永平寺七十八世 宮崎奕保禅師

 

 

永平寺七十八世 宮崎奕保禅師

 

(世称)
  宮崎奕保(みやざき えきほ)


(道号・法諱)
  栴崖奕保(せんがい えきほ)


(禅師号)
  黙照天心禅師

  (もくしょうてんしんぜんじ)


(生誕)
  明治34年(1901)11月25日


(示寂)
  平成20年(2008)1月5日


(世壽)

  108歳

披奉如来教(東川寺所蔵)
披奉如来教(東川寺所蔵)

宮崎奕保禅師の書
「被奉如来教」
搭袈裟の偈
「大哉解脱服 無相福田衣 被奉如来教 広度諸衆生」

 

宮崎奕保禅師の略歴

 

明治34年(1901)11月25日
兵庫県加西市下芥田町に(父)宮崎太吉、(母)しげの長男として生まれる。

幼名は「保」。


明治41年(1908)8歳 父(宮崎太吉)が逝去し、祖父の家に引き取られる。

 

明治42年(1909)9歳 寺に預けられる。

(余話)

 
『老衲は明治三十四年十一月二十五日、現在の兵庫県加西市泉町の宮崎家に生まれました。
子供の頃から蒲柳の質、内弁慶で外へでてはものもよくいえないような子でした。
宮崎家は三十二代も続いた庄屋でした。(中略)
老衲が生まれた頃は没落しかけていました。
それというのも父が三十四歳、老衲が八歳の時に亡くなってしまいました。
父は元満州鉄道(満鉄)に勤務していましてが身体を壊して退職し、当時神戸の鉄道に務めていました。
それが原因で放蕩がちで母と離縁してしまいました。
老衲のことで両親の取り合いともなりましたが、宮崎家の長男でもありますから、結局父親の方に引き取られました。(中略)
小学校へ入学するということもあって田舎へ引き取られましたが、当時は尋常小学校は四年生まででした。
老衲はお爺ちゃん子でした。
いま「本家」といっていますが、お爺ちゃんは本家から養子に来たかたでした。
しかも生家は二代にわたり養子を迎えておりまして、曾祖父の頃から庵寺の周旋でした。
庵寺を蓮華寺といいますが、その蓮華寺の尼僧さんと隠居の婆さんは非常に呢懇でした。
その尼僧さんが老衲のことを可愛がってくれました。
蓮華寺の尼僧さんという方が老衲の将来師匠となる小塩誾堂和尚のお姉さんでした。
そんなことから寺に預けられるということになったのです。
しかも、師匠とは遠縁にも当たっていました。
そして小学校四年生の明治四十四年八月二十五日、尼僧さんに連れられて加古川の福田寺に入ったのです。』
~「老衲のこと-九十五年を回顧して-」より~

 

【蒲柳の質】ほりゅうのしつ

体がほっそりしていて病気になりやすい弱々しい体質。虚弱体質。
蒲柳(ほりゅう)とは川柳(かわやなぎ)あるいは猫柳(ねこやなぎ)のことで、ヒョロヒョロと伸びる柳の若木の姿と、秋になるとすぐ葉を落としてしまうことから、蒲柳の質というのは体質がひ弱なことを意味するようになった。

 

明治44年(1911)8月25日 11歳 
世良田護保尼に連れられ、加古川市福田寺の小塩誾堂(コシオギンドウ)師の弟子となる。(世良田護保尼は小塩誾堂師の姉に当たる。)


同年9月1日 転校(小学校)


これより厳しい師に就いて修行する。まず「孝経」を全部暗唱させられ、次に「四書」の「中庸・大学・論語・孟子」。さらに「五経」の「詩経・書経・易経・春秋・礼記」さらに「支選」などの漢籍を学ぶ。

 

 明治45年(1912)(1月1日-7月30日)
 大正元年(1912)(7月30日-12月31日)
 


大正4年(1915)5月 小塩誾堂師に就いて得度する。安名は「奕保(エキホ)」。

大正6年(1917)17歳 福田寺を飛び出し学校に入ろうと準備するが、祖父の死去に遭い帰郷、この時の進学はできなかった。


大正7年(1918)18歳 臨済宗大徳寺で修行する。


大正10年(1920)21歳 兵役、23歳まで3年間の軍隊生活。


大正13年(1924)夏 24歳 神戸般若林福昌寺の秦慧昭師のもと、首座を務める。(秦慧昭師は後に永平寺六十八世貫首となられる。)


大正15年(1926)3月 26歳 名古屋日暹寺の仏教専修中学を卒業。

同年4月、東京の駒澤大学に入るが2年7月で中退し、大徳寺僧堂に掛錫する。

 

 大正15年(1926)(1月1日-12月25日)
 昭和元年(1926)(12月25日-12月31日) 

 

大徳寺山門・絵葉書(東川寺所蔵)
大徳寺山門・絵葉書(東川寺所蔵)


昭和4年(1929)5月23日 29歳 小塩誾堂師の遷化に伴い、同年10月、加古川市福田寺に首先住職。


昭和5年(1930)30歳 三月一日から五月三十一日まで晋山結制(海衆二十八名)。その後、秦慧昭師の印可を受ける。


昭和7年(1932)6月12日 32歳 福昌寺専門僧堂の単頭となる。

この秋、永平寺に瑞世する。

 

この頃、母(しげ)、五十九歳で逝去する。


昭和9年(1934)34歳 永平寺六十八世秦慧昭禅師の晋山開堂に般若林福昌寺の単頭として、福昌寺雲衲三十名余と共に随喜する。


昭和11年(1936)36歳 予備兵として三ケ月間中国に従軍。

 

昭和12年(1937)37歳 神戸市満福寺認可禅林後堂、参禅道場師家、曹洞宗布教師に就任する。

 

昭和12年(1937)7月7日 日中戦争(支那事変)、盧溝橋事件勃発 

昭和16年(1941)12月8日 日米開戦(真珠湾攻撃)

昭和20年(1945)8月15日 太平洋戦争終結(ポツダム宣言受諾、敗戦)


昭和21年(1946)10月28日 46歳 永平寺単頭に就任する。


昭和22年(1947)11月25日 47歳 病を得て、永平寺単頭を辞任し、福田寺にて静養する。


昭和24年(1949)1月26日49歳
 福田寺に「参禅会」を結成する。

 

『兵庫県加古川町福田寺住職・前祖山単頭宮崎奕保師は、昨今は健康を回復され、去る一月二十六日、高祖降誕七百五十年を記念して、同町内有力者の発起による参禅会を発会、今後毎月二十六日を期して、例会を開かれる由。
なお同師は同町常住寺参禅会においては、過去十四年間の長きにわたって従容録を提唱、地方禅風の挙揚に努められている。』(「傘松」復刊第八号12頁より)


昭和27年(1952)4月 52歳 高祖道元禅師七百回大遠忌に臨時単頭を務める。


昭和30年(1955)6月 55歳 総持寺「伝光会」にて「伝光録」を提唱する。


昭和40年(1965)10月9日 65歳 永平寺後堂に就任する。


昭和42年(1967)6月 67歳 永平寺「眼藏会」講師を務める。


昭和43年(1968)4月28日 68歳 丹羽石蔵寺授戒会戒師を務めている時倒れ、福井県立病院に通院する。後堂三年任期満了。

 

昭和44年(1969)1月3日 69歳 粟粒結核を併発し、兵庫県立病院に入院。入院生活、三年四ケ月に及ぶ。

 

この時、三日ともたないと云われた重い結核であったので「どうせ死ぬのなら、坐禅をして死のう」と思い、誰に止められても坐禅をし続けた。


昭和47年(1972)4月 72歳 同病院を退院する。

 

昭和51年(1976)10月9日 76歳 

札幌中央寺の住職となり晋山開堂を修す。

以来、平成5年9月まで、18年間、中央寺住職を務める。

同年(昭和51年)大本山永平寺直末会会長に就任する。

 

札幌に来て、徐々に健康を回復する。


昭和55年(1980)4月 80歳 

永平寺二祖国師七百回大遠忌、報恩授戒会の説戒師を務める。

 

☆宮崎奕保老師・説戒法話(部分抜粋)

「息を整えて時間と空間をひとつにしたもの、それが坐禅です。
道元禅師は『正法眼藏有時巻』に『存在するすべてのものは皆時間である』と説いておられます。
その時間と空間とをひとつにしたところに坐っているのが坐禅なのです。
私の経験を少しお話しますと、私は八十歳になっていますが、かつて、人間のいちばん嫌う病気をしまして、もう九分九厘死んでしまっておりました。
そして、医者の手にかかって、三年半入院しておりました。
病気は粟粒結核といって、三日しかもたないというものでした。
私は、兵庫県加古川という明石の西、姫路の東、日本で最も気候のいいところに住職していたのですが、いまの永平寺の禅師様(秦慧玉禅師)が永平寺に出られるについて、『お前、私の跡をやれ』といわれますので、北海道の札幌へゆきました。
いま申し上げたように大きな病気もしましたし、もう隠居をしようと思っていたのですが、北海道でもう五年目になります。
ところが、ますます達者になって、人には化け物のようにいわれています。
私は病院で、もう死ぬのなら、坐禅をしていようと思いました。
病院のベットの上で坐禅をして、じつは坐禅で今日のように達者になったのです。」

「若き仏たちへ」宮崎奕保著、45~46頁より

 

昭和56年(1981)8月 81歳 

永平寺監院に就任する。

 

耕雲種月・祖山監院奕保衲(東川寺所蔵)
耕雲種月・祖山監院奕保衲(東川寺所蔵)

 

昭和57年(1982)12月8日 82歳 

若き仏たちへ」宮崎奕保著をぱんたか出版より発行する。

 

「若き仏たちへ」-宮崎奕保著(東川寺蔵書)
「若き仏たちへ」-宮崎奕保著(東川寺蔵書)

「若き仏たちへ」宮崎奕保著
あとがき
「いひ捨てし そのことの葉の外なれば 筆にも跡をとどめざりけり」
これは道元禅師傘松道詠の中の不立文字と題するお歌です。
儒聖の孔子も「述べて作らず」と言っているとおり、文字に残れば仏法では法を謗ったことになると古来から言われています。
高祖さま(道元禅師)のお詠(うた)の「言い捨てる」とは、言外の言で非にして語るとでもいいますか、跡方を留めればすでに大道の瑕(きず)であるということになりましょう。
さて、私が昭和五十五年春、二祖さま(懐奘禅師)のご遠忌に報恩授戒会中、説戒師を拝命してお取次ぎをしたものがいつの間にか録音されていて、この度、文字となって曝(さら)け出され洵に慚(はず)かしい仕儀にいたりました。(中略)
高祖道元禅師さまは「行履とは仏祖の服を着て仏祖の道を行うこと」であるとお示し下さっています。行履とは日々の行いです。
儒聖の言葉に「先王の服を着て先王の政事を行えばこれ先王なり」とあります。
先王とは聖人のことです。
聖人の真似をしておればたとえ仮のものであってもマネルということが続いて習慣になれば、それはただ単に真似事ではなく、そのままが聖人ということを説きぬいている姿なのです。
反対に悪人盗人の真似をすればそれがたとえ真似であっても警察犯処罰令にふれてしまいます。(後略)  ~宮崎奕保著「若き仏たちへ」より~

 


昭和58年(1983)12月 83歳

 

「永平寺傘松閣天井繪」 発刊の辞

当本山の傘松閣は昭和5年の二祖国師650回忌を記念して参詣者の展待する場所として新築されたものです。

この傘松閣格天井には当時の日本画144人による230枚に及ぶ花鳥の絵ははめら込まれています。

これは当時の監院熊沢泰禅老師を始め豊川妙厳寺主福山界珠老師、宗門の老宿髙橋竹迷老師と日本南画院の大御所であった小室翠雲画伯の御尽力によって成ったものであります。この格天井絵も既に50年を閲し、当時の貫首北野禅師、「傘松余翠万年清」の如くに光彩を放っております。まことに珍重すべき作品といわねばなりません。

道元禅師は730年前に、この越前の志比谷に真実の仏法、只管打坐を開演されましたが、この傘松閣は、永平寺の最初の山号、傘松峰になぞられて命名されております。

しかのみならず一見、俊徹と思われる道場に、恰も華美にして心の和らぐ處ともいえましょう。それが、この傘松閣です。

かつて30歳代で、ここに一枚の作品を描かれた馬来田愛岳画伯には、いまや米寿を迎えられ日本南画界の重鎮として御活躍されておられます。

今回、『傘松余翠』をもとに馬来田画伯に御監修の労をとって頂き、カラー写真にして一冊にまとめることができました。

この上とも天井絵の冊子が参詣者の心の糧となりますよう念じ上げます。

 昭和58年12月     大本山永平寺監院 宮崎奕保

 

永平寺傘松閣天井繪
永平寺傘松閣天井繪


昭和60年(1985)2月16日 85歳 

永平寺監院を辞任。
同年3月15日、永平寺副貫首に当選する。

 

 

 (下の書) 

  「谿声廣長舌」中央奕保衲

 

 中央寺時代 宮崎奕保 (東川寺所蔵)
 中央寺時代 宮崎奕保 (東川寺所蔵)

    (右の聯)

   「微風吹幽松」

    永平副貫首奕保衲書

 永平副貫首奕保衲書 (東川寺所蔵)
 永平副貫首奕保衲書 (東川寺所蔵)

中央寺山門額(撮影・東川寺)
中央寺山門額(撮影・東川寺)

 

永平寺臘八接心の提唱をもとに出版された小冊子。

「髪を断ずるは-宗門の将来を想う- 」

 

髪を断ずるは宮崎奕保著(東川寺蔵書)
髪を断ずるは宮崎奕保著(東川寺蔵書)

「髪を断ずるは-宗門の将来を想う-

 

一、正法興隆は国土の安穩
二、現在の教育では道心は起らぬ
三、僧侶の世俗化が仏法を滅ぼす
四、出家の意義とは
五、宗門の危殆を救うには
六、師家道が頽れて宗風が変った
七、破仏毀釈後の宗勢
八、室内三物は形式だけ
九、師家の払底は宗門の貧乏
十、澆末の比丘沙門に似ず
十一、道は常に反省に生きる

 

あとがき
某年十二月、臘八接心、粉雪の中を坐堂へ赴かれた老師の提唱は鬼気迫るものでした。
曰く「幾度か打擲に会うて、創痕班なり。往時を追懐すれば、毛骨寒し。・・・」
甲斐の祖鏡和尚の懐古を引用されて弁道の何かを雲衲に示されたのです。
今般、計らずも、老師の説示を編集させて頂くことになり、師家の眼光の凄まじさに、接心会提唱が二重写しのように思い出されました。
及ばぬまでも、「お前はどうなんだ」と自分に問いかけて見ました。 編者 誌

~「髪を断ずるは-宗門の将来を想う- 」 より~

 

看脚下-宮崎奕保永平副貫首(東川寺所蔵)
看脚下-宮崎奕保永平副貫首(東川寺所蔵)

 

昭和63年(1988)88歳
「禅の風」第7号
「叢林対談」(大本山永平寺副貫首・宮崎奕保)(女優・司葉子)

 
 昭和64年(1989)(1月1日-1月7日)
 平成元年(1989)(1月8日-12月31日)

 

平成5年(1993)9月7日 93歳 

永平寺七十八世貫首となる。禅師号「黙照天心禅師」。

 

  宮崎奕保禅師(白寿祝賀会リーフレットより)(東川寺所蔵)
  宮崎奕保禅師(白寿祝賀会リーフレットより)(東川寺所蔵)
独坐大雄峰-永平奕保(東川寺所蔵)
独坐大雄峰-永平奕保(東川寺所蔵)

 

(同年、11月15日、楢崎一光、副貫首に当選する。)


同年11月31日、宮崎奕保禅師、永平寺にて晋山開堂を修す。次いで曹洞宗管長に就任する。

 

平成6年(1994)2月15日 94歳 

経行口伝考」を著し、大本山永平寺より発行する。

仏性を生きる-十六浄戒の日ぐらし-」を著し、(株)仏教企画より出版する。 

 

経行口伝考・宮崎奕保著(東川寺蔵書)
経行口伝考・宮崎奕保著(東川寺蔵書)

「経行口伝考」

「交互に足先を半分ずつ出せば一息半歩一趺となる。趺が歩に等しければこうはならない。」「この経行法なら一息半歩半趺でお示しの通りになるし、何時も足の裏に心をおいていなければぐらついたり、歩順を間違えたりする。よくよく参究して下さい。」
口訣の度毎に禅師さまの輝くような眼差しと熱を帯びた語り口が師家としての真骨頂を余さず伝えようとしておられるように思えてなりません。
すべてが坐禅だとお示しになる禅師さまの面目の一分を吾がものにせんと発願し、同釜のご縁をいただいたありがたさを噛みしめております。
希くは、清淨大海衆の行履の指針として法孫のすべてが、一層の参究に身心を傾注せられんことを念じつつ、巻頭の序とさせて頂きます。
  平成六年二月 涅槃会報恩摂心之折
     祖山監院 南沢道人   「経行口伝考」より~

 


仏性を生きる宮崎奕保著(東川寺蔵書)
仏性を生きる宮崎奕保著(東川寺蔵書)

仏性を生きる-十六浄戒の日ぐらし-

 

道元禅師様の疑問
中国でのご修行
道元禅師様の悟り
身心一如
戒ということ
懺悔
帰依三宝
三聚浄戒
十重禁戒
おわりに

 

おわりに
「修証義」に示されております道元禅師様のおことばを取り次ぎしておきたいと思います。「衆生仏戒を受くれば、則ち諸仏の位に入る、位大覚に同う已る」
懺悔と受戒によって、皆様は立派な仏様の一人となられました。
「光陰は矢よりも迅かなり、身命は露よりも脆し、何れの善行方便ありてか過ぎにし一日を再び還し得たる、徒に百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり、設い百歳の日月は声色の奴卑と馳走すとも、其中一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の侘生をも度取すべきなり、此一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり、此行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし、我等が行持に依りて諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり、然あれば則ち一日の行持是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり」
人生はあっという間に過ぎていきます。わたしたちの身体は朝日に消える露よりもはかないものです。どんな善いことをしても、過ぎ去った一日をよびもどすことはできません。それをただ生きているというだけでは、亡骸と同じことです。
しかし、百年を欲望のままにあちこち迷っていたとしても、そのなかの一日でも仏様の教えにしたがった行いをすれば、その百年をみな仏様の行いにしていまう功徳があるのです。ですから、今日この一日の命を大切にしなければなりません。
今日一日をわたしたちが仏様の教えにしたがって生きるとき、すべての人がみな永遠の仏となるのです。   合掌

 ~「仏性を生きる-十六浄戒の日ぐらし-」より~

 


 

平成6年(1994)3月1日 94歳
「禅の風」第13号
「巻頭対談 幸せを味わう」(宮崎奕保禅師)(女優・髙橋惠子)

 

平成6年(1994)

佐竹永湖筆「大休悟由禪師像」に賛を記す。

「頭正尾正明治聖僧。奕堂印授永平重興。

 平成六龍舎申戌 永平寺七十八世奕保敬賛」

 

平成7年(1995)6月 95歳

「傘松閣」改築落成式典。

 

「傘松閣」・奕保衲書 (永平寺傘松閣)(撮影・東川寺)
「傘松閣」・奕保衲書 (永平寺傘松閣)(撮影・東川寺)

 

平成7年(1995)6月 95歳


高祖道元禅師七百五十回大遠忌事務局発足。

 

禅師自身発願の「納経塔」建立の地瞋祭を挙げる。

( 中央寺にいる時より毎日、暇を見つけては「般若心経」の写経をし続ける。)

 

宮崎奕保禅師の般若心経の写経 (掛け軸所蔵・東川寺)
宮崎奕保禅師の般若心経の写経 (掛け軸所蔵・東川寺)

 

平成7年(1995)7月6日 95歳

「老衲のこと-九十五年を回顧して-」不老閣主述、を大本山永平寺より発行する。

老衲のこと・宮崎奕保著(東川寺蔵書)
老衲のこと・宮崎奕保著(東川寺蔵書)

 

「老衲のこと-九十五年を回顧して-」不老閣主述

(前述略)
そういえば、もう四、五年前になりますが、老衲とも深い関係にあった本山七十六世秦慧玉禅師さまのお父さんの出身が岡山県津市であることが明らかとなって追善供養会が行われました。
老衲も発起人の森田愚幼尼から招待されて出席させていただきました。
その時、郷土史家の木村岩治さんという方が「秦慧玉禅師のご先祖について」と題して講演をなさいました。
それを拝聴していて、当時(明治維新後)は新文化の風潮の強かった神戸の新開地へ田舎から出掛けたことが分かりました。
慧玉禅師さまの御先祖は旧津山藩士阿部多亀之丞というお方で廃藩置県後は神戸で一旗上げようとなさったようですね。
多亀之丞の子供に蔵六というお方がおって、その蔵六が慧玉禅師さんのお父さんに当たるというのです。
慧玉禅師さまは「五歳で母に生き別れとなって小僧になった」といわれていたことを思い出すのです。
そんなことから老衲も子供の頃一時、母と二人で神戸の兵庫区にすんだこともありますから、或いは街のどこかで慧玉さんとお会いしたり、遊んだこともあったのではないかと想いを回らしたこともありました。(中略)
ところで、昭和四十七年十一月に本山監院の宮崎文輝師から「大本山永平寺育英奨学金制度」の勧募趣意書が各寺院等に配布されました。
その時、老衲はすかさず「育英基金勧募に就いて想う」という一文を草して『傘松』(昭和四十八年三月、三五四号)に投稿しました。
既に永平寺育英会はあれから多くの給費生を生み出し、各方面に於いて十分なる活躍をされていると思うが、当時は雲衲打出を希求しての訴えであった。
これは、後年『-宗門の将来を想う-髪を断ずる』と、一冊になって世に公とされました。
(後略)
~「老衲のこと-九十五年を回顧して-」不老閣主述より~

 


 

 (平成8年9月18日 喜美候部継宗、副貫首に当選する。)

 

平成8年(1996)11月 96歳 納経塔落成式。

 

永平寺納経塔(撮影・東川寺)
永平寺納経塔(撮影・東川寺)
黙照鈴-宮崎奕保禅師 (所蔵・撮影・東川寺)
黙照鈴-宮崎奕保禅師 (所蔵・撮影・東川寺)

 

「黙照鈴」


大本山永平寺第七十八世宮崎奕保猊下御発願による一寄進の納経塔が建立されました。
納経塔の設計と工事管理は我が国、堂宮建築の権威、工学博士・伊藤平左ェ門十二世です。
相輪塔頂部の三用蓮華は、冬季の雪の永平寺を考慮して特に創意を尽くされたもので、全国に類のない永平寺独特の意匠となっております。
この度、竣工・落慶の慶賀にあたり、納経塔の相輪部を髣髴させる意匠を用いて卓上鈴を謹製いたしました。
大本山納経塔の象徴として御愛用下さい。
尚、銘名の「黙照鈴」は、不老閣猊下の禅師号「黙照天心禅師」に由来します。

  不 老 閣

 


 

平成8年11月18日
永平寺通用門前に日中友好記念碑を建立する。

 

西来の祖道我れ東に伝う、月を釣り雲を耕して古風を慕う
世俗の紅塵飛んで到らず、深山雪夜草庵の中
 高祖大師山居偈 法孫 奕保

 

 道元禪師天童得法碑銘
傘松千尋 衣傳如淨 塵念永平 慧燈無盡
 中国仏教協会会長 趙僕初

 

日中友好記念碑 (撮影・東川寺)
日中友好記念碑 (撮影・東川寺)


平成8年(1996)11月 96歳 中国杭州浄慈寺大梵鐘寄進十周年の為、訪中し、天童山、阿育王寺等に拝登する。

 

平成9年(1997)3月1日 97歳

「禅の風」第16号

「巻頭対談 宗教と生きかた」(宮崎奕保禅師)(女優・村松英子)

 

平成9年(1997)6月 97歳
ドイツ普門寺の開山に永平寺七十八世宮崎奕保禅師が拝請される。

(参照)ドイツ普門寺


平成9年(1997)11月 97歳 兵庫県加西市下芥田町の宮崎家旧蹟に「生誕之地」碑が建立される。

 

平成10年(1998)11月1日 98歳

「禅の風」第18号

特集慕古 対談「真実を慕う」(宮崎奕保禅師・草柳大蔵)


平成10年(1998)11月22日 98歳 中国寧波市江厦公園に「道元禅師入宋記念碑」建立され、その開眼除幕式の為、訪中する。


平成11年(1999) 99歳の白寿を迎える。

白寿祝賀会が開催された。

5月5日 兵庫県加古川市「加古川プラザホテル」
6月28日 北海道札幌市「札幌パークホテル」 

 

不老閣猊下白寿祝賀会(東川寺所蔵)
不老閣猊下白寿祝賀会(東川寺所蔵)
白寿祝賀会礼状・不老閣主白寿翁奕保 (東川寺所蔵)
白寿祝賀会礼状・不老閣主白寿翁奕保 (東川寺所蔵)
「耕雲」永平奕保白寿翁 (東川寺所蔵)
「耕雲」永平奕保白寿翁 (東川寺所蔵)

 

同年5月12日 法堂屋根瓦の葺き替え工事の起工式。

 

同年5月末 接賓の大改修に付随して進められていた、七間東司、新到到着処、衆寮当番処などの改修が完成する。

 

同年5月末 不老閣の安下処として花谷多福庵の「長春閣」が完成する。 

 

同年11月1日
「禅の風」第20号
対談「これ食うて茶を飲め」(宮崎奕保禅師 VS 前田常作・画家)

 

同年11月25日

「従容庵録」提唱、和綴本二巻セット限定千部、白寿記念出版される。

 

平成11年(1999)12月
高祖道元禅師750回大遠忌記念事業


道元禅師物語」◆浜田けい子・作 ◆田代三善・画 (株)金の星社発行
大本山永平寺貫首 宮崎奕保猊下 推薦のことば
「百歳を迎えた私ですが、道元禅師さまのご生涯とその教えをこれほどわかりやすくえがいた書物はないと思う。ぜひ十代、二十代のみなさんが愛読されて二度とない人生を充実するための“生きる力”を養って頂きたいと念じます。」 

 

道元禅師物語(東川寺蔵書)
道元禅師物語(東川寺蔵書)

 

平成12年(2000)1月 100歳を迎える。

 

元旦、NHKテレビ「おはよう日本列島」で「百歳のメッセージ」を作家立松和平氏と交わす。(全国放映)

 

同年、1月2日 宮崎禅師と永六輔氏の対談「永六輔の会いたい対談」がフジテレビ系列で全国放映される。

 

同年、5月23日 道元禅師御生誕八百年慶讃法要を修す。

 

 高祖道元禅師御生誕八百年記念 大本山永平寺不腆(東川寺所蔵)
 高祖道元禅師御生誕八百年記念 大本山永平寺不腆(東川寺所蔵)
寂光苑・永平七十八世奕保 (撮影・東川寺)
寂光苑・永平七十八世奕保 (撮影・東川寺)

 寂光苑

佛の光に照らされた常寂光の浄土、心安らかな苑の意である。

道元禅師の御生誕八百年(平成十二年)と七百五十回大遠忌(平成十四年)の記念事業の一つとして景観整備された。

最も奥まった所に開山道元禅師御霊塔が納まる御廟があり、二代尊からの歴住塔・本山特別功労尊宿の塔・及び一般の特別縁故者の墓が並ぶ。

広場には道元禅師稚髪御像・御両親報恩塔(宝篋印塔)・本師天童如淨禅師塔(中国より贈られた)・参学師佛樹房明全和尚塔(無縫塔)ならびに鐘楼(参拝者も鐘を撞くことができる)が建立されている。

 平成十二年五月吉日

  本山七十八世奕保禅師代

           永平寺

 

 寂光苑・永平寺(撮影・東川寺)
 寂光苑・永平寺(撮影・東川寺)
 道元禅師稚髪御像(撮影・東川寺)
 道元禅師稚髪御像(撮影・東川寺)

 

平成12年(2000)11月25日

「永平梅-壹百寿翁の御垂示-」を大本山永平寺祖山傘松会より出版する。

 

 

「永平梅」宮崎奕保著(東川寺蔵書)
「永平梅」宮崎奕保著(東川寺蔵書)

「永平梅-壹百寿翁の御垂示-」

目次
平成十二年の元旦に当たり
八百年慶讃法要御垂誡
管長就任御垂示
御垂誡 報恩授戒会相見並びに朝参の拝
御垂誡 曹洞宗被差別戒名物故者追善供養法会
御征忌相見の拝並びに謝辞
御垂示(要旨)毎朝仏壇に線香を立てて坐禅を
宮崎奕保猊下略歴

以上

 

「道元禅師さまは非常にご苦労をなさって如淨禅師というお方について、お釈迦さまから伝わった真理を参究された。
だまって真理を実行するのが坐禅。
昔からよく言う通りに『ああせよと口でいうよりこうせよとしてみせてこそ教えなりけり』という。
してみせ実行してみせなければ教えというものは役に立たないんだ。
頭で理解したらそれが悟りではなくて、それを知ったならば実行するところに悟りがある。
(中略)
わが曹洞宗の信徒のお方は安心を得るのには何が元ですかといったら、只管打坐だ。
坐禅は足を組み手を組む。
道元禅師さまの禅ということはさっき言った戒定慧の三つのうちの定、禅定という、そういう坐禅ではない。
道元禅師さまの仰る禅とは仏法のことだから、仏法は坐っておるから坐禅。
だから働いておったらそれは働き禅である。
坐禅から全てが始まる。
みなさま方、ご安心を得ようとなさったらどうぞ坐禅をして下さい。
一日中坐禅ができたら、それに越したことはありませんけれども、お互いはみな生活がかかっておりますから、どうぞ朝起きられたら仏壇の前に坐って線香をまっすぐ立てる。
まっすぐ立てるということは真理です。
ゆがんでおるということは邪だ。
そして仏さまの鼻筋と自分の鼻筋とがまっすぐになる。
その間に線香をまっすぐに立てる。
そして先祖さんに何もお願いする必要はないから『どうも私を生んでくださいましてありがとうございます』それだけでいい。」
(後略)
 ~「永平梅-壹百寿翁の御垂示-」より~

 


(平成12年8月21日 福山諦法、副貫首に就任する。)

 

同年12月21日 永平寺接賓(三階建て・地下一階、地上二階)工事が完了する。

新接賓は一階は堂行寮、首座寮、維那寮、講師寮で、二階は単頭寮、後堂寮、西堂寮で、地下一階は八十畳の大講堂です。 

 

平成13年(2001)1月3日 101歳

宮崎奕保禅師と瀬戸内寂聴さんの新春対談「会いたい対談」が福井テレビの企画により放映される。

 

平成13年(2001)3月31日 101歳 NHKハイビジョンスペシャル「永平寺修行の四季」が放映される。


平成14年(2002)102歳

 

3月より10月まで高祖道元禅師七百五十回大遠忌報恩法会を修す。

 

高祖道元禅師七百五十回大遠忌ポスター(東川寺所蔵)
高祖道元禅師七百五十回大遠忌ポスター(東川寺所蔵)
慕古心-永平壱百弐衲奕保(東川寺所蔵)
慕古心-永平壱百弐衲奕保(東川寺所蔵)

慕古心

 

時を越えて人を超えて、語り受け継がれ、伝えられる真実(本当のこと)は永遠に輝いて、いつも新しいのです。
道元禅師は現代を生きる私たちに真実をたくさん教え示して下さっています。
その一つ一つを学び、実践する事を「慕古心」というのです。
慕古心」とは「永遠の真実」を探し求めることであります。

 

 

高祖道元禅師750回大遠忌参拝記念(東川寺所蔵)
高祖道元禅師750回大遠忌参拝記念(東川寺所蔵)
高祖道元禅師750回大遠忌記念品(東川寺所蔵)
高祖道元禅師750回大遠忌記念品(東川寺所蔵)
一心只在梅花上・永平壱百弐衲奕保 (東川寺所蔵)
一心只在梅花上・永平壱百弐衲奕保 (東川寺所蔵)

 

同年3月、大遠忌を記念して「聖宝閣」を改築する。

 

 永平寺「聖寶閣」・七十八世奕保衲 (永平寺蔵)(撮影・東川寺)
 永平寺「聖寶閣」・七十八世奕保衲 (永平寺蔵)(撮影・東川寺)
永平寺「瑠璃聖寶閣」・永平七十八世奕保衲(撮影・東川寺)
永平寺「瑠璃聖寶閣」・永平七十八世奕保衲(撮影・東川寺)

 

同年5月、道元禅師七百五十回大遠忌、高野山合同報恩法会の為、高野山金剛峯寺を訪れる。

 

永平寺 交誼 高野山」 平成14年(2002)7月25日 発行 

 ひろさちや監修 総本山金剛峯寺・発行

「高祖道元禅師七百五十回大遠忌を契機として、世界平和を念じ、今、仏教史上初めての両山による交誼が結ばれた。」

特別協力

曹洞宗大本山永平寺

高野山真言宗総本山金剛峯寺

 

永平寺交誼高野山(東川寺蔵書)
永平寺交誼高野山(東川寺蔵書)
永平寺交誼高野山(東川寺蔵書)
永平寺交誼高野山(東川寺蔵書)

 

平成14年(2002)9月15日


「大本山永平寺 瑠璃聖寳閣」が大本山永平寺より発行される。


【目次】
 一、聖宝閣・一華蔵
 二、道元禅師 入宋
 三、道元禅師 墨蹟と遺品
 四、道元禅師 その周辺の人々
 五、永平寺の歴史一 道元禅師以後の永平寺
 六、永平寺の歴史二 武家関係資料
 七、永平寺の歴史三 朝廷関係資料
 解説
 永平寺年表・歴代住職

「永平寺瑠璃聖寶閣」永平寺発行(東川寺蔵書)
「永平寺瑠璃聖寶閣」永平寺発行(東川寺蔵書)

 

平成14年(2002)9月29日 道元禅師七百五十回大遠忌、正当出班法要を修す。

 

 平成15年、地方巡錫にて香語を述べられる宮崎奕保禅師     (撮影・東川寺)
 平成15年、地方巡錫にて香語を述べられる宮崎奕保禅師     (撮影・東川寺)

 

平成15年(2003)103歳

 

風吹不動天辺月 永平奕保壱百三壽衲(東川寺所蔵)
風吹不動天辺月 永平奕保壱百三壽衲(東川寺所蔵)
百草頭上無邉春 永平奕保壱百三壽衲(東川寺所蔵)
百草頭上無邉春 永平奕保壱百三壽衲(東川寺所蔵)

 

平成16年(2004)6月12日 104歳 

NHKより「NHKスペシャル~永平寺104歳の禅師」が放映され、大反響を呼ぶ。

 

百花春至為誰開 永平奕保壱百四壽衲 (所蔵・東川寺)
百花春至為誰開 永平奕保壱百四壽衲 (所蔵・東川寺)
燒香偈・礼拝偈・永平奕保壱百二二壽衲 (所蔵撮影・東川寺)
燒香偈・礼拝偈・永平奕保壱百二二壽衲 (所蔵撮影・東川寺)

 

燒香偈
「戒香定香解脱香。光明雲台遍世界。供養十方無量佛。供養十方無量法。

供養十方無量僧。見聞普薫証寂滅。」

  永平奕保壱百二二壽衲 

礼拝偈
「能礼所礼性空寂。自身他身体無二。願共衆生得解脱。発無上意帰真際。」

  永平奕保壱百二二壽衲

 

宮崎奕保禅師が法堂に出られ、拈香燒香される時、あるいは御本尊に向かって礼拝される時、侍者を勤める僧は禅師がいつも何かブツブツと云っているのが気になっていた。

或る時、その僧は禅師の云っているのを静かに聞いた。
そして禅師が燒香される時は「燒香偈」、礼拝される時は「礼拝偈」を唱えていることに気付いた。
禅門には洗面の偈、楊枝の偈、入浴の偈など事事に応じて沢山の偈文がある。
僧侶になって始めの頃はその偈文を唱えもするが、そのうちいつしかあまり唱えなくなってしまう。
なんとこの百歳を越えた禅師はその偈文を忘れることなく、必ず唱えていたのである。
誠に法に親切な宮崎奕保禅師にその僧は自分を恥じ、改めてより一層深く禅師に帰依したことは言うまでも無い。

 

又、普通には年齢を百四と書くところ、「百二二」と書いてある。
「禅師はよほど四(死)が嫌いなのだなあ」と云った人がいるが、そうでは無い。
「四」を「二二」と書くのは従来より禅門に伝わる書き方なのである。

 

平成16年(2004)

画家の田淵俊夫が描いた「自頂相」に賛を記す。

「高祖家風如是法。打成一片恁麼傳。正身端坐無他事。相續潜行百有年。

 永平七十八世 奕保百二二壽衲賛」 

 

平成17年(2005) 105歳

 

明月清風富一生 永平奕保壱百五壽衲 (東川寺所蔵)
明月清風富一生 永平奕保壱百五壽衲 (東川寺所蔵)

 

平成18年(2006) 106歳

 

徹通禅師七百回御遠忌事業
平成18年4月 二師寮改修竣工。
平成18年9月 一華蔵、法堂東司改修竣工。
平成18年10月 法堂須弥壇修復完了。
平成18年11月 唐門修復竣工。 

 

平成18年3月10日

「禅の風」第29号 特集 行 永平寺の禅 大本山永平寺貫首宮崎奕保 

 

佛道無上誓願成 永平奕保壱百六壽衲 (東川寺所蔵)
佛道無上誓願成 永平奕保壱百六壽衲 (東川寺所蔵)
水清徹地兮 魚行似魚 永平奕保壱百六壽衲 (東川寺所蔵)
水清徹地兮 魚行似魚 永平奕保壱百六壽衲 (東川寺所蔵)
現成公案・永平奕保壱百六壽衲 (大休寺山門額)(撮影・東川寺)
現成公案・永平奕保壱百六壽衲 (大休寺山門額)(撮影・東川寺)

 

平成18年(2006)8月

 

杉本俊龍著「眼蔵家の逸話」が覆刻発刊されるに当たり、巻頭に「現成公案」「如在」の書を寄せ、さらに「刊行に寄せて:永平遠孫百六寿翁奕保謹識」として賛を載せる。

眼蔵家の逸話 杉本俊龍 著 大法輪閣発行
眼蔵家の逸話 杉本俊龍 著 大法輪閣発行

 

平成19年(2007) 107歳

 

5月30日 如意庵落成式。


8月31日 真陽閣が(新副貫首寮、木造平屋建三十三坪)竣工する。

 

10月10日 「傘松」発刊八十周年特集。 

 

この年、徹通禅師七百回御遠忌事業の一環として、山門の「額」、「聯」、中雀門の「聯」の修復、宝物館収蔵の「毘沙門天、勝軍地藏、弁天」の修復、祠堂殿の天蓋、幢幡の洗浄修復、山門楼上の「日本曹洞第一道場」額、浴室「香水海」額の修復、山門「四天王像」の修復が行われた。

 

(参考)

山門四天王の修復が二ヵ年に亘り行われ、平成20年5月31日、「東方持国天像」が最後に修復され祖山に納められた。
この折、東方持国天像の宝冠左側の垂れ部分に銘刻「明和八年(1771) 錺師 卯八月 豊田伊兵衛吉房」が見つかり、これにより今まで分からなかった四天王の製作年代が判明した。
即ち、永平四十七世天海薫元禅師代に山門の「吉祥の額」と時を前後して製作納入されたのが「山門四天王」だった。 (参照、傘松・平成20年7)

  

曇華一朶開逢春 永平奕保壱百七壽衲 (東川寺所蔵)
曇華一朶開逢春 永平奕保壱百七壽衲 (東川寺所蔵)
無一物中無尽蔵 永平奕保壱百七壽衲 (東川寺所蔵)
無一物中無尽蔵 永平奕保壱百七壽衲 (東川寺所蔵)

 

平成19年(2007)10月12日 駒澤学園80周年記念式典に出席する。
10同月27日、東京別院長谷寺の御征忌法要を務め、御垂示される。

11月7日より11日、宮崎市善栖寺にて因脈会を厳修される。
11月17日、永平寺首座法戦式を無事務めた首座と話され、次の日、18日、永平寺にて御親香法要を務められたのが最後の法要となる。

 

11月25日 満106歳の誕生日を無事に迎える。

 

平成20年(2008)1月5日
療養先の札幌の病院にて遷化。世壽百八歳。

 

遺偈 「慕古真心 不離叢林 末後端的 坐断而今」

 

遺偈は小さな紙に書かれていた。
そこには遺偈の後、ひらかなで「さようなら ありがとう」の文字があった。

 別資料には(さようなら ごくろうさまでした)とある。

 

宮崎奕保禅師茶寿記念品より(東川寺所蔵)
宮崎奕保禅師茶寿記念品より(東川寺所蔵)
宮崎奕保禅師・遺偈・本葬記念品
宮崎奕保禅師・遺偈・本葬記念品

 

同年1月11日 永平寺にて密葬

 

 秉炬師 福山諦法猊下(大本山永平寺七十九世貫首)
 奠茶師 松原冭流(盛景寺住職)
 奠湯師 南澤道人(中央寺住職)
 起龕師 神谷俊雄(含笑寺住職)
 対真小参・大夜念誦 大田大穰(皓台寺住職)
 掛真師 楢崎通元(瑞応寺住職)
 鎖龕師 秦 慧孝(宝昌寺住職)
 移龕師 羽仁素道(龍華院住職)
 入龕師 青山平立(景福寺住職)
 安位諷経 永井孝道(朝日寺住職)
 通夜説教 木崎浩哉(興禅寺住職) 

 

平成20年(2008)大本山永平寺慶弔会

 

永平七十八世貫首 宮崎奕保禅師本葬荼毘式
4月4日(金) 午後4時 逮夜 
4月5日(土) 午前9時 本葬荼毘式

 秉炬師 大本山總持寺大道晃仙紫雲台猊下 

 

永平七十九世新貫首 福山諦法禅師晋山開堂 
4月5日(土) 午後1時 晋山開堂

 



 

宮崎奕保禅師法語「没絃琴」洋本・東川寺蔵書
宮崎奕保禅師法語「没絃琴」洋本・東川寺蔵書

 

平成22年(2010)8月20日
「没絃琴」宮崎奕保禅師法語録(発行人・宮崎奕保禅師法語録編集室代表中村典篤、発行所・大法輪閣)洋本が発行された。

 

「没絃琴」宮崎奕保禅師法語録

「序に代えて」

 

「大本山永平寺七十八世栴崖奕保禅師は平成五年九月、御歳九十三のご高齢で祖山に登られました。
その時『この歳をしてお山に登るとは前代未聞だろう、何年勤まるか知れないがよろしく』とお言葉されましたが、爾来十五年に亘る歳月を貫首として山務を董理され、又地方へのご親化にも寧日なく務められ、特に高祖大師ご生誕八百年と七百五十回大遠忌奉修の大業を成し遂げられて、平成二十年一月五日世壽百八歳で静かに化を他土に遷されました。
禅師は只管打坐の佛法を身を以って示された偉大な禅者であられ、常に僧堂裡に赴かれて若い雲衲衆と共に行持せられることを本望としておられましたが、その禅定力はご幼少の頃より育てられたご本師小塩誾堂老師のご指導と綿密な厳しい行持によって養なわれたことでありましょう。
特にご本師は宗門の碩学で漢籍の泰斗でもあられた由で、禅師は小僧時代に祖父と孫程もの年齢差のあるご本師から宗典祖録や漢籍古典を直接ご指導いただいたとの事でした。
従って、禅師のご提唱やご垂示には古典の文言が多く語られ、ご本山で取材する傘松編集子も数々苦労されたようであります。
此の度、永く禅師の近瓶に随侍された元不老閣侍局中村典篤老師始めご縁の諸老師方によって『没絃琴』と命名された禅師の法語集が上梓されたことは誠に有難い法幸であります。(後略)」
 大本山永平寺副貫首 南澤道人叩頭九拜

 

 

宮崎奕保禅師法語「没絃琴」和本・東川寺蔵書
宮崎奕保禅師法語「没絃琴」和本・東川寺蔵書
宮崎奕保禅師法語「没絃琴」和本・乾坤 (東川寺蔵書)
宮崎奕保禅師法語「没絃琴」和本・乾坤 (東川寺蔵書)

 

平成22年(2010)9月29日
宮崎奕保禅師法語録「没絃琴」(発行者・中村典篤、発行・宮崎奕保禅師法語録編集室)和本、乾坤二巻が発行され、関係者に贈呈された。

 

宮崎奕保禅師法語録「没絃琴」

編集後記

 

故宮崎禅師は平成二十年一月五日早暁、世壽百八歳でご遷化されました。
二十世紀の始まりの一九〇一年(明治三十四年)生まれですから、二十世紀を丸々生き抜かれて更に八年のご生涯でした。
嘗て故禅師の語録を側近の随徒数人が勝手に出版しようとした際、「そんなことは衲(わし)の死んだ後でやればいい。」と不快感を示され、事後承諾は頂いたものの自ら筆を執られて、「いい捨てし、そのことの葉の外なれば、筆にも跡をとどめざりけり」という高祖大師のお歌と、儒聖孔子の「述べて作らず」のお言葉を引用され、「文字に残れば仏法では法を謗(そし)ったことになる。これも自領出去で罪科を懺悔する」と後記されたことを想い出します。
この度、故禅師の法語集を編纂させて頂くにあたり、前例に倣ってこれを実行するしか路無しと墓前に跪地百拝する他ありません。
今般の法語録上梓に際し、不老閣猊下から玉稿ご染筆を、又、副貫首老師から巻頭言を賜り、無上の法幸と感激一入であります。
(中略)
尚、諸般の事情により故禅師ご親化法語、又祖山単頭、後堂、監院、副貫首時代の出会法要法語の全てを網羅することが出来ませんでしたことを関係ご寺院に稽首してお詫び申し上げます。
 前 侍局長 中村典篤 杜多百拝

 



「寫禽跡」-随伴参話-(東川寺蔵書)
「寫禽跡」-随伴参話-(東川寺蔵書)

 

平成26年(2014)9月25日

 

「寫禽跡」-随伴参話-

黙照天心禅師、大本山永平寺七十八世旃崖奕保大和尚の七回忌記念として、長く故禅師の侍局長をされた、中村典篤師が「『寫禽跡-随伴参話-出版され、関係者に配布された。(非売品)

これは謂わば、宮崎奕保禅師が永平寺の禅師になるずっと前より、随身していた中村典篤師の『宮崎奕保禅師・随聞記』のような書です。

 



松老雲閑-永平奕保禅師 (東川寺所蔵)
松老雲閑-永平奕保禅師 (東川寺所蔵)

 興化師承 東堂迎侍
 銅瓶鉄鉢 掩室杜詞
 松老雲閑 曠然自適
 面壁未幾 密付将終
 正法誰伝 瞎驢辺滅

 (臨済録)

 


無事坐-永平奕保衲 (東川寺所蔵)
無事坐-永平奕保衲 (東川寺所蔵)
春来草自生・門前田中屋所蔵  (撮影・東川寺)
春来草自生・門前田中屋所蔵  (撮影・東川寺)

 兀然無事坐 春來草自生

 『景徳伝灯録』

 



 

偉くならなくてもいい、有難いお坊さんになりなさい


宮崎奕保禅師は立職する僧侶、あるいは得度する子供、とにかく若い僧侶に接する機会があると必ずと云っていいぼど「偉くならなくてもいい、有難いお坊さんになりなさい」と声をかけて励ましていた。

 

折り鶴

 

宮崎奕保禅師は会議あるいは会食などで、禅師が発言することが無く、手持ちぶさたになると、お菓子の包み紙、お茶菓子の懐紙、箸の袋紙など小さな紙を見つけて器用に小さな折り鶴を折っていることが多かった。

小さな鶴を折ることは指先を使う細かい作業で、このことも宮崎禅師の長寿健康の一つの秘訣かも知れない。

 

盤談

 

宮崎奕保老師が札幌中央寺住職に就任され、大きな法要を営むことになり、その案内状が北海道の御寺院住職の元に届いた。
その後間もなくして中央寺を会場にして別な件での会議があった。
その法要案内を受けたある僧侶が「この間、中央寺様から法要案内を戴いたが、文面最後に『奕保 盤談』とあった。九拜なら解るが、これはどういう意味なのか」とその座に連なる僧侶方に聞いた。
「碁でも打ちながら相談しようというのではないか」などと冗談を言う者はいたが、誰も正確に答えれる者は無く、ついにその場の重鎮の僧が「わしが直接、中央寺御前に会って聞いてきる」と云って方丈に向かって行った。
しばらくすると、ニコニコ笑いながら帰って来た。
皆はどうだったのか訊ねたところ、宮崎奕保老師から聞いてきたその重鎮の僧はなんともきまり悪そうに答えた。
「あの盤談は和南のことだそうだ」と。

 

【和南】わなん
《(梵)vandanaの音写》目上の人に敬意を表してその安否を尋ねる語。

 

 



宮崎奕保禅師亡き後の余波

 

① 幻の茶寿祝賀会
平成19年の秋より、関係者の間では平成20年1月下旬開催予定の宮崎奕保禅師の茶寿の祝賀会準備を進めていました。
しかし、平成20年に入った途端、宮崎禅師が遷化され、茶寿の祝賀会は幻となってしまいました。
宮崎禅師の本葬も滞りなく勤め終わって暫くしてから、すでに用意されていた茶寿の記念品が関係者に渡されたのです。

この記念品を渡され、開いた途端、思わず涙した者も少なくなかった。 

 

宮崎奕保禅師茶寿記念品 (東川寺所蔵)
宮崎奕保禅師茶寿記念品 (東川寺所蔵)

 

② 永平三世徹通禅師七百回御遠忌の記念品
平成20年4月16日より21日にかけて、永平寺では三世徹通禅師七百回遠忌の本法要が執り行なわれ、その時参拝者に参拝記念品が渡されましたが、その記念品は宮崎奕保禅師が書かれた「喜心、老心、大心」の額入りの小色紙でした。
これは宮崎奕保禅師がこの遠忌の為に用意されていて絶筆となった書です。

 

宮崎奕保禅師 「喜心・老心・大心」 徹通禅師七百回御遠忌参拝記念品 (東川寺所蔵)
宮崎奕保禅師 「喜心・老心・大心」 徹通禅師七百回御遠忌参拝記念品 (東川寺所蔵)

 

③ 「NHKスペシャル~永平寺104歳の禅師」のNHK番組制作プロデュースをした石川昌孝著の「坐禅をすれば善き人となる」-永平寺 宮崎奕保禅師 百八歳の生涯-と云う題の本が、平成20年(2008)4月5日永平寺で本葬が執り行われた日、講談社より出版発行された。

 

④ NHK-TVでの放映

◎ 平成20年(2008)12月29日 放映 「耳をすませば~あの人からのメッセージ2008 ~心静かに 心激しく~ 禅と闘病 2つの生き方~ 」
(自ら癌と闘いながら、その生き方を問い続けた柳原和子(作家)と宮崎奕保禅師の生き方を見つめた番組。)

◎ 平成21年(2009)6月16日 放映 「NHK映像ファイル あの人に会いたい宮崎奕保(僧侶)」
(今は亡き宮崎奕保禅師の坐禅一筋の生涯を振り返り、禅師を偲び、再びその生き方に感動させられた番組。)

 



参考資料

「若き仏たちへ」 大本山永平寺監院 宮崎奕保著 ぱんたか出版・発行

「髪を断ずるは-宗門の将来を想う-」 大本山永平寺副貫首 宮崎奕保著

「経行口伝考」 宮崎奕保著 大本山永平寺・発行

「仏性を生きる-十六浄戒の日ぐらし-」 宮崎奕保著 (有)仏教企画・発行

「老衲のこと-九十五年を回顧して-」不老閣主述 宮崎奕保著 大本山永平寺・発行

「永平梅-壹百寿翁の御垂示-」 宮崎奕保著 大本山永平寺祖山傘松会・発行

「新編 若き仏たちへ」 曹洞宗大本山永平寺貫首 宮崎奕保著 ぱんたか出版・発行

「宮崎奕保禅師法語録・没絃琴」 宮崎奕保禅師法語録編集室 中村典篤・発行

「禅の風」No.33 曹洞宗宗務庁・発行

「坐禅をすれば善き人となる」-永平寺 宮崎奕保禅師 百八歳の生涯- 石川昌孝著 

 株式会社講談社・発行

 

 NHk DVD 「永平寺」

  ① NHKスペシャル「永平寺 104歳の禅師」

  ② ハイビジョンスペシャル「永平寺 修行の四季」

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