永平寺六十八世 秦 慧昭禅師

 

永平寺六十八世 秦 慧昭禅師

 

(世称)
  秦 慧昭(はた えしょう)


(道号・法諱)
  黙道慧昭(もくどう えしょう)


(禅師号)
  大規正信禅師
  (だいきしょうしんぜんじ)


(生誕)
  文久2年(1862)3月4日


(示寂)
  昭和19年(1944)1月19日


(世壽)
  83歳


(別号)
  百不能

迷生寂乱悟無好悪   (東川寺蔵)
迷生寂乱悟無好悪   (東川寺蔵)

秦慧昭禅師の書
「迷生寂乱 悟無好悪」
「信心銘」第二十二「 迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 妄自斟酌」

 

秦 慧昭禅師の略歴

 

文久2年(1862)3月4日
武州橘樹郡小机村、亀井兵助(父)、千代子(母)の次男として誕生。


慶応3年(1867)3月14日 6歳
父の亀井兵助が逝去する。
亡き父の遺命により、江戸品川天竜寺住職、秦慧芳の門に入り剃髮。

 


 

筆者(秦慧玉禅師)は禅師(秦慧昭禅師)からこんな話を聞いた。
「わしがあんまり腕白だから、師匠(秦慧芳)はついにわしを小机の実家に帰してしまった。小机の祖母は驚いて品川につれもどって、師匠にお詫びをしたが許されない。その時師匠が言うには、わしは平生折檻がきついから間違って小僧を殺すかも知れない。今のうちに断った方がよいと。すると祖母は一旦仏縁あってお弟子となった以上、たとえ孫は殺されても本望でありますと。泣いて頼んだ。さすがの師匠も、それではという事で元の鞘(さや)におさまった」と。
芳老人(秦慧芳)は当時四十余歳、定めて冷厳苛酷の躾であっただろう。
「秦慧昭禪師傳」より 

 


 

慶応4年(1868)旧9月8日 1月1日に遡って明治元年(1868)とする改元の詔書が出される。


明治3年(1870)8月 9歳
慧芳師、但馬国豊岡(現、兵庫県豊岡市)の長松寺に転住するに従う。
これより十年間、慧芳師の厳訓を受ける。


明治12年(1879)1月 18歳
永平寺に安居する。久我環溪禅師の行者となる。


明治14年(1881) 20歳
永平寺首座に任ぜらる。


明治15年(1882) 21歳
慧芳師の許に帰省し、伝法する。

 

明治17年(1884) 23歳
永平寺貫首青蔭雪鴻禅師が豊岡町の養源寺の大授戒会にご親化の際、秦慧昭はその能筆を以て「室侍」をつとめる。 


明治21年(1888) 27歳
神戸聯芳学林の助教授となり、三年間、教壇に立つ。


明治23年(1890) 29歳
師命により、長松寺の住職となる。


明治32年(1899) 1月27日 38歳
母、千代子、東京にて逝去。行年七十三歳。


明治38年(1905) 44歳
この頃、大病にかかり、以後数年転地療養する。
小康を得て、帰山。後、北海道に勧募して長松寺に観音堂兼客殿を建てる。

 

 明治45年(1912)(1月1日-7月30日)
 大正元年(1912)(7月30日-12月31日)
 


大正3年(1913)4月 53歳
永平寺の後堂となる。

後堂一期三年中に森田悟由禅師福山黙童禅師日置黙仙禅師の三禅師に事える。

 

搭袈裟法は現行の「行持軌範」で規制されているが、お袈裟の右端を左肩で折り入れるあの作法は、実は慧昭禅師が本山後堂職を賭(と)して率先断行されたものである。
この事が押野監院から、ご親化中の森田悟由禅師に上申されたり、一時は大問題となり、眼藏会講師の丘宗潭老師のお口添えなどもあり、その間に起伏はあったが、後年禅師に昇住された因縁もあり、結局、永平寺では一つの山法となって今日まで相続してきた。
これは現在ではあまり知る人がないと思うから、ここに記しておく。
「秦慧昭禪師傳」より 

 
大正6年(1917)3月15日 56歳
永平寺の後堂を辞任する。

同年4月、宇野玄機老師退董の後を受け、天の橋立で有名な宮津の智源寺に転住する。

智源寺は寛永2年(1625)、初代宮津藩主、京極高広が母親の菩提を弔うために建立した寺で、寺号はその母の戒名「惣寺院殿松渓智源大禅定尼」から「智源寺」としたと言われる。

 

この智源寺の晋山大内青巒居士より賀偈が贈られている。


沙白松青水接天。 沙白く松青く、水、天に接す。
天橋一道到那辺。 天橋の一道、那辺にか到る。
智源今暁扁舟裏。 智源今暁、扁舟のうち。
残月半輪載得旋。 残月半輪、載(の)せ得てかえる。
「秦慧昭禪師傳」より 

 

大正9年(1920)1月9日 59歳
神戸の福昌寺の転住辞令を受ける。

福昌寺は延喜山福昌寺で通称「般若林」と言われていた。

覚巖実明の開創でこの叢林から多くの竜象を輩出した。

 

同日、福昌寺(般若林)が怪火にて炎上する。


同年4月に晋山するも、同寺の再建に十年を要す。

 

福昌寺は現在は延喜山 般若林 八王寺と寺号を変更しています。

(参考)八王寺 Wikipedia

 

 

苦行釋尊賛-秦慧昭(東川寺所蔵)
苦行釋尊賛-秦慧昭(東川寺所蔵)

 

大正12年(1923)5月 62歳
福昌寺再建のため先ず本堂建立に着手し、本尊仏を新彫勧請し、本堂は未完成であったが、永平寺北野元峰禅師を拝請して、開眼供養と入仏授戒会を厳修する。

 

大正13年(1924) 63歳
永平寺監院の要請を受けるも辞退する。永平寺顧問に任ぜられる。

この頃、福昌寺は大庫裡、観音堂、開山堂、鐘楼堂が竣工する。 


大正14年(1925) 64歳
永平寺の特許にて神戸禅道場を興す。

 

 大正15年(1926)(1月1日-12月25日)
 昭和元年(1926)(12月25日-12月31日)

 

昭和3年(1928) 67歳 福昌寺は指定専門僧堂となる。

この年、北野元峰禅師の隨行長を拝命する。

 

昭和4年(1929) 68歳 富士山に登山、山頂を極めて無事下山する。

 

 富士山 昭和五年 般若林百不能   (東川寺所蔵)
 富士山 昭和五年 般若林百不能   (東川寺所蔵)

 

昭和8年(1933)10月22日 72歳 永平寺東京別院での北野元峰禅師密葬秉炬師をつとめる。


昭和8年(1933)12月6日 72歳
永平寺六十八世貫首選挙に当選する。
同年12月23日、大規正信禅師」を勅賜される。

 

秦慧昭禅師 自筆署名入り写真(東川寺所蔵)
秦慧昭禅師 自筆署名入り写真(東川寺所蔵)
 白雲青山古佛鄕-永平慧昭(東川寺所蔵)
 白雲青山古佛鄕-永平慧昭(東川寺所蔵)


昭和9年(1934)2月21日 73歳
曹洞宗管長に就任する。

 

(この頃より曹洞宗管長制度と両本山貫首制度が著しく変動することになる。)

 

昭和9年(1934)9月27日
祖山に「一葉会」が設けられ、十方信心の淨財を募り「一葉観音」建立するため、建設予定地愛宕公園にて地鎮祭を不老閣御親修の下、厳修する。 

 

昭和10年(1935)2月5日 74歳

「永平寺大観」再版発行され、秦慧昭禅師、巻頭書を寄せる。

 

永平寺大観・再版(東川寺蔵書)
永平寺大観・再版(東川寺蔵書)
  永平寺大観・秦慧昭禅師・巻頭書
  永平寺大観・秦慧昭禅師・巻頭書

 

昭和10年(1935)4月1日

永平寺貫首・大規正信禪師 秦慧昭述「佛戒大意」を鴻盟社より発行する。

 

「佛戒大意」秦慧昭 述(東川寺蔵書)
「佛戒大意」秦慧昭 述(東川寺蔵書)
  玉轉珠回-永平慧昭「佛戒大意」より
  玉轉珠回-永平慧昭「佛戒大意」より

「佛戒大意」
緒言
禪戒鈔に曰く「戒とは制止なり、對治なり。制止と云うは、釋迦牟尼佛、始て菩提樹下に坐し、無上正覚を成じ終て、戒を結し玉うを制止と名く。我與大地有情同時成道と制止するなり。故に佛戒と云う。」とあり。
高祖大師は「眼横鼻直」と制止し、太祖大師は「平常心」と制止し、或は「人天眼目」と制止し、「嗣續慧命」と制止したまえる皆佛戒なり。
我宗の十六條戒、傳来かくの如し。
所謂制止は制限定止なり。
大、方所を絶し、細、無間に入るの義なり。
一切衆生佛性の悉有を制限定止するものか。
この制止を信ずる、之を発菩提心と名く。
此発心則ち受戒の根本なり。
故に受戒者は一得永不失のみならず、一得百千得、功徳増長、不可思議なり。
四弘の願輪に乗ずる応世利益の実現は、此の受戒に因るのみと信ず。
參究して捨父逃逝を返照すべし。
受戒して自家の寶蔵を打開すべし。
欣(よろこ)ぶらくは各各大富長者の嗣續者たることを自證三昧せん歟。
拙納不思議縁に催されて数々授戒に臨む。
切に求むる者ありて、此の饒舌を作す。
唯是れ入戒者の枝折とするのみ。
希くは同學の宗師、指點に吝(やぶさか)なること莫れと云爾。
 昭和十亥歳三月上澣。
   永平六十八世慧昭野衲

 

山高豈礙白雲飛-永平七十五翁慧昭(東川寺所蔵)
山高豈礙白雲飛-永平七十五翁慧昭(東川寺所蔵)

 

昭和11年7月4日より8日 山頭火(種田耕畝)永平寺に参籠する。

 

昭和13年3月

 

管長告論
 夫れ利生報恩は高祖承陽大師の垂訓にして平常心是道は太祖常済大師の慈誨なり之を修證して受用不尽なるは本宗正傳の妙旨にして生佛一如の現成たり
惟うに帝国は夙に東亜の安泰を望み日支両国相提携し世界平和の根基を確立せんと欲し深く戦禍の拡大を戒めて速かに文化の紹復を図れり是れ今次聖戦の職由する所にして終始一貫の國是なり本宗亦皇国の大方針に依準して皇軍の武運長久を祝祷すると共に戦死将兵の英魂を弔慰し廣く怨親を資助し国威の宣揚に努めたり
 斯の如きは固より陛下の稜威に頼ると雖も抑も亦忠勇なる我将兵の奮闘に非ざれば奚く能く此に至らんや況んや至仁至聖なる叡旨は即ち佛陀折伏の一門を開きて降魔の利劔を揮わしむるの大慈悲心と其の揆を一にし洵に日本佛教の光輝□皇護国の闡發したるものとして国民の最も感激する所なり
 加之今次政府は国民精神総動員を強調すると共に更に内外に重大声明を発して国是不退轉の決意を明にし国民に堅忍持久を昂揚せらる冀くは闊宗の道俗深く此の旨を体得し以て尽忠報国の行持を行取し滅私奉公の常心を把持し宜しく銃後国民の本分に淬勵せんことを

 

戦死将兵追悼法語  
       不老閣猊下
参加聖戦致斯躬。難局打開斐卓功。
天眼爛乎長電睨。整然和気溢洋東。

 

祖山から應召出征の多数の道友諸兄は、今、北支、南支でそれぞれ活躍中である。
戦陣の寸暇を割いて祖山なつかしの情を縷々と綴った消息文を頻々と本誌編輯部へ寄せて下さる、実に感激に堪えない。更に戦地に在って本誌を手にして喜んで貰えることも編輯子にとっては嬉しさの限り、遥かに諸兄の御健闘をお祈りしてやまぬ。
 昭和十三年「傘松」三月號より

 

昭和14年(1939)5月23日

「永平寺真景」著作兼発行者・永平寺を再版発行。

 

永平寺真景
 題永平寺 監院 熊澤泰禪
高低遠近幾崢嶸 古殿深沈鎮梵城
偃月橋邉碧潭淨 玲瓏巌上白雲横
谿聲自説禪心冷 山色常標道骨清
七百年來香火處 紅塵不到愜幽情

永平寺真景-昭和14年発行①(東川寺蔵書)
永平寺真景-昭和14年発行①(東川寺蔵書)
大本山永平寺全図-昭和14年・永平寺真景より
大本山永平寺全図-昭和14年・永平寺真景より

 

昭和14年(1939)8月1日

「永平寺真景」著作兼発行者・永平寺を再版発行。

 

永平寺真景
 題永平寺 監院 金山活牛
石氣杉嵐塵累消 參差臺殿倚岩嶤
深林暁坐孤雲閣 幽谷宵遇偃月橋
正法眼藏無隠汝 身心學道不容驕
何人相續永平旨 後七百年天地遙 

永平寺真景-昭和14年発行②(東川寺蔵書)
永平寺真景-昭和14年発行②(東川寺蔵書)
曹洞宗大本山永平寺全圖-昭和14年12月10日発行(東川寺所蔵)
曹洞宗大本山永平寺全圖-昭和14年12月10日発行(東川寺所蔵)
永平昭老衲(東川寺所蔵)
永平昭老衲(東川寺所蔵)

従容録
 第一則世尊陞座
  頌云
   一段眞風見也麼
   綿綿化母理機梭
   織成古錦含春象
   無奈東君漏泄何


曹洞宗大本山永平寺全圖-昭和15年1月15日発行(東川寺所蔵)
曹洞宗大本山永平寺全圖-昭和15年1月15日発行(東川寺所蔵)

 

昭和15年(1940)1月6日
文化映画「道場・永平寺」完成
文化記録映画「道場・永平寺」は同盟通信社が永平寺の許可を得、昭和14年秋10月より撮影隊(監督・佐谷戸常雄、脚本・北林道沖、演出・松本酉三、撮影・遠藤貞介)が上山し、約1ヶ月間撮影し、後編集したもの。
この映画は文部省で認定され文部省推薦映画として全国で上映予定。(配給は東宝映画会社で封切は6月頃)

 

昭和15年(1940) 79歳
北海道各地を巡錫し、授戒会、法脈会等を御親修。

 

昭和15年(1940)8月 79歳
皇紀二千六百年を記念し「承陽大師御画傳」(伊藤龍涯・画、高橋竹迷・文)折り本を作成。

秦慧昭禅師、裏に記念書を寄せる。

 

ちなみに昭和15年に皇紀2600年として全国各地で様々な記念事業が催された。

 

承陽大師御画傳・折り本表紙(東川寺所蔵)
承陽大師御画傳・折り本表紙(東川寺所蔵)
  承陽大師御画傳・折り本1~2頁
  承陽大師御画傳・折り本1~2頁
  承陽大師御画傳・秦慧昭禅師書 (折り本裏)
  承陽大師御画傳・秦慧昭禅師書 (折り本裏)

 

 

昭和15年(1940) 9月29日 79歳
皇紀二千六百年を記念し福井県曹洞宗寺院により、木ノ芽峠祖蹟が改修され、御征忌正当法要後、秦慧昭禅師を拝請して、落成法要を厳修する。

 

昭和16年(1941)3月31日 80歳
宗制の変更により、永平寺を退董し、初代専任曹洞宗管長に就任する。 

 

秦慧昭禅師・八十(東川寺所蔵)
秦慧昭禅師・八十(東川寺所蔵)

 

昭和16年(1941)11月11日 80歳
鈴木天山禅師の荼毘式の秉炬師を勤める。

 

昭和16年(1941)12月8日 日米開戦(真珠湾攻撃)


昭和17年(1942)4月18日 81歳
名古屋市長福寺の戒会終わって発病。
同年5月25日、東京牛込田中寺に入られる。


昭和18年(1943) 82歳
 牛込田中寺の老梅室にて病気療養される。

 


昭和19年(1944)1月19日
田中寺にて遷化される、世壽八十三歳。

21日、密葬。


同年3月5日
 永平寺東京出張所(長谷寺)にて宗葬・本葬。(荼毘式)
  秉炬師 高階瓏仙曹洞宗管長
  奠湯師 福井天章
  奠茶師 鏡島宗純
  大夜師 孤峰智燦
  小参師 青山物外
  掛真師 丘 球学
  鎖龕師 金山活牛
  移龕師 長谷川孝善
  入龕師 谷口虎山


 遺偈 

「発心修証 好日好時 来去有路 現処忘知」

 



 

大規正信禅師本葬香語 (高階瓏仙曹洞宗管長

 

全提す八十有三春。好日好時来去親し。
三昧の火中林影を隔つ。儼然たり清淨法王の身。
恭しく惟れば、新般涅槃勅賜大規正信禅師曹洞宗管長黙道慧昭大和尚 品位
正信もと穩密。大規自ずから純真。
乃ち知る。
没量の大心。耕し来る般若林中の花千種。
随類の妙用。余し得たり長松枝上の月一輪。
正に好し。
拈槌堅払。衲僧の旧窠を脱却す。
接物利生。先聖の途轍に堕せず。
猶見る。
七年賜紫本山の尊に住し。
三度守玄管長の貴に就く。
直に是れ。
疾を毘耶城頭に示し。黙は雷の如くの道履。
教を田中寺裏に垂る。慧は鏡を磨するの昭因。
何んぞ怪まん。
不老閣中の一句単伝。潤水は藍を湛えて元滾々。
老梅庵裏に万劫不滅。古巌は芳を含んで黒粼々。
即今。大規正信禅師。藕絲孔裏に身を蔵し去る。
蚊虻肩上に鞦韆を打す底。雲自水由の端的。
将に甚麼をか指陳せん。
咦。
一路東風重く暖を吹く。普陀の山色碧麟々。

 

(長谷寺に於て)
 (原漢文)「高階瓏仙香語集」より

 



秦慧昭禅師の永平寺安居への道と木の芽峠

秦慧昭禅師の永平寺安居への道と木の芽峠

 

 (明治12年(1879)1月 18歳)

永平寺に安居することになりました。
永平寺のその時の貫首は久我環溪禅師で師匠とは同参でありました。
環渓禅師がちょうど、永平寺に僧堂を開かれた時でした。
正月十六日、師匠から添書をいただいて発足いたしました。
但馬からは丹後、若狭、越前という道順であります。
雪道ですから丹後に入るとき、もう足を痛めて難渋いたしました。
(三松の医者左近氏の家で七日間逗留する。)
敦賀に一泊し、雪まじりの冷たい雨に濡れて、幼い頃から深く心に彫り込まれている木の芽峠にかかりました。
絶頂まで僅か一里半というのですが、疲労し切っている納には大変遠い。
半歩しては一喘(あえ)ぎ 、一歩しては一息、峠の辻に達したときはもうお午でありました。
ここに二軒、茶屋があって、その前に石碑が建ててある。
見るより早く、それと知って、走りより伏して拝めば、碑面にありありと、
「草の葉に 首途(かどで)せる身の木の芽山 空に路ある心地こそすれ」
の御歌が拝される。
高祖大師が永平寺御住山十年、終に重患にならせられ、人のすすめで京都にお出ましになる。
お駕籠でここをお通りになるときの御詠です。
「十年喫飯永平場。七箇月来臥病牀。討薬人間暫出嶠。如来授手見医王。」
病にお窶(やつ)れになった高祖大師の御姿がまざまざと眼に見える。
線香を焚き、経文を誦して、小半時も去ることが出来ませんでした。
茶屋に一休みせねば、どうにもならぬ気がしてまいりましたので、立ち寄って一服すると、そこに老人夫婦の旅人が休んでいて、「あんたは感心な和尚さんじゃ、わしゃ泣かされましたがな」といって話しかけられ、少しきまりが悪くなり、仏法修行は何から何まで潜行密用、人様に気づかれぬようにせぬと、未熟の間は心に濁りが出て、いけないのかな、などと思いました。(中略)
若狭の臥龍院に拝宿したり、福井で宿に泊まったり、日を重ねて漸く永平寺に到着いたしました。「秦慧昭禪師傳」より

  

このことがあって、昭和十五年九月二十九日、七十九歳で木ノ芽峠祖蹟が改修され、再び訪れた祖蹟の前で禅師御自身の手で落成法要を厳修した時の法語が下記の法語です。

 

木芽峠山上供養法語
谿聲便是廣長舌。山色豈非清浄身。余曾杖笠來禮拝。今復與衆供養伸。
好個因縁公案現成。
山高雲飜飜。獨露淨法身。谷深流滔滔。常轉説法輪。
維石非石。點頭無間斷。維木豈木。唯心脱根塵。
若見若聞。攝衆(取)永不捨。一瞻一禮。祖風終古振。
正與麼時山僧更有懐古句。
一夢秋風六十年。澗光山色両依然。賸將無限報恩涙。灑盡大師霊塔前。聻。

 

秦慧昭禪師御垂示(後日)
「もう六十年の歳月はいつしか流れ去って、当時十八歳の青小僧だった拙納もやがて八の字に手がとどこうとしている始末、烏兎匆々(うとそうそう)と申そうか、まことに過ぎ去った昔を今にして思えば『一夢秋風六十年』といった思いが深い。拙納は当日山上で『谿声便是広長舌。山色豈非清浄身。余曾杖笠来礼拝。今復与衆供養伸。』云々と頌したことであったが、六十年前に踏んだこの御旧蹟の土を、今再び踏んで供養を伸ぶることを得たは、まことに拙納が身にとっては難値難遇の好因縁であった。今回あらたに二代様と三代様の御霊塔が高祖様の脇立ちとしてたてられたことによって、この御旧蹟に一段の光彩を添え、またこのたびの供養会によって、近郷近在の人々にもこの御旧蹟の意義由来を納得させることのできたことは、高祖様の法孫たる我々にとって、まことに歓びに堪えないところである。」

「秦慧昭禪師傳」より 

 

 


 濁りなき・・・秦慧昭禅師(昭徳寺所蔵)
 濁りなき・・・秦慧昭禅師(昭徳寺所蔵)

 

濁りなき 心の水に すむ月は
 波もくだけて 光とぞなる

   承陽大師尊詠 永平慧昭敬書

 

 


秦慧昭禅師の座蒲団の提唱

秦慧昭禅師の座蒲団の提唱

 

(秦慧昭禅師は口癖のように座蒲団、ザフトンといつも言われていた。下記はその座蒲団を語った摂心の時の提唱です。)

 

「摂心とはオサメルということである。座蒲団上にオサメルのである。『対大己法』には『仏法は是れ則ち諸仏諸祖の身心なり、学せずんばあるべからず。若し学せずんば祖師の道廃(すた)れ、甘露の法滅せん』とあるように、これを学ばないと仏法はなくなってしまう。一切の所作進退はみな座蒲団にある。坐禅は悟りのためではない、坐禅は仏法である。坐禅なければ仏法なし、どうぞしっかり坐って下さい。仏法は諸仏諸祖の身心である。それを直に我々の身心としなければならぬ。全身心を自己にオサメル、これが摂心である。オサメたら拡げなければならぬ。これが行である。則ち摂心で三世十方の諸仏を坐禅にオサメ、行に拡げるのである。身心一如である。これを心得て日常の安心を求めなければならぬ。悟り悟りと別に求めないでも、この七日摂心中の心持を一生涯保ったらどんなものか。これこそ仏祖に信順した円満な形であり、少しも欠けたところのない、面目上、仏と少しも違ったところのないそのままである。座蒲団上に自己の身心を保たば、そのままが真の高祖道である。座蒲団上にオサメれば、身心が仏法である。誠に尊いことである。有難いことである。私も一週間、どうやら皆と一緒にこうして勤めることが出来そうである。仏の冥助と御加護だと悦んで貰わねばならぬ。この功徳は甚深不可思議でいいようがない。この頃、龍天様を書いてくれと頼まれ、まあ書いていますが、龍天様はあらゆる大小の天神地祇と共に、皆この修行を讚歎せられる。故に真にこの座蒲団に安住し、この三昧にみな行取するなら、自ずから天神地祇の冥護があり、身も達者で修行も次第に進むのである。鐘鳴れば法堂、梆(ほう)響けば齋堂、法堂では法堂における作法があり、齋堂では齋堂の作法というように、それぞれ作法がある。『作法是れ宗旨』である。ここに悟りがある。行うところに悟りなくして外に悟りはない。俗語に『学べば禄その内にあり』というのがあるように『行ずれば証その内にあり』である。しっかり志しを立て、菩提心をしっかり発(おこ)して、折角のこの因縁を空しくしてはなりません。座蒲団を緩めぬようにしっかりやって下さい。どうぞしっかり坐って下さい。」
「秦慧昭禪師傳」より

 

秦慧昭禅師の般若林時代、その会下単頭にあった宮崎奕保禅師は後日、「般若林時代、いつも提唱のたびごとに声を励まして『座蒲団だ、座蒲団だ』と厳しく仰言った。『ザフトン、ザフトン』と言われるのは何のことですかと参禅者の中から度々私に尋ねられるのでありましたが、修証不二の黙照禅に徹底された慧昭禅師の只管打坐の表現は唯『ザフトン』の一言に尽きるのだと言えるでしょう。私は是れを慧昭の座蒲団と提唱しています。」と語っています。

 


  永平慧昭-月辺静中見(東川寺所蔵)
  永平慧昭-月辺静中見(東川寺所蔵)
(東川寺所蔵)
(東川寺所蔵)

参考資料

「秦慧昭禪師傳」 秦慧玉編 大法輪閣・発行

「永平六十八世秦慧昭禪師傳補遺」 語録刊行会代表秦慧孝 寶昌寺・発行

「佛戒大意」 永平寺貫首・大規正信禪師 秦慧昭述 鴻盟社・発行 

「承陽大師御画傳」 著作兼発行者 高橋竹迷 大本山永平寺・発行

 


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