大内青巒

 

Googleで「大内青巒」を検索すると「和辻哲郎」が沢山出てくる。

これは一体どうした訳なのか、Google検索の疑問であり、問題点でもある。

 

 

大内青巒(おおうち せいらん)


(1845-1918)


本名は退。

号は藹々、藹々翁、藹翁、露堂など。
字は巻之、青巒(居士)を通称としていた。


家系は、日本に仏教を献じた百済王聖明の末孫で、周防(山口県)に住した大内氏であるが、同家は滅んで仙台、伊達侯の家臣として仕えていた。


青巒居士は弘化2年4月17日、仙台市東五番丁に生まれ、父の死後、宮城県七ケ浜鳳寿寺住職であった兄、俊童の下で過ごし、母から「詩経」の口誦を受け、長じて舟山江陽、大槻盤渓らの門に入り経史を学んでいる。

 

養父の死後、また兄の下に戻り、その後、出家して、「泥牛」と号した。


この間のことを、東洋大学、境野黄洋氏は、雑誌「現代仏教」(昭和8年7月1日刊)-十周年記念特輯号「明治仏教の研究回顧」の中で、「大内青巒先生のことども」と題し「何でも仙台の、余りえらくもない士族の子であったということである。早く曹洞宗の小僧さんになって、茨城県や千葉県あたりの寺を展転して育ったらしいが、何時の間にか還俗して大内退、青巒と号すということになったのである。・・・・青巒は仙台の青葉城を取ったものである」と記している。 

 

  大内青巒-書 ①
  大内青巒-書 ①

大内青巒居士
大内青巒居士

大内青巒、幼年時代

 

「老衲は幼年の頃のことを考えて見るに、神経過敏の気味であって、記憶も中々好かったが、其の弊や物事に激し易くして、輙もすれば友だちと喧嘩をして、強く腹が立った時は、直に命を捨てるような気になり、其の頃の事であるから、子供相当の刀を大小二本腰に差して居るのを、直に抜いては友達に斬りかけるようことがあるので、固より斬れるぼどの刀ではないのであるこれど、其れさえ親に取り上げられて形ばかりの木刀を二本ささせられてあった。・・・」 

 

「老衲が十一歳の時に、仙台の土樋と云う處に住んで居られる舟山太郎兵衛という先生の塾へ入門して習字の手本をもらい、且つ四書の素読を教えてもらうたのであったが(此の先生は仙臺藩の下士であって藩では組除クミノケと称したもので大藩組という士分よりも一階段低い所の身分であったが)学者としては藩中に於て随分有名な先生であり『松島誌』という大著述をも貽された人であった。此の純然たる儒者であるけれども、元来彼の名高い南山古梁禅師の教を受けられたのであったから、佛教をも尊信せられて、別して禅学には余程造詣があったように思われる。
老衲が十三歳の時であったが、其の南山古梁禅師の三十三回忌やらに当たるので瑞鳳寺という仙台候の菩提所、すなわち南山禅師の住職して居られた臨済宗の寺で法要が勤まった時、舟山先生は門下の学生五六十人を引率して、其の法事に参列し、燒香の済んだ後に、禅師の墓所の前へ一同を並べて一場の訓誡演説をせられたのであった。其の演説は凡そ二三十分もかかって、禅師の履歴を話されたのであったが、其の中に甚イタく自分の心を動かした事があった為に今に忘れないのみならず、人にも話すことが一つあるのである。
(・・・南山古梁禅師の逸話・・・)
此の話を舟山先生が其の禅師の墓所で演説せられたのが、其れは南山禅師が十三の時で、我と同じ年のことであったが、豪いものであったなと感じたのが、今も想い出せば、其の時の事が目に見えるように思うのである。
其れが或いは自分が其の後、佛教に身をも心をも寄せる様になった最初の因縁になったのであったかとも思われる・・・・。」
 以上 大内青巒幼年時代は「青巒禪話」220~226頁より抜粋

 

 

なお、雑誌「護法」の記録中「或るいは一寺の住職ともなったりしたことがあったと伝えますが」と書かれているが、定かではない。

 

まもなく水戸に出て照庵に祖録を学び、また勤王の士と交わったと伝えられている。

 

しかし、居士の思想形成の因を成したものは、東京、京都、大阪の遊学し、福田行誡に仏教を、原坦山に禅旨を学び、加えて慈雲の「十善法語」の学習が大きく影響していたものといえよう。


かくして、明治初期の文明開化の機運にみなぎていたころ、民衆の啓蒙運動に努め、仏教を在家の化導中心に展開するにあたって、「三条の教則」が示されてより、神道中心の国粋主義が台頭しつつあったのに対し、神道は神道によって愛国に資し、仏教は「釋迦牟尼佛の教法を興隆し、その道理を明らかにして、之を人民に教え諭すを以て僧侶の愛国の本文とすべきなり」と主張した。


居士が世に知られるようになったのは、明治5年に豊後(大分県)の儒者、広瀬林外が「尼去来問答」を著し、日本の国体と比較し、ロシア皇帝を政教二権を掌握した君主神聖であると讃えたのに対し、「駁尼去来問答」を撰し、その非を問うたときからである。


また、大洲鉄然の招きにより真宗本派本願寺法主の講読にも侍し、いわば宗派を超えた仏教活動をしていた。


さらに明治6年、太政官が「火葬禁止令」を出したのに抗し、木戸孝允、三条実美、岩倉具視らに具陳し、明治8年に火葬禁止令を解禁させたことからみて、かなり政治的手腕をもっていたと云える。 

  大内青巒-書 ②
  大内青巒-書 ②

 

かくして国民大衆の啓蒙運動に身を挺し、小野梓、井上馨らと「共存同衆」を、外山正一、菊池大麓らと「尚学会」を組織し、機関誌の発行や演説会を開催し、「釈門哲学叢誌」「あけぼの新聞」「江湖新聞」「明教新誌」等を創刊し、自ら主筆となり、これがため活版業、「秀英社」を創立し、加えて出版、販売元として「鴻盟社」を起こし、唯識、倶舎から禅籍等の仏書を発行している。さらに鴻盟社発行の月刊誌「護法」「傳道」などにも度々寄稿している。


居士は、文書活動にとどまらず、山尾庸三ら同志とともに「楽善会」を結び、身障者教育に努め、後の東京盲啞学校、初代の校長にも就任している。

 

しかし、居士の生涯において、わが曹洞宗の近代化機構を開拓したのは、実に明治中期における「曹洞扶宗会」の設立であったと云える。

 

明治二十年四月「曹洞扶宗会」は突如として誕生し、宗門の布教を双肩に担わんとする抱負をもって、宗務局の認可を得、同時に「洞上在家修証義」一篇を編纂したのである。

 

曹洞扶宗会」は文字通り、宗門の近代化布教を策定し、宗門の扶助、護持を目的として設置された、謂わば宗門の外護団体であることはいうまでもないが、これが結成をみたのは、実に大内青巒居士の主導性により、加えて宗門行政と直結しえたのは、永平寺六十三世滝谷琢宗禅師と居士との提携が背景をなしていたというべきであろう。

  大内青巒-書 ③
  大内青巒-書 ③

    曹洞扶宗會・会員証
    曹洞扶宗會・会員証
     曹洞扶宗講社員之證
     曹洞扶宗講社員之證


この扶宗会の「洞上在家修証義」を基に「曹洞教會修證義」が改修編纂されることとなったのである。


しかし、扶宗会は「曹洞教會」の中に組み込まれ、「曹洞教會扶宗講社」となり、事実上扶宗会は解体されることとなった。

 

その後、居士は尊王奉佛大同団を結成して、自ら幹事長となり、「教育勅語」の普及に努めた。


翌、明治二十四年「信行綱領」を著して、三信、三行を眼目として止悪、修善、済衆の仏教徒の実践行をすすめ、不忍池に放生会を営む等、仏教の大衆化に努めた。


晩年、東洋大学の学長に就任したが、大正3年、永平寺で脳溢血で倒れ、その後療養の日々を過ごし、大正7年12月16日、74歳の生涯を終える。


青巒の指導を受けた者は多く、加藤咄堂、佐治実然、平松理英等は居士門下の四天王と称される。

 

遺偈「雲心水迹 七十四年 山蹊路盡 手脚茫然」

 

~岡田宣法著「修証義編纂史」、「禅学大辞典」より(一部訂正)~

 

 


新年の佛法・大内青巒居士述
新年の佛法・大内青巒居士述
 大内青巒著-原人論
 大内青巒著-原人論
 大内青巒著-般若心經、佛説法滅盡經
 大内青巒著-般若心經、佛説法滅盡經

 大内青巒著-普勧坐禅儀講話
 大内青巒著-普勧坐禅儀講話
 大内青巒著-般若心經講義
 大内青巒著-般若心經講義

 大内青巒著-遺教經講義
 大内青巒著-遺教經講義
 大内青巒著-圓覺經講義
 大内青巒著-圓覺經講義

 大内青巒著-青巒禪話
 大内青巒著-青巒禪話
  大内青巒述-聖訓
  大内青巒述-聖訓

大内青巒著-通俗修證義講話
大内青巒著-通俗修證義講話
 大内青巒演説・神道辮論
 大内青巒演説・神道辮論

恩海一滴・大内青巒居士口述
恩海一滴・大内青巒居士口述
臨機應變・藹々居士演説
臨機應變・藹々居士演説

傳道第百十號・自覺・大内青巒述
傳道第百十號・自覺・大内青巒述
大内青巒「佛教主義 戊辰詔書衍義」
大内青巒「佛教主義 戊辰詔書衍義」
大内青巒著「報恩」
大内青巒著「報恩」

大内青巒の著書

 

「豆州 熱海誌 完」大内青巒著 明治11年9月18日 真誠社・不盡閣:同梓 

「崑山片玉」明治11年11月 第壹號 本局:明教社 局長:大内青巒 

神道辮論 完(東京大内青巒演説)」明治17年5月 九州和敬會協力印施

「熱海獨案内 全」大内青巒編輯 明治18年9月 遊仙洞上梓

「曹洞教會修證義聞解」藹々居士(大内青巒)口述 明治24年2月7日 鴻盟社発行

「新年の仏法」大内青巒述 明治24年12月15日 顕道書院発行

「承陽大師御略傳及御和讚」大内青巒著 永平寺出張所 明治26年8月26日発行

「遺教經講義」(株)秀英舎 明治28年3月15日初版発行

「感涙」大内青巒著 國母社 明治28年8月18日発行

 

この頃の出版か?(「感涙」裏広告より)

◎「佛教軍歌 道ある軍」大内青巒著

 右は慈悲方便と六波羅蜜との二題に於て戦争と佛教との関係を謠ひ、名将勇士の一題に於て古今英雄の佛教を信して戦争に勝ちたる事蹟を唱へたる三首の今樣長歌なれば高尚にして勇壮また優美にして通俗なる軍歌なり乞ふ盡忠報國の志士數百冊を購求し汎く施本の宏擧を為し以て士氣を鼓舞せられよ

◎「戦争と佛教」大内青巒著

 曾て陸海の軍人に賜りし 勅諭の精神に基つき佛教の眞理を發揚して佛教の戦争に對する理想及び因縁事實を明かに暢述し其説甚だ簡潔にして其文尤も平易なれは凡そ新聞雑誌を讀み得る程の人は誰にても之を解し得べければ或は之を以て演説若しくは説教の參考にして能く大乘佛教の國家に對する観念行為を詮顯することを得へし

◎「軍隊演説 六波羅蜜」大内青巒演説

 本書は近衛師團有志将校の需に應し同居士がものせられたる佛教軍歌即ち『道ある軍』の一節なる六波羅蜜をば最も通俗的に演説せられたる筆記なり

 

「原人論」 光融館 明治28年9月20日初版発行

「般若心経・仏説法滅尽経」 光融館  明治30年9月20日初版発行

「報恩」顕道學館 施本會本部 明治31年1月1日発行

「臨機應變」鴻盟社 明治31年1月13日発行

「恩海一滴」鴻盟社 明治34年10月25日初版発行

「洞上諸祖王臣歸崇傳」永平寺出張所 明治40年4月2日

「普勧坐禅儀講話」 鴻盟社 明治41年6月25日初版発行

「佛教主義 戊辰詔書衍義」鴻盟社 明治42年4月5日初版発行

「聖訓」橫濱佛教各宗青年会 大正2年10月1日・発行

「青巒禪話」丙午出版社 大正3年8月14日・発行

「破木杓」至誠堂書店 大正4年2月21日・発行

「通俗修證義講話」鴻盟社 大正15年4月1日・初版発行 

「円覚経講義」 光融館発行 

「般若心経講義」光融館発行

「博愛」大内青巒述 発行年代不明(明治23年10月教育勅語発布以降)

 

その他

「六方禮經」「修証義大意」「碧巌集講話」「般若心経講話」「五位頌」「普勧坐禅儀」「坐禅用心記」「修証義」「六祖壇經」「参同契」「宝鏡三昧」「傳光録」「禪の極致」など著書多数。
また、仏教通俗講義等の教化資料も多く刊行している。

 

さらに大内青巒は曹洞宗の「宗歌」「回向の歌」をも作詩している。

(尚、現在の曹洞宗宗歌とは多少の違いがある。)

「宗歌」 作詩:故大内青巒

花の朝(あした)のかたほゑみ 

雪(ゆき)の夕(ゆう)べに 臂(ひじ)を斷(た)ち

代々(よよ)に傳(つた)うる道(みち)はしも

よそにたくひは 荒磯(あらいそ)の

浪(なみ)もえよせぬ 高巖(たかいわ)に 

かきもつくべき 法(のり)ならばこそ

「回向の歌」 作詩:故大内青巒

願(ねが)はくは この功徳(いさをし)を

普(あまね)くも 生(い)けとし生(い)ける

もの皆(みな)に 蒙(かう)ぶらせつヽ

諸(もろ)ともに 心(こころ)おこして

御佛(みほとけ)の 淨(きよ)き御國(みくに)に

いざや到(いたら)ん あなかしこしや

(大正十四年版「曹洞宗年鑑」東京鴻盟社発行より)

 


大内青巒著「遺教經講義」最終頁

大内青巒著の「遺教經講義」の最後頁に下記の言葉が小さく記載されています。

 

明治二十七年六月二十九日、先妣の忌日に之を講じ畢り、今茲二十八年二月二十八日、亡兒露子の二七日の夜に此筆記を一校し了りぬ。
露子は一昨年の四月八日佛誕生の日に生れ、今年二月十五日佛涅槃の日に早世せり。
宿世いかなる因縁のありしにや、悲くも 亦甚とゆかしくてなん。


「御仏の御跡したはゝ八十まで 
  など存らへて世をすくはざる  藹々」


明治二十九年一月望夜(二十九日)再校了。


「いつはらねど望の夜毎に袖ぬれて
  月にぞ磨く露の白玉  藹々 」

 


「藹々華甲記」 大内青巒居士 還暦祝賀

 

「藹々華甲記」

 

還暦の折に  大内青巒
「なほふかく月に心をすませてのこるいくその秋をなかめん」

 

賀 大内青巒居士六十一春秋  森田悟由
浄名居士家。不択榮華地。念護國安人。仁慈及異類。
宣教筆耕又舌耕。芳齢耳順猶疆記。藹然佳気露堂堂。北斗南辰呈慶瑞。

 

「藹々華甲記」より
明治三十八年十二月二十四日 大内青巒居士 還暦祝賀會事務所・発行

 


 

大内青巒先生略歴


先生、名は退、字は巻之、藹々居士又は露堂と號し、青巒を以て通称となす。
其の先は周防大内氏に出づ、後、東北に移住し、世々伊達侯に事う、弘化二年乙巳四月十七日を以て仙台東五番町に生れ、幼時、句讀を舟山江陽氏に受け、後、大槻盤渓先生の門に入り、心を経史に潜め、志学の頃、出でて水戸に遊び、尋で四方に津梁問ひ、学、常師なしと雖、造詣する所頗る深し。
夙に勤王の士に交り、維新の後、三條、岩倉、水戸、諸公の知遇を得、屢々仕官を慫慂せらるるも、絶て官途に就くの望なく、獨り本願寺の聘に應じ法主の講讀に侍して他を顧みず、常に原坦山、福田行誡、新井日薩の諸師に随て頻りに佛典を究め、教法の興隆と済生利民の業とを以て任とし、廣く當代の名士と計り、作画する所二三にして止らず、今ま其主なるものを挙げむか、小野梓、馬場辰猪、尾崎三良、井上毅、萬里小路通房、矢野文雄の諸氏と共に「共存同衆」を組織して、其の編輯を掌り、外山正一、菊池大麓、辻新次、江本高遠諸氏と計りて尚學會を起して、其の幹事となり、更らに山尾庸三、前島密、野村靖、中村正直諸氏と共に樂善會を結びて盲啞教育の事業を創し、今の官立東京盲啞学校最初の校長たり。先生の事業は之れに止らず、共存同衆の諸士と共に学術演説を開きて我が國公開演説の権與をなし、「あけぼの」「江湖新聞」「明教新誌」等を創立して、皆な社長として主筆を兼ね、筆舌二道を以て国家の進運と教法の弘通とに努力し、別に佐久間貞一、保田久成諸氏と計りて活版業を始め、秀英舎を創立して其の最初の社長たり、秀英舎の文壇に貢献する所大なるは何人も悉知する所、之れを知るもの、誰か又先生の功の没すべからざるを想わざらむや、先生夙に萎靡不振なる佛教を挽回するの志あり、作画せらるる所、皆な之れを主とせざるはなし、「釋門哲学叢誌」を刊しては佛教甚深の理を伝え、尚和會、和敬會を起して佛教演説を始め、築地本願寺に於ては真宗僧徒を教育するが為めに學舎を建て、東京府庁と計りては、小学校教員速成傳習所を設けて、僧徒に教員を兼ねしむるの途を開き、高等普通学校を建設して各宗僧侶に授くるに高等なる普通學を以てし、泰西物資文明の滔々として我が国に入り、欧米崇拝の熱旺なるの時に当たりここに蹶然、身を挺し、尊皇奉佛の大義を宣揚し、遍く全国に遊説して、国民の自覚を促し、征清の役起るや、南船北馬して挙国一致を説き、征露の軍動くや、東奔西走して、民心の鼓舞を計り、席煖なるに暇あらず、一意愛国護法の為めに盡くし、辺陬の地も亦先生の教化に浴せざるなく、婦女童幼も亦其の徳に感ぜざるなし、筆を執ては平易流暢の文を以て小冊子を著わして、信佛の栞たらしめ、辨を振うては軽快の言を以て精神修養の要を示す、筆舌自在、名を求めずして實の挙らんことを計り、三十年来一日の如く教法に尽瘁せらる。
真に外護の大居士というべし、称して以て明治の維摩となすもの、豈に溢美の言ならんや。
年、乙巳に會して先生六十一回の誕辰に当たる、ここに聊か先生の事業の萬一を録して同人に示す、その著書頗る多く、其の校訂に成る、「冠註唯識二十論述記」、「冠註倶舎論頌疏」、幷に其の筆に成る「六離合釋講義」、「釋門事物紀原」、「原人論講義」、「遺教経講義」、「禪学三要」等皆な學佛の南針たり。
  明治三十八年十二月
       発起人の一人   咄堂謹識

「藹々華甲記」より

 


伊豆 熱海誌 大内青巒編 完
伊豆 熱海誌 大内青巒編 完
伊豆 熱海誌 大内青巒編 -2
伊豆 熱海誌 大内青巒編 -2
伊豆 熱海誌 大内青巒編 -3
伊豆 熱海誌 大内青巒編 -3

 

豆州熱海誌 完 大内青巒編 明治11年9月18日版権免許

 

熱海誌目録

○地理、熱海 湯瓦原 和田 水口

○温泉、大湯 清佐衛門湯 法齋湯 風呂の湯 佐治郎湯 野中の湯 水の湯 福島屋の湯 勘兵衛湯 仲の湯 醫王寺の湯 古屋の湯 小林の湯 温泉性質 主治効用 浴法及ひ内服法 温泉湧出の来歴

○湯戸、浴室 席 婢 食料

○山河名勝、上野山 和田山 念佛山(魚見岬)入山 天神山(都松旧跡)絲川 初川 和田川 錦浦(観音屈)日金山(十國峠)伊豆山(古々井の森)網代港(根越観音)初嶋 鸚鵡石 一杯水

○社寺並行殿、湯前社 来宮 和田八幡 今宮 天神祠 紀僧正(真濟略傳)温泉寺(藤房入道略傳)興禪寺(雲居略傳)海藏寺 醫王寺(太田駒千代墓)潮音寺 大乗寺 誓欣院 行殿舊趾

○産物、樟材什器 雁皮紙 壁土 赤石脂 塩温石

 以上六綱五十九目

 

豆州熱海誌 東京 藹々居士編

○地理

熱海郷は伊豆國加茂郡葛見の庄に係る昔は湯瓦原和田水口三ヶ村を合せ田額六百四十三石二斗九升九合(内新田三十石斗六升六合)と称し韮山代官の治に属し海山の賦は皆伊豆神社の社領たり而して今は耕地九十町餘宅地十町餘(山林未詳)民戸三百三十餘戸すべて静岡縣の管轄に属す抑伊豆の國は東海道の東南隅に突出し西北に冨士山を受け北に箱根の嶮を負ひ東南西の三面は皆大洋をめぐらし國の形勢斜にして且つ細く周囲六十餘里とす之を君澤、田方、加茂、那賀の四郡に分ち國中甚だ高山多く殊に天城、真城、達磨、日金、伊豆等の諸山其脈互に相聯絡し山溪海岸處々に温泉湧出し其數ほとんと二十餘ヶ所に及ぶ即ち古奈、修禪寺、船原、吉奈、湯ヶ島、土肥、二條、手石、蓮臺寺、横川、湯ヶ野、小鍋、奈良本、松原、畑毛、大澤、峯、伊豆山、熱海等これなり然れば此國を伊豆と称するは湯出の國の約言にして本邦温泉の出る所頗る多しと雖も實に此國を以て第一となす而して熱海の泉その名尤も世にあらはれ治病の効も亦著るしといふ・・・・・

(以下省略)

 


 

下の「熱海獨案内 全」は明治11年9月に上梓した「豆州熱海誌 完」を改訂し、明治18年に新たに版を起こし上梓した和本です。

大きく改めた所は活版印刷にした所。

又、豆州熱海誌では海側の図であったのを、この版では山側、即ち町の図を掲載している。

本文内容も以前と同じ部分もあるが、新たに書き加えた箇所、削除、訂正した箇所もある。

この「熱海獨案内 全」と「豆州熱海誌 完」とは大内青巒にしては異色の和本であって、彼の仏教、教育、思想関係の書籍とは一線を画す。

さらにこの明治18年の「熱海獨案内 全」を明治22年12月2日に改正增補して再版し、鴻盟社からも出版していることも一考に値する。

 

熱海獨案内 全 大内青巒編輯
熱海獨案内 全 大内青巒編輯
豆州熱海全圖-熱海獨案内より
豆州熱海全圖-熱海獨案内より

熱海獨案内 全 大内青巒 編輯 明治18年9月 遊仙洞上梓

 

熱海獨案内 目次

 

○地理 伊豆 熱海 湯河原 和田 水口

○温泉 温泉湧出の來歴 大湯 清左衛門湯 小林屋の湯 古屋の湯 小澤の湯 阪本屋の湯 風呂の湯 高砂屋の湯 水の湯 河原湯 桝屋の湯 二見の湯 伊勢屋の湯 吾妻屋の湯 中玉屋の湯 隠居玉屋の湯 左治郎の湯 樋口の湯 勘兵衛湯 尾張屋の湯 野中の湯 温泉性質 主治効用 浴法及ひ内服法 麟屋の湯

○湯戸 浴室 噏滊館 席 婢 食料

○山川名勝 上野山 和田山 念佛山(魚見岬)入山 天神山 丸山 潴溜池 絲川 初川 和田川 業平井 那須澤瀑布 錦浦(観音窟)日金山(十國峠)伊豆山(古々井の森)網代港(根越観音)初島 鸚鵡石 一杯水

○社寺井行殿舊墟 湯前神社 來宮 和田八幡 今宮 天神祠 紀僧正祠(眞濟僧正略傳)温泉寺(藤房入道略傳)興禪寺(雲居國師略傳)海藏寺 醫王寺 潮音寺 大乘寺 誓欣院 御殿跡

○産物 樟材什器 雁皮紙 壁土 赤石脂 盬温石 煉瓦石 乾魚

  以上 

 

熱海獨案内 東京 藹々居士編

 

○地理

伊豆の國は東海道の東南隅に突出し西北に富士山を受け北に箱根の嶮を負ひ東南西の三面は皆大洋をめぐらし國の形勢斜にして且つ細く周囲六十餘里とす之を君澤、田方、加茂、那賀の四郡に分ち國中甚だ高山多く殊に天城、眞城、達磨、日金、伊豆等の諸山其脈互に相聯絡し山溪海岸處々に温泉湧出し其數ほとんと二十餘ヶ所に及ぶ即ち古奈、修禪寺、船原、吉奈、湯ヶ島、土肥、二條、手石、蓮臺寺、横川、湯ヶ野、小鍋、奈良本、松原、畑毛、大澤、峯、伊豆山、熱海等これなり然れば此國を伊豆と称するは湯出の國の約言にして本邦温泉の出る所頗る多しと雖も實に此國を以て第一となす而して熱海の泉その名尤も世にあらはれ治病の効も亦著るしといふ

○熱海郷は豆州一國の東北隅伊豆山の南日金山の東麓にあり加茂郡葛見の庄に係る昔は湯瓦原、和田、水口三ヶ村を合せ田額六百四十三石二斗九升九合と称し韮山代官の治に属し海山の賦は皆伊豆神社の社領たり而して今は耕地九十町餘宅地十町餘山林一千四百二拾六町餘民戸五百五十餘戸すべて静岡縣の管轄に属す其地三方に山をめぐらし三冬と雖も北風及ひ西北風の暴烈を拒ぎ唯東南の一偶に碧海を開き常に新鮮なる海風を受るが故に其氣候温和にして夏冬ともに甚だ其寒熱を凌ぎ易しとす正面海路三里をへたて初島を翠浪白波の間に望みそれより南十數里にあたり遥に大島を水天髣弗の際に見る北の方小田原驛を距ること七里餘其順路は伊豆山村、門河村・・・・・

(以下省略)

 


崑山片玉 第一号 明教社局長 大内青巒
崑山片玉 第一号 明教社局長 大内青巒

 

「崑山片玉」 明治十一年十一月 第壹號

例言

 崑山片玉を編輯するの正意は偏に先達の金科玉條を拾ふに在れは其人師西天東土に渉り固り簡ふ所なしと雖とも概ね本朝各宗の祖先を主とし其時は古代を尚とひ其説は浅近簡短なる者を撰ふ蓋し讀者をも因縁尤も深きを知り信し易く且つ解し易からしめんを冀へはなり宗祖派祖寺院の祖其他古徳先達の簡短なる教誡法語詩歌等にして能く學者の道業を増進せしむるに足る者あらは讀者幸ひに之を投寄せられよと然れとも其本篇に記載すると否とは一に記者の撰に任すべし

編輯は毎月二次を定期とす然れとも未た必らすしも其日時を豫定せず

 明治十一年十一月  記者識

 

「崑山片玉」 第一號

○明遍僧都警誡

 古への先徳は智行たけて臨終心に任せて目出度かりき近頃の諸宗の人師多くは教文を學すれとも菩提を期する志すくなく佛教を以て世を渡る橋とし聖教を以て身を養ふ媒ちとす然るあひだ平生の稽古しかしながら名利の為なれは權實を諍そふほどに光陰はやくつきて臨終たちまちに近くとき何事をかすべきとて或ひは念佛或ひは眞言時に臨みて思ひ煩らふ誠に渇にのぞみて井を掘るが如し唯一大事の生死を出つべき謀ごとを平生よくよく思ひたヾすむべし穴賢穴賢 (以下省略)

 

 東京三十間堀一丁目貳番地

  本局 明教社  局長 大内青巒  編輯兼印刷 宏虎童

 


大内青巒著・洞上諸祖王臣帰崇傳
大内青巒著・洞上諸祖王臣帰崇傳
大内青巒・洞上諸祖王臣帰崇傳・巻末題
大内青巒・洞上諸祖王臣帰崇傳・巻末題

明治40年4月2日

「洞上諸祖王臣歸崇傳」大内青巒著・永平寺出張所発行

 

 洞上諸祖王臣歸崇傳

 凡例
一 我が洞上諸祖の歸崇を國王大臣武將宰官に得る何ぞ限らん、然れども今悉く之を知るに由なし、故に且らく洞上聯燈録に載せたる所の諸傳に就き、僅に七十五師を得たるに過ぎず、此他の諸書に載する所および諸寺の傳説あるひは口碑に傳ふる所の如き、見聞少からざるも、今は都べて之を闕如す。
一 此書に記する所は専ら王臣歸崇の一事に在り、故に諸祖事蹟の詳細、宗旨機縁の如き、皆彼の聯燈録に譲る、之を知らんと欲するの士は往て本録を見よ。
一 諸祖示寂の年月大概これを記せり、其年代を概知せしめんと欲するの微意に出づ。
一 永平寺近世歴代皆參内謁見して紫衣師號を賜ふ、而して聯燈録の成る未だ一人の之に載するなし、今の録せざる所以なり、後來我が志を繼ぐの人ありて聯燈を續録し、且つ此編を補ふあらは幸甚ならん。
一 編者の附言或は疎漏に失するもの有らん、後賢希くは之を正せ。
 明治四十年丁未二月 編者 識

 


破木杓 大内青巒著
破木杓 大内青巒著

「破木杓」大内青巒著

大正4年2月21日 至誠堂書店:発行

 

『破木杓』(巻頭)
這個一柄の木杓子、天地に先ちて存し、曾て其の作者を知らず、形は北斗の如く、用は科斗に似たり、時に上天に昇りて梵宮の甘露を汲み、以て三世の諸佛に供養し、又時に泥犁に降りて夜塘の惡水を戽み、以て十方の衆生に施與す、偶々吾と相隨逐すること此に七十餘年、辛酸倶に備に嘗め、清濁皆併せ呑む、今や老朽殘敗舊觀を存するものなし、破木杓と稱する所以なり、是れ破木杓、以て用ふる所なしと雖も、其の實體は本より萬象に後れて尚未來際を盡すべきもの、人間塵垢の境、其の骨を瘞むるの地なきを如何せん、仍て至誠堂主人と胥謀り、店頭に堆積せる古經舊墳の故紙中に埋葬することとなせり、乃ち之を記して以て紙碑と爲す、
 乙卯春初  七十一叟 藹々青巒手記

 


 

通俗修證義講話(大内青巒著)後語

 

「通俗修證義講話・大内青巒著」の後語には次のように記されている。

 後語

雲心水迹七十四年。偶々客中に病を獲てより、一枕五載。而かも尚ほ筆に舌に傳道布教の微力を傾倒して倦まざりし家翁が、病間勗まて別に兒童のために講説せるもの、亦た實に二三にして止まらず、或は皇訓聖旨の大要を衍義し、或は眞空妙有の玄理を俗詮し、特に宗意を談し、祖風を述べたるもの、随侍之を筆録し來りて、此に修證義講話一篇を成すに至らしむ。仍て先ず家翁に示し、其の口授加朱を乞ひて只管全きを期し、私に宗乗參究の資糧を爲すを喜べり。何ぞ知らん是れ家翁は其の元寂に先つこと僅に三旬の頃にして、顧れば實に最後の説誡たりしなり。今や上木に際して當時を追懐すれば、温容彷彿として眼前に在り、慈言猶ほ耳底を去らず。思慕の念轉た切なるを覺ゆ。あヽ家翁が、一意尊皇奉佛の生涯は、蓋し皇道の宣傳を宗風の擧揚とに在りしが如し。校正を終るに際し、數言を列ねて、此書の成れる縁由を記すこと如是。

 大正十一年佛誕生聖日   大内青里

(通俗修證義講話293頁より)

 


人生の旅・大内青巒著
人生の旅・大内青巒著

「人生の旅」大内青巒著

昭和2年7月18日 中央出版社:発行

 

この「人生の旅」は大内青巒著としてあるものの、実際は大内青巒死後、その教訓を編者(誰かは不明)が編集し、発行した本である。

その「序」に

「大内青巒先生は明治大正を通じて佛教界の耆宿であり、古今の學に通じた人であった。本書は、大内青巒先生が随時随所に於て蘊蓄の一端を人々の為めに傾けられたもので、先生自らの経験に照合して最も理解し易く、何人が手にするも、難読の弊なく、滋味横溢し、興趣多き幾多の教訓を編したものである。従って行住坐臥、繙讀すれば自ら修養となり、自ら省悟する所が多いであろう。偉人傑士の行跡の百歳の後猶語るに足るもの多きは、その精神が後代に照耀するに外ならない。本書もまた現代の如き思想の帰趨に迷い、人々彷徨として荒野を往くが如き秋、當に、闇におとづる燈火たるを疑はぬ。

本書内容の順序校合、その他については全部編者の責任であることを附言しておく、又本書発行について未だ世に現はらない草稿、寫眞、書の貸与を諾せられたる先生の御遺族に謹んで茲に深甚の謝意と敬意を表す。

 昭和二年七月  編者 識」

とある。

 



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