永平寺六十二世 青蔭雪鴻禅師

 

永平六十二世 青蔭雪鴻禅師

 

(世称)
  青蔭雪鴻(あおかげ せっこう)


(道号・法諱)
  鐵肝雪鴻(てっかん せっこう)


(禅師号)
  円応道鑑禅師
  (えんおうどうかんぜんじ)


(生誕)
  天保2年(1831)10月8日


(示寂)
  明治18年(1885) 8月10日


(世壽)
  55歳

雪鴻道人・東川寺蔵
雪鴻道人・東川寺蔵

青蔭雪鴻禅師の書

青松不礙人来往 野水無心自去留  雪鴻道人

「虚道録」より

青蔭雪鴻禅師の略歴

 

天保2年10月8日(1831)
越前国武生、薄金家で生まれる。幼名「忠吉」 (異説あり)

 

天保7年(1836)6歳
大垣、全昌寺二十三世鐵藍無底和尚について得度。安名は「鐵肝童寿」。

 

天保12年秋(1841)11歳
師僧、無底和尚、加賀大乗寺五十四世と転住に伴い童寿も随う。

 

弘化元年8月13日(1844)14歳
師僧、無底和尚の遷化に遭い、兄弟子の鐵面清拙(鴻雪爪(注1)の弟子となる。

 

弘化3年(1846)16歳
師僧、清拙和尚、全昌寺二十五世住職となる。童寿も随う。

 

嘉永5年(1852)22歳
全昌寺焼失に遭い、清拙和尚を助け全昌寺再建に力を尽くす。

 

安政6年8月(1859)29歳
岐阜長興寺十五世住職となる。

 

慶応3年9月3日(1867)37歳
孝顕寺三十世住職となる。

 

慶応4年(1868)旧9月8日 1月1日に遡って明治元年(1868)とする改元の詔書が出される。

 

明治5年7月(1872)42歳
環溪禅師より大本山永平寺東京出張所監院職を任命される。


10月、僧侶にも苗字を設けることとなり、「青蔭童寿」と名乗る。

 

明治6年5月8日(1873)43歳
姓名を「青蔭雪鴻」と改名する。

 

明治12年(1879)5月15日

滝谷琢宗「総持開山太祖略伝」を著し曹洞宗務局版を鴻盟社と明教社より発刊される。

青蔭雪鴻、その巻末「跋」を寄せる。

 

  「総持開山太祖略伝」・青蔭雪鴻 跋①(東川寺蔵)
  「総持開山太祖略伝」・青蔭雪鴻 跋①(東川寺蔵)
  「総持開山太祖略伝」・青蔭雪鴻 跋②
  「総持開山太祖略伝」・青蔭雪鴻 跋②

 

明治12年(1879)9月29日
権中講義翼龍童「首書傍解 普勧坐禪儀不能語」を編し、橡栗山雪鴻、その巻末「跋」を寄せる。

 

首書傍解普勧坐禪儀不能語 (東川寺蔵書)
首書傍解普勧坐禪儀不能語 (東川寺蔵書)
権中講義翼龍童「首書傍解普勧坐禪儀不能語」跋(東川寺蔵)
権中講義翼龍童「首書傍解普勧坐禪儀不能語」跋(東川寺蔵)

 

明治12年12月27日(1879)49歳
雪鴻から本山監院長森良範へ曹洞宗宗務局勤務の依頼状を出し、了解される。

 

明治15年3月30日(1882)52歳
曹洞宗宗務局、「両本山貫首公撰投票規約」施行。

 

明治15年5月5日(1882)52歳
青蔭雪鴻・滝谷琢宗「曹洞宗本末憲章」を発布する。

 

明治16年9月22日(1883)53歳
大本山永平寺後任選挙(初の貫首公選)の結果「青蔭雪鴻」当選と判明する

 

明治16年10月24日(1883)53歳
内務省より青蔭雪鴻、永平寺六十二世住職の辞令を受領する。


12月15日、円応道鑑禅師」を勅許される。

 

明治17年1月(1884)54歳
辻顕高校正、林古芳傍解「冠註傍解・参同契寶鏡三昧・不能語」を森江佐七が出版。
その巻頭に題辞を寄せる。

冠註傍解・参同契寶鏡三昧・不能語
冠註傍解・参同契寶鏡三昧・不能語
青蔭大教正題辞-1
青蔭大教正題辞-1
青蔭大教正題辞-2
青蔭大教正題辞-2

 

明治17年3月30日(1884)54歳
古田梵仙増冠傍註「永平元禪師清規」(乾坤)刻成。
その巻頭に題辞を寄せる。

 

青蔭大教正題辞・東川寺蔵書
青蔭大教正題辞・東川寺蔵書
青蔭大教正題辞・東川寺蔵書
青蔭大教正題辞・東川寺蔵書

 

明治17年4月14日(1884)54歳
久我通久、東久世通禧、北畠通城等連署して青蔭雪鴻禅師を久我通久の養子に許可せられんことを宮内卿伊藤博文に出願する。

 

明治17年4月28日(1884)54歳

曹洞宗管長となる。 

 

明治17年4月28日(1884)54歳
青蔭雪鴻禅師、大本山永平寺晋山式を挙げる。

 

明治17年9月6日(1884)54歳
曹洞宗管長・青蔭雪鴻、住職辞令を出す。

  管長青蔭雪鴻-住職辞令 (東川寺蔵)
  管長青蔭雪鴻-住職辞令 (東川寺蔵)

 

明治17年9月9日(1884)54歳
青蔭雪鴻禅師、久我家への入籍手続きをする。

 

明治17年10月1日(1884)54歳

此の日より、地方巡錫の旅に出る。(明治18年3月31日まで)

巡錫地は若狭、近江、山城、丹波、播磨、攝津。

 

明治18年1月23日(1885)55歳
青蔭雪鴻禅師の久我家への入籍は東京府知事芳川顕正によって却下される。

 

明治18年5月5日(1885)55歳

永平六十一世環渓密雲禅師の本葬乗炬師を勤める。

 

明治18年(1885)6月10日
曹洞宗は両本山住職名をもって宗制論達を全国末派僧侶に出す。

 

宗制第七號ニ付論達


本宗ハ古来僧侶僧官ヲ屑トセズ或ハ巳ムヲ得スシテ時ニ王侯ニ親近スルモ其心事を高尚ニシ唯佛祖ノ清規ニ豫テ宗旨ヲ傳持シ來リシニ明治五年以降神佛一般ノ教導職ニ束縛セラレ該進退黜陟上弊害不少為メニ眞實ノ宗教委靡シテ振ハサルニ至ルクルハ世間出世間共ニ見聞シテ能ク知ル處ナリ今ヤ幸ニ教導職ヲ廃セラレタルニ由リ本宗ハ断然佛祖ノ清規ニ復シ教師ノ名稱及等級ヲ立セズ總テ戒定慧ニ豫テ試験法ヲ設ケタリ末派僧侶是ノ機運ニ乗シ同心勉励最大法輪ヲ轉セズンバ更ニ何レノ時ヲカ待ンヤ故ニ各自従前教導職ノ閑名目ヲ珍重セシ新弊ヲ一洗シ名聞ヲ棄テ實學ヲ務メ偏ニ吾ガ宗旨ヲ講明セシコトヲ冀圖セヨ此旨論達ス
  明治十八年六月十日
    永平寺住職 青蔭雪鴻
    總持寺住職 畔上楳仙

 

 

明治18年7月23日(1885)55歳

北海道樺戸郡月形村、北漸寺創立につき、青蔭雪鴻禅師は北漸寺開山となる。

 
明治18年8月(1885)
永平寺本「正法眼蔵」九十五巻の全本が出版されたのは明治十八年八月である。
永平寺大本山第六十二世雪鴻の時代に大内青巒の要請を容れて「正法眼蔵」の重版を許す事となった。
青巒は佛祖・嗣書・受戒・傳衣・自證三昧の五巻の異本を集め、対照校訂して全部九十五巻を印梓して出版した。永平寺本は二十一冊の大部で携帯に不便であるから、活版本一冊に縮刷してあって、正法眼蔵活版本の最初である。
第一に雪鴻の序、第二に義雲の序、第三に彫刻永平正法眼蔵縁由、第四に彫刻永平正法眼蔵凡例、第五に青巒の重版永平正法眼蔵凡例、第六に永平正法眼蔵巻目列次をかかげ、第七に正法眼蔵九十五巻がのせてある。編輯の順序は永平本正法眼蔵の木版本と同じである。 「道元禪師研究の手引」(永久岳水・著)113~114頁より

 

明治18年8月10日(1885)55歳
青蔭雪鴻禅師、脳出血の為、午前5時に遷化する

 

同年8月15日、密葬。

 

明治19年4月28日(1886)
永平寺本葬。(荼毘式)
 秉炬師 畔上楳仙(総持独住第二世・法雲普蓋禅師)
 奠茶師 星見天海(最乗寺)
 奠湯師 笠松戒鱗(宝慶寺)
 鎖龕師 満岡慈舟(龍泉寺)
 移龕師 堀 麟童(大乗寺)
 起龕師 大安麟乗(長英寺)
 掛真師 温嶽耕堂(本光寺)

 入龕師 金山主黄(功山寺)

 

遺偈 「五十四稔 奉侍承陽 無我仏法 空手還郷」

(急逝した為、この遺偈は遷化後発見されたが、示寂の前年作か?)

 

滝谷琢宗禅師は青蔭雪鴻禅師の遷化を歎き、
「予は、予が道交の唯一無二なる永平寺貫首青蔭雪鴻禅師、病なくして卒然入滅し玉いたるの電訃に接し、恰も夢中に夢を感ずるの心地して、意識朦朧盧實を辨ずる能わざること久し。是れ予が未だ生死を透脱せざるに坐するの妄想なるべけれども、十有余年共に一宗の衝に当たり、辛酸を嘗めて以て経営せしことの、将来或いは水泡に属せんことを憤慨し頻りに予が心をして寒からしめたり。故に他の弔詞を聞き、若しくは弔書を見る毎に、未だ曾て血涙漣如たらずんばあらず。」と愁歎惜しく能わざらしめたり。

 

 

「此師にして此資あり」 高橋竹迷

 

明治佛教界の「若し代表的一人を挙げなば鴻雪爪老人なり」と、石川素堂禅師は最も推賞されていた。雪爪老人の暖皮肉たる「山高水長圖記」は確かに明治出版界中の異彩である。
この下巻の「天光雲影」の一篇に、師匠としての雪爪老人が、弟子としての我が青蔭禅師を見られた親言親句、字々悉く是れ血涙である。暫らく漢文を譯してその文章を窺えば、
その冒頭に先ず、
「余に従って薪水の労を取る者、幾什陌なるを知らず。而して道心最も堅き者、雪鴻に若くは莫し。」
と子を見ること父に若しは莫し。師匠としての雪爪老人は、弟子としての雪鴻禅師を見られて、道心堅固の第一人者として満幅の愛撫を寄せられた。ここに余人所不見の師資の證契即通があったのは実に尊い。これに次で、
「余しばしば転錫して、道貧にして洗うが如し。雪鴻常に随い、謙虚、衆を容れ、温藉物を接す。而も事、繩規に関しては、一毫も假さず、以て吾が化を輔け、人をして自然に感愧せしむるに至る。」
と、雪爪老人の貧は、身にして決して道ではなかった。その身の貧が洗うが如くであったと。高僧の進退、読んで此に到る。誰か一掬慕道の涙なからんや。而かも貧しきその師匠を輔けて常に左右を離れず、謙虚、温藉、実に青蔭禅師の音容が彷彿とする。事苟も山門の清規に渉っては一歩も仮借されなかったという。実に有難い所があった。
雪爪老人は彦根井伊公の請待を受けて、福井の孝顯寺を去らるる時、福井は一代の名君松平春嶽公であった。公は自ら雪鴻禅師を推挙して、その後席とされた。間もなく明治維新となった。雪爪老人は時の大官と交遊して東京に出られたが、雪鴻禅師は永平寺監院から曹洞宗務局へ出られた。その頃唯一人の書記として働いていられた沖津元機老師から能くそのお話を聴いた。
雪鴻禅師の聲譽隆々として永平寺へ御喬遷になったのは実に明治十六年十一月、勅して圓應道鑑禅師と賜うた。春嶽公は「吾が鑑(め)たがわず」と、喜ばれた。雪爪老人も猶自分の事の如く喜んで、多年愛蔵の竹簾一張を贈られた。それは心越禅師が珍襲の物で、蘆葉の達磨と、天光雲影、端草奇花、蒼松古柏の十二字が絲繍してある珍品で「子、勉めて老夫の意に副え」と云われたので、「雪鴻、感泣して之を受け去る」とある。
然るに未だ三年ならずして御遷化になった。流石の雪爪老人も、我が舎利を拾うべき弟子に先立たれ、唯一の我が衣鉢を継ぐべきにと信愛していられたので、他所の見る目も気の毒な位で、哀哭せられた。禅師は越前武生に生まれられたが、その父の因縁かが広島県の某村、それが青蔭の性の出た所であると云う。我が雄弁の恩師松浦百英師は実にその村で、自ら青蔭道人と号して居られた。この村に出た、もう一人の高僧は、雪鴻禅師の法祖にして大乗寺へ出られた鐵藍無底和尚である。この御方も青蔭の別号を持っていられたという。松浦師ももう十年の壽を仮したならと頻りに思う。雪鴻禅師の手紙が岐阜の本覚寺に額になってある孝顯寺に橡栗山房の名があって、之も亦雪爪老人を思う。之を書きたかったが時間の都合で行けなかった。

 

上記、高橋竹迷著「此師にして此資あり」は青蔭雪鴻禅師五十回忌に当たり昭和9年「傘松」八月号の特集寄稿の中に在ります。
又同じく、その中で高島玄岫は「本山六十二世圓應道鑑禪師の五十回忌を迎え奉りて」と題して寄稿していて「春嶽公と禪師」として次のように記しています。

 

「春嶽公と禪師」


明治中興に翼賛した諸傑鍋島閑叟、山内容堂或いは木戸大久保と共に勤王護国にこの人ありと云われた松平春嶽公は、特に雪爪老漢と道交深く、老漢孝顯寺に住職中は常に相往来して、蔭に大政を賛し、春嶽公を補けて大いに力ありたりと。
折しも、雪爪老人は彦根清凉寺に轉ずるの止むなきに至り、此の由を春嶽公に告げしに、之より先、偶々公は参詣の砌、当寺典座たりし雪鴻師に十種の難問を発せしに、悉く名答即解、既に、此の時公は師の道風に依嘱せらるべきものあるを肯心せられたるか。雪爪老漢の話題に従って、言下に師の資たる雪鴻をして後席たらしむべしと。翌日、公は本邸に雪鴻師を召し、住職としての法衣を賜い、帰寺に際しては、特に御籠行列を以て遇せられたりと。
爾後、雪爪老漢同様道交殊に厚く、禪師遷化に際しては敷島の道に托して、慕懐の情を表していられるのを見ても、春嶽公の禪師に帰依の程が窺われる。
  春嶽 源 慶永
「蓮葉の臺にのりし君うへを殊さらしのぶけふのかなしさ」
「なき魂をかへす煙にあらねどもせめて手向にこれのそれたき」

 

北海道行刑資料鑑、樺戸監獄絵はがき(東川寺蔵)
北海道行刑資料鑑、樺戸監獄絵はがき(東川寺蔵)
  月形潔記念碑と熊坂長庵獄中画「観音像」(東川寺蔵)
  月形潔記念碑と熊坂長庵獄中画「観音像」(東川寺蔵)

北漸寺と樺戸集治監

北漸寺と樺戸集治監

 

越前永平寺前貫首故円応道鑑禅師の法弟、鴻春倪(おおとり しゅんげい)氏は去る明治十五年八月、管長の特命にて護法会設立勧募方法説明の為め、北海道曹洞宗務支局へ派出せられ、事務整頓の末、札幌に於て樺戸集治監書記井上正親氏の誘導に依り、同監に赴むき典獄月形潔氏の懇願に応じ、監内に於て両日間、罪囚に教誨を施されしに、大いに法益の見へければ、月形典獄より、自今曹洞宗教師に於て該教誨を負担せられ度よし依頼せられたり。
去れば更に十六年七月、管長の特命にて同監に赴むき罪囚は更なり、監下移住人民等に教化せられしに、其功空しからずとして千五百名の罪囚中、改悪遷善の状を顕はせし者三百余名へ、去る八月中、賞表を授与せられたり。
中に就き終身刑なる石上正倫、阿天坊源三、伊佐直平の三名は勅裁に依りて十ケ年に減ぜられ、又同じく小山万作なる者は即日放免せられ、爾来六十日間、北漸寺に養い置き、尚、今後の行為を誡しめ路資を下附して本国へ帰寧せしめられたり。
是れより先一昨年十七年七月、石狩川上流の水畔に於て罪囚及び移住人民死亡精霊の追福として無遮会を修行せられしに、月形典獄を始め移住人民一同が一精舍を創立せんことを発願し、忽まちに官に請願して清地を領し、典獄を始め三百余名の官史移住人民等各々淨財を寄捨し、罪囚千五百名は労力を以て三千八百坪の荒地を開拓し、本年七月に至りては樺戸山北漸寺の寺名公称(寺号公称)の許可を受け、管長よりは春倪氏を以て住職の命を下し、九月二十六日堂宇全く竣功せしかば住職晋院入式を行ない、続きて本尊入佛会を修行せられたり。
当日典獄、副典獄を始め官史若干人及び移住人民一同が参拝せられ、同監警守課長、海賀直常(かいが なおつね)氏は新寺檀中総代として左の請疏を新住職へ呈供せられ、実に古今未曾有の盛会なりし由。
而して十月十日を以て故円応道鑑禅師を開山に勧請して殊勝なる請迎式を執行せられたる由。

維新明治十八年九月二十又六日北海道石狩国樺戸郡月形村樺戸山北漸寺檀信海賀直常等謹疏
鴻北漸禅師の北に来て錫を月形村に停むるに当たり、官請うて罪囚を教誨せしむ。
冥頑の徒其良知に復し頓足して深罪を懺悔するもの往々之あり。
既にして士官大いに其徳に懐き、先を争うて其法を聴く。
点頭啻のみならず邪なるものは正しく、曲れる者は直く、風俗丕に変ず、此皆禅師の賜なり。
幾くもなく相議して淨財を喜捨し、一寺を石狩川の畔に創建す。
経営已に終り荘厳全く成る、禅師乃ち名を賜うて樺戸山北漸寺と云う。
士民又議して曰く、禅師の善知識にして住持するに非ずんば、以て衆生渇仰随喜の望みに副うなしと。
是に於て月の二十六日を卜して礼を具い錫を迎う、禅師それ恵然として来り、永く此の寺に住して斯の民を火宅の中に救い給え、謹んで疏す。

 

明教新誌 (明治19年1月)より

 

明治校訂・洞上行持軌範

 

明治21年(1888)鴻春倪森田悟由師北野元峰師と共に法式改正係委員(三名)となり「明治校訂・洞上行持軌範」三巻を編集する。

 

  「明治校訂・洞上行持軌範」(東川寺所蔵)
  「明治校訂・洞上行持軌範」(東川寺所蔵)

(注1)

青蔭雪鴻と鴻雪爪と間違えないように!

 

鴻雪爪(おおとり せっそう)

(1814~1904)

 

曹洞宗、のち、御岳教。

号は鉄面、諱は清拙、俗姓は宮地氏。
のち雪爪と号し、明治になって鴻氏を称す。
文化11年正月1日、備後(広島県)因島に生まれる。
6歳にして石見(島根県)津和野大定院の鉄藍無底について得度する。
無底が文政8年(1825)越前(福井県)武生の龍泉寺に転住するに随侍し、後、行脚して長崎皓臺寺の黄泉無著に学び、無底のもとに帰って嗣法する。
天保14年(1843)加賀(石川県)祇陀寺の住職となり、次いで無底が加賀大乗寺に転住したので、その跡をうけて美濃(岐阜県)大垣の全昌寺に昇住した。
嘉永2年(1849)能登(石川県)の総持寺に輪住し、次いで越前孝顕寺に招かれ、また慶応3年(1867)彦根(滋賀県)清凉寺に転住した。
この間、大垣藩の小原鉄心等と親交する。
明治維新が成ると建白書を提出して神道及び儒教、仏教の三教によって国家を安らかしめるよう訴えた。
ついで起こった永平寺、総持寺の反目和解のため宗門碩徳会議の議員となり、その安定をはかり、さらに教部省の設置と大教院の創立に至る宗教政策改定に力を尽くす。
また島地黙雷らとはかり、神仏合併による大教院制を廃止させ、各宗ごとに大中小教院を設けるように建白した。
明治政府要路者との交際が始まってからは清凉寺を退き、明治4年(1871)、還俗(げんぞく)し,教部省御用掛,東京芝金刀比羅(ことひら)神社の神職などをへて,神道御岳教管長となった。
能登の百如庵に閑居し、また東京飯倉の寓居に住み、明治37年6月18日に91歳で逝去した。

 

(東川寺所蔵)
(東川寺所蔵)

弟子の中から青蔭雪鴻禅師を出し、その門下からは北野元峰禅師が出ている。

「山高水長圖記」の著述があり、詩文に秀で、弟子の鴻春倪の編集にかかる「江湖翁遺藁」がある。
(禅学大辞典等・参考)

 


鴻雪爪と青蔭雪鴻の名は「雪泥鴻爪・せつでいこうそう」によるとされる。

 

雪泥鴻爪

  

蘇軾の七言律詩「子由の澠池懐旧に和す」

 

人生到處知何似  人生到る處 何に似たるかを知りぬ
應似飛鴻踏雪泥  まさに飛ぶ鴻(おおとり)の雪泥(せつでい)を踏むに似たり
泥上偶然留指爪  泥上(でいじょう)偶然に指爪(しそう)を留むる
鴻飛那復計東西  鴻飛んで那ぞ復た東西を計らん
老僧已死成新塔  老僧は已に死して新塔を成し
壊壁無由見舊題  壊壁(かいへき)は旧題(きゅうだい)を見るに由(よし)無し
往日崎嶇還記否  往日(おうじつ)の崎嶇(きく)還(ま)た記するや否や
路長人困蹇驢嘶  路(みち)長く人困(こん)して蹇驢(けんろ)嘶(いなな)く

(路上人困蹇驢嘶)

 


参考資料

「雪鴻禅師語録」雪鴻禅師語録刊行会編 大本山永平寺・発行

「出生の謎 青蔭雪鴻伝」 青園謙三郎著 つぼた書店・発行

「北漸寺開創百周年記念誌」 発行者・樺戸山北漸寺、鶴原憲鳳