大光明蔵・六十四世悟由叟(永平寺)
 大光明蔵・六十四世悟由叟(永平寺)

北野元峰禅師と永平寺光明蔵

 

大光明蔵新築作事場での北野元峰禪師の挨拶

 

昭和二年十月二十日のこと、名古屋奉安殿吉祥講法要後、当時奉安殿は、祖山大光明蔵新築の作事場となり、大光明蔵は愛知県下の僧俗の合力建立というので、其の建築奔走の寺院と在家の幹部とを、特に奉安殿に招いて設齋し、禅師から慰労の挨拶を請うた、寺院は前日に招き、在家は翌日であった。
招かれた寺院が着座し、配膳終わって、禅師は挨拶の爲に出られた。
禅師の座は上座の中央に南面して坐褥を設けてあったが、それには目もくれず、下方から北面して寺院一同に挨拶せられた。
(禅師の)この意外なる、此の御謙虚の態度に寺院は大いに感激した。
翌日は予定の如く、在家を招いた。
在家は奉安殿の総代十名、名古屋第一流の名家や好紳士の揃いで、これらの信徒諸氏は、平生禅師に謁見する時は三拝の礼を執らるる其の敬虔の態度は、日本全国中尾張の如き佛国なればこそと思わるる其の信徒への挨拶であるから、今日こそは南面設けの座に就かれての御挨拶であろうと思うていた。
その時侍したる余(細川道契)も亦た一般と同じく、昨日は寺院であるから北面もせられたるなれ、今日は在家のことであるから必ず南面して座にてと思っていた。
然るに今日も亦た昨日と同じく下坐から北面して挨拶せられようとするので、列座の信徒は意外の感に打たれ、禅師の手を取らんばかりに、どうか上座にてと請すれども、イヤイヤ今日ばかりはそうでは無いと云って許されないので、信徒の人達も設けの座を下って平伏して居らるるまま、それに対し下坐から懇切なる挨拶と慰労の謝辞があった。
挨拶が済んで(奉安殿の)不老閣へ帰らるると、監守の門内大英師が、落涙してあゝ勿体ない、御本山の爲めなればこそ、かくまで尊を屈して下されて・・・・後は声振るい、眼曇りて又落涙。

 

「北野元峰禪師傳歴」272頁273頁より 

 

 光明蔵・北野元峰禅師
 光明蔵・北野元峰禅師

大本山永平寺 光明蔵建築図集

 大本山永平寺光明蔵建築図集・表紙
 大本山永平寺光明蔵建築図集・表紙
 大本山永平寺光明蔵建築図集・魚津弘吉蔵版
 大本山永平寺光明蔵建築図集・魚津弘吉蔵版
 大本山永平寺光明蔵建築図集・序
 大本山永平寺光明蔵建築図集・序

 
棟梁魚津弘吉氏の技術的熱心と畏敬なる努力によつて愈光明蔵が見事に出来上つた。
今回永平寺の境域内に澤山の建築が新築されたが其出来ばへに於て最も光つて居ることは古来傳統的に飛騨の工匠の流れを傳へて居ると云はれて居る名古屋大工の名誉の上に万丈の気焔を吐いたものと云ふても敢て過言ではあるまい、勿論其後援者の支持の爲めに安心して仕事が出来たことも此成功を責した原因とはなつて居ようが、棟梁として魚津氏の伎倆は充分推賞するに値ひすると思ふ 光明蔵の竣工に當つて思ふが儘を延べて序に代へる次第である。
 昭和五年三月  工學博士 武田五一

 


 光明蔵の落成を見て・西原吉治郎
 光明蔵の落成を見て・西原吉治郎

 光明蔵の落成を見て

永平寺本山光明蔵改築は萬事滞り無く落成を告げました。
本山の歓びは申す迄も無い事で有りますが、長い年月の労苦の報ひられた、棟梁を初め一同の喜びの如何に大きいかは察するに餘り在るのであります。
實を申しますと、初め棟梁を武田博士に紹介致す時には年の若い爲に稍躊躇致したので有りますが、熟慮の結果曩に覺王山大書院建築を短日月に而も見事に成就せしめた非凡の手腕を想起しますと共に其平生職務に忠實に、世に佞らはず孜々として励む有様が、齢は僅かに三十三で有りますが普通の棟梁とは慥に異つた處が有りまして假令紹介致しても名誉を失墜せしむる等の事無きものと認めましたから、決然其の労を採つたのであります。
而して幸にも博士の御快諾を得まして萬事御指導を受け遂に今日の成功を見るに至つた次第で有ります。
彼は目下高野山金堂の大建築にも携つて居りますが、彼の性質として利欲を度外に措き専心励んで居りますから、是亦立派に成功する事と思います。
彼の建造物には慥に彼の人格が表現せられて居ります。
これは丁度吾国建築界の「オーソリチー」と喚ばれた故辰野博士の設計が博士の人格を如實に現して居るのと相似して居るのであります。
現在の彼は素より完全なる技術者と申す事は出来ませんが、青年棟梁として慥に有望の人物であつて将来に於て中京の工匠として辱ぢない大棟梁となる事を確信しますから、光明蔵の落成に當り之れを世に紹介するの労を採るのも無意義に非ずと思ふのであります。
 在名古屋  建築士  西原吉治郎

 


 光明蔵は工芸の殿堂・太田誠二
 光明蔵は工芸の殿堂・太田誠二

 光明蔵は工芸の殿堂

棟梁魚津氏は北国に工芸の殿堂を築かれました。
写真挿画で御高覧の通り實に荘厳華麗を極めたもので、雲に舞う鶴の欄間、格天井の漆塗金金具などの配置を眺めると恰も藤原氏全盛時代の栄華も斯くこそとの感が湧きます。
特に檜の美薫を嗅ぎ乍ら上段の間に端座して居ると身は何時しか極楽浄土へ遊んで居る様な気持が致します。
斯かる美装は容易なことでは出来るまい、御佛の御守護もあつたのではないかと思はれる程に魚津氏の伎倆の卓越せることが直感されます。
恐らく後世に至つて彼の国宝たる平泉の中尊寺や、宇治の平等院、等と共に久遠の誇とされるであらう。
内部の工芸装飾品等凡ての点に光彩を放つて居る事は光明蔵の名に背かず海外迄も国粋建築の龜鑑として賞観せられることであらう。
 金澤縣立工業学校教諭  太田誠二

 


 御挨拶・魚津弘吉(1)
 御挨拶・魚津弘吉(1)
 御挨拶・魚津弘吉(2)
 御挨拶・魚津弘吉(2)

 御挨拶
大本山永平寺二祖孤雲懐弉禅師五百六十回大遠忌の爲に愛知縣曹洞宗寺院並に檀信徒各位の御寄進よりなる悉堂伽藍の随一として最も重き大光明蔵の再建工事を不肖へ御下命に與りました事は若輩の身に餘る光栄であり又工匠として一家一門の誉であります。
従て御高命を拝しましたる私は身命を堵してもこの霊域たる山上に永遠に當代の代表的建築を遺したいとの念願を以て日本建築界の権威たる京都帝国大学教授工学博士武田五一先生の御指導を受けて昭和二年の三月着工致しました。
爾来歳を経る事三星霜其間構造計画に於ては元愛知縣技師西原吉治郎氏、漆工金工等の装飾的技術に関しては金澤縣立工業教諭太田誠二氏、檜様及彫刻の意匠図案に関しては工学士藤原義一氏等を煩はし、建築工事全般の施工に関しては不肖心血を注ぎて幸に何等の支障なく昨冬十二月之が竣工を遂げました。
是れ偏に佛祖の加護によるは申すまでもなく更に愛知縣各寺院諸老師の甚深なる御援助、諸先生の御懇篤なる御指導(に)よるものと感銘する次第であります。
茲に御挨拶旁聊か歓喜の辞を添へ謹で御厚情を感謝いたします。
尚此写真帖には各々解説を附して置きましたから何卒詳細に御閲覧下されんことを御願ひする次第であります。
 大光明蔵棟梁  魚津弘吉 啓白

 


参考 魚津弘吉とその仕事-魚津社寺工務店

 


 

 説明概要(1)
 説明概要(1)
 説明概要(2)
 説明概要(2)

説明概要  魚津弘吉

 

名 称
 大本山永平寺大光明蔵

所 在
 福井縣吉田郡志比谷村吉祥山
          福井駅より永平寺電鉄にて永平寺門前駅下車、約三丁にして山門に到る。
沿 革
 大光明蔵は開山承陽大師のここに親しく法輪を転じ給ひし以来代々不老閣猊下が演法道場として門末僧侶、檀信徒に祖道を説かれ亦対面所として使用せられた殿堂で本山中最も重要な建物であります。
而して古来幾多の変遷改築がありましたがその規模の廣大偉観はよく谿聲山色に調和し依然当山の重きをなしてゐました。
最後は天明元年頃の建立になり腐朽甚しかつたのを今回大遠忌に当り愈よ改築せられここに至つたのであります。

工 程
 昭和二年五月八日作業場たる名古屋奉安殿に於て齋戒沐浴盛大なる起工式を行ひました。
大体の木造りは全部名古屋で構成し厳重なる荷造の上汽車輸送を以て運搬、昭和三年八月中旬本山に於て立柱式を行ひ仝四年十二月下旬全く竣工を遂げました。

規 模
    大光明蔵 七間五面  桁行 八十四尺 梁行 六十二尺四寸
        大玄関        桁行 十八尺  梁行 十五尺
        濱 縁        巾  四尺五寸 延長 二百十尺
        監院寮 附属共    桁行 五十七尺 梁行 十九尺
        廊 下        巾  六尺五寸 長  二十六尺
         此建坪総計 弐百拾四坪九合弐勺
        大光明蔵 畳数 二百五十畳
        監院寮  畳数 四十八畳
         合計 二百九十八畳
内外形式大要
  光明蔵 單層入母屋造り桟瓦葺、妻は木連格子、正面大棟に定紋三個を附す
    大玄関 千鳥破風妻入りにして軒唐破風造り、銅平板葺、式台付き
    監院寮 單層入母屋造り桟瓦葺、妻は木連格子
日本寺院建築、中古時代の粋を抜き、内部は中央に大広間百二十六畳、正面に上段の間十二畳を設け左右に脇間各八畳に書院火燈窓、納戸口を構へ、正面鴨居上には竪四尺延長七間四枚の総彫の鶴の欄間を嵌込み、三方に筬欄間を廻らし正面は古式に做ひ御簾を掲ぐ、三方には幅九尺の入側を廻らし外部には巾四尺五寸、高欄付き濱縁を付す。

 


 大光明蔵建築図集・目次
 大光明蔵建築図集・目次

大光明蔵建築図集 目次
 第壹図 建築関係者肖像        第十一図 天上見上
 第貳図 不老閣猊下御下付の真筆    第十二図 上段脇書院
 第参図 永平寺境内全図        第十三図 上段脇納戸口
 第四図 大光明蔵監院寮平面図     第十四図 入側より見たる書院の外形
 第五図 大光明蔵外観         第十五図 入側
 第六図 大玄関            第十六図 大広間電灯
 第七図 大玄関正面扁額        第十七図 縁側
 第八図 大広間正面          第十八図 法堂より見たる監院寮外観
 第九図 大広間側面          第十九図 監院寮相見の間
 第十図 大広間正面彫刻        第二十図 監院寮内寮
   以上

 


 大光明蔵・建築関係者肖像
 大光明蔵・建築関係者肖像

一、(建築関係者肖像)
  上 工學博士  武田五一先生
    右 建築士  西原吉治郎氏
    中 工学士  藤原義一氏
    左 金澤縣立工業学校教諭  太田誠二氏
    下 棟梁   魚津弘吉

 


 永平寺感謝状・その他
 永平寺感謝状・その他

二、不老閣猊下御下付の真筆御賞詞
    「妙技入神」永平元峰八十八叟
    感謝状 曹洞宗大本山永平寺 監院 熊澤泰禅
    永平寺より御下附の銀の香炉

 


 三、永平寺境内全図
 三、永平寺境内全図

三、永平寺境内全図
 黒い部分は今回大遠忌に當つて改築せられた建物。
 ○印は大光明蔵 他は全て旧建物、多くは天明寛政時代の建立になる。

 


 四、大光明蔵・監院寮平面図
 四、大光明蔵・監院寮平面図

四、大光明蔵監院寮平面図
 北国地方に於ては雪の関係上濱縁を附せざる習慣なるも種々研究の結果支障なきことを確め三方にこれを廻らして建物の形体を完備せしめたり。
廊下南方は大庫院に、北東は不老閣に、北西は妙光台及法堂に通ず。
東と南は庭園に面し、明障子及び欄間を設けて通風採光を充分にす。

 


 五、大光明蔵外観
 五、大光明蔵外観

五、大光明蔵外観
 八間五面單層入母屋造、軒二重疎棰(まばらたるき)、柱檜八寸角面取、舟肘木を持つ て桁を支へ、三方縁側擬宝珠勾欄をめぐらす。
木割は太く強壮なるも、書院造の形式秀麗閑寂の気品を生命とす。
大棟高六十尺、軒高二十二尺、屋根の形状等此地方の気候風雲に適応し四圍の山堂に調 和せしむ、而して建物最も永久保存のため従来の松、欅等を排し檜材を使用せり。

 


 六、大玄関
 六、大玄関

六、大玄関
 光明蔵旧玄関の形式を多分に尊重し、正面唐破風造り、千鳥破風を重ね、軒下組物間の彫刻、木鼻等の装飾稍豊富なり、而も細部の手法はあくまで堅実上品を旨とし、破風軒先に打つ宝相花唐草の透金具等亦豊麗雄健以つて本殿の有する気風と一脈通ずるところあらしむ。
正面柱は檜一尺一寸角。
旧玄関は現在下の寺務所受付に移建保存さる、その彫刻、木鼻、妻飾等比較するに便なり。

 


 七、大玄関正面扁額
 七、大玄関正面扁額

七、大玄関正面扁額
 周縁(ふち)は群青、祿青(ろくしょう、白祿(びゃくろく)の雲繝(うんげん)彩色、中の文字は前猊下森田禅師の御筆になる「大光明蔵」の扁額より縮写して彫沈め、群青で彩る。
大遠忌に当つて私の奉納せしをここに掲げるの光栄に浴せしものなり。

 


 八、大広間正面
 八、大広間正面

八、大広間正面
 廣さ百二十六畳、天井高二十二尺二重折上小組格天井とす。
正面中央上段の間十二畳、左右の脇間各八畳に書院、納戸口は不老閣、妙光台に通じ、猊下役寮御出入の口とす。
三方入側を廻らし、その間は腰高舞良障子、柱は木曽檜八寸角及び九寸角を用ひ、上部長押には金銅の六葉飾金具を打つ、鴨居高七尺六寸上部に巾四尺の大欄間を納め、規模雄大にして簡素禪宗の伝統的気品を示したるを誇りとする。
尚、上段背後の張壁及納戸には近く小室翠雲画伯が一世の霊筆を振はるゝ豫定にしてこれが完成のあかつきには更に一段の光彩を放つべきことゝ信ず。

 


 九、大広間側面
 九、大広間側面

九、大広間側面
 正面欄間の、霞に鶴の吉祥彫刻に対して、側面は穏健高尚なる筬欄間(おさらんま)とす。
欄間椽は面取黒漆、障子の腰は白張り、片面の入側に面する方は舞良とし、椽、棧はは同じく漆を塗る。

 


 十、大広間正面彫刻
 十、大広間正面彫刻

十、大広間正面彫刻
 巾  四尺
 長さ 中央二つは九尺
            左右は各十二尺
 厚さ 各四寸檜の一木彫
霞に鶴は本山吉祥喜心の象徴、名古屋の彫刻師彫長(當代)早瀬長策氏が畢生の作なり。正面欄間上には巾二尺五寸、長さ八尺「轉大法輪」の扁額を掲ぐ、現代不老閣猊下の御筆になる。
時日の都合上この写真に入らず。

 


参考

北野元峰禅師揮毫の「轉大法輪」の扁額の写真 

 「轉大法輪」光明蔵扁額・北野元峰禅師揮毫
 「轉大法輪」光明蔵扁額・北野元峰禅師揮毫
 十一、天井見上
 十一、天井見上

十一、天井見上
 百二十六畳柱なしの持放し。
二重折上小組格天井、格椽は黒漆仕上げ、辻飾金具には實相花模樣あり。
此處に取り付けらるべき優雅なる法燈に灯る日の盛観を思ふ。
漆工は金澤市の遊部石齋氏が献心的に努力せられ、辻飾金具は高岡工業試験場が力作す。

 


 十二、上段脇書院
 十二、上段脇書院

十二、上段脇書院
 床板は檜の一枚板、黒漆塗り。
地袋小襖金張り、花頭窓及上部花狭間の意匠亦吾国古建築の粋を取り、納戸口と相まつて大広間に一段の光彩を添へるものなり。

 


 十三、上段脇納戸口
 十三、上段脇納戸口

十三、上段脇納戸口
 上段の間向つて右側は不老閣猊下。
左側は役寮御出入の口なり。
襖は白張り、縁、方立、框等黒漆磨仕上、金銅飾金具を打つ、金具は吾国古来最も賞美せられたる實相花唐草の透彫厚二分に餘る。
その鋳造技術は金澤の名工才田幸三氏の苦心に負ふ。
古鏡形引手は中に實相花の浮彫あり、朱房を下げる。

 


 十四、入側より見たる書院の外形
 十四、入側より見たる書院の外形

十四、入側より見たる書院の外形
 前方の戸板は不老閣に通ず。
戸は檜の一枚板、金銅引手金具を打つ。

 


 十五、入側
 十五、入側

十五、入側
 大庫院、監院寮の廊下より入りて見たるところ、正面の杉戸は妙光台に通ず。
巾九尺猿頬竿椽天井、板は檜の巾二尺五寸の正六分板。
外部縁側との間は腰高硝子障子、上部は高く欄間を明け採光を充分にせり。

 


 十六、大広間電灯
 十六、大広間電灯

十六、大廣間電燈
 従来の電燈は殆ど建物の性質に無関心なりしの感あり、ここに顧み武田博士の御設計になる大広間に最も調和する電燈を作成せり。
大さ方三尺、木製にして飾金具を打ち、大広間に四燈配置す。

 


 十七、縁側
 十七、縁側

十七、縁側
 入側の外部縁側巾五尺、擬宝珠勾欄を廻らす。
軒は二重疎棰(まばらたるき)小舞打ち、清楚高逸の気風を蔵す。

 


 十八、法堂前より観たる監院寮外観
 十八、法堂前より観たる監院寮外観

十八、法堂より見たる監院寮外観
 監院老師の御居室なり。
柱檜五寸角、軒一重疎棰、舟肘木を用ゆ。
軒高十五尺、棟高二十三尺。
屋根を軽快にせし一方入母屋を深くし古風な獅子口を用ひて落付きあらしめたり。
而して玄関に面せる方には花頭窓を設けて調和を保たしむ。
向つて右方即ち南方は約二十尺の懸崖(がけ)にしてこれに濱縁を持ち出し勾欄を設く。

 


 十九、監院寮 相見の間
 十九、監院寮 相見の間

十九、監院寮相見の間
 監院寮は大光明蔵の西南隅に位する單層入母屋造、監院老師の御居所なり。
廊下より直ちに相見の間十五畳、猿頬竿椽天井檜板張り床、袋棚、扇棚を有し平法簡潔頗る明るき感あり、多く名古屋の名匠故堀田宗匠の筆法を用ゆ。

 


 二十、監院寮内寮
 二十、監院寮内寮

二十、監院寮内寮
 相見の間に続く、廣さ僅に八畳、杉の竿椽天井、白張襖、虚飾を避け質素閑寂掬すべきものあり。

 


 昭和五年三月 魚津弘吉
 昭和五年三月 魚津弘吉

裏表紙
 昭和五年三月
    社寺建築業並ニ設計製図  魚津弘吉
    名古屋市中區西日置町四十三番地
    (外)

 


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