種田山頭火

 

種田山頭火は明治より昭和初期に生き、自由律俳句を沢山残し、山頭火亡き後、大山澄太の著書により一躍有名になった俳人である。
山頭火は曹洞宗熊本報恩寺住職望月義庵師の得度を受け、その後一時、曹洞宗瑞泉寺内の味取観音堂の堂守となったが「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出づ」と西日本を中心に北海道を除くほぼ全国を行脚して、句作を続けた。

山頭火独特のリズムで漂泊あるいは在庵生活、自然、心情を切り取った句は今も人々を魅了して止まない。

山頭火は永平寺にも宿泊していて、現在は永平寺境内にその句碑も建てられている。
山頭火と永平寺、また山頭火を世に知らしめた功績の大きい大山澄太の著書などを中心に種田山頭火を綴る。

 

 尚、中野東禅著「禅者山頭火」の間違い箇所はこの頁の最後に記載してあります。

 

  永平寺・山頭火句碑、てふてふひらひらいらかをこえた
  永平寺・山頭火句碑、てふてふひらひらいらかをこえた

 

種田山頭火・永平寺參籠

 

種田山頭火は昭和11年7月4日より8日までの前後五日間、永平寺に参籠する。

(時の永平寺の禅師は六十八世秦慧昭禅師の代だが禅師には会っていない。)

 

永平寺に来る前、山頭火は“良寛”を慕い国上山の五号庵へ、さらに奥の細道の旅跡平泉で“芭蕉”を想う旅をしていた。大山澄太著の「俳人山頭火の生涯」153頁には次のように記してある。


「平泉から彼は再び光利(和田あきとし・秋兎死)の純情に心をひかれ、鶴岡へ舞い戻ったのである。それはよかったのであるが、光利居をねじろにして、市内を五、六日行乞したのである。人情のこまやかな庄内地方では、どの家も山頭火に米銭を惜しまなかった。それがわるかったのである。ふところに自信の出来た山頭火は、ついに大脱線をした。とある一流の料亭に登って、出家以前の山頭火となって、二、三日飲めや歌えで遊び興じてしまった。果然支払いが出来ぬ。そこで馬をつけられて光利居に帰って来た。それでも光利は山頭火のために惜しみなく払ってくれた。
酒のとりこから醒めた山頭火は、もうじっとしていられない、その懺悔のしるしとして、破戒の罪として、彼は断然、僧形を止めてたゞの人間山頭火に還俗したのである。彼は笠と衣を脱いで光利に与え、頭陀袋は、焼いて捨ててしっまった。」

 ~大山澄太著の「俳人山頭火の生涯」153頁~

 

「山頭火は(泥酔から醒めて、山形の)鶴岡からは遥かに遠い越前福井の永平寺へ向かうわけであるが、法衣を脱ぎ笠をも捨ててしまった今は、ただの乞食はできるとしても、如法な托鉢はできないので、俳友和田光利氏が、鶴岡から福井までの列車の乗車券は買ってくれたのである。」

 

 山頭火、永平寺へ

 

「あの時わしは旅に疲れ、暑さにあてられ、路銀もなく、その上、笠も衣もわけがあって、鶴岡の俳友和田光利君に与えてしまったので、着物一枚のしりからげで参詣、まったくの乞食であった。
しかし(永平寺の)係りの人に、自分は熊本報恩寺住職望月義庵の弟子で、種田耕畝(こうほ)と申します。
俳句を作りながら、行乞の旅をしているものです。
旅に疲れて一銭のお金もないものですが、しばらく泊めて下さいませんでしょうか、と頼んだところ、善良そうな和尚は、よろしいと答えて七日間、気持ちよく食べさせて下さった。
寺内の樣子もわかったので、三日目からは法堂に出頭し、勤行もさせて貰った。
そして師からきいていた永平半杓のあの水の御教の手水をも拝んだ。
ほんとうに有難いことであった。」

「山頭火後日談、大山澄太さんからの手紙より」~「続続永平寺雑考」376頁~

 

「種田山頭火・永平寺参籠日記」

 

7月2日 曇


天地暗く私も暗い。
十時の汽車で南へ南へ。
雨、風、時化日和となつた。
夜一時福井着。
駅で夜の明けるのを待つ。
明けてから歩いて永平寺へ。
途中引返して市中彷徨。

 

7月3日 曇

 
ぼつりぼつりと歩いてまた永平寺へ。
労(つか)れて歩けなくなって、途中で野宿する。
何ともいへぬ孤独の哀感だった。

 

7月4日 晴

 
どうやら梅雨も霽れるらしい。
私も何となく開けてきた。
野宿の疲れ、無一文のはかなさ、・・・・

二里は田圃道、二里は山道。
やうやくにして永平寺の門前に着いた。
事情を話して參籠-といってもあたりまえの宿泊-させていただく。

永平寺も俗化してゐるけれど、他の本山に比べるとまだまだよい方である。
山がよろしい、水がよろしい、伽藍がよろしい、僧侶の起居がよろしい。

しづかで、おごそかで、ありがたい。

久しぶりに安眠。

 

7月5日 永平寺にて

  
早朝、勤行随喜。
終日独坐、無言、反省、自責。
酒も煙草もない。アルコールがなければ、ニコチンがなければ、などゝというも我儘だ。
山ほととぎす、水音はたえない。
長い日であり、長い夜であったが、うれしい日であり、うれしい夜でもあった。

 

7月6日 曇

 
おつとめがすんで、障子をあけはなつと、夜明けの山のみどりがながれこむこころよさは、何ともいえない。
道即事、事即道。
行住坐臥の事々物々を外にして、どこに人生があるか。
生活とは念々撓(たわ)まざる行である。

貪らざるなり、偽らざるなり、驕(おご)らざるなり。

すなほにしてつつましく、しづかにしてあたたかく。
愛するなり、敬うなり、奉るなり。
雨を観、雨を聴く、心浄うして体閑(しず)かなり。
五十五歳にして五十五年の非を知る。噫。
生々死々、去々来々、転々また転々。
隠すことなく、飾ることなく、媚ることなく、きどらずに、ごまかさずに、こだわらずに。
無理のない生活、拘泥しない生活、滞らない生活、悔恨のない生活。
おのづから流れて、いつも流れてとどまらない生き方。
水のやうな、雲のやうな、風のやうな生き方。
自他清淨、一切清淨。
だらけきった身心がひきしまって、本来の自分にたちかへったやうな気分になった。
古往今来、幾多の人間が私とおなじ過失を繰り返し、おなじ苦悩憂悶にもがき、そしておなじ最後のものに向って急いだであろうか。
一切我今皆懺悔。
(後日、我の懺悔はホンモノでなかったことを、さらにまた懺悔しなければならない私であった)
夕の勤行随喜。

独慎、自分で自分を欺くな。
洗へ、洗へ、洗い落せ・・・・

垢、よごれ、乞食根性、卑屈、恥知らず、すがりごころ・・・・洗い落せ。
夜が更けて沈んでも眠れなかった。

 

7月7日 曇

 
莫妄想。
暁の鐘の声が-それは音でなしに声である-が身心に泌みとほる。
永平本山ではエレベーターは出来ても、また水流し式の便所が出来ても、行持は綿々密々でなければならない、それが曹洞宗の本領である。
黙々として粛々として、一切が調節された幸福でなければならない。
野菜料理の味。
独り遊ぶ-三日間。
私はアルコールなしに、ニコチンなしに、無言行をつゞけた。
これで私の一生は、よかれあしかれ、とにかく終ったと想ふ。
満心の恥、通身の汗。
流れるままに流れよう、あせらずに、いういうとして。

 

7月8日 雨

 
朝課諷経に随喜する。
新山頭火になれ、身心を正しく持して生きよ。
午後裸足で歩いて福井に出かけた。
書留郵便物を受取る。
砂夢路君の友情によって、泊ることが出来た。
そして久しぶりに飲んだ。
そしてまた乱れた、・・・・・。

 

7月9日

 
とぼとぼと永平寺に戻って来た。

少しばかりの志納を上げて、南無承陽大師、破戒無慚の私は下山した。
夜行で大阪へ向ふ。

 

  「種田山頭火・旅日記より」 

 


 

山頭火は7月8日付けで木村緑平に絵ハガキを送っています。
(其中日記巻四 274頁より)

 

「七月八日、山生
 おたよりまことにありがたう。
 永平寺参籠五日間
  水音のたえずして御仏とあり
 さびしいのか、かなしいのか、あはれあはれ。」

 



  永平寺・山頭火句碑、水音のたえずして御仏とあり
  永平寺・山頭火句碑、水音のたえずして御仏とあり

 

元「傘松」編集者の笛岡自照師は「続続永平寺雑考378・380頁」に下記のように記載しています。


「昭和42年8月、大山澄太さんから戴いたご書面に
『山頭火は昭和十一年の七月、御本山に七日泊めて貰っています。

そして、
 永平寺 三句
『水音のたえずして御仏とあり』
『てふてふひらひらいらかをこえた』
『法堂あけはなつ明けはなれてゐる』
を残しています。
右の内第二句は、自分としては生死をこえた心境を、蝶に托したつもりだった、と私に語りました。』とある。」

 

又、『「禅の友・永平寺と山頭火』で山頭火自身はこの句について、
「澄太君、永平寺のあの三句は、僕としては心にこたえるものがあった。
悟りの作だなどというのではないが、黄色のてふてふがね、二つ、弱い羽根でひらひらしていたが、わしが坐って観ている間に、とうとうあの大本堂の屋根を越えたよ。
その時、わしははっと感得した。
この気持はあんたには解って貰えると想う。」と澄太さんに述べている。

 

また、笛岡自照師は「続続永平寺雑考379頁」に次のようにも記しています。
「わたしが澄太さんから右のご書面をいただいたころには、永平寺での句は『草木塔』の三句だけしか分かっていなかったのであるが、四十六年に発見された日記帳の末尾の句の頁に『永平寺にて』として、右の三句のほかにもう一句書きしるしてあった。それは、
『山のしづかさへしづかなる雨』
という句である。」

 


  永平寺・山頭火句碑、生死の中の雪降りしきる
  永平寺・山頭火句碑、生死の中の雪降りしきる

 

山頭火の句集「鉢の子」には「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり(修証義)」と前置きして
『生死の中の雪ふりしきる』
の句があるが、この句は永平寺で詠んだ句ではない。

しかし、永平寺と関係がないかと云うと、そうでもない。

「修証義」は永平道元禅師の「正法眼藏」を主に編纂されたものである。

 

  「生死のなかの雪ふりしきる」 山頭火
  「生死のなかの雪ふりしきる」 山頭火

 

山頭火は出家得度の後、曹洞宗瑞泉寺内の味取(みどり)観音堂の堂守となって、一年二ヶ月後、大正十五年四月十四日、「あわたゞしい春、それよりもあわたゞしく私は味取をひきあげました、本山(永平寺)で本式の修行するつもりであります。出発はいづれ五月の末頃になりませう、それまでは熊本近在に居ります、本日から天草を行乞します、そして此末に帰熊、本寺の手伝いをします。」と友人(木村緑平)に葉書を送っている。

 

「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出づ。」として『分け入っても分け入っても青い山』『炎天をいただいて乞ひ歩く』などの句を詠み、さらに、上記の句を詠み、当初は永平寺行くつもりで、だが、いつしか永平寺に向かうことなく飄々と流転の旅を始めたのである。

 

曹洞門下の禅僧耕畝(こうほ)として、山頭火はそれからの行乞行脚の中、いつかは本山永平寺へ行きたいとの想いはずっと胸底に持ち続けていたのであろう。

 

  平成2年7月9日・永平寺山頭火句碑奉賛会
  平成2年7月9日・永平寺山頭火句碑奉賛会

 

大山澄太と笛岡自照

 

大山澄太は広島逓信事務官として勤務しながら、逓信所機関誌「広島逓友」、また後、月刊雑誌「大耕」の主幹をし、様々な執筆活動をしていた。大山澄太は自由律俳人・荻原井泉水の同門の山頭火と知り合い、その人柄と才能に魅せられ、親友として生前の種田山頭火を支援し続けた。
山頭火死後はその資料の収集と研究に没頭し、「種田山頭火」を世に知らしめた功績は大きいものがある。
大山澄太と永平寺機関誌「傘松」編集者・笛岡自照師とは文通の友であった。

 

笛岡自照師は「続続永平寺雑考」357,358頁に次のように記している。

 

「大山澄太さんの『「俳人山頭火の生涯』が再版されたのは、昭和四十二年五月のことであるが、それから五年目の四十六年に澄太さんは、山頭火の永平寺參籠日記を発見されている。(中略)この日記発見に関連したことであるが、私は澄太さんから次のような端書をいただいている。
《 山頭火全集(八巻)の編集中、未発表の昭和十一年七月の日記を入手いたしました。この中に山頭火永平寺泊りの文がありました。これを資料といたし、“大本山永平寺と山頭火”の一文を章し、先日『禅の友』本部へお送りいたしました。あの頃大本山に六日いましただけで、彼は非常に感得するところあった日記をのこし、句を作っています。》(『禅の友』263号に掲載)

 

山頭火を迎えた善良そうな和尚とは?

曹洞宗の僧侶ではあるが、永平寺に到着した時の山頭火は笠も無く、法衣も着けず、単衣のまことに粗末な出で立ちであったにも関わらず、この山頭火を快く永平寺へ招き入れてくれた永平寺の「善良そうな和尚」とは一体誰なのであろうか。


笛岡自照師は大山澄太から《 山頭火はきっとあなたの世話になったのです。親切にして貰ったと私に度々申しました。》との葉書を受け取っている。


又、大山澄太が寄稿した「禅の友・永平寺と山頭火」にも次のように書いている。


「その時の役をされたのが、京都府与謝郡野田川町宝泉寺の笛岡自照老師であったことも、あとでわかった。山頭火と知って受付たのでもなく、記憶に残ってもいないと笛岡老師からお手紙をいただいたこともある。しかし、山頭火が最初に禅門をくぐった時の義庵和尚、そしてその後十四年経って大本山の最初のしかも最後の門をくぐった時も、同じく寛容な笛岡老師に応接されている。曹洞宗の御家風であろうか。そのために山頭火のような我の強い、型にはまりにくい文学者が、すなおにすっと深く道に入っていることを、私は見逃したくないと想う。」


しかし、笛岡自照師は「山頭火に対する私の世話ということについての記憶は、きわめて漠としたものであるのに、その私の名が、永平寺での山頭火との関係において、三十年もたってから仰々しく活字になったり、電波にのせられたりなどして、いや応なしに確実らしくなってしまったことは、私としては内心まことに恐縮の想いに堪えないのである。」と述べている。

 

一般的には、事前の予約無しに永平寺に宿泊することは出来ない。
宿泊(参籠)者にはお風呂、夕食、夜具を用意して泊まっていただき、翌朝、坐禅あるいは光明蔵でお話を聞き、朝のお勤め(朝課諷経)に出て、朝食をとって頂いてから下山してもらうのが普通の一泊参籠(宿泊)です。
たとえ一人であっても、その準備をしなくてはいけないので、永平寺では日々のスケジュールが定められている為、突然の宿泊者には対応出来ないのである。
山頭火は受付(受所)でその旨を申し出たが、断られても不思議では無い。
ましてや僧侶の姿でなく、単衣の帯姿でお袈裟、大衣も持っていないのでは、断られて当然である。
その時、受付にいた僧侶は多分、山頭火は知らなくとも、山頭火の師である熊本報恩寺住職望月義庵師を知っていたので、特別に望月義庵師の弟子ということで宿泊を許したのであろう。
受付(受所)にいる若い修行僧が報恩寺住職望月義庵師を知っていたとは考え難く、やはり永平寺機関誌「傘松」を編集し、永平寺講師として永く役寮であった、顔の広い笛岡自照師が望月義庵師を知っていたので、望月義庵師の弟子(種田耕畝・山頭火)に特別な計らいで参籠を許可したのであろう。

 

「傘松」(笛岡自照・編集兼発行人)昭和十八年十月号には望月義庵師が肥後国大慈寺で晋山上堂の式典を挙げたことを報じ、昭和二十八年七月号には望月義庵師の遷化を報じ、次いで昭和二十九年七月号には大慈寺後住の高山道仙師が望月義庵師の一周忌法要を営んだことが記載されている。

 

山頭火の句碑

さらに笛岡自照師は次のようにも書いている。
「永平寺にほしい山頭火の句碑」と題して、「既にもう二十年も前のことになるが、昭和四十二年七月に頂いた端書の末尾に澄太さんは『将来事情おゆるしあらば、句碑を建てさして頂きたいものと存じます。』と書かれている。もちろんその場所は永平寺である。(中略)もし境内いずれかの地に、わが宗門出身の稀代の俳人・山頭火、祖山参籠中に得た会心の一句を刻んだ句碑が立っていたならば、年々莫大な数にのぼる参拝者にとって、どれぼど好ましいことでもあろうかという、澄太さんの切なる悲願に、私は衷心同調するものである」と。
~「続続永平寺雑考・第十三 永平寺と山頭火と私」参照~

 

この大山澄太の『山頭火の句碑を永平寺境内に建てたい』という願いが実現したのは、彼の悲願から二十三年後の平成二年七月のことである。 

尚、永平寺にある山頭火句碑の揮毫者は岡島良平氏。

 

  柿の葉(復刻版)永平寺三句
  柿の葉(復刻版)永平寺三句
  山頭火・永平寺詠二句
  山頭火・永平寺詠二句

 

注意点

『法堂あけはなつ明けはなれてゐる』の句は「柿の葉」、山頭火句集「草木塔」、「定本:山頭火全集」などの本にはすべてこのように書かれているが、大山澄太著以外の本、あるいはInternet上の情報は誤って「法堂あけはなつ明けはなれてい(ゐ)る」と「た」が記されているものがある。
「あけはなれている」は間違いで、正確には「あけはなれてい(ゐ)る」である。

 

 

大山澄太は「山頭火の道」彌生書房(昭和55年)発行、216,217,218頁には次のように記している。


昭和十一年の七月、日頃永平古仏とよく日記にしるして尊崇して止まなかった永平寺へ、山頭火は四泊さしてもらい、みちのくの旅で疲れた身心を養わせていただいた。そして次の三句を日記にしるし、句集『草木塔』にもこれを納めている。
 水音のたえずして御仏とあり
 てふてふひらひらいらかをこえた
 法堂あけはなつ明けはなれてゐる
彼は悟りの心境について誰にも一語も語っていないのであるが、その句を句集に納める時、編集者である私にだけ一度こう言った。
「澄太君、僕のような横着な破戒僧が、あの時福井から大本山へ歩いて参り、受付の色の白い和尚さん(あとで調べると笛岡自照師)の御好意で、ゆるゆる参籠させていただき、自分としては永年の念願を達したせいか、これらの句は、君には解ってもらえると思うが、山頭火耕畝の面目が一応表現出来たと思っているがね。」
「生死の中に仏あれば生死なし」まことに古仏のおことば通りだ。出家後まのない時に「生死の中の雪ふりしきる」と歎いた山頭火はここで「御仏とあり」つまり生死の中に実在する御仏を、永平寺で観取(かんしゅ)出来た句なのである。

次のひらひらと蝶がいらかを越えて行った句については、私の問いに答えてくれた。
「あのいらかは大法堂のいらかなのだ。僕が手前の軒下に坐っていると、蝶が二つ飛んでいた、それがなんと、次第に小さく小さくなって、高く舞い上がり、とうとう法堂を越え去った。その時、はっと出来たのだった。一つの飛躍を感じたよ」と。
法堂の句は朝早い勤行の尾末に参加させていただいての作。・・・(後略)

 

「法堂あけはなつ明けはなれてゐる」


この句については「山頭火と修証義」の中で次のように記されている。
「最後の法堂の句の方がわしにはなつかしい、大雄峰殿での朝早い勤行は実に荘厳だった。わしは雲水さんのうしろの隅の方に坐っていた、お勤めがすむとさっと、雲水さんが障子を開け放つ、すると夜明けの全山の緑が流れこむ、あれは何とも言えなかったが、わしは今までの心のこだわりから放たれて、すかっとしたよ。」

(山頭火談) 

 

  てふてふひらひらいらかをこえた・山頭火
  てふてふひらひらいらかをこえた・山頭火

 

また「山頭火」には次のような随筆がある。

 

「水」 (種田山頭火)


禅門 ─ 洞家には『永平半杓の水』といふ遺訓がある。それは道元禅師が、使い残しの半杓の水を桶にかへして、水の尊いこと、物を粗末にしてはならないことを誡められたのである。さういふ話は現代にもある、建長寺のある和尚は、手水をそのまま捨ててしまつた侍者を叱りつけられたといふことである。使つた水を捨てるにしても、それをなおざりに捨てないで、そこらあたりの草木にかけてやる、 ─ 水を使へるだけ使ふ、いひかへれば、水を活かせるだけ活かすといふのが禅門の心づかいである。
物に不自由してから初めてその物の尊さを知る、といふことは情ないけれど、凡夫としては詮方もない事実である。海上生活をしたことのある人は水を粗末にしないやうになる。水のうまさ、ありがたさはなかなか解り難いものである。
 「へうへうとして水を味ふ」
こんな時代は身心共に過ぎてしまつた。その時代にはまだ水を観念的に取扱ふてゐたから、そして水を味ふよりも自分に溺れてゐたから。
 「腹いつぱい水飲んで来てから寝る」
放浪のさびしさあきらめである。それは水のやうな流転であつた。
 「岩かげまさしく水が湧いてゐる」
そこにはまさしく水が湧いてゐた、その水のうまさありがたさは何物にも代へがたいものであつた。私は水の如く湧き、水の如く流れ、水の如く詠ひたい。

 

 「愚を守る 山頭火遺稿」大山澄太編 244,245頁より

 

以上は大山澄太著書と笛岡自照師の「続続永平寺雑考」に寄って書いたのであるが、永平寺立ち寄り前後のことは和田光利(わだあきとし)氏によると少し違っている。下記に記す。

 


「みちのくに出現した山頭火」 和田光利

 

「みちのくに出現した山頭火」和田光利(あきとし)
(山頭火・資料と研究、第3号、昭和47年8月、13~16頁掲載)

 

「私が山形県庄内に在住中、其は昭和十一年の五月頃、私に来た郵便物の一束のなかに、山翁(山頭火)のハガキが一枚まじっていた。彼は四国(山口?)の産であるし、とても逢う機会はあるまいと思ったので、その葉書を掴んで、ときめく胸を抑えて家内に示した。・・・ハガキには秋風の吹く頃訪問すると・・・(中略)
昭和十一年の七月と記憶するが・・・七月(六月の誤りか?)と云えば北国の果も青葉若葉の盛り、窓を開け放って爽やかな風を部屋に入れていると、門から玄関迄五、六間あったが、両側から蔽い冠さる新樹を分けて、網代笠、墨染めの法体がぬっとり出現した。時季は早いが私は瞬間直感的に山頭火来たな ─ と思った。(中略)」

  《山頭火の旅日記によると六月十三日に鶴岡》

 

和田光利は一家を挙げて山頭火を歓待した。山頭火は幾日か滞在し、市内をぶらぶらして毎日銭湯に出掛け「庄内は人情の美しい所だ」と繰り返し語った。ある一日、鶴岡近郊の湯田川温泉に連れて行くと、山頭火は大層気に入ってしまった。翌々日、彼は行乞してくると云って出たまま四、五日も戻らず、和田光利は事故に遭ったのではないかと心配していると、突然湯田川温泉の旅館から電話があった。「種田さんと云うご仁が和田さんを待っています」と。
行方不明になった山頭火は湯田川温泉の旅館で、荷物も預け旅館のユカタを着て豪遊していたのである。その前、鶴岡の一流料亭新茶屋でも同じようなことを引き起こしたことがあった(主文要約)


「後日私は湯田川温泉に支払いに行き、荷物も受取って来た。其後市内の料理屋から、山翁(山頭火)が沈没しているとの電話があったので、又、迎えに出掛けた。しかし私としてはすこしもうとむ気持ちにはならなかった。ともあれ二科亭や湯田川の借財は金銭に縁の無い私は相当頭をいためた。・・・だが、山翁も大分自責を感じたらしく、後々日或る部分を大阪から送金してよこした。

 

さて前に戻るが、某日山頭火はヒョッコリと、出先きから舞い戻って、ヒヤをコップで飲み、私の単衣を着て、手拭一本、近所の銭湯へ行った。ああ彼は其からぷっつりと消息を絶ってしまったのだ。

 

五日、七日、十日、私は毎日新聞に目をそそいだ。私は心配しておろおろしたが、山翁は私の手の届く範囲にはいないらしい。遂に天馬はタヅナを切ったか。半月すると『仙台の同人海藤抱壺を訪問したし、心配をおかけして済まなかった。帰途は必ず鶴岡に寄って御詫びします。』と云うハガキ一枚 ~  私は今でも疑問が解けない。ユカタ一枚着たきりで、どうして太平洋岸の仙台に辿り着く事が出来たのか ─  鶴岡から仙台迄は、しかるべき同人もいない筈だ。私は山翁の夢を幾度見たか知れない。

 

其から半月余経過すると、木の葉の様に秋風が運んで来た一葉の葉書 ~ 『ただ今越前の永平寺で坐禅を組んでおります。鶴岡の事は慚愧に堪えません。記念に御詫びのしるしとして、網代笠と愛用した杖を差上げます。法衣と手廻りの品だけ送って下さい。鶴岡に寄って御礼申上げる筈だったのですが、とうとう叶はなくなりました』

そう意味が書いてあった。・・・(中略)

私に強烈な印象をとどめた彼は、未完成だがと次の一句を示しました。

 秋兎死はくさぶえを吹く 山頭火 」  [ 大耕  昭四四・五月 ]

 

 



種田山頭火と大山澄太

大山澄太と山頭火との出会い

 

大山澄太は「俳人山頭火の禅」のなかで次のように書いている。

 

「突如として昭和五年、六年ごろに『層雲』という俳句雑誌に、すばらしい、放哉以上の句を毎月発表するものが出てきたのであります。それが山頭火なんであります。

(下記参考・尾崎放哉「大空」)

(中略)そこで、私は荻原井泉水先生に、この山頭火という人はどこで何をしておる人でしょうかと、往復はがきでお尋ねしたんであります。すると、『山頭火は一所不住の漂泊僧で、どこに居るやらわからない。』こういう返事なのであります。・・・昭和の七年になりますと、山頭火は歩き疲れて山口県の其中庵という庵に住みついた、ということが 『層雲』の記事の隅っこの方に発表されました。それから私は、広島と山口ですが、文通が始まったのであります。」

 

 うつり来てお彼岸花の花ざかり 山頭火
 うつり来てお彼岸花の花ざかり 山頭火

 

また、山頭火は「「三八九 第六集」(昭和8年2月28日発行)に「広島逓友の大山澄太氏から『青空を戴く』を戴いた。氏へは層雲を通して親しみを持っていたが、こうしてまとめられた文と句とをしみじみ読み味わって、氏の純情と敬虔とにうたれた。青空を戴く!この題名が何よりもよく氏の性格と本の内容とを語っている。」と書いている。

  「青空を戴く」大山澄太著
  「青空を戴く」大山澄太著

 

「生誕百年 山頭火 大山澄太」92,93頁には下記のようにある。

 

「(昭和8年)三月十八日(彼岸入り)に、私が其中庵を訪ねて泊っている。(山頭火の日記には)『大山さんが約束をたがへず来る、一見旧知の如く即時に仲よしとなった、予想してた通りの人柄であり、予想以上の親しみを発露する。わざとらしさがないのが何よりうれしかった。とにかく錬れた人である。お土産沢山、酒、味醂干、福神漬、饅頭。』(とある。)
これが山頭火と澄太の最初の出会いである。彼は私の悪い面は見ようとしない。それから今日まで、この世とあの世を別にしても引きつづいて五十年近くも二人の交友はつづくのである。」

 

山頭火『其中日記』によると昭和10年(1935)6月1日に「大山君から、益州老師講話集『大道を行く』頂戴、さっそく讀書。本來無一物、その本心に隨順せよ。」とある。

 

さらに、大山澄太は自著の『地下の水』を山頭火に送っている。
山頭火・其中日記(昭和十一年八月二日)には次のようにある。
「澄太君が近著『地下の水』を送つてくれた、読んで何よりも羨ましいと思つたのは君のおちつきだ、そして孝行だ、『地下の水』一冊は澄太其人の面貌だ、君に対する尊敬と親愛とをより深くした。」

  

大道を行く・山崎益洲老師講話集
大道を行く・山崎益洲老師講話集
  「地下の水」大山澄太著
  「地下の水」大山澄太著

 

一草庵には大山澄太著「日本の味」を送っている。


「一草庵日記」に次のように記されている。


「八月廿八日 秋晴─曇 夕は小雨
 『日本の味』読後感二三。
 文は人なり、人は文なり、澄太君の文は澄太君その人である。 澄太君は純綿的性格、スフまじりでない。つゝましい巨人(肉体的にも)あたゝかにおちついた人物!」

 

  「日本の味」大山澄太著
  「日本の味」大山澄太著

 

【注】

青空を戴く大山澄太著 昭和6年5月10日 春陽堂・発行

大道を行く」山崎益洲老師講話集 昭和10年5月27日 廣島逓友會・発行
地下の水」大山澄太著 昭和11年7月25日 廣島逓信局廣島逓友會・発行

日本の味大山澄太著 昭和15年8月10日 子文書房・発行

 

さらに又、大山澄太は島崎藤村の「簡素」の書を送っている。

「深草亭で求めた刷物の中に、『簡素』と二字書いた(島崎)藤村の額面が一枚あった。私はそれを松山一草庵の山頭火に送つた。山頭火は非常によろこんでくれて、それを壁に貼つて朝夕眺めたのしんでくれたらしい。簡素を通りこして、生水ばかり飲むやうな日が、山頭火にはしばしばあつたのであるが一生涯のへうへうとした旅の最終に於て、山頭火が藤村のこの二字を、じつと視つめて、孤獨の日を送つてくれたかと思ふと、この字は忘れられない。」
「忘れ得ぬ人々」大山澄太著 64~65頁より

 

 

山頭火の師・望月義庵老師

 

山頭火は大正十三年、酒に酔って熊本公会堂前で電車の前に立ちはだかり急停車させる事件を起こし、報恩寺につれて行かれたが、住職は黙って山頭火を受け入れた。
その時より山頭火は報恩寺に住み込み、修行に専念することになる。
翌、大正十四年二月、その寺(熊本市曹洞宗報恩寺)の住職の望月義庵の弟子となり出家得度する。

その時のことを望月義庵師は後に語っている。

『はい、(彼は)坐禅も組みに来ました。どうしても出家するというので、ほんとうの禅僧にして修行させるというのではないが、とにかくわしの弟子にして、得度させたのぢゃ。』と。 (大山澄太著・日本の旅、75頁より)

僧名は耕畝(こうほ)。山頭火、四十四歳の時である。

 

山頭火の出家

山頭火は「以前なにかの書の中に出家すれば母は救われる様なことが書いてあった、その時から出家したいとの思いは持ち続けていた。」のであって自分が出家して僧侶となれば母は救われると信じていた。
永平寺二世孤雲懐奘禅師の「正法眼藏随聞記」第三に『一子出家すれば七世の父母得度す』と書かれている。
又、大乗寺二十六世月舟宗胡の「月舟老人夜話」の中に「此の子出家せしむる本意は、一子出家すれば九族天に生ずと伝え聞けり。今吾等老に至ってさしたる善根もなく、一生をむなしく過さんこと、実に未来の業報恐れあり。只偏に後生の助けとせんと思う故に、博学多才なる貴僧高僧となりて、名利の為に便りよけれとは思わず、唯道心堅固にして、経呪を読み習わし、如法に一生を送り、吾等が菩提を助けよがし」と書かれている。

この「一子出家すれば・・・」の事は黄檗希運禅師と亡母との故事により、他の書物にも書かれているので、必ずしも上記の書物とは云えないが、山頭火はこの言葉に出会ったことは確かであろう。
山頭火はこの言葉に強く惹かれて、自殺した母を救う爲に禅僧として出家したのだと思う。(山頭火の亡き母の法名は釋順貞信女です。)

 

【望月義庵-もちづきぎあん】
明治四年九州阿蘇の生まれで十四歳で出家する。
曹洞宗鎮西中学校を卒業し、曹洞宗大学を卒業し、明治三十四年、熊本の曹洞宗報恩寺の住職となる。昭和十八年、熊本大慈寺の住職に昇住した。

曹洞宗高等学林学監、曹洞宗大学学監、曹洞宗特選議員などを勤め、昭和二十八年六月末、世壽八十三歳で遷化。

 

山頭火に関する本で望月義庵師を「大慈寺管長」と書いてあるのは間違いで正確には「大慈寺住職」である。


大慈寺は寒巖義尹禅師の開山で大本山永平寺の四門首にあたる寺院、その境内には山頭火の「まったく雲がない笠をぬぎ」句碑が建てられている。

 

大山澄太は山頭火死後十三年に咲野夫人と共に熊本大慈寺住職の望月義庵老師を訪ねている。
「山頭火得度の師である義庵老師が、現在では、川尻町の大慈寺にいられるので、私は咲野夫人の案内で訪ねていった。お寺の境内には、茶の花が白く咲いて、秋風の飄々と吹いて通る日であった。東を望むと、阿蘇の噴煙がはるかにもり上っていた。眉毛の白い老師は、遠い過去の夢を呼び起すような表情で、『あゝ、あゝ、山頭火さん、もう十三年にもなりますかなあ、あんまり一心に求めるものですから、得度してやった。そして、耕畝と云う名をつけてやった。ああこの本は“俳人山頭火”、あなたがお書きになりましたとな、いやこれはこれは、山頭火もあれから好きな道に入って、日本一流の俳人になりましたか、ようやってくれた。では、一つ今から、山頭火さんのために、本堂でお経をあげますかな。』本を伏せて老師は香筒を手にして立ち上がった。その時、私は、老師の荒れたごつごつした手を見た。百丈禅師は“一日作さざれば一日食わず”と言って、毎日農耕したということであるが、八十近いこの老師も又日日、作務を楽しむような人で、私達が訪ねていった時にも、稲刈の準備をしていられたのであった。その荒れた手を、私はしみじみと見た。この手が、悩める山頭火の頭髪に剃刀を当てた手なのである。」
『俳人山頭火の生涯』の中(18~19頁)に書かれている。

 

また「其中庵の山頭火」大山澄太著の72,73頁には次のように記されている。
「其中庵日記」(昭和八年)五月二十六日
『御飯を炊いていると、聞き覚えのある、そして誰とも思い出せない声がする。出て見たら、意外にも義庵老師であった。上京の帰途、立寄られたのである。いろいろ話しているうち熊本がなつかしうなった。
お米もないし、何も差上げるものがないので、S店へ走ってビールと缶詰と巻鮨とを借りて来て、朝御飯を食べて貰った。
八時の汽車に間にあうよう、駅近くまで見送っていった。・・・・』(山頭火)
後年、私(大山澄太)が義庵老師を熊本川尻の大慈寺へお訪ねした時、其中庵お立より話がでた。
『あの男、律儀なところもあってな、わしは夜汽車で小郡駅に降り、一寸のぞいて見ました。暗いうちに起きて台所で何かしていましたが、走って出ていろいろ買って来て、御馳走してくれたことを覚えています。その後、永平寺から戻りにも立ち寄りましたが、まあまあ、俳句の世界では、なかなか世間から認められているのですな。』
と言いつつ、私の差上げた大法輪発行の『俳人山頭火』の頁を繰られるのであった。
この師あっての耕畝なのだ、行乞することが出来るのも僧籍に入れて貰い、笠・衣・鉢・禅書等すべてこの老師からのいただきものだったからである。・・・(後略)

 

 「まったく雲がない笠をぬぎ」澄太
 「まったく雲がない笠をぬぎ」澄太

 

「愚を守る 山頭火遺稿」大山澄太編 春陽堂・発行(昭和16年8月8日)

 

「愚を守る 山頭火遺稿」大山澄太編
「愚を守る 山頭火遺稿」大山澄太編
「愚を守る 山頭火遺稿」大山澄太編・表紙
「愚を守る 山頭火遺稿」大山澄太編・表紙

 

「愚を守る 山頭火遺稿」

大山澄太編、春陽堂発行(昭和16年8月8日)

 

 はじめに

 

おい山頭火!
去年の十月十一日、あんたが死んでから、遺稿を今これだけ整理した。日記も讀んだ。俳句も、随筆も、朗誦し心讀した。そして、心から泣き、また微笑した。「草木塔」以後既に千三四首も句作してゐたあんたのいのちがけの俳句道精進には驚いてしまった。
その驚きと、悲しみと、笑ひとは、あんたをめぐる數人のものだけで味ふには、あまりにも大きく、且つ惜しいものがあると思った。そしてまた、日本的な性格を純粋に持つあんたの藝術と、あんたでなくては歩むことの出来ない境涯は、何かの形にして日本の國土に正しく残しておきたいと思った。そこで一先づ此の第一遺稿集を公にすることにした。俳句は七百を納めたが、是がもしあんたの自選であったならば、五十や六十に削って、あとは捨てゝ了ふであらうし、また随筆はまだよいとするも、行乞や在庵の日記をありのままに發表するなどといふことは、あんたの好かないことに属するであらうことも、よくわたしは知ってゐながら、― かうせずにはゐられなかったことを、どうか赦してくれ。あんたはわしにだけは赦してくれるだらう。
さて、題はどうつけるべきか、熟考の上に熟考した。そして「愚を守る」にきめた。あんたの戒名をどうつけようかと、白船老から相談された時、わしはつけるべき文字と言葉を發見することが出来ず、たうたう山頭火居士でよいといふことにするほかなかった。その後あんたの五十九年の一生を想ひながら、遺稿を整理してゐるうちに見つけ出したのがこれだ。装幀を頼みに行った時、和高節二さんも、「愚を守る」はよいといふてくれた。昨日松山で高橋、藤岡、村瀬の三君も、それでよいといった。緑平老もうなづいてくれる筈だ。あんたも是なら氣に入るだらう。ほんとにあんたの生活と藝術は、愚を守り、拙に生きるの一筋道であったと、わしは信じ、且つほれて居る。
十年前、既にして“ころり往生”を念願してゐた山頭火が、つひにころりと往生したのだ。「ころりと横になる今日が終ってゐる」は放哉の句であるが、あんたは、ころりと横になって一生を終へてゐたのだ。而も最後の一夜の枕頭で、俳句の會を開いて貰ひ、永遠の眠りを、酔後の眠りと間違へられてゐたといふやうな死方は、どう考へても山頭火らしい往生ではなかったか。ころり往生即大往生だ。そしてまた晩年のひととせの松山在庵は、あんたの流轉生活の終りとして、最もふさはしいことだった。まことによき人々に囲まれ、よき時に、美しい風土を枕にして、此の世の旅の終りを告げてくれたことを、わしは今ではうれしく想ふやうにさへなった。
おい山頭火!
あんたの脱ぎ捨てた黒い法衣と、垢のついた袈裟は、わしが確かに承け継いでゐるぞよ。
 昭和十六年一月十一日
    四国路の旅にて記す   編者 大山澄太

 

ふるさとの山へ煙となつて吸はれてゆくか 澄太
ふるさとの山へ煙となつて吸はれてゆくか 澄太

 

「俳人山頭火」大山澄太著 大法輪閣・出版(昭和24年10月2日)

 

 大山澄太著「俳人山頭火」大法輪閣発行
 大山澄太著「俳人山頭火」大法輪閣発行

 

「俳人山頭火」
 大山澄太著、大法輪閣出版(昭和24年10月2日)


  俳人山頭火目次
  一 流轉する山頭火・・・・・・・(一)
  二 其中庵の山頭火・・・・・・(一八)
  三 山頭火の宿・・・・・・・・(四四)
  四 一草庵日記を讀む・・・・・(六九)
  五 其中日記(遺稿)・・・・(一二一)

 

  題字 荻原井泉水

  跋文 齋藤清衛

  装幀 和高節二

  版元 大法輪閣

 

 あとにしるす

 ― 山頭火へ ―

 

時の流れは早いものだね、この十月十一日には、われわれはもうあんたの十周忌をいとなむことになつてゐる。その時いろいろお供えしたいものがあるわけだ。まづ酒、それから柿、唐辛子。伊豫の柿はとても美しくてうまい。焼酎も澤山あるが、この頃のはあやしいのでこれは控へたいと思ふ。そしてその代りにこのまづしい一冊をお供へする。あんたは苦笑するだらうが。とにかく赦して貰ふとして、ぼくはお供へする。
一、の“流轉する山頭火”には、あんたの簡単な小傳といふやうなものを入れるべきかとも思ったが、妹さんも、もとの奥さんもお在世だし、健君もシベリアから歸ってくるであらうし、いろいろ差しさはりがあるかも知れぬと思ふ。それにぼくはあんたのさうした來歴をよく調べてゐないのだ。其中庵へ行つた時など、そんなことについて語ることを、あんたはつとめて避けようとしてゐるかに感じられた。そこでぼくは今尚あんたの一身上のことについて調べることが、何だか悪いことをするやうな氣がして、つひそのままになつてゐるのだ。
二、の“其中庵の山頭火”は、記憶のある間に、あの頃のありのままを書いておきたいと思つたのだ。「其中庵日記」の方がはるかに正しいあんたが描き出されてゐるのだが、ぼくの心に映つた風光をここに書きとどめることも、嫌ふやうな山頭火ではあるまいと思ふ。
三、の“山頭火の宿”は「愚を守る」の遍路日記によつた。この頃のやうに食糧と宿の関係で、八十八ヶ所を巡る人の影が殆ど見られなくなつてゐる時、あんたのあのやうな宿の泊り方は、いろいろの意味でなつかしいのである。ぼくもそのうち、あんたの足跡を慕つて、あのやうな旅をしたいと思つてゐる。
四、の“一草庵日記を讀む”も亦「愚を守る」によつた。ぼくが東京から伊豫へ疎開する時にふと頭に浮んだのは「わしは、日本中をよく歩いたが、伊豫の國の風土と人情が一番好きだ、どうせ死期が迫つてゐるので、好きなところへ行つて死にたい」と云つたあんたの言葉である。あんたはつひに伊豫の松山を終焉の地にしてしまつた。ぼくは親類縁故の関係もあつたけれど一つには、山頭火の死んでいつた國へ、といふ氣持が動いてゐたのである。敗戦後假の住ひで淋しいまましみじみ讀んだのが、一草庵日記であつた。讀みつつこんなものを書いたのは二十一年の冬であつた。一草庵も句碑もあの頃のまま残つてゐる。
五、の“其中日記”。僅かな頁の妙録で申譯ない、しかし、綠平老とぼくと二人で、何とかして全巻を世に残しておいて死んでゆきたいと思つてはゐる。まあまあしばらく待つてくれ。一茶でも、あの厚い日記が世に出たのは、百年祭以後のことだつたと思ふ。
其中日記以外のもの、つまり前半はあんたのよく知つてゐた「大法輪」誌上へ齋藤先生の紹介で掲げさせて貰った。今度この書を公にすることになつたのも、すべて大法輪主石原俊明氏のあんたの心境に対する理解と共鳴によるものだと思つてくれ。死んでからでも徳孤ならずだね(徳不孤必有隣)
扉へは井泉水師の墨跡を戴いた。齋藤先生の跋文と共に、此の本になくてはならぬもの。あんたもよろこんでくれると思ふ。装幀は「愚を守る」と同じ和高節二さんだ。しかも柿だ、日本の秋、山頭火の秋になくてはならぬ柿だ。其中庵の寫眞は昭和八年の十一月横畑黙壺君が撮つてくれたもの。其中庵の跡へ行つてみたが、崩れたあとは、芋畑になつてゐて、ぼくでさへよく分からなかつた。やつと敷石を見つけて、萩や芒の茂つてゐる上へ、焼酎を振りまいておいたが、どうも氣にかかつてならない、ところが昨年の秋は、山口の防長新聞社の伊藤編輯長や小郡の友澤博さんや國森樹明さん達の御苦心によつて山頭火記念展が、山口で開かれたりして、だんだん周防の人々も、あんたを思出して下さるやうになつてうれしい。そのうち、有志のもので其中庵跡へも、句碑を一つ樹てたいと思つてゐる。
あんたの句は、俳句をつくらない人に見せても、誰でもよく解つてくれる。俳句は人に直ぐ解らねばならぬものではないけれど、とかく技巧にすぎ才に走つて、奇に傾き、自由律句を専門にやつてゐる僅かの人の間でだけ、もてはやされるやうなもんが現在多いかと思ふ。さうした一時の泡のやうなものと違つて、山頭火の句はほんものだ。いつまでたつても、山頭火の句は、人々から慕はれ愛誦せられると思ふ。そこで次には何とかして句集「草木塔」を再版したいと思つてゐる。あんたは、酒があり、米がある時に、理想的コロリ往生をとげて満足だが、その後の日本に生き残つたぼくは、あんたのあと始末に一入苦労することである。
(昭和二十四年六月二十七日、愛媛縣内子町大耕舎にて大山澄太)

 

 ~ 大山澄太著「俳人山頭火」252,253,254頁より ~

 


 

「あの山越えて」大山澄太編、和田書店・発行(昭和27年10月11日)

 

 「あの山越えて」大山澄太編
 「あの山越えて」大山澄太編

 

「あの山越えて」大山澄太編
 和田書店・発行(昭和27年10月11日)

 

 あとがき

 

山頭火は本名種田正一、明治十五年山口縣防府西佐波令に竹治郎の長男として生まれた。

 

【注 種田山頭火(正一)誕生の本籍地番は下記が正しい】
 山口県佐波郡西佐波令村第百三十六番地屋敷
 (現在 山口県防府市八王子二丁目十三)
 参考-種田山頭火ノオト№1-32-35頁

 

父は當時大地主で、自宅から三田尻驛まで、他人の土地を踏まないで出られたと云う程であった。

山頭火十一歳の年に、母ふさは五人の子を残して、自宅の井戸に身を投じ、三十三歳にして自殺した。

その時父は、妾と共に遊山旅行に出て不在中だった。母の死後は祖母の手によって育てられた。

父は増々女に流れ、政治に顔を出したりして、家産はだんだん傾いていった。

さうした中にあって山頭火はよく學んだ。

周南學舎も、山口高等中學も常に首席で通した。

周南學舎時代から、文藝同人雑誌を出したりしてゐた。

大學は早稲田の文科で、相馬御風より二年おくれ、小川未明と同期であった。

學内では既にその文學的才能を認められてゐたが、強度の神経衰弱となり、卒業まぎわになって退學歸郷した。

彼はよく酒を飲んだ。

懊々として楽しまない山頭火に、父は嫁を貰はした。

山頭火は「わしは禪宗坊主になるのだから、嫁は貰はぬ」といって見合いを拒否したが、結局古い家の習慣に従って佐波郡和田村佐藤咲野と結婚した。父は一先づ家政を整理して、隣村大道村の山道酒場を買ひうけ、父子協力して酒造業を営むことにした。

しかし父は依然として女に傾き、子は酒に流れ、家業を顧みず、その上二年連続して酒倉の酒が腐り、大正五年破産してしまった。

父は妾をつれて他郷に走り、山頭火は妻子と共に熊本へ移った。
山頭火の句作は二十歳頃からはじまっている。

三田尻にその頃椋鳥句會といふのがあったが、それによく出席してゐた。

當時の山頭火を、三田尻の柳星甫先生はよく知ってをられる。

そして明治四十四年頃から荻原井泉水の新傾向俳句「層雲」に出句するやうになった。

彼が熊本に赴いたのは、俳句の同人兼崎地橙孫(五高在學)友枝蓼平(熊本薬専在學)等を頼った譯で、はじめ古本屋を志したがうまくゆかず、結局下通に店を構へて額縁その他文房具・繪ハガキ類を商ふことになった。

「雅楽多」と云う店は彼自らつけたものであるが、山頭火は商人になり切れる男ではなく、店は咲野夫人に任せて、文學と酒に耽りつづけた。

そしてしばしば上京して、ずぼらな生活に沈んだ。

ある時は區役所に勤め、また一橋図書館にも勤めたが、勤め人にもなり切れず、熊本と東京間を迷うて往復してゐるうちに、大正十二年東京で大震災に遭った。

そして空しく熊本に帰ってしまった。
その頃から山頭火は禪門に出入するやうになってゐた。

大正十三年のある日、彼は熊本公会堂前で進行中の電車の前に突如仁王立ちした。酒に酔ってゐた。

しかし急停車で事なきを得たが、街をゆく人々は山頭火を圍んだ。

その時、木庭といふ新聞記者か何かをしてゐる人が現はれて、彼をつかまえて、市内報恩寺へ強引につれていった。

住職望月義庵和尚は、黙って山頭火を容れ、その氏名をすら訊ねず、二週間ばかり泊めてやった。

山頭火は禪と云うものに、深く心をひかれ、つひには住みこんで義庵和尚の弟子となり、修行に専念した。

その頃の山頭火の手足は垢切れだらけであった。師は「無門関」「碧巌録」など、禪家の祖録を與へて禪學をすゝめた。

その翌年大正十四年二月、山頭火は四十四歳にして、いよいよ出家得度した。

導師義庵和尚は耕畝という法名を與へた。

山頭火は私達に対して、かうしたその前半生の経歴は勿論、出家の動機など、少しも語らなかった。

しかし、彼の出世間的悩みは、母の自殺からはじまってゐるものと観て、間違いないであらう。

しかも、四十にして定職なく、家政を負ふてゆく才能もなく、酒癖、怠惰を清算する意志の力もなく、迷い迷ふ自己を出離し、新生しようとしたものではあるまいか。
大正十四年二月から、十五年四月まで、義庵老師の計らひで、肥後植木在の味取観音堂守として庵住した。

もし山頭火が、型の如き禪僧として生きようとするならば、本山に入堂して、本格的修行をせねばならぬところであるが、彼は禪僧の道を修める代りに、俳句の道を、本格的に突き進んで行った。

一年二ヶ月の山林獨住を捨てて、一鉢一杖、へうへうとして風の如く行乞の旅に放たれ出たのである。

昭和二年・三年は、主として山陽・四国を旅した、八十八ヶ所の巡禮もした。四年は、山陽から九州を行脚し、九州西國三十三番を巡禮した。

しかしその間日記がないので、足跡は明らかでない。

此の書に納めたのは昭和五年九月九日から十二月二十七日までの「行乞記」と、昭和六年十二月二十二日から、昭和七年四月二十日までの「行乞記」とである。

彼の『ほととぎす明日はあの山こえてゆかう』と云う句から「あの山こえて」をとって書名としたのである。

この行乞記は同年九月二十一日、山口縣小郡の其中庵に庵住するまで、つづくのであるが、それはまた巻を改めて公にしたいと想ふ。

これらの日記は、いづれも大學ノートに、ペンで書き流し、殆ど改書してゐない。

それを當時福岡縣田川郡糸田村に住む俳友木村緑平のところへ、一冊一ぱいになると送りつけて、保管を頼んでゐたものである。

この日記の中に山頭火は俳句を澤山書きつけてゐる。

別に句帖を持ってゐたか、日記と句帖を兼用してゐたか、その點はっきりしない。

此の頃「層雲」へは、投句したり、しなかったりした。
其中庵に住みついてから、山頭火は全く句作三昧であった。

近鄕托鉢もした。酒もよく飲んだ。

昭和十三年十一月、庵が崩れて住めなくなるまで、庵とその周囲の自然と人情を愛して彼の所謂、其中一人の生活をした。

この七年の間に、書きつけたのが「其中日記」であって、その一部分は拙書「俳人山頭火」の中で発表した。

彼はまたその間によく旅をした。

山陽から近畿、東海、東京、信越、東北と云ふ風にしばしば大旅行に出かけた。

しかし此の旅は、この書に納むるやうな行乞、木賃宿の旅ではなく、主として「層雲」の俳友を訪ねて、珍客遠方より来るとして迎へられ、一の日記のやうな宿一飯どころか好きな酒を存分に頂き、汽車賃までも貰ふと云ふ恵まれた旅であった。

従って、一人一室一燈を理想とする孤独な宿でもなく、一浴一杯を無上の楽しみとする簡素な日々でもなかった。

句會や酒で夜を更かしたためか、旅の日記は殆ど書いてゐない。

 昭和十四年十月一日、松山に来り、四国遍路行乞の旅をした。その日記は拙書「愚を守る」に納めてゐる。
昭和十四年十二月十五日、松山市御幸町の一草庵に入り、句作三昧。彼は松山附近の風土と人情を愛し、よく酒も飲んだ。

しかし戦争時局は次第に深刻となっていた。

當時の「一草庵日記」も「愚を守る」に納めた。
昭和十五年十月十日、山頭火は一草庵で脳溢血に倒れ翌十一日の未明、五十九歳を一期として往生した。(後略)


 (松山局區内久米村大耕舎にて 大山澄太)

 

大山澄太・51歳の春
大山澄太・51歳の春
    南無酒如来 山頭火
    南無酒如来 山頭火
  一草庵と句碑 (昭和五十七年撮影)
  一草庵と句碑 (昭和五十七年撮影)
  山頭火翁終焉地と句碑 (昭和五十七年撮影)
  山頭火翁終焉地と句碑 (昭和五十七年撮影)

 

俳人山頭火の生涯」大山澄太著、アポロン社・昭和32年初版発行

 

「生れた家はあとかたもないほうたる」「あるけばかつこう急げばかつこう」「鉄鉢の中へも霰」「笠にとんぼをとまらせて歩く」「うしろ姿のしぐれてゆくか」等の句をのこし、尾崎放哉とともに師の井泉水をしのぐと称せられる行乞俳人山頭火の生涯と芸術を生前親交のあった著者がふかい共感と友情をこめて刻みあげた山頭火像。 (本書のアポロン社紹介文)

 

 俳人山頭火の生涯・大山澄太著・昭和32年初版
 俳人山頭火の生涯・大山澄太著・昭和32年初版

「俳人山頭火の生涯」大山澄太著、アポロン社・昭和32年初版

山頭火居士讃 井泉水

「大果在晴天。一鉢在掌上。秋風時颯颯。葢不落別處。」

 

 山頭火を愛讀して(序)

誰しもが山頭火を憶ふと、まづ連想するのが自然なのは、松山の大山澄太翁ですが、私が山頭火を見出したのは、大山さんの名著たる「日本の味」によつたのでした。それは昭和十五年の十一月、東上中に、一つ橋の会館に泊つて、近き神保町の広文堂、たしか大山さんにも縁の深い広島出の新刊本書肆で求めたのでした。その本を帰洛の車中で読んだのが縁のはしで、山頭火の句集の「草木塔」や、日記紀行集の「愚を守る」などを購入して、やはり東海道の帰路の車中で、いつもツバメの特急に限つたもんでしたが、それらの集を読み味つて、山頭火の人がらや作句にあこがれ、齋藤清衞さんや荻原井泉水君たちの推讃なども見えて、おくればせに私もあこがれの的になつたのでした。しぐれの句だの、とんぼの句だの私をつよく引きつけずにはゐなかつたのでした。・・・(後略)

 昭和三十二年八月十七日

  京の大文字の火の翌朝に  新村 出

 

「後記」

この書に納むる三十一章は、夏目草石さんに頼まれて、愛媛県警察本部から隔月に出されている「かがり火」誌上に、過去五年に亘つて掲げた文に、少しく加筆したものである。年譜を造つた私は、このあたりで正確な「種田山頭火伝」を書くべきであつたと思うが、正直なところ私にはその力量がなかつたのである。

そこで山頭火の遺稿、日記、俳句を材料とし、私が直接に見たり聞いたりしていたことを織りまぜて、忘れぬうちに、こうした物語風なものとして書き残すことにした。再読してみて、年代順に書くことは書いたが、あるところはくわしく、あるところは粗略で精粗の不調も甚だしい。そしてまた、少し通俗的すぎる山頭火の一代記となつてしまつた感のあることを、私は山頭火の前に恥じずにはいられないのであるが、私の観た山頭火の生涯として赦していたヾきたい。つつしんで十八回忌の供えものとする。

山頭火は昭和五年から十五年まで、概ね日記を書き残している。この日記くらい彼の跡を思い調べるものにとつて貴い資料はない。今後に残された仕事は、この日記の原文のすべてを、何とかして世に公開することだと信じている。

この貧しい書のために新村出先生からは、真情あふれるような御序文を頂いた。また荻原井泉水師からは山頭火を称えるの偈を頂いた。故人と共に篤く感謝いたす次第、また緑平さんの跋文も山頭火がよろこんでくれると思う。

 昭和三十二年八月三十一日

     松山市久米の里 澄太 

 

「俳人山頭火の生涯」大山澄太著・昭和42年再版
「俳人山頭火の生涯」大山澄太著・昭和42年再版

 

「俳人山頭火の生涯」大山澄太著・アポロン社・昭和42年再版

『 歳久而知其真 井泉水 (歳久しくして其の真を知る、荻原井泉水 )』 

 

「後記」 大山澄太

十年振りの再版で少しく改訂した。ここで私は、山頭火の精密な伝記を書くべきであるが、少し理由があってそれが出来ないのである。この書は山頭火の生い立ちから死ぬるまでのあらましを、年代順に綴った粗雑な一代記である。すべては遺稿の日記と文章を主とし、私が直接に山頭火から聴いたこと、現場や足跡を訪ねて見た事実、そして緑平さんに宛てた手紙を材料として補った。しかし書いているうちに、山頭火と私とが一つになってしまい、あまりに主観的に陥っているところも多々あると思う。
山頭火の遺稿は左の通りで、二十六年の歳月を費して、やっと一応すべてを出版したが、いづれも少部数で一般には普及していない。私は『種田山頭火全集』として公刊されることを悲願としている。
『愚を守る』 ― 四国へんろ日記・一草庵日記・随筆。
『あの山越えて』 ― 九州地方行乞日記。
『其中日記』(全五巻) ― 其中庵時代の日記。
『自画像』 ― 句集。大山澄太拾綠。
『草木塔』 ― 句集。初版は山頭火自選、二版以後は澄太追補。
『草木塔』以外は絶版。
尚、山頭火の句碑の句と所在地は左の通り。
松はみな枝垂れて南無観世音 福岡県宗像郡玄海町隣船寺境内。
鉄鉢の中へも霰       松山市御幸町御幸寺門外。
春風の鉢の子一つ      山口県吉敷郡小郡町字矢足其中庵跡。
まつたく雲がない笠をぬぎ  熊本市川尻町大慈寺境内。
雨ふる故里ははだしであるく 山口県防府市八王寺戒が森。
湧いてあふれる中にねてゐる 山口県豊浦郡川棚温泉妙青寺門外。
ほろほろ酔ふて木の葉ふる  山口市湯田、井上公園内。

 

 


 

「山頭火遺稿 其中日記巻一」 大山澄太編 アポロン社・発行(昭和33年)

「其中日記 巻一」 山頭火
「其中日記 巻一」 山頭火

 

「山頭火遺稿 其中日記 巻一」

 

  後記
「其中日記」は山頭火が山口県小郡町字矢足の其中庵々在中の日記なのであるが、彼は九州行乞中、もし何処かに庵住することが出来たならば自分の庵は「其中庵」と名づけたいという念願を抱いていた。そこで此の書に納むる日記の前半は入庵以前のものではあるが、「其中日記」という題名とした。其中というのは彼がよく唱えた普門品第二十五所謂観音経の中の「其中一人作是唱言」か、または「其中若有乃至一人称観世音菩薩」からとったものである。
昭和七年といえば山頭火五十一歳である。五十一歳といえば芭蕉の死んだ年令である。大正十五年四月肥後植木町在の味取観音堂を捨ててあてもない旅に出てから、ずいぶん体には無理をしているが、彼は割に健康でよく食べよく飲み、煩悩も失態もその跡を断たぬ凡愚さで、芭蕉のような老成した翁とか師尚とかいうような風格はなかった。しかし悩みと迷いが深いだけに、醒めたその時の心境には行い澄ましたものには見られぬ飛躍があった。濁ったり、澄んだり、迷うたり悟ったり食べたり食べなかったり、その極端な上下の振幅の大きさこそが山頭火の持味であったかと思う。従って山頭火を観るには、その澄み切ったところだけ、またはその濁り迷うているところだけを観るのではなしに、その二つののもが彼本来の純情さと、世にも稀れな孤独清貧の生活によって禅的に止揚さられるところを私は観てもらいたいと思う。百日の川棚時代はこの日記に詳しいが、その川棚妙青寺門外大松の下に、三十一年七月五日、土地の人々の出資によって「湧いてあふれる中にねている」という巨大な句碑が立った。日記にある木下旅館は妙青寺に登る石段右脇で、木下三平老も健在である。三平老人があのような人を川棚に結庵させず小郡へ行ってしまわれたのは、川棚として心残りでならないとのお気持から武久一雄、高瀬寿吉、岡村霊道、貴島協平、藤井一郎などの発起するところとなり、温泉地の観光的な意味もあったであろうが、句碑建立となったのであった。山口県文教課、防長新聞社その他土地の俳人諸士、あげて山頭火につくされた。私はここに更めて川棚のために釈明しておきたい。
その日その日の日記の中にある俳句約八二五句をそのまゝ納めた。これを厳選して約一割を「草木塔」に納めている。彼ほどふるさとの句を沢山作っている俳人は珍らしい。雨ふるふるさとははだしであるく(九月九日)の句は防府市八王寺の生れた家跡に近い戎(えびす)が森に昭和二十九年十月句碑となって建てられた。これは青年時代山頭火と共に句会に出席していられた柳星甫先生の友情によるもの、先生はまた一昨年報国寺裏の種田家墓地の「俳人山頭火之墓」まで建てられた。その文字は本書に出てくる兼崎さんの筆になるものだが、氏も既にこの世にいない。
次に小郡其中庵の跡はどうなっているか、昭和二十一年の秋、私は七年ぶりに友沢博さんと一緒で訪ねた。私たちのように度々来たことのあるものでさえ、土地の樣子が変ってしまい、庵跡を探すのに苦心した。やっと穂芒の繁っている中から庵の敷石を見つけ出し、その石に伊予から持って来た焼酎をかけて供養した。その後大法輪から出して貰った「俳人山頭火」の印税を当て、国森樹明、伊東敬治、友沢博、冬村と草歩、武波憲治さん等の援助によって二十五年十月井泉水師揮毫の「はるかぜのはちのこひとつ」の句碑を建てることが出来た。地主神保氏もよろこんで広い敷地を提供して下さった。その後、毎年山頭火忌には碑の前で句と酒の会が催されたり、町で遺墨展が開かれたりしている。遺墨展といえば、山口の坂田常太郎さんの山頭火への傾倒は異常なもので、湯田中学でも二島中学でも、精密な山頭火展を催し、郷土のため山頭火顕彰につくされている。
本書に対して、井師からは題字を、齋藤、森両先生からは魂にひびく序文を戴いた。生前も死後もよき人々に温くかこまれている山頭火は幸せものである。この日記はあと八冊ばかりの量が残っている。何とかして死ぬまでには、そのすべてを公にしておきたいとの悲願をもっている。
尚、扉の「其中日記」の文字は日記表紙の山頭火のペン字である。本書を横とじとしたのは、日記の原形に近いものとするためである。
 松山市久米鷹ノ子町・・・・・ 大耕舎にて
                   大山澄太

 

  俳人種田山頭火其中庵跡 (昭和六十年撮影)
  俳人種田山頭火其中庵跡 (昭和六十年撮影)

 

俳人種田山頭火句碑と其中庵跡(案内文)

 

本名、正一。
防府市出身県立山口中学校より早稲田大学文科に学ぶ。
荻原井泉水に師事し層雲に所属す。
家庭は没落し、生来の放浪癖により一笠一杖に身を託し、
全國を行乞、作句数万に及ぶ。
昭和七年九月当地の此に結庵し其中庵と称す
昭和十三年十月、庵いたみて庵住に堪えず。
湯田(風来居)へ移住、更に四国松山(一草庵)に転住。
昭和十五年十月十一日波瀾多き一生を終える。享年五十九。
この句碑は昭和二十五年十月十一日、有志により建立。
 碑文字は井泉水筆。
   小郡町教育委員会

 

  其中庵跡の山頭火句碑 (昭和六十年撮影)
  其中庵跡の山頭火句碑 (昭和六十年撮影)
  網代笠と観音経・其中
  網代笠と観音経・其中

 

「山頭火遺稿 其中日記巻二」大山澄太編 アポロン社・発行 (昭和34年)

「其中日記 巻二」 山頭火
「其中日記 巻二」 山頭火

 

「山頭火遺稿 其中日記巻二」
 大山澄太編 アポロン社・発行 (昭和34年)

 

 後記
「其中日記」第一巻は、山頭火に心よせて下さる人々の御援助によって、広告宣伝らしいことをしなかったのに、有難いことに第二巻を印刷するに足る費用となって帰って来た。それほど山頭火は死後によい知己を得さしてもらったのである。(中略)
今も校正しながら思ったことである。本日の行乞所得は米二升一合、銭七十銭などと好成績の日には、私はなんだかそれを自分が貰ったかのようにうれしくてならないのである。こうなるともう私は、山頭火を客観するの眼を失ったものと言ってよい。一昨年出した「俳人山頭火の生涯」は、どこまでも私の山頭火であって、伝記でもなんでもないことを茲に重ねて記さないではいられない。そして他日これらの遺稿によって、正しい伝記を書いて下さる篤志家の出られることを待望したい。(中略)
あとまだ六冊分位の遺稿がある。大方の御同情を得て、日記の預り主である緑平さんや私が生きている間に、すべてを活字にしておきたいものとの悲願は一筋に守りつづけたいと思う。どうか此の悲願をとげさして頂きたい。(中略)
句集「草木塔」のほかに、拾遺ともいうべき残余の句を集めて出せと言って下さる方もあるのであるが、巻二には一六六三という沢山の句がメモされている。
その中山頭火が自選して草木塔にとっているのは百句に足りない。改めて句集を出すよりも、日記の一部分として見てもらうべきかと思う。(後略)
 昭和三十四年五月二十一日
  松山市久米鷹ノ子町・・・・・
          大山澄太

 


 

「草木塔 山頭火」第四版 昭和36年7月11日 発行
 編輯発行人・大山澄太、発行所・山頭火顕彰会、取扱所・大耕舎

 

 「草木塔」
 若うして
 死を いそぎたまへる
 母上の霊前に
 本書を
 供へまつる
  山頭火

  「草木塔 山頭火」・第四版
  「草木塔 山頭火」・第四版

 

「自画像 山頭火」大山澄太編 大耕舎・発行(昭和41年)

 

  「自画像 山頭火」大山澄太編
  「自画像 山頭火」大山澄太編

 

荻原井泉水讃偈
 種田山頭火句集
「自画像 」 大山澄太編 

目次
 落穂集
  山頭火よ
  あんたは
  あまりによい句を
  惜しみなく捨てている
  これだけ拾って
  後の世に残すことを
  ゆるして下さい
         澄太
  行乞道草・・・・・・・・一
  其中庵便り・・・・・・一五
  四国へんろ・・・・・・五二
  一草庵風景・・・・・・五九
 層雲集
  椋鳥のうた・・・・・・六五
  父と子・・・・・・・・九〇
 附録
 山頭火の作品と生涯・・・大山澄太・・・一〇五

 


 

「三八九集 山頭火遺稿」 大山澄太編 昭和52年・古川書房・発行

 

 「三八九集 山頭火遺稿」
 「三八九集 山頭火遺稿」

 

「三八九集 山頭火遺稿」
 大山澄太編 昭和52年・古川書房・発行


はじめに  大山澄太
「三八九」は禅の用語でさんぱっくとも言うが、山頭火はさんぱくと呼んだ。
熊本時代に個人雑誌として第一号から第三号まで出し、其中庵の初期第四号から第六号まで、いずれもガリ版で自刻して約五十部ずつ出していた。
本書は右六冊をまとめて三八九集とし、山頭火研究者の御参考とするものである。

 

あとがき
『三八九』は山頭火が謄写原稿に自分で字を切り自分で刷って、こよりでとじた手造りのガリ版雑誌であった。その第一集は昭和六年二月二十七日、第二集は仝三月三十日、いづれも熊本市春竹の仮寓で発行したものである。その発行数は五十部乃至七十部と推定せられる。発行所は三八九会としている。会友を募って山頭火の知己、支持者に読んで貰い、会費は月五十銭としていた。荻原井泉水先生は顧問格とし、会友と認めてよいひとびとは左の通りである。(中略)
復活第四集は昭和七年十二月十五日、小郡の其中庵から出している。第五集は八年一月二十日、第六集は八年二月二十八日、いづれも其中庵三八九会が発行し、第七集の原稿締切を三月十五日、発行を三月二十日と発表しながら以上で廃刊している。定価は一ヶ月二十五銭であった。(中略)
尚、表紙、見返し、帙等に用いた和紙はすべて丹波黒谷の手漉紙である。山頭火は生前からこうした手漉和紙の装幀を愛好していたからである。
次に三八九の読み方とその意味については山頭火自らが、第一集に説明しているのであるが、中国の千字文の第三百八十九番目の文字が「心」となっている。心とは己れの心のことで、自己の心を掘下げ工夫してゆくと仏性の実在することを悟ることが出来る。禅は己れを知り、仏と一体になることなので、ここで山頭火の言う絶対と結びつくわけである。従って彼の俳句の根底には一貫して禅のこころがあったと見ることが出来ると思う。
さて、山頭火の多くの遺稿整理と発表については、過去三十七年間、荻原井泉水、齋藤清衛両先生と、木村緑平さんの御援助により、いろいろ苦心して来たのであったが、この『三八九集』を最後として、どうやら私の悲願はとげさせていただくことになったと思う。
私のわがままな企画、編集をそのままうけ容れて、あまり例のない日本的な美本としてくれた古川篤夫さんに感謝しつつ、
山茶花が雪のように咲いてこぼれる窓にて
 松山市鷹ノ子町・・・・ 大耕舎
    昭和五十一年十二月八日 澄太しるす

 


 

「山頭火」生前の句集出版

 

昭和7年6月20日(1932)51歳 第一句集『鉢の子』(88句)発行
昭和8年12月3日(1934) 53歳 第二句集『草木塔』(78句)発行
昭和10年2月28日(1935) 54歳 第三句集『山行水行』(140句)発行
昭和11年2月28日(1936) 55歳 第四句集『雑草風景』(72句)発行
昭和12年8月5日(1937) 56歳 第五句集『柿の葉』(119句)発行
昭和14年1月25日(1939) 58歳 第六句集『弧寒』(117句)発行
昭和15年7月25日(1940) 59歳 第七句集『鴉』(72句)発行

 

昭和15年5月 山頭火句集『草木塔』八雲書林・出版(七百冊) 

 

第一句集は翁(山頭火)が其中庵に住みつく前の出版で、これは京都の内島北朗が印刷のこと等世話して、経費は福岡の三宅酒壺洞の布施。第二句集以後は私(大山澄太)が編輯発行した。用紙は出雲民芸紙で岩坂村の安部栄四郎氏制作の雁皮の厚口で、一頁に三句を印刷した。製本は経本仕立の折本とした。集を重ねるにつれて、少しづつ趣向を改め、第六句集あたりから、題簽を松江の伊藤氏にお願ひして木版手刷とした。これでいよいよ型がきまり、二人の心にぴったりくるものが出来た。なほ、八雲書林発行の『草木塔』は以上をまとめて公刊した全集であった。序を荻原井泉水師と齋藤清衛先生に乞うた。書林主の雅味あふれる性格は、此の書の装幀を遺憾なきものにした。山頭火のよろこびやうは、蓋し言葉につくせぬものがあったであらう。

 ~「俳人山頭火」86,87頁より~

 

(下記参考:内島北朗著「壺屋草紙」)

(下記参考:出雲民芸紙・安部栄四郎著「和紙三昧」)

 

山頭火に関する大山澄太の著書

 

大山澄太は「山頭火」に関する多くの著書を出版しています。

 

昭和16年「愚を守る 山頭火遺稿」大山澄太編 春陽堂・発行
昭和24年「俳人山頭火」大山澄太著、大法輪閣・発行

昭和27年 『草木塔』再版 編著者・大山澄太 山頭火遺稿刊行会 発行
昭和27年「あの山越えて」大山澄太編、和田書店・発行
昭和32年「俳人山頭火の生涯」大山澄太著、アポロン社・発行(昭和42年再版)
昭和33年「山頭火遺稿 其中日記」 巻1 大山澄太編 アポロン社・発行
昭和34年「山頭火遺稿 其中日記」 巻2 大山澄太編 アポロン社・発行

昭和35年「山頭火遺稿 其中日記」 巻3 大山澄太編 アポロン社・発行
昭和37年「山頭火遺稿 其中日記」 巻4 大山澄太編 大耕舎・発行
昭和39年「山頭火遺稿 其中日記」 巻5 大山澄太編 大耕舎・発行
昭和41年「自画像 山頭火」大山澄太編 大耕舎・発行

昭和43年「漂泊の俳人 山頭火の手記」大山澄太編 潮文社・発行
昭和46年「定本種田山頭火句集」大山澄太編 彌生書房・発行
昭和47年2月「俳人山頭火の禅」(臨済会刊第5集)大山澄太述、臨済会・発行

昭和47年4月「定本:山頭火全集」第一回配本

 以後昭和48年6月第七巻まで配本 編集・大山澄太、高藤武馬 春陽堂書店・発行

昭和47年5月「山頭火著作集」全4冊+「俳人山頭火」潮文社・発行

昭和47年5月「緑陰に語る禅 良寛・藤村・山頭火」大山澄太述 古川書房・発行
昭和49年「山頭火 句と言葉」大山澄太・高藤武馬 春陽堂・発行
昭和51年「山頭火の宿 そして酒と水と」大山澄太著 彌生書房・発行
昭和52年「三八九集 山頭火遺稿」大山澄太編 古川書房・発行
昭和55年「山頭火の道」大山澄太著 彌生書房・発行
昭和56年「生誕百年 山頭火」大山澄太著 春陽堂・発行

昭和59年「其中庵の山頭火」大山澄太著 春陽堂・発行

昭和60年「芭蕉・藤村・山頭火」大山澄太著 春陽堂・発行

昭和63年「生死の中の山頭火」大山澄太著 春陽堂・発行
平成  3年「俳禅一味の山頭火」大山澄太著 春陽堂・発行

 その他  

 

山頭火句集 草木塔・昭和15年発行 八雲書林
山頭火句集 草木塔・昭和15年発行 八雲書林
草木塔・昭和27年4月1日再版 大耕舎内山頭火遺稿刊行會
草木塔・昭和27年4月1日再版 大耕舎内山頭火遺稿刊行會
  其中日記三、四、五 山頭火遺稿
  其中日記三、四、五 山頭火遺稿
  山頭火の本1・大山澄太
  山頭火の本1・大山澄太
  山頭火の本2・大山澄太・他
  山頭火の本2・大山澄太・他
 「定本 山頭火全集」 春陽堂発行
 「定本 山頭火全集」 春陽堂発行

 「定本:山頭火全集」全七巻 
 編集・大山澄太、高藤武馬  春陽堂書店・発行(昭和47年~48年配本)

 


 

「定本:山頭火全集」にある山頭火作でない句

 

「定本:山頭火全集」第一巻 238頁
 「タコ壺かこひ草もゆる春になつた」


木下信三著「山頭火虚像伝」78~80頁には下記のようにある。


「・・・タコ壺かこひ草もゆる春になった・・この句の作者は中村苦味生である。彼が自作句を通信文といっしょに寄せ書きしたものが、どういうなりゆきからか、山頭火の句と勘違いされてしまったのである。」


【木村緑平に宛てた山頭火と苦味生の寄せ書き文面】の画像を掲載して


「・・・全集収録の山頭火通信文のうち、〈奥様によろしく、山生〉までが山頭火の文字で、そのあと〝タコ壺〟の句は苦味生の筆跡で記されている。・・・
タコ壺からも草もゆる春になつた 山頭火サンにオ逢ひしてをります 苦味生〉

 

 


 

種田山頭火の最後の日記

 

日記補遺

 

=昭和十五年十月六日までの日記は、既に第六巻に発表しているのであるが、今夜、松山の故高橋始氏の三男正治さんが、先日来山頭火ばかりでなく、すべての書類を整理したところ、この十月六日から八日までの日記が出て来たので取り急ぎそのコピーをとったと言って、御持参下さったものである。
十月六日は発表ずみのものと、ここに二回併せて三回書いていいるが、それぞれに違うところもあり、これは七日の二回も同様に、日付を誤ったのでなく、何かしら書いても書いても意に充たぬ感じがするまま、重ねて書いたものではないかと思われる。或いはこの頃から既に脳卒中のきざしがあったかも知れない。友人たちへのハガキは、今のところ十月六日付下関市長府の近木黎々火の一通が最後のものと認められているので、十月八日の日記はまさに絶筆である。ほぼ同文のものを九月十一日の日記に書いてはいるが、最後の心境の再確認とも観られ、死を前にして、種田山頭火耕畝として、たどりつくべきところに諦觀を定め得ていたと言ってよいかと思う。
 昭和四十八年五月八日夜   澄太 )

 

十月六日 晴――曇。(本分省略)
十月六日 晴――曇。(本分省略)
十月七日 曇のち晴。(本分省略)
十月七日 曇――晴。(本分省略)

 

十月八日 ―― 晴。
早朝護国神社参拝、十日、十一日はその祭礼である、―― 暁の宮は殊にすがすがしく神々しい、なんとなく感謝、慎しみの心が湧く、感謝、感謝!感謝は誠であり信である、誠であり、信であるが故に力強い、力強いが故に忍苦の精進が出来るのであり、尽きせぬ喜びが生れるのである。
皇室 ―― 国への感謝、国に尽くした人、尽くしつゝある人、尽くすであらう因縁を持つて生れ出る人への感謝、母への感謝、我子への感謝、知友への感謝、宇宙霊 ― 仏 ― への感謝。――
一洵老が師匠の空覚聖尼からしみじみ教へてもらつたといふ懺悔、感謝、精進の生活道は平凡ではあるがそれは慥かに人の本道である ―― と思ふ、この三道は所詮一つだ、懺悔があれば必ずそこに感謝があり、精進があれば必ずそこに感謝があるべき筈である、感謝は懺悔と精神との娘である、私はこの娘を大切に心の中に育くんでゆかなければならぬ。
芸術は誠であり信である、誠であり信であるものゝ最高峰である感謝の心から生れた芸術であり句でなければ本当に人を動かすことは出来ないであろう、澄太や一洵にゆつたりとした落ちつきと、うつとりとした、うるほひが見えてゐて何かなしに人を動かす力があるのはこの心があるからだと思ふ、感謝があればいつも気分がよい、気分がよければ私にはいつでもお祭りである、拝む心で生き拝む心で死なう、そこに無量の光明と生命の世界が私を待つてゐてくれるであろう、巡礼の心は私のふるさとであつた筈であるから。――
夜、一洵居へ行く、しんみりと話してかへつた、更けて書かうとするに今日は殊に手がふるへる。


 (定本山頭火全集 第七巻 377~383頁参照)

 

以上が種田山頭火の最後の日記である。

これは高橋始(一洵)氏の死後、発見し公開されたものである。

なぜ高橋一洵氏が最後の三日間の日記を隠し持っていたのか疑問が残る。

尚、種田山頭火の死因については、脳卒中、心臓麻痺、自殺の三説がある。

青山淳平は「山頭火コロリ往生の真相」と題してこのことに迫っている。
『原点』六十四号(平成七年七月発行)所収
えひめ発百年の俳句~郷土俳人シリーズ⑥「種田山頭火」289~307頁参照

  

 ほんのりと秋のうす日の障子かな 澄太
 ほんのりと秋のうす日の障子かな 澄太

 

山頭火の最後の句

 

山頭火の辞世の句は、それにふさわしいものとして
「もりもりもりあがる雲へ歩む」
がある。これは、彼自身が公表した最後の一句だが、句帳に記した最後のものは十月六日に作った次の三句であった。

 

「ぶすりと音たてゝ蟲は焼け死んだ」

「焼かれ死ぬ蟲のにほひのかんばしく」
「打つよりをはる蟲の命のもろい風」

  (上記は)えひめ発百年の俳句~郷土俳人シリーズ⑥ 「種田山頭火」
   「山頭火 人と生涯」作家・村上護 138,139頁より

 

  山頭火最後の句
  山頭火最後の句

山頭火の戒名

 

鶴村松一は「別冊新評・放浪の俳人・山頭火の世界」の中で「一草庵時代 ― 山頭火と『柿の会』」と題した寄稿文で『山頭火の死』として下記のように記している。
「・・・山頭火の戒名は久保白船によって、山頭火居士と名づけられた。そのいきさつについて藤岡政一は次のように語っている。『戒名を御幸寺の和尚、黒田山主に頼むと、君達の親しい人で付けたらよいという、高橋一洵と相談して久保白船に頼む、彼は熟慮を重ねた末、“旅心山頭火居士”“山頭火心居士”と二つ選句紙の裏に書いた。あとのほうを取った』葬儀は黒田山主にお願いした。・・・翌朝お骨は白船に抱いてもらって一草庵に帰った。この時白船に記念に何か書いてというと、『山頭火心居士のお骨を拾って』と前書きして『お骨は拾った朝の露びっしょうり』と詠んだ。彼はのちに山頭火心居士では、何かしっくりしないと心を除いて位牌を直した。・・・」
 (別冊新評・放浪の俳人・山頭火の世界 108-109頁)

 

山頭火の戒名は著書によって様々である。

『山頭火居士』・・・「愚を守る」~はじめに~ 9頁
『釋 山頭火居士』・・・「白骨の旅人」大山澄太(「愚を守る」339頁)

『釋 山頭火心居士』・・・「山頭火と松山」64頁
『解脱院釈山頭火耕畝居士』・・・「山頭火の道」153頁
『解脱院山頭火耕畝居士』・・・「生誕百年 山頭火」(種田山頭火略年譜)228頁
『山頭火心居士』・・・「山頭火を語る」(山頭火和尚死の前後)松山 高橋一洵 (昭和十五年)181頁
『解脱院山頭火耕畝居士』・・・「種田山頭火」郷土俳人シリーズ⑥551頁
『解脱院山頭耕畝上座』・・・「俳人種田山頭火と小郡 其中庵」(熊本市安国禅寺種田家墓地)13頁

 

山頭火は出家得度して「耕畝」という僧名を戴いているので僧侶としての戒名(法名)は○○耕畝上座であろうが、還俗したと見なせば○○耕畝居士である。
曹洞宗の一般的な居士の戒名は頭に「釋」は付けず、「○○耕畝居士」と6文字である。

「山頭火心居士」は「耕畝」の文字が入ってなく、ちょっと違和感があるが6文字という点では合っている。

しかし、どうしても「山頭火」という言葉を入れたいが為、「山頭火耕畝居士」と変則的に7文字となっているのが多い。

今となってはもう遅いが、出来ることなれば、受業師である望月義庵老師が当時ご健在であったので、老師と相談の上、付けるべきだったのではないか。
熊本安国寺にある種田家分骨の墓には「解脱院山頭耕畝上座」と刻まれているので、この戒名が正式かと思う。

「解脱院」の院号は後、サキノ夫人あるいは御子息が菩提寺にお願いして追贈したものであろう。

 


 

「のんた」~山口地方の方言

 

「太陽」THE SUN 10 1989 no.338 で【特集】漂泊の俳人「山頭火と放哉」が組まれているが、その30頁の大山澄太の写真説明に「『のんた』の愛称で呼ばれ、生前の山頭火と親交の厚かった俳人の大山澄太氏」とある。
大山澄太は『ドンコ和尚』『だらりの先生』などの愛称はあったが『のんた』と呼ばれたことは無かったのではないか?。

「のんた」は山口地方の方言で「のう、あんた」との意味で 「・・・のんた」と語尾に使い強調、あるいは信愛の情を示す言葉で、山頭火生前の時代によく使用された。
山頭火は大山澄太などの友に話かける時に、よくこの語尾に「のんた」を用いた。

大山澄太著書の中で山頭火の言葉にしばしば使用されている。

 


種田山頭火ブーム

種田山頭火ブームは今まで何度か興っている。
現在「種田山頭火の句碑」は全国に100ヶ所を越えるとされるのは、その表れであろう。
戦前、「種田山頭火」は荻原井泉水の自由律俳句同人誌「層雲」の関係者、あるいは「種田山頭火」を知る極く限られた人々の間で知られていただけであって、世の人々は「種田山頭火」なる自由律俳人は殆ど知らなかったのである。

一般世間の人々が「種田山頭火」を知るようになったその最初は、戦後(昭和24年10月2日)出版された大山澄太著の「俳人山頭火」であろうか?
人々は戦後の荒廃した中、文字に飢えていた時、「俳人山頭火」を読み、特に今まで知ることの無かった「山頭火」の句、さらにその生き方に深く感動を覚えたのである。
さらに、昭和32年に初版発行され、昭和42年に再版された大山澄太著の「俳人山頭火の生涯」によって、「山頭火」を愛読する人々の輪は大きくなっていった。

また、昭和47年から昭和48年に配本された「定本:山頭火全集」全七巻は「山頭火」をより良く知る為の格好の研究書となったことは間違いないであろう。
その後、「山頭火」関係の書は大山澄太以外の人達によっても次々と出版されたのである。

「山頭火」の句は大山澄太が「(山頭火)あんたの句は、俳句をつくらない人に見せても、誰でもよく解つてくれる。俳句は人に直ぐ解らねばならぬものではないけれど、とかく技巧にすぎ才に走つて、奇に傾き、自由律句を専門にやつてゐる僅かの人の間でだけ、もてはやされるやうなもんが現在多いかと思ふ。さうした一時の泡のやうなものと違つて、山頭火の句はほんものだ。いつまでたつても、山頭火の句は、人々から慕はれ愛誦せられると思ふ。」と「俳人山頭火」の『あとにしるす― 山頭火へ ―』で述べているように、世の人々に広く理解された。

また「山頭火」の句は、句そのものだけではなく、多くの句の場合、その背景を思い描くことが出来ることが特長であろう。
このことは大山澄太が「山頭火」の親友であり、よき理解者、援助者として、彼と交際した結果、「其中日記」その他、種々の著書によって「山頭火」の生涯を描き出したことに依る所が大きい。

 

平成元年11月3日、NHKで放映されたNHKドラマスペシャル「山頭火~何でこんなに淋しい風ふく」も何度目かの「山頭火ブーム」を醸し出した一つであろうか。


1989年11月3日 19時50分~21時20分 NHK 放映
「山頭火~何でこんなに淋しい風ふく」著者・早坂暁

 

この脚本には「山頭火 渥美清」となっているが、渥美清の体調が悪く主演山頭火を「フランキー堺」が演じることになったという。外に桃井かおり、林美智子、辰巳琢郎らが出演している。

このNHKドラマ「山頭火」は第30回モンテカルロ・テレビ祭シルバーニンフ賞、最優秀男優賞(フランキー堺)、平成元年度日本テレビ技術賞(撮影)、平成元年度日本テレビ技術賞(録音)を受賞した。

 

 NHKドラマスペシャル 山頭火 脚本 早坂暁
 NHKドラマスペシャル 山頭火 脚本 早坂暁

 

参考・尾崎放哉「大空」

 

「大空」をうつして・・・・・・大山澄太

發願と云つてはキザに過ぎますが、この正月から放哉の「大空」を寫しはじめて今日やつとそれが成就致しました。病的に物事に倦き易い私にこれだけの願ひが出来たのは、病気と貧乏から來る淋しさのお蔭であります。さう思ひ乍らフラフラ裏の空地へ出て陽にあたらうとすると、そこに大きな、あき樽に水がたまつてゐます。何げなく覗き込むと今日に限つて、その底に私の顔がまんまるく映るではありませんか。この空樽はもと酒樽として造られたものらしいですが、その後かがみを抜いて何年も此家の漬物桶になつてゐました。今はそれも役に立たなくなり、かうして放り出されて雨ざらしになつてゐるのであります。昨夜からの雨がたまつたのでせう。

 久し振りに我が顔がうつる池に來てゐる(放哉)

じつと見てゐると「大空」の句が浮んで來ます、そうして此の樽の様に、次第次第に世の中から閉却されて行く自分の顔が淋しく見えてなりません。(後述略)

(「層雲」四月號・昭和3年4月1日発行、69~71頁より) 

層雲・四月號 昭和3年4月4日発行
層雲・四月號 昭和3年4月4日発行
尾崎放哉著・俳句集「大空」荻原井泉水輯
尾崎放哉著・俳句集「大空」荻原井泉水輯

放哉 ─ 初めは芳哉と書す ─ 本名は尾崎秀雄、明治十八年一月二十日、鳥取市に生る。父は法律家なりといふ。第一高等学校を経、東京帝国大学を卒へ、明治四十一年、法学士たり。東洋生命保険会社に入り、本社、朝鮮大阪両支店に歴任し、本社の戻りて契約課長の椅子を占む。後、朝鮮火災保険創立に際し、支配人として功を成す所あり。大正十二年、飜然として自ら無一物となつて京都一燈園に来り、托鉢の生活に入る。それより、京都常照院、兵庫須磨寺、小濱常高寺等に寺男として住込み、十四年夏、讃岐小豆島南郷庵に移るや、ひそかに死處を得たりとして門外に出でず。十五年四月七日、夕、島の漁師夫妻の手に抱かれて瞑目す、南郷庵の墓地に葬る。行年四十二歳。戒名「大空放哉居士」此書名「大空」は之に因る。

(尾崎放哉著・俳句集「大空」荻原井泉水輯 265頁より)


 

参考:内島北朗著「壺屋草紙」昭和4年8月5日発行 

 

「南郷庵より」・・・・内島北朗

今日は寒霞溪に登り、其の奇景に酔ふ、時雨のもとに紅葉をかざし、飄々として南郷庵に歸る。見れば放哉坊、ほの暗き中に獨り吾を待ちわびて、既に一酌を傾けつつあり、いとしきかな我が放哉坊、彼、頣に髭を貯へ、莞爾として曰く、「よう北朗戻つたか、待つたよ待つたよ。」

つらつら彼の顔容を見るに、木食上人自刻像に似たり、但し、目ざし未だ上人の如き笑をもたず、前途ある所以なり。彼、海と鹽田とを見晴らす窓を控へ、酒瓶とラツキヨと梅干とを背後にし、半ばかけたる火鉢を擁し、机上には俳文集、唐詩選を置けり、身には久二より贈られしやわらか物の衣を着ながし、井師より得たる博多の帯をしめ、常稱院主より受けたる黒の法衣をまとひ、宛然一かどの好和尚なり。されど惜むべし、彼、時折鉢巻をもてやくわん頭をしばり上ぐ、之のみはけしからぬ癖なり。彼曰く、昔一燈園にありし頃若者に何まけるものかと元気付けしより始るものなりと。(大正十四年)

(内島北朗著「壺屋草紙」174頁より)

壺屋草紙・内島北朗著
壺屋草紙・内島北朗著

 

参考:出雲民芸紙・安部栄四郎著「和紙三昧」

 

安部栄四郎著「和紙三昧」 昭和47年4月20日・木耳社:発行

「出雲民芸紙の特長」

 雁皮紙

雁皮は野生の植物で絶対に栽培することが出来ず、自生地も頗る狭小でありますが、幸に当地方はこの珍木に恵まれて、古代から製紙に用いられております。雁皮紙は変色もせず、虫にも犯されず、また水に破れず、改竄も出来ませんので、昔から重要書類には必須のものとされ、雁皮独特の光沢と渋味があって『和紙の王』と申しても過言ではありません。(安部榮四郎「出雲民藝紙」リーフレットより)

和紙三昧・安部栄四郎著
和紙三昧・安部栄四郎著

 

(参考)早稻田大學規則一覧(明治37年)

 

種田山頭火は明治34年7月早稲田大学の前身である東京専門学校高等予科へ入学し、さらに明治35年9月早稲田大学大学部文学科に入学したが、明治37年2月同大学を退学した。

 

早稻田學報臨時増刊第八拾七號

「早稻田大學規則一覧」

「本校ハ本年四月一日ヨリ學則ヲ改正シ専門學校令ニ準據スル豫定ニテ目下其手續中ナリ即チ四月以後改正ノ學則ハ大體ニ於テハ本學則ト異ナル所ナク殊ニ中學卒業生等ノ入學ニ關シテハ本學則ト毫モ差異ナシ 明治三十七年一月 早稻田大學」

 

早稻田大學規則一覧(明治37年)
早稻田大學規則一覧(明治37年)
早稻田大學眞景(明治37年)
早稻田大學眞景(明治37年)
早稻田大學及附近之圖(明治37年)
早稻田大學及附近之圖(明治37年)


 

「禅者山頭火」中野東禅著の間違い箇所

  中野東禅著「禅者山頭火」
  中野東禅著「禅者山頭火」

 

「禅者山頭火」中野東禅著
  2003年10月30日 初版発行 株式会社・四季社

 

中野東禅は山頭火と同じ曹洞宗の僧侶であるにも関わらず、中野東禅著の「禅者山頭火」は大きな間違いのある本である。

 

間違いは、「はじめに」という最初からある。
本書6頁に「四十四歳の一〇月に『山頭火』を本名として、正式に改名の届けを役所に提出します。」とあるのは間違い。
種田正一は大正十四年二月、出家得度し「耕畝こうほ」と僧名を望月義庵老師より授かり、大正十五年十月二十七日、防府町役場に「種田正一」から「種田耕畝」に改名届を出し受理されています。
本書24頁に同じことが書かれ「一〇月には、『山頭火』と改名届けを役所に出しています」とあるのも間違いです。

 

「種田山頭火」と改名したのではなく「種田耕畝(こうほ)」と改名したのです。


本書25~26頁に「『三八九』の意味は禅語に関係すると、山頭火が大山澄太さんに語ったそうですが、出典も意味もよくわかりません。あえて推量すれば『三八日』は禅寺ではお掃除をし、『四九日』は入浴剃髮、休養日です。これを続けて『三八九』としたのでしょうか」とある。
「三八九(さんぱく)」は三八念誦とも四九日とも何ら関係ない。臨済の公案等でよく用いられる言葉である。
「三八九集、山頭火遺稿」から引用すれば「三八九の読み方とその意味については山頭火自らが、第一集に説明しているのであるが、中国の千字文の第三百八十九番目の文字が『心』となっている。心とは己れの心のことで、自己の心を掘下げ工夫してゆくと仏性の実在することを悟ることが出来る。禅は己れを知り、仏と一体になること」と大山澄太は記してあり、山頭火は「三八九はサンパクと讀んでいただきたい。さて三八九とは何ぞ、老子教の四葛藤に禪門の六機縁を合して、三八九の十●(木+厥)といふさうであるがさういふ難問題は私のやうなものには解けない。一口にいへば、三八九とは絶對を意味する。」と『三八九居だより』に述べている。また白隠慧鶴禅師はその書「毒語注心経」で「不明三八九対境多所思・三八九を明めずんば境に対して所思多し」とある。
本書122頁に「鶴岡でワヤになって、和田秋兎死(わだしゅうとし)君にひどく迷惑をかけてしまった」とわざわざ振りがなを打っているのは合点がいかない。
「和田光利(わだあきとし)」は「層雲」に「秋兎死」という俳名で俳句を出しています。
「秋兎死」は本名の「あきとし」を文字って漢字を当てはめたもの。
本書147頁にある山頭火年表「一〇月には、『山頭火』と改名届け」も当然間違い。

本書89~90頁【草木塔】そうもく‐とう
切り倒した草や木の霊を鎮めるために立てた塔。草木供養塔。
(草木国土悉皆成仏)《広辞苑 第六版 株式会社岩波書店》

参考草木塔
本書120頁、124頁、127頁
「法堂あけはなつ明けはなたれている」は間違い、正確には「法堂あけはなつ明けはなれてゐる」です。
本書141頁
(主たる参考文献『定本・山頭火全集』一~四 昭和四七年春陽堂刊)は間違い。
(『定本・山頭火全集』一~七 昭和四七~四八年春陽堂刊)が正しい。

最も参考文献として『定本・山頭火全集』一~四までしか参考にしなかったのなら間違いではない。

 

本書は、著者がもう一度「山頭火」を参究し直して戴いて、早めに改訂すべき本だと思う。

 

蛇足だが山頭火と深い縁のある禅籍と云えば「無門関」「碧巌録」である。
大山澄太は「緑陰に語る禅」140~141頁に次のように述べている。
「(報恩寺に入って)和尚(望月義庵)は、あんたは学問は出来るのだからといって『無門関』とか『碧巌録」』とか禅宗のむずかしい本がありますが、読みたまえ、というて与えたりしました。実は、その時もらった一冊の『無門関』を彼は死ぬる前の年に私にくれました。澄太君、これは熊本の和尚がくれたんだがね、やっと僕はあれから十七年、これ卒業できたから君にやる、といって、『金剛経』といっしょにくれました。うしろのページに『熊本市東外坪井報恩寺内種田耕畝』と書いてある。」

この「無門関」を大山澄太に譲ったとされているが、山頭火死去の一年前「一草庵」に移り住み、その日記「一草庵日記」に「無門関を読む」と数カ所に出てくるので、山頭火が別な「無門関」を手に入れたとは考え難く、大山澄太は山頭火に一度は譲り受けた無門関の書を一端返した(貸した?)のではないか。

あるいは外の誰かから借たか?。

 

 (参考)冠註・無門関
 (参考)冠註・無門関

【無門関】
宋、無門慧開著。宗紹編。宋、紹定二年(1229)刊。
臨済宗楊岐派月林師観の法嗣慧開が諸禅録の中から四十八則の公案を撰出し、これに頌と評唱とを加えたもので、「碧巌録」と並ぶ公案集。
無門関の第一則は「趙州狗子」であり『趙州和尚、因に僧問う、狗子に還つて佛性有りや也た無しや。州云く、無。』と云う公案である。狗子とは犬のこと。