永平寺七十四世 佐藤泰舜禅師

 

永平寺七十四世 佐藤泰舜禅師

 

(世称)
  佐藤泰舜(さとう たいしゅん)


(道号・法諱)
  博裔泰舜(はくえい たいしゅん)


(禅師号)
  直指円性禅師
  (じきしえんしょうぜんじ)


(生誕)
  明治23年(1890)12月1日


(示寂)
  昭和50年(1975)2月28日


(世壽)
  86歳

 

(特記)

  盲目の禅師

佐藤泰舜禅師・東川寺所蔵
佐藤泰舜禅師・東川寺所蔵

佐藤泰舜禅師の略歴

 

明治23年(1890)12月1日 愛知県南設楽郡東郷村、父福田平吉、母佐藤つまの間に生まれる。


明治32年(1899)4月 10歳 東郷村川治勝楽寺、梅本泰順の下に出家する。


明治36年(1903)4月 14歳 勝楽寺、梅本泰順に就いて得度する。


明治38年(1905)9月 16歳 名古屋曹洞宗第三中学林に入学する。

同級生に山田霊林(後の永平寺75世貫首)がいた。


明治40年(1907)7月 18歳 同校卒業。同年9月、曹洞宗大学高等部に入学する。

 

 明治45年(1912)(1月1日-7月30日)
 大正元年(1912)(7月30日-12月31日)
 


大正2年(1913)3月 24歳 勝楽寺を継ぎ、二十八世住職となる。


大正4年(1915)7月 26歳 曹洞宗大学を卒業し、同年9月、曹洞宗宗乗研究生に任ぜられ、支那禅宗史成立を研究する。


大正5年(1916)9月 27歳 実参実究のため東京青松寺僧堂に安居し、北野元峰の提撕をうけ、傍ら雲衲に宗典を講義する。


大正7年(1918)2月 29歳 師僧の遷化に遭い青松寺を送行し、研究生を休学して勝楽寺に帰る。同年9月、再び上京し、研究生に復帰する。


大正8年(1919)2月 30歳 研究生満期、曹洞宗大学図書館主事に就任する。


大正9年(1920)3月 31歳 図書館主事を退職し、9月、東京帝国大学文学部選科に入学し、印度哲学を専攻する。

 

(大東京)我国最高の學府東京帝國大學・絵葉書
(大東京)我国最高の學府東京帝國大學・絵葉書

 

大正10年(1921)4月 32歳 東京帝国大学文学部本科に編入する。


大正12年(1923)3月 34歳 東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業し、同校大学院に入学。研究題目「支那仏教思想の発達」。


大正13年(1924)4月 35歳 駒澤大学教授、東洋大学教授に就任する。

 

 大正15年(1926)(1月1日-12月25日)
 昭和元年(1926)(12月25日-12月31日) 

 

昭和3年(1928)4月 39歳 曹洞宗海外研究員に任ぜられ、昭和6年3月まで、奈良東大寺を根拠として法隆寺、高野山、比叡山に留学して性相学の奥義を研究する。


同年12月初旬、南支那に渡り、広東、福建両省の仏教史蹟を調査する。


昭和6年(1931)5月 42歳 シベリア経由にて、ドイツに留学。次いでフランス、イギリスに赴いて西洋における仏教研究の現状を探る。

 

同年、「大乗精神」を発行する。 


昭和7年(1932)5月 43歳 セイロンを経て帰国する。


昭和9年(1934)3月 45歳 京城帝国大学助教授就任、法文学部勤務、仏教講義担当。

 

昭和9年(1934)8月30日 

佐藤泰舜校訂「夢中問答-夢窓国師-」を岩波書店より出版する。

 

 「夢中問答-夢窓国師-」 佐藤泰舜校訂 (東川寺蔵書)
 「夢中問答-夢窓国師-」 佐藤泰舜校訂 (東川寺蔵書)

 

昭和11年(1936)7月15日 47歳

自力道と他力道」佐藤泰舜 著を岩波書店より出版する。

(岩波講座 東洋思潮-東洋思想の諸問題)

 

「自力道と他力道」佐藤泰舜 著(東川寺蔵書)
「自力道と他力道」佐藤泰舜 著(東川寺蔵書)


 

「半月集」佐藤泰舜 (傘松寄稿)

 

◇ 時と命 ◇
時は命の乗り物である。出る息、引く息を乗せて刹那もやまず走り去る。時を無駄にすれば命を無駄にしたことになる。命ながらえと望みながら、命の容れ物である時間を無駄にするのは道理に合わぬ。時計を合わせて時間を守り、訪問、会合、儀式を正時間にして自他の迷惑をつつしむのが文明人の務めである。

 

◇ 形と魂 ◇
看板の字は下手でも趣きがなく、印刷の画は綺麗でも味がない。佛をつくって魂入れずと云うことがある。形が整っても心(しん)が出来ていなければ駄目である。大学を卒業しても心の教育が出来ず、物を知り業(わざ)が出来ても人格が具(そなわ)らず、年をとり甲羅を経ても人間が出来て居ないのは、形に気を取られて魂を忘れて居るからである。

 

◇ 秘密 ◇
秘密には暗い影があり、人を引き込む魅力がある。人の秘密は守るのが床しく、人の秘密を発(あば)くのは浅ましい。人を欺くことは出来ても自己をあざむくことは出来ぬ。自己を欺き得ても神佛を欺く事は出来ぬ。八面玲瓏こそ望ましいが、誤解を招いて人の為にならぬ事は隠す方がよい。人には隠しても神佛には打ち明ける得る秘密は明るい秘密である。

 

◇ 影なき光 ◇
文明は美である。しかし外に気を取られて内を忘れ、時には醜さを隠さんがために表面を飾るようになる。衣裳を着(つ)けても家を建てても挨拶をしても、その他一切の事が外観を飾るだけでは本当の文明ではない。心が美しく中味が整ってから自然に浸み出る美しさ、之を佛の光明と名づけ、普く十方を照らして暗い影がない。

 

真実 
人は誰でも真実を求めている。而かも多くの場合に虚偽を人に与えて居る。もとより虚偽を与えるつもりは無くても結果から云えば、虚偽になっていることが多い。常に反省して、何が真実であるかを見分けることが肝要である。真実を求め真実を与えんとする心はあっても、真実を見分ける心の目が明かず、目が明いても実行の出来ないのが人間共通の悩みである。

 


信は平安であり親密であり又、力である。剃刀を喉に当てられて心地よく居眠っていれるのも理髪師を信ずるからである。政府と国民、人と人、親子兄弟、夫婦朋友、互いに信じあう時に世は安穩にして仕事ははかどる。大切なことは信頼、信用、信任、信念、さまざまの信があるうちで、神佛に対する信仰心が、凡ての信の基礎である。

 


恩を知ることは尊く、恩を感ずることは一層尊く、恩を報ずることは最も尊い。どうすれば本当の報恩になるかを考えねばならない。
小恩は感じやすく報じやすいが、大恩は却って知り難く報じ難い。何が大恩であるかを弁(わきま)えねばならぬ。恩を施したことは忘れ難く、恩を受けたことは気が付きかねる。恩を施して気に留めないのが本当の恩である。


(昭和11年「傘松」七、十、十一月号より抜粋)

 



 

昭和12年(1937)7月25日 48歳

緑旗聯盟より佐藤泰舜述「大乘精神講話」が編集・出版される。 

佐藤泰舜述大乘精神講話(東川寺蔵書)
佐藤泰舜述大乘精神講話(東川寺蔵書)

 

昭和16年(1941)5月 52歳 京城帝国大学教授に任命される。宗教学講座を担当する。

 

昭和16年(1941)12月8日 日米開戦(真珠湾攻撃) 

 

昭和20年(1945)8月15日 太平洋戦争終結(ポツダム宣言受諾、敗戦) 


昭和20年(1945)12月 56歳 戦争終結し、自坊勝楽寺に戻る。


昭和21年(1946) 57歳 官制廃止により京城帝国大学教授、解任。


昭和24年(1949)9月 60歳 愛知県妙厳寺立豊川高等学校校長に就任する。


昭和26年(1951)4月 62歳 愛知学院大学教授に就任する。


昭和27年(1952)3月 63歳 豊川高等学校校長を辞任する。


昭和28年(1953)8月15日 64歳

曹洞宗宗務庁教学部より「儀式と布教」(布教指導叢書・第四輯)を発行。

その中で前京城帝国大学教授・佐藤泰舜は「第一篇 儀式と布教」と「第四篇 葬儀・法事の場合 葬式法事通夜の布教」を担当し執筆する。

 

「儀式と布教」(布教指導叢書・第四輯)  (東川寺蔵書)
「儀式と布教」(布教指導叢書・第四輯)  (東川寺蔵書)

 

昭和29年(1954)7月 65歳

なき人を思う」(佐藤泰舜述)と題した小冊子を発行する。

 

 佐藤泰舜述「なき人を思う」      (東川寺蔵書)
 佐藤泰舜述「なき人を思う」      (東川寺蔵書)

 

昭和29年(1954)8月15日 65歳

般若心経講話」を著し、古径荘より発行する。

 

「般若心経講話」 佐藤泰舜著(東川寺蔵書)
「般若心経講話」 佐藤泰舜著(東川寺蔵書)

 

昭和29年(1954)10月8日 65歳 永平寺貫首熊沢泰禅禅師の専任隨行長を拝命。

 

昭和30年(1955)8月22日 66歳 長崎皓臺寺の住職となる。

色々と事情があり皓臺寺の伽藍は荒廃していたが、直ぐさま修復事業に着手する。

 

「皓臺寺誌」 昭和61年・皓台寺発行(東川寺蔵書)
「皓臺寺誌」 昭和61年・皓台寺発行(東川寺蔵書)

(参考)海雲山 皓臺寺

 

昭和34年(1959)5月11日 70歳 永平寺監院に就任する。

 

無 祖山監院 泰舜 衲(東川寺蔵)
無 祖山監院 泰舜 衲(東川寺蔵)

 

同年7月30日 佐藤泰舜師の監院就任祝賀会

名古屋市丸栄百貨店大ホールにおいて、愛知県第一、第三宗務所管内有志寺院主催のもと、約二百名の出席者にて佐藤泰舜師の監院就任祝賀会が開催された。

 

同年8月 佐藤監院、宝慶寺を兼務す。

 

昭和34年(1959)9月29日

南支の禅蹟を探る」佐藤泰舜 著を古径荘より出版する。

 

「南支の禅蹟を探る」佐藤泰舜(東川寺蔵書)
「南支の禅蹟を探る」佐藤泰舜(東川寺蔵書)

昭和35年(1960)1月20日 71歳 「禮拜」佐藤泰舜 著を古径荘より発行する。

「禮拜」佐藤泰舜著(東川寺蔵書)
「禮拜」佐藤泰舜著(東川寺蔵書)

 

昭和35年(1960)6月11日 71歳 「禅の意義」佐藤泰舜著を古径荘より発行する。

「禅の意義」佐藤泰舜著(東川寺蔵書)
「禅の意義」佐藤泰舜著(東川寺蔵書)

 

昭和35年(1960)10月30日 71歳 「支那佛教思想論」佐藤泰舜著を古径荘より発行する。

 

「支那佛教思想論」佐藤泰舜著(東川寺蔵書)
「支那佛教思想論」佐藤泰舜著(東川寺蔵書)
  「支那佛教思想論」-熊澤禅師賀偈
  「支那佛教思想論」-熊澤禅師賀偈

 

昭和35年(1960)12月25日

生活の修證義」を著し、古径荘より出版する。

 

生活の修證義-佐藤泰舜著(東川寺蔵書)
生活の修證義-佐藤泰舜著(東川寺蔵書)

 

 

昭和41年(1966)1月28日 77歳 永平寺副貫首に当選する。 

昭和41年(1966)12月10日

修証義と生活指導」佐藤泰舜集(昭和仏教全集第2部9巻)を教育新潮社より出版する。

この本の内容は「生活の修証義」とほとんど同一である。 

 

「修証義と生活指導」佐藤泰舜(東川寺蔵書)
「修証義と生活指導」佐藤泰舜(東川寺蔵書)


昭和43年(1968)1月7日 79歳 永平寺七十四世貫首となる。


同年同月22日、曹洞宗管長に就任する。


同年2月20日、直指円性禅師」の勅賜号を受ける。

 

佐藤泰舜禅師(生活の修証義・不老閣発行より)
佐藤泰舜禅師(生活の修証義・不老閣発行より)
「如水直」-佐藤泰舜禅師(永平寺門前・おみやげ・なかむら所蔵)(撮影・東川寺)
「如水直」-佐藤泰舜禅師(永平寺門前・おみやげ・なかむら所蔵)(撮影・東川寺)

 

同年、3月14日、山田霊林、副貫首に当選する。

 

昭和44年(1969)4月23日
「生活の修證義」が不老閣より発行される。
これは昭和35年に古径荘より出版された本を不老閣が再出版したもの。

 

「生活の修証義」不老閣発行(東川寺蔵書)
「生活の修証義」不老閣発行(東川寺蔵書)

 

昭和44年(1969)9月22日

「禅慧集」が不老閣より発行される。

 

『禅慧集』
「まえ書き」
かつて在鮮当時、愛知自坊の掲示伝導と、大阪の禅慧会員等に、月二回づつ書き送った内から五十編だけを取りあげて、昭和十一年に、大阪の特志家が小冊子に刊行し、禅慧集として、同志の閲読に供したことがある。
各編とも先づ考えがまとまると、そのまま書き下し、それを柔らかく煮詰めて、誰でも読めて味わい尽きぬようにと心したのである。
この度、古径荘主の厚意により、改版して普く法縁の人に分ち得るのは、有り難たいことである。  昭和四十四年九月吉祥日

 

禅慧集 佐藤泰舜述 不老閣刊(東川寺蔵)
禅慧集 佐藤泰舜述 不老閣刊(東川寺蔵)

昭和45年(1970)11月~12月

「禅 ZEN 祇管打坐」曹洞宗大本山永平寺にて録音(監修 佐藤幸冶)

フィリップスレコード

発売元 日本フォノグラフ株式会社

 

禅 ZEN 祇管打坐(東川寺蔵)
禅 ZEN 祇管打坐(東川寺蔵)
真 徳 佐藤泰舜禅師 色紙(印刷)(東川寺蔵)
真 徳 佐藤泰舜禅師 色紙(印刷)(東川寺蔵)
インタビュー 現代と禅 佐藤泰舜大本山永平寺貫首(東川寺蔵)
インタビュー 現代と禅 佐藤泰舜大本山永平寺貫首(東川寺蔵)

 

昭和46年(1971)3月30日

「南支の禅蹟を探る」が不老閣より発行される。
これは昭和34年に古径荘より出版された本を不老閣が再出版したもの。

 

 佐藤泰舜述「南支の禅蹟を探る」不老閣刊 (東川寺蔵書)
 佐藤泰舜述「南支の禅蹟を探る」不老閣刊 (東川寺蔵書)

 

昭和46年(1971)5月11日 82歳 永平寺吉祥閣落成式を挙げる。

 

 吉祥閣概要
  起工 昭和44年3月31日
  竣工  昭和46年4月10日
  建物高さ 最高30m
  建築面積 3,037,09㎡(約920坪)
  延床面積 10,591,715㎡ (約3,210坪)

 

吉祥閣・研修道場・大本山永平寺 金沢ヨシダ印刷納(東川寺蔵書)
吉祥閣・研修道場・大本山永平寺 金沢ヨシダ印刷納(東川寺蔵書)

 

昭和46年(1971)5月30日 82歳

佐藤泰舜述 参同契・宝鏡三昧解説」を不老閣より発行する。

 

  「佐藤泰舜述 参同契・宝鏡三昧解説」 (東川寺蔵書)
  「佐藤泰舜述 参同契・宝鏡三昧解説」 (東川寺蔵書)

 

同時に、「般若心経講話」を不老閣より発行する。

この「般若心経講話」は昭和29年に発行したものを再度、不老閣より発行したもの。

「般若心経講話」 不老閣発行(東川寺蔵書)
「般若心経講話」 不老閣発行(東川寺蔵書)

 

昭和46年(1971)5月30日 82歳

佐藤泰舜述 禮拝」を不老閣より発行する。

これも昭和35年に発行されたものを不老閣が再版したもの。

 

また小冊子「水のすがた」も不老閣より発行されたが、これは昭和三十八年の監院時代のものを再版したもの。(出版年月日不詳)

 

佐藤泰舜述「禮拝」不老閣刊(東川寺蔵書)
佐藤泰舜述「禮拝」不老閣刊(東川寺蔵書)
「水のすがた」不老閣(東川寺蔵書)
「水のすがた」不老閣(東川寺蔵書)

 

昭和47年(1972)2月 83歳 全日本仏教会会長に就任する。


昭和48年(1973)12月8日 84歳 全日本仏教会会長としてインド日本寺落慶法要を挙げる。


昭和49年(1974)1月 85歳

 

下の色紙「行持」は(ここであまり詳しいことは書けないが)佐藤泰舜禅師御自身が書かれたものでは無い可能性がある。

 

「行持」佐藤泰舜禅師(東川寺所蔵)
「行持」佐藤泰舜禅師(東川寺所蔵)


昭和50年(1975)2月28日
国立名古屋病院にて遷化。世壽八十六歳。
3月7日、密葬。

10月9日、永平寺本葬(荼毘式)。

 

遺偈 「八十六年 如是因縁 即今脱落 踏破一天」

 

  永平七十四世・佐藤泰舜禅師
  永平七十四世・佐藤泰舜禅師
「半杓水」佐藤泰舜禅師(大休寺より永泰寺へ贈呈)
「半杓水」佐藤泰舜禅師(大休寺より永泰寺へ贈呈)

 

昭和50年(1975)10月1日

禅の修証義」佐藤泰舜著を誠信書房より発行する。

 

「禅の修証義」佐藤泰舜著(東川寺蔵書)
「禅の修証義」佐藤泰舜著(東川寺蔵書)

禅の修証義

佐藤泰舜禅師が遷化されてから最早半歳ちかくになるが、曹洞宗大学林いらいの道友をうしなって、老衲もひとしお寂寥を感ずる昨今である。
しかるところ、このたび名講として渇仰され修証義の講話を中心に、おりおりにおける垂示、提唱などが一書にまとめられたことは、故禅師に親しく相まみえる思いがして有難いことである。
禅師はその生涯を布教一途に生き抜かれた。
お若いときから学究に邁進され、教学の蘊奥を極められたことは周知のことであるが、すべて広度諸衆生の悲願を果たすためだったといえよう。
ゆえに、その醇々と説く声にはおのずから情熱がこもり、婆心がそくそくとして人の心を打った。
平易に語っている一語一語には常に宗意が光っていた。
まことに得難き人天の師であられた。
本書の刊行が両三年前に計画されながら、入寂前に完成をみるにいたらなかったとはいえ、このたび装いを新たにして、江湖におくることができたのは、一に関係者の暖い配慮によるもので深く敬意を表する次第である。
 昭和五十年七月
  大本山永平寺 貫首 山田霊林

 

如是・佐藤泰舜禅師(印刷)(東川寺所蔵)
如是・佐藤泰舜禅師(印刷)(東川寺所蔵)
無心・佐藤泰舜禅師(印刷)東川寺所蔵
無心・佐藤泰舜禅師(印刷)東川寺所蔵
禅・佐藤泰舜禅師(印刷)東川寺所蔵
禅・佐藤泰舜禅師(印刷)東川寺所蔵

佐藤禅師さまを敬慕追想し奉る-宮崎奕保

佐藤禅師さまを敬慕追想し奉る


  大本山永平寺副貫首 宮崎奕保

 

私と佐藤禅師さまとの出会いは、昭和二十八年、私が兵庫尼僧堂の後堂時代、僧堂視察の為にご出張下さった時が初対面であります。
然しそれまでに宗門の大先老であり、又、学識豊かな徳者として敬慕申し上げておりましたし、又よそ乍ら幾回もお会いし、熊沢禅師の隨行長としてご代香の折々のご高説も、地方の一員として有難く拝聴しておりました。
直接私との接渉は、昭和四十年七月四日のことであります。
佐藤禅師さまが本山監院さまのご在職の時で、直接お電話を、私の先住地の加古川の福田寺にお掛け下さいました。
その要件は、本山後堂拝請の件でありました。
それより以前、嘗て私の畏友、赤穂市花岳寺住職の片山伯仙老師に出会った時の話に、佐藤監院(当時)老師から君のことをいろいろと聞かれ、都合によっては本山後堂にとの話があったが、若し拝請があった場合は宗門の為のお請けせよ、と言う意味の話を思い出していました。(中略)
片山老師からつれづれに聞いた時はマサカと思っていた位で、直接電話を頂いて見ると、躊躇してしばらく考えさせて貰うことにした。
八月の盆も終わり、九月に入っても返事を怠っていたので、今度は十月初旬に就任せよと云うお達しを頂いてしまいました。
先に昭和二十一年秋、単頭を拝命して上山以来、十九年ぶりに又ご開山さまのお召しによって、十月四日に拝登就任式を致しました。
偏に、佐藤禅師のご道愛からする推挙によるものであります。
ところが、就任後僅か一ヶ月半余り経って、今私が住職している札幌中央寺の先々住福井天章副貫首老師のご遷化で、佐藤監院老師は闔宗の輿望を担って、副貫首に昇進されました。

佐藤禅師はお目がご不自由な上に腺病質のご体質であられましたが、進退行持、一切如法、綿密に大衆に一如されました。
又、熊沢禅師最高年時代の隨行長として、ご代香をよく勤められた際にも、弁説爽やかなご垂示は、近代未聞の広長舌であったことはあまりにも有名で、記録に残るところであります。
又、永平寺将来の護持発展についても配慮されて、監院時代には広範囲に亘って植林事業を達成され、その成果は二十年を経た現在、順調に生育しつつあり、将来の永平寺を支える財源となる大事業を遺されております。
また、育英に関しても、宗門将来の人材養成に力を尽くされ、資金の面に就いても配慮されて、現在その潤いを得て、有為の英才も続出しています。
猶、特筆すべき大事業として、吉祥閣の建設であります。
熊沢禅師のご発願を受け継いで、二祖国師七百回遠忌を控えての大建築を完成されました。
昭和四十三年正月七日、熊沢禅師突如ご遷化の後を受けて、永平寺七十四世の猊座につかれ、同年四月二十一日熊沢禅師のご本葬、続いて翌二十二日晋山祝国開堂が弁修されました。

それに続いての禅師さま一代の大事業でありました。

その年、恰も私の後堂三年目の春のことでありまして、九月の御征忌終了を機会に、乞暇を申し出ましたところ、幾回も継勤を仰せ出されお暇を頂けませんでした。
当時私は、体調を崩し医師のすすめもありましたもで、枉げて歎願を申し入れて、お許しを得た次第でありました。
その後三年半の病院生活と、病後の療養等の為に疎遠に打ち過ぎてしまい、ご本山の乞暇の時が永遠のお別れになってしまったのであります。
昭和五十年二月二十八日のご遷化まで、遂にお目にかかることもなく、残念に思っております。
常に御開山さまを崇拝なされた禅師さまは、御開山さまのお逮夜に亡くなられたことに就いても永平寺の世代さまとして、洵に意義深いものがあるものと感銘しております。
(後略)


「佐藤泰舜禅師を追慕して」より抜粋

 

心常平・佐藤泰舜禅師(東川寺所蔵)
心常平・佐藤泰舜禅師(東川寺所蔵)
「宝」・佐藤泰舜禅師(東川寺所蔵)
「宝」・佐藤泰舜禅師(東川寺所蔵)

参考資料

夢中問答-夢窓国師-」佐藤泰舜 校訂 岩波書店・出版

自力道と他力道」佐藤泰舜 著 岩波書店・出版

儀式と布教」(布教指導叢書・第四輯)曹洞宗宗務庁教学部・発行

「般若心経講話」 佐藤泰舜述 古径荘・発行

「南支の禅蹟を探る」佐藤泰舜 著 古径荘・出版 

禮拜」 佐藤泰舜著 古径荘・発行

禅の意義」 佐藤泰舜著 古径荘・発行

「支那佛教思想論」 佐藤泰舜著 古径荘・発行

「生活の修證義」 佐藤泰舜著 古径荘・発行

「修証義と生活指導」佐藤泰舜集(昭和仏教全集第2部9巻)教育新潮社・出版

「禅の修証義」 佐藤泰舜著 株式会社 誠信書房・発行

「参同契・宝鏡三昧解説」 佐藤泰舜述 不老閣・発行

「般若心経講話」 佐藤泰舜述 不老閣・発行

「皓臺寺誌」 金子帰山(宗一)編輯 海雲山皓臺寺・発行 

「佐藤泰舜禅師を追慕して」 金子帰山(宗一)編 海雲山皓臺寺・発行