永平六十五世 福山黙童禅師

 

永平六十五世 福山黙童禅師

 

(世称)
  福山黙童(ふくやま もくどう)


(道号・法諱)
  壽硯黙童(じゅけん もくどう)


(禅師号)
  慧光玄照禅師
  (えこうげんしょうぜんじ)


(生誕)
  天保12年(1841)5月11日


(示寂)
  大正5年(1916)3月30日


(世壽)
  76歳

     倒騎牛入佛殿(東川寺所蔵)
     倒騎牛入佛殿(東川寺所蔵)

福山黙童禅師の書

「倒騎牛入佛殿」

「碧巖録 第八十六則 雲門廚庫三門」より。
「自照列孤明 爲君通一線 花謝樹無影 看時誰不見 見不見 倒騎牛兮入佛殿」

 


福山黙童禅師の履歴

 

天保12年(1841)5月11日 
三河国宝飯郡西方小林伝六郎の五男として誕生する。


弘化3年(1846)11月 6歳 父、小林伝六郎急逝する。


安政元年(1854)春 14歳
兄弟五人そろって豊川妙厳寺二十七世覚乗大法について得度する。
しかし得度した五人の兄弟の内、四人は還俗したもの、あるいは師僧替えしたものがあって、黙童のみ妙厳寺に残る。號は「壽硯」


安政五年(1858)二月 17歳
諸方を行脚した後、上州前橋の竜海院の奕堂に参じ、安政五年八月、奕堂転住の為、金沢の天徳院に掛錫する。

 


 

奕堂大和尚が加州天徳院に喬遷するや、 黙童禅師も亦随伴して、なおも其の玄扉を叩かれたが有名なる森田悟由禅師と同氣相求めて、日夜切磋せられたのは此の頃であった。
かくして 黙童禅師は真善知識の下とに絶好の良友を得て兀々として坐し、黙々として潜行密用し如愚如魯の没量の境界に安住して居たので、悟由禅師が 黙童禅師を綽名して「小モソ」と称したと云う。
蓋し「モソ」とは愚魯の意で、同じ会中の良義和尚が「大モソ」であった。
勿論これは悟由禅師が黙童禅師の没量の大機たるを讚歎した言葉である。
この如くにして奕堂門に丹田を調えること前後五年、文久元年、遂に奕堂和尚の堂奥を究めて印可を受けられた。

「十七回の忌辰を迎ふる黙堂大禅師の略傳-佐藤桂髄謹述」(昭和7年傘松四月号)

 



文久元年(1861)9月 21歳 妙厳寺二十八世禅海霊竜の室に入り嗣法する。


元治元年(1864)4月 24歳 豊川真光寺の住職となる。

 

慶応4年(1868)旧9月8日 1月1日に遡って明治元年(1868)とする改元の詔書が出される。 


明治8年(1875)春 35歳
愛知県妙厳寺二十八世禅海霊竜の後を受け、妙厳寺二十九世住職に就任する。
その間、宗学及び仏教学の他、外国語も研究する。

 

明治12年(1879)4月22日 39歳
 妙厳寺住職、福山黙堂師「冠註 教観綱宗会釈」の「序」を記し、これを出版する。

 

 冠註・教観綱宗会釋・上下(東川寺所蔵)
 冠註・教観綱宗会釋・上下(東川寺所蔵)
 教観綱宗会釋・福山黙堂・序-1
 教観綱宗会釋・福山黙堂・序-1
 教観綱宗会釋・福山黙堂・序-2
 教観綱宗会釋・福山黙堂・序-2

 

明治17年(1884)4月 44歳
福山黙童によって妙厳寺総門を上棟改築する。

 

  妙厳寺総門・絵葉書
  妙厳寺総門・絵葉書

 

明治22年(1889)5月17日 49歳
大学林専門学本校教師に任ぜられる。


明治22年(1889)9月1日 49歳
大学林学監に任ぜられる。


明治23年(1890)1月4日 50歳
永平寺東京出張所、執事に任ぜられる。

 

明治24年(1891) 51歳
同年5月4日「日本曹洞宗名称考」を著し、森江佐七、これを発行する。

 

日本曹洞宗名偁考・表紙(東川寺所蔵)
日本曹洞宗名偁考・表紙(東川寺所蔵)
  日本曹洞宗名称考・本文
  日本曹洞宗名称考・本文

 

日本曹洞宗名称考

緒言

曹洞の名称は震旦に起り日本に流う、而して其の起源沿襲、曁び其人を指すに於て古来異説あり。
蓋し日本曹洞の名称は最初より、勅定に依りて立称し来たれるもなれば、震旦の名称と同視して異説を容るべきものにあらず。
茲にこれを歴史に徴しこれを事実に照らして、日本曹洞宗名称考を作る。
若し、尚お誤謬あらば後賢更に訂正せよ。

 

下記「日本曹洞宗名称考」参照 

 

同年5月4日「曹洞教會修證義典嚢」を著し、森江佐七、これを発行する。

 

  曹洞教會修證義典嚢・表紙(東川寺所蔵)
  曹洞教會修證義典嚢・表紙(東川寺所蔵)
  曹洞教會修證義典嚢・本文
  曹洞教會修證義典嚢・本文

 

曹洞教會修證義典嚢

 

曹洞 曹は曹谿慧能禪師を謂う。洞は洞山良价禪師を謂う。曹谿洞山を合稱して曹洞宗と名する事は日本曹洞宗考に具す。

教會 信教者相い會して禮佛聞法する之の筵を謂う也。誕生會、成道會、涅槃會、盂蘭盆會、施餓鬼會の類また皆、教會ならざる無し。

修證 景徳傳燈録巻五南嶽の章に云う、曹溪に詣し六祖に參して問う、什麼の處より来ると。曰く嵩山より来る。祖曰く什麼物、恁麼し来る。曰く説似一物即不中。曰く還って修證すべきや否や。曰く修證、無汚染ならず、即、不得祖。曰く只だ此の不汚染、諸佛の護念する所、汝既に如是、吾また如是。
○契崇か壇經賛に曰く夫れ妙心は修の成す所に非らざる也。證の明なる所に非らず也。本成なり。本明なり。明を迷う者は明に復するを以て、證する所以なり。成を背く者は成に復するを以て修する所以なり。修に非らずを以て之れ修なる故に、正さに修と曰く。明に非らずを以て之れ明なる故に正に證と曰く。
○眼藏辨道話の巻に云う、夫れ修證は一とつに非らずと謂(おも)える、則ち外道の見なり。佛法には修證是れ一等なり、今も證上の修なる故に初心の辨道則ち本證の全體なるが故に、修行の用心を授けるにも修の外に證を待つ思い無しと教う。直指の本證なるが故なる應へし。既に修の之證なれば則ち證に際きは無し。證の之修なれば則ち修に始め無し。

 大寶積經に云う如来演ずる所八萬四千の法藏聲教皆名、文を爲、諸一切言音文字を離れ、理、説くべからず。是れ名は義、爲り。
○又、諸經中に了義、不了義、第一義等の語、有り。今は了義第一義の義也。

第一節
明生死 輔教編巻上原教に云う萬物に性情、有り、古今に生死、有り、・・・・
(以下、省略)

 

 

明治24年(1891)10月3日 51歳
森田悟由禅師、病院にて上京出来難につき、福山黙童を管長代理にする旨、委任状を添えて内務大臣子爵品川彌二郎に届ける。


総持寺畔上楳仙禅師と永平寺森田悟由禅師とで管長交代の件で論議あり、続いて両本山分離問題に発展する。


明治25年(1892)7月20日 52歳
永平寺東京出張所、執事を辞す。麻蒔舌渓、これに替わる。

 

 

福山黙童師(三河国宝飯郡豊川妙巖寺住職)

 

宗門の廣き僧衆の多き或は学識汪洋なるものあり或は操行潔白なるものあり或は識見高邁なるものあり或は胸襟空濶なるものあり。
而かも此四徳を具して人に驕らず恭譲自から守る謂ゆる良賈は深く蔵して虚きが如く君子は盛徳あって容貌愚なるが如き者居士我が妙巖寺住職福山黙童師に於乎之を見る。
師は奕堂門下の一秀才にして久しく其提撕を蒙むりたる人なり。
故を以て妙厳寺の富饒宗門に冠絶し、而して其生活の度亦幕府時代の於ける五十萬石の諸侯を歴するにもかかわらず、節倹力行を以て下を御し、淨財の剰余を挙げて悉く教学の資に充つ。
妙厳寺の日一日よりも旺盛に赴くは咜枳呢尊天の威霊に頼ること固より疑うべからずと雖も、抑も亦師が倹素自から奉じ餘費を投じて教学の拡張に力を尽すにあらずんば何を以てか此の如きを得んや。
師が半生の事業除して宗門の典型に充つべきもの少しとせず、殊に師が半生の閲歴自利利他の二途に在りし如きは尤も宗門一般の称賛して已まざる所なり。
試に其一例を挙ぐれば明治八年、師が先師の簑嚢を承けて妙厳寺の法席を董すや法務の繁忙寸隙も容易に得がたきに拘らず、宗乗餘乗漢学等の専門学者を聘して教師と為し、苟も閑暇あらんか。
即ち衆僧を率いて講筵を開き、教師に命じて宗乗餘乗漢学等の学科を教授せしめ、而して師の宏才博識を以て尚其講筵に列し、其講説する所を聞きて自から資けたりき。
以て師が自利利他の事業に於ける其一班を窺うに足る。
師又宗門の経綸に於て特殊の識見を有す。
故に嘗て曹洞宗大學林に総監として學政を執り、尋で大本山永平寺に監院として宗政の要衛に立ち樹立する所の功勲頗る多し、其宗門の大事に臨みて心決せざる所あるや三日五日臥して推敲するを例とす、亦祖門の良相なり。
師人と為り忍耐に強く、而して能く人を容る故に門下の諸生師を慕うこと父母の如し、此心を以て嘗て本山の貫首を補粥す祖門の良相として末派の崇敬を受けたる所以。

 

洞上高僧月旦-山岸安次郎 (頑石点頭居士) 著(明治26年12月9日発行)より

 

 

明治27年(1894) 妙厳寺二十九世福山黙童が妙厳寺豊川閣本殿改築を発願し、明治41年(1908)起工、昭和5年(1930)完成する。

 

明治27年(1894)9月15日 54歳
麻蒔舌渓、永平寺東京出張所を辞し、福山黙童、これに替わる。


明治28年(1895)3月   55歳
永平寺森田悟由禅師、福山黙童に本山分離事件対処に対する功績にて、妙厳寺を永平寺門首の位に準ぜしむ。


明治28年(1895)4月10日 55歳
宗務局、水島洞仙の第二護法会総轄を免じ、永平寺東京出張所執事福山黙童及び総持寺東京出張所執事日置黙仙等を臨時総轄に任ず。


明治29年(1896)2月5日 56歳
福山黙童、宗務局定時及び臨時教師検定会検定委員長に任ぜらる。


明治29年(1896)3月 56歳
妙厳寺を禅界白麟(福山白麟)に譲り、本山監院をも辞し、妙厳寺鎮守吒枳尼天の大本殿再建に尽力す。

 

  豊川閣新本殿・絵葉書
  豊川閣新本殿・絵葉書

 

明治29年(1896)7月25日 56歳 「勝鬘経」を編輯し発行する。

 

  「勝鬘経」・福山黙童 著 (東川寺所蔵)
  「勝鬘経」・福山黙童 著 (東川寺所蔵)
  「勝鬘経」・本文
  「勝鬘経」・本文

参考 勝鬘経 Wikipedia

 

 

明治31年(1898)11月20日 58歳
来る明治35年、高祖道元禅師の六百五十回大遠諱につき、福山黙童を大遠諱事務総裁に任じ、遠忌準備事業を始める。

 

明治33年(1900)9月13日 60歳
「舎利禮文些便」(壽硯黙童講述)を発行する。

 

「舎利禮文些便」 壽硯黙童講述

 舎利禮文

解して曰、舎利禮とは所詮に約し、文とは能詮に約す。舎利とは所禮の境を指し、禮とは能禮の相を示す、文とは總して此の書に名くるなり。舎利は梵語又は設利羅と稱す、此に譯して骨身又は霊骨と言ひ、或は單に身又は體と翻す。今は正く佛の身骨に名く。蓋し此文は大廣智不空三藏の譯する所にして、古來之を鐵塔相承の秘文なりと稱す。然れども若し色を以て舎利を見、經巻を以て舎利を求めば、且喜すらくば没交渉作麼生か道へ。佛陀の霊骨請ふ、試に下文を看取せよ。

 一心頂禮萬徳圓満釋迦如來

一心頂禮とは能禮の相を顯し萬徳圓満釋迦如來とは所禮の境を示す・・・・

(以下略)

 明治三十三年九月六日 印刷

 明治三十三年九月十三日 発行 (非賣品)

 編輯兼発行者 田中慈橋


明治35年(1902)1月19日 62歳
豊川妙厳寺、永平寺献納の大梵鐘、三河国豊川町北金谷鋳工中尾十郎によって鋳造される。

同年3月8日
豊川妙厳寺、大梵鐘永平寺献納につき、福井より永平寺まで大梵鐘を引く。


明治36年(1903)9月15日 63歳
福山黙童、永平寺西堂に任ぜられる。


明治40年(1907) 67歳
西堂、福山黙童、向こう5ケ年計画で永平寺植林事業を始める。

 

 明治45年(1912)(1月1日-7月30日)
 大正元年(1912)(7月30日-12月31日)
 


大正2年(1913) 73歳
この年、植林事業第一期完成する。


大正4年(1915)3月28日 75歳
森田悟由禅師遷化に伴い、後任選挙の結果、福山黙童、永平寺六十五世貫首に当選する。
同年4月5日
永平寺東京出張所監院と本山監院は豊川妙厳寺に到り、6日、貫首拝請式を行う。
同年4月25日
福山黙童禅師、初入山式を挙げる。


大正4年(1915)6月10日 75歳
福山黙童禅師、慧光玄照禅師」の勅號を賜う。

 

大正4年(1915)8月1日
「曹洞宗両本山貫首晋山式禮法」が改正される。


大正5年(1916)3月29日 76歳
福山黙童禅師、御親化先の天草金慶寺にて倒れる。


大正5年(1916)3月30日
午後11時、福山黙童禅師、天草金慶寺にて遷化する。世壽七十六歳。
4月4日、荼毘に附し、本山に送り、4月12日、密葬する。

 

遺偈「潜行密用 純慕古風 忽翻筋斗 柳緑花紅」

 

大正5年(1916)4月22日

この日、福山黙童禅師、大本山永平寺晋山祝国開堂の儀を挙行する予定であった。

 

大正5年(1916)11月2日
永平寺本葬(荼毘式)

 秉炬師 大本山総持寺貫首 石川素童禅師

 奠湯師 護國院 上野瓶城
 奠茶師 大慈寺 丘 宗潭
 起龕師 凰林寺 能仁義道
 掛真師 最乗寺 新井石禪
 鎖龕師 孝顕寺 戸澤雪岑
 入龕師 圓通寺 陸 鉞巖 

   



福山黙童禅師の功績

福山黙童禅師の功績


一、明治十一年九月、二代尊六百回大遠忌に尽力。
二、森田悟由を永平寺六十四世貫首へ懇請し、悟由禅師への支援。
三、両山分離事件、和平解決斡旋。
四、明治三十五年、高祖道元禅師六百五十回大遠忌の総裁。
五、眼藏会開設への努力。
六、永平寺、二十町歩余の田地の購入と三百町歩余の山林植林事業。
七、正法眼藏謄写の巻の開版。

 



 

永平寺唐門(勅使門)の前に「無盡燈」一対が建てられている。
これは永平六十五世福山黙童禅師の晋山を記念して妙厳寺法類である花井寺法類が寄附されたもの。
そこには下記のように刻されている。


 大正五年四月晋山日建焉
 本山六十五代
 妙厳寺法類花井寺法類寄附

 

大正五年四月晋山日とあるのは不思議だが、「永平寺年表」には、「大正5年11月2日 是日、妙厳寺福山白麟より黙堂御晋山式用として新調せし法服、不幸にして着用ならざる故に、不老閣常什物として献納す。」とあり、本来は大正5年4月に福山黙堂禅師の晋山式を挙行する予定であったが、突然遷化された為、既に用意されていた晋山記念の「無盡燈一対」もそのまま永平寺唐門(勅使門)前に設置されたものかと推察します。

 

 参照 花井寺homepage 

 

(東川寺撮影)
(東川寺撮影)
(東川寺撮影)
(東川寺撮影)
(東川寺撮影)
(東川寺撮影)
(東川寺撮影)
(東川寺撮影)

 

「大休悟由禪師廣録」巻頭扉の福山黙童禅師の題字書(東川寺所蔵)

 『鐵牛生石卵』

 

  鐵牛生石卵・永平黙童
  鐵牛生石卵・永平黙童

 

「福山黙堂禪師が愛山の道念」 高橋竹迷

 

森田悟由禅師の語録を拝覧すると、その詩偈部に「次福山黙堂老師ノ韻」の作が非常に多く、初めて福山(黙堂)禅師が詩作家であらせられしことを知った。
何かの因縁で、予は不幸にして親しく福山禅師に拝謁するの機会を得なかったが、二十三年後の今日、その語録を編輯するの光栄に浴して、その御遺稿を一々拝覧することを得て、朧気ながら(黙堂)禅師の風格に接することが出来た。それに尊いことは、妙嚴寺に於いては少壮時代の詩の草稿が完全に保管されて、(黙堂)禅師が三十歳前後には、如何に作詩のために御精進なさったを歴々として知ることが出来る。即ち大沼枕山、小野湖山等、当時の泰斗たる方々に親しく御入門なさっておる。而して真剣に、忠実に、秩序的に御勉強なさって、五律、七言などがしっかり出来ておるに驚く。恐らくは明治時代の宗門高僧中に、これだけ詩の御勉強をなさった人は無かろう。此に於いて初めて森田禅師の御唱和の多い所以が合点された。


これだけ立派に出来、而かもお好きであったから、その大勢のお弟子さん方にも大いに激励されたから、今日猶お妙嚴寺では幾多の詩作家を持っておる。而して之を新聞や雑誌に出して、宣伝的、広告的になることは最も嫌われた。この一事だけでも如何に黙堂禅師が綿密質素な人であるかを證明し得て餘りある。その宣伝を最も嫌われつつも、我が師匠と仰いだ悟由禅師の前には、厳格なる叱正を仰ぐ可く出来るままに喜んで提示されたようである。別して新年の作は、その祝壽のためにか、差し上げることを恒例とされておる。従って悟由禅師も亦必ず次韻されておる。以てこの二人の中が、義は主賓にして情は猶お父子の如く真に親密であったかが知れる。


明治二十四年八月、森田禅師が永平寺貫首に御当選なさった当時は、宗門は暗雲低迷の時で、能山黨一部の者は飽くまで之を辞退せしめようとした。之を動かして遂に永平寺へ晋住せしめたのは全く福山(黙堂)禅師の勧奨その宜しきを得たので、爾来、身を以て森田禅師を補護され、森田禅師が御住職中は、妙嚴寺よりも御本山を第一として能くお勤めになったのは、全く涙の出るほど尊いことである。如何に愛山扶宗の念の熱烈であったかは、晩年の詩偈中には、何よりも祖山法語が一番多いことである。身は豊川に在っても、心は常に祖山を離れなかった。この本山を守護することが即ち森田禅師を補佐することで、森田禅師を補佐することは即ち御開山高祖大師に御給侍申し上げるのだとの固い敬虔な御信仰を持っておられた。


その本山愛護の中にも最も驚くことは植林の詩の多いことである。本山百年の大計のために万難を排し全身心を投じて植林事業を起こされ風雨を恐れず霜雪を侵し、若い者に率先して、六十の老躯も厭わず朝に夕に山に入って努力せられた。その努力が報いられて、三十年後の今日、鬱々として繁茂しておる。その一枝一葉は悉く黙堂禅師の血涙の結晶である。四十年頃の植林の一首に「苗を携え諸士を伴う。老躯何に躋を耐えん。山を回りて山嶮(山+及)。路を求め路高低。笠を穿ち雨雪と交わる。鞋を支うる石泥に混じる。更に加うる千載の翠。日本の古曹溪。」(原文漢詩)
誠に字々是れ血、句々是れ涙。この苦辛を想うてこそ「一枝を伐らば、一指を剪るべし」との厳誡ともなる。黙堂禅師は唯永平寺のみあって、我が身も命も金も無かった。今日永平寺の山を誇る者は、先ず黙堂禅師の徳を讃えねばならぬ。
黙堂禅師が熱烈なるこの愛山の道念は、やがて豊川妙嚴寺の敬虔熱誠なる伝統的精神となって、御本山のためには我が妙嚴寺を忘れて御奉公するようになった。御本山へ尽くすことが即ち妙嚴寺へ尽くすことであるとの確信を持つので実に尊いことである。植林の詩についてはまだまだ話したいことが沢山ある。

 

◇ ◇

 

熱海に森田禅師を訪い、直ぐ永平寺へ赴かれるとか、豊川から寒い雪の中を永平寺へ行かれる。暑い夏、永平寺へ行って蚊に苦められるなど、境に触れ感に応じて思うままの詩が出来ておる。「詩は志なり、志を云う」との作らず飾らない詩である。
中に永平寺途上作の一つに
尺地難分越坂嶺。寒風凛烈雪紛然。老躯凍死避無術。僅暖指頭燐火焔。

尺地分かち難し越坂の嶺。寒風凛烈として雪、紛然。老躯、凍死せんとす避くる術(すべ)無し。僅かに指頭を暖す燐火の焔(ほのお)。

の一首。
近頃、福山(界珠)老師から親しくその因縁を聴いて、殊に感激して復た読み返した。これを読みつつ、三十年前に腰を埋む大雪の中を福井から永平寺まで歩き、あの「越坂こえさか」を越えたことを油然として思い出した。

(竹迷和尚自身も大雪の中、越坂を越えたことある。)

福山(黙堂)禅師が永平寺に入るべく福井から人力車でお越しになった。雪路でえらい難儀をされたが、いよいよ彼の志比谷入口の「越坂」にかかると、まだ一人も通っていないので、深い雪の中は満目皚々として、どこが路やら谷やら分からない。とても危険で車はやれぬと車夫が頭をさげた。ここで降ろされても困る。そんなら永平寺まで知らせに行って、助けに来て貰えと云われた。車夫は仕方がない、老僧を雪の中に残して永平寺へと走った。
ああ寒い、雪はパラパラと落ちて来る。肌を裂く刃のような風、老師は殆ど凍えそうだ。
待てど暮らせど難儀な雪の路だ。車夫もなかなか来ぬ。寒さは刻一刻逼って来る。ああこのまま此處に凍え死にになるのか。それは余りに情けないと、静かに「オンシラバッタ・・・」と尊天の神咒を唱えつつ殆ど死を覚悟された瞬間、車に乗せてある鞄に気づいた。「あ、あの間にマッチがありはせぬか?」「そうだ、ローソクもあるかも知れぬぞ・・・」と、勃然として勇気が起きた。鞄を開けてガサガサと凍った手で探されると、忽ち莞爾として「あった!あった」と叫ばれた。マッチがあったのだ。「これが有れば」と復た探された。ローソクが出た。起死回生だ。凍った手に息をかけて暖められ、マッチをすってローソクをつけ、鞄を立てて風を防いだ。
「あ、これで助かった!」
と手を暖められると共に、全身が俄に暖かくなった。「燐火の焰」とはこのマッチのことだ。
誰かこんな雪難を想わんや。一本のローソクは遂に禅師を助けた。
間もなく、車夫の急報を得た永平寺では大騒ぎ「福山監院様が凍死なさっては」と、役寮の方が五六人の雲水を伴れて救難に来られた時は、禅師はニコニコして御元気で、「大変ご心配をかけました」と御元気な御挨拶で、一同覚えず歓呼の声を上げた。
鞄の中へマッチと蝋燭、その平生の用意は如何。禅師の慎密なる常に此の如くである。人間は何時、如何なる災難に遭うか知れぬ。その用意なくてはと常に弟子を誡められたと同時に、それ以来一層御注意なさってマッチと蝋燭とを鞄から離されなかったと云う。実に尊い、得難い處世上の大教訓である。

(後略)

 

高橋竹迷は昭和5年より、豊川妙嚴寺の修史局にあって福山黙堂禪師の語録編纂に携わっていた。)
(昭和13年「傘松」十二月号より)

 

知足-福山黙童禅師書

  知足-福山黙童禅師 (東川寺所蔵)
  知足-福山黙童禅師 (東川寺所蔵)

「知足」


「知足・ちそく」とは「足るを知る」ことです。
知足は「佛垂般涅槃略説教誡経・ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう」、略して「仏遺教経・ぶつゆいきょうぎょう」という経本の中にあります。
「仏遺教経」のお経本の中過ぎに「八大人覚・はちだいにんがく」とよばれる箇所に書かれています。


『 汝等比丘(なんだちびく)、若(も)し諸(もろもろ)の苦悩を脱せんと欲せば、当(まさ)に知足を観ずべし。知足の法は即ち是れ富楽安穩(ふらくあんのん)の処なり。知足の人は地上に臥(ふ)すと雖も、猶お安楽なりとす。不知足の者は、天堂に処すと雖も亦た意(こころ)に称(かな)わず。不知足の者は富めりと雖も、而しかも貧しし。知足の人は貧しと雖も而も富めり。不知足の者は常に五欲の為に牽(ひ)かれて、知足の者の為めに憐愍(れんみん)せらる、是を知足と名づく。』


仏道の修行の中でこれほど重要なことは無いと云っても過言ではないのです。
いや、仏道修行の者だけでなく、一般の人々にとっても極めて重要な誡めです。
知足、即ち足るを知ること、自分の欲を知り、己の満足の度合いを知ることが、生きていく上で最も大切なことだからです。
我々が生活する中で、衣食住すべてにおいて、際限なく求め続けて行くことは不可能です。
自分が生活するのに最低限、必要な物は何か、必要な量はどれくらいかを知ることから始めなくてはならないのです。
最低限の物、分量を知れば、それ以上は我欲のなせる術であることが分かります。

そこから総てのことは始まります。 

 

「有ればまた、無きを憂へて世の人の 足れりと思う時やなからん」

 



 

「五観之偈」

計功多少量彼来處

忖己德行全缺應供

防心離過貪等為宗

正事良薬為療形枯

爲成道故今受此食

 黙童衲敬書

黙童衲敬書・五観之偈 東川寺蔵
黙童衲敬書・五観之偈 東川寺蔵

妙厳寺(豊川稲荷)

 

妙厳寺(みょうごんじ)

 

愛知県豊川市にある曹洞宗の寺院。
正しくは「円福山 豊川閣 妙厳寺」(えんぷくざん とよかわかく みょうごんじ)と称する寺院である。
境内にある稲荷堂が有名なため、一般には「豊川稲荷」の名で広く知られる。
嘉吉元年(1441)、東海義易の開創で、室町時代末期、今川義元が堂宇を造営して義易を開山とした。
本尊は寒巌義尹が入宗のとき浄慈寺虚堂智愚に受け、義易に授けられた千手観音であり、別に鎭守佛として稲荷の本地身である吒枳尼天(だきにてん)を奉安する。
江戸末期頃より豊川稲荷信仰が盛んとなり寺門繁栄の基となった。
その吒枳尼信仰は現今もなお盛んであり、全国的に多大の信者を有する。
境内には本堂、吒枳尼天堂(佛殿)、奥の院、および曹洞宗専門僧堂などがあり、国宝指定の鎌倉時代の木造地蔵菩薩立像二体がある。
豊川吒枳尼天の姿は、白狐の背に乗り、稲束をかついで宝珠を持ち、岩の上を飛ぶ天女の形である。
江戸時代には大岡越前守や渡辺崋山からの信仰を受け、文政11年(1828年)には、大岡邸の一角を借りて江戸参詣所(後の豊川稲荷東京別院)が創建された。
皇族においては有栖川家も帰依し、明治初年に「豊川閣」の篇額を寄進したことから、豊川閣とも呼ばれるようになった。
尚、妙厳寺(豊川稲荷)は優秀な禅僧を排出し、禅師は永平寺六十五世福山黙童禅師を始め、永平寺監院より総持寺独住第十三世になった福山界珠禅師、さらに現永平寺七十九世貫首福山諦法禅師がいる。

 ~禪学大辭典等参考~ 

 

現永平寺福山諦法禅師・雲遊霞宿(東川寺蔵)
現永平寺福山諦法禅師・雲遊霞宿(東川寺蔵)

  祖山監院妙巖界珠(東川寺蔵)
  祖山監院妙巖界珠(東川寺蔵)

「日本曹洞宗名称考」

 

佛祖の大道天下に最尊無上なるは其の言耳目の表に出て其の理六合の外に存するを以て證契單傳多岐に渉らず信じて之を思うときは一言の下に於いて頓に心源を了じ明らかに本性を見る成佛作佛間に髪を容れず是故に學者心を語言文字に游ばしむると雖も固より語言文字に拘泥するにあらず直に不立文字教外別傳の妙旨を獲得す是其の無上の大道たる所以なりこれを名けて正法眼藏涅槃妙心という。(證-省略)
是道七佛より單傳密付摩訶迦葉に至る迦葉を西天の初祖となす
爾来西天二十八傳して菩提達磨に至る達磨方に震旦に傳う達磨を震旦の初祖となす
震旦六傳して大鑑慧能に至る慧能韶州曹谿の寶林寺に居しめ大いに是道を開闡す世人之を崇尚して敢て名いわずみな曹谿大師と称す震旦の六祖なり七佛以来只是無上の大道を嫡嗣相承して普く法界を利するのみ豈に宗称を立すべきあらんや。
(中略)
承陽高祖は宋の第十三代寧宗嘉定十六年癸未の夏(日本貞應二年)彼に渡り第十四代理宗寶慶元年乙酉九月十八日天童如淨の室に入て傳戒し尋て嗣承了畢寶慶元年丁亥の冬(日本安貞元年)宋を辞して帰朝し玉えり。
若し宗泒を言うときは天童如淨は曹洞門下の傑出にして当時震旦に齊肩の人なし真に唯我獨尊の大善知識なり然れども生涯自ら宗名を唱呼せず却て他の五宗を区別し門戸を立する輩の偏見局量を憐愍弾斥せり故に承陽高祖も亦甞て宗名を口にし玉わず痛く五宗の名称不可なるを訓誨し玉えり。
(中略)
以上の紀事に據るときは曹洞の指称震旦に在ては曹は曹山を指し曹山洞山を合称すと云うもの多分を占むるが如し。
中に就て亦両般の説を唱う、一は謂く資を前にし師を後にするは佗なし但語便に由ると、一は謂く洞山の玄風曹山を得て大に振う故に師資に關せずことさらに曹洞と云うと。
夫れ震旦曹洞宗の名称は素より傍称なるがゆえに其の説をなすのも亦衆盲の象を模するに似たり。
旦く洞山は師なり曹山は資なり宜く洞曹と称すべきに語便に由て曹洞と謂うといはば曹洞と洞曹と何等の便否かあるや。
唐亡びて宋起る歴史を紀するもの必ず唐宋と云う若し語便に由り宋唐と紀すべしといわば人誰か其の顛倒を笑はざらんや。
師資の系統は歴史の由て出る處歴史よりも重し語便を以て師資を顛倒すべけんや。
況や洞曹の語嘗て不便を感ぜざるをや。
若し又、洞山の家門曹山に依て盛なり故に曹洞と称すといわんか是亦無稽の妄想たるを免れず。
承陽高祖親訓の如く雲居は洞山の正嫡にして人天の導師なり曹山よりも尊崇なり門庭興盛子孫其の人多し眞に洞上の玄風を天下に播揚せり故に資の力克く師を高尚にせるをいわば何ぞ雲居を加えて雲洞宗と称せざるや曹山は傍出なりたとい一代の英傑なりとも子孫甚だ其人に乏しし僅に三世にして熄みぬ曹山の子孫已に其人なし誰か曹山を洞山に併称するものあるや是に繇て之を考うるときは曹は曹谿を措すというもの事実に適するが如し然れども震旦は曹洞の名称に於て其指す處両般にして終に一に帰するを見ざるなり
皇朝は栄西禪師最先に五宗の称を称すと雖も全く震旦の妄称を傳説するのみ
吾が承陽高祖は極めて宗称の不可なるを懇誨し玉う之に依りて法子法孫化儀を四方に布くに當り或は洞上の種草或は洞上の家風等の語あれども終に自から曹洞宗と称せざりしなり然るに當時京鎌倉に五山十刹漸々に林立し各寺の開祖帯うる處の法系に基きて互に宗派の名称を唱い相競うて自家の説を激揚するに由り正和文保の頃より誰れ人の称するとなく天下吾が承陽門下の日に月に興盛なるを見て彼れは曹洞宗なりと指称するに至りたるものならん何を以てか之を知るや云く承陽高祖滅後七十年を経て元亨二年壬戌に至り特に高祖忌日に丁れる八月二十八日を以て後醍醐帝より高祖嫡嗣の曾孫瑩山禪師へ左の綸旨を賜はりたり
(證)能州諸嶽山總持禪寺者直續曹谿之正脉専振洞上之玄風特依爲日域無雙之禪苑補任曹洞出世之道場
是の綸旨は正に日本曹洞の名字を公署し併せて其人を指定するの首〆とす蓋し瑩山禪師は承陽高祖の親訓を遵守〆正法眼藏を正傳し涅槃妙心を開眼するの外甞で自から曹洞宗と称せず曹洞宗と称すべしと示衆する拳頭なし瞬目なし然りと雖も已に皇帝陛下の勅を蒙ぶりたる以上は爾後の法孫をして之を公称せしめざるを得ず且此の綸文を拝看するに彼の震旦の曹洞の指称両般にして曖昧なるを一掃し直に曹谿洞山を雙へ挙げ結ぶに曹洞の語を以てしたまうもの其曹谿洞山を併せ称して曹洞と勅定し玉うや白日明かなり
洞上は則洞山良价禪師をいうこと古来の通言なり
故に綸文に洞上とのたまうものは洞山なる亦疑うべきなし
(證)宋高僧傳巻十二(十三丁)雲居道膺の傳云有僧自豫章至盛称洞上禪師言要膺感動神機遂専造焉洞上垂接復能領會曾問曰我聞思大禪師向倭国爲王虛耶實耶對曰若是思師佛亦不成况國王乎自爾洞上印許云々
是れ洞山を洞上と称し来れり然れば則綸文に直續曹谿之正脉専振洞上之玄風とのりし玉うは曹谿洞山なること敢て辨を待たざるなり
元亨壬戌の後五十年を経て應安五年壬子の歳、後圓融帝より永平寺(九世宋吾禪師の時也)へ下し賜はりたる勅額は更に曹洞宗の位次を勅定し玉うものとす
勅額曰 日本曹洞第一道場
是れ實に承陽高祖滅後一百二十年の暁なり欽み惟るに高祖宗称を呵し玉う所以のものは震旦に起れる偏見局量杜撰の妄称を哀憐して兒孫に佛祖正傳の大道を直示し玉うの慈訓なり
而るに日本曹洞の名称は後醍醐天皇後圓融天皇両帝陛下の勅を以て指定し賜はりたる尊称なり震旦日本の各宗中に未甞て比類あるを見ず
若し宗称の面目をして形ちあらしめば虚空も容るること能はざる至大至廣栄誉の宗称なり何となれば曹谿大師は佛祖あつて以来空前絶後の大聖なり謂ゆる七佛より慧能に至るまで四十佛の大導師なりここに青原南嶽に二流となり二流の門下各各數百人或は棒し或は喝し圓相を畫き竹篦を拈ずる等手段一ならず傍より之を観るときは曹谿(慧能)の一脉七波八浪狂瀾怒濤海天暗黒にして彼岸を辨じ難きが如し獨り其五世の法孫洞山大師の豪邁なる敢て曹谿(慧能)大師に一歩を譲らず直に曹谿(慧能)の化儀を寫瓶して一滴を洩すなし佛祖正傳の正法眼藏涅槃妙心を顯揚せらる是に於て曹谿(慧能)洞山を雙へ挙げ曹洞の宗称を立するは第一義天に日月を雙へ懸けて光明遍照無盡法界眞に佛法の總府なればなり加之吾承陽高祖は洞山大師の後身なること天童淨祖の證明しまします處なり果して然らば承陽洞山曹谿(慧能)は三即一にして二つなし三つなし承陽高祖現在世已に曹谿洞山の拳頭を拳頭として日本の初祖たり二祖孤雲三祖徹通四祖瑩山嫡嗣相承の大導師なり初祖の家訓を遵奉して自から宗称を立せざれども聖明の天子高く祖門の盛大なるを讃したまへ
綸言以て宗名を勅定し玉うもの豈に所以なきにあらざらんや是故に震旦曹洞の名称はたとい曹山洞山なりというとも門下の庸流眼未だ明ならず足未だ歩まざるもの父に問はず祖に違して立称し来れるものなれば固より論ずるに足らず
日本曹洞の名称は勅定に成りたる最尊最貴絶倫無比の嘉號にして曹は曹谿(慧能)洞は洞山なること誰か異議を容るべけんや彼の傍輩の臭皮袋己れに齊肩ならんとて宗称せるものと日を同うして商量すべきにあらざるなり

参考資料

「冠註 教観綱宗会釈 上下」 明治12年4月22日 福山黙堂・出版

「日本曹洞宗名称考」 福山黙童著 明治24年5月4日 森江佐七・発行

「曹洞教會修證義典嚢」 福山黙童著 明治24年5月4日 森江佐七・発行

「勝鬘経」 福山黙童 編輯 明治29年7月25日 発行 

 

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