永平寺七十五世 山田霊林禅師

 

永平寺七十五世 山田霊林禅師

 

(世称)
  山田霊林(やまだ れいりん)


(道号・法諱)
  鷲峰霊林(じゅほう れいりん)


(禅師号)
  佛真宏照禅師
  (ぶっしんこうしょうぜんじ)


(生誕)
  明治22年(1889)1月2日


(示寂)
  昭和54年(1979)7月15日


(世壽)
  91歳

 

(特記)

  駒澤大学総長 

山田霊林禅師書(東川寺蔵)
山田霊林禅師書(東川寺蔵)

山田霊林禅師の略歴

 

明治22年(1889)1月2日
岐阜県高山市天性寺町51番地に誕生する。

 

明治32年(1899)晩春 11歳 お寺に入る。 (余話1)


明治35年(1902)10月 14歳
岐阜県大野郡丹生川村の正宗寺都築霊源に就いて得度。


明治38年(1905)9月 17歳
名古屋曹洞宗第三中学校に入学する。


明治41年(1908)夏 20歳
名古屋市中区大須の大光院住職田中懐光、常恒会にて立職。


明治41年(1908)8月 20歳
岐阜県大野郡丹生川村の正宗寺都築霊源の室に入り嗣法する。


明治43年(1910)7月 22歳
名古屋曹洞宗第三中学校を卒業し、同年9月、曹洞宗大学に入学する。

 

 明治45年(1912)(1月1日-7月30日)
 大正元年(1912)(7月30日-12月31日)
 


大正4年(1915)7月 27歳
曹洞宗大学を卒業。同年9月、曹洞宗宗学研究生に任ぜられる。


大正7年(1918)9月 30歳
曹洞宗宗学研究生を修了。同年9月、総持寺宗学研究員に任ぜられる。


大正12年(1923)より「禅の生活」月刊誌編集主幹となる。35歳。

 

「禅の生活」は当初(大正11年1月より発行か?)大本山總持寺貫首・新井石禪禅師が編輯発行の月刊誌であり、申込所は總持寺時局であった。下の「禅の生活」誌は新井石禪禅師編輯発行の大正11月2月1日付けの第一巻第二號である。

禅の生活・大正11年2月1日発行
禅の生活・大正11年2月1日発行

 

大正13年(1924 )12月 36歳

岐阜県正宗寺の住職となる。

 

大正14年(1925)7月 37歳
総持寺宗学研究員を修了する。


大正15年(1926)9月 38歳
世田谷中学の教頭に就任する。

 

 大正15年(1926)(1月1日-12月25日)
 昭和元年(1926)(12月25日-12月31日)

 

昭和9年(1934)11月15日 46歳
★「禪學讀本」を著し、第一書房より出版する。

山田霊林著-禪學讀本 (東川寺蔵書)
山田霊林著-禪學讀本 (東川寺蔵書)

 

「禪學讀本」を推薦す


                              駒澤大学長 大森禪戒

 

深遠なる禅道仏教の秘趣を体認することに於て、またそれを洗練されたる現代的感覚を以て表現することに於て、夙に定評ある山田霊林氏が、一年有半の心血を傾倒して成せる「禪學讀本」は、必ずや現代人のその生活の上に、月光の如き清澄と春日の如き和潤とを漂わすであろう。
未だ禅について学ぶところなく、人生について究むるところなき人も、この書によって一読、禅の関門を透り、再読、人生の奥義に徹するであろう。
既に禅の体験に富む人は、この書によってその認識を新たにし、既に人生の思索に豊かなる人は、この書によってその体認を深めるであろう。
既に体験あり思索あって、未だこれを語るに言葉なき人は、この書によって表現の新様式を感得するであろう。
これこの書を、現代のあらゆる層の各位に推薦する所以である。

 

  山田霊林著-禪學讀本 駒澤大学長 大森禪戒 推薦文
  山田霊林著-禪學讀本 駒澤大学長 大森禪戒 推薦文

 

昭和10年(1935)6月 47歳
「失意のとき得意のとき 心構を禪に訊く」(附 腹の作り方問答)を著し、森田書房より発行する。

 

山田霊林-失意のとき得意のとき心構を禪に訊く(東川寺蔵書)
山田霊林-失意のとき得意のとき心構を禪に訊く(東川寺蔵書)

 

昭和10年(1935)12月10日 47歳
★「禪生活十二ヶ月」を著し、第一書房より出版する。

 

山田霊林著-禪生活十二ヶ月 (東川寺蔵書)
山田霊林著-禪生活十二ヶ月 (東川寺蔵書)

 

昭和11年(1936)12月15日 48歳
★「佛教の入門」を著し、大衆佛教全集第一巻として同書刊行会より出版する。

 

山田霊林著-佛教の入門(東川寺蔵書)
山田霊林著-佛教の入門(東川寺蔵書)

 

同年、12月20日 

★「坐禅の書」を著し、第一書房より出版する。

 

山田霊林著-坐禪の書(東川寺蔵書)
山田霊林著-坐禪の書(東川寺蔵書)

 

昭和12年(1937)8月20日 49歳

★「禪學入門の書」を著し、実業之日本社より出版する。

 

山田霊林著-禪學入門の書(東川寺蔵書)
山田霊林著-禪學入門の書(東川寺蔵書)


昭和13年(1938)1月 50歳

世田谷中学の校長に就任する。

 

昭和14年(1939)9月20日 51歳

★「新時代の禅」を著し、大東出版社より出版する。

 

山田霊林著-新時代の書(東川寺蔵書)
山田霊林著-新時代の書(東川寺蔵書)

 

昭和16年(1941)3月30日 53歳

★「禅の開きゆく人生」を著し、第一書房より出版する。

 

山田霊林著-禪の開きゆく人生(東川寺蔵書)
山田霊林著-禪の開きゆく人生(東川寺蔵書)

 

昭和16年(1941)9月17日 53歳
駒澤大学の学監に就任する。

 

昭和16年(1941)12月8日 日米開戦(真珠湾攻撃) 

 

昭和17年(1942)4月20日 54歳
駒澤大学教授となり、同月、曹洞宗教学部長に就任する。

 

昭和17年(1942)8月15日 

★「禪學夜話」を著し、第一書房より出版する。

 

山田霊林著-禪學夜話(東川寺蔵書)
山田霊林著-禪學夜話(東川寺蔵書)


昭和18年(1943)7月15日 55歳
中華民国および満州、朝鮮を視察のため、東京を出発する。同年8月9日、帰国。

 

昭和19年(1944)12月10日 56歳

★「日本人の生死観と禅」を著し、至文堂より出版する。

 

山田霊林著-日本人の生死観と禪・東川寺蔵書
山田霊林著-日本人の生死観と禪・東川寺蔵書

 

昭和20年(1945)8月15日 太平洋戦争終結(ポツダム宣言受諾、敗戦)


昭和22年(1947)6月18日 59歳
行持軌範編集臨時委員に委嘱される。


昭和26年(1951)4月25日 63歳
高祖大師大遠忌奉讃社会教化運動本部講師を遺囑される。

 

昭和27年(1952)4月30日 64歳

★「修證義講話」を著し、鴻盟社より出版する。

 

山田霊林著-修證義講話(東川寺蔵書)
山田霊林著-修證義講話(東川寺蔵書)

 

昭和27年(1952)6月25日 64歳
教育審議会委員に任ぜられる。


昭和28年(1953)6月13日 65歳
駒澤大学学監に就任する。

 

昭和28年(1953)7月8日 

★「人間と禅」(佛教文庫19)を著し、東成出版社より出版する。

 

山田霊林著-人間と禪(東川寺蔵書)
山田霊林著-人間と禪(東川寺蔵書)

 

昭和29年(1954)4月 66歳
曹洞宗宗学研究所副所長に就任。

 

昭和30年(1955)3月31日 67歳
★「青年諸君に訴える」を著し、発行。

 

山田霊林著-青年諸君に訴える(東川寺蔵書)
山田霊林著-青年諸君に訴える(東川寺蔵書)

 

昭和30年(1955)10月31日 67歳

★「正法眼藏講話」(現代聖典講話7)を著し、河出書房より出版する。

 

山田霊林著-正法眼藏講話(東川寺蔵書)
山田霊林著-正法眼藏講話(東川寺蔵書)

 

昭和31年(1956)2月29日 68歳

★「禅と人生」を著し、河出書房より出版する。

 

山田霊林著-禪と人生(東川寺蔵書)
山田霊林著-禪と人生(東川寺蔵書)

 

昭和32年(1957)2月28日 69歳
北海道釧路、定光寺専門僧堂長、兼師家に任ぜられる。

 

昭和33年(1958)8月27日 70歳
駒澤大学学監を辞す。

 

昭和34年(1959)5月1日 71歳

禅に生きる人々」を著し、宗務所A・Mセンターより発行する。

 

 

禅に生きる人々-山田霊林著(東川寺蔵書)
禅に生きる人々-山田霊林著(東川寺蔵書)


昭和34年(1959)5月11日 71歳
布教教化審議会委員に任ぜられる。


昭和35年(1960)7月5日 72歳
北米開教総監に任ぜられ、羽田を出発し、LOS ANGELESの禅宗寺に入る。

(北米開教総監は以後四年間) 


昭和39年(1964)10月20日 76歳
駒澤大学総長に就任する。

 

(紹介)駒澤大学ホームページ


同年11月2日、北米より帰国。
同年12月、盛岡、報恩寺の住職となる。


昭和40年(1965)10月20日 77歳
永平寺眼藏会講師となり、昭和41年、43年の眼藏会講師も勤める。

 

昭和41年(1966)4月20日 78歳

正法眼藏辨道話 禅の講話」(山田霊林著作集)を宝文館出版より出版する。

同年、「禪學讀本」(山田霊林著作集)を宝文館出版より出版する。

 

山田霊林著作集-1・2(東川寺蔵書)
山田霊林著作集-1・2(東川寺蔵書)

 

昭和41年(1966)

現代生活者と禅 修証義講話」(山田霊林著作集)を宝文館出版より出版する。

正法眼藏現成公案 坐禅の書 參禪体験記」(山田霊林著作集)を宝文館出版より出版する。 

山田霊林著作集-3・4(東川寺蔵書)
山田霊林著作集-3・4(東川寺蔵書)

 

昭和41年(1966)9月15日

★「忘れる技術」を著し、光文社(カッパ・ブックス )より出版する。

 

山田霊林著-忘れる技術(東川寺蔵書)
山田霊林著-忘れる技術(東川寺蔵書)

 

後に「知恵の森文庫」より発行された「『忘れる技術』いやなこと、悲しいことを」には、その冒頭に下記のことが記載されています。

 

「忘れる技術」いやなこと、悲しいことを

 

はじめに

 

本書は、昭和四十一年に光文社からカッパ・ブックスとして刊行されました。
当時の日本は、高度経済成長のまっただなか、物質的な豊かさを享受できるようになったものの、ビジネスマンはモーレツに働き、政界には「黒い霧」、多くの人びとの心には、ストレスとノイローゼが渦巻いていました。
そんな時代に、日本仏教界を代表する禅界最長老、山田霊林師による本書「忘れる技術」は出版されました。
心の昏迷、無益な心労を上手に「忘れる」にはどうしたらいいのか、禅の真髄を、ずばりついたスマートな実用的思想書が登場したのです。
「・・・・・今日、大多数のビジネスマンが不安と孤独にさいなまれ、西洋的知識の重量に押しひしがれているのは、まことに悲劇的である。いまほど、忘れる、捨てる、簡素化する、といった東洋の知恵が必要なときはない。記憶などは、電子計算機や資料室にまかせよう。さもないと、独創性も鈍り、迅速果敢な行動もできない。新聞紙には字は書けない。しかし、白紙にはぞんぶん書けるのだ・・・・」
これは本書の刊行時、カバーのソデに経済評論家の坂本藤良氏が書かれた推薦文です。
また画家の岡本太郎氏は、同じくこの本を推薦して次の文を寄せられました。
「忘れることをすすめる本とは、まことにうれしい。私は『忘れることの悦び』をかねがね主張している。過去を瞬間瞬間に断ち切ることは、どんなにかすばらしいか。過去に制約される人間は、卑小だ。あとからあとから、猛烈に忘れ去り、切り捨てる。すると、ひろびろとしたスペースに新しい生命感が満ちてくる。空にすればするほど、むくむく、ふくらみ、太ってくるのが人間精神なのだ。禅は昔からこのすばらしいいメカニズムについて、時代時代の言葉で豊かに語っている。禅の奥義を極めておられる山田霊林師が、それを現代に通じる表現で、きめこまかく説いてくれる・・・・・」と。
いま、二十一世紀目前、かってない混沌とした状況を私たちは生きています。
いまこそ東洋的実用書「忘れる技術」が求められる時代です。
あなたが、たくましく人生を生きるための、大きな勇気と励ましをこの本から得られることを願っています。
2000年8月  「光文社知恵の森文庫」編集部

 

山田霊林著-「忘れる技術」 知恵の森文庫  (東川寺蔵書)
山田霊林著-「忘れる技術」 知恵の森文庫  (東川寺蔵書)

 

昭和42年(1967)4月20日

禅の開きゆく人生-正法眼藏現代語訳-」(山田霊林著作集)を宝文館出版より出版する。

 

山田霊林著作集-5(東川寺蔵書)
山田霊林著作集-5(東川寺蔵書)

 

昭和42年(1967)11月25日 79歳

★「対話 禅とキリスト教」、桑田秀延との対話を潮文社より出版する。

 

山田霊林・桑田秀延-対話 禅とキリスト教 (東川寺蔵書)
山田霊林・桑田秀延-対話 禅とキリスト教 (東川寺蔵書)

 

昭和43年(1968)3月14日 80歳
岩手県盛岡市名須川町報恩寺、山田霊林老師、永平寺副貫首に当選する。

 

和-山田霊林副貫首 (東川寺所蔵)
和-山田霊林副貫首 (東川寺所蔵)


同年9月、「仏書贈呈親善曹洞宗使節団」の団長として、フィンランド等、十ケ国を歴訪する。


昭和44年(1969)5月 81歳
宗務所主催の第一回「禅を聞く会」の講師を勤める。

 

昭和47年(1972)8月10日 84歳
★「人間禅話-マカ不思議」を著し、雄渾社より出版する。 

 

「人間禅話-マカ不思議」山田霊林 著 (東川寺蔵書)
「人間禅話-マカ不思議」山田霊林 著 (東川寺蔵書)

 

昭和49年(1974) 弟子丸泰仙、山田霊林師より嗣法する。


昭和50年(1975)2月28日 87歳
永平寺七十五世貫首に就任する。
同年5月佛真宏照禅師」の勅賜号をうける。

 

同年10月8日 初入山式を挙げる。

 

同年10月10日 晋山祝国開堂を挙げる。 

 

永平75世山田霊林禅師(永平寺所蔵)
永平75世山田霊林禅師(永平寺所蔵)

昭和51年(1976)1月22日 88歳 曹洞宗管長就任。


1976年 弟子丸泰仙をヨーロッパ開教総監に任ず(未確認

 

昭和51年(1976)4月29日 88歳
四大不調の為、春季報恩授戒会完戒上堂に合わせ、退院上堂し、永平寺貫首を退く。

 

その後、福井安川病院、永平寺東京別院隠寮で静養される。 

 

昭和54年(1979)4月8日
正法眼藏随聞記講話」(付・別冊原文)を著し、大法輪閣より発行する。 

 

正法眼藏随聞記講話・山田霊林著(東川寺蔵書)
正法眼藏随聞記講話・山田霊林著(東川寺蔵書)

 

昭和54年(1979)7月15日
世壽九十一歳をもって遷化する。

 

遺偈 「水中撈月 九十一年 而今只看 佛佛現前」

 

 

昭和56年(1981)7月1日

道元禅師 学道用心集講話」 山田霊林・服部松斉著を大法輪閣より発行する。

本講話は「第八、禅僧の行履のこと」までは山田霊林師が『大法輪』に連載し、それ以降は服部松斉師が引き継いだ。

 

「道元禅師学道用心集講話」山田霊林・服部松斉著(東川寺蔵書)
「道元禅師学道用心集講話」山田霊林・服部松斉著(東川寺蔵書)
  無罣礙 山田霊林禅師 (永平寺所蔵)
  無罣礙 山田霊林禅師 (永平寺所蔵)
  無罣礙 山田霊林禅師 (印刷)
  無罣礙 山田霊林禅師 (印刷)

山田霊林禅師-余話1

山田霊林禅師-余話1

 

私が禅門に入ったのは十一歳の晩春、雨もよいの夕暮れであった。
母に送られ、師に迎えられて、山の町から二里離れた村里の禅寺に行く、道端の水田で蛙が頻りにないていた。
師匠はそのとき五十を幾歳とは超えていなかったが、十一歳の私の眼には、大変な年寄りに見えた。
兄弟子も五人いた、雲水坊さんも幾人もいた。
師匠は小さい私を特にいたわって、夜になると側に呼んで私の好きな話をして下さった。
私の好きな話、それは女性の話であった、女性の話でさえあれば、それが母のことを聞かせて貰っているように感じられて嬉しかった。
師匠は頗る厳格な古禅僧であった。
規矩準繩を尊び、その風格に、今樣がかったところの少しもない人であった。
この人が私に毎晩、女性の話をしてくれるのである、さぞ骨が折れたであろうと今それを思う。
いろいろ聞いたその話、今も忘れないでいる話が幾つもある。
婆子焼庵の話、了然尼の話、歌女の話、女子出定の話、鄭娘の話、女子倫笋の話、新婦騎驢の話、台山婆子、劉鐵磨、慧春尼、これらを師匠は幾たびとなく話してくれた。
しかし、これらの話は禅の公案として一人前の禅僧でもその真義を掴むには苦しむところのものである。
それを十一歳の私に話す師匠の骨折りは一通りではなかったであろう。
勿論私にその話の深い意味など分かろう筈がない。
ただ話の主人公が女性であるというので、私にはそれが母のことを話されているように感じられて、ただ嬉しかったのである。
それからは、もう四十年の歳月を経過している。
師匠も逝き、母も逝ってしまった。
しかし晩春から初夏にかけての季に入ると、その頃のことが偲ばれて、師匠から聞いた話が心に浮かぶ。


~ 山田霊林著「禪學夜話」より ~

 

 (天津寺所蔵)
 (天津寺所蔵)
山田霊林副貫首・東川寺蔵
山田霊林副貫首・東川寺蔵

岡本一平と岡本かの子

 

山田霊林師は岡本一平と岡本かの子夫婦と親しく交際していた。

それは山田霊林師の著作の中にも、時々描かれている。

 

岡本一平画伯

 

岡本一平画伯が、家庭の平和三昧は、夫婦の間に以心傳心が、凝滞なく行われるところに発得されるという禅漫画を描かれたことがある。
新井禅師も推讃していられた。漫画にはこういう文字がつけてあった。
「来客がある。妻は茶盆を運んで来る。先ず客に茶碗を勧め、次に夫に勧める。夫は茶碗を受け取りながら、客に知れぬように、妻に妙な目まぜをする。妻も客に知れぬよう、目まぜで返事をする。言葉は交さねど、次のような長い意味の無線電信が受け答えられたのだ。
『この客は、為になる客だから、酒を出せよ』『何に致しましょう、鰻?』『鰻は高価(たか)くて勿体ない、親子丼でいいぞ』『それじゃあんまり酷過(ひどす)ぎるわ』『じゃ、鮨(すし)で胡麻化(ごまか)せ』。
これを家庭の以心傳心、不立文字、教外別伝の傳法という。この場合の以心傳心を夫婦が四六時中、持ちつづけ得られれば、家庭に平和三昧を発得できる。」とあった。
いかにも、これは家庭で、見事に行われた以心傳心である。いつもこの調子で行けば、家庭まことに円満、風波(ふうは)の起こる余地はないであろう。
「禪学讀本」第六課以心傳心より抜粋

 

かの子女史の參禪

 

今は既に世を去った岡本かの子女史が、幾十年か前に初めて禪に志した日のことである。××老師の室に參じてその提示を受けた、老師は「自己本来の面目に合掌し來れ」といった。
女史は思った-自己本来の面目、はあこれはギリシャの神の啓示「汝自身を知れ」という、それだなと思った。
若い女史は知性のメスを鋭く振って、自分自身の解剖に取りかかった。
女史は自分自身の持つ幾多の美しいものを発見した。
同時にまた幾多の醜いものを発見した。
而かもその醜い数々は、自分自身のものというよりは、外から滲み込んで来た穢れであることを発見した。
女史はそれを取り除こうとした、しかしながらそれは追うほど纏わりついて、どうしても取り除くことができなかった、女史は苦しみ悶えた。
女史の知性は愈々冴えた、反省は益々鋭くなった。
恰度そのときである、女史の友達に鋭い正義観を抱いて苦しんでいる女性があった。
實に頭脳の明晰な女性で、その判断はしばしばかの子女史をすら驚歎せしめた。
學門的にも道徳的にも芸術的にも、實に鋭い判断を下す女性であった。
しかしその鋭き判断ゆえに、實に激しい悩みに苦しんでいた。
その棲んでいる世の中が、いやその女性自身すらが、自分の判断通りに言動することができない、それを苦しんだのである。
現実の世にあっては、知性に目覚めれば目覚めるほど、反省に透徹すればするほど、苦しまねばならぬのである。
その女性は終いに強い不眠症に陥ってしまった。
不眠症に陥っても、知性に目覚めることの鋭くない人であれば、さまで苦しいものでなくまた宗教に親しむことの深い人であれば、その不眠症は却って一種の福祉としてさえ受け取れるあるが、その女性は實に深刻であった。
人がぐっすり眠るのに何故自分のみが眠れないのか、一時が二時になり三時四時になっても眠れない、わずかにうとうとしたかと思えばピクッと飛び上がるほど驚かすものが出て来る。
驚いて眼の覚めた後の苦しさは、愈々耐えられぬ。
寝まきのまま跳ね起きて寒い畳の上に、おいおい泣く夜もあった。
嗜眠剤を呑んでわずかに眠りを取っても、それがだんだん中毒を起して、効き目が少ない、胃腸障礙も起って、気分が悪く體が重ったるい。
気がいらいらする、容色が衰える、寔(まこと)に悲惨そのものであった。
かの子女史にはこの女性のそれが、他人ごとでなかった。
不眠症のその苦しみなどを聞くたびに、胸を掻き乱して苦しんだ。
女史は××老師の室に參じて、それを訴えた。
老師はムックリ起き上がった、その姿は山の如く、女史は言い知らぬ重壓(じゅうあつ)を感じた、そのときである、突如として大音響が起った、女史は木っ葉微塵に粉砕されたかと思った。
大音響それは老師の怒号であった、「莫妄想(まくもうぞう)」という怒号であった。
莫妄想それは読んで字の如く、「妄想する莫れ」というのである。
「くだらないことを苦に病むな」というのである。
女史はこの怒号を浴せられて口惜しがった。
女史は自分自身を知るために、自分自身の善美を実現するために、気が狂うほどの精進をしているのである。
褒めらるべきでこそあれ、怒鳴られる謂れは毛頭ないと思った。
怨恨の情に堪えなかった。
しかしながら女史はそれから幾日とは経たぬ中に、心から老師に頭を下げて、感涙に咽ぶことができた。
「すがすがしい歓び」
心から頭を下げて、感涙に咽ぶ、それは寔(まこと)にすがすがしい歓びである。
そのとき、その心には、こだわりがない、思わくがない、はからいがない、我見がない、我執がない。
あるものは、至善、至美、至真、それである。
それは佛生命の発現であり、自己本来の面目の現成である。
永劫の歴史の顕現であり、今日の自己の実成である。
坐禅は人をしてこの境地に直入せしめる、坐禅は吾等の口惜しさを超克せしめる、坐禅は吾等の不眠症を超克せしめる。
(中略)
坐禅によってひとは自己の光明を顕現する。
ただしそれだからといって、その日常の営みを軽忽にすべきでない、日常の営み、心くばりの中から放たるべき光明を軽忽にするが如きことは、深くこれを慎まねばならぬ。
殊に女性はこれを思うべきである。
岡本かの子女史は昭和十三年の十二月病に臥して七十幾日、臨終のその夜まで、夫君一平画伯に、片時も眼を放たず看とりされた。
その或る日である、女史の食欲減退を憂えて画伯は、女史が大好物だったおそばをすすめた。
何が食べられなくても、おそばならばと画伯は思ったのである。
しかし女史はそれを謝していった。-今は折角のおそばでも、わたしにはおいしく頂けないであろう。まずいと思えば、それはおいしいおそばを冒涜するものです、わたしはいつまでも、おいしいおそばを心に浮べていたい-と言った。
女史はあくまでも光明を見まもりつづけることを怠らなかった人である。
おいしいものを、まずく思はねばならなくなることは、おそばへの冒涜でもあり、女史自身の心の光りを、それだけ曇らすことでもある。
女史はあくまでも光明を護(まも)り通す人であった。
ここにも禅に親しむ女史の美しい濃やかな心づくしが窺われる。
(後略)
山田霊林著「禪学夜話」より

 

 

「禪の生活」 

山田霊林師は月刊誌「禪の生活」編集主幹として永く務めていたが、その「禪の生活」の表紙絵を岡本一平は沢山描いている。(下は昭和3年発行の「禪の生活」)

 

禪の生活 第七巻 第四號(東川寺蔵書)
禪の生活 第七巻 第四號(東川寺蔵書)
 禪の生活 表紙画 岡本一平 1(東川寺蔵書より)
 禪の生活 表紙画 岡本一平 1(東川寺蔵書より)
 禪の生活 表紙画 岡本一平 2(東川寺蔵書より)
 禪の生活 表紙画 岡本一平 2(東川寺蔵書より)

山田霊林禅師の著書

禪學讀本」 山田霊林 著 第一書房・出版

禪生活十二ヶ月」 山田霊林 著 第一書房・出版

佛教の入門」 山田霊林 著(大衆佛教全集第一巻)同書刊行会・出版

坐禅の書」 山田霊林 著 第一書房・出版 

禪學入門の書」 山田霊林 著 実業之日本社・出版

新時代の禅」 山田霊林 著 大東出版社・出版

禅の開きゆく人生」 山田霊林 著 第一書房・出版 

「禅学夜話」 山田霊林 著 第一書房・発行

日本人の生死観と禅」 山田霊林 著 至文堂・出版

修證義講話」 山田霊林 著 鴻盟社・出版

人間と禅」(佛教文庫19) 山田霊林 著 東成出版社・出版

正法眼藏講話」(現代聖典講話7)山田霊林 著 河出書房・出版

禅と人生」 山田霊林 著 河出書房・出版

禅に生きる人々」 山田霊林著し、宗務所A・Mセンター・発行 

「忘れる技術」 山田霊林 著 光文社・発行

対話 禅とキリスト教」 山田霊林・桑田秀延との対話 潮文社・出版

「人間禅話-マカ不思議」 山田霊林著 雄渾社・発行 

「山田霊林著作集」 山田霊林 著 宝文館出版・発行

  「正法眼藏辨道話 禅の講話

  「禪學讀本

  「現代生活者と禅 修証義講話

  「正法眼藏現成公案 坐禅の書 參禪体験記

  「禅の開きゆく人生-正法眼藏現代語訳-

正法眼藏随聞記講話」(付・別冊原文)山田霊林著 大法輪閣・発行

「道元禅師 学道用心集講話」 山田霊林・服部松斉著 大法輪閣・発行 

 

その他 

「禅の漫談」、「太祖御略伝」、「現代語訳対照禅の問答集」、「曹洞宗教化学」、「寺庭の書」、「青年諸君に訴える」、「達磨」、「正法禅の真実義」、「驢鞍橋」、「天桂」、「佛教読本」、「徹して行きよ」、など著書多数。