永平寺六十六世 日置黙仙禅師

 

永平寺六十六世 日置黙仙禅師

 

(世称)
  日置黙仙(ひおき もくせん)


(道号・法諱)
  維室黙仙(いしつ もくせん)


(禅師号)
  明鑑道機禅師
  (みょうかんどうきぜんじ)


(生誕)
  弘化4年(1847) 1月23日


(示寂)
  大正9年(1920)9月2日


(世壽)
  74歳

 

(別号)

  傘松翁

 信為萬事本(東川寺所蔵)
 信為萬事本(東川寺所蔵)

日置黙仙禅師の書
「信為万事本」
「新唐書 巻一百五 列伝第三十」の「信為万事本 百姓所帰 故文王許枯骨而不違 仲尼去食存信 貴之也」より。

 

因みに、この書には覚王山主と署名されている。
覚王山とはタイ王国から寄贈された仏舎利を安置するために建立された「覚王山日泰寺」のことです。(当時は日暹寺と称した。)

又、雅号印は「入竺沙門」とあり、天竺(インド)に行かれたことがある事が分かります。 

日置黙仙禅師の略歴

弘化四年(1847) 1月23日
伯耆国東伯郡下北条村大字島、日置治吉の次男として生まれる。幼名は「源之助」。

 ( 注意 )

「永平寺史」下巻(1412頁)に「66世日置黙仙禅師略伝」が記載されているが、この中で(1837~1920)と世壽八四歳は明らかな間違い。隣りに遺偈が記載されて、「展開隻手七十四年 ・・・・」とあるにも関わらず、世壽八十四歳としたのは生年を1837とした所からの間違い。本来は弘化4年 (1847) が正しい。従って世壽も七十四歳である。

さらに、「禅学大辞典」「新版禅学大辞典」も同じ間違いをしている。 

嘉永3年(1851)4月3日 4歳 
母「むね」と死別する。その後、継母に育てられる。


安政3年(1856)8月1日 10歳
とても可愛がっていた弟「米蔵」二歳で死亡する。世の無常を強く感じ、この事が出家の動機となる。


安政4年(1857)冬 11歳
戒師、景福寺の無学和尚の授戒会に父と共に参詣し、「観音経」の遶行に感動し、出家を志す。


安政5年(1858)3月5日 12歳
因幡国気高郡北河原村、中興寺笑巌黙中和尚の元へ弟子入りする。

 

安政6年(1859)13歳 故里に帰省する。(注1)


文久元年(1861)4月8日 15歳
中興寺笑巌黙中和尚に就いて、兄弟子「黙霆」と共に得度し、名を「黙仙」と改める。
此の時の和尚の訓戒「一心を以て貫く」を座右の銘とされる。


元治1年(1864)2月中旬 18歳
加賀国天徳院諸嶽奕堂に参ず。同参に森田悟由福山黙童あり。


慶応3年(1867)9月11日 21歳
廓然として大悟し、奕堂の印可を受ける。

 

慶応4年(1868)旧9月8日 1月1日に遡って明治元年(1868)とする改元の詔書が出される。 


明治1年(1868)2月23日 22歳
笑巌黙中和尚の室に入り、嗣法する。


明治2年(1869)2月中旬 23歳
天徳院を送行し、奕堂の紹介を得て、摂津国永興庵の独遊橘仙に参ず。


明治3年(1870)9月23日 24歳
能登総持寺にて転衣瑞世し、25日、京都に参内する。
同年11月、笑巌黙中の後を受け、中興寺に首先住職する。


明治5年(1872)4月2日 26歳
中興寺に於いて、三十七名の僧と共に初会結制を修行する。

明治7年(1874)11月15日 28歳
丹波国氷上郡幸世村御油の円通寺に転住する。
その後、円通寺の荒廃を復旧する為、東奔西走する。


明治19年(1886) 40歳
この年、神戸福昌寺内に聯芳学林を創立し、林長に就任する。


明治22年(1889)6月1日 43歳
不二門眉柏等七十余名と共に大阪禅林寺に於いて、有志懇親会を開催し「十五箇条の議案」を決し、「末派総代議員選出細則」の改正を当局に迫る。

 

明治25年(1892)11月15日 46歳
可睡斎に転住し、入山式を挙げる。

 

可睡斎黙仙・大治精金無変色(東川寺所蔵)
可睡斎黙仙・大治精金無変色(東川寺所蔵)

日置黙仙師(遠江國周智郡久努西村可睡斎住職)

 

戒行高潔、定力牢固、慧眼明朗にして而して徳風一世に高き者宗門果して幾人ある乎。
我が可睡現董日置黙仙師の如きは實に宗門有数の高僧なるのみならず亦實に日本佛教徒の粋なるものなり。
師が畢生の大目的は禪定を勃興し宗風を挙揚するに在り、故に二十七歳の若齢を以て始めて圓通寺の巨刹に視篆するや首として轤鞴を開き大に四来の竜象を陶冶し以て今日に至るも休廃せず其の二十年一日の如く満腔の熱血を禪定の勃興に傾注し狂瀾を既倒に挽回するに至っては誰か師の古道に篤きを感ぜざらんや。
抑も宗門現今の弊は禪を去って學に趨り行を舎てて解に就くに在り、是を以て古道影を歛め宗風迹を拂う。
而して宗門精神の衰弱復醫すべからざるに至る、幸いに師の古道に篤く佛祖に忠なるあり深く宗門精神の醫治は禪定を勃興するに在ることを信じ二十年一日の如く門下の竜象を堤撕して只管打坐の王三昧に住せしむ彼の嘗て鼎立学林を永澤寺の山内に設け又は聨芳学林を神戸に開き文字を以て青年子弟を教育したるが如きは敢て青年子弟をして舌頭佛法を簸弄せしむるが為めにあらず。
其の志禪に入るものをして先ず普通の学術を修めしむるに在りき。
故に同林を出づるもの皆師の輪下に来りて入室參禪せり。
法幢可睡に移るに及び門下の尤物上田祥山師を挙げて後堂に住し一意接衆の事に當らしめ、明年を期して将さに僧堂を山内に設けんとす。
為宗為法の衷情熱して火の如きものあるにあらずんば何を以てか此の如きを得んや。
師今や宗門の大事に関して東奔西走維れ日も足らず而かも人に逢えば必ず道を論じ古人淆訛の因縁を説く。
故に人皆赤心を擁して師に帰依せざるはなし。
徳風の一世に高き固より偶然にあらざるなり。
足立善明師嘗て師の法幢を萬松山可睡斎に移さるるを賀するの伽陀あり無慮五百六十言曲さに師の平生を盡して餘す所なし、乃ち左に録して居士が禿筆の及ばざる所を補う。
(賀偈・省略)

洞上高僧月旦-山岸安次郎 (頑石点頭居士) 著(明治26年12月9日発行)より

 

  可睡斎御真殿・絵葉書 (東川寺所蔵)
  可睡斎御真殿・絵葉書 (東川寺所蔵)

(紹介)

秋葉山総本殿・可睡斎ホームページ

 

明治28年(1895)2月1日 49歳
総持寺東京出張所執事に任ぜられる


同年4月10日
永平寺東京出張所執事福山黙童と共に護法会臨時総轄に任ぜられる。


同年11月20日
総持寺東京出張所執事を辞す。


明治29年(1896)2月5日 50歳
可睡斎、認可僧堂開設の認可を受ける。


同年2月5日、護法会臨時総轄を辞す。

 

明治33年(1900)5月23日 54歳
暹羅国皇室より日本へ「仏舎利」が贈られることなり、真宗大谷光演法主と共に日置黙仙可睡斎住職は日本仏教界を代表して、暹羅国(シャム・タイ王国)へ渡航。


同年6月14日 暹羅国王に謁見し、翌日、釈迦の「仏舎利」を受授する。  

 

【日露戦争勃発】1904年(明治37)2月から翌年にかけて,満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。

 

明治40年(1907)1月8日 61歳
満韓(満州・韓国)巡錫の途につく。旅順、奉天、韓国等を回り英霊を供養する。

 

可睡黙仙 満韓戦跡巡弔発錫・東川寺蔵
可睡黙仙 満韓戦跡巡弔発錫・東川寺蔵

満韓戦跡巡弔発錫

新年六一歴初回。着力春風花未開。殊有一番寒徹骨。杖頭先試満洲梅。
此行不敢逐風塵。偶(適)向厳寒忘老身。埋骨異郷忠勇士。迎成護国塔中神。
(明治四十年一月)

 

(溝口柳子襯衣を餞しけるに)

「六十一のよわい嬉しき今朝の旅 あかきこヽろを襯衣(したかさね)して」

(「日置黙仙老師満韓巡錫録」7頁より)

 

「誠忠を萬代に表彰せる護國塔」

衲(わし)は日露戦争の真最中、忠勇なる我が出征軍隊を親しく歴訪して宗教上の慰安を與へたいと思ひ、此の旨を三浦子爵に話した所、子爵も至極賛成で、時の寺内陸軍大臣に交渉してくれた。然し大臣の云はるるには、其の御芳志は有難いが、今老師に戦地へ渡られては、當方より従卒も附けねばならぬし、亦た相当の待遇もせねばならぬから先ず延期して呉れるやうにとの事で、遺憾乍ら衲は其の節の満洲行きを中止したことであった。併し我が忠勇無比の軍人が帝國の為一身を犧牲に供してゐる崇高なる精神に感激し、其の惨憺壮烈の事蹟を憶ひ、之を悼むの情、禁ぜんとして能はず。此等忠魂を慰むると共に、其の遺族の切なる心中をも慰めねば相済まぬ気がしてならないから、久我侯爵其の他の諸名士の賛助を得て、護國塔建設のことを内務省へ出願した所、直ちに許可せられて拾萬圓の予算を以て、遠州可睡斎の境内に一大護國塔を建設する事となった。されば此の護國塔は同胞の誠忠を萬代に表彰すると共に、兼ねては忠義を奨励し、人心を策進せしむる目的で建設したもので、忠死者の法諡を全国より集め、護國塔中蓮華峰頂に祀り込み、朝夕禮拝供養することである。併し此れだけだは未だ物足らない心地がしたので、衲が自ら満韓の新戦場を巡錫して、旅順の水底に没し、或いは骨を満洲の荒野に曝せる勇士の墳墓に回向し、其の地の土砂を持ち帰り、之を護國塔下に埋めたいと思ひ、明治四十年一月、寒さを犯して彼の地へ渡りて其の志を遂げ、護國塔も有志の熱烈なる応援を得て、今日見るやうな完成を得たのぢゃ。(日置黙仙著「無一物處」285~287頁より)


同年3月27日、東京浅草本然寺にて、日置黙仙満韓巡錫帰朝歓迎会を開く。


同年7月20日、「日置黙仙老師満韓巡錫録」 田中霊鑑、奥村洞麟 合著を香野蔵治より発行する。

 

日置黙仙老師満韓巡錫録(東川寺蔵書)
日置黙仙老師満韓巡錫録(東川寺蔵書)
日置黙仙老師満韓巡錫録より・清國奉天忠魂碑前讀經中撮影(東川寺蔵書)
日置黙仙老師満韓巡錫録より・清國奉天忠魂碑前讀經中撮影(東川寺蔵書)

 

「日置黙仙老師満韓巡錫録」(城南山の弔祭)より

 

老師の落馬

 (明治40年2月)

二十三日(午)前十時、老師は守備隊の為に振武舘に於いて法話せらる。
安東縣道臺顧問森井國雄、今川周吉の両氏ば出迎えの為め来訪、森井氏は素と老師の門下生、在清十餘年、清国の事に精通せり。
一行は馬に跨がり竹内通訳官及び聯隊旗手の案内にて回々教の寺院を参観す。
這は日清の役平壌にて戦死せる清将左寶貴の冥福を祀る為めに建立せしもの、清真寺と云う。
寺僧は居常教徒に回教文字を教ゆ、信者少なからずと、本尊は回教文字の額面のみ、一佛像の安置あるなし。
更に孔子廟に詣づ、廟の一部は赤十字仮病院に使用せらる。
一行は門前にて下馬せんとするの一刹那、馬は何者にか驚きけん、忽然躍り出し、鞍上の老師は忽ち墜落せらる。
馬は益々驚き、鉄蹄砂を蹴りて突進せんとするや、竹内通訳官は之を遮り止む。
予等大いに驚きて老師を顧みれば、老師悠然地上に起ち、莞爾として曰く
「ひょっとした はづみに落ちて 頭打つ
  坊主ならこそ 傷(毛)がなかりけり」
予等は胸躍れるに、幸いに事なく却って此の狂歌を聴き、呵々大笑するを禁ぜざりき。
 (口絵参照)下掲載

 

  口絵・日置黙仙老師の落馬「日置黙仙老師満韓巡錫録」より
  口絵・日置黙仙老師の落馬「日置黙仙老師満韓巡錫録」より

 

明治40年(1907)10月30日 61歳 覚王山日暹寺の住職に就任する。

 

  覚王山日暹寺 本堂・絵葉書 (東川寺所蔵)
  覚王山日暹寺 本堂・絵葉書 (東川寺所蔵)

 

明治44年(1911)4月1日 65歳

可睡齋に護國塔を建立し、その除幕開塔式を挙げる。

 

明治44年(1911)12月5日 65歳
日置黙仙、日本仏教各宗派管長を代表して、シャム国皇帝戴冠式に出席する。

 

明治44年の大晦日を英国汽船トリラ号の船中に送り、明治45年1月4日、ビルマ国に到着する。ビルマの仏塔を拝し、1月8日、カルカッタ行汽船アンゴラ号に乗り仏跡参拝の為、インドに向かう。

 

明治45年(1912)1月11日 66歳

印度・ガンジス河に至る。

 

1月11日船入恒河(ガンジス河)甲板上不堪歓喜賦所感

(従海口至甲谷他云八十哩)

霊雲晴処入西方。 船遡恒河流又長。八十哩程山未見。舷頭屈指伽耶場。

(「日置黙仙禅師傳全」218頁、632頁より)

 

 入竺沙門黙仙六十六翁 (東川寺所蔵)
 入竺沙門黙仙六十六翁 (東川寺所蔵)

(上の書に書かかれているのは下記の言句)

「宿雲晴處入西方。 船遡恒河水又長。八十哩程通甲谷。舷頭屈指伽耶場。

      入竺沙門黙仙六十六翁

   壬子一月詣印度佛陀伽耶恒河舟中」

 

1月18日、ダーヂリンの町よりタイガーヒルに登り、ヒマラヤ山脈、エベレストを展望する。

1月19日、ダーヂリンに滞在中のダライラマと会見する。

1月25日、ブッダガヤの大塔に参拝する。27日、ベナレス、鹿野苑。30日、霊鷲山に拝登。2月4日、カシャの大涅槃堂。8日、ネパール国ルンビーニ園。9日、舎衛城趾、祇園精舎趾。

2月13日、ガンダーラのペシャワル博物館。26日、アジャンター岩窟殿堂。

3月9日、セイロン、仏歯寺参拝。

 

入竺沙門黙仙道人(東川寺蔵)
入竺沙門黙仙道人(東川寺蔵)

五天竺土佛陀蹤。山脈貫通神気鐘。白雲堆存童子昔。紅霞重顕荘厳容。

日昇染出黄金色。雲迸描來水墨龍。瞻此仰之人識否。長鎮世界最高峰。

(尚、この詩偈は以後、推敲されたものか微妙に字句が異なる詩偈もある。) 

 

明治45年(1912)4月3日
シャム、ビルマ、インド地方の巡錫より帰朝する。

 

 明治45年(1912)(1月1日-7月30日)
 大正元年(1912)(7月30日-12月31日)


大正2年(1913)6月15日 67歳
総持寺の西堂に任ぜらる。
同年12月28日、総持寺再建部総裁に任ぜらる。


大正3年(1914)11月30日 68歳
青島(チンタオ)戦跡巡錫と台湾巡錫の為、宇品港を出航する。翌年1月13日、無事帰国する。

尚、この年、ダライラマ寄贈の西蔵大蔵経を総持寺に納める。

 

大正4年(1915)4月16日 69歳

寺崎広業画の自画像に自題を書す。

「夙凭乕嶽入圓通。原昨夢來可睡中。六十九年無所住。覺王山畔打狂風。咦

 尋常一様窓前月。纔有梅花妍不同。大正四年四月十六日 入竺沙門黙仙自題」

 

(下の複製掛軸は元高階瓏仙禅師が所蔵していたもの。現在は大雄寺所蔵。) 

 

日置黙仙像・寺崎広業画(大雄寺所蔵)
日置黙仙像・寺崎広業画(大雄寺所蔵)

 

大正4年(1915)7月8日

可睡齋主・日置默仙「錬膽述」(編者・井上泰嶽)を実業之日本社より出版する。

 

「鍛錬術」-日置默仙(東川寺蔵書)
「鍛錬術」-日置默仙(東川寺蔵書)

馬鈴薯(じゃがいも)坊主

『衲(わし)が先年満洲を巡錫した時に、奉天で領事から饗応を受けた。衲は元来精進ものしか食わぬことを知つてか知らずにか、西洋料理を馳走した。衲は西洋料理といふものは今まで知らぬ。油揚げを出された。中身は豚か牛かといふことぢやが、それを知らずに食うた。其の晩、腹が痛んで大きに苦しんだ。

それからといふものは侍僧も注意して、西洋料理は食はさぬ。暹羅、印度を廻つた時は、外に食うものがないから、とうとう馬鈴薯(じゃがいも)ばかりで通して、船中などでは馬鈴薯(じゃがいも)坊主といはれて通つた。生れてから肉類といふものが腹の中に入つたことがないから、身體の質が肉食する人とは幾らか違つて居るのぢやらう。』(可睡齋主・日置默仙「鍛錬術」132~133頁より)

 

大正4年(1915)8月1日 69歳
サンフランシスコにての万国仏教徒大会に出席し、ウイルソン大統領と会見し、ハワイを巡錫して帰国する。

 

大正四年「時事写真」

「我佛教各宗派を代表して米國に向ふ日置黙仙老師」
我が佛教會の耆宿たる日置黙仙老師は来る大正四年八月一日より米国桑港(サンフランシスコ)に開かるヽ萬國佛教徒大會に日本佛教各宗派を代表し臨場すべく七十餘歳の老躯を挺して、同年七月十日午前十時三十五分東京驛出發、同三時橫濱出帆の天洋丸で渡米の途に就いた。
東京驛出發前、其行を盛んにする爲、同驛構内精養軒大廣間を會場とし久我侯、大谷伯、八代海相外朝野の顯官續々繰込み、秋野孝道師發企人を代表して送別の辭を述べ、大谷伯は一首の歌を詠じて別辭とした。
これに對し日置師は謝辭を述べ河瀬氏の發聲で萬歳を三唱し、定刻盛んなる見送人の歓呼に送られて橫濱に向つたのである。 

 我佛教各宗派を代表して米國に向ふ日置黙仙老師(東川寺所蔵)
 我佛教各宗派を代表して米國に向ふ日置黙仙老師(東川寺所蔵)
覚王山主黙仙・大正乙卯(東川寺蔵)
覚王山主黙仙・大正乙卯(東川寺蔵)

一轉夜来風雨荒  夜来(やらい)の風雨荒きを一轉(いってん)し
鵬程萬里夢魂醒  鵬程(ほうてい)萬里、夢魂(むこん)醒(さ)む
洗眸不二山頭雪  眸(ひとみ)を洗う不二(ふじ)山頭(さんとう)の雪
雲拭青空宇宙清  雲、青空(せいくう)を拭って宇宙(うちゅう)清し

 大正乙卯(きのとう・大正四年)十月十九日 橫濱港上
  地洋丸舷頭述懐
   覺王山主 黙仙

 

大正5年(1916)3月25日

日置黙仙 破草鞋」 山上天川記 山上曹源編 光融館より発行する。

 

「序」

諺に曰ふ「可愛い兒には旅行(タビ)させよ」と。可睡第四十八世の老漢黙仙日置禪師は、お釋迦様の可愛い兒である。看よ!お釋迦様は常に庇護して西へ東へ南へ北へ旅行させ給ふではないか?これ老僧を知るものヽ他(ヒト)から「老師は近頃何處(ドコ)に居らつしやるでせう?」と問はるヽ毎に「老僧は多分汽車の中でせう?」と答ふる所以である。

師や此の十有六年來、日東國裡の狭きを感じてか、二たひ暹羅に遊び、一たび印度大陸の佛蹟を巡禮し、今また錫を亜米利加大陸に飛ばして、世尊法乳の慈恩に酬いんと擬せらる。此の篇は則ち師が北米巡錫の記録として世に公にするものである。

人若し太平洋上に浮べる老師の面目を窺はんとならば「随波逐浪」の篇を讀まるべく、又若し世界佛教徒大會に於ける老師の大師子吼を聴かんとならば、耳を「衆流截斷」の篇に澄まさるべく、最後に北米及び布哇諸島に於ける老師の活作略を學ばんとならば、眼を「函蓋乾坤」の篇に洗はれたい。

  大正五年三月八日    天川しるす

 

「日置黙仙 破草鞋」(東川寺蔵書)
「日置黙仙 破草鞋」(東川寺蔵書)
日置黙仙・破草鞋-1
日置黙仙・破草鞋-1
日置黙仙・破草鞋-2
日置黙仙・破草鞋-2

 

大正5年(1916)5月11日 

無一物處」を著し、東亜堂書房より発行する。

 

「老後の辨道」

衲(わし)は明治三十三年、佛骨奉迎の為め暹羅(シャム・タイ王国の前名)へ渡航して以来、明治四十年には満韓(満洲・韓国)の新戦場を弔慰し、同四十四年には日本佛教各宗派を代表して暹羅皇帝戴冠式に参り、帰途印度に佛蹟を巡拝し、それより大正三年より四年にかけて青島(チンタオ)の新戦場、及び台湾を巡錫し、昨大正四年には米国桑港(サンフランシスコ)に開会せる世界佛教徒大会に、矢張り日本佛教各宗派を代表して参列し、ウイルソン大統領に面謁して世界平和の為め、その運動を依頼して帰るなどして、其の間に住職地の遠州可睡斎に建多羅(ガンダラ)式の護国塔を建てるやら、佛骨奉安所たる名古屋の日暹寺(ニッシンジ・日泰寺)の為め大いに骨を折るやらしているが、此の辨道を斃れても尚已まぬ覚悟じゃ。

(「無一物處」日置黙仙著147~148頁より)

 

「題無一物處」

説似一物即不中

強名無一亦供侗

由來説默任君弄

我這裡三日耳聾

 七十二叟 (大内)青巒 退

 

「無一物處」-日置黙仙著(東川寺蔵書)
「無一物處」-日置黙仙著(東川寺蔵書)

 

大正5年(1916)5月25日
活禪活話」日置黙仙述 一喝社より発行する。

 

「活禪活話」-日置黙仙述(東川寺蔵書)
「活禪活話」-日置黙仙述(東川寺蔵書)

 

大正5年(1916)5月26日 70歳
日置黙仙、永平寺六十六世貫首に当選する。

 

同年5月29日、出張所監院大佛輔教、御山副監院東野玉尖、可睡斎に貫首拝請式を挙ぐ。

 

同年6月13日、上野寛永寺に於けるインド詩聖タゴール翁の歓迎会に臨み、歓迎の辞を延べる。

 

「詩聖タゴール氏を迎ふ」 永平寺貫首 日置黙仙

私が今回来場の諸君に代つて世界の栄冠を戴けるタゴール氏に対して歓迎の辞を述べる事は、私に取つて非常に悦ばしく且つ光栄の至である。

私は印度に行つた時に、タゴール氏に面会したいと思つたが、其の時は恰も氏の不在中の時であつたので遂に相語る機会を失し非常に遺憾であつた。然るに米国に於てプルチャード氏よりタゴール氏が日本に来られると云ふ事をきヽ非常に悦しく思ひ、どうかして心ゆくばかりの御もてなしをしようと思つてゐた処、前の永平寺福山師が死去されたについて、其の方に多大の時間を割き、此の歓迎の事に関しては一向に不行き届きであつた事はタゴール氏に対して深謝しなければならない次第である。

(後略)

「聖タゴール」編者・教育學述研究會、同文館雑誌部・発行 1~2頁より

 

 「聖タゴール」編者・教育學述研究會、同文館雑誌部・発行1916.7.8(東川寺蔵書)
 「聖タゴール」編者・教育學述研究會、同文館雑誌部・発行1916.7.8(東川寺蔵書)

 

同年6月13日、インド詩聖タゴール翁の歓迎会の席上、寺崎広業にヒマラヤ山脈を屏風一双に描くことを頼み、永平寺東京出張所へ一緒に行き画伯にヒマラヤの写真を渡す。 

 

同年6月15日、日置黙仙禪師、大本山永平寺初入山式を挙げる。

「捧此殘軀侍祖翁。董風一到入此山。去年賓是今年主。賓主交參感豈窮。」

  

永平黙仙禅師・廣業寺絵葉書 (東川寺所蔵)
永平黙仙禅師・廣業寺絵葉書 (東川寺所蔵)

  

大正5年(1916)6月23日 

悟ってから」を著し、光融館より発行する。

 

「悟ってから」-日置黙仙著(東川寺蔵書)
「悟ってから」-日置黙仙著(東川寺蔵書)

 

同年6月29日、日置黙仙禪師、明鑑道機禅師」の勅號を賜う。

 


 大正五年九月一日・永平黙仙七十翁 (大雄寺所蔵)
 大正五年九月一日・永平黙仙七十翁 (大雄寺所蔵)

 岸上青山雖不動

 波心明月去随流

  大正五年九月一日

   永平黙仙七十翁

 


 

大正5年(1916)10月

「黙仙禪師南国巡禮記」を来馬琢道著し、鴻盟社より発行する。 

 

同年11月 大本山永平寺慶弔会
1日、六十四世重興森田悟由禅師の本葬(荼毘式)。
2日、六十五世福山黙童禅師の本葬(荼毘式)。
3日、日置黙仙禪師、晋山開堂を挙行す。

 

大正6年(1917)1月1日 71歳
日置黙仙禪師、曹洞宗管長に就任する。

 

大正6年(1917)1月18日

黙仙禅話」を著し、松栄社書店より出版する。

 

「黙仙禪話」曹洞宗管長 日置黙仙禅師(東川寺蔵書)
「黙仙禪話」曹洞宗管長 日置黙仙禅師(東川寺蔵書)

 

同年、春 高祖大師の誕生地を探し出し、その地に一寺建立を発願する。

 

妙覚山 誕生寺(下記参照) 

 

大正6年(1917)8月15日

明鑑道機禅師日置黙仙著従容録講話」(上巻)禪書刊行會編纂を東京一喝社より発行される。(尚、同書下巻は大正7年2月15日に発行。) 

 従容録講話・日置黙仙著(東川寺蔵書)
 従容録講話・日置黙仙著(東川寺蔵書)

 

大正7年(1918)6月15日 72歳

名古屋、覚王山日暹寺釋尊御遺形奉安塔、落慶法要の大導師を務める。

 

  釋尊御遺形を奉安せる覚王山日暹寺・絵葉書 (東川寺所蔵)
  釋尊御遺形を奉安せる覚王山日暹寺・絵葉書 (東川寺所蔵)
  田村丸-入竺沙門黙仙(東川寺所蔵)
  田村丸-入竺沙門黙仙(東川寺所蔵)

 

大正7年9月5日 青函連絡船田村丸舷上
  一轉夜来雨
  残雲拭碧巒
  北湾徐解䌫

  波静田村丸

 


 

大正8年(1919)2月11日 73歳

寺崎廣業を見舞い、寺崎廣業の描いたヒマラヤ全景の屏風一双に賛を書す。

 

五天竺土佛陀蹤。山脈貫通神氣鐘。白雲猶存童子昔。紅霞重現荘尊容。

日生染出黄金色。雲迸描來水墨龍。瞻此仰之人識否。千秋鎭國最高峰。

 大正八年二月紀元節日

   永平入竺沙門黙仙題

 

(「日置黙仙禅師傳全」323頁参考

 

日置黙仙禅師はこの見事なヒマラヤ全景の屏風一双に、直ぐさま筆を執って賛を施したと云うことであるが、この賛の元となった詩偈がある。

それは「錬膽述」(可睡齋主・日置默仙)145~146頁に次の様に記述されている。

『・・・衲は先年佛蹟を探険してヒマラヤ山に登つて切に此の事を感じた。ヒマラヤ山中のダーヂリンは風景の絶佳なること世界第一と稱せられて居る程で、エベレストの高峯を雲間に眺める所の雄大なる風光は、實に何ともいはれぬ。・・・ダーヂリンの風光に接し、釋尊の修養時代を回想して、衲は一詩を賦した。五天竺土佛陀の蹤。山脈貫き通じて神気鐘(あつま)る。白雲堆(うずたか)く存す童子の昔。紅霞重り顯る華嚴の容(かたち)。日昇り染め出(いだ)す黄金の色。雲迸(ほとばし)り描き來る水墨の龍。(一詩原漢文)』

 

大正8年(1919)2月12日

寺崎廣業の病床にて、白檀の数珠を画伯の手にかけ、「澄心庵大悲廣業居士」の法号を授け、菩薩戒法を授ける。

 

大正8年(1919)2月27日

承陽大師御略傳法話 附 御和讚」(勅特賜明鑑道機禪師御垂示)永平寺蔵版(代表者大佛輔教)を永平寺出張所より発行する。

 

同年(1919)3月16日

吉祥草」(著作兼発行者 大佛補教)を永平寺出張所より発行する。

 

承陽大師御略傳法話附御和讚(東川寺蔵書)
承陽大師御略傳法話附御和讚(東川寺蔵書)
 「吉祥草」(東川寺蔵書)
 「吉祥草」(東川寺蔵書)

福聚海無量-永平黙仙七十三翁書(東川寺蔵)
福聚海無量-永平黙仙七十三翁書(東川寺蔵)

 

大正9年(1920)元旦 74歳

「吉祥山の春色」

何かと云ふ中にもう大正九年を迎へることになつた。昨年は前年の十一月十一日に休戦條約が成立つたので、先ず之れで平和が克復して、もう戦争の起ることはあるまいと思つたことであつたが、それから直ぐに定まると思つた講和條約も却々(なかなか)纏まらず、遂に昨年末に至つて漸く條約が有効になつたことであるが、本年は眞に平和の恢復したる芽出度い年であろう。老衲(わし)は今年の劈頭に於いて先ず示衆として斯う一喝して置いたことである。

 龍次庚申安萬邦。  龍(ほし)、庚申に次(やど)つて萬邦を安んず。

 吉祥山色照春江。  吉祥 山色、春江を照らす。

 一呼一諾惺々着。  一呼一諾惺々着。

 笑見獼猴眠六窓。  笑って見る、獼猴の六窓に眠るを。

  (支那の中邑和尚と仰山和尚との獼猴の話)

  日置黙仙禪師著「現代生活と禪」311~316頁より

(尚、下の掛け軸には吉祥山色聳春江・・・平和元旦と書かれている。)

 

永平黙仙七十四翁(大雄寺所蔵)
永平黙仙七十四翁(大雄寺所蔵)

 

大正9年(1920)1月15日 74歳

人物養成と禪」(日置黙仙禪師垂示)を鴻盟社より出版する。

 

  「人物養成と禪」(東川寺蔵書)
  「人物養成と禪」(東川寺蔵書)
永平寺貫首日置黙仙禅師御肖像(「人物養成と禪」より)
永平寺貫首日置黙仙禅師御肖像(「人物養成と禪」より)

 

大正9年(1920)2月25日 74歳
現代生活と禪」(日置黙仙禪師著)を隆文館より発行する。

 

  「現代生活と禪」・日置黙仙禪師著(東川寺蔵書)
  「現代生活と禪」・日置黙仙禪師著(東川寺蔵書)

 

「李鴻章の治療」

「用ひ様によつて殺人劒といひ活人劒といふけれども、要するに大慈悲心の發露であるから、殺活を超越したら大活人劒ぢゃ。日清戦争が済んで、支那の李鴻章が講和談判の全権委員として馬関に到着した時、一人の凶漢が李鴻章に傷をつけた。其の時、軍務総監佐藤進が主治医として治療せんとすると、李鴻章は佐藤総監が腰に劒を帯んで居るのを見て『医は仁術といふ、然るに貴下は惧るべき殺人の具を帯せられる如何』と語った。佐藤氏は其の時間に髪を容れず、『これは殺人劒ではない、活人劒である』と当意即妙の答えをせられたので、李鴻章も大いに意を安んじて幾程もなき全治した。佐藤氏も兼ねて禪に参じて深く得る所があったので、常に活人劒を振ふ心掛けを以て傷病者の治療に従事し、多くの人命を救濟したことである。其の後、衲(わし)の先住地なる遠州可睡齋の境内に記念として活人劒の塔を建てられた。」

(「現代生活と禪」日置黙仙禪師著・14~15頁より)

 

日置黙仙禅師・七十四翁(東川寺蔵)
日置黙仙禅師・七十四翁(東川寺蔵)

 

大正9年8月15日 74歳

北越巡錫の為、永平寺東京出張所を発錫し、信州渋溫泉の奧上林の寺崎廣業画伯の旧別荘に赴き、約十日間留錫する。

同24日、体調不良の中「勤まるか勤まらぬか、行く所まで行こう」と云って、、越後の水原駅在駒林の養広寺御親化戒場に転錫し、其処で倒れ、尿毒症と腦溢血とを発し昏睡状態に陥いる。

 

大正9年(1920)9月2日
日置黙仙禪師、新潟県養広寺にて遷化する。世壽七十四歳。

10日、密葬する。

 

 遺偈 「展開隻手 七十四年 末後一句 千聖不伝」

 

 

日置黙仙禅師・永平寺貫首時代(日置黙仙禅師傳全より)
日置黙仙禅師・永平寺貫首時代(日置黙仙禅師傳全より)

 

大正9年(1920)11月5日

鐵笛倒吹講話 上」(日置黙仙 述)を實業之日本社より出版。

尚、「鐵笛倒吹講話 下」は大正10年(1921)5月7日に発行。

 

  「鐵笛倒吹講話」上・下(東川寺蔵書)
  「鐵笛倒吹講話」上・下(東川寺蔵書)

 

 

大正10年(1921)4月21日
本葬儀(荼毘式)
 秉炬師 新井石禅禅師(大本山總持寺独住五世)
 奠茶師 西野宏峰(興聖寺)
 奠湯師 霖 玉仙(皓台寺)
 起龕師 森口恵徹(常安寺)
 大夜師 橘 成典(本山監院)
 掛真師 久我篤立(龍拈寺)
 鎖龕師 山口彰真(長勝寺)
 移龕師 稲寸篤添(清凉寺)
 入龕師 嶽岡大道(宝光寺)

 

 

  不惜香-永平黙仙 (大雄寺所蔵)
  不惜香-永平黙仙 (大雄寺所蔵)

 

(注1)

帰省して父親に叱られる

 

 衲(わし)は弘化四年正月二十三日生で鳥取縣東伯郡下北條村日置治吉の次男である。衲(わし)は子供の時は非常に殺生を好んだものであるから、後の森では小鳥を捕へ前の小川では魚を釣って遊ぶを無上の楽しみとして居たのである。所が衲の父は又非常に殺生が嫌いであって、衲は常時(いつ)も父の膝下に呼び附けられては小言を云はれたものである。それでも小言を云はれた時丈は成る程と合点して居ても、生来殺生好きであるから何時の間にか忘れて終ひ、又釣竿を擔いでは魚を捕りに出かけたものである。こんな事が度重なる間に阿爺(おやじ)から見附られて酷く叱責せられた上に釣竿を折られた事が幾度もあった。所が山僧(わし)が十一歳の時、弟の源之助(米蔵?)が不圖した病が原因になって終に死去して了った。昨日まで後の森や、前の小川で一緒に遊んで居た弟が死んだものであるから、何んとなく寂寥の感を抱いて来たのであった。或日のこと父に連れられて鳥取市の景福寺無學和尚の啓建せる授戒會に参詣した。子供心にも其の時の觀音經の遶行が非常に有難く感ぜられたので、墜に出家をしやうと志を起したのであった。

 或る日其の事を両親に談した所、母は義理ある者であったから出家なぞせない方は好い、且つ源之助(米蔵?)が逝くなってから家内も淋しくなった、今又汝(そち)に出家されては一層の寂味を覺ゆる事であるから其の儀は思ひ止まるがよいと言ったのであった。所が父の言分はこうであった、汝(そち)は日頃から殺生ばかりして居るのである、そんな小兒が何うして出家なぞ出来るものか、生じか僧侶になり損ねて家に歸らるヽやうの事があっては近鄕の者に對して親の顔の出し所が無い。始めから成し遂げないことを知りながら出家さすることは此の父には能きない、一體出家と云ふものは仲々六ツカ敷いもので汝の如き気まぐれ半分で為れるものでは無い。一寸近所のお寺の小僧さん達の樣子を見るがよい、汝のやうに朝から夕方まで釣竿のみ擔いで、殺生ばかりして居るかどう乎、又近處の餓鬼大将となって遊び廻つて居るか否か、そんな不心得の者は一人も出家になっては居らぬやうだから、先づ汝の如き者は家に置くに限る、そうすれば他人の前で恥を曝されるやうの苛い目に逢はずに済むから其の方が安全であると云って仲々許さなかった。然し山僧(わし)は子供心にも阿爺(おやじ)が許さなければ許さぬ程、尚更ら出家したい念が起つたので寝食を忘れて強て許を請ふたれば阿爺も漸く山僧の決心の程を見て取り、これなら大丈夫と思ったのか墜に許可したのであった。

 そこで山僧十二歳の時に、因幡州気高郡北河原村中興寺の黙中和尚に投じて剃髪し、始めて佛門に入ったのであった。然るに此所には一人の法眷が在つて、私よりも年が上であったから、御經を習っても早く覺へ萬事私に優つて居たから、其が為め私も励まされて、大分精出して勉強もしたものであった。所がじや、衲が十三歳の時に其の法眷と些細の事から喧嘩をしたものであるから、寺に居るのも面白く無いので一層の事モー僧侶なるのは止めにしやうと思つて故郷に歸つたのであつた。寺から實家迄は五十丁一里で丁度六里ある。山坂を超えながら苦ともせず故郷に歸つたのである。其の時最早や夕暮方であったが阿爺は新築の普請場に行つて居て不在であつたから、母だけに自分の歸つて来た理由を逐一物語つた。母の謂ふにはそれは久方振りに好く歸つて来た、近頃は便も絶へて無つたものであるから達者で修行して居るか否やと気遣つて居た次第であつた。先ず無事で結構であつた。定めし父上がお歸りになつたら悦ばれることであらう、何には兎にあれ遠い道程を歩いたのではお腹も減つた事であらうから、御飯を喫べたが好いと言はらたから、乞食が王膳に遭ふたやうの思ひして晩餐の膳に向ひ箸を取り上げ今や將に喫べやうとして居たりし際に阿爺は歸つて来た。衲が坐つて居るを見るや否や、小僧何にしに来りし乎と云つたのが阿爺が最初の挨拶であつた。マー世間の阿爺であつたら「好く歸つたな」と欣んでくれたであらうに、それがそんなではなしに如何にも苦い顔付をしながら「小僧何にしに来たか」と詰問せられたのであつたから南無三寶了つたりと思ふも遅く、「出戻り坊主は家に容ることは能きぬ」と大喝されたのである。衲は父の歸るを待つて、自分の歸り来りし事情を話す豫定であつたが、気遅れして話が出来ず、モジモジして居たら、母が代つて出来事の大略を物語つてくれた。之れを聴ひたる阿爺は益々怒り出し、嚮に汝は自ら望んで出家したのではないか、予は汝が今日あるを見貫で居たから容易に出家を許さなかつたのである。自ら強請して一旦出家したものが、再び家卿に歸り来るとは不都合千萬である、出戻り坊主は我家の閾を跨がすことは相成らぬ、況んや御飯なぞ喫べさせる事は能きぬ。方丈の留守中に兄弟喧嘩をしたからとて歸つて来るやうな薄志弱行(はくしじやくかう)の者には将来の望はない。又苟にも自分よりも上の者と喧嘩をして自己の非なるを覺らざるやうな不遜の者は萬事に於ても此の通りである。兒として親に恥をかかせ家名を傷付くるやうなものは片時たりとも此處の措くことは能きぬ。汝父の言葉を聴き反省する所あらば、今宵の中に寺に歸るべし。汝ぢ歸れば好し、若し歸らずば其の御飯を喫べさすことは能きぬと言ふのであつた。考へて見れば山僧が悪かつたのであるから詫びをして、いよいよ歸ることに定めたのである。そこで漸く食膳を與へられた。空腹はこれで充たされたが足の痛は仲々治くならぬ、此れから歸らねばならぬと思へば、猶更ら足の痛が増すやうである。況や其れが日暮であるのだ、漸く到着た許りで又引返さねばならぬのであるから大儀で堪らぬ。去れど今となりては詮方なく、痛める足を曳きながら夜道をトボトボ歩いて寺に還つたのは暁方の頃であつた。此れからと云ふものは如何なる辛酸目に値ふても再び實家に歸るやうな事はせまいと堅い決心をして、勉學修行に志した。

 

日置黙仙著「悟ってから」光融館発行4~11頁より

 


日置禅師の思い出

 

日置禅師の思い出

         永平寺貫首 熊沢泰禅

 

 日置禅師の御人格は磊落瀟洒、禅僧の中の禅僧といった御風格の持ち主であった。殊にその弁舌の、訥にして雄、雄にして訥といった点には、一種不思議な魅力があり、しばしば聴衆をして魅了せしめられたものである。その談話の内容も、いたずらに幽深に走らず、みだりに平俗に流れず、常に中正を旨とせられたもので、嫌味がなかった。

 私がまだ、日ヶ窪の宗門大学林に就学していた当時の話である。或る年、高階管長、来馬琢道師、野口蓮生師、松浦百英師といった同級諸師が主催となり、釈尊降誕紀念講演会を、神田の錦輝館で開催したことがあった。まず松浦師が生徒代表として開会の辞に立ち、続いて二、三名の弁士が講演をすませた後、中休みの余興にと、予め頼んであった盲啞学校女生徒の琴を聞くことになった。すると矢庭に、「宗教者の講演会に、女性の琴など聞くとは何事だ、止め止め、止めてしまえ」という声が野次連の中に起り、一時八釜しいものとなった。ところが最後に日置禅師が登壇され、例の訥にして雄、雄にして訥なる弁舌でもって「水戸黄門の帰依を受けて祇園寺の開山とまで仰がれるに至った東皐心越禅師に〈右書左琴〉という関防印があることをご存じであろう。禅とか仏教とかを学ぶ傍ら、書や琴をたしなむくらいの余裕ある人生を送らなければ駄目である」ということを前置に、諄々と釈尊のみ教えに説き及んでいかれたものだから、満場は期せずして拍手喝采となり、大いに主催者を感激せしめられたものである。

 大本山永平寺六十六世の貫首になられたのは大正五年五月二十六日、「明鑑道機」の禅師号を宣下されたのが六月二十九日、十一月三日の御晋山式当日には、福井県代表として、永建寺住職であった私が、その禅師号を拝読申し上げた。以来一段と道交を深めていただいたわけであったが、思えばもう四十五年前のことに属する。

 その御生涯の御功績を偲ぶとき、円通、可睡の御住山、宗門、本山の御運営、インド、外国への御行化、その他為人接化のための千辛万苦は、数え尽くせないものがあったと思う。本山御住山は僅か五ヶ年であったが、その短期間にも、長野県上林に広業寺を創建、京都久我村に高祖大師の誕生寺を創立、という風に、御道業の果てるときがなかったのである。

 大正九年九月二日、御親化先の新潟県新発田市の養広寺で御遷化になったが、その前年の紀元節には、インド・ヒマラヤ連峰、日の出の画を、懇意にしておられた寺崎広業画伯に描かしめられ、その六曲屏風の画に、次の如き七律の讃を行われた。おそらく禅師の絶筆ではなかろうか、現に本山宝庫に収蔵されている。

 

 五天竺土仏陀蹤 山脉貫通神気鍾 白雪猶存童子昔 紅霓重現荘厳容

 日生染出黄金色 雲迸描来水墨竜 瞻此仰之人識否 千秋鎮国最高峰

    永平入竺沙門黙仙題

(尚、上は「日置黙仙禅師傳全」323頁に記されているのとは多少の違いがある。)

(さらにこの賛は日置黙仙禅師の絶筆では無い。)

(後述略)

   「日置黙仙禅師傳全」「追憶記」371~373頁より

 


有水皆含月 無山不帯雲 永平黙仙(東川寺蔵)
有水皆含月 無山不帯雲 永平黙仙(東川寺蔵)

 

日置黙仙禅師-余話

 

「私が随身申し上げた日置黙仙禅師は決して怒らない方で、私は二十四年一緒におりましたが、一度も大声で怒られたことはありませんでした。(中略)
日置黙仙禅師が円通寺にいられた頃、弟子と法要の帰りに、いつも寄る茶店へ寄りました。(店の)婆さんは禅師の寄っていられるのを知らないのか出てきません。そのうち爺さんが帰ってきて、禅師を見て、さっそく婆さんのところへ行き『禅師さんがお憩いなさっているではないか?なぜお茶でも出さぬか』と頭から怒鳴りました。婆さんが温和しく『すみません』と云って出せば何でもなかったのですが、つい反抗して、『私だって遊んじゃいませんよ、そうガミガミいいなさんな』と云ったので、ついに大喧嘩となりました。禅師は仕方ないので、仲裁して五十銭置き、帰りに弟子に向かって『今日は誠に良いことをした』と云われました。」

 

 ~高階瓏仙著「瓏仙いかだ集」24、30頁より~

 

仰高東海天-傘松翁 (日置黙仙禅師)(東川寺蔵)
仰高東海天-傘松翁 (日置黙仙禅師)(東川寺蔵)

誕生山 妙覺寺

誕生山 妙覺寺

 

日置黙仙禅師は道元禅師の誕生地の祖蹟顕彰構想を抱き、その誕生地を探し出し、久我家の当主、久我通久侯より京都乙訓郡久我村上久我の里に久我家の旧邸があった事を伝えられ、その地に残る言い伝えや遺物などを調べ、さらに郷土史家にも調査を依頼し、現在、誕生寺の建っている地域を道元禅師の誕生の地と確認するに至る。
大正6年の春、この道元禅師の誕生の地に一寺建立を発願され、建設用地は日置黙仙禅師の篤信者であり資産家でもある神戸市、田村一郎氏がその誕生地を中心として、およそ5000坪の土地を買収して寄進した。
その地に仮本堂(庫裡兼)の新築工事に着手し、大正7年1月、地鎮祭、大正8年11月、起工式を挙げる。
又、永平寺の御直末であり、道元禅師の御自作像のある、越前小松の妙覚寺の寺号と、その御尊像を移し、「誕生山妙覚寺」とした。
大正9年5月29日、仮本堂(庫裡兼)が竣工し、遷座式が営まれるが、しかし、大正9年9月2日、日置黙仙禅師が突然遷化された為、誕生寺建立計画は中断せざるを得なくなってしまう。
この誕生寺建立への援助者は日置黙仙禅師の篤信者達であり、久我通久、海軍中将堀内信水、画家寺崎広業、セメント会社浅野総一郎、真珠王御木本幸吉などがいた。

 

(後、山号、寺號を「妙覚山 誕生寺」と変更する。)

 


賛誕生山妙覚寺移転起工之辞

 

賛誕生山妙覚寺移転起工之辞

 

曹洞宗祖承陽大師道元禅師は通久の祖先通親の子。
母は藤原氏則子と称し近衛家より出づ。
正治二年正月二日、京都府乙訓郡久我村の本邸に生る。
幼にして出家し禅教の秘奥を研鑽すること十有余年。
後入宗して法を天童如浄禅師に嗣ぎ、帰来始めて曹洞綿密の禅風を本朝に弘通し、遂に吉祥山永平寺を越前国に開創して以て根本道場となし法子法孫四海に充溢し、枝條華葉天下に瀰淪す。
その化を垂るるや、尊皇護国を以て立教の基礎とし、済生利民を以て願行の樞機とし、鎌倉覇府の懇請を辞して、専ら正法眼藏を鼓吹し、以て實祚の天地長久と国家永遠の和平とを期し、最勝吉祥の萬徳を目的に荘厳せんことを誓い玉えり。
蓋しその山號寺號は正しく此の本懐を標榜せられたるものならん。
通久幼にして久我村に成長し祖先の鴻恩を感ずること最も深し。
今や篤信の士あり、此の靈地を購入して之を永平寺に寄附せらる。
是に於てか現貫首黙仙和尚、此の聖蹟を永久に伝えんが為め、大師自作の像を奉安せる越前国小松、華厳山妙覚寺寺基と共に此の地に移して、更に誕生山妙覚寺と命名し、以て益々大師の本誓たる尊皇護国の大行を拡張せんと欲し、普く之を有縁の道俗に告げて其の賛助を求め、既に事業に着手せらるるに至る。
通久、齢七十九歳に及び此の壮擧あるを聞き衷心歓喜に堪えず。
従ってその成功を祈ること甚だ切なるものあり。
仍って一言以て賛意を表し、併せて大方君子奮って此の美業を翼賛せられんことを望むと云爾。
  大正八年三月吉祥日
       従一位侯爵 久我通久

久我通久-猛乕一聲山月高(東川寺蔵)
久我通久-猛乕一聲山月高(東川寺蔵)

誕生山明覺寺縁起

 

昭和7年(1932)6月30日

承陽大師道元禅師「誕生山明覺寺縁起」が誕生山明覺寺より発行される。

「誕生山明覚寺縁起」(東川寺蔵書)
「誕生山明覚寺縁起」(東川寺蔵書)
  道元禅師御自作木像
  道元禅師御自作木像
  誕生山明覚寺全景
  誕生山明覚寺全景
  誕生山明覚寺設計図
  誕生山明覚寺設計図

 

大正10年(1921)8月21日

大正6年発行の「黙仙禪話」が禪話叢書刊行會より再版される。

 

 再版「黙仙禪話」禪話叢書刊行會発行(東川寺蔵書)
 再版「黙仙禪話」禪話叢書刊行會発行(東川寺蔵書)

 

大正14年(1925)4月28日

禪の教養」(禪話叢書刊行會・編集者)が以文館より発行される。

これは日置黙仙老師を始め、池上文僊、中原鄧州、新井石禪、秋野孝道、釋宗演、釋宗活、菅原時保の各老師の講演等を集約して発行したもの。

 

 

 「禪の教養 全」・日置黙仙 他   (東川寺蔵書)
 「禪の教養 全」・日置黙仙 他   (東川寺蔵書)

 

昭和2年(1927)10月18日

悟りの眼を開け」日置黙仙述を中央出版社より出版。

 

「悟りの眼を開け」日置黙仙述(東川寺蔵書)
「悟りの眼を開け」日置黙仙述(東川寺蔵書)

 

昭和3年(1928)8月5日

心の眼を開く・參禪入門」日置黙仙述を近代文藝社より発行。

 

「心の眼を開く・參禪入門」日置黙仙述(東川寺蔵書)
「心の眼を開く・參禪入門」日置黙仙述(東川寺蔵書)

 

昭和8年(1933)4月

日置黙仙禅師御口演「佛祖の慧命 禅戒講話」出版する。

 

再版の辭
本書は大正十一年、故勅特賜明鑑道機禪師日置黙仙老師三回忌の砌、永く禅師に親随せる故安立洞順、糸井達巖の兩師共篇として出版せられたるものなりしが、惜しい哉、大震火災の被害に絶版となれり。怒るに此の書の内容最も能く禪師の舌頭を寫し得て、生前の肉聲耳朶に迫るが如く、禪師の風姿目前に躍如たるの感あり、依てこれを絶版するに忍びず、又、人心指導の大法益に資せんと欲して、今般十三回忌報恩大授戒會を厳修するに當り、嘗て來馬琢道師の著述されし「禪師の行化七十四年」を附載して上梓し、有縁の道俗に寄贈し、且つ鴻盟社主人の希望を容れ廣販流布を許すことゝ爲せり。
 昭和八年四月報恩尸羅會の日
     可睡斎主 高階瓏仙 誌

 日置黙仙禅師御口演「佛祖の慧命禅戒講話」(東川寺蔵書)
 日置黙仙禅師御口演「佛祖の慧命禅戒講話」(東川寺蔵書)
 日置黙仙禅師「佛祖の慧命禅戒講話」より
 日置黙仙禅師「佛祖の慧命禅戒講話」より

 

昭和9年(1934)8月15日

悟道の妙味」曹洞宗前管長・日置黙仙著が修養圖書普及會より発行。

 

「悟道の妙味」曹洞宗前管長日置黙仙著(東川寺蔵書)
「悟道の妙味」曹洞宗前管長日置黙仙著(東川寺蔵書)

 

鍛錬術」(永平寺前管長・日置黙仙禪師述)が発行されるが、これは大正4年に発行されたものの再版であり、発行年代、発行者も記入されていないが實業之日本社より発行されたものと思われる。

この「永平寺前管長」という書き方は間違いであり、「永平寺前貫首」あるいは「曹洞宗前管長」と書くべきである。 

 

「鍛錬術」永平寺前管長日置黙仙禪師述(東川寺蔵書)
「鍛錬術」永平寺前管長日置黙仙禪師述(東川寺蔵書)


参考資料

「日置黙仙禅師傳」 高階瓏仙編 大法輪閣・発行

「日置黙仙老師満韓巡錫録」 田中霊鑑 著述代表 香野蔵治・発行

「錬膽術」可睡斎主・日置黙仙 井上泰嶽 編 實業之日本社・発行  

「日置黙仙 破草鞋」山上天川記 山上曹源 編 光融館・発行

「無一物處」 日置黙仙 著 東亜堂書房・発行 

「活禪活話」 日置黙仙 述  禪書刊行會 編 一喝社・発行

「悟ってから」 日置黙仙 著 光融館・発行

「黙仙禪話」 日置黙仙 著 松栄社・発行 

「悟りの眼を開け」 日置黙仙 述 中央出版社・発行

人物養成と禪」(日置黙仙禪師垂示) 鴻盟社・出版 

「現代生活と禪」 日置黙仙禪師著 隆文館・発行 

「鐵笛倒吹講話」上・下 日置黙仙 述 實業之日本社・発行

「黙仙禪話」 日置黙仙著 禪話叢書刊行會・発行

「禪の教養」 編纂者・禪話叢書刊行會 以文館・発行

「錬膽術」 永平寺前管長 日置黙仙禅師 述 實業之日本社・発行 

「悟道の妙味」 永平寺前管長 日置黙仙著 修養図書普及會・発行

「心の眼を開く 參禪入門」日置黙仙 述 近代文芸社・発行

 承陽大師道元禅師「誕生山明覺寺縁起」 誕生山明覺寺・発行

 日置黙仙禅師御口演「佛祖の慧命 禅戒講話」(非売品)遠州・可睡斎

明鑑道機禅師日置黙仙著「従容録講話」(上下巻)禪書刊行會編纂、東京一喝社発行