禅味」を鴻盟社より再版出版す。

 

 高階瓏仙著・舌頭禅味(東川寺蔵書)
 高階瓏仙著・舌頭禅味(東川寺蔵書)

 

「舌頭禪味・・眞味は自知すべし・・」

これから述べんとする禪の話は、改つた講義や提唱でなく、禪を正しく知り、理解したいと希望する人達と座談のつもりである。そこで禪の教化や、禪精神による芸術が日本の文化に寄与した力は非常に大きい。手近な日常生活を見ても、味噌、澤庵漬、豆腐等、庶民の食生活の基調となるものは、殆ど禪が将来したものである。毎朝口をそヽぎ、顔を洗うという日常欠くべからざる作法もまた道元禅師の教えである。茶の湯、生花の発達も、禪精神がその構成の本源をなしている。然るにその禪とは如何んと言うことになると解答甚だむつかしい。教外別伝、不立文字というて舌も筆も及ばぬところであるから、兎角説明は困難だが、一応どういう要領なものかをこの書によつて初心の人に少しでも分つてもらえば結構である。

さてこの禪を学ぶことを参禪という。参禪ということは坐禪ということヽ同意であつて、道元禅師の正法眼蔵の中に「参禪は坐禪なり」と仰せられてある。もともと禪というのは参禪の略語で、坐の字を略して言いならわしているのである。・・・・

(高階瓏仙著「舌頭禅味」1~2頁より)

 

 高階瓏仙著・舌頭禅味・表紙裏画
 高階瓏仙著・舌頭禅味・表紙裏画


昭和38年(1963)88歳
核兵器禁止宗教者使節団を結び、平和運動呼びかけのため松下正寿、橋本凝胤氏らと、五十日間にわたり欧米各国を歴訪する。

 

高階瓏仙禅師・米寿紀念写真(高階禅師香語集より)(写真加工有り)
高階瓏仙禅師・米寿紀念写真(高階禅師香語集より)(写真加工有り)


昭和39年(1964)6月 89歳
中華人民共和国仏教界の招請により、北京仏舍利塔落慶式に参加し、その後三週間にわたり同国を巡錫する。

 

昭和39年(1964)7月5日 89歳
玄奘三蔵入滅千三百年に当たり、知切光歳著の「玄奘三蔵」が発行され、その序を著す。 

 

「玄奘三蔵」知切光歳著(東川寺蔵書)
「玄奘三蔵」知切光歳著(東川寺蔵書)

 

「玄奘三蔵」知切光歳著

 

「発刊にあたって」

 

小説「西遊記」で、東洋全国民の間に親しまれている玄奘三蔵は、孫悟空などという奇怪の助けを得て数々の災難を克服し、印度に渡って原典の真経を将来せられたことになっているが、実際の玄奘三蔵は、誰人の助けも借りることなく、独行三千里、百十ヵ国の国々を踏破して印度を訪れ、刻苦勉励の末、仏経の真髄を体得し、帰国に際しては、一百五十粒の貴重な仏舎利、八体の釈尊像と共に、五百二十夾、六百五十七部の経卷を、馬匹二十二頭に積載して帰還せられた仏教界随一の豪僧である。
しかもその間、十七年の大旅行であったにもかかわらず、帰国するやその年からすぐに訳経にかかり、朝四時から夜十時まで孜々(しし)として倦まず、努力をつづけること二十二ヵ年、往生の間際まで訳しつづけられた経卷は、一千三百三十五巻にのぼり、その中には「大般若経」六百巻をはじめ、「瑜伽師地論」一百巻などの大冊から、「般若心経」のような珠玉の如く貴き小経巻まで含まれている。
玄奘法師が将来せられた六百五十七部の経巻は、印度でもそれだけ揃っているところはなく、玄奘法師は自ら龍樹菩薩、天親菩薩などの元地まで訪れ、自ら営々として蒐集せられた大悲願の結晶で、一千三百三十五巻の訳業は真に空前絶後の大聖業であると共に、六百五十七部原典の将来もまた、玄奘法師を措いて曾て誰人にも、それは皇帝の力を以てしても企て及ばなかった大成果であることを憶うとき、玄奘三蔵法師の一生を通じての業績がいかに偉大なものであったかを思い知るべきであろう。
玄奘三蔵法師は帰国の翌年、自分が踏破した西域印度の道程を「大唐西域記」によって紹介しておられる。
これは純然たる地理書で、沿道の里程、地理、国勢などを誌したものだが、その觀察の鋭さ、正確な記述は現代も尚、古代西域お地理、歴史研究最大の指針書として、世界の地理学者たちに尊重されている。
熱烈な求道の旅の副産物に過ぎない旅行記にさえ、玄奘三蔵の不滅の足跡が印されているわけである。
本年はあたかも、玄奘三蔵入滅一千三百年に当たるので、仏教徒はその偉徳を偲び、併せてその偉業を現代に生かしたいという念願のもとに、各種の記念事業を遂行中であるが、たまたまその顕彰事業の一環として、数年前から仏教タイムス紙に連載中の小説「玄奘三蔵」を一冊に纏められると聞き、誠に時宜に適した企画として欣快に堪えない。
作者の知切光歳氏は、曾て第三回世界仏教徒大会がビルマに於いて開催せられた時、予は団長として出席せるに同行し、さらに他の同志と印度仏蹟を巡拝せられたこともあって、玄奘三蔵に関する厖大な文献を蒐集し、正確な史実に基づいて執筆をつづけておられることは、夙に世人の聞知するところであるが、小説の内容を読めば理解せらるるが如く、無味乾燥な伝記に止まることなく、適宜にフィクションを交えながら、しかも玄奘三蔵の勇猛心のよって来るところを遺憾なく読者に訴える筆致の妙に敬意を表したい。
本書の刊行に当たって、いささか玄奘三蔵法師の偉業を記して序に代える。
 昭和三十九年七月五日
  玄奘三蔵千三百年記念会会長
  全日本仏教会会長      高階瓏仙

 

 

昭和40年(1965)2月 90歳
核実験禁止宗教者平和使節団名誉団長として中近東各国を歴訪する。
同年9月、ブラジル開教十周年記念式典、及びリオデジャネイロ市四百年祭に招かれ、一ヶ月間にわたり巡錫。

 

生死可憐・・・高階瓏仙禅師九十翁(東川寺所蔵)
生死可憐・・・高階瓏仙禅師九十翁(東川寺所蔵)

  (道元禅師、深草閑居)

    生死可憐雲変更。 生死、憐む可し、雲の変更。

    迷途覚路夢中行。 迷途、覚路、夢中に行く。
    唯留一事醒猶記。 唯だ一事を留めて、醒めて猶、記す。
    深草閑居夜雨声。 深草の閑居、夜雨の声。

  昭和四十年四月于時九十翁

   永平七十一世管長瓏仙敬書

 

 

水四訓

 
自から活動して他を動かしむるは水なり。
常に己れの進路求めて止まざる水なり。
障害に逢ひて激しく勢力を倍加するは水なり。
自から潔くして他の汚濁を洗ひ清濁合せ入るる量あるは水なり。
(曹洞宗)管長 (高階)瓏仙書

 

水四訓-曹洞宗管長・高階瓏仙禅師(印刷)(東川寺所蔵)
水四訓-曹洞宗管長・高階瓏仙禅師(印刷)(東川寺所蔵)


昭和41年(1966)1月 91歳
曹洞宗主催、戦没者慰霊祭のため沖縄に巡錫。


同年11月、タイ国チェンマイ市における世界仏教徒会議に日本仏教代表として出席し、続いてインド仏跡参拝し、帰途台湾を訪問する。

 

高階瓏仙禅師の入竺沙門 色紙(東川寺所蔵)
高階瓏仙禅師の入竺沙門 色紙(東川寺所蔵)

 

昭和42年(1967)92歳

 

高階瓏仙禅師書簡・封筒(東川寺所蔵)
高階瓏仙禅師書簡・封筒(東川寺所蔵)
高階瓏仙禅師書簡・本文(東川寺所蔵)
高階瓏仙禅師書簡・本文(東川寺所蔵)

 

高階瓏仙禅師の書簡

 

 二伸
今年頭は年賀状も今日迄延期致し申訳無之御無沙汰を極めた事を御詫び申上げます。
(中略)
永平寺熊沢禅師は今年九十五才になられた程に私より老躯にて、それに飛行機ギライで地方巡化も省略が多く(あまり多く地方巡化日程を組まない意味か?)、総持寺孤峰禅師は近年以前より歩行の出来ぬ足の病いと眼見も不自由で、三禅師の内私が代表的に地方教化に勤めて居ましたが、十一月泰国元シャムに於ける世界仏教徒協会に日本仏教を代表して出席することになりました。
ところが其の機会に印度仏跡に巡拝する者が出来、五十人余り同行する様になり、其団体とは途中にて分れて、帰途臺湾に立寄る様なことにて、帰国後は十二月に入り可睡斎の火まつ(り)大祭となり、慕年になり新年になり雑多な用務に動きます内、疲労も覚える気味になり可睡斎の火まつり後、十日余り長岡温泉所に静養致して、新年は可睡斎にて行事有之て一月七日迄居り、上京して去る十日より去る二十日迄健康補給なりユワユル人間ドク式に東京東大病院の分院に入りて、去る二十日退院致して居(り)ます(中略)
春期になり彼岸頃より地行巡化もあることに付き当分十分修養をと近側より申され居ります次第で居ります(後述略)

 

 杉並区阿佐谷北五丁目十五ノ五 高階瓏仙

 

 

昭和42年(1967)92歳

韓国統一仏教・曹渓宗及び京城の東国大学校長らの招きをうけ、日韓仏教親善使節として巡錫。


昭和43年(1968)1月13日 93歳
熊沢泰禅禅師の密葬秉炬師として上山。


昭和43年(1968)1月19日、東京逓信病院にて遷化。世壽九十三歳。
同年1月25日、永平寺東京別院で密葬。

密葬秉炬師 総持寺貫首 岩本勝俊紫雲台猊下。

 

同年5月4日、永平寺東京別院において本葬儀。

本葬儀 
 秉炬師 佐藤泰舜 曹洞宗管長
 奠茶師 山田霊林 永平寺副貫首
 奠湯師 金剛秀一 総持寺副貫首
 起龕師 室峰梅逸 総持寺監院
 対真小参師 丹羽廉芳 永平寺東京別院監院
 掛真師 川口賢龍 元永平寺後堂
 鎖龕師 石橋洞龍 総持寺後堂
 移龕師 井上道雄 雲龍寺住職
 入龕師 浅野哲禅 大洞寺住職

 

遺偈 「珠廻玉転 九十三年 末後一著 道光寂然」

 



 公界道場・七十一世瓏仙書 (永平寺所蔵)
 公界道場・七十一世瓏仙書 (永平寺所蔵)
忍徳-管長瓏仙(東川寺所蔵)
忍徳-管長瓏仙(東川寺所蔵)


 

昭和43年(1968)12月15日

高階瓏仙著「無垢清淨の光」が昭和仏教全集第2部15として教育新潮社より発行される。

 

高階瓏仙著「無垢清淨の光」(東川寺蔵書)
高階瓏仙著「無垢清淨の光」(東川寺蔵書)

 

昭和45年(1970)1月19日

高階瓏仙著「瓏仙いかだ集」久野來応編が可睡斎「道光」編集部より発行される。

 

高階瓏仙著「瓏仙いかだ集」久野來応編  (東川寺蔵書)
高階瓏仙著「瓏仙いかだ集」久野來応編  (東川寺蔵書)

「禅乃要諦 清談金剛経」

高階瓏仙著 「禅乃要諦 清談金剛経」 (東川寺蔵書)
高階瓏仙著 「禅乃要諦 清談金剛経」 (東川寺蔵書)

禅乃要諦 清談金剛経」高階瓏仙著

 

自序
予嘗て、千葉県佐倉堀田子爵邸の薫風会に於て数席に渉り講話せし筆録を校正して、最近「大乗禅」に於て通俗話談の意味に依り、「俗談金剛経」と題して連続掲載せられたり。今般それを単行本として中央佛教社より発刊せらるるに付いて、「清談金剛経」と改題せり。
然るに現今、金剛経信仰に造詣の第一人者とも言うべきは濱地八郎氏天松居士である。
居士の熱心なる金剛経信仰の宣布は弥々八方に普及しつつあるが、其の根本道場として東海道線大船駅前に無我相山を開き、故日置黙仙禪師を開山として寺号を黙仙寺と称す。
蓋し無我相山と称するは金剛経を一貫する経理の信条が無我相と云うにあるからである。無我相とは小我を脱却した大宇宙の実相、即ち真理の姿である。
其の大無我の実相を吾人の本性として亨有して居る、それを金剛不壊の心性と云う。
其の心鏡を開悟して実相に即応する生活指導の原理が此の金剛経である。
金剛とは譬の名である。
此れは天界に存在する宝玉であると云う。
現に人界に於ても金剛石は貴重なる宝石である。
其の体堅固にして、能く他を摧破する力を有し、而して無垢清淨の光を放って居る。
それの如く、吾人の心性も亦た、その徳と力と光を有すると云う如来の示教である。
此の心性を無我と云う。
即ち小我の皮相を脱穀した大宇宙の精神である。
今や国民精神総動員を強調する非常時下の覚悟は、人々小我の窟宅に拘在せず、此の無我の信念に立脚する精神こそ、直ちに我が肇国の大理想たる八紘一宇の大乗的心理にして、東洋は勿論、全世界に輝く大日本の国民精神である。
故に本書を発刊して非常時下各人教養に一助に供し、以て精神報国の一端に捧げんと欲す。
但し話術の拙劣は伏して萬怒を乞う。

  昭和十三年建国祭の日

      遠陽 可睡斎主 高階瓏仙

(本文省略)


居士勝縁ありて金剛経を受持読誦すること五十余年、初めは恒河の深く広くして、其の底の知れざる如く、中頃は只其の水流の青く黒く一色なるが如く、後には其の水流の澄み渡りて石や沙の一々を見る如く、数十年間毎日何回となく読誦する度に、自己の心鏡の異なるに従って其の風光を異にし、窮極する處を知らずして七十五才の今日に至れり。
金剛経に「諸佛及諸佛の阿耨多羅三藐三菩提の法は此経より出づ」「佛と法とは佛と法とにあらず」「一切の法は皆佛法なり」「我相を取るも我人衆生壽者に著す、非法相を取るも我人衆生壽者に著すと為す」「我相は即ち是れ相にあらず、人相衆生相壽者相は即ち是れ相にあらず、一切の諸相を離るるを諸佛と名づく」とあり、而して「此経を受持読誦すれば最上第一希有の法を成就す」とあるを以て、此の経の受持読誦に依り、諸相を離脱して成佛することを知るべし。
五祖大師も亦金剛経を受持読誦すれば、自然に見性成佛すと説き給えり。
故に今日の如く怪しき師家多くして正師少なき時に於いては、此の経を受持読誦するを最も正しく最も安全なる修養の方法なりと信ず。
高階瓏仙老師と居士とは日置黙仙禅師の会下に於いて道交を得、爾来数十年の今日に及べり。
同師は篤信博学高徳の知識なることは世の普く知る處にして、老師が金剛経を清談せられたることは今日の佛法の為には暗夜の燈に比すべきものにして、而して其の説く處、簡易明快にして従来の講釈の如く、渋難ならざる特色あるを以て、之れを受持読誦すれば見性成佛疑いなきことを信ずるものなり。
  昭和十三年憲法発布五十年記念の日
           天松居士 濱地八郎

 


萬古清風・永平瓏仙(東川寺所蔵)
萬古清風・永平瓏仙(東川寺所蔵)


 

「修養八條訓」 高階瓏仙

 

第一 人は常に心に不足を持つまじき事

佛教には此の世をば娑婆と云ふ、娑婆とは堪忍土と云ふことである。人は、常に何事にも心のまヽを望めども兎ても満足の出来ぬが此の世の定まりと明めて、不足の心を持たぬ様辛抱すべき事である。

 

第二 人は徒らに腹を立つまじき事

物の道理の分らぬ人は堪忍の力足らずして常に心に不平を抱く、之れは己れと己れの心を抑ゆる力の足らぬ恥かしき振舞いである。人の本心は平和なものなのに不平を起して腹を立つるは心に波風をそゆるのであるから、それはやがて我身をくつがへすものと、能能(よくよく)合點して堪忍が大事である。

 

第三 人は益なき我慢を通すまじ事

天地の道は正直である。その正直が神佛の御精神である。故に人はすなほであれば道に叶ふて神佛の御心と合體する。けれ共剛情我慢で意地張根性の強い者は神佛の御心にそむいて、御憎しみを受けるものであるから、人々よりも自然に同情を失ふて、いつも心のうちには獨りで悶えて居らねばならぬのである。

 

第四 人の行には蔭日向あるまじき事

人の目には見える處と見えない處とがあるから蔭日向(かげひなた)があるけれども、天地の鏡には裏表がない、神佛のお眼には明るいと暗いとの隔ては無いから、人の仕業をいつも一目に御らん遊ばされてある。されば親の目、主人の目、夫の目、女房の目、世間の人の目には見えぬからとて己れの勤めに裏表ある人は、いつかは人の信用を失ふて、遂には身の立場も無き様に至るものである。故に必ず人前許り飾る如きひれつな心はゆめゆめつヽしまねばならぬのである。

 

第五 人は總て物事に後と先とを考ふべし

總て物事は今の事がいま出来るのでは無く皆出来て来る本がある。それを佛教では因果を知らねばならぬと云ふ。昨日の事が今日に及んで今日の事が明日に及んで行くから何事も油斷をしてはならぬ。若い時の怠りが年を取つての不仕合せとなる。又己れが人の爲めに親切を運べば人も亦己れに親切を向ける。故に人は目先きの事許りを考へてはならぬ。それのみならず、此の世の間の仕事が、皆來世の果報を造るから、悪い種子蒔きせぬ様に其の日其の日のつとめに用心をせねばならぬのである。

 

第六 人は常に己の及ばざる事を顧るべし

人は聊かでも己にすぐれた所でもあると、偉い気になりたがるものであるが、それが以ての外の心得違ひである。世にはそれからそれと上には上があることを知らねばならぬ。然るに自分と自分を偉い者にして気位高くする故に、その上いつも人を馬鹿にしたくなる、凡て此のたかぶる心が必ず身の災を招くのであるから、何事にも自分の及ばざる事を顧みて、いつも気を低ふして居るが出世の道なり安全の道であることを忘れてはならぬのである。

 

第七 日々の勤は御恩報謝と心得べし

世の中は人の爲めに働くと思へば、其人の禮の云ひ様報酬のしかたの悪い事等に腹が立つ、又自分の爲めに働くと思へばやヽもするとなまけたくなる。されば日々の勤めは、此の世に居る限りは如何なる人にも被(かうむ)つて居る四つの御恩がある。即ち父母の御恩、國王の御恩、世界萬物の御恩、三寶師長の御恩である。されば日々の勤めは、その御恩報謝と思へば人に不足を云ふことは無いのみならず、己れのつとめに忙がはしき程人一倍の御恩報謝が出来て有難いと思はねばならぬ。さうすれば人に使はれて居ても奉公人根性を起すことも無い、主人も亦召使許りに任せ置くべきことでは無い、倶に倶に愉快に働いて其日を送るが肝要である。

 

第八 天地の間に神佛居ますことを疑ふべからず

神佛を信ずるは所謂宗教心である。宗教心と云ふは人の偽らない心の底の現はれであるから之れを信心と云ふ。即ちまことの心である。人は何事でもまことを土臺とせねば成功すべきものでないから、常に頭の中に神佛を敬ふ観念を失はぬ様にせねばならぬ。其心から祖先も敬ひ親も大切にせねばならぬといふ美しき國民道徳も現はれて来るのである。

 

右八條の教訓は浅近簡約なりと雖も、其意を得て之れを心に置く時は日常萬事の上に過失無き事得て、人としての価値を身心の上に全ふすることを得べし。

 (高階瓏仙著「禪と日常生活」28~33頁より)

 


深草閑居・永平七十一世瓏仙賛(東川寺所蔵)
深草閑居・永平七十一世瓏仙賛(東川寺所蔵)
慶福・永平瓏仙(東川寺所蔵)
慶福・永平瓏仙(東川寺所蔵)

参考資料

「高階瓏仙禅師傳」 秦慧玉 代表編 可睡斎・発行

「高階瓏仙禅師香語集」 田中英昭編 高階瓏仙禅師香語集刊行会・発行

「悟道の妙味」 高階瓏仙著 隆文館図書株式会社・発行

「大乗禅」第九巻第十二號 高階瓏仙老師晋山號

「禪と日常生活」高階瓏仙著 鴻盟社・発行

「禅乃要諦 清談金剛経」 高階瓏仙著 中央佛教社・発行 

「舌頭禅味」高階瓏仙著 鴻盟社・再版出版

「玄奘三蔵」知切光歳著 玄奘三蔵1300年記念会・発行

「無垢清淨の光-高階瓏仙集」 別所竜城編 株式会社教育新潮社・発行

「瓏仙いかだ集」 高階瓏仙著 久野來応編 可睡斎「道光」編集部・発行