永平寺七十二世 佐川玄彝禅師

 

永平寺七十二世 佐川玄彝禅師

 

(世称)
  佐川玄彝(さがわ げんい)


(道号・法諱)
  訓山玄彝(くんざん げんい)


(禅師号)
  無し


(生誕)
  慶応2年(1866)4月4日


(示寂)
  昭和19年(1944)5月13日


(世壽)
  79歳

 

(特記)

  總持寺独住第十五世貫首

 

 

 


佐川玄彝禅師の略歴

 

慶応2年(1866)4月4日 (慶応3年の説あり。)
周防(山口県)大嶋郡蒲野村に生まれる。

 

慶応4年(1868)旧9月8日 1月1日に遡って明治元年(1868)とする改元の詔書が出される。

 

 

明治15年(1882)3月3日 17歳 
山口県大嶋郡屋代村龍心寺、大村玄英について得度。

 

明治16年(1883)4月

佐波郡牟礼村極樂寺住職河野鳴道の江湖会に安居し弁道修行する。

 

明治16年(1883)山口県第二號支局付属曹洞宗専門支校に入学する。

 

明治17年(1884)4月 山口県大嶋郡屋代村龍心寺、大村玄英の初会結制に於いて立職する。

 

明治17年(1884)8月 愛媛県第二號専門支校に入学する。

 

明治17年7月末、師匠の許可なく讃岐高松の専門支校に入学し、見性寺住職藤井光全師の鉗鎚を受く。

 

明治18年(1885)2月25日 龍心寺住職、大村玄英の室に入り嗣法する。

 

明治20年(1887)3月 讃岐専門支校より推薦せられ、曹洞宗大学林に進学する。

 

明治24年(1891)3月 曹洞宗大学林卒業予定であったが、卒業試験の最後の一時間に於いて学校に不祥事あり。
一時閉林となり、卒業証書は二十五年春に授与される。

 

明治24年(1891)4月 曹洞宗管長より山形県米沢市の曹洞宗中学林の教授に任命される。

 

明治25年(1892)6月 師匠の病気により辞職し、師匠看病に務める。

 

明治26年(1893)2月28日 山口県龍心寺の住職となる。

 

明治27年(1894)2月7日 山口県曹洞宗中学林の教授に任命される。

 

明治28年(1895)7月30日 山口県曹洞宗中学林の教授を辞す。

 

(防府) 曹洞宗中學林・絵葉書
(防府) 曹洞宗中學林・絵葉書

 

明治29年(1896)11月13日 曹洞宗第十六中学林の監理を勤務する。

 

明治30年(1897)10月6日 曹洞宗第十六中学林の監理を辞す。

 

明治33年(1900)9月28日 再び、曹洞宗第十六中学林の監理となる。

 

明治34年(1901)9月28日 曹洞宗第十六中学林の監理を辞職する。

 

明治34年(1901)7月15日 山田孝道、仲井覚乗らと共に末派総代議員に認可される。

 

明治35年(1902)4月10日 曹洞宗第四中学林(現在の多々良学園)の創立委員及び準備委員となる。

 

明治35年(1902)7月 曹洞宗宗議会議員に当選する。 (六ヶ年継勤)

 

明治37年(1904)7月15日 再び代議を認可される。 

 

明治41年(1908)8月 旅順駐在布教師を拝命す。

 

明治44年(1911)3月 旅順駐在布教師を辞職する。

 

 明治45年(1912)(1月1日-7月30日)
 大正元年(1912)(7月30日-12月31日)

 


大正2年(1913)7月5日 曹洞宗第四中学林の第三代・学林長に就任。

 

大正9年(1920)11月18日 曹洞宗第四中学林の学林長を辞任。

 

この頃の教え子の中に、衛藤即応、永久俊雄、大久保道舟、杉岡規道、宮崎文輝、岡本素光などがいて、在校生には田辺哲涯、水野弘元等がいる。

 

曹洞宗第四中学林・絵葉書
曹洞宗第四中学林・絵葉書

 

大正12年(1923)12月5日 大森禅戒師に代わって曹洞宗宗務院教学部長、兼、曹洞宗教師検定委員長を勤める。 

 

大正13年(1924)8月15日 樺太布教状況の視察を命ぜらる。

 

大正13年(1924)11月1日 曹洞宗宗務院、栗木智堂内局の下、庶務部長に任命される。

 

大正14年(1925)3月30日 曹洞宗教育財団の理事として駒澤大学設立の申請をしていたが、大学令により認可を受け、忽滑谷快天師が学長に就任する。

 

大正15年(1926)1月 栗木智堂内局の教育部長となる。

 

 大正15年(1926)(1月1日-12月25日)
 昭和元年(1926)(12月25日-12月31日)

 

昭和2年(1927)1月 永平寺二祖国師大遠忌、造営課長となる。

 

昭和2年(1927)7月 都濃郡長穂村龍文寺に転住し、龍心寺は兼務住職となる。

 

昭和2年(1927)12月 永平寺二祖国師大遠忌造営課長を辞し、専ら龍文寺の整理と龍心寺の本堂建築に従事する。

 

昭和6年(1931)9月15日 布教及び国情視察のため満州出張を命ぜられる。

 

昭和9年(1934)4月19日 曹洞宗宗務院、尚署に任ぜられる。

 

昭和10年(1935)4月11日 曹洞宗宗務院、総務に任ぜられる。

 

同年5月28日 文部大臣の許可を得て、曹洞宗管長事務取扱に就任する。

 

同年7月29日 宗務院総務を辞任する。

 

同年9月 永平寺東京出張所監院に任ぜられる。

 

昭和11年(1936) 北海道旭川市、大休寺の後任住職が決まるまで、兼務住職となる。

 

昭和12年(1937)2月23日 曹洞宗師家に任ぜられる。

 

昭和14年(1939)2月1日 永平寺東京出張所監院を辞任する。

 

永平寺東京出張所監院として、佐川玄彝師は昭和五年の二祖国師六百五十回大遠忌に建築された大庫院、大光明蔵、傘松閣などの巨額の工事負債の償却に尽力する。

 

昭和14年(1939)10月25日 中支布教総監に任ぜられる。

 

昭和16年(1941)6月14日 曹洞宗大教師に補任される。

 

昭和16年(1941)7月23日 総持寺西堂任ぜられる。

 

昭和16年(1941)12月8日 日米開戦(真珠湾攻撃) 

 

昭和18年(1943)3月19日 総持寺独住第十五世貫首に就任する。


同年、4月21日 総持寺入山式を挙行する。

 

入山式後、脳出血で半身不随となった為、本山当局は禅師号奏請の手続きを遠慮した。
本人の希望で療養のため、随身であり龍文寺の後任住職であった防府市の田中俊英師の私宅にて看護を受ける。

 

昭和19年(1944)1月19日

 

曹洞宗管長・秦慧昭禅師、遷化のため高階瓏仙永平寺貫首が曹洞宗管長となる。
そのため、空位となった永平寺貫首に佐川玄彝師は病床のまま就任することになる。

 

昭和19年(1944)2月4日 永平寺七十二世貫首に就任する。

 

しかし病気の故、その四日後、同年2月8日 永平寺貫首を退董する。

 

昭和19年(1944)5月13日
山口県防府市宮市桜町の多々良学園長、田中俊英宅にて遷化。世壽七十九歳。


同年同月31日、密葬(秉炬師、福井天章師)。


同年9月28日(午前)
本葬(荼毘式)
 秉炬師 高階瓏仙禅師(曹洞宗管長)
 奠茶師 水上興基(永平寺西堂)
 奠湯師 丘 球学(総持寺西堂)
 起龕師 鏡島宗純(大泉寺)
 鎖龕師 大洞良雲(護国院)
 
遺偈 「雰天途塊 七十九年 業風難避 總入雲裡」


(禅師號は受けていない。)

 

大本山永平寺訓山玄彝大和尚 秉炬 (高階瓏仙曹洞宗管長

 

訓山練水す幾因縁。七十九年来往円かなり。
通天橋上の路を踏断して。孤笻万里雲煙に入る。
恭しく惟れば、大本山永平寺七十二世訓山玄彝大和尚禅師真位
竜文の余彩。雄峯の嫡伝。
其の初め。
質を防陽に降ろし。時局多難の襁褓中戦乱を避く。
髪を竜刹に剃り。行履敏捷にして躯烏の間機先を制す。
或は又。
英気換発にして十又三歳早くも教鞭を執る。
 神州東方の心を大島郡外の揚ぐ。
道機快活十有九齢初めて行脚に発ち。
 直指西来の意を玉藻城辺に問う。
之を思い之を想う。
宗門の教学に尽瘁して維れ厳維れ寛。前後三十歳。
宗衙の樞機に参画して乃ち精乃ち密。一貫二十年。
 其の徳や頌す可し仰ぐ可し。其の功や永く敷き永く扇ぐ。
宜なるかな。
時に三樹松閑に入り。古砧壇上に一輪真如の月を眺め。
更に不老高閣に座し。玲瓏巖下に一脈無源の水を汲む。
嗚呼。深重の宿縁なり。曽て知る。
久しく鎮西の吉祥山に住し。夙に宗門特抜の地歩を占む。
今や北陸の吉祥嶺に帰り。直に身心安楽の所詮を得なり。
乃ち是れ。
般若生涯の身は恒に春。永平の古藍没底に盛んなり。
光明蔵裏の座は方に静。新豊の秘曲断絃を弾ず。
如上は是れ玄彝大禅師七十九年の去来。
方語円音涅槃を唱うるの閑遊戲なり。
即今。
南閻浮外に箇の勃跳を打し第一天を照らすの消息。
言詮に渉らず如何んが先鞭を看ん。
露。
法身常在にして未だ曽て滅せず。山色谿声雨儼然。

 

(原漢文)「高階禅師香語集」より

 

佐川玄彝禅師について

 

佐川玄彝禅師については資料が少なく、履歴など不明確な点も多い。
明確な資料といえば山口県防府市護国寺東堂・橋本隆也師が「傘松(1976年5月号)」に寄せた「今年三十三回忌を迎えた・本山七十二世佐川玄彝禅師略傳」であろう。
しかし、橋本隆也師が困惑されているように「自筆履歴書」と「自筆私の履歴控」が有り、その資料を二点とも掲載されているが生年など相違している点が見受けられる。
この頁ではこの「今年三十三回忌を迎えた・本山七十二世佐川玄彝禅師略傳」も参考にさせて戴きました。

(注意)

 
示寂日の違い

 5月13日-「永平寺年表」「雪菴廣録」「曹洞宗人名辞典」

                   「宗侶必携~曹洞宗宗務庁」
 5月14日-「永平寺史」「禅学大辞典」「新版禅学大辞典」

 

遺偈の違い

 「雰天途塊 七十九年 業風難避 總入雲裡」-「永平寺史」
 「雰天途塊 七十九年 業風難避 惚入雲煙」-「曹洞宗人名辞典」

 

世壽の違い

 79歳-「永平寺史」「禅学大辞典」「曹洞宗人名辞典」「新版禅学大辞典」 

 78歳-「永平寺年表」
 

 

参考

「典座教訓新釋」田中俊英著
(昭和9年12月20日 光融館書店・発行)

 

「典座教訓新釋」田中俊英著(東川寺蔵書)
「典座教訓新釋」田中俊英著(東川寺蔵書)

 

「典座教訓新釋」田中俊英著
(昭和9年12月20日 光融館書店・発行)

 

「はしがき」


或る日、チョーク塗みれの私は、一人の生徒から「先生は現在の生活に満足して働いて居られるか」と問はれた。此の問ひは、私が此の『典座教訓』を講説する一つの動機であった。それは、私自身の現在の生活の基調をなしてゐる宗教生活を以て答へるより他に仕方がないからである。
 ※
其の日其の日の生活が、たとひ如何なる形で過ごされやうとも、そこには、一度去れば再びは帰って来ない尊い生命が流れてゐるのである。そして、人間の経験し得る真も善も美も、又人間の成し遂げる如何に尊く如何に神聖なる仕事も、此の一日の生活の上にのみ実現せられて、打ち建てられてゆくのである。此の厳粛なる事実を直視する時、此の日々の生活こそ、吾々に取つて、限り無く尊く厳かなるものとして見出され、吾々は其の日其の日の仕事に、畏れと悦びとを感ぜずには居られない。人は皆、此の尊厳なる生命の事実を荷負ふてゐる。私は、斯の一人の人間の生活が如何にあらねばならぬかを見やうと思ふ。

 ※
「典座」とは、寺院に於て、僧侶の為に日々の食物を調理する役僧のことである。此の『典座教訓』は曹洞宗祖道元禅師(紀元一八六〇~一九一三)が、此の役僧の為に、日々の生活の最後の帰趣を示されたものである。言はゞ、お互の家の台所の仕事を運ぶ上に、人間としての真の生活、即ち吾々が宗教生活、禅の生活と呼んでゐるものが、如何なるものであるかゞ説かれてゐる。
 ※
一人の女中やコックのつとめの上に、高遠なる佛教の真理があり、深遠なる禅の精随があると云ふことを疑ふてはならない。若しそこに佛教の真理がなかったならば、佛教とはそもそも我々に取つて何であろう! 佛教が真理であり、生きた人間の救ひの道であるならば、単に殿堂や講堂のものであつてはならない。それは電気の学理の研究は電気学者のものであつても電気学の真理は、一般大衆のものでなくてはならぬと同じことである。宗教生活は所謂法衣を纏へる者のみのものであつてはならぬ。坐禅や祈祷や唱題や念佛や教理の研究や、それ等は元より、信仰の表れではある。然し只そうする時のみが宗教生活ではない。宗教生活は、其の信仰が直接に生活されねばならぬ。それは対象的なる佛や禅の認識を越へ自己本来の面目の確信に立つて、洋服を着たまゝ、エプロンを掛けたまゝの、吾々の日々の生活のものゝ上になくてはならぬ。
 ※
今此の書に説かれてゐる典座が飯を炊き、菜を作ることは、銀行家が算盤を持ち、職工がハンマーを打ち振り、教師がチョークを持ち、学生がペンを持つ其のことなのである。私は未だ嘗て、此の書の如く、台所の仕事と云ふ様な卑近な実生活について、一人の人間の縦昼至夜のつとめの運び方と心構へを、高い宗教的な立場の上に打ち建てゝ眺め味ひ、そして其の最後の帰趣を説き示した書を見たことがない。私はそこに此の書に対する親みを見出すと共に、道元禅師の宗風に悦びを感ずることが出来たのである。
 ※
今日ほど社会の有ゆる階級に度つて宗教生活と云うことが人々の実生活と没交渉になつた時代はない。其の原因としては、過去の宗教家の態度と明治初年以来の社会の情勢や政治や教育の制度等を挙げることが出来やう。然し其の原因は兎も角も、それ丈けまた、今日ほど宗教生活の何物たるかを認識し体験することの重要さが主張せられてもよい時代はない。そして其のことは一日遅れるならば一日の損失である。此の意味に於て、私は敢て此の『典座教訓』の講説を上梓することにした。所謂、拈提風な講義には別の述べ方があらう。また此の書の教會史的意義に就ては別の研究を要するであろう。然しそれ等は今の私の意図でない。
 ※
尚ほ原典は何等の章節が分けて無いのであるが、今私は読者の便宜の為に之を設けた。余り少さく区切れば語録としての原典の全体の意趣を傷ふので、大体に其の段落の意味を味ふと云うことを考へて区切つた積りである。元より一応の便宜である。
 ※
此の講説の一部は、曽て加藤拙堂氏主宰の三寶誌に依頼を受けて連載したものであるが、光融館立平氏の慫慂により、単行本としたのである。
特に本書出版に際して装幀は岡本一平画伯を煩はし、編輯校正は文学士佐々木喆山君の好意に依つたことを記し、両氏に感謝の意を表す。


 昭和九年十二月 佛陀成正覚の日 田中俊英 識

 

秋夜作務・岡本一平画・「典座教訓新釋」より
秋夜作務・岡本一平画・「典座教訓新釋」より
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