永平寺六十九世 鈴木天山禅師

 

永平寺六十九世 鈴木天山禅師

 

(世称)
  鈴木天山(すずき てんざん)


(道号・法諱)
  白龍天山(はくりゅう てんざん)


(禅師号)
  密傳慈性禅師
  (みつでんじしょうぜんじ)


(生誕)
  文久3年(1863)11月25日


(示寂)
  昭和16年(1941)6月11日


(世壽)
  79歳


(別号)
  観聖。六如。獨露軒。 薦福道人。

 

(特記)

  總持寺独住第十世貫首 

 宝慶寺 鈴木天山 書(東川寺所蔵)
 宝慶寺 鈴木天山 書(東川寺所蔵)

鈴木天山禅師の略歴

 

文久3年(1863)11月25日
伊勢国桑名郡伊曽島村の花井家に生まれる。


その後、5歳で生母と死別、7歳にして出家を志す。

 

慶応4年(1868)旧9月8日 1月1日に遡って明治元年(1868)とする改元の詔書が出される。 


明治9年(1876)4月8日 14歳
伊勢国鈴鹿郡庄内村原、金光寺十六世上月(佛天)禅月和尚に就いて得度する。


明治10年(1877)15歳
美濃国大垣全昌寺の不破一牛師、さらに禅幢寺の渡辺実雄師に参ず。

 

明治14年(1881)1月 19歳
金光寺の鈴木秀天師の室に入り嗣法。この時、花井姓を本師の鈴木姓に改める。
同年春、上京し、駒込の曹洞宗専門本校に入学。

次いで、麻布日ケ窪の曹洞宗大学林に進む。


明治16年(1883)4月8日 21歳
伊勢鈴鹿郡関町の弘善寺に首先住職する。翌々年、18年冬、初会修行。


明治20年(1887)12月17日 25歳
伊勢の津、四天王寺(注1)に転住する。


天山禅師の伽藍再建と僧堂開単
第一 四天王寺住職時代

 

明治二十年二十五歳の若さで推されて三重県の名刹四天王寺へ住職された。
そのころの四天王寺は荒廃の極に達していたのであるが、三十五年間在住中には伽藍はよく整備され、書院も新造され、僧堂を開單して常時二十名を下らぬ安居僧がおり、峻厳にして綿密な鉗鎚によって祖門下の名道場となっており、多くの鉄漢を打出されている。
その雲衲を率いて、諸々へ出会しておられる。


~小子(上月)照宗 謹記 「白龍天山禪師語録刊行会別冊解題」より抜粋~

 


 

古刹なれども荒廃していた四天王寺の復興に粉骨砕身し、在住三十五年間に及び、伽藍を一新する。
この間、専門史校教師、教導取締、管内教会講長、軍人布教師等を歴任。

さらに森田悟由師に随うこと、14年。 侍局長、随身長を務む。

 

この時。悟由禅師の外護の篤信者「杉浦鏡華居士」と知り合い、悟由禅師遷化後も親しくお付き合いしている。

 

明治35年(1902)「般若心経通俗談」を津市無等庵より出版する。

 

森田悟由禅師隨行日誌

 

明治39年(1906)9月5日
此の日より同年11月23日までの森田悟由禅師「越本山貫首猊下慰問追吊御親化日誌」隨行員鈴木天山録。 (1)

 

明治42年(1909)3月3日
此の日より同年6月4日までの森田悟由禅師「明治四十二年春期御親化日誌」隨行員鈴木天山録。(2)

 

明治43年(1910)2月20日
此の日より同年6月8日までの森田悟由禅師「不老閣猊下九州地方御親化日誌」隨行員鈴木天山録。 (3)

 

明治44年(1911)3月3日
此の日より同年6月4日までの森田悟由禅師「御親化日誌」、同年6月16日より11月26日まで「北海道及び樺太御巡錫日誌」隨行員鈴木天山録。(4)

 

明治45年(1912)3月10日
此の日より同年6月16日までの森田悟由禅師「春期御親化日誌」隨行員鈴木天山録。(5)

 

 明治45年(1912)(1月1日-7月30日)
 大正元年(1912)(7月30日-12月31日)

 

大正元年(1912)9月17日
此の日より同年12月7日までの森田悟由禅師「御親化日誌」隨行員鈴木天山録。(6)


大正2年(1913)3月1日
此の日より同年5月18日までの森田悟由禅師「御親化日誌」隨行員鈴木天山録。(7)

 

以上 (1) より (7) までは「永平重興大休悟由禅師広録・別冊解題」に掲載されている。 

 

大正4年(1915)2月9日 尊敬していた森田悟由禅師が永平寺東京出張所にて遷化する。 

 

大正7年(1918) 56歳
永平寺後堂に就任する。

 

大正11年(1922)夏 60歳

四天王寺を森月逸雄師に譲り、一志郡久居町の天心寺に転住する。

 

大正11年(1922)9月 60歳
越前大野郡上庄村の古刹、宝慶寺(注2)の第五十世住職となる。


宝慶寺・入口石柱(東川寺撮影)
宝慶寺・入口石柱(東川寺撮影)
宝慶寺山号額(東川寺撮影)
宝慶寺山号額(東川寺撮影)
宝慶寺山門(東川寺撮影)
宝慶寺山門(東川寺撮影)
日本曹洞第二道場・宝慶寺(東川寺撮影)
日本曹洞第二道場・宝慶寺(東川寺撮影)

天山禅師の伽藍再建と僧堂開単
第二 宝慶寺住職時代

 

大正11年夏、三十五年住職をされた四天王寺を退董されて、同年秋、曹洞宗第二の道場といわれる福井県大野の宝慶寺へ推されて晋住された。
しかし、ここもまた荒廃甚だしく、幾代かの住職が只住名を出す(名前だけの住職)という程度の状態であった。
その為、荒れるに任せていたのであったが、昭和十五年総持寺へ晋住されるまでの十九年間の住職中に、先ず庫院を総二階として改築され、さらに昭和四年には本堂を改築されている。
そしてこの間に宝慶寺専門僧堂を開單され、曹洞宗第二の道場としての法光を輝かされたのである。
  ~小子(上月)照宗 謹記 「白龍天山禪師語録刊行会別冊解題」より抜粋~

 

昭和七年初秋-当山五十世天山 (宝慶寺所蔵)1(東川寺撮影)
昭和七年初秋-当山五十世天山 (宝慶寺所蔵)1(東川寺撮影)
昭和七年初秋-当山五十世天山 (宝慶寺所蔵)2(東川寺撮影)
昭和七年初秋-当山五十世天山 (宝慶寺所蔵)2(東川寺撮影)
 宝慶天山・大正十二年春   (東川寺所蔵)
 宝慶天山・大正十二年春   (東川寺所蔵)


大正12年(1923)11月18日 61歳
永平寺監院に就任する。

 

 大正15年(1926)(1月1日-12月25日)
 昭和元年(1926)(12月25日-12月31日)

 

昭和2年(1927)2月20日 65歳

「傘松會々則」

第一條 本會ヲ傘松會ト稱シ曾テ祖山ニ安居シタル役寮衆僧及現在安居ノ役寮衆僧ヲ以テ組織シ之ヲ正會員トス(外、第十一條まで)

「本會役員及ビ評議員」

會長 鈴木天山

副會長 熊澤泰禪(外、役員、評議員)

 

昭和2年(1927)3月15日

「傘松」創刊号に鈴木天山祖山監院「傘松の餘滴(一)」を寄稿する。

(傘松第二号、「傘松の餘滴(二)」を寄稿)

 

 傘松創刊號・傘松の餘滴・祖山監院 鈴木天山
 傘松創刊號・傘松の餘滴・祖山監院 鈴木天山
 昭和二丁卯春日・天山老衲  (東川寺所蔵)
 昭和二丁卯春日・天山老衲  (東川寺所蔵)

「七仏通誡偈」
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教

 昭和二丁卯春日・天山老衲

 

昭和2年(1927)12月22日 65歳
永平寺監院を辞任する。同時に永平寺顧問に遺囑される。

 

昭和5年(1930)10月16日
神戸より長安丸にて支那天津観音寺に本山専使として出発し、北京其の他支那各地を巡錫。 


昭和7年(1932)6月 70歳
朝鮮の京城、博文寺(注3)の第一世となり、天津、北京に巡教する。

    京城 博文寺 鈴木天山 書  (東川寺所蔵)
  京城 博文寺 鈴木天山 書  (東川寺所蔵)

京城の博文寺第一世住職、鈴木天山禅師書。
「所有言説 皆是如来説」?。出典は不明。

 

博文天山老衲(東川寺所蔵)
博文天山老衲(東川寺所蔵)
(京城)春畝山博文寺・本堂・絵葉書(東川寺所蔵)
(京城)春畝山博文寺・本堂・絵葉書(東川寺所蔵)

天山禅師の伽藍再建と僧堂開単
第三 博文寺住職時代

 

当時の朝鮮総督府によって、伊藤博文公記念として建立された春畝山博文寺の初代住職として、京城へ赴かれ、晋山式(入仏式?)を営まれたのは昭和七年十月二十六日であった。
このことは伊藤公が永平寺六十四世森田悟由禪師に深く帰依しておられ、かつ天山禅師は十四年の永きにわたって悟由禅師に随侍され、伊藤公を知悉し、かつ又学徳兼備の宗師家なるが故に、特請されたことであった。
(昭和)十年七月、無投票にて曹洞宗管長に当選される迄、住持され、その綿密な家風と学徳兼備な布教によって接得され、京城を中心として官民多数の帰依を受け、多くの在家得度者を数えたのであった。
  ~小子(上月)照宗 謹記 「白龍天山禪師語録刊行会別冊解題」より抜粋~

 


昭和10年(1935)7月22日 73歳
曹洞宗宗制が更改され、曹洞宗管長に当選する。

 

曹洞宗管長・天山七十五翁(東川寺所蔵)
曹洞宗管長・天山七十五翁(東川寺所蔵)

 竹密不礙流水過
 山高豈妨白雲飛
  天山七十五翁

 

「竹密不妨流水過。山高豈礙白雲飛。」と書くべきところ、「竹密不礙流水過。山高豈妨白雲飛。」と書いてしまったので訂正している。 

 

昭和13年(1938)2月3日

國民精神總動員

 尊皇崇祖・堅忍持久・利生報恩・常心是道

「難局の突破と淨信の堅持」 発行・曹洞宗事變對處局

 

難局の突破と淨信の堅持

     曹洞宗管長 鈴木天山

兩祖大師の慈訓

我が宗門は「身心一如の行持」を宗旨と致します。身心一如の行持とは言行一致の生活を申すのであります。高祖承陽大師が「行持道環」と仰せられ、太祖常済大師が「平常心是道」と仰せられたのは、從晝至夜、寝ても覺めても、身心一如であれ、言行一致であれとの御諭(みさとし)であります。

飜つて思うに、今日、身心一如の生活を致してゐる人が果して幾人ありませうか。述べたてる人、説きたる人は、天下に満ちて居りますが、説く所を自分で親しく行つてゐる人は甚だ少い。況や御佛(みほとけ)の説(おほせ)を、説の如くに行うてゐる人に於てをやであります。佛法は如説修行であります。行持道環であります。平常心是道であります。宗門の眞面目はこヽに現成するのであります。

佛祖の照鑑を仰ぎ、現下の非常侍局を突破するに當り、我等は如何に行持を道環し、如何に平常心を把持すべきか、しばらく衲の婆説を味つて下さい。

(尊皇崇祖の本義・非常侍局と祈祷供養・五眼を淨うし五力を得・どんなことでも仕遂げる力・侍局についての正念相續・銃後の守りとその徹底) 

 難局の突破と淨信の堅持・曹洞宗管長・鈴木天山
 難局の突破と淨信の堅持・曹洞宗管長・鈴木天山

 

昭和13年(1938)7月1日

「事變一周年を迎へて」 発行・曹洞宗務院・曹洞宗事變對處局

 「事變第一周年を迎ふ吾等の覺悟」 曹洞宗管長 鈴木天山

事變一周年を迎へて 曹洞宗
事變一周年を迎へて 曹洞宗

 

昭和14年(1939)8月15日 77歳

鈴木天山述「森田悟由禪師」を道元禪師鑽仰會刊行部より発行する。

鈴木天山述・森田悟由禪師・東川寺蔵書
鈴木天山述・森田悟由禪師・東川寺蔵書

 

同年8月20日「正法眼藏辨道話講話」を著し、道元禪師鑽仰會刊行部より発行する。

 

「正法眼藏辨道話講話」・鈴木天山述①(東川寺蔵書)
「正法眼藏辨道話講話」・鈴木天山述①(東川寺蔵書)
「正法眼藏辨道話講話」・鈴木天山述②
「正法眼藏辨道話講話」・鈴木天山述②

正法眼藏辨道話講話


昭和十一年の正月、道元禅師鑽仰会が組織され、会の主催で毎年七日芝高輪の泉岳寺に於いて参禅会が催されるについて老衲に出てもらいたいということであった。
誠に時機を得た結構な企てであるので老衲もよろこんで随喜した次第である。
さて、一時間坐禅をして、一時間提唱をということであったので色々と工夫をこらし、結局この辨道話を選ぶこととした。
辨道話は御開山が宋より御帰朝後、間もなく御示し遊ばされたもので、正傳の佛法を我が国にお弘めになる深い思し召しが問答體を以て懇切に説かれてある。
其の深い思し召しを剩(あま)すところなく御傅えすることは到底筆舌のよく尽くし得るところではない。
よって一通り文字について御話したものがこれである。
初回が昭和十一年四月、終回が十二年十一月。
その大要は已に道元誌十一年五月より十三年六月に亘って連載されてある。
もとより未熟不備のもので後世に遺すに足るものではないが、有志の勧めによって今回之を一本に纏めることとなった。
これを機縁として祖道に専念しようとする鐵漢が一人でもあらわれるならば望外の幸とするところである。
 昭和十四年七月十五日
  獨露軒 鈴木天山 識

 

鈴木天山猊下小照(正法眼藏辨道話講話より)
鈴木天山猊下小照(正法眼藏辨道話講話より)

 

昭和15年(1940)7月16日 78歳
総持寺貫首(独住第十世)に就任する。


同年、9月3日 密傳慈性禅師」の勅號を賜う。

 

同年、10月初旬 持病の腎盂炎のため總持寺東京出張所を離れ、三重県天心寺にて静養する。 

 

同年、10月10日 鈴木天山述「観音経講話」を東京観音会より発行する。

 

「観音経講話」・鈴木天山述①(東川寺蔵書)
「観音経講話」・鈴木天山述①(東川寺蔵書)
「観音経講話」・鈴木天山述②
「観音経講話」・鈴木天山述②

「観音経講話」


本書は鈴木天山猊下が足掛け二年の長きに亘り、東京観音会員の為めに、老軀を推され、七十年間、身魂を刻して徹見せる法門の真髄を吐露して遺憾なき金玉の結晶とも謂うべきものである。
東京観音会は、大正十三年、彼の関東大震災を契機とし、在俗の有志相寄り発起したるものにして、観世音菩薩を信仰の中心となし、奉佛護国の精神を涵養するを以て目的とし、時に或いは有徳の師家を請じて聴聞辨道し、時に或いは各地に巡歴して古刹に参ずる等、専ら在俗相應の修行にいそしむものである。
中頃、教学界耆宿、故黄洋境野博士の会長たるに及び夙に観音経に就き連続講話を試みられしも不幸にして中途、其の遷化に遭い、遂に終講を見るに至らずして已みたるは会員の斉しく遺憾とせし所である。
然るに偶々宿縁に依り、天山猊下に拝接の機を得、懇囑するに観音経の講話を以てしたるに、法体を枉げて快諾せらるる所となり、炎暑の折、酷寒の際をも厭わせられず長期に亘りて親しく御垂示を続けられ、昨年十一月を以て魔障なく其の円成を見るに至りたるは偏に佛天加護の賜と併せて猊下御高徳の然らしむる所にして只管感激に堪えざる所である。
惟うに、猊下、五歳にして母堂を喪われ、七歳にして出家得度、十四歳の時、遙々上京せられしも、学費に乏しく、為めに市に出でては托鉢乞食の行により僅かの粥飯の料を得る等、文字通りの困苦を重ねられ尚お専念究学を怠らざりし、其の雄猛精進に対しては真に頭の垂るるを禁ずる能わざるものである。
軈(やが)て明治の巨擘(きょはく)、森田悟由禅師に師事するに及び、随従すること実に三十年、其の間、故禅師の風格に全く同化浸潤し、行、学、徳を兼備して余すなく、之ある哉、後に一世の名監院として大永平寺に在山十年。
出でては京城博文寺の第一世に住山し、其の徳望の偉烈なるは軈(やが)て盍宗一致の推すところとなり、遂に曹洞宗管長の大任に就かる。
又宣なりと謂うべきである。
猊下、七十八年、鏤骨の難行によりて徹見せられたる悟道の境涯、究学の真髄こそは実に当代に求むるも其の比を見ず、しかも火熱の信仰を内に包みて尚お凡愚をも首肯せしむる和穏の挙措に至りては洵に綿密の宗風を誇る曹洞の生ける典範にして、世人の謂いて実に佛教界最後の人なりとするも蓋し又た溢美の言に非ざるべし。
(後略)
茲に聊か本書刊行の縁起を略述し以て序文となす。
終わりに、今井爽邦氏、伊藤正雄氏、大島秀一氏、上月照宗師、高井宏道氏等の寄せられたる多大の御仁助を感謝するものである。
 皇紀二千六百年九月朔日
  芝公園三縁山山門前寓居
   編者 角田保 識す

追記
本書の校正第四校を披見中、猊下に於かせられては大本山總持寺貫首の訃報に伴い宗憲の定むるところにより同本山(獨住)第十世に御晋住遊ばされ、畏くも
勅賜 密傳慈性 禪師號を可せらる。
佛日増輝、真に慶祝に堪えたりと謂うべく、会員の歓喜如何ばかりぞ、共に倶に喜びとする。

 


 

昭和16年(1941)2月7日 79歳

密かに開かれた「三禅師会談」(於天心寺)


「曹洞宗宗制編成審議会」にて曹洞宗管長制度の問題で紛糾し、そのことに苦慮された、時の管長大森禅戒禅師は窮極の手段として、密かに三禅師会談を天心寺にて開いた。
三禅師とは、曹洞宗管長大森禅戒禅師、永平寺貫首秦慧昭禅師、それに病床にあった總持寺貫首鈴木天山禅師の三人である。
この時、總持寺貫首であった鈴木天山禅師は病体に鞭打ちながらも、宗門の問題と永平寺、總持寺との間の板挟みとなり總持寺貫首という立場上、この曹洞宗管長制度をいかにすべきかということに関し非情な苦渋の決断を迫られたであろうことは想像に難くない。「続永平寺雑考」参考

 

昭和16年(1941)5月1日 79歳
総持寺貫首鈴木天山、新宗制の規定により、四月一日を以て、永平寺六十九世貫首に就任する。

 

永平六十九世・鈴木天山禅師(觀音經講話より)
永平六十九世・鈴木天山禅師(觀音經講話より)

 

この頃の鈴木天山禅師は病床にあり


昭和16年(1941)4月24日、軽度の脳出血にてやや半身の自由を失う。
26日、持病の腎盂炎がにわかに悪化する。
30日、危篤状態に陥り、主治医は関係者への急報を側近者に促す。
新宗制により永平寺秦慧昭禅師が曹洞宗管長に就任するに従い、五月一日、總持寺貫首の鈴木天山禅師は永平寺へ転住することになる。
しかしその時、鈴木天山禅師は危篤状態にあり、当時の曹洞宗総務の谷口虎山師は急遽東京より伊勢の天心寺に馳せ参じ、永平寺貫首任命辞令を危篤の天山禅師の枕頭に拝呈した。
その後、天山禅師の病状は奇跡的に徐々に好転し、言語もかなり明瞭になり、五月中旬には看護人の介添えで静かに室内を歩くまでに回復した。
だが六月五日午後俄に高熱を出し、八日には病状は最悪状態となり、十日には絶望的な容体となる。
然し天山禅師の意識は比較的はっきりとされていて、随侍者に更衣をさせ、十一日朝「もう、あかん」の一言を最後に遷化された。

「続永平寺雑考」より

 

昭和16年(1941)6月11日
三重県久居市寺町の天心寺において鈴木天山禅師遷化する。世壽七十九歳。


同年同月13日 密葬。

 

昭和16年(1941)6月14日
鈴木天山禅師の遺骨は永平寺到着後、いったん不老閣へ安置し、その後妙高台に移された。
これが舎利に身を変えたとはいえ永平寺六十九世鈴木天山禅師の禅師としての初入山であった。


昭和16年11月11日
永平寺本葬(荼毘式)
 秉炬師 秦慧昭曹洞宗管長

 奠茶師 久我篤立(本山西堂)
 奠湯師 今井鐵城(大中寺)
 起龕師 熊澤泰禪(永建寺)
 大夜師 西野宏峰(興聖寺)
 掛真師 青山物外(正法寺)
 鎖龕師 善塔良関(東光寺)
 移龕師 嶽岡悦安(宝光寺)
 入龕師 渡辺玄宗(大乗寺)

 

 

遺偈 「隨縁赴感 千転萬回 暁風一掃 不駐塵埃」

 

尚、この年、鈴木天山著「室内三物秘辨」が道元禅師鑽仰会より出版される。

 



 

話芸の第一人者と言われた、徳川夢声氏が下記のように語ったことがある。
「生涯において自分も遠く及ばないと感じた人が唯一人ある。
それは鈴木天山師だ。
いわゆる天衣無縫の大雄弁家である。」

  ~江藤淳・随筆より~

 



鈴木天山禅師書-佛道をならふといふは・・・

鈴木天山禅師書-佛道を習う(東川寺所蔵)
鈴木天山禅師書-佛道を習う(東川寺所蔵)

 

鈴木天山書-佛道をならふといふは・・・

 

この書は鈴木天山禅師の書です。

道元禅師の「正法眼蔵・現成公案」の中にある有名な言葉です。

 

佛道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするゝなり。
自己をわするゝといふは、萬法に證せらるゝなり。
萬法に證せらるゝといふは、自己の身心およひ他己の身心をして、脱落せしむるなり。
悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。 


あまりにも有名な言葉な為、その中に「な」の一字が抜けたとしても、この言葉を知る者はそれに気付かず、そのまま読んでしまいます。
恐らく鈴木天山禅師も「な」の一字落として書いてしまったことに気付かずそのまま最後まで書いて、署名し落款を押した。

その後、気付いたのだろうけれど、「な」の字を挿入すると書全体のバランスが崩れるので、やむを得ず訂正文をしたためた。
「佛道をの下になの字を脱す、故に茲に訂正して挿入に代ゆ 天山」と。


鈴木天山禅師が座右の銘とされた言葉です。 

 

鈴木天山書-訂正文
鈴木天山書-訂正文



 

鈴木天山述「観音経講話」より(その一)

 

私共若い時に直接聞いた話で、如何にもと思ふことがある。観世音菩薩の「十方諸國土、無刹不現身」といふことに、如何にも當嵌(あてはま)ることと私は感じて居る。これも矢張り戦争に因縁がある。

明治二十七八年の日清戦役、この日清戦役の講和談判といふものは、皆さんも御承知の通り、下関に於いて、支那の方から李鴻章といふその時分の大立物、こつちからは伊藤侯爵が正使、それから陸奥宗光といふ子爵が──かみそり大臣と言はれた人ですが、この方が副使で行かれた。さうして下関で講和談判が出来たのであります。

・・・その講和談判も大体終つて、もう愈々峠も越へてしまつた。肝心の話は済んだ。

ところが或る朝、ヒヨツと朝起きて、お茶を飲み飲み伊藤公が陸奥子爵の顔を眺めて「陸奥さん、えらい顔色が悪い。もう講和談判も峠は越した。心配はない。一体どうした。」と言ふと、その時、陸奥さんが、「いや、さう看破されたら仕方がない。申し上げるが、実は私の一人娘が今か今かといふ大病でございましたが、私が家を出て来る時、今度は国家の大事のために御奉公を申し上げる。娘が死んでも言ふて来ることはならんぞ。かう言つて来ました。ところが、昨夜手紙が来た。死んだかと思つて開いて見ると、死なない、母親に向つて、お母さん、私はお父さんにどうしても聞かねばならぬから、お父さんが帰るまでは死んでも死ねない。かう言つて待つて居りますから、どうぞ用事が済みましたら、一時も早くお帰り下さい。かういふ手紙を寄越した。どうも親といふものは仕方がない。昨夜一ト晩寝られなんだ。」と言ふと、伊藤さんはあヽいふ誠に察しのよい方でありますから、「君、帰つてゆき給え、もう講和談判も肝心の話は済んだ、俺一人で結構、一時も早う帰つてゆきなさい。」かう言つて自分のことのやうにして、陸奥さんを押し出すやうに言はれた。折角の言葉に陸奥さんも、「さうか、それでは──」と言つて帰つてしまつた。

早速まア自分の家の娘の寝て居るところへ行つた。さうすると娘さんは喜んで「お父さん、よくお帰り下さいました。有難うございました。」痩せこけた手を合せて「公務多端の時、あなたにかういふことをお尋ね申すのは如何かと思ひますけれども、私の一大事でございますから、もう私はどうしても息を引き取らなければならぬが、あなたの顔を見るまでは、どうしても息を引き取ることが出来ませんので、かうして待つて居りました。お父さん、唯だ一と口でよいのでございます。私は死んだらどうなるのでござりませう。」かう言つて尋ねた。

「死んだら何所へ行くのでござりませう。」──それは私が言へばそれまでのことぢやけれども、皆さん方に今お娘なり、息子さんなりが「お父さん、私は死んだら何所へ行くのでござりませうか。」その絶体絶命の時に尋ねられたら、どんなものでござりませうか。信仰といふものは理屈では駄目でござります。

かみそり大臣と言はれた陸奥さん、公務に就いて非常に鋭い方、それがこの一問にはハタと当惑した。もう今ま眼が塞さがうといふ絶体絶命の娘が尋ねたことに、そんなことは俺は知らんと言つて振り切る訳に行かない。ところがなんとしてよいか、陸奥さん分らない。なんと言つてよいか全く行き詰つてしまつた。

フイと陸奥さん、亡くなられたお母さんことを思い出した。お母さんは平常(へいぜい)観世音菩薩の大の信仰家であつて、俺にも時々観世音菩薩の有難いことを言ふて居られた。陸奥さん自身にはその信仰はないけれども、取り敢へずお母さんがこそに現はれて出て来て勧められたのであらう。お母さんがかう言へと言はしたに違ひない。陸奥さんは取り敢へず娘さんに「心配するな、お祖母(ばあ)さんが観世音菩薩の浄土へ参つて居られる。そこへ行くより外はありません。観世音菩薩のお浄土へ参るのぢやぞよ。」

「ハイ、左様でござりますか、それぢやお父さん、あなたもおゐででございますか。」「さうぢや、俺もお前の後から行きますぞ。」「ハイ、有難うございます。」今ま死にかけて居る骨と皮の手を出して、お父さんの手を確かり握つて、「有難うございました。」と言ふと、静かに眼を塞いだ。

いかな、かみそり大臣もその時は胸をゑぐられるやうな心持ちがした。いや、信仰といふものは大したものぢや、自分も今までは理屈の上から随分宗教などはどうでもよいやうなものだといふことを言ひもするし、又たさういふ理屈でたつてきたものぢや。ところが今この切羽詰つた時に、お母さんが自分の胸に現はれて出て来て、観世音菩薩のお浄土を指し示して下さつたといふことは、全く観世音菩薩が刹として身を現ぜずといふことなし、今この娘のいまはの際に私の苦しんで居るところを見て、現はれてお救い下さつたのであらう──。「アーア忝けない。」その刹那にこの陸奥さんが真個(ほんとう)の信仰家になつてしまつた。

まア偉い人には隠れた話があります。「十方もろもろの國土、刹として身を現ぜざるは無し。」皆さん、理屈は抜きでござりますぞ、どうぞこの観世音菩薩の身業説法に依つて我等は苦しみを逃がれ、広大無辺なる観世音菩薩を信仰するの徳に依つて、明るい日を送りたいものであります。・・・

(鈴木天山述「観音経講話」488~495頁より)

 


 

鈴木天山述「観音経講話」より(その二)

 

・・・明治三十三年でありましたが、本山から行つて来いと言はれて、北海道を一巡したことがありました。・・・

天塩の国へ行きました時分に、天塩の向ふに天売、焼尻と云ふ小さい島が二つあります。天塩の本国の方で布教を済まして置いて、明日その天売と云ふ小さい島へ渡らなければならぬ、その島で布教をすると云ふことになつて居つて便船を待つたのでございます。薪船とか、こつちから食糧を運ぶ船とか、さう云ふ小船の便船を待つて大抵行くことになつて居ります。海上三里でございますから直ぐ近く見えて居ります。それで天塩の方の布教は午後の四時頃終つてしまいました。

「どうです、明日の便船を待つてもあるかないか分かりませぬが、今晩ならば向ふの島へ渡る船がありますが、如何(いかが)でござりますか。」、「さうか、それは幸ひだ、それを一つ頼む。」と言つて、夕飯を折に入れて貰つて、向ふへ行つて寝かして貰ふばかりにしてその船に乗り込んだ。「サア、これでござります。お乗りなさい。」と言はれたが、成程、ホンに薪を一杯積んで居りまして船舷(ふなばた)ぎりぎりに船は水に沈んで居ります。「ハハア、これで行くのかな」と、思つて──「船頭さん、大丈夫ですか。」、「ヘエー、大丈夫、一と走りだ、八時過ぎには向ふへ着きます。」、「それはまア有難い。」それからその船に乗つた。私と私に随いて居つて呉れた若い僧侶と二人だけ、外に客と云ふものはありませぬから、たつた二人だけだ、それに船頭が三人乗つて居ります。

それで愈々乗つてしまつたが、一点の雲もなく晴れ切つて居つて、お月さんも皎々と輝やいてゐる。「ハハア、これは気色のよいことだ」と思って、船の中から見て居りますと、島の方へ吹いて行く風でありますから、波はなし、ズンズン行く。

これは有難い、この調子なら直に着いてしまふ。かう思つて居たのですが、海の中と云ふものは何ん時どんな風を持つて来るか分からぬ、そのうちソロソロ雲りかけて来て、お月さんも影を隠してしまつて風向きも一寸変つて来た。

「これは大変なことになつて来たわい」と思ふと、その船は薪を一杯積んで居るものぢやから、一寸揺れると水が中に入る。三人居る船頭の一人は一生懸命に漕いで居る。一人は舵を取つてやつて居る。一人は一生懸命に入つて来る水をかい出して居る。

「これは大変なことをやるな」と思つて見て居りましたが、まアこんなことを見て居つてもしようがない。なアに、大丈夫だ。船位ひにやられるものぢやない。御開山様も支那へお出でになつた帰り道に難船でお出会ひになさつて、觀世音菩薩がお助けになつたと云ふことがあるから大丈夫だ、暫らく寝かして貰はうと、薪の間に入つて居眠りをして居つた。そのうちに船頭がドボドボと折角、山のやうに摘んで来た薪を放うつてゐる。──「ヘエー、薪を放るのか。」、「これではとてもどうもなりませぬ。それに舵を折つてしまひました。櫓も流してしまひました。」と言ふ。

かうした船で舵を取られてしまつたら、波の間に間に流されるよりしようがない。舵一本あるから船は確かりして居るが、舵を取られてしまつたら、波に翻弄されるより外はない。そこへ櫓を流してしまつたと云ふからには、なんともしようがない。風の吹くに委せ、波の持つて行くのに委して居る。それから衲(わし)は考へた。

「船頭さん、一体これはどうするんだい。」

「どうも仕方がございませぬ。まア運を天に委せるよりしようがござりませぬ。私共の考へでは、こヽは函館から出た船が北見へ通ふ航路でございますから、私共の小さな船は燈(あかり)もつけて居らぬのだから、その汽船がこの船に乗り上げたらそれぎりだと思ひます。どうもはや困つたものですわい。」

「さうか、それは大変だが、放つて置く積りか。」

「それは、放つて置くよりしようがない。」

「それではよしよし衲はお前方が見て呉れる通り坊さんだ、お経を誦むことは知つて居る、お前方も櫓を取られてしまつた、舵も取られてしまつたと云ふなら、まア水の入らぬやうにかい出して呉れ。」と言ふうちにもう水は勝手に入つてくる。三人の船頭さんは水をかい出すのが仕事になつて来た。

「これはまアとても不可(いか)ん。」

それから観音経一巻、その時こそ真に──平常にも真にと言ひたいが、その時こそ一生懸命、全く我れを忘れてしまつたと云ふのはこの時だつた。今でもそれを思い出すと寒毛卓立するほどである。全く一生懸命になつた。そのうち疲れて眠気がさして来た。それで船の隅でウトウトして居つた。

さうしてゐる中にもう空が明るくなつて夜があけて来た。さうすると「ワーツ」と言ふ声がする。それが夢ともなく、現(うつ)つともなく、ボンヤリと救ひ船が来たと思つて居ると、それが全く救ひ船で、三艘ばかりやつて来た。

「サア、これを引ツ張れ、これを引ツ張れ」と言つて居る。どう云ふ風にしてこれを連れて行くかと見て居ると、向ふから来た船がこつちに綱を渡す、その綱にみな錨がついて居ります。その綱を引張つて進む。櫓もない船でありますから、それよりしようがない。向ふからドブンと錨をつけた綱を放つて寄越して、さうしてだんだん天売島の方へ寄つてとうとうまア無事に向ふの岸へ上がりました。──衲はその時に言ひました。

「船頭さん、難儀だつたな。」

「ヘエー、私共はまアこういふことは商売ですから仕方がないが、あんたはどうでした。」

「衲はもうしようがないから、観世音菩薩のお頼みして寝(やす)ませて貰うた。」

「寝(やす)ませて貰うたと言つて、どうしたのです。」

「居眠りして居つたらトウトウ寝てしまつた。」

「ヘエー、それならもつと早う聞かせて下さつたら、かう心配しなかつた。」

「それは何故(なぜ)だ。」と言ふたら、どんな難船でも、そのお客の中に一人でもグーと寝てゐる人があつたら、その船は沈まぬと云ふ。

これは海を住ひ場所にして居る船頭さんが経験の上から言ふことだから、さうかも知れませぬ。──衲が「居眠りしてから寝(やす)ませて貰ひました。」と、言ふたら、「ヘエー、もつとそれを早う聞かして貰つたら、かうは心配しませぬ、どうぞあんた方に助かつて貰ひたいと一生懸命に心配しましたが、あんたが寝られる程のことであつたら、もう一寸早く聞かして貰ふとこんなに心配はしませんでしたのに。」

かう言つて船頭さんが非常に喜んで呉れた話がある。それは明治三十三年の話しであります。これは私が事実出遭ふた話しです。こんな有難いことは生涯に余り余計ありませぬ。全くこれは観世音菩薩の威神力に由つたのでありませう。「即ち浅き處を得ん」

とうとう目的の島についた。その代り時間は掛りました。三時間位ひで行ける所を夜の七時に乗り込んで朝の八時頃でしたらう。向ふへ着いたのは──

それで矢張り決つてゐることでありまして已むを得ない、少々疲れたと思つたこれど、布教して廻つたことがありました。かう云ふことは真に助けられた人でなければ分りませぬ。

(鈴木天山述「観音経講話」140~150頁より)

 



(注1)

四天王寺 

曹洞宗の寺院で、山号は塔世山。
三重県津市栄町1丁目にある。
聖徳太子の創建と伝えられ、本尊は薬師如来。
藤原景通、景清が伽藍を修補したが、永禄8年(1565)兵火で焼失。
織田信長の帰依によって堂宇を再建したが、石田三成の乱で再び焼失した。
現在の堂宇は藤堂高虎、高次の修築といわれ、中興開山を正海慈孝とする。
千年以上の歴史を誇る古刹で、境内には元文2年(1737)に建てられた芭蕉文塚や、織田信長の生母・花屋寿栄禅尼の墓などがある。

(禅学大辞典・参考)

 

(紹介)四天王寺ホームページ 


(注2)

宝慶寺

曹洞宗の寺院で、山号は鷹福山。
福井県大野市宝慶寺笠松にある。
弘長元年(1261)下野守知円沙弥の開基に係わり、寂円を開山とする。
旧領は知円沙弥の寄付500石あったが、天正年間中(1573~1591)に減禄され、のち織田100石、明智、豊臣、滝川等各々50石を寄付した。
大本山永平寺の門首中の上位にあり、道元や如浄、雲居道膺、寂円の頂相をはじめ、多数の古文書を蔵している。

(禅学大辞典・参考)

 

(紹介)薦福山宝慶寺 

            宝慶寺homepage 


(注3)

博文寺

春畝山(しゅぽざん)博文寺(はくぶんじ)
朝鮮の京畿道京城府に存在した曹洞宗の寺院。
1932年(昭和7年)10月26日に建立された。
寺院名の由来は伊藤博文で、安重根に射殺された伊藤博文の菩提を弔うべく建立された。
山号の春畝山も伊藤博文の雅号「春畝」によるもの。
韓国独立後、博文寺は破却され、一時期、韓国の迎賓館となり、現在その跡地は新羅ホテルとなっている。

 



白龍天山禪師語録

「白龍天山禪師語録」(東川寺蔵書)
「白龍天山禪師語録」(東川寺蔵書)
  白龍天山禪師語録刊行会別冊解題
  白龍天山禪師語録刊行会別冊解題

白龍天山禪師語録
(第一巻、第二巻、第三巻、第四巻)

この度、不老閣猊下(丹羽廉芳禅師)格別のご慈慮を蒙り、勅賜密傳慈性禅師本山六十九世白龍天山禅師五十回忌の辰を迎えるに当り、その語録を再版し報恩の微意を果しうるの勝縁を得たことは、法系の末尾に名を列ね、かつ猊下ご晩年の九年間を最後まで随侍致した拙納にとっては無上の法幸であり、感激これに過ぎたるはない。
天山禅師は美濃の国全昌寺の不破一牛師また同国禅昌寺の渡辺實雄師に随身、その鉗鎚を受け、四十一歳よりは本山六十四世森田悟由禅師の侍局の一員として随身すること十四年、悟由禅師の薫陶を受けられた。
その家風は、綿密厳格枯淡、法に生き、法に死す底の生涯を貫かれた宗師家であられる。
世壽七十九歳にてご遷化なさるまでには数多くのご講演ご著述、また十六年四月二十三日までのご自筆の日誌等がある。
この語録は「風月集」と名付けられた、猊下(天山禅師)ご自筆の詩偈集(十二冊)があり、その中より抄出された詩偈である。
この十二冊本は皆猊下(天山禅師)が古紙あるいは便箋の表裏紙等用いられ、ご自身で紙縒りなどで綴じてお作りなられたものである。
拙納は昭和十六年六月猊下ご遷化後、何とか語録の刊行を致したく念願し、猊下(天山禅師)の信徒の方々の厚いご協力を得て淨財を募り、昭和十七年十二冊の「風月集」ならびにその経費を高橋竹迷師にお渡しいたし、その刊行を依頼し、昭和十八年応召、二十一年ようやくにして帰還したのであった。
しかるに戦時下にて紙用紙統制のため、依頼した語録の刊行を果し得ざりしことを竹迷師より伺ったことであった。
戦後やや落ち着いたところで、(中略)「風月集」より抄した詩偈を随徒が手分けして書写し、石橋(真栄)師がご苦労の末その編纂を完了。
孔版印刷を津市山田正三氏に依頼し「白龍天山禪師語録」(上下二巻)として刊行を見るに至ったのは、(天山禅師)ご遷化後十九年を経た昭和三十五年六月であった。
歳を経、今年天山禅師五十回忌の辰にあたり、この昭和三十五年刊行本を底本として刊行致す運びとなったのである。(中略)
ここに関係各位のお骨折りに対し深く謝意を表し謹んで序に代えるものである。
 平成二年春日
  大本山永平寺監院 上月照宗

 

(尚、「白龍天山禪師語録刊行会 別冊解題」一冊283頁が同時に発行された。)

 

  平成二年九月二十日
   大本山永平寺蔵版
    編者 大本山永平寺内 白龍天山禪師語録刊行会
    発行 大本山永平寺

 

(尚、本文中、天山禅師を猊下と呼称されている為、丹羽廉芳禅師不老閣猊下との混同を避けるため(天山禅師)を挿入した。)

 



参考資料

「白龍天山禪師語録」 白龍天山禪師語録刊行会編 大本山永平寺・発行

「白龍天山禪師語録刊行会 別冊解題」 大本山永平寺・発行 

「観音経講話」 鈴木天山述 東京観音会・発行

「森田悟由禅師」 鈴木天山述 道元禪師鑽仰會刊行部・発行 

「正法眼藏辨道話講話」 鈴木天山著 道元禪師鑽仰會刊行部・発行 

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