修証義と正法眼蔵

 

「修証義」の言葉は道元禅師の「正法眼蔵」中より抜粋し編集されたことは広く能く知られている。

さらに「正法眼蔵」のどの巻から採用されたかも、多くの本に書かれている。

しかし、「修証義」の言葉の採用された、「正法眼蔵」の巻の前後の文章を書き記したものは少ない。

ここでは可能な限り、「修証義」の言葉の「正法眼蔵」にある前後の文章を書き出し、参考に供す。

また、病雀:三府の環」と「窮亀:餘不の印」は修証義の中でも分かりづらい言葉なので、中世より能く読まれていた「蒙求」の内「二六一:楊寶黄雀」と「四二七:孔愉放龜」とを抜粋し示した。

 

しかしながら、大内青巒は自著「通俗修證義講話」24~25頁の中で次のように述べて、正法眼藏の原文に当てて修證義を研究することに反対の意見を述べている。

「・・・さりながら同じ高祖大師のお言葉とは申すものヽ、正法眼藏の御本文に在つた時と、今此の修證義に綴り合せた時とは、其のお言葉の前後の續きが違ふと共に、其の意味にも幾分かの相違を生じて居る所も無いとは言はれぬ。仍て今此の修證義を研究する時に當りては、其の文句の本據たる正法眼藏とは離れてしまふて、専ら此の修證義を獨立させて拝見せんければならぬのである。然るに近來何等の經論等を研究するに就ても、其の典據考證を専らにする流行に囚はれて居る人は此の修證義の一言一句を、直に其の本據たる正法眼藏の原文に當てヽ捜索考證を専らにする人があるかも知れぬが、其れでは同じ高祖大師のお言葉と申しても大に其の意味を誤解することが無いとは保証し難いことになるに依て、是れ亦た修證義研究に就ては、疾と心得て居らねばならぬ次第である。」

 

 

修證義

 

【修證(しゆしよう)】

 

この修証の意を的確に表現しているのは「洞上在家・修証義並序」の最初の文であろうと思われるので次に記載する。

 

高祖大師曰く「それ(夫)、修證はひと(一)つにあら(非)ずとおも(思)へる、すなは(即)ち外道の見なり。佛法には修證これ一等なり。いまも證上の修なるゆゑに、初心の辨道すなは(即)ち本證の全體なり。かるがゆゑ(故)に、修行の用心をさづく(授)るにも、修のほか(外)に證をま(待)つおも(思)ひなか(無)れとをし(教)ふ、直指の本證なるがゆゑ(故)なるべし。」と。

今、夫れ懺悔は宿業を浄除し、受戒は覺位に同入す、直指の本證現前せざらんや。

発願して衆生を利益し、日日の行持報恩に回向す、通身の妙修現前せざらんや。

此の修の外に證を求めず、以て在家男女の辨道となす。

謹んで之れを正法眼藏に質し、恭しく祖語を集めて一篇と成し、名を洞上在家修証義という。悉く典實あり苟くも一辞を私せず。佛祖照鑑龍天加護。

 

「曹洞教會修證義筌蹄」には『修證』について『修證とは平易に之を譯すれば、修は身の行ひ、證は心の悟りなり。吾人尋常、色心の法に欺かれて忘念を起し、悪業を作る。而して自から省みることを知らず。或は修證は一にあらずと思ひ、身心は不二なりと明らむること能はずして、安心正依の地に至り難し。高祖大師斯る不覺を誡めて、道本と圓通なり爭でか修證を假んや、と教え玉へり。道本と圓通とは佛の謂ゆる一衆生として如來の智慧と徳相とを具有せざるなし、一切衆生悉く佛性あり、といふに同じ。衆生に在て減ずるにあらず、諸佛に在て増するにあらず。・・・』とある。

 

「正法眼蔵・辨道話」には『それ、修證はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。佛法には修證これ一等なり。いまも證上の修なるゆゑに、初心の辨道すなはち本證の全體なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに證をまつおもひなかれとをしふ、直指の本證なるがゆゑなるべし。すでに修の證なれば、證にきくはなく、證の修なれば、修にはじめなし。』とある。

 

【義(ぎ)】 教え、教義、第一義のこと。

 


第一章 総序

 

(第一節)

【生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり】

 

「正法眼蔵・諸悪莫作」巻より

『古佛云、諸悪莫作、衆善奉行、自淨其意、是諸佛教。これ七佛祖宗の通戒として、前佛より後佛に正傳す、後佛は前佛に相嗣せり。ただ七佛のみにあらず、是諸佛教なり。この道理を功夫參究すべし。・・・・

唐の白居易は、佛光如滿禪師の俗弟子なり。江西大寂禪師の孫子なり。杭州の刺史にてありしとき、鳥窠の道林禪師に參じき。ちなみに居易とふ(問う)、如何是佛法大意。道林いはく、諸悪莫作、衆善奉行。居易いはく、もし恁麼にてあらんは、三歳の孩兒も道得ならん。道林いはく、三歳孩兒縱道得、八十老翁行不得なり。恁麼いふに、居易すなはち拜謝してさる。・・・・

あはれむべし、居易なんぢ道甚麼なるぞ。佛風いまだきかざるがゆゑに。三歳の孩兒をしれりやいなや。孩兒の才生せる道理をしれりやいなや。もし三歳の孩兒をしらんものは、三世佛をもしるべし。いまだ三世佛をしらざらんもの、いかでか三歳の孩兒をしらん。對面せるはしれりとおもふことなかれ、對面せざればしらざるとおもふことなかれ。一塵をしれるものは盡界をしり、一法を通ずるものは萬法を通ず。萬法に通ぜざるものは、一法に通ぜず。通を學せるもの通徹のとき、萬法をもみる。一法をもみるがゆゑに、一塵を學するもの、のがれず盡界を學するなり。三歳の孩兒は佛法をいふべからずとおもひ、三歳の孩兒のいはんことは容易ならんとおもふは至愚なり。そのゆゑは、生をあきらめ死をあきらむるは佛家一大事の因縁なり。古徳いはく、なんぢかわしめて生下せりしとき、すなはち師子吼の分あり。師子吼の分とは如来轉法輪の功徳なり。轉法輪なり。又古徳いはく生死去来、眞實人體なり。・・・』

 

 

【生死の中に佛あれば生死なし】

 

「正法眼蔵・生死」巻より

生死のなかに佛あれば生死なし。またいはく生死のなかに佛なければ生死にまとはず。こころは来山定山といはれし、ふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけし。生死をはなれんとおもはむ人、まさにこのむねをあきらむべし。もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、なかえをきたにして、越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。・・・・』

 

 

【但生死即ち涅槃と心得て生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり】

 

「正法眼蔵・生死」巻より

『いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このとき、はじめて生死をはなるる分あり。生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきありのちあり。かるがゆへに佛法のなかには、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、またさきありのちあり。これによりて滅すなはち不滅といふ。生といふときには生よりほかにものなく、滅といふときは滅のほかにものなし。・・・・』

 

 

【唯一大事因縁と究盡すべし】

 

「正法眼蔵・法華轉法華」巻より

『十方佛土中は法華の唯有なり。これに十方三世一切諸佛阿耨多羅三藐三菩提衆は轉法華あり、法華轉あり。これすなはち本行菩薩道の不退不轉なり。・・・・

まことに佛之知見をあきらめんことは、かならず正法眼藏ならん佛祖なるべし。いたずらに沙石をかぞふる文字の學者は、しるべきにあらずといふこと。いまこの法達の従来にてもみるべし。法華の正宗をあきらめんことは、祖師の開示を唯一大事因縁と究盡すべし。餘乘にとぶらはんとすることなかれ。いま法華轉の實相實性實體實力實因實果の如是なり。祖師より以前には震旦國にいまだきかざるところ、いまだあらざるところなり。・・・・』

 

 

(第二節)

【人身得ること難し、佛法値うこと希なり】

 

「正法眼蔵・帰依三寶」巻より

『禪苑清規曰敬佛法僧否。(一百二十問第一)あきらかにしりぬ西天東土佛祖正傳するところは恭敬佛法僧なり歸依せざれば恭敬せず、恭敬せざれば歸依すべからず。・・・・

かくのごとくなるがゆゑに、いたづらに邪道に歸せざらんこと、あきらかに甄究すべし。たとひこれらの戒にことなる法なりとも、その道理、もし孤樹制多等の道理に符合せざらんは歸依することなかれ。人身うることかたし、佛法あふことまれなり。いたづらに鬼神の眷属として一生をわたり、むなしく邪見の流類として多生をすごさん。かなしむべし。・・・・』

 

 

【今我等宿善の助くるに依りて】

 

「正法眼蔵・帰依三寶」巻より

『これを天帝拝畜為師の因縁と称す。あきらかにしりぬ佛名法名僧名のききかたきこと、天帝の野干を師とせし。その證なるべし。いまわれら宿善のたすくるによりて、如来の遺法にあふたてまつり。昼夜に三寶をききたてまつること、時とともにして不退なり。これすなわち法要なるべし。天魔波旬、なほ三寶に歸依したてまつりて患難をまぬかる。いかにいはんや餘者の三寶の功徳におきて積功累徳せらん。はかりしらざらめやは。・・・・』

 

 

【已に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遇い難き佛法に値い奉れり】

 

「正法眼蔵・出家功徳」巻より

『龍樹菩薩言。問うて曰く、居家戒の若く天上に生ずることを得、菩薩道を得、亦た涅槃を得て、復た何ぞ出家戒を用いんや。答えて曰く、倶に得度すと雖も、然も難易有り。居家の生業、種種の事務、若し道法に専心せんと欲せば、家業則ち廃す。若し家業を専修すれば道事則ち廃す。・・・・(原漢文)。しかあるを人間にうまれながらいたづらに官途世路を貪求し、むなしく國王大臣のつかわしめとして一生を夢幻にめぐらし、後世は黒闇におもむき、いまだたのむところなきは至愚なり。すでにうけがたき人身をうけたるのみにあらず、あひがたき佛法にあひたてまつれり。いそぎ諸縁を抛捨し、すみやかに出家學道すべし。・・・・』

 

 

【生死の中の善生、最勝の生なるべし】

 

「正法眼蔵・袈裟功徳」巻より

『佛佛祖祖正傳の衣法、まさしく震旦國に正傳することは、嵩嶽の高祖のみなり。高祖は釋迦牟尼佛より第二十八代の祖なり。西天二十八傳、嫡嫡あひつたはれり。二十八祖したしく震旦にいりて初祖たり。震旦國人五傳して曹谿にいたりて三十三代の祖なり。これを六祖と称す。第三十三代の祖大鑑禪師、この衣法を黄梅山にして夜半に正傳し、一生護持しまします。いまなほ曹谿山寚林寺に安置せり。諸代の帝王あひつきて内裏に奉請し、供養禮拝す。神物護持せるものなり。唐朝中宗粛宗代宗しきりに歸内供養しき奉請のとき、奉送のとき、ことさら勅使をつかはし、みことのりをたまふ。代宗皇帝あるとき佛衣を曹谿山におくりたてまつるみことのりにいはく・・・・まことに無量恒河沙の三千大千世界を統領せんよりも、佛衣現在の小國に王として、これを見聞供養したてまつらんは、生死のなかの善生、最勝の生なるべし。佛化のおよぶところ、三千界のいづれのところか袈裟なからん。しかありといへども嫡的面授して佛袈裟を正傳せるは、ただひとり嵩嶽の曩祖のみなり。・・・・』

 

 

【最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すること勿れ】

 

「正法眼蔵・出家功徳」巻より

『世尊言。南洲に四種の最勝有り。一に見佛、二に聞法、三に出家、四に得道。あきらかにしるべし、この四種最勝、すなはち北洲にもすぐれ、諸天にもすぐれたり。いまわれら宿善根力にひかれて、最勝の身をえたり。歓喜随喜して出家受戒すべきものなり。最勝の善身をいたづらにして露命を無常のかぜにまかすることなかれ。出家の生生をかさねば積功累徳ならん。』 

 

 

(第三節)

【無常憑み難し知らず露命いかなる道の草にか落ちん】

 

「正法眼蔵・重雲堂式」巻より

『ありきをこのむべからず。たとひ切要には一月に一度をゆるす。むかしのひと、とをき山にすみ、はるかなる、はやしに、をこなふし、人事まれなるのみにあらず。萬縁ともにずつ。韜光晦跡せしこころをならふべし。いまはこれ頭然をはらうときなり。このときをもて、いたづらに世縁にめぐらさむ、なげかざらめや。なげかざらめやは。無常たのみかたし、しらず露命いかなるみちのくさにかをちむ。まことにあはれむべし。』

 

 

【身已に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずくえか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし】

 

「正法眼蔵・恁麼」巻より

『この無上菩提の體たらくは、すなはち盡十方界も無上菩提の少許なり。さらに菩提の盡界よりもあまるべし。われらもかの盡十方界のなかにあらゆる調度なり。なにによりてか恁麼あるとしる。いはゆる身心ともに盡界にあらはれて、われにあらざるゆゑに、しかありとしるなり。身すでにわたくしにあらず、いのちは光陰にうつされて、しばらくもとどめがたし、紅顔いづくへかさりにし、たづねんとするに蹤跡なし。

 

 

【熟觀ずる所に往事の再び逢うべからざる多し】

 

「正法眼蔵・恁麼」巻より

『身すでにわたくしにあらず、いのちは光陰にうつされて、しばらくもとどめがたし、紅顔いづくへかさりにし、たづねんとするに蹤跡なし。つらつら觀ずるところに往事のふたたびあふべからざるおほし。赤心もとどまらず、片片として往来す。たとひまことありといふとも、吾我のほとりにとどこほるものにはあらず。』

 

 

【無常忽ちに到るときは國王大臣親暱従僕妻子珍寶たすくる無し、唯獨り黄泉に趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり】

 

「正法眼蔵・出家功徳」巻より

『すでにうけがたき人身をうけたるのみにあらず。あひがたき佛法にあひたてまつれり。いそぎ諸縁を抛捨し、すみやかに出家學道すべし。國王大臣妻子眷属はところことにかならずあふ。佛法は優曇華のごとくにしてあひがたし。おほよそ、無常たちまちにいたるときは國王大臣親暱従僕妻子珍寶たすくるなし、ただひとり黄泉におもむくのみなり、おのれにしたがひゆくはただこれ善悪業等のみなり。人身を失せんとき、人身ををしむこころふかかるべし。』

 

 

(第四節)

【今の世に因果を知らず業報を明めず、三世を知らず、善悪を辨まえざる邪見の黨侶には群すべからず】

 

「正法眼蔵・三時業」巻より

『鳩摩羅多尊者は如来より第十九代の付法なり。如来まのあたり名字を記しまします。ただ釋尊一佛の法をあきらめ正傳せるのみにあらず、かねて三世の諸佛の法をも暁了せり、闍夜多尊者、いまの問をまうけしよりのち、鳩摩羅多尊者にしたがひて、如来の正法を修習し、つひに第二十代の祖師となれり。これもまた世尊はるかに第二十祖は闍夜多なるべしと記しましませり。しかあればすなはち佛法の批判もともかくのごとくの祖師の所判のごとく習學すべし。いまのよに因果をしらず業報をあきらめず、三世をしらず、善悪をわきまへざる邪見のともがらには群すべからず。

 

 

【大凡因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち修善の者は陞る、毫釐も忒わざるなり、若し因果亡じて虚しからんが如きは、諸佛の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず】

 

「正法眼蔵・深信因果」巻より

『佛法參學には第一因果をあきらむるなり。因果を撥無するがごときは、おそらくは猛利の邪見をおこして、断善根とならんことを。おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし、造悪のものは堕し(ち)、修善のものはのほる、毫釐もたがわざるなり、もし因果亡じ(て)むなしからんがごときは、諸佛の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。おほよそ衆生の見佛聞法あるべからざるなり。因果の道理は孔子老子等のあきらむるところにあらず。』

 

 

(第五節)

【善悪の報に三時あり、一者順現報受、二者順次生受、三者順後次受、これを三時という、佛祖の道を修習するには、其最初より斯三時の業報の理を効い験らむるなり、爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、但邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く】

 

「正法眼蔵・三時業」巻より

『いまのよに因果をしらず業報をあきらめず、三世をしらず、善悪をわきまへざる邪見のともがらには群すべからず。いはゆる善悪之報有三時焉といふは、一者順現報受、二者順次生受、三者順後次受、これを三時といふ、佛祖の道を修習するには、その最初より、この三時の業報の理をならひあきらむるなり、しかあらざればおほくあやまりて邪見に堕するなり、ただ邪見に堕するのみにあらず、悪道におちて長時の苦をうく。續善根せざるあひだは、おほくの功徳をうしなひ、菩提の道ひさしくさはりあり、をしからざらめや、この三時の業は善悪にわたるなり。』

 

 

(第六節)

【當に知るべし今生の我身二つ無し、三つ無し、徒らに邪見に堕ちて虚く悪業を感得せん、惜からざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて、悪の報を感得せざるには非ず。】

 

「正法眼蔵・三時業」巻より

『しかあればすなはち行者かならず邪見なることなかれ、いかなるが邪見、いかなるが正見とかたちをつくすまで学習すべし、まづ因果を撥無し仏法僧を毀謗し三世および解脱を撥無する、ともにこれ邪見なり、まさにしるべし今生のわがみ、ふたつなし、みつなし、いたづらに邪見にをちてむなしく悪業を感得せん、をしからざらめや、悪をつくりながら悪にあらずとおもひ、悪の報あるべからずと邪思惟するによりて、悪の報を感得せざるにはあらず。

 


第二章 懺悔滅罪

  

(第七節)

【佛祖憐みの餘り廣大の慈門を開き置けり、是れ一切衆生を證入せしめんが為めなり、人天誰か入らざらん】

 

「正法眼蔵・辨道話」巻より

『諸佛如来ともに妙法を單傳して、阿耨菩提を證するに、最上無為の妙術あり。これただ、ほとけ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならんや。かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。・・・・出家人は諸縁すみやかにはなれて坐禪辨道にさはりなし。在俗の繁務は、いかにしてか一向に修行して無為の佛道にかなはん。しめしていはく、おほよそ佛祖あはれみのあまり廣大の慈門をひらきおけり。これ一切衆生を證入せしめんがためなり。人天たれかいらざらんものや。ここをもて、むかしいまをたづぬるに、その證これおほし。・・・・』

 

 

【彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを轉じて軽受せしむ、又滅罪清淨ならしむるなり】

 

「正法眼蔵・三時業」巻より

『長沙の答は答にあらず、鳩摩羅多の闍夜多にしめす道理なし。しるべし業障のむねをしらざるなり。佛祖の兒孫修證便道するには、まづかならずこの三時の業をあきらめしらんこと。鳩摩羅多尊者のごとくなるべし。すでにこれ祖宗の業なり。廃怠すべからず。このほか不定業あり。また八種の業あること、ひろく參學すべし。いまだこの業報の道理、あきらめざらんともがら、みだりに人天の導師と称することなかれ。かの三時の悪業報かならず感ずべしといへども懺悔するがごときは重を轉じて軽受せしむ。また滅罪清淨ならしむるなり。善業また随喜すれば、いよいよ増長するなり。これみな作業の黒白にまかせたり。・・・・』

 

 

(第八節)

【然あれば誠心を専らにして前佛に懺悔すべし、恁麼するとき前佛懺悔の功徳力我を拯いて清淨ならしむ、此功徳能く無礙の浄信精進を生長せしむるなり、浄信一現するとき、自他同く轉ぜらるるなり、其の利益普ねく情非情に蒙ぶらしむ。】

(第九節)

【其大旨は願くは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、佛道に因りて得道せりし諸佛諸祖我を愍みて業累を解脱せしめ學道障り無からしめ、其功徳法門普ねく無盡法界に充満彌綸せらん、哀みを我に分布すべし、佛祖の往昔は吾等なり、吾等が當来は佛祖ならん。】

 

「正法眼蔵・谿聲山色」巻より

『先佛いはく、彌天彌綸なり、春松の操あり、秋菊の秀ある。即是なるのみなり。善知識この田地にいたらんとき人天の大師なるべし。いまだこの田地にいたらず、みだりに為人の儀を存せん。人天の大賊なり。春松しらず、秋菊みざらん。なにの艸料かあらん。いかが根源を截断せん。また心も肉も懈怠にもあり。不信にもあらんには、誠心をもぱらにして前佛に懺悔すべし、恁麼するとき前佛懺悔の功徳力われをすくいて清淨ならしむ、この功徳よく無礙の浄信精進を生長せしむるなり、浄信一現するとき、自他おなじく轉ぜらるるなり、その利益あまねく情非情にかうぶらしむ。その大旨はねがはくはわれたとひ過去の悪業おほくかさなりて障道の因縁ありとも、佛道によりて得道せりし諸佛諸祖われをあはれみて業累を解脱せしめ學道さはりなからしめ、その功徳法門あまねく無盡法界に充満彌綸せらん、あはれみをわれに分布すべし、佛祖の往昔は吾等なり、吾等が當来は佛祖ならん。佛祖を仰観すれば一佛祖なり、発心を観想するにも一発心なるべし。・・・・』

 

 

(第十節)

【我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔】

 

「永平祖師・得度略作法」

『歸戒を求めんと欲せば、先ず當に懺悔すべし。二儀兩懺有りと雖も、先佛の成就する所の懺悔の文有り。罪障盡く消滅す。我が語に随て唱ふ可し。我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔。(以下略)』

 

「華嚴經普賢行願品偈」より

爾時,普賢菩薩摩訶薩,欲重宣此義,普觀十方,而説偈言

所有十方世界中,三世一切人師子,我以清淨身語意,一切遍禮盡無餘。

普賢行願威神力,普現一切如來前,一身復現剎塵身,一一遍禮剎塵佛。

於一塵中塵數佛,各處菩薩衆會中,無盡法界塵亦然,深信諸佛皆充滿。

各以一切音聲海,普出無盡妙言辭,盡於未來一切劫,讚佛甚深功德海。

以諸最勝妙華鬘,伎樂塗香及傘蓋,如是最勝莊嚴具,我以供養諸如來。

最勝衣服最勝香,末香燒香與燈燭,一一皆如妙高聚,我悉供養諸如來。

我以廣大勝解心,深信一切三世佛,悉以普賢行願力,普遍供養諸如來。

我昔所造諸悪業,皆由無始貪嗔癡,從身語意之所生,一切我今皆懺悔。

十方一切諸衆生,二乘有學及無學,一切如來與菩薩,所有功德皆隨喜。

十方所有世間燈,最初成就菩提者,我今一切皆勸請,轉於無上妙法輪。

諸佛若欲示涅槃,我悉至誠而勸請,唯願久住剎塵劫,利樂一切諸衆生。

(以下略)

 

 

【是の如く懺悔すれば必ず佛祖の冥助あるなり、心念身儀発露白佛すべし、発露の力罪根をして鎖殞せしむるなり。】

 

「正法眼蔵・谿聲山色」巻より

『しづかにこの因縁を参究すべし。これ證佛の承當なり。かくのごとく懺悔すればかならず佛祖の冥助あるなり、心念身儀発露白佛すべし、発露のちから罪根をして鎖殞せしむるなり。これ一色の正修行なり。正信心なり。正信身なり。正修行のとき、谿聲谿色山色山聲、ともに八萬四千偈ををしまざるなり。』

 


第三章 受戒入位

 

 (第十一節)

【次には深く佛法僧の三寶を敬い奉るべし、生を易え身を易えても三寶を供養し敬い奉らんことを願うべし】

 

「正法眼蔵・道心」巻より

『佛道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しる人まれなり。あきらかにしれらん人にとふべし。よの人は道心あといへども、まことには道心なき人あり。まことに道心ありて人にしられざる人あり。・・・・われはよのはかなきことをおもふとしらざるべし。あひかまえて法をおもくして、わが身わがいのちをかろくすべし。法のためには身もいのちもをしまざるべし。つぎにはふかく佛法僧の三寶をうやまひたてまつるべし、生をかへ身をかへても三寶を供養しうやまひ、たてまるらんことをねがふべし。ねてもさめても三寶の功徳をおもひたてまつるべし。ねてもさめても三寶をとなへたてまつるべし。』

 

 

【西天東土佛祖正傳する所は恭敬佛法僧なり】

 

「正法眼蔵・歸依三寶」巻より

『禪苑清規曰、敬佛法僧否。(一百二十問第一)あきらかにしりぬ西天東土佛祖正傳するところは恭敬佛法僧なり。歸依せざれば恭敬せず。恭敬せざれば歸依すべからず。この歸依仏法僧の功徳かならず感應道交するとき成就するなり。』

 

 

(第十二節)

【若し薄福少徳の衆生は三寶の名字猶お聞き奉らざるなり、何に況や歸依し奉ることを得んや】

 

「正法眼蔵・歸依三寶」巻より

『住持三寶・・・・かくのごとくの三寶に歸依したてまつれるなり。もし薄福少徳の衆生は、三寶の名字なほききたてまつらざるなり。いかにいはんや歸依したてまつることをえんや。法華経曰・・・・』

 

 

【徒らに所逼を怖れて山神鬼神等に歸依し、或は外道の制多に歸依すること勿れ、彼は其歸依に依りて衆苦を解脱すること無し】

 

「正法眼蔵・歸依三寶」巻より

『世尊あきらかに一切衆生のためにしめしまします。衆生いたずらに所逼をおそれて山神鬼神等に歸依し、あるひは外道の制多に歸依することなかれ。かれはその歸依によりて衆苦を解脱することなし。おほよそ外道の邪教にしたがふて・・・・』

 

 

【早く佛法僧の三寶に歸依し奉りて、衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし】

 

「正法眼蔵・歸依三寶」巻より

『いたづらに鬼神の眷属として一生をわたり、むなしく邪見の流類として多生をすごさん、かなしむべし。はやく佛法僧の三寶に歸依したてまつりて、衆苦を解脱するのみにあらず、菩提を成就すべし。希有経に曰く、四天下及び六欲天を教化し、皆な四果を得て、一人三歸を受ける功徳の如くにはあらず(希有経以下原漢文)。四天下とは東西南北洲なり。そのなかに北洲は三乗の化いたらざるところなり。かしこの一切衆生を教化して、阿羅漢となさん。まことにはなはだ希有なりとすべし。たとひその益ありとも、一人ををしへて三歸をうけしめん功徳にはおよぶべからず。・・・・』

 

 

(第十三節)

【其歸依三寶とは正に浄信を専らにして、或は如来現在世にもあれ、或は如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えて云く、南無帰依佛、南無帰依法、南無帰依僧】

 

「正法眼蔵・歸依三寶」巻より

『おのづから悪友にひかれ魔障にあふて、しばらく断善根となり一闡提となれとも、つひには續善根し、その功徳増長するなり。歸依三寶の功徳つひに不朽なり。その歸依三寶とはまさに浄信をもぱらにして、あるひは如来現在世にもあれ、あるひは如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えていはく、我某甲、従今身至佛身、帰依佛、帰依法、帰依僧、歸依佛両足尊、歸依法離欲尊、歸依僧衆中尊、歸依佛竟、歸依法竟、歸依僧竟。はるかに佛果菩提をこころざして、かくのごとく僧那を始発するなり。・・・・』

 

(但し歸依三寶巻には口にとなへていはく歸依佛、歸依法、歸依僧とありて南無の字なけれども、道心巻には南無帰依佛、南無帰依法、南無帰依僧とあり。南無の字を加ふる方語便好きかと考、道心巻に豫て南無の字を加ふ。)(修証義編纂史より。)

 

 

【佛は是れ大師なるが故に歸依す、法は良薬なるが故に歸依す、僧は勝友なるが故に歸依す】

 

「正法眼蔵・歸依三寶」巻より

『いはゆる歸依とは、歸は歸投なり、依は依伏なり。このゆゑに歸依といふ。歸投の相は、たとへば子の父に歸するがごとし。依伏はたとへば民の王に依するがごとし。いはゆる救濟の言なり。佛はこれ大師なるがゆゑに歸依す、法は良薬なるがゆゑに歸依す、僧は勝友なるがゆゑに歸依す。問何故偏歸此三答・・・・』

 

 

【佛弟子となること必ず三歸に依る、何れの戒を受くるも必ず三歸を受けて其後諸戒を受くるなり、然あれば則ち三歸に依りて得戒あるなり】

 

「正法眼蔵・歸依三寶」巻より

『佛在迦毗羅衛尼拘陀林時。釋摩男来至佛所作如是言云。何名為優婆塞也。佛即為説。若有善男子善女人諸根完具。受三歸依是即名為優婆塞也。釋摩男言。世尊云何名為一分優婆塞。佛言釋摩男。若受三歸。及受一戒。是名一分優婆塞。佛弟子となること、かならず三歸による。いづれの戒をうくるもかならず三歸をうけて、そののち諸戒をうくるなり。しかあればすなはち三歸によりて得戒あるなり。法句経云。・・』

 

 

(第十四節)

【此歸依佛法僧の功徳、必ず感應道交するとき成就するなり、設い天上人間地獄鬼畜なりと雖も。感應道交すれば必ず歸依し奉るなり、已に歸依し奉るが如きは、生生世世在在處處に増長し、必ず積功累徳し、阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり】

 

「正法眼蔵・歸依三寶」巻より

『禪苑清規曰、敬佛法僧否。(一百二十問第一)あきらかにしりぬ西天東土佛祖正傳するところは恭敬佛法僧なり。歸依せざれば恭敬せず。恭敬せざれば歸依すべからず。この歸依仏法僧の功徳かならず感應道交するとき成就するなり。たとひ天上人間地獄鬼畜なりといへども感應道交すれば必ず歸依したてまつるなり。すでに歸依したてまつるがごときは生生世世在在處處に増長し、必ず積功累徳し、阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり。おのづから悪友にひかれ魔障にあふて、しばらく断善根となり一闡提となれども、つひには續善根し、その功徳増長するなり。・・・・』

 

 

【知るべし三歸の功徳其れ最尊最上甚深不可思議なりということ、世尊已に證明しまします、衆生當に信受すべし】

 

「正法眼蔵・歸依三寶」巻より

しるべし三歸の功徳それ最尊最上甚深不可思議なりということ。世尊すでに證明しまします、衆生まさに信受すべし。十方の諸佛の名號を称念せしめましまさず。ただ三歸をさづけまします。佛意の甚深なる。だれかこれを測量せん。いまの衆生、いたづらに各各の一佛の名號を称念せんよりは、すみやかに三歸をうけたてまつるべし。愚闇にして大功徳をむなしくすることなかれ。・・・・』

 

 

(第十五節)

【次には應に三聚淨戒を受け奉るべし、第一攝律儀戒、第二攝善法戒、第三攝衆生戒なり、次には應に十重禁戒を受け奉るべし第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不邪淫戒、第四不妄語戒、第五不酤酒戒、第六不説過戒、第七不自讃毀他戒、第八不慳法財戒、第九不瞋恚戒、第十不謗三寶戒なり、上来三歸、三聚浄戒、十重禁戒、是れ諸佛の受持したもう所なり】

 

「佛祖正傳菩薩戒作法」

「永平祖師・得度略作法」より

『次に三聚十重を受れば即ち諸佛の位に入る、是れ眞の佛子なり。』

 

「正法眼蔵・受戒」巻、趣意文より。

應に三聚清淨戒を受くべし。第一懾律儀戒、汝、今身從り佛身に至るまで、此の戒能く持つや否や。答えて云く、能く持つ。第二懾善法戒・・・第三懾衆生戒・・・。汝既に三聚清淨戒を受く。應に十戒を受くべし。是れ諸佛菩薩清淨の大戒なり。第一不殺生・・・第二不偸盗・・・第三不媱欲・・・第四不妄語・・・第五不酤酒・・・第六不説在家出家菩薩罪過・・・第七不自讃毀他・・・第八不慳法財・・・第九不瞋恚・・・第十不謗三寶・・・上來三歸、三聚淨戒、十重禁戒、是れ諸佛の受持したもう所なり。

 

 

(第十六節)

【受戒するが如きは三世の諸佛の所證なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の佛果を證するなり、誰の智人か欣求せざらん】

 

「正法眼蔵・出家功徳」巻より

『今生の人身は四大五蘊因縁和合して、かりになせり。八苦つねにあり。いはんや刹那刹那に生滅して、さらにとどまらず。いはんや一彈指のあひだに六十五の刹那生滅すといへども、みづからくらきによりて、いまだしらざるなり。すべて一日夜があひだに六十四億九萬九千九百八十の刹那ありて、五蘊生滅すといへども、しらざるなり。あはれむべし、われ生滅すといへども、みづからしらざること、この刹那生滅の量、ただ佛世尊ならびに舍利弗とのみしらせたまふ。餘聖おほかれとも、ひとりしるところにあらざるなり。この刹那生滅の道理によりて、衆生すなはち善悪の業をつくる。また刹那生滅の道理によりて衆生發心得道す。かくのごとく生滅する人身なり。たとひをしむともとどまらしむ。むかしよりをしんで、とどまれる一人いまだなし。かくのごとく、われにあらざる人身なりといへども、めぐらして出家受戒するがごときは三世の諸佛の所證なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の佛果を證するなり。だれの智人か欣求せざらん。これによりて過去日月燈明佛の八子、みな四天下を領する王位をすてて出家す。・・・・』

 

 

【世尊明らかに一切衆生の為に示しまします】

 

「正法眼蔵・歸依三寶」巻より

『世尊言。衆人怖所逼。多歸依諸山。園苑及叢林。・・・・世尊あきらかに一切衆生のためにしめしまします。衆生いたづらに所逼をおそれて、山神鬼神等に歸依し、あるひは外道の制多に歸依することなかれ。・・・・』

 

 

【衆生佛戒を受くれば、即ち諸佛の位に入る、位大覺に同うし已る、眞に是れ諸佛の子なりと】

 

「永平祖師・得度略作法」より

『次に三聚十重を受れば即ち諸佛の位に入る、是れ眞の佛子なり。』

 

「梵網經・盧舍那佛説菩薩心地法門品」第十下より

(梵網経盧舍那仏説菩薩心地戒品第十巻下)

(上略)

戒如明日月。亦如瓔珞珠。微塵菩薩衆。由是成正覺。

是盧舍那誦。我亦如是誦。汝新學菩薩。頂戴受持戒。

受持是戒已。轉授諸衆生。諦聽我正誦。佛法中戒藏。

波羅提木叉。大衆心諦信。汝是當成佛。我是已成佛。

常作如是信。戒品已具足。一切有心者。皆應攝佛戒。

衆生受佛戒。即入諸佛位。位同大覺已。真是諸佛子。

大衆皆恭敬。至心聽我誦。

 

衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る。

位大覚に同じうし已る、真にこれ諸仏の子なり。

 

 

(第十七節)

【諸佛の常に此中に住持たる、各各の方面に知覺を遺さず、群生の長えに此中に使用する、各各の知覺に方面露れず】

 

「正法眼蔵・辨道話」巻より

『諸佛如来ともに妙法を單傳して、阿耨菩提を證するに、最上無為の妙術あり。これただ、ほとけ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならんや。かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。諸佛のつねにこのなかに住持たる、各各の方面に知覺をのこさず、群生のとこしなへにこのなかに使用する、各各の知覺に方面あらはれず。いまをしふる工夫辨道は、證上に萬法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。・・・・』

 

 

【是時十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆佛事を作すを以て、其起す所の風水の利益に預る輩、皆甚妙不可思議の佛化に冥資せられて親き悟を顯わす】

 

「正法眼蔵・辨道話」巻より

『この坐禪人礭爾として身心脱落し、従来雜穢の知見思量を裁断して、天真の佛法に證會し、あまねく微塵際そこばくの諸佛如来の道場ごとに、佛事を助發し、ひろく佛向上の機にかうぶらしめて、よく佛向上の法を激揚す。このとき十方法界の土地草木牆壁瓦礫みな佛事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあづかるともがら、みな甚妙不可思議の佛化に冥資せられて、ちかきさとりをあらはす。この水火を受用するたぐい、みな本證の佛化を周旋するゆゑに・・・・』

 

 

【是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす】

 

「正法眼蔵・発無上心」巻より

『直至成佛の發心なり。さらに中間に破廃すべからず。これを無為の功徳とす。これを無作の功徳とす。これ眞如観なり。これ法性観なり。これ諸佛集三昧なり。これ得諸佛陀羅尼なり。これ阿耨多羅三藐三菩提心なり。これ阿羅漢果なり。これ佛現成なり。このほかさらに無為無作等の法なきなり。しかあるに小乘愚人いはく造像起塔は有為の功業なり。さしおきていとなむべからず。息慮凝心、これ無為なり。無生無作、これ眞實なり。法性實相の観行、これ無為なり。・・・・』

 

 

【是れ發菩提心なり。】

 

「正法眼蔵・発無上心」巻より

『かくのごとく八萬法蘊の因縁、かならず發心なり。あるひは夢中に發心するもの得道せるあり。あるひは酔中に發心するもの得道せるあり。あるひは飛華落華のなかより發心得道するあり。あるひは桃華翠竹のなかより發心得道するあり。あるいは天上にして發心得道するあり。あるいは海中にして發心得道するあり。これみな發菩提心中にして、さらに發菩提心するなり。身心のなかにして發菩提心するなり。諸佛の身心中にして發菩提心するなり。佛祖の皮肉骨髓のなかにして發菩提心するなり。しかあれば而今の造塔造佛等は、まさしく、これ發菩提心なり。直至成佛の發心なり。』

 


第四章 發願利生

 

(第十八節)

【菩提心を發すというは、己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと發願し營むなり】

 

「正法眼蔵・発菩提心」巻より

『おほよそ心三種あり。一者質多心。此方稱慮知心。二者汗栗多心。此方稱艸木心。三者矣栗多心。此方稱積聚精要心。このなかに菩提心をおこすこと。かならず慮知心をもちゐる。菩提は天竺の音。ここには道といふ。質多は天竺の音。ここには慮知心といふ。この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたわず。この慮知心をすなはち菩提心とするにはあらず。この慮知心をもて、菩提心をおこすなり。菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに一切衆生をわたさんと發願しいとなむなり。

 

 

【設い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或は人間にもあれ、苦にありというとも樂にありというとも、早く自未得度先度他の心を發すべし】

 

「正法眼蔵・発菩提心」巻より

『あきらかにしるべし佛祖の學道かならず菩提心を發悟するをさきとせりといふこと。これすなはち佛祖の常法なり。發悟すといふは暁了なり。これ大覺にはあらず。たとひ十地を頓證せるも。なほこれ菩薩なり。西天二十八祖、唐土六祖等、および諸大祖師はこれ菩薩なり。ほとけにあらず。聲聞辟支佛等にあらず。いまのよにある參學のともがら菩薩なり。聲聞にあらずといふことあきらめしれるともがら一人もなし。ただみだりに衲僧衲子と自稱して、その眞實をしらざるによりて、みたりかはしくせり。あはれむべし澆季祖道廢せることを。しかあればすなはちたとひ在家にもあれ。たとひ出家にもあれ。あるひは天上にもあれ。あるひは人間にもあれ。苦にありというとも。樂にありというとも。はやく自未得度先度佗の心をおこすべし。衆生界は有邊無邊にあらざれども。先度一切衆生の心をおこすなり。これすなはち菩提心なり。・・・・』

 

 

(第十九節)

【其形陋しというとも、此心を發せば已に一切衆生の導師なり】

 

「正法眼蔵・発菩提心」巻より

『菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに一切衆生をわたさんと發願しいとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり。この心もとよりあるにあらず。いまあらたに歘起するにあらず。一にあらず。多にあらず。自然にあらず。凝然にあらず。わが身のなかにあるにあらず。わが身は心のなかにあるにあらず。この心は法界に周遍せるにあらず。前にあらず、後にあらず。あるにあらず、なきにあらず。自性にあらず。佗性にあらず。・・・』

 

 

【設い七歳の女流なりとも即ち四衆の導師なり、衆生の慈父なり】

 

「正法眼蔵・禮拝得髄」巻より

『たとひ女人なりとも畜生なりとも、またしかあるべし。佛法の道理いまだゆめにもみざらんは、たとひ百歳なる老比丘なりとも、得法の男女におよぶべきにあらず。うやまふべからず。ただ賓主の禮のみなり。佛法を修行し、佛法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり。衆生の慈父なり。たとへば龍女成佛のごとし。供養恭敬せんこと、諸佛如来にひとしかるべし。これすなはち佛道の古儀なり。しらず單傳せざらんはあはれむべし。また和漢の古今に帝位にして女人なり。その國土みなこの帝王の所領なり。人みなその臣となる。これは人をうやまふにあらず、位をうやまふなり。比丘尼もまたその人をうやまふことは、むかしよりなし。ひとへに得法をうやまふなり。・・・・』

 

 

【男女を論ずること勿れ、此れ佛道極妙の法則なり】

 

「正法眼蔵・禮拝得髄」巻より

『たとへば正法眼蔵を傳持せらん比丘尼は四果支佛、および三賢十聖も、きたりて禮拝問法せんに、比丘尼この禮拝をうくべし。男兒なにをもてか貴ならん。虚空は虚空なり。四大は四大なり。五蘊は五蘊なり。女流もまたかくのごとし。得道はいづれも得道す。ただしいづれも得法を敬重すべし。男女を論することなかれ。これ佛道極妙の法則なり。また宋朝に居士といふは未出家の士夫なり。菴居して夫婦そなはれるもあり。また孤獨潔白なるもあり。なほ塵勞稠林といひぬべし。しかあれどもあきらむるところあるは、雲衲霞袂あつまりて禮拝請益すること出家の宗匠におなじ。・・』

 

 

(第二十節)

【若し菩提心を發して後、六趣四生に輪轉すと雖も、其輪轉の因縁皆菩提の行願となるなり】

 

「正法眼蔵・谿聲山色」巻より

『菩提心はむかしのゆめをとくがごとし、あはれむべし、寚山にうまれながら寚財をしらず。寚財をみず。いはんや法財をえんや。もし菩提心をおこしてのち、六趣四生に輪轉すといへども、その輪轉の因縁、みな菩提の行願となるなり。しかあれば從來の光陰は、たとひむなしくすごすといふとも、今生のいまだすぎざるあいだに、いそぎて發願すべし。』

 

 

【然あれば從來の光陰は設い空く過すというとも、今生の未だ過ぎざる際だに急ぎて發願すべし】

 

「正法眼蔵・谿聲山色」巻より

しかあれば從來の光陰は、たとひむなしくすごすといふとも、今生のいまだすぎざるあいだに、いそぎて發願すべし。ねがわくはわれと一切衆生と今生より乃至生生をつくして、正法をきくことあらん。きくことあらんとき、正法を疑著せじ。不信なるべからず。まさに正法にあはんとき世法をすてて佛法を受持せん。つひに大地有情ともに成道することをえん。・・・・』

 

 

【設い佛に成るべき功徳熟して圓滿すべしというとも、尚お廻らして衆生の成佛得道に回向するなり】

 

「正法眼蔵・發菩提心」巻より

『衆生を利益すといふは。衆生をして自未得度先度佗のこころをおこさしむるなり。自未得度先度佗の心をおこせるちからによりて、われほとけにならんとおもふべからず。たとひほとけになるべき功徳熟して、圓滿すべしといふとも。なほめぐらして衆生の成佛得道に回向するなり。この心われにあらず。佗にあらず。きたるにあらずといへども。この發心よりのち大地を擧すればみな黄金となり。大海をかけばたちまちに甘露となる。これよりのち土石礫をとる。すなはち菩提心を拈來するなり。水沫泡焰を參する。したしく菩提心を擔來するなり。・・・・』

 

 

【或は無量劫行いて衆生を先に度して自らは終に佛に成らず、但し衆生を度し衆生を利益するもあり】

 

「正法眼蔵・發菩提心」巻より

『この發菩提心おほくは南閻浮の人身に発心すべきなり。八難處等にも、すこしはありおほからず。菩提心をおこしてのち三阿僧祇劫、一百大劫修行す。あるひは無量劫おこなひてほとけになる。あるひはは無量劫おこなひて衆生をさきにわたして、みづからはついにほとけにならず、ただし衆生をわたし衆生を利益するもあり。菩薩の意樂にしたがふ。おほよそ菩提心は、いかがして一切衆生をして菩提心をおこさしめ、佛道に引導せましと、ひまなく三業にいとなむなり。いたづらに世間の欲樂をあたふるを利益衆生とするにはあらず。この発心、この修證、はるかに迷悟の邊表を超越せり。三界に勝出し、一切に抜群せり。・・・・』

 

 

(第二十一節)

【衆生を利益すというは】

 

「正法眼蔵・發菩提心」巻より

『発心とは、はじめて自未得度先度佗の心をおこすよりのち、さらにそこばくの諸佛にあひたてまつり、供養したてまつるに、見佛聞法し、さらに菩提心をおこす。雪上加霜なり。いはゆる畢竟とは佛果菩提なり。阿耨多羅三藐三菩提と初發菩提心と格量せば、劫火螢火のごとくなるべしといへども、自未得度先度佗のこころをおこせば、二無別なり。毎自作是念、以何令衆生、得入無上道、速成就佛身。これすなはち如来の壽量なり。ほとけは発心修行證果、みなかくのごとし。衆生を利益すといふは。衆生をして自未得度先度佗のこころをおこさしむるなり。自未得度先度佗のこころをおこさしむるなり。自未得度先度佗の心をおこせるちからによりて、われほとけにならんとおもふべからず。たとひほとけになるべき功徳熟して圓滿すべしといふとも。なほめぐらして衆生の成佛得道に回向するなり。・・・・』

 

 

【四枚の般若あり】

 

「正法眼蔵・摩訶般若波羅蜜」巻より

『観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色受想行識なり。五枚の般若なり。照見これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり。空即是色あり。色是色なり。空是空なり。百艸なり。萬象なり。般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり。眼耳鼻舌身意色聲香味觸法、および眼耳鼻舌身意識等なり。また四枚の般若あり。苦集滅道なり。また六枚の般若あり。布施、淨戒、安忍、精進、靜慮、般若なり。また一枚の般若波羅蜜而今現成せり。阿耨多羅三藐三菩提なり。また般若波羅蜜三枚あり。過去現在未来なり。また般若六枚あり。地水火風空識なり。また四枚の般若よのつねにおこなはる行住坐臥なり。・・・・』

 

 

【一者布施、二者愛語、三者利行、四者同事】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

一者布施、二者愛語、三者利行、四者同事。その布施といふは不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずといふは、よのなかにいふへつらはざるなり。たとひ四洲を統領すれども、正道の教化をほどこすには、かならず不貪なるのみなり。たとへばすつるたからをしらぬ人に、ほどこさんがごとし。遠山はなを如来に供し、前生のたからを衆生にほどこさん。法におきても物におきても、面面に布施に相應する功徳を本具せり。我物にあらざれども布施をさへざる道理あり。そのもののかろきをきらはず、その功の實なるべきなり。道を道にまかするとき得道す。得道のときは道かならず道にまかせられゆくなり。・・・・』

 

 

【是れ則ち】

 

「是れ則ち・・・これは接続の語にして眼藏中に沢山あり。故に何の巻と指すに及ばず。」(修証義編纂史より。)

 

【薩埵の行願なり】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『明主はあきらかなるがゆゑに人をいとはず。人かならず國をなし、明主をもとむるこころあれども、明主の明主たる道理をことごとくしることまれなるゆゑに、明主にいとはれずとのみ、よろこぶといへども、わが明主にも、暗人にも、同事の道理あるがゆゑに、同事は薩埵の行願なり。ただまさにやはらかなる容顔をもて一切にむかうべし。この四攝おのおの四攝を具足せるがゆゑに、十六攝なるべし。』

 

 

【其布施といふは貪らざるなり】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『一者布施、二者愛語、三者利行、四者同事。その布施といふは不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずといふは、よのなかにいふへつらはざるなり。たとひ四洲統領すれども正道の教化をほどこすには、かならず不貪なるのみなり。たとへばすつるたからをしらぬ人にほどこさんがごとし。遠山はなを如来に供し、前生のたからを衆生にほどこさん。・・・・』

 

 

【我物に非ざれども布施を障へざる道理あり、其物の輕きを嫌はず、其功の實なるべきなり】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『遠山はなを如来に供し、前生のたからを衆生にほどこさん。法におきても物におきても、面面に布施に相應する功徳を本具せり。我物にあらざれども布施をさへざる道理あり。そのもののかろきをきらはず、その功の實なるべきなり。道を道にまかするとき得道す。得道のときは道かならず道にまかせられゆくなり。財のたからにまかせらるるとき、財かならず布施となるなり。自を自にほどこし。佗を佗にほどこすなり。・・・・』

 

 

【然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし、此生佗生の善種となる、一錢一草の財をも布施すべし、此世佗世の善根を兆す、法も財なるべし、財も法なるべし】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『財のたからにまかせらるるとき、財かならず布施となるなり。自を自にほどこし、佗を佗にほどこすなり。この布施の因縁力、とほく天上人間までも通じ、證果の賢聖までも通ずるなり。そのゆゑは布施の能受となりて、すでに縁をむすぶがゆゑに、ほとけののたまはく、布施する人の衆會のなかにきたるときは、まづその人を諸人のそみみる。しるべしひそかにそのこころの通ずるなりと。しかあればすなはち一句一偈の法をも布施すべし。此生佗生の善種となる、一錢一艸の財をも布施すべし。此世佗世の善根をきざす、法もたからなるべし、財も法なるべし。願樂によるべきなり。まことにすなはちひけをほどこしてはもののこころをととのへ、いさごを供しては王位をうるなり。・・・・』

 

 

【但彼が報謝を貪らず、自らが力を頒つなり、舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『願樂によるべきなり。まことにすなはちひけをほどこしてはもののこころをととのへ、いさごを供しては王位をうるなり。ただかれが報謝をむさぼらず、みづからがちからをわかつなり、舟をおき橋をわたすも布施の檀度なり。もしよく布施を學するときは、受身捨身ともにこれ布施なり。治生産業もとより布施にあらざることなし。』

 

 

【治生產業固より布施に非ざること無し】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『もしよく布施を學するときは、受身捨身ともにこれ布施なり。治生產業もとより布施にあらざることなし。はなを風にまかせ、鳥をときにまかするも布施の功業なるべし。阿育大王の半菴羅果よく數百の僧衆に供養せし。廣大の供養なりと證明する道理、よくよく能受の人も學すべし。身力をはげますのみにあらず。便宜をすごさざるべし。まことにみづからに布施の功徳の本具なるゆゑに、いまのみづからはえたるなり。ほとけののたまはく、於其自身、尚可受用何況能與父母妻子。しかあればしりぬ。みづからもちゐるも布施の一分なり、父母妻子にあたふるも布施なるべし。もしよく布施に一塵を捨せんときは、みづからが所作なりといふとも、いづかに随喜すべきなり。・・・・』

 

 

(第二十二節)

【愛語というは衆生を見るに先づ慈愛の心を發し顧愛の言語を施すなり】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『諸佛のひとつの功徳をすでに正傳しつくれるがゆゑに、菩薩の一法をはじめて修行するがゆゑに、轉しがたきは衆生のこころなり。一財をきざして衆生の心地を轉じはじむるより、得道にいたるまでも轉ぜんとおもふなり。そのはじめかならず布施をもてすべきなり。かるがゆゑに六波羅蜜のはじめに檀波羅蜜あるなり。心の大小ははかるべからず。物の大小もはかるべからざれども、心轉物のときあり。物轉心の布施あるなり。愛語といふは衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。世俗には安否をとふ禮儀あり。佛道には珍重のことばあり。不審の孝行あり。慈念衆生猶如赤子のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。』

 

 

【慈念衆生猶如赤子の懷ひを貯へて言語するは愛語なり】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『おほよそ暴悪の言語なきなり。世俗には安否をとふ禮儀あり。佛道には珍重のことばあり。不審の孝行あり。慈念衆生猶如赤子のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。德あるはほむべし、德なきはあはれむべし。愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。しかあればひごろしられすみえざる愛語も現前するなり。現在の身命の存せらんあひだ、このんで愛語すべし。世世生生にも不退轉ならん。怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり。』

 

 

【德あるは讃むべし、德なきは憐むべし】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『慈念衆生猶如赤子のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。德あるはほむべし、德なきはあはれむべし。愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。しかあればひごろしられすみえざる愛語も現前するなり。現在の身命の存せらんあひだ、このんで愛語すべし。』

 

 

【怨敵を降伏し君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面ひて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を樂しくす、面はずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『現在の身命の存せらんあひだ、このんで愛語すべし。世世生生にも不退轉ならん。怨敵を降伏し君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、むかひて愛語をきくはおもてをよろこばしめ、こころをたのしくす、むかはずして愛語をきくは肝に銘じ魂に銘ず。しるべし愛語は愛心よりおこる。愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを學すべきなり。・・・・』

 

 

【愛語能く廻天の力あることを學すべきなり】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『しるべし愛語は愛心よりおこる。愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを學すべきなり。ただ能を賞するのみにあらず。利行といふは貴賤の衆生におきて、利益の善巧をめぐらすなり。・・・・』

 

 

(第二十三節)

【利行といふは貴賤の衆生に於きて利益の善巧を廻らすなり】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『ただ能を賞するのみにあらず。利行といふは貴賤の衆生におきて、利益の善巧をめぐらすなり。たとへば遠近の前途をまもりて、利佗の方便をいとなむ。窮龜をあはれみ、病雀をやしなふし。』

 

 

【窮龜を見病雀を見しとき、彼が報謝を求めず、唯單へに利行に催ほさるヽなり】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『窮龜をあはれみ、病雀をやしなふし。窮龜をみ病雀をみしとき、かれが報謝をもとめず、ただひとへに利行にもよほさるるなり。愚人おもはくは利佗をさきとせば、みづからが利はぶかれぬべしと。』

 

(注1)病雀:三府の環

(注2)窮龜:餘不の印

 

【愚人謂はくは利佗を先とせば自からが利省れぬべしと、爾には非ざるなり、利行は一法なり、普ねく自佗を利するなり】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『ただひとへに利行にもよほさるるなり。愚人おもはくは利佗をさきとせば、みづからが利はぶかれぬべしと。しかにはあらざるなり。利行は一法なり、あまねく自佗を利するなり。むかしの人ひとたび沐浴するにみたびかみをゆひ。ひとたび飡食するにみたびはきいたせしは、ひとへに佗を利せしこころなり。ひとのくにの民なればをしへざらんとにはあらざりき。しかあれば怨親ひとしく利すべし。自佗おなじく利するなり。もしこのこころをうれば、艸木風水にも利行のおのれつから不退不轉なる道理、まさに利行せらるるなり。ひとへに愚をすくはんといとなむべし。・・・・』

 

 

(第二十四節)

【同事といふは不違なり、自にも不違なり、佗にも不違なり】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『まさに利行せらるるなり。ひとへに愚をすくはんといとなむべし。同事といふは不違なり、自にも不違なり、佗にも不違なり。たとへば人間の如來は人間に同ぜるがごとし。・・・』

 

 

【譬へば人間の如來は人間に同ぜるが如し】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『同事といふは不違なり、自にも不違なり、佗にも不違なり。たとへば人間の如來は人間に同ぜるがごとし。人界に同ずるをもてしりぬ同餘界なるべし。同事をしるとき、自佗一如なり。かの琴詩酒は人をともとし天をともとし神をともとす。人は琴詩酒をともとす。琴詩酒は琴詩酒をともとし、人は人をともとし、天は天をともとし、神は神をともとすることはりあり。これ同事の習學なり。・・・・』

 

 

【佗をして自に同ぜしめて後に自をして佗に同ぜしむる道理あるべし、自佗は時に隨うて無窮なり】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『これ同事の習學なり。たとへば事といふは儀なり。威なり。佗をして自に同ぜしめてのちに自をして佗に同ぜしむる道理あるべし、自佗はときにしたがうて無窮なり。管子云海不辞水。故能成其大。山不辞土。故能成其高。明主不厭人。故能成其衆。しるべし海の水を辭せざるは同事なり。さらにしるべし水の海を辭せざる徳も具足せるなり。このゆゑによく水あつまりて海となり。土かさなりて山となるなり。・・・』

 

【海の水を辭せざるは同事なり】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『しるべし海の水を辭せざるは同事なり。さらにしるべし水の海を辭せざる徳も具足せるなり。このゆゑによく水あつまりて海となり。』

 

 

【是故に能く水聚りて海となるなり】

 

「正法眼蔵・菩提薩埵四攝法」巻より

『さらにしるべし水の海を辭せざる徳も具足せるなり。このゆゑによく水あつまりて海となり。土かさなりて山となるなり。ひそかにしりぬ海は海を辭せざるがゆゑに海をなし、おほきなることをなす。山は山を辭せざるがゆゑに山をなし、たかきことをなすなり。明主は人をいとはざるがゆゑに、その衆をなす。衆とは國なり。いはゆる明主は帝王をいふなるべし。帝王は人をいとはざるなり。人をいとはずといへども賞罰なきにあらず。賞罰ありといへども人をいとふことなし。むかしすなほなりしときは國に賞罰なかりき。かのときの賞罰は、いまとひとしからざればなり。いまも賞をまたずして道をもとむる人もあるべきなり。愚夫の思慮のおよぶべきにあらず。』

 

 

(第二十五節)

【大凡菩提心の行願には】

 

「正法眼蔵・谿聲山色」巻より

『またこの日本國は海外の遠方なり。人のこころ至愚なり。むかしよりいまだ聖人うまれず。生知うまれず。いはんや學道の實士まれなり。道心をしらざるともがらに道心ををしふるときは忠言の逆耳するによりて、自己をかへりみず、佗人をうらむ。おほよそ菩提心の行願には、菩提心の發未發、行道不行道を世人にしられんことをおもはざるべし。しられざらんといとなむべし。いはんやみづから口稱せんや。いまの人は實をもとむること、まれなるによりて身に行なく、こころにさとりなくとも、佗人のほむることありて、行解相應せりといはん人をもとむるがごとし。迷中又迷、すなはちこれなり。この邪念すみやかに抛捨すべし。學道のとき見聞すること、かたきは正法の心術なり。その心術は佛佛相傳しきたれるものなり。これを佛光明とも佛心とも相傳するなり。・・・・』

 

 

【是の如くの道理靜かに思惟すべし卒爾にすること勿れ】

 

「正法眼蔵・佛經」巻より

『黄梅のむかし盧行者あること信ずべし。樵夫より行者にうつる。搬柴をのがるとも、なほ碓米を職とす。卑賤の身うらむべしといへども出俗越僧得法傳衣、かつていまだむかしもきかざるところ。西天にもなし。ひとり東地にのこれる、希代の高躅なり。七百の高僧もかたを比せず。天下の龍象あとをたづぬる分なきがごとし。まさしく第三十三代の祖位を嗣續して佛嫡なり。五祖知人の知識にあらずば、いかでか、かくのごとくならん。かくのごとくの道理しづかに思惟すべし、卒爾にすることなかれ。知人のちからをえんことをこひねがふべし。人をしらざるは自佗の大患なり。天下の大患なり。廣學措大は要にあらず。知人のまなこ、知人の力量、いそぎてもとむべし。もし知人のちからなくば曠劫に沈淪すべきなり。しかあればすなはち佛道にさだめて佛經あることをしり、廣文深義を山海に參學して、辨道の標準とすべきなり。』

 

 

【濟度攝受に一切衆生皆化を被ぶらん功德を禮拜恭敬すべし。】

 

「正法眼蔵・禮拝得髄」巻より

『一方を結するとき、すなはち法界みな結せられ、一重を結するとき法界みな結せらるるなり。あるひは水をもて結する界あり。あるひは心をもて結界することあり。あるひは空をもて結界することあり。かならず相承相傳ありて、しるべきことあり。いはんや結界のとき灑甘露ののち、歸命の禮をはり。乃至淨界等ののち、頌云茲界遍法界、無爲結清淨。この旨趣いまひごろ結界と稱する古先老人。しれりやいなや。おもふになんだち結の中に遍法界の結せらるることしるべからざるなり。しりぬなんぢ聲聞の酒にゑふて小界を大界とおもふなり。ねがはくはひごろの迷酔すみやかにさめて諸佛の大界の遍界に違越すべからず。濟度攝受に一切衆生みな化をかうぶらん功德を禮拜恭敬すべし。たれかこれを得道髄といはざらん。』

 


第五章 行持報恩

 

 (第二十六節)

【此發菩提心多くは南閻浮の人身に發心すべきなり】

 

「正法眼蔵・發菩提心」巻より

『しかあれど感應道交するところに發菩提心するなり。諸佛菩薩の所授にあらず。みづから所能にあらず。感應道交するに、發心するゆゑに自然にあらず。この發菩提心おほくは南閻浮の人身に發心すべきなり。八難處等にも、すこしきはありおほからず。菩提心をおこしてのち三阿僧祇劫、一百大修行す。あるひは無量劫おこなひてほとけになる。あるひはは無量劫おこなひて衆生をさきにわたして、みづからはついにほとけにならず、ただし衆生をわたし衆生を利益するもあり。菩薩の意樂にしたがふ。』

 

 

【今、是の如くの因緣あり】

 

「正法眼蔵・谿聲山色」巻より

『かつて國王大臣の恭敬供養をまつること期せざるものなり。しかあるにいまかくのごとくの因緣あり。本期にあらず所求にあらず。人天の繫縛にかかはらんことを期せざるところなり。しかあるをおろかなる人は、たとひ道心ありといへども、はやく本志をわすれて、あやまりて人天の供養をまちて佛法の功徳いたれりとよろこぶ。國王大臣の歸依しきりなればわがみちの現成とおもへり。これは學道の一魔なり。あはれむこころをわするべからずといふとも、よろこぶことなかるべし。』

 

 

【願生此娑婆國土し來れり】

 

「正法眼蔵・見佛」巻より

『この經典にあひたれまつれるは、信解すべき機縁なり。深心信解是法華深心信解壽命長遠のために、願生此娑婆國土しきたれり。如來の神力慈悲力、壽命長遠力、よく心を拈じて信解せしめ、佛祖を拈じて信解せしめ、諸法を拈じて信解せしめ、實相を拈じて信解せしめ、皮肉骨髓を拈じて信解せしめ、生死去來を拈じて信解せしむるなり。これらの信解これ見佛なり。・・・・』

 

 

【見釋迦牟尼佛を喜ばざらんや】

 

「正法眼蔵・見佛」巻より

『いまの此經典にうまれあふ。見釋迦牟尼佛をよろこばざらんや。生値釋迦牟尼佛なり。身心をはげまして受持讀誦正憶念修習書寫是法華經者則見釋迦牟尼佛なるべし。如從佛口聞此經典、だれかこれをきほひきかざらん。いそがずつとめざるは、貧窮無福慧の衆生なり。修習するは當知是人則見釋迦牟尼佛なり。・・・・』

 

 

(第二十七節)

【靜かに憶うべし正法世に流布せざらん時は身命を正法の為に拋捨せんことを願うとも值うべからず、正法に逢う今日の吾等を願うべし】

 

「正法眼蔵・行持」巻より

『いま正法にあふ百千恒沙の身命をすてても、正法を參學すべし。いたづらなる小人と、廣大深遠の佛法と、いづれのために身命をすつべき。賢不肖ともに進退にわづらふべからざるものなり。しづかにおもふべし正法よに流布せざらんときは身命を正法のために拋捨せんことをねがふともあふべからず、正法にあふ今日のわれらをねがふべし。正法にあふて身命をすてざるわれらを慚愧せん。はづべくはこの道理をはづべきなり。しかあれば祖師の大恩を報謝せんことは一日の行持なり。自己に身命をかへりみることなかれ。禽獣よりもおろかなる恩愛をしんですれざることなかれ。たとひ愛惜すとも長年のともなるべからず。・・・・』

 

 

【見ずや】

 

「(見ずや)の三字は接續の語にして眼藏中所々にあり。」(修証義編纂史より)

 

【佛の言はく】

 

「これは禮拝得髄巻二丁ヲに釋迦牟尼佛のいはく無上菩提を演説云々とあるものを釋迦牟尼佛を省略して只佛の言はくとせしまでなり。」(修証義編纂史より)

 

 

【無上菩提を演說する師に值はんには、種姓を觀ずること莫れ、容顏を見ること莫れ、非を嫌ふこと莫れ、行を考ふること莫れ、但般若を尊重するが故に】

 

「正法眼蔵・禮拝得髄」巻より

『釋迦牟尼佛のいはく、無上菩提を演說する師にあはんには、種姓を觀ずることなかれ、容顏をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ、ただ般若を尊重するがゆゑに、日日に百千兩の金を食せしむべし。天食をおくりて供養すべし。天華を散じて供養すべし。日日三時に禮拜し恭敬して、さらに患惱の心を生ぜしむることなかれ。』

 

 

【日日三時に禮拜し恭敬して更に患惱の心を生ぜしむること莫れと】

 

「正法眼蔵・禮拝得髄」巻より

日日三時に禮拜し恭敬して、さらに患惱の心を生ぜしむることなかれ。かくのごとくすれば菩提の道かならずところあり。われ発心よりこのかた、かくのごとく修行して、今日は阿耨多羅三藐三菩提をえたるなり。しかあれば若樹若石もとかましとねがひ、若田若里もとかましともとむべし。露柱に問取し牆壁をしても参究すべし。』

 

 

(第二十八節)

【今の見佛聞法は佛祖面面の行持より來れる慈恩なり、佛祖若し單傳せずば奈何にしてか今日に至らん、一句の恩尚ほ報謝すべし、一法の恩尚ほ報謝すべし、况や正法眼藏無上大法の大恩これを報謝せざらんや】

 

「正法眼蔵・行持」巻より

『窮龜なほ恩をわすれず餘不の印よく報謝あり。かなしむべし、人面ながら畜類よりも愚劣ならんこと(は)。いまの見佛聞法は佛祖面面の行持よりきたれる慈恩なり、佛祖もし單傳せずばいかにしてか今日にいたらん、一句の恩なほ報謝すべし、一法の恩なほ報謝すべし、いはんや正法眼藏無上大法の大恩これを報謝せざらんや。一日に無量恒河沙の身命すてんことねがふべし。法のためにすれんかばねは、世世のわれらかへりて禮拝供養すべし。諸天龍神ともに恭敬尊重し守護讚歎するところなり。道理それ必然なるがゆゑに、西天竺國には髑髏をうり、髑髏をかふ婆羅門の法ひさしく風聞せり。これ聞法の人の髑髏形骸の功徳おほきことを尊重するなり。いま道のために身命をすてざれば聞法の功徳いたらず。身命をかへりみず聞法するがごときは、その聞法成熟するなり。・・・・』

 

 

【病雀尚ほ恩を忘れず三府の環能く報謝あり、窮龜尚ほ恩を忘れず餘不の印能く報謝あり】

 

「正法眼蔵・行持」巻より

『しかあれば祖師の大恩を報謝せんことは一日の行持なり。自己の身命をかへりみることなかれ。禽獣よりもおろかなる恩愛をしんですてざることなかれ。たとひ愛惜すとも長年のともなるべからず。あくたのことなる家門たのみてとどまることなかれ。たとひとどまるともつひの幽棲にあらず。むかし佛祖のかしこかりし、みな七寶千子をなげすて、玉殿朱棲をすみやかにすつ。涕唾のごとくみる。糞土のごとくみる。これらみな古來の佛祖の古來の佛祖を報謝しきたれる。知恩報恩の儀なり。病雀なほ恩をわすれず三府の環よく報謝あり、窮龜なほ恩をわすれず餘不の印よく報謝あり。かなしむべし、人面ながら畜類よりも愚劣ならんこと(は)。いまの見佛聞法は佛祖面面の行持よりきたれる慈恩なり、佛祖もし單傳せずばいかにしてか今日にいたらん。』

 

(注1)病雀:三府の環

(注2)窮龜:餘不の印

 

【畜類尚ほ恩を報ず人類爭か恩を知らざん】

 

「正法眼蔵・袈裟功徳」巻より

『われら佛生國をへだつること十萬餘里の山海はるかにして通じがたしといへども、宿善のあひもよほすところ。山海に擁塞せられず。邊鄙の愚蒙きらはるることなし。この正法にあふたてまつり。あくまで日夜に修習す。この袈裟を受持したてまつり。常恒に頂戴護持す。ただ一佛二佛のみもとにして功徳を修せるのみならんや。すでに恒河沙等の諸佛のみもとにして、もろもろの功徳を修習せるなるべし。たとひ自己なりといふとも、たふとぶべし、随喜すべし。祖師傳法の深恩ねんごろに報謝すべし。畜類なほ恩を報ず、人類いかでか恩をしららざん。もし恩をしらずは畜類よりも愚なりべし。この佛衣佛法の功徳、その傳佛正法の祖師にあらざれば餘輩いまだあきらめずしらず。諸佛のあとを欣求すべくは、まさにこれを欣樂すべし。たとひ百千萬代ののちも、この正傳を正傳とすべし。これ佛法なるべし。』

 

 

(第二十九節)

【其報謝は餘外の法は中るべからず】

 

「正法眼蔵・行持」巻より

『二祖もし行持せずば今日の飽學措大あるべからず。今日われら正法を見聞するたぐひとなれり。祖の恩かならず報謝すべし。その報謝は餘外の法はあたるべからず。身命も不足なるべし。國城もおもきにあらず。國城は佗人にもうははる。親子にもゆづる。身命は無常にもまかす。主君にもまかす。邪道にもまかす。しかあれば、これを擧して報謝に擬するに不道なるべし。ただまさに日日の行持、その報謝の正道なるべし、いはゆるの道理は日日の生命を等閑にぜず、わたくしにつひやさざらんと行持するなり。』

 

 

【唯當に日日の行持其報謝の正道なるべし、謂ゆるの道理は日日の生命を等閑にぜず、私に費さヾらんと行持するなり】

 

「正法眼蔵・行持」巻より

『しかあれば、これを擧して報謝に擬するに不道なるべし。ただまさに日日の行持、その報謝の正道なるべし、いはゆるの道理は日日の生命を等閑にぜず、わたくしにつひやさざらんと行持するなり。そのゆゑはいかん。この生命は前來の行持の餘慶なり。行持の大恩なり。いそぎ報謝すべし。かなしむべし、はづべし。佛祖行持の功徳分より生成せる形骸のいたづらなる妻子のつぶねとなし、妻子のもちあそびにまかせて破落ををしまざらんことは邪狂にして身命を名利の羅刹にまかす。名利は一頭の大賊なり。名利をおもくせば名利をあはれむべし。名利をあはれむといふは佛祖となりぬべき身命を名利にまかせてやぶらしめざるなり。・・・・』

 

 

(第三十節)

【光陰は矢よりも迅かなり、身命は露より脆し】

 

「正法眼蔵・行持」巻より

『おのおの實歸をもとむ。授手の日くれなんとす。打春の夜あけなんとす。あるひは師の普説するときは、わが耳目なくして、いたづらに見聞をへだつ。耳目そなはるときは師また道取をはるぬ。耆宿尊年の老古錐すでに拊掌笑呵呵のとき、新戒晩進のおのれとしては、むしろのすゑを接するたより、なほまれなるがごこし。堂奥にいるといらざると、師没をきくときかざるとあり。光陰は矢よりもすみやかなり、(露命は身より)身命は露よりももろし。師はあれどもわれ參不得なるうらみあり。參せんとするに師不得なるかなしみあり。かくのごとくの事まのあたり見聞せしなり。大善知識かならず人をしる徳あれども、耕道功夫のとき、あくまで親近する良縁まれなるものなり。雪峰のむかし洞山にのぼれりけんにも投子にのぼれりけんにも、さだめてこの事煩をしのびけん。この行持の法操あはれむべし。參學せざらんはかなしむべし。』

 

 

【何れの善巧方便ありてが過ぎにし一日を復び還し得たる】

 

「正法眼蔵・行持」巻より

『このゆゑにいまだ没了せざらんときは一日をいたづらにつかふことなかれ。この一日はをしむべき重寶なり。尺璧の價直に擬すべからず。驪珠にかふることなかれ。古賢をしむこと身命よりもすぎたり。しづかにおもふべし驪珠はもとめづべし。尺璧はうることもあらん。一生百歳のうちの一日はひとたびうしなはん。ふたたびうることなからん。いづの善巧方便ありてか、すぎにし一日をふたたびかへしえたる。紀事の書にしるさるるところなり。もしいたづらにすごさるるは日月を皮袋に包含して、もらさざるなり。しかあるを古聖先賢は日月ををしみ光陰ををしむこと、眼睛よりもをしむ。國土よりもをしむ。そのいたづらに蹉過するといふは名利の浮世に濁乱しゆくなり。いたづらに蹉過せずといふは道にありながら道のためにするなり。・・・・』

 

 

【徒らに百歲生けらんは恨むべき日月なり悲むべき形骸なり、設ひ百歲の日月は聲色の奴婢と馳走すとも、其中一日の行持を行取せば一生の百歲を行取するのみに非ず、百歲の佗生をも度取すべきなり、此一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ふべき形骸なり】

 

「正法眼蔵・行持」巻より

徒らに百歲生けらんは恨むべき日月なり悲むべき形骸なり、設ひ百歲の日月は聲色の奴婢と馳走すとも、其中一日の行持を行取せば一生の百歲を行取するのみに非ず、百歲の佗生をも度取すべきなり、此一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ふべき形骸なり。かるがゆゑにいけらんこと一日ならんは諸佛の機を會せば、この一日を曠劫多生にもすぐれたりとするなり。このゆゑにいまだ没了せざらんときは一日をいたづらにつかふことなかれ。この一日はをしむべき重寶なり。・・・・』

 

 

【此行持あらん身心自からも愛すべし、自からも敬ふべし】

 

「正法眼蔵・行持」巻より

『いま佛祖の大道を行持せんには大隱小隱を論ずることなく、聡明鈍癡をいふことなかれ。ただながく名利をなげすてて、萬縁に繫縛せらるることなかれ。光陰をすごさず頭然をはらふべし。大悟をまつことなかれ。大悟は家常の茶飯なり。不悟をねがふことなかれ。不悟は髻中の寶珠なり。ただまさに家郷あらんは家郷をはなれ、恩愛あらんは恩愛をはなれ、名あらんは名をのがれ、利あらんは利をのがれ、田園あらんは田園をのがれ、親族あらんは親族をはなるべし。名利等なからんも、またはなるべし。すでにあるをはなる。なきをもはなるべき道理あきらかなり。それすなはち一條の行持なり。生前に名利をなげすてて、一事を行持せん。佛壽長遠の行持なり。いまこの行持、さだめて行持に行持せらるるなり。この行持あらん身心みづからも愛すべし、みづからもうやまふべし。大慈寰中禪師いはく設得一丈不如行取一尺・・・・』

 

 

【我等が行持に依りて諸佛の行持見成し、諸佛の大道通達するなり】

 

「正法眼蔵・行持」巻より

『佛祖の大道かならず無上の行持あり。道環して断絶せず。發心修行、菩提涅槃、しばらくの間隙あらず。行持道環なり。このゆゑにみづからの強爲にあらず。佗の強爲にあらず。不曾染汗の行持なり。この行持の功徳われを保任し、佗を保任す。その宗旨はわが行持、すなはち十方の帀地漫天みなその功徳をかふぶる。佗もしらず、われもしらずといへども、しかあるなり。このゆゑに諸佛諸祖の行持によりて、われらが行持見成し、われらが大道通達するなり。われらが行持によりて諸佛の行持見成し、諸佛の大道通達するなり。われらが行持によりてこの道環の功徳あり。これによりて佛佛祖祖、佛住し佛非し佛心し佛成して断絶さざるなり。・・・・』

 

 

【然あれば、則ち一日の行持是れ諸佛の種子なり、諸佛の行持なり】

 

「正法眼蔵・行持」巻より

『縁起は行持なり。行持は縁起せざるがゆゑにと功夫參學を審細にすべし。かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり。行持のいまは自己の本有元住にあらず。行持のいまは自己に去來出入するにあらず。いまといふ道は行持よりさきにあるにはあらず。行持現成するをいまといふ。しかあれば、すなはち一日の行持これ諸佛の種子なり、諸佛の行持なり。この行持に諸佛見成せられ、行持せらるるを、行持せざるは諸佛をいとひ諸佛を供養せず。行持をいとひ諸佛と同生同死せず。同學同參せざるなり。いまの華開葉落、これ行持の見成なり。磨鏡破鏡、それ行持にあらざるなし。・・・・』

 

 

(第三十一節)

【謂ゆる諸佛とは釋迦牟尼佛なり、釋迦牟尼佛是れ即心是佛なり、過去現在未來の諸佛共に佛と成る時は必ず釋迦牟尼佛と成るなり、是れ即心是佛なり】

 

「正法眼蔵・即心是佛」巻より

『しかあればすなはち即心是佛とは發心修行菩提涅槃の諸佛なり。いまだ發心修行菩提涅槃せざるは即心是佛にあらず。たとひ一刹那に發心修證するも即心是佛なり。たとひ一極微中に發心修證するも即心是佛なり。たとひ無量劫に發心修證するも即心是佛なり。たとひ一念中に發心修證するも即心是佛なり。たとひ半拳裏に發心修證するも即心是佛なり。しかあるを長劫に修行作佛するは即心是佛にあらずといふは、即心是佛をいまだみざるなり。いまだしらざるなり。いまだ學せざるなり。即心是佛を開演する正師をみざるなり。いわゆる諸佛とは釋迦牟尼佛なり、釋迦牟尼佛これ即心是佛なり、過去現在未來の諸佛ともにほとけとなるときはかならず釋迦牟尼佛となるなり。これ即心是佛なり。

 

 

【即心是佛といふは誰といふぞと審細に參究すべし】

 

「正法眼蔵・王索仙陀婆」巻より

『いま大宋國の諸山にある長老と稱するともがら、仙陀婆すべて夢也未見在なり。苦哉苦哉、祖道陵夷なり。苦學おこたらざれ。佛祖の命脈まさに嗣續すべし。たとへば如何是佛といふがごとき。即心是佛と道取する、その宗旨いかん。これ仙陀婆にあらざらんや。即心是佛といふはたれといふぞと審細に參究すべし。たれかしらん仙陀婆の築著磕著なることを。』

 

 

【正に佛恩を報ずるにてあらん。】

 

「正法眼蔵・禮拝得髄」巻より

『あはれむべし三界慈父の長子小國にきたりて、ふさぎていたらしめざるところありき。またかの結界と稱するところにすめるやから、十悪をおそるることなし。十重つぶさにをかす。ただ造罪界として不造罪人をきらふか。いはんや逆罪をおもきこととす。結界の地にすめるもの逆罪もつくりぬべし。かくのごとくの魔界はまさにやぶるべし。佛化を學すべし。佛界にいるべし。まさに佛恩を報ずるにてあらん。かくのごとくの古先、なんじ結界の旨趣をしれりやいなや。だれよりか相承せりし、だれか印をかかうふる。いはゆるこの諸佛所結の大界にいるものは諸佛も衆生も大地も虚空も繫縛を解脱し、諸佛の妙法に歸源するなり。しかあればすなはちこの界をひとたびふむ衆生、しかしながら佛功徳をかうぶるなり。・・・・』

 

 

(修證義終)

 



楊宝黄雀:孔愉放亀


 

(注1)病雀:三府の環

 

『楊寶黄雀(ようほうこうじゃく)』

『蒙求・二六一:楊寶黄雀』

  『蒙求』(下)早川光三郎著(新釈漢文大系58:明治書院)564頁より

 

「續齊諧記(ぞくさいかいき)にいふ、楊寶(やうほう)年九歳の時、華陰山(かいんざん)の北に至り、一黄雀(こうじゃく)の鴟梟(しきょう)の博(う)つ所と為り樹下に墜ち、螻蟻(ろうぎ)の困(くる)しむ所と為るを見る。寶(ほう)之を取りて以て歸り、巾箱に置き、唯黄花を食らはしむ。百餘日にして毛羽成り、乃(すなは)ち飛び去る。其の夜、黄衣の童子有り。寶に向かひ再拝して曰く、我は西王母(せいおうぼ)の使者なり。君仁愛にして救拯(きゅうしょう)す。實に成濟(せいさい)を感ず、と。白環(はくかん)四枚を以て寶に與へ、君が子孫をして潔白にして位三事に登らしむる。當(まさ)に此の環(たまき)の如くなるべし、と。寶、哀平(あいへい)の世に隠居して教授す。王莽(おうもう)之を徴(め)せども、遂に逃遁(とうとん)す。光武(こうぶ)其の節を高しとし、公車に特に徴せども到らず。子の震(しん)は安帝(あんてい)の時太尉と為る。震の子の秉(へい)は桓帝(かんてい)の時太尉と為る。秉の子の賜(し)は靈帝(れいてい)の時太尉と為る。賜の子の彪(ひょう)は獻帝(けんてい)の時太尉と為り、魏(ぎ)の文帝の時復太尉と為る。震より彪に至るまで四世の太尉、徳業(とくぎょう)相繼(つ)ぐ。」


(簡約)

『続斉諧記』にいうように、楊宝が年九歳の時、華陰山の北に行き、一羽の雀がトビ(フクロウ)にうたれて樹下に落ち、ケラや蟻に苦しめられているのを見た。彼はこれを不憫に思い、これを取って持ち帰り、巾箱の中において菊の花だけを食べさせていたが、百日余り経つと羽根がすっかり整ったので飛び去って行った。その夜、黄衣の童子がやって来て、彼に向かい再拝の礼をして告げるには、「私は西王母の使者です。あなたの篤い情で私の災難を救助して戴き、無事成長を遂げることが出来ましたことを感謝します。」そういって、白い環四個を取り出して彼に与え、又、「あなたの子孫は心の潔白なことはこのようであり、その位は三公に登り、その数はこの環の数のように四人にならせましょう」と云って見えなくなった。宝は前漢の末の哀帝・平帝の世には仕えず隠居して弟子に教授していた。王莽が新国を建て彼を召したが、遂にのがれ隠れて応じなかった。後漢の光武帝に至り、その節操の高潔に感じ、公車に特に召したが出仕しなかった。子の震は安帝の時太尉(軍部大臣)となり、震の子の秉は桓帝の時太尉となた。秉の子の賜は霊帝の時太尉となり、賜の子彪は獻帝(けんてい)の時太尉となり、又魏の文帝の時にも復太尉となった。このように震より彪に至るまで四代続いて三公の一人である太尉になり、その盛徳功業が相継いだのも皆、楊宝の陰徳のお陰であった。

 

 

(注2)窮龜:餘不の印

 

『孔愉放龜(こうゆほうき)』

『蒙求・四二七:孔愉放龜』

  『蒙求』(下)早川光三郎著(新釈漢文大系58:明治書院)819~820頁より

 

「晋書(しんしょ)にいふ、孔愉(こうゆ)字は敬康(けいこう)、会稽(かいけい)山陰(さんいん)の人なり。同郡の張茂偉康(ちょうもいこう)・丁潭世康(ていたんせこう)と名を斉(ひと)しうす。時人號して会稽の三康(さんこう)と曰ふ。建興(けんこう)の初め、出でて丞相(じょうしょう)の椽(えん)と為る。後華軼(かいつ)を討てる功を以て、餘不亭(よふてい)候に封ぜらる。愉(ゆ)嘗て行いて餘不亭を經、龜の路に籠(かご)せる者を見る。愉買ひて之を溪中に放つ。亀中流に左顧(さこ)する者(こと)數四なり。是に及んで候印を鑄(い)る。而して印龜(いんき)左顧す。三たび鑄るも初めの如し。印工以て告ぐ。愉乃ち悟り、遂に佩(お)ぶ。」


(簡約)

『晋書』にいうように、孔愉は字を敬康といい、会稽郡山陰県の人である。同郡の張茂字は偉康、丁潭字は世康と三人で名声が同じ位だったので、時の人は三人の字をとって会稽の三康と呼んだ。愍(びん)帝の建興の初め、出仕して掾(属官)となり、後に華軼を討伐した功で、余不亭侯に封ぜらた。これより先、ある時、彼が歩いて余不亭を通り過ぎた時、路傍で亀が籠に入れられているのを見かけ、可哀そうに思ってそれを購(あがな)い求め、谷川の中に放してやった。亀は流れの中で、左に首を向け、振り返り見ること数回に及んだ。さて、余不亭侯となったので、侯印を鋳造することになったが、出来上がったのを見ると、印のつまみの亀が、首を左に向けている。格好が悪いので又鋳造し直したが、三度とも最初のように首が左向きである。印工はこのことを彼に報告した。彼はそこで事情を知った。彼が先年助けてやった亀が左顧(む)きだった。その陰徳が現れて、今日封侯になったと悟ったのである。彼はそのまま左顧の印を用いた。

 



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