永平寺六十四世 森田悟由禅師

 

永平寺六十四世 森田悟由禅師

 

(世称)
  森田悟由(もりた ごゆう)


(道号・法諱)
  大休悟由(だいきゅう ごゆう)


(禅師号)
  性海慈船禅師
  (しょうかいじせんぜんじ)


(生誕)
  天保5年(1834)1月1日


(示寂)
  大正4年(1915)2月9日


(世壽)
  82歳


(別号)
  「六湛」「六湛庵」「空華」

 

(特記)

  大本山永平寺重興

  永平寺貫首在位 25年 

七佛通誡偈
七佛通誡偈

森田悟由禅師の書
「七仏通誡偈」(東川寺所蔵)
「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」

 


森田悟由禅師の略歴

天保5年1月1日(1834)尾張国知多郡大谷村、森田常吉(父)市田ぬい(母)の二男として生まれる。兄弟の二子のみ。幼名は「常次郞」。 (注1)

 


 

[生家盛田家について]

-中島繁雄著「永平寺風雲録第二部-明治法燈の人(一)」(傘松1987-1)より-

永平寺六十四世貫首森田悟由禅師は愛知県の知多半島の漁村にうまれている。
「あそこの地酒に『ねのひ』というのがあります」・・・・
「その造り酒屋も禅師の生家と同じ盛田というんです」
その酒屋は国際的な盛名を馳せているソニー会長盛田昭夫氏の家である。

悟由禅師の生家、盛田家の当主は盛田正視(まさみ)氏。

ちなみに生家の当主は昔は「森田」姓で大正以後「盛田」に変わった

盛田家の菩提寺玉泉寺の境内の隅に高さ三メートル弱の「大休悟由禪師御誕生地」と書かれた石碑がある。
その悟由禪師の石碑建立の発起人代表はソニー会長の厳父盛田久左衛門。
生家に石碑が建てられたのは大正十一年三月八日。
玉泉寺に台風や高潮の事故を顧慮し、石碑を移したのは昭和三十一年。


(注)著者が悟由禪師の生家を訪れた時のことが、大略上記の様に書かれています。

尚、石碑文は永平六十七世北野元峰禅師の揮毫で、正確には「勅特賜性海慈船禅師 永平寺六十四世 大休悟由大和尚誕生地」と書かれています。

又、愛知県知多郡大谷村は明治39年6月16日合併して知多郡小鈴谷村となった。

現在は愛知県常滑市大谷になっている。

 



「永平悟由禪師法話集」五 性海一滴より
○ 幼にして脱塵の志あり
禪師は森田常吉氏の第二子として生れ、父母の寵愛チョウアイ至らざる所無きも、夙ツトに脱塵の志ココロザシを懐イダき、居止キョシ自ら他の兒童に異なるものあり。
當時の風習として兒童の頭髪を剃るにア鬟(アカン)を残すを常とす。
然るに禪師は之を残すことを欲せず、悉コトゴトく之を剃り落し、他の兒童の嘲弄チョウロウを受くるも少しも意に介せず。
朝夕の食膳、魚鳥を口にせず、父母に向って常に出家を請うて止ヤまず。
父母は寵愛の餘り、之を出家せしむることを欲せず。
再三、之を止トドむれども請うて止ヤまざるを以て、遂にその意に任せ、名古屋の大光院泰門の室に投じて出家せしむ。

 


 

天保11年(1840)3月12日 7歳 自ら出家の意志を固め、名古屋大光院の泰門和尚について得度する。名は「恒遊」となる。
その後、「恒遊」を「恆由」、「悟由」と改名するが時期は不明。


弘化4年(1847)8月 14歳 泰門和尚が遷化したので、同寺の典座をしていた月定和尚の自坊(伊勢大幅寺)に移り、月定和尚に随侍する。

 

嘉永2年(1849)正月15日 16歳

法兄、名古屋禅芳寺膺拳和尚の遷化に遭て、伊勢大幅寺より禅芳寺に帰り、其の後住正道和尚を補佐す。

 

泰門和尚に別れて後、大幅寺に安居せしも幾月ならずして又法兄を失ふ實に不幸の身なり。然れども先師(悟由)の志気金銕の如く、朝夕行乞して粥飯を給し、其の餘暇を以て寺子屋に通ふて教へを受く。而して夜座晩課また如法に勤行して怠ること無し。其の日々の行持全く庸人に異り、名古屋の富豪笹屋善七、その志気その精勤とに感じ、進んで外護の任に當り修学に便を與へらる。(大休悟由禪師廣録首尾八帖より)

 

嘉永3年(1850)17歳

名古屋の富豪笹屋善七の隠宅・雙竹庵に在り。余暇のみ雙竹庵に勉学せられ、日々禅芳寺に通い、行乞、檀務、用僧等の補佐をする。


嘉永4年(1851)正月 18歳 武州小山田大泉寺に月定和尚が転住したのに伴う。

 

嘉永四年の春、孤錫双鞋行脚の途に上り、道を四方に詢ふるころ幾んと五春秋、内外の典籍を渉猟す。(性海慈船禪師小傳一より)

 

嘉永5年(1852)8月 19歳 大本山永平寺、高祖六百回大遠忌を厳修す。

月定和尚、山門都管の任を拝命して上山す。悟由も随伴し拝登す。

その際、悟由の高祖六百回大遠忌配役覚書あり。

(大休悟由禪師廣録首尾八~九帖より)


安政元年(1854)春 21歳 江戸駒込吉祥寺の加賀寮に掛錫する。


この間、神田御玉ケ池の東条一堂の漢学塾に通い、漢籍を修学する。

 

安政二年、山僧二十二歳の時であつた。江戸は大地震(10月2日午後10時頃)で町屋は云ふ迄も無く、大名の屋敷や寺院なども大層倒れて澤山な人死(ひとじに)があつた位で、その地震のために火事が起る。その火事が浅草から品川迄一遍に三十餘所からも火を出すと云ふやうな騒ぎであるから、消防に手の着けやうも無く、云はヽ燃えなりになつて居つた。それが丁度吉祥寺の戒會中で、しかも懺悔の晩であつた。翌日夜が明けて見ると吉祥寺などは餘程軽い方であつたが、廻廊は皆倒れ、屋根の瓦も振ひ落して仕舞つたと云ふ仕末で、中に這入つて居ることも出来ず、仕方が無い。直壇寮から戒弟に断つて、翌年の三月、血脈丈を出すことにした。こんな有様であるから江戸に居つても何(ど)うすることも出来ないし、元来の考えが龍海院に行かうと云ふ気であつたから、大庵和尚(加賀寮寮司)にもその事を話し、又一堂先生の所にも暇乞に行つた。・・・・

(「永平悟由禪師法話集」上編八頁より)


安政3年(1856)正月 23歳 上州前橋、龍海院の旃崖奕堂に謁する。


安政4年(1857)10月 旃崖奕堂、加賀天徳院に転住したのに伴う。


爾来18年間、竣厳きまわりない家風の旃崖奕堂に随侍する。
「参請追随、何の覓むる所。一坐十有八寒喧。無端の仏法都て忘了。酬ゆるに堪えたり瞋拳熱喝の恩」と旃崖奕堂の接化の厳しさを後述している。

 

安政6年(1859)春 母堂の病を聞き帰省す。


同年7月27日 星見天海、天徳院に掛錫す、初相見にして肝胆相照し意気投合し高唱雙べ挙げ、龍雲を起し風虎に従うの趣きあり。これより悟由、天海、終生の友となる。


万延元年(1860)夏 27歳

天徳院夏安居の首座に任ぜらる。

 

奕堂和尚の任首座賀偈

 暗穿金線繍鴛鴦。 暗に金線を穿つて鴛鴦を繍ふ。

 石女心機焉可量。 石女の心機、焉ぞ量る可き。

 妙悟由來曾吐却。 妙悟の由來、曾て吐却す。

 玉壺不礙轉身方。 玉壺、礙えず轉身の方。

 

同年8月28日、尾張国陽仙院の天瑞白龍の室に入り嗣法する。


元治元年(1864)3月5日 31歳 総持寺に瑞世し、次いで参内する。


元治元年(1864)10月 31歳 加賀龍徳寺の住職となる。

 

慶応4年(1868)旧9月8日 1月1日に遡って明治元年(1868)とする改元の詔書が出される。

 

明治3年(1870)37歳 旃崖奕堂、總持寺独住第一世となるに随い常随侍者として補佐する。

 

明治4年(1871)11月21日 38歳
先考(父・森田常吉)圓翁現成庵主、八十四歳病にて死去す。

 

明治5年(1872)5月3日 39歳
肉兄、大法徹乘庵主、四十九歳にて死去す。 


明治6年(1873)4月 40歳 加賀玉竜寺へ転住する。


明治8年(1875)4月 42歳 天徳院二十四世活宗洞猊が退隠することになり悟由師を後董に請したため、これを受け天徳院二十五世となり四月二日、晋山式を厳修する。


加賀天徳院在住18年間

 

(参考)天徳院(金沢市)Wikipedia   (この記述には間違いがある。)

「明治12年(1879)」は諸嶽(旃崖)奕堂が遷化した年であり、「大正4年(1915年)には森田悟由(永平寺貫首、曹洞宗管長)が住職に就任した。」とあるのも間違いで「明治8年(1875)」が正しい。

 

   舊藩祖前田家の御菩提所曹洞宗天徳院山門・絵葉書 (東川寺所蔵)
   舊藩祖前田家の御菩提所曹洞宗天徳院山門・絵葉書 (東川寺所蔵)
 天徳悟由(東川寺蔵)
 天徳悟由(東川寺蔵)

明治11年(1878)9月22日 45歳

永平寺にて、二祖の六百回大遠忌を奉修し、次いで授戒会を修す。

この時、天徳院森田悟由、随身三十余人を率いて、僧堂単頭として随喜する。

 

(余話1)沒可把

 

「奕堂禪師 附書翰集」(昭和2年10月20日・鴻盟社発行)の内、書翰集で諸嶽奕堂禅師の森田悟由宛て書翰が多数掲載されている。
その最後の書翰は明治十二年五月十五日付けで、「・・・扨て越本山儀、五月三日午前九時出火にて承陽殿、孤雲閣両所焼失之由東京宗局より届来、高祖尊像焼失難斗、乍去外殿堂類焼無之鎮火之趣也。・・・奕堂九拜 耕文西堂 天徳老宗匠閣下」と永平寺承陽殿、孤雲閣焼失のことを伝えている。

 

明治12年(1879)8月24日
総持寺独住第一世、弘済慈徳禅師・諸嶽(旃崖)奕堂禅師、遷化す。

 

  總持寺独住第一世・旃崖奕堂禅師(東川寺蔵)
  總持寺独住第一世・旃崖奕堂禅師(東川寺蔵)

 

明治16年(1883)8月16日 50歳
北堂(母・ぬい)尾州大谷村に逝去、享年九十二歳。

 

明治18年(1885)冬 52歳
金沢放生寺山腰天暁和尚の初法幢の助化師の請に応ず、首座は法子伊藤彌天(十八歳)なり。

 

明治21年(1888)1月 55歳 法式改正係の委員となり、2月、同委員長となる。
法式改正係委員は森田悟由、北野元峰、鴻春倪の3名と書記の村上泰音。


明治21年(1888)11月 55歳 

法式改正係委員等、「明治校訂・洞上行持軌範」三巻を編集する。

 

  「明治校訂・洞上行持軌範」(東川寺所蔵)
  「明治校訂・洞上行持軌範」(東川寺所蔵)


明治22年(1889)8月15日 56歳

両本山貫首は「明治校訂洞上行持軌範」の完成頒布を告げ、明治24年1月1日以後は同規範を遵守すべき旨を末派寺院に告論する。

 

明治24年(1891)8月26日 58歳 

石川県の天徳院の森田悟由住職、永平寺六十四世貫首に当選する。

  

しかし森田悟由は永平寺晋住を固辞する。

福山黙童等の懇請をも拒否し続ける。

 

(余話2)

天徳院森田悟由、永平寺晋住固辞

 

  越前州吉田郡志比荘吉祥山永平寺全圖 明治24年9月3日印刷-A(東川寺蔵)
  越前州吉田郡志比荘吉祥山永平寺全圖 明治24年9月3日印刷-A(東川寺蔵)
  越前州吉田郡志比荘吉祥山永平寺全圖 明治24年9月3日印刷-B(東川寺蔵)
  越前州吉田郡志比荘吉祥山永平寺全圖 明治24年9月3日印刷-B(東川寺蔵)


明治24年(1891)9月18日 58歳 森田悟由、永平寺住職の件、承諾書を上申する。

 

明治25年(1892)1月 59歳 森田悟由、天徳院を押野太寿に譲り、永平寺に入山する。 


明治25年(1892)3月下旬 59歳
突然、能本山(総持寺)分離の宣言書、到る処に飛び、大波乱を生ず。
この事件は以後三カ年に亘り、頗る紛糾を極めた。 

 

 

明治26年(1893)3月 60歳

名古屋大光院の授戒会。

 

同年、5月 麻蒔舌渓(愛知縣)著、明教社刊行の「曹洞宗史要」の巻頭に下掲載の書を寄せる。

 

 (東川寺蔵)
 (東川寺蔵)

 

明治26年(1893)8月26日

承陽大師御略傳及御和讚」(著作者・大内青巒)の初版が永平寺出張所(発行者・弘津説三)より発行され、森田悟由禅師、その巻頭の道元禅師の画に讃を寄せる。

 

  「承陽大師御略傳及御和讚」(東川寺蔵)
  「承陽大師御略傳及御和讚」(東川寺蔵)
  「承陽大師御略傳及御和讚」悟由禅師讃
  「承陽大師御略傳及御和讚」悟由禅師讃

 

明治26年(1893)9月30日
高祖承陽大師行實圖會(實山梵成・編輯)に巻頭題を書す。

 

 

明治26年(1893)11月8日 

瀧谷琢宗編輯の「曹洞教會修證義筌蹄」に題字を寄せる。

 

 森田悟由禅師題字・曹洞教會修證義筌蹄
 森田悟由禅師題字・曹洞教會修證義筌蹄

 

洞上高僧月旦-山岸安次郎 (頑石点頭居士) 著(明治26年12月9日発行)

 

森田悟由禪師(大本山永平寺貫首)


混濁の世に處して毫も混濁の気に汚がされず物外に超然として高く地歩を占む我が大本山永平寺貫首森田悟由禪師の如きは實に當代の偉人と謂つべき也。
故勅賜弘済慈徳禪師(大本山總持寺前貫首旃崖奕堂大和尚)の門下多士斎々たり。
而して森田悟由禪師特り七本槍の随一を以て称せらる。
以て其の行解の尋常ならざりしを見るべし。
今や故禪師亡し、而して第二の故禪師として彷彿の間、故禪師の風采を窺ふに足るべきものは故禪師門下の竜象中特り森田悟由禪師あるのみ。
禪師安んぞ自重せざるべけんや。
明治二十五年三月十九日、能山分離の紛擾起るや、禪師は永平寺に貫首として實に其の難局に當れり、若し禪師をして尋常一様の凡僧たらしめんか靖難の画策に齷齪して維れ日も足らざるべし。
而かも事務取扱を兼ねて宗務に鞅掌し其の暇餘を以て碧巌録を南品の東海寺に提唱す。
胸中綽々の餘裕を存するにあらずんば安んぞ此の如きを得んや。
禪師戒行高潔、而して定力殊に高く兼ねて宗門の歴史に通暁す。
故を以て大本山總持寺僧堂に西堂として竜象淘治の任を全ふし、又曾て法式改正委員として法式改正の事業を助く。
今や大本山永平寺に貫首として尚紛擾の難局に當れりと雖も宗運を勃興せしむるの念未だ曾て一日も懐を去らず。
故に公務の暇餘、或いは門下の竜象を接得し、或いは地方に赴化す。
謂ふこと勿れ禪師に赫々の偉業あるを聞かずと。
僧家の事業豈に教学の振起に過ぐるものあらんや。
彼の功名の志勃如として自から抑ゆる能わず迸りて種々の俗事を為す。
一流の俗輩は之を激賞して希世の偉業と為すと雖も之を教学の振起に比す、固より日を同ふし論ずべきにあらず。
居士は於是乎益々禪師の禪師たる所以に敬服せずんばあらざるなり。
嗚呼禪師は實に當代の偉人なる哉。

 

明治27年(1894)8月1日 清国に宣戦布告(日清戦争)

 

明治27年(1894)10月4日 61歳 

軍人禪話」永平寺悟由禪師垂示 曹洞宗大本山永平寺出張所・発行

 

 「軍人禪話」 永平寺悟由禪師垂示(東川寺蔵)
 「軍人禪話」 永平寺悟由禪師垂示(東川寺蔵)

 

明治27年(1894)12月30日 61歳 内務大臣・井上馨、官邸において両本山和解を講じ、両本山分離問題を解決する。


明治27年(1894)12月31日 61歳 森田悟由永平寺貫首、曹洞宗管長に就任する。


明治28年(1895)1月 62歳 曹洞宗管長は両本山貫首隔年交番の制を定める。


明治28年(1895)5月27日 62歳 森田悟由永平貫首、性海慈船禅師」の勅号を賜う。


明治28年(1895)9月20日 永平寺東京出張所を東京芝公園内に移す。

 

明治28年(1895)10月29日

承陽大師 普勧坐禅儀獅乳」(勅賜性海慈船禅師 垂示)を永平寺出張所より発行する。 

承陽大師 普勧坐禅儀獅乳・(東川寺蔵)
承陽大師 普勧坐禅儀獅乳・(東川寺蔵)

 

明治29年(1898)5月12日 63歳

山田孝道著「坐禅用心記普勧坐禅儀・講義」を光融館が発行す、森田悟由禅師、その巻頭に題字を寄せる。

 森田悟由禅師題辞・坐禅用心記普勧坐禅儀講義・山田孝道著
 森田悟由禅師題辞・坐禅用心記普勧坐禅儀講義・山田孝道著

 

明治30年(1897)9月4日 64歳

冠導傍解「永平初祖學道用心集」を町元吞空が編輯し鴻盟社より発行する。

森田悟由禅師、その巻頭に題字を寄せる。 

  冠導傍解「永平初祖學道用心集」(東川寺蔵)
  冠導傍解「永平初祖學道用心集」(東川寺蔵)
  森田悟由禅師題字-冠導傍解「永平初祖學道用心集」
  森田悟由禅師題字-冠導傍解「永平初祖學道用心集」

 

明治30年(1897)9月26日 64歳 森田悟由禅師、乗炬師にて瀧谷琢宗禅師の本葬を執行。

 

明治31年(1898)

 4月13日 大本山総持寺(能登)七堂伽藍の大部分を焼失。

下の図面は焼失前の能州諸嶽山總持禪寺図です。

  能州諸嶽山總持禪寺図(東川寺蔵)
  能州諸嶽山總持禪寺図(東川寺蔵)

 

明治31年(1898)7月 65歳

大本山永平寺、「吉祥講規則」を定む。 

第一條 大本山永平寺の吉祥講は高祖承陽大師法流の有志僧衆と有志の檀信徒とを以て之を組織す

第二條、以下、第十七條

 明治三十一年七月

  越前國吉田郡志比村 大本山永平寺 監院

 

明治31年(1898)10月14日 65歳

戒法の手引」(故寂室堅光禪師示衆)を曹洞宗大本山永平寺出張所より発行する。

 

  「戒法の手引」(東川寺蔵)
  「戒法の手引」(東川寺蔵)

「戒法の手引」(故寂室堅光禪師示衆)
 跋
此書は永平寺貫首 勅賜性海慈船禅師落草の餘りに有縁の善男子善女人に施さばやとて、余に命じて出版せしめられしものなり。
原とは菩薩戒童蒙談抄と名けありし。
蓋し堅光禪師自遜の命題にして、固より童蒙を對機としたるにあらず。
又、施本の小冊子に命題の平易ならざるは之れを受けたる人の感触如何ありなむかと思い、強て改めて「戒法の手引」とは題せしなり。
且つ原書、迦葉をかせふ、阿難をあなん、菩提菩薩をぼたいぼさつ等と音読すべき文字を假名にて認めありしを、今は迦葉阿難菩提菩薩等と改めて傍訓を附しぬ。
其他は鳥焉魯魚の誤謬を校訂したるに過ぎざるなり。
而して此書は勉めて平易簡単を旨としたる垂示の如きも、其意義の甚深微妙なることは管見蠡測の能く及ぶ所にあらず。
読む人若し信受し奉行せば定慧之に依りて圓明し、三世諸佛の覺位に同入すること疑なからん。
  明治三十一年九月二十八日
    默地説三謹で識るす


 

明治31年(1898)12月25日 65歳
大休悟由禅師、項部(首の後の部分、うなじ)に對口創という悪性の腫れ物が出来、その手術の為に東京赤十字病院に入院する。術後良好にて翌明治32年2月3日退院する。

 

(余話3)

大手術(森田悟由禅師)

 

明治32年(1899)2月10日 66歳

曹洞宗大本山 永平寺縁起 附大遠忌準備の話」小冊子を今村金治郎編輯で鴻盟社より発行する。 

曹洞宗大本山永平寺縁起附大遠忌準備の話(東川寺蔵)
曹洞宗大本山永平寺縁起附大遠忌準備の話(東川寺蔵)

「永平寺改築の図」

黄色は今般改築の印。
佛殿、間口十間・奥行八間。
僧堂、間口十四間・奥行十間。
大庫裡、間口十七間・奥行十間。
不老閣、間口十間・奥行五間半。
諸回廊、二百三十間。
其他諸堂悉皆修繕。

  永平寺改築の図-「曹洞宗大本山 永平寺縁起 附大遠忌準備の話」(東川寺蔵)
  永平寺改築の図-「曹洞宗大本山 永平寺縁起 附大遠忌準備の話」(東川寺蔵)

 

明治32年(1899)5月10日 66歳

この歳、高祖大師降誕七百年に相当し、よって祖山にて初めて報恩授戒会を厳修する。

 

明治32年(1899)6月5日 66歳
「菩薩戒落草談」(編輯兼発行人・桐村覺豊、発行所・通俗佛教館)の巻頭に森田悟由禅師と總持寺畔上楳仙禅師、書を寄せる。
この「菩薩戒落草談」は寂室堅光講説の「菩薩戒童蒙談抄」を元に墻外道見(高田道見)が復演し、改題して発行したもの。 

 

  菩薩戒落草談(東川寺蔵)
  菩薩戒落草談(東川寺蔵)
  菩薩戒落草談・永平悟由巻頭書
  菩薩戒落草談・永平悟由巻頭書

 

明治32年(1899)7月12日 66歳 永平寺諸堂改築及び新築願いを福井県知事より許可される。


不老閣改築、庫院改築、諸回廊改築、佛殿新築、僧堂新築

 

永平寺・不老閣・絵葉書 (東川寺所蔵)
永平寺・不老閣・絵葉書 (東川寺所蔵)
  永平寺・庫院・絵葉書 (東川寺所蔵)
  永平寺・庫院・絵葉書 (東川寺所蔵)

 

明治32年(1899)10月24日 66歳

伊藤侯爵、渡邊子爵、金子、末松、等の諸氏を率いて上山し不老閣を訪う。
卑懐以伸謝。
「山中不慣接高賓。容恕萬般風俗淳。只有凡泉頑石富。常甘枯淡養禪人。」
伊藤侯爵等は此の日法堂に於ける祝聖法會に参拝して、三十余名の隨員と下山す。
謝偈。
「大家携手入雲扉。樹影溪聲忽發輝。頼代山僧無伎倆。門前石佛示禪機。」
同月二十七日 末松男爵随員十余名と共に再び上山す。

 

伊藤侯爵、渡邊子爵、金子氏等来山(東川寺所蔵)
伊藤侯爵、渡邊子爵、金子氏等来山(東川寺所蔵)

 

明治33年(1900)4月23日 67歳

今春から永平寺報恩授戒会を4月23日啓建と改めて年中行事と為し、爾来之を啓建の定日とした。

 

 明治33年6月20日改正・福井県地図(東川寺蔵)
 明治33年6月20日改正・福井県地図(東川寺蔵)

 

明治33年(1900)7月 67歳 北海道旭川、大休寺の開山となる。

 

  (旭川市)曹洞禪宗・大休寺・絵葉書(東川寺蔵)
  (旭川市)曹洞禪宗・大休寺・絵葉書(東川寺蔵)

別記 大休寺 (北海道・旭川市)参照

 

  永平寺・僧堂・絵葉書 (東川寺所蔵)
  永平寺・僧堂・絵葉書 (東川寺所蔵)

明治33年(1900)9月24日 67歳


祖山僧堂落成開單式法語

新告落成選佛場。銅頭鐵額互相望。
六和須具機先眼。莫讓中間妙吉祥。

 

 

明治33年9月

「恩海一滴」大内青巒著(明治34年10月25日・鴻盟社発行)に巻頭書を寄せる。

 

大内青巒著「恩海一滴」永平悟由・巻頭書(東川寺蔵書)
大内青巒著「恩海一滴」永平悟由・巻頭書(東川寺蔵書)

 

明治34年(1901)6月17日 68歳 

高祖道元禅師六百五十回大遠忌記念に弘津説三編輯「承陽大師御傳記(全)附天童如淨禪師行録」を鴻盟社、通俗佛教新聞社、森江佐七より各々発行する。

 

承陽大師御傳記 (全)・東川寺蔵
承陽大師御傳記 (全)・東川寺蔵

 

明治35年(1902)1月30日 69歳
「永平寺案内記」を高田道見が編纂し永平寺出張所より発行す。
その巻頭に書を寄せる。

 

 永平寺案内記・永平守塔悟由敬書・東川寺蔵
 永平寺案内記・永平守塔悟由敬書・東川寺蔵

明治35年(1902)4月17日 69歳


祖山佛殿落成入佛式供養香語
奉安法報應身三。福智荘厳作者諳。
不許丹霞輕觸手。徳山臨済合和南。

 

  永平寺・佛殿・絵葉書 (東川寺所蔵)
  永平寺・佛殿・絵葉書 (東川寺所蔵)

同日、豊川妙厳寺福山白麟師より永平寺に献納された大梵鐘撞初式を厳修。


梵鐘撞初式香語
聞聲悟道。見色明心。霊鑑不昧。超古超今。南無大悲観世音。

 

明治35年(1902)4月18日 69歳 

此の日より5月8日まで、高祖道元禅師六百五十回大遠忌を奉修する。

 

高祖六百五十回の忌辰に當り、頽廃せし佛殿、僧堂、瑞雲閣等を改築し、及び諸堂を営繕し、佛器、法器、什器等を新調し、寺観為に一新す。

尋て田園二十餘町歩、山林五十町歩を新添して香積の資料と為す。 

 

  吉祥山永平寺全圖・明治35年4月21日発行(東川寺所蔵)
  吉祥山永平寺全圖・明治35年4月21日発行(東川寺所蔵)

 

明治35年(1902)5月3日 明治天皇より「承陽」の勅額を下賜される。

 「承陽」 明治天皇恩賜承陽殿勅額  絵葉書(東川寺所蔵)
 「承陽」 明治天皇恩賜承陽殿勅額  絵葉書(東川寺所蔵)
 永平寺承陽殿内 (東川寺撮影)
 永平寺承陽殿内 (東川寺撮影)

 

明治35年(1902)5月8日

仁藤巨寬以下十二名の発願にて、森田悟由禪師、高祖真前に懺謝を行い、玄明上座の恩赦を蒙り、あわせて入祖堂せしむ。

 

明治36年(1903)70歳 古希、「禅戒法話」を著す。

禪戒法話」大休悟由禅師 垂誡 今村金次郞 編輯兼発行者 鴻盟社・発行 

 

禪戒法話-大休悟由禅師(東川寺蔵書)
禪戒法話-大休悟由禅師(東川寺蔵書)
 大休悟由禅師(「禅戒法話」より)
 大休悟由禅師(「禅戒法話」より)
  大休悟由禅師の短冊(東川寺蔵)
  大休悟由禅師の短冊(東川寺蔵)

大休悟由禅師の短冊


 明治癸卯(明治36年)6月下旬、芳野の花月樓に宿す。


世人、古へより櫻花を愛す。芳野に雲を踏み宿霞に酔う。
山衲、山を好むは他と異なる。凉を賞し、養林の家を相訪す。
 古希(70歳)翁、吉祥山主 草す。  ㊞大休悟由

 

「永平重興大休悟由禅師廣録 第三巻 五十八頁」には、「六月二十七日宿吉野山花月樓 有雲游霞宿額故及句」として上記の句が掲載されています。

 

明治36年11月
永興経豪著「正法眼蔵抄」(鴻盟社発行)に巻頭書「佛祖活骨髓 明治癸卯十月 永平悟由叟」を寄せる。


明治37年(1904)2月10日 ロシアに宣戦布告(日露戦争)

 

明治37年(1904)2月28日 71歳 「報国禪話」を発行す。

報国禪話」永平寺悟由禅師 垂示 弘津説三 著作者兼発行者 曹洞宗大本山永平寺出張所・発行

「報国禪話」永平寺悟由禅師 垂示(東川寺蔵)
「報国禪話」永平寺悟由禅師 垂示(東川寺蔵)

 

明治38年(1905) 5月1日 72歳 

この日より7月10日まで第一回眼藏会を開催する。初代講師は丘宗潭、修禅寺住職。

以後永平寺の年間行事として眼藏会を開催することになる。

 

明治39年(1906)1月

杉浦鏡華居士、「献香餘吟」を発行する。 

 

明治39年(1906)2月28日

「曹洞宗・宗憲發布告論」

衲等謹て茲に

高祖佛性傳東國師承陽大師

太祖弘徳圓明國師の照鑑を仰き闔宗の僧侶に告く

今や宗門經論の典型たる宗憲及其の他の重要法規を制定せしめ國法に準據して宗制と為し之を發布せしむ

宗憲は宗門の憲法にして之に依りて本末上下の性格及権義を明定し衲等は之を後代に貽し世々遵據せんことを誓ふ闔宗の僧侶亦其の後昆と之を恪守して上下其の心を一にし宗門紹隆の要道を全ふせんことを望む

其の他の宗法宗規は或は國法の命する所に依り若くは末派寺院及僧侶の安寧幸福を増進し又は宗憲の運用に關して制定せしめたるものにして将來各々之に遵由し其の慶に頼らむことを冀圖す闔宗の僧侶宜く此の旨を體悉すへし

 明治三十九年二月二十八日

      大本山永平寺貫首 森田悟由

      大本山總持寺貫首 石川素堂

 

明治39年(1906)4月5日 73歳

 

  聖上・皇后両陛下・皇太子同妃殿下-献納書(東川寺蔵)
  聖上・皇后両陛下・皇太子同妃殿下-献納書(東川寺蔵)

 

一 聖徳太子御製維摩経義疏 四部
一 承陽大師普勧坐禅儀獅乳 四部
一 弘徳圓明国師十種疑問落草談 四部

聖上・皇后 両陛下
皇太子同妃両殿下へ
獻納被致候ニ付
御前へ差上候此段申入候也
 明治三十九年四月五日
   宮内大臣子爵 田中光顕

永平寺住職
  森田悟由殿
總持寺住職
  石川素童殿

 


(参考)

後醍醐天皇勅問

 弘徳圓明国師奏對

「十種疑問落草談」

  「十種疑問落草談」(東川寺蔵)
  「十種疑問落草談」(東川寺蔵)

 

明治39年(1906)9月5日 73歳

此の日より同年11月23日までの「越本山貫首猊下慰問追吊御親化日誌」隨行員鈴木天山録が「永平重興大休悟由禅師広録・別冊解題」に掲載されている。

 

明治40年(1907)4月2日 74歳
永平寺出張所発行の大内青巒著「洞上諸祖王臣歸崇傳」に巻頭書を載せる。

 

永平悟由禅師・大内青巒著「洞上諸祖王臣歸崇傳」・巻頭書 東川寺所蔵
永平悟由禅師・大内青巒著「洞上諸祖王臣歸崇傳」・巻頭書 東川寺所蔵

 

明治40年(1907)9月21日 74歳 

承陽大師御垂訓「正法眼藏随聞記(全)」(永平寺蔵版)を永平寺出張所より発行する。 

 

 正法眼藏随聞記(全)(永平寺蔵版)(東川寺蔵)
正法眼藏随聞記(全)(永平寺蔵版)(東川寺蔵)

 

明治41年(1908)3月1日 75歳 

性海慈船禪師御垂示「佛戒略義」を永平寺出張所より発行する。

 性海慈船禪師御垂示「佛戒略義」(東川寺蔵)
 性海慈船禪師御垂示「佛戒略義」(東川寺蔵)

 

明治42年(1909)2月 76歳
 明治己酉二月
西來祖道我東傳 釣月耕雲慕古風
世俗紅塵飛不到 深山雪夜草庵中
 永平七十六翁悟由

 

 西来祖道・・・永平七十六翁悟由(玉運寺所蔵)
 西来祖道・・・永平七十六翁悟由(玉運寺所蔵)

 

明治42年(1909)3月3日 76歳

此の日より同年6月4日までの「明治四十二年春期御親化日誌」隨行員鈴木天山録が「永平重興大休悟由禅師広録・別冊解題」に掲載されている。

 

明治42年(1909)4月25日 76歳

承陽大師聖教全集」三巻、編輯兼発行者永平寺(弘津説三編輯)を永平寺出張所より発行する。

 

  「承陽大師聖教全集」三巻(東川寺蔵)
  「承陽大師聖教全集」三巻(東川寺蔵)

 

明治42年(1909)5月15日 76歳
「爲霖老人語録」諏訪鉤玄(発行兼編輯者)が龍臺院より発行され、その巻頭に書を寄せる。

 

 爲霖老人語録 諏訪鉤玄 龍臺院・発行  (東川寺蔵)
 爲霖老人語録 諏訪鉤玄 龍臺院・発行  (東川寺蔵)
 「爲霖老人語録」・永平悟由巻頭題
 「爲霖老人語録」・永平悟由巻頭題

 

明治42年(1909)9月3日 76歳

編輯兼発行者永平寺「永平寺概要」を永平寺出張所より発行する。

 

  「永平寺概要」(東川寺蔵)
  「永平寺概要」(東川寺蔵)

 

下の「永平境内建物平面図」は「永平寺概要」に添付されているものです。

 

  永平寺境内建物平面図-明治42年
  永平寺境内建物平面図-明治42年

 

明治42年(1909)9月8日 大本山總持寺開山、太祖、常済大師の諡號を賜う。

 

同年、9月20日 皇太子殿下、永平寺に御臨啓される。

 

東宮殿下御入山歓喜之餘述懐(森田悟由禪師)
「明治太子徳輝揚。忽照深山幽谷昌。高祖道光叵遮掩。聖朝曾諡仰承陽。」 

 

明治42年(1909)9月
比叡山横川に高祖大師得度の霊蹟碑を建立。
 「承陽大師得度霊碑
   勅賜性海慈船禅師永平六十四世悟由
  明治四十二年九月建立
   発願人 越前国霊山院 三玄見竜(後の小川得水)
        同国横枕村 野尻源左衛門(源右衛門)
         主 事  佐藤達乗

 

明治42年(1909)10月25日 76歳 

坦山和尚全集」(原坦山)が光融館より発行され、森田悟由禅師、巻頭書を寄せる。

 

  坦山和尚全集-巻頭書 「皮肉骨髓」永平悟由(東川寺蔵)
  坦山和尚全集-巻頭書 「皮肉骨髓」永平悟由(東川寺蔵)

 

明治42年(1909)10月26日 76歳

伊藤博文、ハルピン訪問の爲、満鉄列車から下車、ロシア蔵相の出迎えを受け、整列の兵に閲兵せんと威儀を正した瞬間、凶弾に倒れる。享年69歳。

 

明治43年(1910)2月20日 77歳

此の日より同年6月8日までの「不老閣猊下九州地方御親化日誌」隨行員鈴木天山録が「永平重興大休悟由禅師広録・別冊解題」に掲載されている。

 

明治43年(1910)6月25日 77歳

永平悟由禪師法話集」 編輯代表者・峰玄光 鴻盟社・発行

 

 「永平悟由禪師法話集」(東川寺蔵)
 「永平悟由禪師法話集」(東川寺蔵)
大本山永平寺貫首性海慈船禪師(「永平悟由禅師法話集」より)
大本山永平寺貫首性海慈船禪師(「永平悟由禅師法話集」より)
  永平七十七翁悟由(法話集より)
  永平七十七翁悟由(法話集より)

 

「永平悟由禪師法話集」

 

凡例

 

一、永平悟由禪師は學識圓明、操持堅實、能く事理に通達し、凡を超え俗を脱して毫も罣礙する所無く、錫を東西に飛ばし、化を南北に布き、法輪の轉ずる處、遠近翕然として帰崇膽仰し、真に明治佛教界の泰斗北斗たり。
而して垂示教誨せらるゝ所のもの、片言隻語、飜邪帰正の針砭、轉凡入聖の活路にあらざる無きも、ただ宿業未だ熟せず。
親しく謦咳に接し法雨に浴するの機を得ざるを憾みとするもの尠からず。
仍て本書を編して此等の諸士に頒ち、法味に飽満せしむると共に、猊下が喜壽の高齢を迎えさせられたるの紀念とし、法壽の無彊を祈る。
編纂の微志茲に在り。

 

一、本書蒐録する所のもの、口語體あり、或は文語體あり、文體一ならざるも是れ時により、處に随い、筆録者によりて異なるものなれば故らに改更せず。
また編者筆硯多忙校正の厳密を缼き魯魚の誤り無きを保せざるも、後日重版の機を得て訂正すべし。

 

一、大本山永平寺東京出張所監院弘津説三老師、曹洞宗大學教頭山田孝道師、畏友樺太仙君、孤峯鳥石君は本書の編纂に満腔の賛同を表し、深厚なる指導と貴重なる材料とを提供せられたり。
茲に記して諸師の高意を感謝す。

 

明治庚戌梅雨初一日   編者識

 


 

「永平悟由禪師法話集」は明治43年(1910)6月25日に喜寿記念として鴻盟社より発行され、「本年七十七歳法身剛健接化倦むこと無し、・・・・」とあり、その後、何度か同様のものが再版されています。

しかし、大正4年、悟由禅師遷化後に訂正版が発行され、それには「本年八十二歳、二月九日化を他界に遷さる、・・・・」と訂正されています。

 


  〇 十方智者皆入此宗 永平七十七翁悟由 (大休悟由禅師)(東川寺蔵)
  〇 十方智者皆入此宗 永平七十七翁悟由 (大休悟由禅師)(東川寺蔵)

 

明治44年(1911)3月3日 78歳

此の日より同年6月4日までの「御親化日誌」、同年6月16日より11月26日まで「北海道及び樺太御巡錫日誌」隨行員鈴木天山録が「永平重興大休悟由禅師広録・別冊解題」に掲載されている。

 

 

明治44年(1911)6月28日 78歳

永平寺真景」 編輯兼発行者・永平寺、代表者・高井宏道、永平寺・発行

 

  「永平寺真景」 明治44年発行(東川寺蔵)
  「永平寺真景」 明治44年発行(東川寺蔵)

 

明治45年(1912)3月10日 79歳

此の日より同年6月16日までの「春期御親化日誌」隨行員鈴木天山録が「永平重興大休悟由禅師広録・別冊解題」に掲載されている。 

 

明治45年(1912)3月20日 79歳

承陽大師和讚・傘松峰道詠集」(編輯発行兼印刷者・乗松辰四郎)に序を寄せる。

 

「雪裏梅花唯一枝 明治四十五年春 永平悟由」

 

 「承陽大師和讚・傘松峰道詠集」(東川寺蔵)
 「承陽大師和讚・傘松峰道詠集」(東川寺蔵)
  雪裏梅花唯一枝・明治四十五年春・永平悟由
  雪裏梅花唯一枝・明治四十五年春・永平悟由

 

 明治45年(1912)(1月1日-7月30日)
 大正元年(1912)(7月30日-12月31日)

 

大正元年(1912)9月17日 79歳

此の日より同年12月7日までの「御親化日誌」隨行員鈴木天山録が「永平重興大休悟由禅師広録・別冊解題」に掲載されている。

 

大正2年(1913)3月1日 80歳

此の日より同年5月18日までの「御親化日誌」隨行員鈴木天山録が「永平重興大休悟由禅師広録・別冊解題」に掲載されている。 

 

大正2年(1913) 80歳

大休悟由禅師、傘寿記念品「大正二年春 寿 永平八十翁 悟由」

 

 大休悟由禅師の傘寿記念品(東川寺所蔵)
 大休悟由禅師の傘寿記念品(東川寺所蔵)

 

「大正二年冬 福聚海無量 永平八十翁悟由」

 

福聚海無量 大正二年冬 永平八十翁悟由 (東川寺蔵)
福聚海無量 大正二年冬 永平八十翁悟由 (東川寺蔵)

 

大正3年(1914)81歳

 

大正3年(1914)2月11日 

福井-大野間の電車開通し営行を開始する。新福井より永平寺停留所まで三里にして、一回十九銭なり。三十名以上の場合は割引をなす。

 

大正3年12月14日

杉浦鏡華居士来訪。(令弟守氏同伴)熱海客舎にて。
「提携遠来客。多謝慇懃情。燈下暫時話。分明了一生」

この時、森田悟由禅師は「分明す一生の了るを」と死期が近いのを自覚されていたと思われます。

鏡華居士の和韻。
「忘却来時路。松濤鎖世情。半宵燈下夢。形影伴三生。」

これに杉浦鏡華居士は「影、形に添うが如く、三生までも伴いたい」と答えています。

 

 大正三年冬「福寿」永平八十一翁悟由(東川寺蔵)
 大正三年冬「福寿」永平八十一翁悟由(東川寺蔵)

 

大正4年(1915)1月17日 82歳

 

早春偶成

人生八十二年春。養得方袍圓頂身。世上風波如夢幻。空華萬點變遷新。 

 

東京赤坂の陽泉院観音堂入仏式に応請された。

これを最後として、微恙(びようー気分がすぐれない、軽い病気)を示され、二月四日より重患となられ、五日より西堂監院法嗣等、病床に在り、七日「ご気分いかかがですか」という問いに対し、「良くも無し、悪くも無い」と答えられ、九日遂に遷化されたのであるが、遷化に先立って、禅師は遺偈を漏らされたので、弘津説三老師がそれを紙に書き取り、大きな声で禅師に読んで差し上げられた。
そして「これでよろしいか」と問うと、「それでよい」と大きく首肯され、間もなく遷化されたのである。 ~「雪庵廣録」第三、三三九頁~

 

当初、東京芝二本榎円福寺内の空華室(杉浦鏡華居士、建設寄進)で静養されていたが、重体になるに及び、永平寺東京別院に移り遷化された。

 

大正4年(1915)2月9日 森田悟由禅師、永平寺東京別院にて遷化する。世壽82歳。

 

同年2月13日、芝青松寺にて密葬。

 

遺偈 「耕雲種月 八十二年 脱落脱落 一箭離弦」

 

特に大休悟由禅師に曹洞宗の分裂を救った功労により「永平寺重興」の免牘を諡る。

 

大正5年(1916)11月1日

本葬儀(荼毘式) 

 秉炬師 大本山総持寺貫首 石川素童禅師

 奠湯師 大乗寺 堀 麟童
 奠茶師 定光寺 福永毫千
 起龕師 皓臺寺 霖 玉仙
 掛真師 青松寺 佐藤鐵額
 鎖龕師 集福寺 鈴木無三
 入龕師 大廣寺 石月無外 

 



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 その他・森田悟由禅師関係