永平寺七十世 大森禅戒禅師

 

永平寺七十世 大森禅戒禅師

 

(世称)
  大森禅戒(おおもり ぜんかい)


(道号・法諱)
  活龍禪戒(かつりゅう ぜんかい)


(禅師号)
  無し


(生誕)
  明治4年(1871)7月14日


(示寂)
  昭和22年(1947)2月4日


(世壽)
  77歳

 

(特記)

  總持寺独住第十一世貫首

  駒沢大学学長 

無一物・・・(東川寺所蔵)
無一物・・・(東川寺所蔵)

大森禅戒禅師の書

 

無一物中無尽蔵 有花有月有楼台」(東披禅喜集)

  有富山(慈照寺)禅戒書 

 

大森禅戒禅師の略歴

 

明治4年(1871)7月14日
福井県坂井郡丸岡猪爪二号十一番地の八木惣八の二男として誕生。

 

「私たちの一家は、その頃はひどい貧乏暮らしで、町はずれのささやかな家に住み、父は行商を生業としておりました。
家が貧しい上に長男の私を頭に男二人、女三人、都合五人の子供が次つぎに生まれましたので、暮らし向きは一段と窮屈となり、窮余の策として、一人でも寺へ貰ってもらえるならば、それだけ口減らしになって家は助かる、というような親たちの考えから、、兄弟のうちでは子供のときから一番利発そうだった直ぐ下の弟を、寺の小僧にやることになったような次第でありました。
長男の私も、寺の小僧にやられるまでの弟も、煎餅や餅を背負って、村から村へと親たちを助けて行商に歩いたものです。
当時すでに小学校に類するものはあったのですが、なにしろ家が貧しかったので、弟も寺へやられるまでは学校へも満足に行くことができず、従って字を覚えることも出来ないような有様でした。」


~八木継太郎氏談話~(八木継太郎氏は大森禪戒禅師の兄「続永平寺雑考」より

 

明治18年(1885)4月8日 15歳
松岡町台雲寺、大森董戒(臥雲童龍の弟子)を師に得度し、名を「禅戒」と改める。


明治22年(1889) 19歳
永平寺専門支校(永平寺地藏院付属)を了えて、上京し東京中学林に、明治24年春から25年夏まで在学。
同年8月、曹洞宗大学林に入る。


明治29年(1896)7月 26歳
曹洞宗大学林を抜群の成績により、首席で卒業する。


同年8月、台雲寺大森董戒の室に入り嗣法。此の時、和尚の養子となって「八木」の姓を「大森」に改める。


同年9月から向こう4年間を期して、宗門内地留学生に選ばれ、比叡山天台宗大学、真宗本派大学、真言宗高野山大学、奈良東大寺勧学院等において華天密の教学を修める。


明治33年(1900)8月14日 30歳
曹洞宗大学林の教授兼学監に就任する。


明治37年(1904)2月 34歳
2月より、向こう7年間、宗門より欧米(海外)留学を命ぜられ、留学の途に就く。

 

当時の大森教授は大いに宗門から期待され、将来有望な逸材であったため、この長期の留学は破格の待遇であった。

 

始め渡米し、ウエストバージニア州立大学に学ぶこと2年にして渡英、オックスフォード大学で2年、さらにドイツライブチヒ大学で3年、宗教制度、比較宗教学、及び宗教哲学を専攻するかたわら社会事業を視察、帰国の途中、インド仏跡を巡拝。

 

この大森禅戒留学の時の「航海日記」(明治三十七年)、「米国だより一、二、三、四」(明治三十七、三十八年)が禅文化研究所編集発行の「禅僧留学事始」に掲載されている。

 

明治44年(1911)8月、帰国。

明治45年(1912) 42歳
山梨慈照寺特撰住職。

 

(参考)慈照寺(甲斐市)Wikipedia 

 

 明治45年(1912)(1月1日-7月30日)
 大正元年(1912)(7月30日-12月31日)
 


大正1年(1912)11月 42歳
曹洞宗大学林の教授兼学監に再び就任する。

 

大正2年(1913)それまで麻布日ケ窪にあった「曹洞宗大学」を現在の世田谷区駒沢(旧東京府荏原郡駒澤村)の地に移転する。


大正9年(1920)2月28日 50歳
曹洞宗大学林学監を辞す。

 

大正9年7月 50歳
欧米各国の宗教教育視察の為、二ケ年間遊学する。 

 

大正11年(1922)7月19日 52歳
大学林学監の時、行者をしていた山梨清光寺住職の高橋竹迷(定坦)と(長沢)キミとの仏前結婚式の式師を勤める。

 

大正14年(1925)大学令による大学として認可、「曹洞宗大学」を「駒澤大学」と改称する。 

 

 大正15年(1926)(1月1日-12月25日)
 昭和元年(1926)(12月25日-12月31日) 


昭和4年(1929)8月 59歳
曹洞宗管長代理として再び渡米、在留同胞慰問の任を果たす。

同年12月7日 太洋丸にて無事帰朝する。

 

昭和6年(1931)5月23日より5日間

富山市五番町、光厳寺にて開催の「梵語講習会」の講師となる。(講本二十銭)


昭和9年(1934)2月1日 64歳
忽滑谷快天氏の逝去の後を受けて、駒澤大学の学長に就任する。

 

この間、大森学長は大講堂の新築など、いまだ完成途上の駒沢大學の整備に尽力する。

 

(紹介)駒澤大学沿革 

 

昭和11年(1936)10月14日
大森禪戒學長は駒澤大學新聞・第三十六號に下記のように寄稿している。

 

開校記念日に當り
 學生諸君に與ふ  學長 大森禪戒

 

天高く馬肥ゆる秋晴れの此日、我が學園が開校記念の祝典を迎えたことは我等の喜びに堪えざる所である。
殊に本年は久しき懸案であった大講堂も着々として工事進捗し現今見るが如き新装を成し得たので一入この感を深くする。
目前の工事に於ても見られるように総て事は衆縁和合によって初めて成就せられるのである。
大學精神も亦教職員と學生とが渾然一体となって和衷協同するならば必ずや多大なる實果を収め得るのである。
大講堂はこの偉大なる精神的結實を生む根本道場であらねばならない。
思うに事の成るは決して日に成るのではない。
必ず縁つて来る所がなければならない。
我が學園も昇格以来既に拾有一年を経過している。
過去の十年は準備期である。
この期間に下された種をして愈々花をさかせ實を結ばしめなければならぬ。
それには日光や水分は固より幾多の手入れを必要とする。
一言以て是を掩えば大學精神は諸君の不退轉なる精神力によってのみ育成せられるのである。
常に純真なる青年の意氣を以て協力一致し相互に努力策勵(さくれい)し正念持続を意とせよ

右の精神は直ちに是れ禪であり三昧である。
三昧は心一境相と言われているように一事に専念するにある。
而もそれをして妄行たらしめざる為には確固たる指導原理を必要とする。
學門は要するにそれを教えるのである。
智は高遠なる理想を樹立し、行はそれを現実化する道である。
智目行足行解相應であらねばならない。
かくせばあらゆるものが道ならざるはない。
古人は竹の聲にも道を悟り、桃の花にも心を明めた。
佛心は決して高きにあるのではない。
道は却って近きにある。
それを我々の生活全体に生かさねばならない。
道は如何に高速であっても是を行によって生かさなければ何の意義もないであろう。
則ち人格に具現することを必要とする。
思うに真に知るということは成るということである。
我が學園は一面我々の生活を指導する根本原理を究めると共に他面是を具現し得る底の人物を作る所に重大使命が存する。
我々はこの意義ある記念日に當り、過去の輝かしき歴史を顧みると共に将来に対する活動に備えたいと思う。

  駒澤大學新聞・第三十六號より

 

 

昭和12年(1937)3月15日 67歳
駒澤大學長・大森禅戒、神保如天著「従容録通解 増訂版」(森江書店・発行)に序文を載せる。

 

昭和12年(1937)5月6日 67歳
駒澤大学の学長を辞任する。


同年6月9日、駒澤大学名誉学長に推される。

 

大森禅戒・駒澤大学長

 

昭和9年2月1日、大森禅戒氏は忽滑谷快天氏の後任として駒澤大学の学長に就任した。
大森禅戒氏は人徳高く、大学の空気を明朗に転換された。
又、学生に対して親切で、頗る人気があった。
昭和12年5月6日、大森禅戒学長は突然辞任し、学監・立花俊道氏が学長に就任した。
この大森禅戒学長の辞任は、同年4月中旬に行われた大講堂落成式の際、本山専使の待遇に手落ちがあったと云う理由であった。
しかし学生は大森学長の徳を慕い、その留任を望んでやまなかった為、辞任理由に不満を持った学生一同は同盟休校を行うこと一週間に及んだ。
結局、教授会は大森学長を名誉学長に推し、同盟休校首脳学生を処分しないことで一応の決着をみた。
同年5月14日、駒澤大学当局はこの事件の説明書信を学生の父兄や保証人に送っている。
この大森学長突然辞任事件の裏には、設立者の曹洞宗、責任者の宗務院と大学の自治問題が隠されていたようある。

 

~「駒澤大學八十年史」参考 ~ 

吉祥陀羅尼-大森禪戒(東川寺所蔵)
吉祥陀羅尼-大森禪戒(東川寺所蔵)

 

駒沢大学学長辞任の後は自坊(山梨・慈照寺)に帰り、念願の悉檀(梵語)辞書編纂へ向けて、その研究に勤しむことになる。

 

昭和13年(1938)2月19日 68歳
台湾駐屯派遣軍慰問管長代理を命ぜられる。


昭和14年(1939)春 69歳
永平寺東京出張所監院となる。

 

永平寺東京出張所監院

 

大森禪戒師は「梵語辞書」編纂に専念していたが、突然中断されることになる。
それは永平寺東京出張所監院の佐川玄彝師が辞任し、その後任として推挙されたことによる。
辞退する大森禪戒師に永平寺監院金山活牛師、永平寺顧問福山界珠師が説得に当たり、ついに重い腰を上げて永平寺東京出張所監院を受諾することになる。
昭和十四年四月十二日
永平寺に上山し、東京出張所監院就任拝登、並びに就任挨拶をする。
その時、祖山の役寮、雲衲に対し、次の言葉を述べている。
「私はこの度、東京出張所監院の職を拝し、山梨の自坊を離れて東京の出張所に詰めることとなったのであるが、実は自分には、何としてでも自分の手で完成しなければならぬ特殊な仕事があり、そのため駒沢大学からもお暇をもらって山梨の自坊の自坊へ帰り、書斎に閉じ籠って、その仕事に専念しつつあったのであるが・・・」と。
この「自分には、何としてでも自分の手で完成しなければならぬ特殊な仕事」とは前述の如く「梵語辞書」編纂のことである。

「続永平寺雑考」より


昭和15年(1940)10月4日 70歳
曹洞宗管長となる。

 

明鏡無私・洞門管長禅戒(印刷物)(東川寺所蔵)
明鏡無私・洞門管長禅戒(印刷物)(東川寺所蔵)

  

曹洞宗管長就任

 

昭和十五年七月十六日、總持寺貫首伊藤道海禅師の遷化に伴い、宗憲の定めにより、鈴木天山曹洞宗管長が總持寺独住第十世貫首へと晋山されたので、宗門は管長選挙の必要に迫られ、東京出張所監院大森禪戒師を候補者とし選挙の結果、無投票当選にて大森禪戒が同年十月四日、曹洞宗管長に就任する。
この時、大森禪戒師は固く固辞したのは云うまでもないが、宗門は又、「管長制度」の問題で大いに揺れていた時であった。
この難局に向かっての曹洞宗管長に就任には決死の覚悟が必要であった。
大森禪戒師は次の談話を残している。
「私は昨年十月四日付けを以て文部大臣から曹洞宗管長たる認可を受け、十月七日に管長として初めて東京へ出たのであるが、その時自坊の村の龍王駅へ村全体の者たちが出て、管長となって上京する私を見送ってくれた。
その時私は村の人々に向かってこんな挨拶をした。
『皆さんは私が管長となったことを非常に目出度いことのように祝って下さるが、現在の自分としては祝われるどころか、今度は大難関に直面しているのだから、なかなか容易なことではない。
あるいは白骨となって慈照寺に帰ってくるかも知れぬ。
だから目出度いどころか実は気の毒なものである。
是非今回の仕事を無事に果たしうるように祈っていただきたいものだ。』
私はこのような言葉を残して、山梨の自坊を離れたようなことであった。」

「続永平寺雑考」より

 

昭和15年(1940)10月19日
永平寺に上山し、高祖真前へ曹洞宗管長就任報告する。

 

昭和16年(1941)1月17日
この日より十日間、宗制特別審議会が開催され「曹洞宗管長制度」について審議が続行された。
しかし、両本山の何れかを背景とする両派の委員は平行線をたどり、何等の進展もなく、決裂という最悪の状態で終会となる。

 

昭和16年(1941)3月31日(付け)
大森禪戒曹洞宗管長、「宗教団体法」による新宗制修正案を文部省へ提出する。

 

管長
一、管長は總持寺より永平寺を歴任せる者に限り、永平寺を退董して之に就任す。
一、管長久しきに亘り其の職務を行うこと能わざるときは、大本山永平寺貫首其の代務者と為る。永平寺貫首事故あるときは總持寺貫首之に就任す。

 

大本山貫首
一、大本山永平寺貫首欠けたるときは、大本山總持寺貫首永平寺に轉住す。
一、大本山總持寺貫首欠けたるときは、西堂中の先任者總持寺に進住す。

 (西堂選挙法別定)

 

昭和16年(1941)3月31日 71歳
総持寺貫首(独住第十一世)に就任する。

 

總持寺独住第十一世貫首

 

昭和十六年三月三十一日付けの新宗制の定めにより永平寺六十八世秦慧昭禅師は永平寺貫首を去って曹洞宗管長に就任。
總持寺独住第十世貫首・鈴木天山禅師が永平寺に転住し永平寺六十九世貫首となる。
鈴木天山禅師の永平寺転住により空位となった總持寺貫首の座には両山西堂中の先任者が就くことに新宗制ではなっているが、宗制附則第五百三十条(本宗制施行の際、現に管長たるものは、本宗制施行当初に限り第三百条の規定に拘らず大本山總持寺住職に就任するものとす)に依って、旧宗制下最後の管長の大森禅戒禅師が總持寺独住第十一世に晋住された「続永平寺雑考」より

 

昭和16年(1941)6月28日
大森禅戒禅師、總持寺初入山式を挙げる。


昭和16年(1941)6月28日 71歳
永平寺七十世貫首に就任する。

 

永平寺七十世貫首

 

總持寺から永平寺に転住された鈴木天山禅師は、昭和十六年六月十一日遷化され、永平寺貫首が欠けたままになっていたので、宗制により總持寺で初入山式を挙げたばかりの大森禅戒禅師は同日(六月二十八日)付けで永平寺七十世貫首に就任することになった。


同年7月17日、永平寺へ初入山式。
しかし、この後永平寺を下って直ちに、退董した。

 

大森禅戒禅師の永平寺初入山式、そして退董

 

初入山式での挨拶


「本日、お山へ拝登して、真っ最初に胸を痛めましたのは、前貫首鈴木猊下の御霊骨に対してでありました。
今回の宗制編成問題につきましては、鈴木猊下も、並々ならぬ御苦労をなされました。
それを思いこれを思います時、誠に御同情に堪えないものがあります。
自分らと致しましても、この秋頃にはめでたく晋山式を挙げて戴きたいものと念願致していたのでありますが、今はこの有様となられましたことは、猊下お一人の御不幸のみに留まらず、誠に我が宗門全体の不幸と云わねばなりません。
私は故禅師の真前に一柱香を献じながら、ひそかに暗涙にむせんだ次第であります。」

「続永平寺雑考」より

 

その後

 

この永平寺初入山式後、永平寺を下って間もなく、一身上の都合を理由に永平寺退董の意を示された。

同年7月17日、高階瓏仙禅師が永平寺七十一世貫首に就任されているので大森禪戒禅師は初入山式7月17日、その日のうちに退董されたことになる。

 

思えば駒沢大学学長辞任の後、自坊に帰り、念願の梵語辞書編纂へ向けて、その研究に勤しんでいた時、突然の永平寺東京出張所監院要請、その後、曹洞宗管長就任、總持寺独住第十一世貫首就任、すぐさま永平寺七十世貫首に就任と、優秀で人望篤い人であるがゆえ、時代に翻弄され、宗門の爲その身を粉にして尽くしてきた。
しかし、「自分には、何としてでも自分の手で完成しなければならぬ特殊な仕事」則ち梵語辞書編纂に取り組むには、残された時間はそう長くはなかった。
再び慈照寺に帰り、落ち着いて梵語辞書編纂に取り組んで、その後一年たらずして、病床に伏す身となったのである。
誠に残念至極ながら梵語辞書は大森禅戒、その人の手で成し遂げることはできなかった。

昭和16年(1941)12月8日 日米開戦(真珠湾攻撃)

 

昭和18年(1943)6月17日

此の春より四大不調であったが、回復し、御令妹の葬儀の爲、丸岡町生家八木家に来錫。 

 

昭和18年(1943)8月 石川県湯涌谷(白雲楼)康楽寺初代住職(開山)となる。 

 

昭和20年(1945)8月15日 太平洋戦争終結(ポツダム宣言受諾、敗戦)


昭和22年(1947) 2月4日
大森禅戒禅師、慈照寺にて遷化。世壽七十七歳。

 

同年4月13日 密葬(導師 熊沢泰禅禅師


同年4月22日
永平寺本葬(荼毘式)
 秉炬師 總持寺紫雲台猊下(御代香)同本山西堂、丘球学師
 奠茶師 発心寺東堂 原田祖岳
 奠湯師 中央寺 福井天章
 起龕師 西有寺 西澤浩仙
 鎖龕師 洞雲寺 谷口乕山

 

遺偈 「臥雲眠石 七十七年 末後消息 雲裡道遠」

 

(禅師號は受けていない。)

 

 

活龍禪戒禅師 密葬 (熊澤泰禅禅師法語)

 

昭和二十二年二月四日遷化。
遺偈「臥雲眠石 七十七年 末後消息 雪埋遠巓」

 

密葬法語

 

甲州に迹(あと)を晦(くら)ます大心の人。
忽地(こつち)光を蔵(かく)す二月の春。
一詠(いちえい)空しく留(とど)む老梅の句。
氷魂(ひょうこん)千載(せんざい)塵(ちり)生ぜず。
恭しく惟みれば
新般涅槃・大本山總持寺独住十一世・大本山永平寺七十世・康楽開山・慈眼三十三世、活龍禪戒大和尚真位。
臥雲の正系、董戒の嫡子。
質を霞城の南に降(くだ)すや、出家聖道を求めて能く意馬(いば)を鞭うつ。
身を台雲の室に托するや、参玄名師を尋ねて更に清貧を楽しむ。
春風秋雨、縁に随い感に赴く。
業(ぎょう)を麻谿(まけい)に修して、蛍雪の苦を積む。
学を高野に究めて、声光(せいこう)の新たなるを覚す。
随波逐浪(ずいはちくろう)、魚の如く水に在り。
興に乗じて日々新たに、縦(ほしいいまま)に、異郷千里の月を賞す。
花を吟じて処々淡く、高く雲煙万里の春を領す。
潜行密用、愚の如く魯の如し。
機輪発展の時、一宗の大計を定めて疑著無し。
渓山幽静(けいさんゆうじょう)の処、高下是非を印して疎親(そしん)を絶す。
箇は是れ、活龍禪戒大和尚禅師が生前七十七年の大収放(だいしゅうほう)なり。
即今這裡に到って、猶、横説堅説、破顏を漏らす底の大慈悲、如何が端的を弁ぜん。

真龍活躍して何処にか去る。法界雲に乗して儘(まま)屈伸。

 

雪庵広録 第二 香語・題詞 (一四四~一四五頁)より

 

梵字・般若心経-大森禪戒(東川寺所蔵)
梵字・般若心経-大森禪戒(東川寺所蔵)

 

祖山顧問・来馬琢道師は「本多喜禅祖山監院を哭す」と題して追悼文を昭和34年「傘松」五月号に寄せているが、その中「附言」として

「予は大森禅戒老師の訓誡を受けて、明治二十九年開成中学卒業後、曹洞大学林に入り、老師の示唆によって欧米各国巡錫の志望を遂げた。故に本多監院の風貌に接する毎に、大森老師を想う。今や両師共に亡し。

死して叢林にあれば骨また清し夏書する。簾外八十三。」

と書かれている。


夏書(げがき)とは陰暦四月十六日にはじまる仏家の安居中、聖霊供養のため写経することを言う。】

 

参考資料

「続永平寺雑考」 笛岡自照著 古径荘・発行

「駒澤大學八十年史」 同誌編纂委員会編集 駒澤大學八十年史編纂委員会・発行

「禅僧留学事始」 編集・発行 禅文化研究所

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