訂補建撕記図会(乾)

 

(永祖行實・訂補建撕記図会 乾)

 

この「訂補建撕記図会」は建撕師の「永平高祖行状記」を面山瑞方が訂補した道元禅師の行状記に基づき描かれた図会文章であり、現今では否定あるいは疑問視されている箇所も多い。

従って、この「訂補建撕記図会」は道元禅師行状記としては信頼出来ない部分も多くあるが、しかし又、参考になる箇所も無い訳ではない。

さらに従来より、この「訂補建撕記図会」を基に書かれた「道元禅師伝」も多く出版されているため、敢えて、ここに掲載する

尚、面山瑞芳の「訂補建撕記」とそれより古い写本(天正本、瑞長本・建撕記)との違いは永平寺御開山・道元禅師の項を参照して戴きたい。

 

(原本は漢文のところ、和文に直し記した箇所が多々あることを御了承下さい。)

 


 

訂補建撕記図会

 乾巻 永福面山訂補 輪王大賢等図会

 

撕師ノ假字ノ記ハ原ト檀信ノ爲ニ作レリ。慈懐至レリ。加之。方老、記ノ闕漏ヲ訂補シテ精致盡セリ。而ルニ今吾儕、竊ニ其ノ微意ヲ探テ、又縁飾スルニ圖繪ヲ以テシ、併セ刊リテ以テ慕古ノ誠ヲ表ス。蓋シ其ノ意專ラ、愚夫愚婦ノ輩ヲシテ、此ニ由テ或ハ、炙セ祖烈ヲ親炙セ使ムルニ在ルノミ。敢テ之ヲ報恩ト謂フニハ非ズ也。販ノ罪ヲ嗤責スルカ若キ者モ、冀クハ亦逆順ノ勝縁ヲ結バン爾。

 文化三年丙寅孟秋自恣日

    遠孫沙門・岡珍牛謹題 (瑞岡珍牛)

 

凡例

一、此の擧は去りし享和二年(1802)壬戌、忝くも

宗祖の五百五十年遠諱に値れり。因に我儻の慈師、珍牛。大賢、信の定津禪達、越の萬慶佛麻等の耆宿に計り、化をその齊筵の清衆に募り、淨財を収て、奥の俊量なるものに托し、鐫行に従事せしむ。しかるに量不幸にして寂す。此を以て暇どること、すでに五白。ことし我儻重て師命を承て、向に脱落せる畫圖等を攈拾し、且つその遺漏あるものを補綴して、更に梓の登せて、前志を償ふもの爾り。

一、建撕記の詳悉なる、尊信して徴すべく、また方面山の訂補も、勤て善美を盡せり。今この圖と三本を併刻して、はじめて盧の眞面をあらはさんと要す。

一、今記文の次第に依て、圖繪を作といへども、訂補師の附録に載せる、血脈度霊の如きは、波多野氏、宗祖の歸仰して、永平寺を創業するの基ひと聞ふ。故に其年歴を考へ、上せて所依を定む。覧るもの、請ふ意を用よ。

一、奘和尚、秉拂の如きは、祖師の行式と混同するが故に、且く圖を載せず。其餘挙て益すること少きは、すべて繁雑を怖れて、間これを省くことあり。疎漏をつみすることなかれ。

一、撕師、檀信の爲に、假字(かな)を以て記す。その意深して且つ篤し。然るに今又この圖を交加するものは、醜人の重て、その里に矉するに異ならず。されど、冀くは、此土同門の驅烏雛僧を導き、且は四遠信檀の児女庸輩に便せん。各近きよりして、遠を致さば、畢竟普く宿植とならんのみ。

一、畫中の詩、詩中の畫、もとより親く融會せんことを欲す。この圖面に於て、些の親意を加へき。たヾ彼の長小を此に短大にし、及び春をうつすには花を添へ、秋をゑがくには月を粧ふなどの類、何ぞこれを瞽者の摸索と説ん。全象もとより誤ざればなり。

一、或人、此擧を毀訾していへらく、何ぞ戯玩の甚きやと。この言しかるべしとも思はれず。夫れ上世賢聖の行實、すべて文にあたはざるものは、畫を以て補へり。況や金胎の曼多羅、および拘尸羅涅槃の圖等の如きも、亦戯玩なりと謗るべけんや。蓋し書や畫や、共に迷流を反す臨機の施設のみ。上流豈にかくのごときの破杓を弄せんや。

一、巻尾に、祖山の小圖、一片を附するものは、彼の邊隅未到の人をして、現には宗祖慕越の古へを想像せしめ、當には三上九到の勝因を結ばしめん。あヽ開闢以来、殆ど六百の星霜を歴るといへども、豈に山は砥となり、河は帯とならんや。

 丙寅七月望   侍者 黙室・白龍 焚香九拝謹識

 

  訂補建撕記図会-1
  訂補建撕記図会-1

 

日本曹洞の初祖、越前州吉田郡志比の荘、吉祥山永平寺の開山道元和尚の誕生以来の事は、年譜並びに広録等に載せる所分明なれども、末世の童蒙等の身易からん為に、片仮名を以て、之れを抜き書きする殊(こと)は永平檀那第七世沙弥元忠、之れを所望するに依るなり。法孫比丘建撕之れを記す。

 

 補 建撕和尚は、永平寺の第十三代なり。僧史に伝見えず。

(尚、永平寺世代改訂により現在は永平寺第十四世建撕禅師となっている。)

 

土御門院(人皇八十三代)正治二年庚申正月二日に、道元和尚誕生す。洛陽の人、源氏、村上天皇九代の苗裔。后中書王八世の遺胤なり。母懐妊の時、空中に声有り、告げて曰く、此の兒は五百年以来、肩を齊(ひとし)うする者無き大聖人なるべし。今、倭国に、正法を興隆せんが為に生まると。亦、相人視て云く、此の兒は常の童兒に異なれり。必ず是れ聖人ならん。七処平満して骨相奇秀に、眼に重瞳あり。是れ凡流にあらざるべしと。

 

 補 高祖は、久我の内大臣通親公の子にして、母は九條の摂政基房公の娘なり。近世道正菴が請に依て、久我の通名鄕、師の系譜を書し玉うを此に挙ぐ。

 

村上天皇(人王六十二代)――具平親王(二品中務鄕)――師房(賜源姓)――顯房(從一位左大臣)――雅實(久我祖)――雅定(右大臣)――雅通(内大臣從一位太政大臣)――通親(内大臣)┬―通光(太政大臣)――通忠(右大将)

                     └―道元和尚

 

『越前州、吉祥山永平寺初祖、道元禅師者は、村上の皇別きにして、而我先の内相府、源通光公の之令弟也。世に俗譜と称する者以為、右幕下通忠(通光公之嗣)之息、或は亜相具房鄕(通忠鄕二男、愛宕と号す)之子と謂へり也。強いて弁ず可からずと雖も、然も浮辞に移るは已に尚し矣。是に於て姑く歴代を挙て、敢て本根に具う、師は土御門御宇、正治二年庚申を以て、城陽に産る。登(その)時、父公五十有二して、兄通光は十有四也。通忠は未だ生れず。豈に具房を論ぜん乎。其の行実の如は、竹帛之垂るる所、桑華に昭昭たり。今、此出(すい)自を説くは、道正菴卜順か求に依て、書して以て是に応す云う。権中納言源の通名』と。この軸、木下道正菴にあり。寬保三年六月に、余菴主承順を訪し時、順老自ら持ち出でて、壁牙に掛てよましむ。裱褙華麗なり。この旨を知らず。近世の僧史作る人謂うは、永平録の亡父の追薦に、源亜相忌上堂となり。亜相は大納言の唐名なれば、父は定て大納言なり。通親は内大臣なれば、祖師の父にあらずと云えり。これは永平録標指鈔の一巻に云く、或る家の伝譜に、師、内大臣通親之孫、堀川大納言(通親長男)通具之三男となり。この説正と思えるならん。しかれども誤りなり。余考ふるに、師三歳の時、通親薨じ玉ふ。通光は十四歳なれば、長兄通具の養育せられしに由て、その子と謂しなるべし。三歳より養育にて、劬労の恩は、通親よりも重きゆえに、冥福追薦の上堂も、度々せられけるにや、永平広録巻五に、育父源亜相の為に上堂と出たれば、大納言は育父なること明かなり。通具は新古今の撰者に入て、その中に率の大納言に寄すと題せる詩あり。『洞天龍去りて雲空しく惨たり。宮樹鶯留まりて花独り匂し。禁闕昔年、徳馴るるの客。巴陵今日、恩を恋ふの臣。』と。これを考ふれば、父子みな詩歌の達人と見えたり。公卿補任、並に知譜拙記に、建仁二年十月二十日に通親薨ず。五十四歳と。この時、祖師は三歳なり。東鑑に云く、土御門院、御諱は為仁、後鳥羽の院第一の皇子、御母承明門院、内大臣通親公の女、實は法印能圓女。又云、鎌倉将軍宗尊親王西御方、土御門の内大臣通親公の女也(已上)。祖師は連枝多きゆえに、家門の繁栄、後世仰察すべし。

 

  訂補建撕記図会-2
  訂補建撕記図会-2
  訂補建撕記図会-3
  訂補建撕記図会-3
  訂補建撕記図会-4
  訂補建撕記図会-4
  訂補建撕記図会-5
  訂補建撕記図会-5
  訂補建撕記図会-6
  訂補建撕記図会-6
  訂補建撕記図会-7
  訂補建撕記図会-7
  訂補建撕記図会-8
  訂補建撕記図会-8

 

建仁三年癸亥、四歳にして李嶠が百詠を読み玉ふ。耆老の名儒見て讃て云く、凡夫の類にあらず。後来、大器たるべし。これ神童と称すべしと云へり。

 

 補 李嶠、字巨山、唐の時の人、百詠は今も世に流布す。李嶠雑詠と題号ありて、詩百二十首を上下二巻とせり。

 

建永元年丙寅、七歳にして、毛詩左伝を読み玉ふ。

承元元年丁卯、八歳の冬、母死去し玉ふ。

承元二年戊辰、九歳にして、世親の倶舎論を読み玉ふ。時の人称す、利根なること、文珠のごとしと。勤学の時、針を以て股を刺して、眠をさませし古人を慕いて、昼夜意を励ますこと尋常ならず。この時、松殿尊閣とて、摂関の重職あり。天下に雙(ならび)なき学匠の人にて、古今の明鏡、王臣の師範なりと申し伝ふ。此の人、師を取りて、猶子となし、国の切要を教え、家の大事を授けて、以て朝廷の要臣とせんと思い、元服せしめんと計りしに、師自ら謂(おもわ)く、是は我が所望にあらず。如何にもして、出家し学道すべし。

 

 補 松殿考、山城名勝志、洛陽の部に云く、承安三年十二月十六日、関白松殿移徒(わたまし)(中御門鳥丸)本朝通紀に云く、壽永二年、義仲(木曽)、前関白基房の子師家を以て、内大臣と為し、摂政を兼ねる。師家、時に十二歳。東鑑三十二巻に云く、歴仁元年十月四日、松殿禅定殿下師家、天王寺に於いて薨す。今この三件に依て考ふるに、壽永二年癸卯に、師家十二歳なれば、承安二年壬辰に生まる。上(かみ)の承安三年十二月十六日、関白松殿移徒(わたまし)とあれば、師家生まる翌年に、関白松殿と称するは、師家にはあらず。子息の師家をも、松殿と称せしは分明なり。師家承安二年壬辰に生まれ、歴仁元年に薨ずれば、壽(とし)六十七歳なり。祖師十二三歳の比(ころ)は、師家四十一二の比(ころ)なれば、松殿、師を摂家の重職を補は令んと欲すとあるは、師家のことを松殿と指せり。父の基房をも松殿とは称すれども、考ふるに、摂職が祖師より以前にて、時代にあわず。通紀に、仁安三年戌子に、基房左大臣の上に、摂政を兼ぬとあれば、これも祖誕生より、三十三年以前なり。しかれば、基房の祖師を猶子にせんとせられしとあるは、時代違却なり。基房の子師家にて、時代相応なり。基房、師家、父子共に松殿と称せしゆえに、祖伝の行業記に、松殿禪閣とある下に、摂政九條基房公也とあるゆえに、これより後に、祖伝を作るもの、余が実録等も、みなこれを用いて違却せり。ゆえにいま、この伝に、その訳を補入す。大系図の第三巻に云く、

 

大織冠鎌足――淡海公――房前――眞楯――内麿――冬嗣――良房――基經――忠平――師輔――兼家――道長――頼通――師實――師通――忠實――忠通―

┬―基實(六條殿・今の近衛殿の祖なり)

├―基房(松殿)――師家(松殿、この末今は断絶なり)

└―兼實(月輪殿、今の九條殿の祖なり)


松殿基房、治承三年十月六日、関白を止られ、同月十八日に太宰の帥に遷る、即、京洛の外に追る。使はハ大夫の尉源の保綱。同う草津に於、出家。法名善觀。同月二十二日船に乗て出つ。出家に依て備前國に移住す。翌年十二月六日、京に返て嵯峨の邊に居す。寬喜二年十二月二十八日薨。八十七歳。菩提院と號す(已上)。この基房の子は、十四人大系圖に見へたり。(中納言)家房、(左大臣)隆忠、(摂政関白内大臣)師家、(松殿大納言)忠房、(大僧正)仁慶、良觀、(大僧正)實尊、(大僧正)承圓、(権大僧都)道弘、(大僧都)行意、(大僧都)最守、女子、女子、女子、これなり。大系圖には、忠房も松殿と號すれども、東鑑(あづまかがみ)の師家を松殿と稱する方が上官ゆへに理(ことわり)あり。松殿とは、居處の號ゆへに、基房がその始にて松殿と稱し、子息その跡に居られしを、また松殿と稱せしなるべし。師家は、貞永元年九月六日出家。仁治元年十月四日薨す。六十九と、大系圖にはあり。また東鑑には暦仁元年天王寺に於て薨すとあり。これは仁治元の三年已前なり。

 

  訂補建撕記図会-9
  訂補建撕記図会-9
  訂補建撕記図会-10
  訂補建撕記図会-10

 

建暦二年壬申、十三歳の春、夜中にしのび出て、木幡の山荘に到て、それより尋で、叡山の麓に到て、良觀法眼の室に入り玉ふ。法眼は則ち師の外舅なり。師、法眼に向て家をもとめ玉ふ。法眼大きに驚きて問うて云く、元服斯に近し、一族定めて其の憤り有らん如何と。師云く、我が悲母逝去の時、遺囑して曰く、汝相構て出家學道して、我が後世を弔ふべしと。祖母姨母等、養育の恩尤も重し、我出家して彼の菩提をとむらわんとの玉ふ。法眼感涙を催し、即ちゆるして、横川首楞厳院、般若谷の千光房え登せ玉ふ。

 

 補 右の良觀は、基房の息にて、師の母の兄なり。上(かみ)に見ゆ。叡山の學匠なり。觀を顯となす本は筆誤なり。

 

建保元年癸酉、十四歳、四月九日、初て座主公圓僧正に就て、髪を剃玉ふ。同十日、延暦寺の戒壇院に於て、公圓僧正を以て、和尚と爲し菩薩戒を受て比丘と作り玉ふ。爾より天台の宗風、南天の秘教、並に大乘小乘の義理、悉く習ひ玉ふ。夫れ諸の出家は、皆四月八日に落髪を望む所なり。師、四月九日に落髪あることは、一山の評議を以て押へ申すに依て、九日の天暁に落髪あり。この公圓僧正は、横川の麓、奥義の里、妙法院の御事なり。一代の門主、その比、顯密無雙の碩學にて、淨行持律の高僧なり。

 

 補 本朝高僧傳十四巻に載る、城州三鈷寺沙門證空は、源通親公の猶子にて、法然上人の得度なり。後に公圓に就て潅頂の法を承くとあり。大系圖巻五に云く、公圓は山の寂場院、権僧正實圓の弟子にて、慈鎭の潅頂なり。三會の已講、天台座主、建暦三年、清水清閑、闘諍出来し時、座主を辭すとあり。俗譜は

 

藤ノ師輔(十男)○(太政大臣)公季――實成――公成――實季――公實――實行――公教――實房――公圓なり

 

  訂補建撕記図会-11
  訂補建撕記図会-11
  訂補建撕記図会-12
  訂補建撕記図会-12
  訂補建撕記図会-13
  訂補建撕記図会-13
  訂補建撕記図会-14
  訂補建撕記図会-14
  訂補建撕記図会-15
  訂補建撕記図会-15
  訂補建撕記図会-16
  訂補建撕記図会-16


建保二年甲戌、師十五歳、熟く猟の經論を渉り自ら疑ひ有り、謂く、顯密二教共に談ず。本来本法性、天然自性身と。若し此の如くならば、則ち三世諸佛、甚に依てか更に發心して菩提を求や耶。時に之を耆宿に質すに、答釋する者無し。因に三井寺の公胤僧正の觀心に粹と聞て、往て問ふ。胤答曰、此の問、輙く答ふ可からず。宗義有りと雖も、恐は理を盡さず。須く建仁寺榮西に參ずべし。と指揮せらる。

 

 補 本朝高僧傳巻十三、江州園城寺公胤の傳に、三藏を周覧して、顯密に梓なり。衆、佛法補處の人と稱す也。建保四年閏六月二十六日、齢八十餘にして寂す、とあり。新古今和歌集の釋教の部に、公胤僧正の、觀茲於呂如満月、若在軽霧中の詠歌を載て云く、

我が心まだ晴れやらぬ秋霧に、ほのかに見ゆる有明の月。

 

同年に、建仁開山、千光禪師の室に入りて、初て臨済の宗風を聞く。

 

 補 師、建仁栄西に到て便ち問ふ、本来本法性、天然自性身。什麼と爲してか三世諸佛、發心して道を成す。西云く、三世諸佛、有ることを知ず、狸奴白牯、卻て有ることを知る。師、此に於て伏膺す。榮西傳は釋書に委し。初に千光法師とも葉上房とも稱す。後に禪に入ては、明菴と號す。

 

同三年乙亥、師十六歳、ときに千光祖師五十七歳にて七月五日に寂す。直に明全和尚に随侍せり。明全を佛樹房と稱す。永平寺に、千光祖師の像、並に明全和尚の像あり。師明全の像の賛に云く、平生行道徹通親し、寂滅以来面目新なり、且く道へ如何か今日の事、金剛焰に後眞身を露す、小師道元拝賛と。永平録法語に、佛樹先師忌辰の陞座あり。是を以て、思量するに、佛樹は師の師匠なり。入宋の時も同行と云々。

 

 補 辨道話に云く、予發心求法よりこのかた、わが朝の遍方に、知識をとぶらふき。ちなみに建仁の全公をみる。あひしたがふ霜華、すみやかに九回をへたり。いささか臨済の家風をきく。全公は祖師西和尚の上足として、ひとり無上の佛法を正傳せり。あへて余輩の、ならぶべきにあらず。(文)

 

承久三年辛巳九月十二日、建仁明全和尚より師資の許可なりと。永平二代和尚の話を聞りと。義介和尚ををせられしと云傳ふ。

 

 補 永平寺の室中に、 一幅の古筆あり。云く、承久三年九月十二日、傳授師資相承に曰く、不思善不思悪。正當恁麼の時、如何か本命元辰云々、是れ則禪宗ニ眼目、得脱之根源、百千両金を得つと雖も、輙く之を傳授す可ざる(已上)。この下に、華押ありて名は無し。明全和尚の筆か。未審(いぶかし)。この文は虚菴と榮西との機縁を擧せしと察せらる。この旨なれば、明全よりは許可ありけれども定て祖師の心底には、未在と見へて、入宋あられしなり。

 

貞應元年壬午、師歳二十三歳。これまで大藏經を周覧すること二回なり。また佛祖正傳の大戒を明全に傳授せり。

 

 補 榮西和尚将来の宋藏、建仁寺に今に現存せり。廣録に佛樹忌の上堂あり。戒恩を謝する意、法語に見へたり。

 

  訂補建撕記図会-17
  訂補建撕記図会-17

 

貞應二年癸未、師二十四歳、この春、明全和尚、入宋の事を企て玉へり。

 

 補 正法眼藏随聞記第五に曰く、示て云く、先師全和尚、入宋せんとせし時、本師、叡山の明融阿闍梨、重病切なり。全和尚に向て云く、我既に老病切にして、死去せんこと近き也。今度暫く入宋を止め、我が老病を扶けて冥路を弔ひ、然して死去の後其の本意をとげらるべし。時に先師、弟子法類等を集めて、議評して云く、我れ幼少の時、雙親の家を出てより後、此の師の養育を蒙て成長せり。出世の法門、大小権實の教文、因果をわきまへ、名誉を得たること、同朋に越へたり。今求法の志しを起し、入宋せんとすること、偏に此の師の恩に非ずと云ふことなし。然るに師重病相い逼り、餘齢保ち難し。故にあながちに是を留め玉ふ、師の命もそむき難し。今身命を顧みず、求法の爲に、入宋せんとするも、菩薩の大悲利生の行を、求めん爲也。師の命を背て宋土に行ん、道理有りや否や、各思はるヽ處をのべらるべし。時に諸弟云く、今年の入宋留まるべし、師の老病、死已に極れり。明年入宋せられば、第一、師の命を背かず、重恩を守り、今一年半年入宋遅きこと、何んの妨げかあらん。時に我れ末臘にて云く、佛法の悟り、今はさて、向こそありなんと思召さるヽ儀ならば、留り玉ふべし。先師云く、然る也。佛法修行始終是の如くならば、即ち出離得道たらんと存ず。我云く、其の儀ならば、留り玉ふべし。是の如く各総評し了て、先師云く、各の評議、何れも留玉ふ道理にのみ計り也。我所存は然らず、今度留りたりとも、決定死すべき人ならば、其に依て命を保つべきにも非ず。又留りて看病外護したりとて、苦痛もやむべからず。又最後に、我あつかいすヽめしによりて生死を離るべき道理にも非ず。只一旦命に随て、師の心を慰むるばかり也。是れ即ち出離得道の爲に、一切無用なり。錯て我が求法の志しをさえしめば、罪業の因縁と成るべし。然るに若し入宋求法の志しをとげて一分の悟りをも開きたらば、一人有漏の迷情に背くとも、多人得道の縁と成るべし。此の功徳、すなはち是れ師の恩を報ずるなるべし。設ふ又渡海の間に死して、本意をとげずとも、求法の志しを以て死せば、玄奘三蔵のあとを思ふべし。一人の爲に、うしなひやすき時を空く過さんこと、佛意に合なふべからず。故に今度の入宋、一向に思切り畢りぬとて、終に入宋せしき。誠に是れ眞實の道心と存せしこと、是れらの道理なり。(文)

 

師すなはち、明全和尚に随伴して、二月二十二日に東山を出でヽ、西海筑前の博多の津に赴き、三月の下旬に商船に乗りて纜(ともづな)を解けり。


 補 此の時の渡海牒二通、永平寺の寶庫に傳在せしが、正徳甲午の三月九日に焼失せり。其の文に云く、

建仁寺住侶。明全相伴両三之門弟。爲入唐。赴博多之津。西海道之路次。津津関関等事。無其煩無可有勘過者。依

院宣執達如件。

貞應二年二月二十一日   左兵衛佐判

 又

建仁寺住侶。明全・道元・廓然・亮照等。爲渡海下向西海。路次関関泊泊。無其煩。可有勘過之状。如件。

             武藏守 判

貞應二年二月二十一日

             相模守 判

是は其の比、京の鎮護に鎌倉より、北條相模守時房と、同く武藏守泰時とを、六波羅に両館せしめて、京の政務を執権せらる。両六波羅と稱す。ゆへに勘関には、この許状あるなり。藝州應龍山洞雲寺の室中に、左の三十四字の眞蹟あり。渡宋の祈願に書せられしなるべし。

佛法大統領白山妙理大權現、貞應二癸末年二月二十四日、沙門道元、二十四歳、入宋(已上)憶に三井寺の智證大師の入唐の時の歌に、法の舟さして行身ぞ、もろもろの、神も佛も我を見そなへと、詠ぜられしと同じ意なり。また勢州津城下に、芝原四郎左衛門と云ふ巨商あり。今より二十代ほどの先祖、某者、異国に乗船の商賣せし時、永平祖師を乗て支那に渡りしこと、其の家の譜に記録ありと云。

 

  訂補建撕記図会-18
  訂補建撕記図会-18

 

大宋の嘉定十六年(日本貞應二年癸末)四月の初めに、明州の界に著せり。船中にありながら、先ず諸山を巡視して風俗を窺へり。

 

 補 洗面の巻に云く、嘉定十六年四月のなかに、はじめて太宋の諸山諸寺をみるに、僧侶の楊枝をしれるなく、朝野貴賤をなじくしらずと(文)


五月の中、師猶を船にあり。育王山の典座來り相見し、問答してかへることありき。


 補 永平清規、典座教訓に云く、嘉定十六年癸未五月中、慶元の舶裏に在り、倭使頭(わしず)、説話の次で、一老僧有り来る。年六十許歳(ばかり)。一直に便ち舶裏に到て、和客に問うて倭椹を討ね買ふ。山僧他を請して茶を喫せしむ。他の所在を問へば、便ち是れ阿育王山の典座なり。侘云く、吾は是れ西蜀の人なり、鄕を離るること四十年を得たり、今年是れ六十一歳、向来(こうらい)粗(ほぼ)諸方の叢林を歴たり。先年孤雲裏に権住し、育王を討ね得て掛搭し、胡乱(うろん)に過ぐ。然るに去年、解夏了に、本寺の典座に充てらる。明日五日にして、一供渾て好喫する無し。麺汁を做さんと要するに、未だ椹の在らざる。仍て特特として来るは椹を討ね買うて、十方の雲衲に供養せんとすと。山僧侘に問ふ、幾ばくの時にか彼を離るや。座云く、斎了。山僧云く、育王這裏を去つて、多少の路か有る。座云く、三十四五里。山僧云く、幾ばくの時にか寺裏に廻へり去るや。座云く、如今(いま)椹を買い了らば便ち行かんと。山僧云く、今日期せずして相ひ会し、旦らく舶裏に在つて説話す、豈に好結縁に非ざらん乎。道元典座禅師を供養せん。座云く、不可なり、明日の供養、吾若し管せずんば、便ち不是にして了らん。山僧云く、寺裏何ぞ同事の者の斎粥を理会する無らんや。典座一位不在なりとも、什麼の欠闕か有らん。座云く、吾老年にして此の職を掌る乃ち耄及の弁道なり。何を以てか侘に譲る可ん乎。又来る時未だ一夜宿の暇を請わず。山僧又典座に問う、座尊年、何ぞ坐禅弁道し、古人話頭を看せずじて、煩わしく典座に充てて、只管に作務す。甚の好事か有ると。座大笑して云く、外国の好人、未だ弁道を了得せず、未だ文字を知得せざる在りと。山僧侘の恁地の話を聞き、忽然として発慚驚心して、便ち侘に問ふ、如何にあらんか是れ文字、如何にあらんか是れ弁道。座云く、若し問処を蹉過せずんば,豈に其の人に非ざらんや。山僧当時(そのかみ)不会。座云く、若し未だ了得せずんば、侘時後日、育王山に到れ、一番文字の道理を商量し去ること在らんと。恁地に語り了つて、便ち座を起つて云く、日晏了(くれなん)、忙ぎ去かんと。便ち帰り去れり。

 

  訂補建撕記図会-19
  訂補建撕記図会-19
  訂補建撕記図会-20
  訂補建撕記図会-20
  訂補建撕記図会-21
  訂補建撕記図会-21
  訂補建撕記図会-22
  訂補建撕記図会-22

 

秋七月、初て天童山に上て、掛搭し玉へり。時に堂頭は無際和尚、諱は了派、法を佛照光に嗣ぐ。大慧杲禪師の法孫なり。しかるに師等は、邊夷外国の人なりとて、新戒の列に位を序せり。明全和尚、この時四十歳なり。師言て謂く、釋氏は法臘に依て、世齢を用ひず。中華の大禪林の排座、いかにしてか、かくの如く顚倒するやと。然れども一山の大衆、聞てなを蔑如たり。師これを責てやまず。時に耆宿等云く、傳て謂ふ、前朝の日本より来れる僧、空海(弘法大師)最澄(傳教大師)及び榮西等の如きも、みな中華の叢林に入る時は、新戒に列する。これ舊例なりと。今又更に改むべからずと。時に師潜かに歎じて謂く、千佛の軌範の凡情に落ること、悲むべし。我これを改めざらんやとて、上表して、宋帝に訴ふ。其の略に曰く。佛、西天に興て、毘尼を以て洪範と為す。法、東域に流て、僧臘を序て階差を分。前古依繇る。今に至て何そ癈ん。付して以は、皇朝聖喆慈宸薄通。靈山の囑言を忘れず。漢庭の奉行を慕うことを願う。恩を垂れ僧次を質して、授戒の先後、愆ち無し。旨を頒て亂階を治め、法歳の短長以て別ん。外客幸に天澤に沐。下情、野詞を悉せず。この表一び上て、朝廷僉議まちまちなれども、いまだ勅裁なかりければ、再び上表する。其の詞の略に云く、重て白す。佛法、沙界に偏、戒光、十方を照。況や經に曰く、今此三界、皆是我有。其中衆生、悉是吾子。皆是我有を以て言は、此の娑婆世界は、釋迦牟尼佛の國土也。國已に佛國、人皆佛子也。兄弟天倫、混淆す可ず。伏して以は、佛法世法理之從ふ焉。天神地祇、非理を容れず。理或は達せずは、恐は是れ亂邦か。賢者は亂邦に居せず。眞人は奸匿を避く。佛家の臘次、若し的當ならずは、王室の憲綱、安そ明晰為ん。幸に中華の聖徳を仰く、爰、倭僧の鄙懐を陳ぶ。天裁胡そ私有り。謹で乞ふ戒次を正せ。時に皇帝は寧宗なり。帝自ら表を見て、しばしば叡感有て、遂に天童に勅して、如法の戒次を格定せしむ。その後、日本の僧、中華に入て法臘の顚倒せざるものは、師の大功なり。これより師の雄名、五岳に流布せりとなり。其の月の中に、育王の典座再び來て、相見問答して去りき。師これを明全和尚に擧似せりしに、全公大きに歓喜す。

 

 補 典座教訓に云く、同年(嘉定十六年也)七月、山僧天童に掛錫す時に彼の典座来つて相見して云く、解夏了に典座を退き鄕に帰り去かんとす。適ま兄弟の老子箇裏に在りと説くを聞く。如何ぞ来つて相見せざらんやと。山僧喜踊感激、侘を接して説話するの次で、前日舶裏に在りし文字弁道の因縁を説出す。典座云く、文字を学ぶ者は文字の故を知らんと為す。弁道を務むる者は、弁道の故を肯わんと要す。山僧侘に問ふ、如何にあらんか是れ文字。座云く、一二三四五。又問ふ、如何にあらんか是れ弁道。座云く、徧界曾て藏さず。其の余の説話、多般ありと雖も、今録さざる所ろなり。山僧聊か文字を知り弁道を了ずることは、乃ち彼の典座の大恩なり。向来一段の事、先師全公に説似す。公甚だ随喜するのみ。


其秋又日本の隆禪上座と云人に憑て、龍門佛眼(五祖法演法嗣)派下の嗣書を拝看す。

 補 嗣書の巻に云く、また龍門の佛眼禪師、清遠和尚の遠孫にて、傳藏主といふものありき。かの傳藏主、また嗣書を帯せり。嘉定のはじめに、隆禪上座日本國の人なりといへども、かの傳藏主、やまひしけるに、隆禪よく看病して、勤労しきりなるによりて、看病の労を謝せんがために、嗣書をとりいだして禮拝せしめけり。みがたきものなり。與你禮拝といひけり。それよりこのかた、八年ののち、嘉定十六年癸末のあきのころ、道元はじめて天童山に寓止するに、隆禪上座ねんごろに傳藏主に請して、嗣書を道元にみせしと云云。

又廣録の第十に、鄕間の禪上座に與ふ偈に曰く、錫、玲瓏に駐て動著せず。工夫辨道自然に圓なり。回光轉眼幾か日を經。退歩飜身已に年を積む。牯牛の閑鼻竅を穿卻し、佛祖の鐵關禪を打開す。一生聖凡の路を跳出して、後を待て何そ生せん木耳の縁と。この傳藏主は枯山の良傳、法を秀岩の師瑞に嗣ぐ、瑞は物初の觀に嗣ぐ。增集續傳燈に見えたり。またこの隆禪は、歌人定家の弟に、寂蓮と云あり。其の子息出家し隆禪と稱す。祖師同時の人にて、祖師より先に入宋せられしなるべし。

 

又惟一西堂に依て、法眼下の嗣書を拝せり。

 

 補 惟一西堂、號は環渓、無準の範に嗣法す。後に天童に住。增集續傳燈巻の四に傳を列す。嗣書の巻に云く、惟一西堂とて、天童に掛錫せしは、越上の人事なり。前住廣福寺の堂頭なり。先師と同郷人なり。先師つねにいはく、境風は一西堂に問取すべし。あるとき西堂いはく、古蹟の可觀は、人間の珍玩なり。いくばくか見來せる。道元いはく、見來すくなし。ときに西堂いはく、吾那裡に一軸の古蹟あり。恁麼次第なり。老兄に與て看といひて携來をみれば嗣書なり。法眼下のにてありけるを、老宿の衣鉢のなかよりえたりけり。惟一長老のにはあらざりけり。

 

又宗月長老に依て、雲門下の嗣書を拝せり。

 

 補 嗣書の巻に云、雲門下の嗣書とて、宗月長老の天童の首座職に充せしとき、道元にみせしは、いま嗣書をうる人のつぎ、かみの師および、西天東地の佛祖をならべつらねて、その下頭に嗣書うる人の名字あり。諸佛祖より直にいまの新祖師の名字につらぬるなり。宗月首座、雪窻宗月、法を無際に嗣ぐ。增集續傳燈に見ゆ。

 

又嘉定十七年甲申(日本元仁元年)の正月二十一日に佛照の無際に授る嗣書を拝看せり。

 補 嗣書の巻に云、これは阿育王山、佛照禪師徳光、かきて派無際にあたふるを、天童の住持なりしとき、小師の僧、智庾ひそかにもちきたりて、了然寮にて道元にみせし。ときに大宋嘉定十七年甲申正月二十一日、はじめてこれをみる。喜感いくばくぞ。すなはち佛祖の冥感なり。焼香禮拝して被看す。この嗣書を請出することは、去年七月のころ、師廣都寺ひそかに寂光堂にて、道元にかたれり。道元ちなみに都寺にとふ、如今(いま)たれ人かこれを帯持せる。都寺いはく、堂頭老漢、那裏に相似有らん。のちに請出、ねんごろにせば、さだめてみすることあらん。道元このことばをききしより、もとむる心ざし、日夜に休せず。このゆへに、今年ねんごろに小師の僧智庾を屈請し、一片心をなげて請得せりしなり。そのかける地は、白絹の裱褙せるにかく。表紙はあかき錦なり。軸は玉なり。長九寸ばかり。闊七尺餘なり。閑人にはみせず。道元すなはち智庾を謝す。さらに即時に堂頭に參して、焼香して無際和尚を禮謝す。ときに無際いはく、遮の一段の事、見知を得こと少し、如今老兄知得す。便是學道の實歸也。ときに道元喜感勝ふること無し。(文)

 

  訂補建撕記図会-23
  訂補建撕記図会-23

 

師、ときに僧堂に在て、鄰單の僧の毎朝袈裟を頂戴して掛るを見て、感泣發願し玉ひき。亦三韓の僧二人來しが、衣鉢と云ことをしらずして、俗人の様なりしを見て、いよいよ慚羞して、自らを戒め玉へり。

 

 補 傳衣の巻に云、予在宋のそのかみ、長連牀に功夫せしとき、齊肩の鄰單をみるに、毎暁の開靜のとき、袈裟をささげて頂上に安置し、合掌恭敬して、一偈を黙誦す。ときに予未曾見のおもひを生じ、歓喜身にあまり、感涙ひそかにおちて、衣襟をうるほす。その旨趣は、そのかみ阿含經を被閲せしとき、頂戴袈裟の文をみるといへども、その儀則いまだあきらめず。いままのあたりみる。歓喜随喜し、ひそかにをもわく、あはれむべし郷土にありしとき、おしふる師匠なし、かたる善友にあはず。いくばくかいたづらにすぐる光陰ををしまざる。かなしまざらめやは。いまの見聞するところ、宿善よろこぶべし。もしいたづらに郷閒にあらば、いかでかまさしく佛衣を相承著用せる僧寶に鄰肩することをゑん。悲喜ひとかたならず。感涙千萬行。ときにひそかに發願す。いかにしてかわれ不肖なるといふとも、佛法の嫡嗣となり、正法を正傳して、郷土の衆生をあはれむに、佛祖正傳の衣法を見聞せしめん。かのときの發願いまむなしからず。袈裟を受持せる在家出家の菩薩おほし。歓喜するところなり。受持袈裟のともがら、日夜に頂戴すべし。殊勝最勝の功徳なるべし。一句一偈を見聞することは、若樹若石の因縁もあるべし。袈裟正傳の功徳は、十方に難遇ならん。大宋嘉定十六年癸未、冬十月中、三韓の僧二人ありて、慶元府にきたれり。一人は智玄となづけ、一人は景雲といふ。この二人ともにしきりに佛經の義を談ず。あますさへ文學の士なり。しかあれども袈裟なし。鉢盂なし。俗人のごとし。あはれむべし比丘形なりといへども、比丘法なきこと。小國邊地のしかあらしむるならん。我朝の比丘形のともがら、他國にゆかんとき、またかの二僧のごとくならん。釋迦牟尼佛、十二年中頂戴して、さしをきましまさざりき。すでに遠孫なり。これを學すべし。いたづらに名利のために、天を拝し、神を拝し、王を拝し、臣を拝する頂門を、いま佛衣頂戴に迴向せん。よろこぶべきなり(文)

 

  訂補建撕記図会-24
  訂補建撕記図会-24
  訂補建撕記図会-25
  訂補建撕記図会-25

 

寶慶元年乙酉(日本嘉禄元年)師、天童に寓して、まさに二歳に近し。無際の許可を蒙るとこ、數回なりといへども、自らこれを肯ひ玉はず。天童を出でヽ經山浙翁如琰(嗣佛照光)禪師に參見す。琰、問て曰く、幾く時か此閒に到る。師曰く、客歳四月。琰曰く、羣に随て恁麼に來。師曰く、羣に随はずして恁麼來る時作麼生。琰曰く、也是、羣に随恁麼に來。師曰く、既に是、羣に随て恁麼來、作麼生か是なる。琰一掌して曰く、這の多口の阿師。師曰く、多口阿師は即不無、作麼生か是。琰曰く、且坐喫茶。又台州の小翠岩に往て、卓公に見えて、即問、如何是佛。卓曰く、殿裡底。師曰く、既に是れ殿裡底、甚為してか遍河沙。卓曰く、遍河沙。師曰く、話随了。又再び育王に遊て、龍樹圓月の相を壁閒に圖せしを見て、成桂知客を勘験し玉ふ。

 補 この卓公は、盤山思卓、法を無用の全に嗣ぐ。全、大慧杲に嗣ぐ。增集續傳燈巻一に傳あり。亦佛性の巻に曰く、予、雲遊のそのかみ、大宋國にいたる。嘉定十六年癸未秋のころ、はじめて阿育王山廣利禪寺にいたる。西廊の壁間に西天東地三十三祖の變相を畫せるをみる。このとき領覧なし。のちに寶慶元年乙酉、夏安居のなかに、かさねていたるに西蜀の成桂知客と廊下を行歩するついでに、予、知客にとふ。這箇是恁麼相。知客いはく、龍樹身現圓月相。かく道取する。顔色に鼻孔なし。聲裡に語句なし。予いはく、眞箇是一枚畫餅相似。ときに知客大笑すといへども、笑裡無刀破畫餅不得なり。すなはち知客と、舎利殿および六殊勝地等にいたるあひだ、數番擧揚すれども疑著するにもおよばず。おのづから下語する僧侶も、おほく都不是なり。予いはく、堂頭にとふてみん。ときに堂頭は大光和尚なり。知客いはく、他無鼻孔對不得。如何得知。ゆへに光老にとはず。恁麼に道取すれども、桂兄も會すべからず。聞説する皮袋も道取せるなし。前後の粥飯頭みるにあやしまず。あらためなをさず。(文)

 

  訂補建撕記図会-26
  訂補建撕記図会-26
  訂補建撕記図会-27
  訂補建撕記図会-27

 

又、平田の萬年寺に到て、元鼒(げんし)和尚に見えて、嗣書を拝看し玉ひき。鼒感夢のことありて、大いに師を器重せり。其の後に師も又靈夢のことありて、太だ因縁を感激し玉へり。


 補 嗣書の巻に曰く、寶慶のころ、道元、台山雁山等に雲遊するついで、平田の萬年寺にいたる。ときの住持は福州の元鼒和尚なり。宗鑒長老退院ののち、鼒和尚補す。叢席を一興せり。人事のついでに、むかしよりの佛祖の家風往來せしむるに、大僞仰山の令嗣話を擧するに、長老いはく、曾て我箇裡嗣書を看るや也否や。道元いはく、いかにしてみることをえん。長老すなはちみづからたちて嗣書をささげていはく、這箇はたとひ親人なりといへども、たとひ元鼒ひごろ出城し、見知府のために在城のとき、一夢を感ずるにいはく、大梅山法常禪師とおぼしき高僧ありて、梅花の一枝をさしあげていはく、もしすでに船舷をこゆる實人あらんには、花ををしむことなかれといひて、梅花をわれにあとふ。元鼒おぼえずして夢中に吟じていはく、未だ船舷を跨ず好し三十棒を與。しかあるに老兄與相見。いはんや老兄すでに船舷跨來。この嗣書、また梅花綾にかけり。大梅のおしふるところならん。夢中と符合するゆへにとりいだすなり。老兄もしわれに嗣法せんともとむるや。たとひもとむるともをしむべきにあらず。道元信感おくところなし。嗣書を請ずべしといへども、ただ焼香禮拝して恭敬供養するのみなり。ときに焼香侍者法寧といふあり。はじめて嗣書をみるといひき。道元ひそかに思惟しき。この一段の事、まことに佛祖の冥資にあらざれば、見聞なほかたし。邊地の愚人として、なんのさいはいありてか數番これをみる。感涙霑袖。ときに維摩室大舎堂等に閑闃無人なり。この嗣書は落地梅綾のしろきにかけり。長九寸餘、闊一尋餘なり。軸子は黄玉なり。表紙は錦なり。道元台山より天童にかへる路程に大梅山護聖寺の旦過に宿するに、大梅祖師きたり。開花せる一枝の梅花をさづくる靈夢を感ず。祖鑒もとも仰憑するものなり。その一枝花の縦横は一尺餘なり。梅花あに優曇花にあらざらんや。夢中と覺中とおなじく眞實なるべし。道元在宋のあひだ歸國よりのち、いまだ人にかたらず。(文)


  訂補建撕記図会-28
  訂補建撕記図会-28
  訂補建撕記図会-29
  訂補建撕記図会-29
  訂補建撕記図会-30
  訂補建撕記図会-30
  訂補建撕記図会-31
  訂補建撕記図会-31

 

師、諸方を遊歴して知識に相見し玉へども、過量の人の師範とすべき無きに因て、又再び派無際を訪て天童に歸らんとし玉ふ。途中にして無際の示寂せしことを聞て、大いに嗟嘆して、それより歸鄕の念萠せり。ゆへに明全和尚の天童に寓し玉ふを訪ひて、再び山に登り玉ふ。途中に老璡と云う僧ありて、師に謂て云く、今天下の宗匠は、如淨禪師に過たるなし。このころ勅請に應じて、天童に住し玉へり。公早く山に登りて參見すべしと。師これを幸ひなりとして、急ぎて天童に登り玉へり。

 

 補 鉢盂の巻に曰く、先師天童古佛、太宋寶慶元年住天童云云。瑩山和尚の永平の傳に云く、徑山の羅漢殿の前に、老人有て告て云、淨慈淨老は道眼を具する者、汝見は必ず所疑を釋んと。(已上)。この璡公は羅漢の應現なるべし。


即ち淨和尚に參拝す。淨告て云く、佛佛祖祖、面授の法門現成せりと。師すなはち拝を設く。これ乙酉の五月朔日なり。淨和尚時に左右に告て云く、前夜、悟本大師を迎ふと夢む。此子恐は是れ大師の再生か。我宗他に憑て大いに世に興らん。

 

 補 面授の巻に云く、太宋寶慶元年乙酉五月一日、道元初て先師天童古佛を妙高臺に焼香禮拝す。先師古佛、初て道元をみる。そのとき道元に指授面授するにいはく、佛佛祖祖、面授の法門現成せり。(文)


因に明全和尚を訪ひ玉ふに、重病に罹りて了然寮に臥し玉へり。師の到るを見て、喜感悲泣頻りなり。因に師に問て云く、子、光和尚の(榮西禪師を指す也)處在、法身に迷有ことを悟、是也無。師云く、不敢。全曰く試に擧よ看ん。師云く、曾て丈室に端居す、某甲進て問て云く、本來本法性、天然自性身、恁麼と爲してか三世諸佛、發心して道を成するや麼。和尚曰く、三世諸佛有ることを知らず、狸奴白牯卻て有ることを知る。某甲忽然省す。白汗踵に竟る。全公これを深く肯ひ玉ひて、一篇の語を書して證明し玉へり。其の疾頻りに沈重にして、五月七日の辰の刻に、了然寮に示寂せり。年四十二歳なり。師、悲傷にたへず。一片の煙となして、舎利を収拾して供養し玉へり。

 補 宋の虞樗か撰する千光祠堂記の略に云く、大日本國千光法師、祠堂の記、大白名山、天下に甲として、千佛閣、尤も第一爲り。後世之に過と欲も、其の材及ぶこと無し。蓋し柱植、日本國の僧千光法師の致す所に繇ること也。後十年(千光滅後十年なり)明全復、山中に來て、楮券千緡を捐て、諸を庫に寄て、轉息して、七月五日の忌の爲めに、齋を設け衆を飯す。孝を本とする也。全、伊州の蘇姓に生す、師の道傳ふ。教戒も亦精し。山に入三年、了然齋に示寂す。火後、堅固子無數を得て、道元に付。藏して故國に歸、併て祠に刻。太宋寶慶元年八月九日、修戢郎監、臨安府の都税務、虞樗記す。また延寶傳燈録第六巻に、明全和尚の傳を載す。おほむね記に同じ。


師、因に片柬を以て、問法の所由を通じ玉ふに云く、道元幼年、菩提心を発し、本国に在、道を諸師に訪、聊か因果の所由を識。然も是の如と雖も、未だ佛法僧の実歸を明らめず、徒に名相の懐幖に滞る。後、千光師の室に入、初て臨済の宗風を聞く。今、全法師に随て炎宋に入。萬里に航海して、幻身を波涛に任、遂に大宋に達して和尚の法席に投ずることを得。蓋し是れ宿福の慶幸也。和尚、大慈大悲、外国遠方の小人、願う所は、時候に拘わらず、威儀を具せず、頻頻に方丈に上、愚懐を拝問せんと欲す。生死事大、無常迅速、時、人を待たず、聖を去は必悔。本師堂上大和尚大禪師、大慈大悲哀愍、道元か問道問法を聴許し玉へ。伏して冀くは慈照。小師道元百拝叩頭上覆と。淨公これを看て、其の志誠なるを感じて回柬に云く、元子、自今以後、晝夜の時候著衣衩衣に拘ず、方丈に來て、道を問ふに妨け無し。老僧、親父の子の無禮を恕すに一如す。太白某甲と。その歳七月初日、方丈に参じて問て云く、今諸方に教外別傳と稱して、祖師西來の大意を看るとするは如何。淨公云く、佛祖の大道なんぞ教内教外にかかはらんや。然るを教外別傳と稱することは、後漢の永平年中、摩謄等の經論のみ、傳來せしよりこのかた、皆經師論師のみにして、正嫡の師承なきに、少林高祖のみ獨り二十八代の心印を帯び來り玉ふは、彼の經論家の師承なきとは格別なりと云んとして、教外別傳と云なり。世界に二種の佛法有るべからずと云云。


 補 上來の説、共に寶慶記に見へたり。これより後、天童に咨參の審細、皆寶慶記、又は太白峰記に載す。


  訂補建撕記図会-32
  訂補建撕記図会-32
  訂補建撕記図会-33
  訂補建撕記図会-33


淨翁一日、一禪衲の坐睡を責て曰く、參禪は須く身心脱落べし。只管打睡して、什麼を爲にか堪ん。師、傍に於、豁然として大悟。直に方丈に上て焼香す。淨問て曰く、焼香の事作麼生。師云く、身心脱落し來る。淨曰く、身心脱落、脱落身心。師云く、這箇は是れ暫時の伎倆。和尚妄に某甲に印こと莫れ。淨曰く、吾、妄に汝を印せず。師云く、如何か是れ妄に某甲に印せず底。淨曰く、脱落身心。師禮拝す。時に福州の廣平侍者、傍に在て云く、外國の人、恁麼なることを得たり。まことに細事にあらずと。師珍重して出づ。


 補 この機縁は、寶慶乙酉の夏安居の中のことなり。佛祖宗禮の巻に云く、道元太宋國寶慶元年乙酉、夏安居時、先師天童古佛大和尚に參侍して、この佛祖を禮拝頂戴することを究盡せり。唯佛與佛なり。又面授の巻に曰く、道元太宋寶慶元年乙酉五月一日、はじめて先師天童古佛を禮拝面授す。やヽ堂奥を聴許せらる。わづかに身心を脱落するに、面授を保任することありて、日本國に本來せり。(文)


九月十八日に至て、佛祖正傳の大戒を稟受せり。これすなはち西來相承の佛戒也。


 補 今室中に授受する所の、佛祖正傳菩薩戒作法の尾に云く、右太宋寶慶元年九月十八日、前住天童景徳寺堂頭和尚、道元に授る式是の如し。祖日侍者(時焼香侍者)、宗端知客、廣平侍者等、周旋して此の戒儀を行。太宋寶慶年中、之を傳。寶慶記に曰く、堂頭和尚慈誨に云く、薬山の高沙彌、比丘の具足戒を具せず。佛祖正傳の佛戒を受け不には非ず也。然して僧伽梨衣を搭し、鉢多羅器を持つ、是れ菩薩の沙彌なり。排列の時も、菩薩戒の臘に依て、沙彌戒の臘に依らず。此乃正傳の稟受なり。儞、求法の志操有り、吾か歡喜する所なり。洞宗の託する所、儞乃是也と。


淨和尚、一日告て云く、浮山の遠は大陽の門人なり。浮山大陽の舊履零衣を供養せんことを請へども、ゆるさず。亦浮山大陽の頂相を畫して贊を乞ふ。大陽笑て云く、老僧に似ずと。又世に傳ふ、大陽嗣を絶するゆへに、浮山に頼て投子を求むと。これ大なる誤なり。大陽の法嗣、投子より前にあるもの、興陽の清剖、羅浮の顯如、雲頂の海鵬、乾明の機聡、白馬の歸喜、福嚴の審承等の數人なり。若し法器に非ずんば、大陽何ぞ正宗を付せんや。亦興陽の如く皆共に、大陽より前に示寂せんや。但だ大陽、孫謀を知るの智眼明白なるによりて、年少なれども義青を記して、證を他家の浮山に取て、家業を相續するなり。後の僧史を述するもの、剽掠不經の言ばを設けて、先徳をあやまること多しと。


 補 天童の口訣の僧史の不經とは、洪覺範の禪林僧寶傳の十三巻の大陽の傳に、大陽玄和尚は、咸平三年庚子に三十歳にて、大陽山に住して、五十年の間山を下らず、八十五歳にて寂すとあり。この傳の旨、正直なれば、大陽は至和元年甲午に寂す。この歳、投子青は二十三歳なり。面授は明白なるを、僧寶傳に、大陽、天聖五年に寂すとあり。しかればこの天聖五年は、投子青の未生六年以前なり。世上の人が、この天聖五年示寂と記せし所ばかりに意を付て見て、投子の未生前の大陽示寂なれば、面授にはあらず。浮山の代付と云なり。もし實に示寂が天聖五年ならば、大陽は五十八歳にて寂なり。遺偈の八十五とあるは偽か。こヽを至和元年示寂とかヽずに、天聖五年と記せしを天童祖の誣妄と議せらる。覺範がこの一傳の中に、一口にて前後相違の兩舌の詞を説て、後人を惑はさる。この事は金剛杵に委し。こヽに贅せず。永平寺の室内に古記あり。義雲和尚の嗣子曇希和尚の自筆なり。こヽに寫す。大陽警延禪師、寂定に入と欲す、七日前、親く法遠和尚を召して之を告て云く、吾十二歳にして仲父智通禪師に依て出家し、十九にして受具、大僧と爲、圓覺了義經を聞て、頓に教乘を發明す。後に先師縁觀和尚の室に入、洞上の奥旨を得。爾来行住坐臥、毫も滲漏無し。故に此の山頂に接化して、眉毛を惜しまず。宗旨を荷擔す。所以に此の清白一片の間田地、耘耕、人に不乏と雖も、奈か爲ん種草蕃茂之後胤無し。故に行に臨み所思、餘り有り。公は久参の衲子、俗流の縁裔也。今嘱託する所は、近ろ接する所の青鷹子、雛輩と雖も寔に餘慶有り者にして、是吾か法中の福子也。速に許可不る者は、他の難を恐れ授受を重んする也。今、斯の偈皮履一衣十八般等を以て、傳語して公に付す。向後必義青來君に憑ん。外道問佛の話を以て、再ひ勘して上件の閑具を傳は、吾か法、渠に依て、久住せん。遠謹て命を奉て義青を待つ。偈に曰く、楊廣山の頭草、君に憑ち價を待ち焞し。異苗蕃茂の處、深密、靈根を固め、得法の者、衆に潜む十年、方に闡揚す可と。右、先師の行巻依て之を拝寫す。曇希叟と。この先師とは、義雲を指なり。天童の室中にて永祖の面授せられし旨を六代嫡傳して、曇希の記せらる。實に洞上室内の純密にて、他家の不知なるところなり。


  訂補建撕記図会-34
  訂補建撕記図会-34
  訂補建撕記図会-35
  訂補建撕記図会-35


師、時に太白山を下て、江西に行て、日暮に猛虎の來るに値て、拄杖を擲(なげ)玉へば、虎怖畏して去。今に至て諺に、虎はねの拄杖と稱するは、これなり。


 補 この一段は、祖師の在世には知るものなかりき。滅後に寒巖義伊和尚入宋して、彼地の叢林にて、龍頭に僧の踞て、虎の拄杖嚼む圖を畫せるを見て、奇異に思ひ、因縁を尋らるに、答て云様は、前年日本より南渡せる道元僧は、希有の人なり。江西の荒村にて、日暮に猛虎の難に値て、せんかたなく拄杖を擲著て、巖上に避て坐せられけるに、虎は初は拄杖に嚼つくと見へしが、案の外に跡をも見ずして逃さりぬ。僧巖を下るとて見らるれば、巖にはあらで拄杖の龍と化したる頭上に、安坐せられしなり。奇異の事ゆへに、叢林に圖して尊崇するなりといヽき。時に寒巖感幸し、自ら畫に寫して、歸東せられて、日本には普知せり。寒巖の自畫の圖、今も一幅現在して、江州大津の青龍寺の室中にあり。余登山し寺主に請して拝見す。古奇の法寶なり。


歸路に病悩あり。醫薬の方便なし。忽然として神人現じて、丸薬を與へて忽ち愈ゆ。師その姓名を問へば、答て云く、日本稲荷神なりと。云了て隠る。道正家傳の解毒丸これなり。


 補 道正庵と純撰する系譜記を案ずるに、謂く、本祖道正は、俗名縣山左兵衛の督正四位下、藤原隆英、世世京兆木下に居す。故に氏を木の下と曰く。京極相國爲光公、九世の裔、顯盛の男、清水谷亜相公定の養子なり。生質俊逸、博く孔孟の書を学。儒理に委し。兼て蘇韓の法を玩ふ。詞章に絶(すぐれ)たり。諸官家輩、多く門戸に満。同服の官僚與(と)、納言角て遂ず。從三位を叙し、左衛門の督に任。治承年中、外祖父源仲家、宇治川の戦、負績自殺す。是に由て遁世薙髪す。乃、永平開山の宋に入に随伴して、同く天童淨和尚に見、一朝庭前、鶏聲有り。淨曰く、聞や麼。道正言下に豁然たり。将に歸東せんと此、深山を歴、廣野を渉る。因に永平祖、身體困羸して死に幾し。時に白髪老嫗出現、一丸薬を與。忽爾として醒蘇す。道正時に其の名を問。老嫗曰く、吾は是れ日東の稲荷神なり。玄公求法の善心を感。常に附て擁護す。故に今、急を救と云云。道正時に薬方を神嫗に傳ふ。神仙解毒萬病圓是也。時に永平祖、道正に謂て曰く、斯れ實に神授希有の妙劑、大法守護の製なり。日東に歸て、法流、後世に盛らは、則汝の子孫相續、毎歳、吾か後昆諸刹に贈れと。是の故に今に至、其の遺誡に背かず者也。稲荷神祠、亦、道正菴の宅中に安。道正者、寶治二祀七月二十四日に卒。

 

  訂補建撕記図会-36
  訂補建撕記図会-36
  訂補建撕記図会-37
  訂補建撕記図会-37
  訂補建撕記図会-38
  訂補建撕記図会-38


寶慶三年丁亥(日本安貞元年)の冬天童に告暇す。即夜半入室。芙蓉楷祖の法衣、宝鏡三昧、五位顕訣、並、自賛頂相を授て云、汝異域の人を以て之を授け信を表す。國に歸て化を布し、廣く人天を利よ。城邑聚落に住こと莫れ。國王大臣に近する莫れ。只、深山幽谷に居し、一箇半箇を接得して、吾宗をして断絶を致して令こと勿れと、云云。その薄暮に佛果の碧巌集を得て、手(てづか)ら繕寫し玉ふに、全備すまじきを心中に憾るに、忽ち白衣の神、入り來て、助筆して畢る。これは日本の白山権現なり。

 補 この眞本は、加洲大乘寺に秘蔵して、一夜碧巖と稱す。今流布の本とは別なり。佛果碧巖破關撃節と題して、序も跋もなし。垂示の次に本則と頌と並て、著語は常のごとし。次に本則の評と頌の評並ぶ。文字も流布の本と少異あり。余、加洲行脚の時、大乘に冬安居す。因に堂頭益堂和尚に請して拝讀す。祖筆と神筆と墨痕分る。希有の法寶なり。其の後寫本を得て秘蔵す。


この冬、支那より船を發して、船中に黒風に値ふ時、師、船上に黙坐しければ、忽ち観音大士、蓮葉に乗じて海面に泛で、風波穏なり。乃ち日本の安貞元年に當て、肥後の川尻に著岸す。一葉の観音は、その影を寫せるなり。

 補 肥後州川尻の津に寺有り。南溟山觀音寺と號す。一葉の観音を本尊とす。寺僧傳て謂う、永平祖師、歸朝、悪風に南溟に値ふ。時、船上に黙禱すれば、則忽ち大悲尊、蓮一葉に乗して、海上に浮を見て、風波恬如たり。著岸を得に及、自ら其の覩る所を刻て、此に安す。故を以て南溟観音の號有りと。其の後監院の僧、其の像を畫して、祖師に洛南に謁して、賛を乞ふ。便ち題して云く、一花五葉開き、一葉一如来、弘誓深如海、回回善財を運と。監院版に彫て、其の版、現に今寺傍の民家に藏と。余、壯歳此に詣して、親く本尊を拝す。因に僧の話を聞て、記爲る。今記中を摘て、略して此に補する也。


  訂補建撕記図会-39
  訂補建撕記図会-39
  訂補建撕記図会-40
  訂補建撕記図会-40

 

すぐに洛陽に至り、先ず建仁寺に寓して三年を経たり。

 

 補 典座教訓に云く、山僧歸國以降、錫を建仁に駐こと、一兩三年、彼の寺愗(えしひに)此の職(典座)を置、唯名字のみ有て、全く人の實無し。未だ是れ佛事ことを識らず。豈に敢て道を辨肎せんや。眞に憐憫す可しと云云。随聞記巻五云く、建仁寺に寓せし時、人多く法門等を問き。其の中に非義も過患も有しかども、此の儀をふかく存して、只ありのまヽに法の徳を語りて、他の非をいはず。無爲にしてやみにきと云云。

 增補 余壮年に實録を撰せし時、ある老宿の話に、辨道話に云く、大宋紹定の初、本鄕にかへりし(已上)とあれば、日本の安貞二年戊子が宋の紹定元年なり。然れば丁亥の朧月に宋を發して、戊子の正月に御歸朝なり。古傳はあやまりなるべし。その比亂世なり。亂世にはたとひ改元ありても、二年も三年も世上不知にて、前の年號を用ひし例あるゆへに(東鑒に、安貞三年已丑、十月九日と記すれども已丑の正月に、はや寬喜元年と改暦せしの例なり)安貞二年の比なれども、辨道話の末には、嘉禄の號を稱せられしと察すと。(已上老宿の考)この考を證として、實録もその旨を述せり。しかるに肥後廣福寺大智和尚の護持ありし祖師自賛の像、亂世に飄逸して、現今は肥後州の日蓮宗の本妙寺に秘蔵するを拝見するに、賛に云く、寒潭萬丈、天色を浸す、夜静にして錦鱗、底行く徹して、這畔那方、竿に和して拆く、茫茫たる水面月光照す。嘉禄丁亥、建仁比丘道元自賛とあり。眞蹟まぎれなし。この丁亥とあるを見れば、嘉禄三年にて、三年の極月十日に改暦して、安貞元年と號せり。支那にては寶慶三年に當る。嗣書を淨祖に得られて歸東の歳なり。爾れば丁亥の冬の中に歸著なりて、建仁に寓住の中にこの賛もあり。また坐禪儀も撰せられしと見ゆるなり。普勸坐禪儀の跋に云、余嘉禄中、宋土從り本國に歸る。(文)辨道話に云く、嘉禄のころ撰集せし普勸坐禪儀に依行すべし。(文)この二説の旨、いよいよ明かなり。實録の旨は失考なり。祖語に紹定の初とあるは、大凡の詞なるべし。


寬喜中に深草に閑居せり。

 

 補 今考に安貞二年より建仁に寓して、三年過れば、中一年して寬喜二年庚寅なり。この比より深草に閑居せらる。閑居偶作六首あり。廣録に載ず。今こヽに二首を擧す。生死憐む可し雲の變更。迷途覺路夢中に行く。唯一事に留て醒て猶記す。深草の閑居夜雨の聲。又、忘て取捨を雙へ思翛然たり。萬物同時に現在前。佛法從今心既盡く。身儀向後且く縁に随。この閑居の中に辨道話を撰せらる。末に寬喜辛卯仲秋日とあるは、寬喜三年なり。この閑居の地は、今深草の墨染寺の南鄰にて、大竹林の中に泉石奇潔の境あり。余數回登臨す。山城名跡志巻十三に載て云く、當寺は初め禪宗、道元和尚の開く所。中比は真言。近世は淨土に改とあり。五十年來は淨土にて、欣淨寺と云ふ。祖師の時は安養院と稱せり。祖師より以前の建立と察せらる。極樂寺の別院なるべし。本尊は坐像、七寸五分の唐佛にて、閻浮檀金の阿彌陀とはいへども、印相よのつねにことなり。釋迦彌陀大日合體なり。伯耆州胎蔵寺の檀家、古川村八右衛門と云者の所持せる、祖師の了然道者に示さる法語の末に、辛卯孟秋、安養院に住する道元示とあり。これ寬喜の辛卯にて、法語の中にも、聚落に在ての用心を示さるなれば、この閑居の寺を安養院と號せしこと、いよいよ分明なり。

 

  訂補建撕記図会-41
  訂補建撕記図会-41
  訂補建撕記図会-42
  訂補建撕記図会-42

 

深草閑居の時より、歸崇の緇白多きによりて、大法挙揚の爲に、宇治郡深草の極楽寺の舊址に就て、興聖寺を建立の發願あり。天福元年癸巳の春に落成して、興聖寶林寺と號す。法堂は正覺尼建立し、同く法座をば、弘誓院殿御造營なり。

 

 補 正覺尼は弘誓院の室か、未考。弘誓院とは、拾芥鈔に云、八條の南、東の洞院の東、大納言教家の宅、藤氏系圖に云、教家権大納言、弘誓院と號、歌人能書、後京極殿の息。東鑑に云、正嘉二年二月十九日、最明寺(妙法華經)第一巻は法主手自書寫して之を給。已下の七巻は、弘誓院亜相の室の手跡の習之輩に課す。故を以て其の功を終わらる。この観音導利院の院號は、極樂寺の時の院號を直に用ひらるゆへに、紀年録に舊寺を改て、新寺と爲、院は故を存し寺は新を存すと記せり。極樂寺は昔し昭宣公の本願なり。昭宣公は大織冠より八代、摂政太政大臣基經にて、関白職の最初なり。童子の時、皇帝の供奉にて、芹川に赴かれし時、帝御愛の琴の爪と遺失せられて、公に命じて求めしむ。公心中に發願して、三寶に祈誓せらるは、もし琴の爪を求め得ば、其の處に後來伽藍を建立して、三寶の恩を報ずべしと。果して深草に於て、拾ひ得て獻ずと。河海鈔並に花鳥餘情等に見へたり。後に本尊までを建立せられ、諸堂は未建にて薨ぜられしに、御息の時平公の時に、寺は建立なり。時平、極樂寺を以て定額の寺と爲せんと欲し請す狀に云く、右臣か亡考昭宣公、山城の國宇治郡の地を占め、極樂寺を建立せんと欲す意有り。本尊且つ現堂の構へ未だ成らず。金沙を募て以て名を揚げ、白露に先て命を殞せり。臣、其の志を遂んことの思、今に八載。鳳刹龍銜見聞の情相感し、香照花朶、供養之法僅に存。莊嚴の觀る可き無しと雖も、猶是塵俗の犯し難し。伏して願は、陛下鴻慈、特に天鑒を廻し、之を定額に列。将に宿心を遂んとす。臣時平誠惶誠恐。頓首頓首。死罪死罪。謹白と。(この文は、菅丞相代作にて、文草の九巻に出たり)。この寺もと極樂寺と唱へしを、興聖寺とかへて唱ることは、天福元年癸巳より寬元元年癸卯まで、わずかに十年ほどの間なり。癸卯七月に越に移られしに、補處の二代と稱する人なし。跡には真言律の僧、居せるにや。憶ふに懐弉徹通、みな真言家より改宗の人なれば、その法類など住せしならん。延慶年中に、深草極樂寺の司職良桂律師と、日蓮の弟子の日像と法論にて、良桂負て改宗せられしことあり。龍華傳に謂く、城南深草極樂寺の僧良桂、偶(たまたま)鶏冠井(とさかい)を過ぎ、日像か禪律等の宗を議を聴て、即衆を出、辨す之問難往反して、日已に暮んぬ。兩なから村舎に止、三晝夜を過、桂遂に心服し、像の徒と爲。桂か極樂寺の徒、凡そ一百餘人も、亦皆日像に随、像か時寺號を易せず。康永元年壬午、像を此に葬る。時に鶴林寺と改。慶長中に、日堯又寶塔寺と名く。(已上)然れば古興聖寺の舊跡は、今の寶塔寺なり。この寺、興聖寺の號は、祖師在住十年許の間唱へて、前後はみな極樂寺と唱ふべし。ゆへに古記にも興聖寺のこと見へず。法燈年譜にも、極樂寺の元和尚と記せり。後嘉禎、仁治の比、江州朽木の城主、佐々木信綱、法名鐵道居士、師に歸依して、興聖寺を郭外に建立すと云ふ。

 

僧堂は自ら十方を化募して造立あり。その序に云く、宇治観音導利院、僧堂勧進疏、稽首和南して。敬て十方一切の諸佛菩薩、賢聖僧衆、天上人間、龍府八部、善男子善女人等に曰く、一銭の淨信を以て、一處の道場を建立せんと欲す事。右菩薩戒経に云、若し佛子、常に應に一切衆生を教化して、僧坊を建立し、山林園田に佛搭と、冬夏安居坐禪の處所とを、立作せしむ。一切行道の處、皆應に之を立らるべし。若し爾せ不ん者。軽垢罪を犯す。然は寺院は、是れ諸佛の道場也。神丹の佛寺は、天竺僧院をうつせり。日本の精舎も又かれを學ぶべし。其の功大に其の徳厚く、國國に傳はり。人人にほどこす處あらん。吾入宋歸朝より以来、一寺草創の志願を起して、日久しく月深るといへども、衣盂のさヽうべきなし。今、勝地一處を、深草の邊、極楽寺の舊趾に得たり。観音導利院と名く。薙草のうゑ叢林ならず。此處に甲刹をかまゑんとす。寺院の最要は佛殿法堂僧堂也。此の中、佛殿はもとよりあり。法堂いまだし。僧堂最も切要なり。今、是を建立せんとす。其のていたらく、七間の堂宇をたて、堂内にへだてなし。長牀を設て僧衆集り住し、晝夜の行道暫くもをこたらず。中正に聖像を安じて、僧衆圍遶して住す。三寶一堂に帰崇する儀䡄、行ひ來れる事久し。功徳も多く、佛事もひろかるべし。一力の終功を求む可しといへども、偏く良縁を結んが為に、廣く十方を化す。これ竺土漢土の勝躅也。正法像法僧儀也。檀主の名字を、聖像の腹心に収め置て、萬字の種智とし、自他の文彩とせん。此のなかにさきだちて、得道の人あらんには、彼れを此の衆の導師とせん。善知識にあらざらんや。獨り人中をすヽむるのみにあらず。天上龍宮も化すべし。仙界冥府にも聞ふべし。只是れ釈尊所傳の法輪なり。法界の内外に及ぶことあらん。謹て疏す。嘉禎元年十二月日、都勧縁、住観音導利院沙門釋氏(已上)。永平六世和尚奥書云く、佛祖の開方便門、示眞實相、不可思議也。秘密蔵裡之寶也。癡人面前に向て顕示すべからず也。貞和三年十一月七日、住永平曇希書。

この夏より安居結制せらる。

 

 補 正法眼藏第二巻の尾に、天福元年夏安居、觀音導利院に在、示衆とあり。夢住國師の雑談集巻八に云く、中比建仁寺の本願入唐して、禪門戒律の儀傳られしも、只狭牀にて事と事しき坐禪の儀は無りけり。國の風儀にまかせて、天台眞言などあひならへり。一向の禪院の儀式は時至て、佛法房の上人、深草にて大唐の如く、廣牀の坐禪始て行ず。其の時は坐禪めづらしき事にて、信有る俗等拝し、貴とがりけりと。其の時の僧かたり侍り(已上)。またこの年の眞跡にて左の六十九の細字を十五行に列書し、横板に彫付たるが、現今(いま)越前の妙覺寺にあり。筆痕はまきれぬ祖師の眞蹟なり。余参詣して拝見す。天福の比は、永平未開已前なれども、この妙覺寺は、もとより眞言宗の伽藍なれば、波著寺の懐鑒徹通等の請にて、書せられたるか、言く。

妙覺寺鎭守勸請十箇所權現。第一熊野山。第二日照。第三金峰山。第四賀茂。第五八幡。第六祇園。第七赤山。第八日吉。第九貴船。第十白山。右所奉勸請如件。天福元年四月日(已上)。

また祖像とて、一木像あれども、これは眞言八祖の一箇と見ゆるなり。

 

文暦元年甲午、懐弉和尚、師に深草の精舎に見て、衣を易ふ。

 

 補 洞上室内、古來の口訣に云、筑紫の博多に能忍と云人あり。平家の士。悪七兵衛景清の叔父なり。彼の上人、宋の育王山の佛照禅師を傳聞て、練中勝辨の二弟子を使ひして、嗣法を請す。佛照、法衣並に達磨の像に賛して贈る。賛云、直指人心、見性成佛、太華擘開、滄溟頓に竭く、然も神光を接得すと雖も、爭奈せん當門の歯缺たることをと。これを得て津國の三寶寺に住して、日本の達磨宗と號せらる。道徳さかんなるにや。深法禪師の勅號あり。後に難に逢て寂す。その嗣法の弟子、覺晏上人、和州の談(たふの)峯に住して、達磨宗を唱ふ。晏の弟子に懐鑒、懐弉、懐照、懐義(比丘尼)等あり。懐鑒を覺禪和尚と稱す。越前の波著寺に住して、弟子多し。義介、義尹、義演、義準、義荐、義運等なり。後に法を義介に遺囑して寂す。懐弉は祖師に侍して、入室せらる。この懐鑒、懐弉、懐照共に、祖師に歸屬せらる。ことは覺晏上人の遺意に、先師能忍の得法、もと面授にあらぬゆへに、たヾしからず。門人向向後共に道元禪師に依屬せらるべしと。按ずるに徹通、瑩山に付する狀に云く、太宋淳凞十六年、日本文治五年、育王佛照禅師、徳光和尚、佛在世の生生法壽の例を引て、遥に中辨の二使に附して、臨濟家の嗣法祖師相傳の血脈、六祖普賢の舎利等を以て、遠く攝州の三寶寺の能忍和尚、勅謚深法禪師に授て、釋尊五十一世の祖と爲。此の印信心印の文、速に官裁を請ふこと有に依て、勅命して即ち皇居に在て、之を開、八宗の講者爲と雖も、進て以て達磨正宗の初祖爲るの、宣下を蒙る。爾し自、日本國理、初て達磨宗を仰ぐ。其の法、東山の覺晏上人に授け、晏、越州波著寺の覺禪和尚に附す。禪、義介に附す。此の書竝に六祖普賢の舎利(一粒)同く紹瑾長老に寄て、以て當家(洞下)嗣書の助證と爲す可。能忍和尚の信牒、佛照禪師の返牒、練中勝辨の在唐記に委く之在。嘉元四年丙午、仲冬三日、加州大乘寺開闢義介、之を授。(この眞筆は、昔大智和尚所持せらる。今に肥後の廣福寺に遺在す。)又本朝高僧傳の十九巻に能忍の傳あり。

 

訂補建撕記圖會 乾巻尾

 


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