永平寺七十三世 熊沢泰禅禅師

 

永平寺七十三世 熊沢泰禅禅師

 

(世称)
  熊沢泰禅(くまざわ たいぜん)


(道号・法諱)
  祖學泰禅(そがく たいぜん)


(禅師号)
  大光円心禅師
  (だいこうえんしんぜんじ)


(生誕)
  明治6年(1873)5月1日


(示寂)
  昭和43年(1968)1月7日


(世壽)
  96歳


(別号)
  雪菴 (永平寺時代)

  聴雪 (永建寺時代)

 

(特記)

   總持寺独住第十六世貫首

     永平寺貫首在位 25年

   親友・高階瓏仙禅師 

 

春臺覚夢辨花香(東川寺蔵)
春臺覚夢辨花香(東川寺蔵)

熊沢泰禅禅師の書 「春臺覚夢辨花香」


世尊在霊山百万衆前拈華瞬目 迦葉破顔微笑。
世尊告衆曰 吾有正法眼蔵涅槃妙心 附嘱摩訶迦葉。
流布将来勿令断絶。仍以金鏤僧伽梨衣附迦葉。
春台夢覚弁花香 広示人天独飲光 山雨洗翻成則雪 嶺雲迸散織斯霜

 

(覚夢と夢覚との違いあり。)

 


熊沢泰禅禅師の略歴

 

明治6年(1873)5月1日 

愛知縣丹羽郡丹陽村(現在一宮市)猿海道の熊沢初右衛門の次男として誕生。兄弟姉妹七人。幼名は「豊次郞」。

 

明治13年(1880)8歳 生家近くの文珠院住職、石原泰豊師に望まれて沙弥となる。

 

明治19年(1886)5月1日 14歳 丹羽郡丹陽村の文珠院住職、石原泰豊師について得度。名を「泰禅」と改める。

 

明治19年(1886)14歳 愛知県知多郡多屋の桂岩寺の結制授戒会に随喜する。
この時、戒師、長崎県皓台寺高木忍海師の行者を務めたのが縁で、同じく後堂を務めた高木忍海師の法嗣の(滋賀県蒲生郡日野町慈眼院住職)諏訪周禅師のもとに転師(師僧替え)することになる。


同年5月2日より明治24年2月15日まで、長崎県皓台寺に安居して、高木忍海師に随侍参禅する。

 

月舟老人夜話
拙僧、十四、五歳の初発足の当時、愛知縣知多郡多屋村の桂岩寺へ本師諏訪周禅の随行して出会せしが、その時の西堂は拙納の爺に当たる高木忍海老人であった。
その老人より此の夜話(月舟老人夜話-月舟宗胡)の写本を頂きまして、有り難く思い、幾度も拝読いたしました。
又、その深意に於いて、不審な点は老人に侍し、日夕親しく参究し、之れに依て修行の方針を定め、今尚ほ折々拝読しておりますが、読むたびごとに月舟老人の深意も窺われて、実に末世の大證明である。 (昭和5年「傘松十月号」より)

 

 

明治24年(1891)19歳 皓台寺を送行して、師寮寺慈眼院に帰省し、「祖学」の道号を諏訪周禅師より授けられる。

 

明治24年2月25日より明治27年8月25日まで滋賀県蒲生郡日野町慈眼院住職、諏訪周禅師に随身する。

 

明治24年夏、愛知県愛知郡猪高村の月心寺住職伊藤格之師の初会にて立身。

 

明治24年9月27日、慈眼院住職諏訪周禅師の室に入り伝法。

明治27年(1894)9月3日 22歳
東京市本郷区駒込吉祥寺大道学館に入って修学。明治29年8月30日まで。

 

明治29年(1896)24歳 9月より曹洞宗大学林へ掛錫。

 

明治34年(1901)7月10日 29歳 全科卒業。

この年より京都淨土宗大学へ通学し唯識部研究。

 

明治35年(1902)4月21日 30歳 永平寺において転衣。

 

明治36年(1903)9月より明治39年8月まで余乗三乗部専攻内地留学生拝命。
この間、南禅寺師家南針軒河野霧海師について参禅。

 

明治38年(1905)2月25日 33歳 滋賀県慈眼院へ首先住職、明治39年冬、初会結制修行。

 

明治42年(1909)1月11日 37歳 曹洞宗大学教授を拝命。

 

明治44年(1911)9月13日 39歳 福井県敦賀市永建寺へ転住。

 

清淨光・永建寺熊沢泰禅(東川寺所蔵)
清淨光・永建寺熊沢泰禅(東川寺所蔵)

 

明治45年(1912)2月5日より、大正14年(1925)12月25日まで軍人布教師を勤める。

 

 明治45年(1912)(1月1日-7月30日)
 大正元年(1912)(7月30日-12月31日)
 

 

大正9年(1920)12月27日 48歳 曹洞宗師家を認可される。

 

大正15(1926)年3月10日 54歳 永平寺副監院に任ぜられる。

 

 大正15年(1926)(1月1日-12月25日)
 昭和元年(1926)(12月25日-12月31日) 

 

昭和2年(1927)2月1日 55歳 永平寺後堂に任ぜられる。
同年7月1日、緋恩衣被着可。


同年12月26日 鈴木天山監院が辞任せられたので、後堂であった熊澤泰禅師が永平寺監院に任ぜられる。

 

昭和3年(1928)1月20日 56歳 黄恩衣被着可。

 

観音画賛 祖山監院 泰禅敬書 (東川寺所蔵) 
観音画賛 祖山監院 泰禅敬書 (東川寺所蔵) 
第二十四回眼藏會・熊沢聴雪 (東川寺所蔵)
第二十四回眼藏會・熊沢聴雪 (東川寺所蔵)

 眼藏會偶作(監院 熊沢聴雪)
  二十四回開此筵
  為寳為主又前縁
  承陽佛法清如水
  空手家風誰與傳
  (昭和3年・第二十四回眼藏會)

 

昭和3年より名古屋の「奉安殿護国院」は永平寺監院が兼務することになった。

そのため、昭和9年まで熊澤泰禪監院は「奉安殿護国院」の兼務住職となる。

名古屋の奉安殿は珍牛和尚を開山とする護國院を門内大英和尚が再興した。その折、京都の道正庵傳来の高祖大師の御木像を迎えて、この寺に奉安した故、奉安殿と称すことになった。

尚、奉安殿護国院は現在は永平寺名古屋別院となっている。

 

昭和4年(1929)4月1日 57歳 認可禅林開単。

 

昭和5年(1930)5月1日より5月14日まで
永平二祖六百五十回大遠忌法会 (5月11日正当法要厳修)

 

昭和9年(1934)2月25日 62歳 永平寺監院を辞任する。

 

護国(奉安殿護国院)泰禅 (東川寺所蔵)
護国(奉安殿護国院)泰禅 (東川寺所蔵)

 

青巖作賓主。時又伴高吟。 (青巖を賓主と作し。時に又た高吟を伴う。)
花帯鮮妍露。香傳不染心。 (花は帯ぶ鮮妍の露。香は傳う不染の心。)
 甲戌(昭和九年)春 護國泰禅 (奉安殿護国院)

 

昭和15年(1940)68歳 曹洞宗宗機顧問所議長に就任する。 

 

昭和16年(1941)6月14日 69歳 大教師に補任される。

 

昭和16年(1941)12月8日 日米開戦(真珠湾攻撃) 

 

昭和18年(1943)4月20日 71歳 永平寺西堂に任ぜられる。

 

昭和19年(1944)2月4日 72歳 総持寺貫首となる。同日、大教正に補任。

 

昭和19年(1944)2月8日 72歳 

永平寺七十二世佐川玄彝禅師が病気の故、永平寺を退董された為、永平寺七十三世貫首となる。

  

昭和19年(1944)2月17日 永平寺初入山式。

 

 初入山所感 不老閣主
  満地荘厳雪越山。 玲瓏皎々白雲閑。
  梅花薫徹箇時節。 不老閣中占半間。

 

昭和19年(1944)5月13日 永平七十二世佐川玄彝禅師、遷化。 

 

昭和19年(1944)5月15日 永平寺機関誌「傘松」百九十九号をもって、戦時下最終号となる。


昭和19年(1944)7月6日、大光円心禅師」の勅賜號を受ける。

 

昭和19年(1944)9月28日 午前、佐川玄彝禅師の荼毘式。午後、熊澤泰禪禅師の晋山祝国開堂。

 

昭和20年(1945)8月15日 太平洋戦争終結(ポツダム宣言受諾、敗戦)

 

昭和21年(1946)9月18日

昭和18年、永平寺の大梵鐘が戦争の爲ため供出されたが、昭和21年春、伊勢四日市で発見され、五月下旬無事祖山に帰還した。

すぐに仮鐘楼の新築に着手し、この日落成し、再び祖山に大梵鐘が鳴り響いた。  

 

 聯(東川寺より昭徳寺へ贈呈)
 聯(東川寺より昭徳寺へ贈呈)

 

昭和22年(1947) 2月4日 永平七十世大森禅戒禅師、慈照寺隠寮にて遷化。 

 

昭和22年(1947)10月20日 永平寺機関誌「傘松」復刊第一号(通刊二百号)を発行する。 

 

昭和23年(1948)5月24日 評論家・長谷川如是閑は詩人・富田碎花、画家・勝田哲らと共に永平寺来山し一泊する。

 

永平寺にて
  長谷川如是閑
「ちりひじに まみれしこころ ここにきて
    みのりの力を いらかにおろがむ」
  富田碎花
「みどりばの ほのほの傘の いくかさね
    この結界を けさは雨せり」

 

昭和23年(1948)6月28日 (北陸)福井大震災
家屋全半壊焼失、四万六千百五十戸。死者、三千八百四十八名。重軽傷者二万一千八百名。
九頭竜川、下流一帯の地を震源とした大地震の被害甚大。永平寺は奇跡的に無事。 

 

昭和24年(1949)1月26日 77歳
高祖降誕日、東京で道元禅師鑽仰会主催のもと、高祖生誕七百五十年慶讃祝賀会が開催され、熊沢禅師も出席された。

 

高祖承陽大師降生七百五十年報恩法式駒澤大学大講堂修行 香語

 天暦聖朝分勝因。
 重瞳具相眼光新。
 降生七百五十暁。
 梅綻扶桑第一春。
  露。
 天童心印單傳去。
 空手還郷欺幾人。
昭和二十四年己丑年一月二十六日
  永平泰禪

 

熊沢泰禅禅師七十七歳 (東川寺所蔵)
熊沢泰禅禅師七十七歳 (東川寺所蔵)

 

 不老閣中心境清。 (不老閣中、心境、清く。)
 花晨雪夜養吾生。 (花晨雪夜、吾が生を養う。)
 壽山高望萬千仞。 (壽山、高く望む、萬千仞。)
 七十七年雙眼明。 (七十七年、雙眼、明かなり。)

  昭和己丑(24年)新春偶作 永平泰禅老衲

 

昭和24年(1949)10月23日 東京麻布、長谷寺が「永平寺東京別院」となり、その昇格慶讃法要が営まれた。

 

昭和25年(1950)3月 幻灯フィルム「法城・永平寺」完成する。

 

曹洞宗大本山永平寺全図-昭和26年7月10日発行 (東川寺所蔵)
曹洞宗大本山永平寺全図-昭和26年7月10日発行 (東川寺所蔵)


昭和26年(1953)7月28日 79歳 永平寺、衆寮並びに接賓の落成式を挙げる。 


昭和27年(1952) 80歳 高祖道元禅師七百回大遠忌総裁。

 

同年3月 不老閣、宝物殿、大浴室等の工事を完了する。


昭和27年 大遠忌前、大庫院に聯を掲げる。

 

大庫院の聯

 

不老閣侍局の宮川敬道師の発願により、高祖大師七百回大遠忌奉賛のため、熊沢泰禅禅師揮毫の聯が大庫院前の左右の柱に掲げられた。
この聯は長野市昌禅寺(住職・佐藤賢乗)総代の新井九兵衛氏が両親菩提の為、用材その他の費用一切を喜捨したもの。尚、彫刻師は新井吉太郎氏。
左右一対の聯は丈、一尺一寸、巾、九寸五分、厚さ一寸五分。
聯の原書は昭和二十六年秋、熊沢泰禅禅師八十歳の御染筆。
 法食同輪永転山園之隆盛
 証修忘跡平増香閣之禎祥
法食、輪を同じくして永く山園の隆盛を転ず。
証修、跡を忘じて平らかに香閣の禎祥を増す。

 

昭和27年4月15日 皇室より、高祖大遠忌に御香料を下賜される。

 

昭和27年4月16日 高祖道元禅師七百回大遠忌奉賛の句集 永平寺」が発行される。

 

高祖大師七百回忌・永平雪庵(句集・永平寺より)
高祖大師七百回忌・永平雪庵(句集・永平寺より)

  

昭和27年4月16日 此の日より、五月六日まで高祖道元禅師七百回大遠忌を奉修する。

 

開祖道元禅師七百回大遠忌 (東川寺所蔵)
開祖道元禅師七百回大遠忌 (東川寺所蔵)


同年同月29日 高祖道元禅師七百回大遠忌、正当法要を修す。

 

同年7月5日 丘球学、副貫首(初代)に当選する。


同年7月29日 傘松、道元禅師七百回大遠忌記念号を発刊する。

 

道元禅師七百回大遠忌記念号(東川寺蔵書)
道元禅師七百回大遠忌記念号(東川寺蔵書)
永平泰禅八十翁(東川寺蔵)
永平泰禅八十翁(東川寺蔵)

  壁面人將人面壁。共言可在欲相知。
  雖然一等笑開口。破雪梅花密上枝。 (永平広録)


昭和27年(1952)
同年8月1日 宗教法人「大本山永平寺」を設立する。


永平七十三世・熊沢泰禅禅師(雪庵廣録第一より・満八十歳記念撮影)
永平七十三世・熊沢泰禅禅師(雪庵廣録第一より・満八十歳記念撮影)

 

昭和29年(1954)正月 82歳

 

下、掲載は寶藏寺住職加藤默堂師への不老閣熊沢泰禅禅師の年賀の手紙。

(尚、加藤默堂師は後、永平寺監院となった。)

 

 加藤默堂様-不老閣 熊沢泰禪 (東川寺所蔵)
 加藤默堂様-不老閣 熊沢泰禪 (東川寺所蔵)
  新年頭・・・昭和甲午(29年)新春不老閣熊澤泰禪 (東川寺所蔵)
  新年頭・・・昭和甲午(29年)新春不老閣熊澤泰禪 (東川寺所蔵)

 

 

昭和29年(1954)3月2日 福井天章(西堂)副貫首に就任する。


同年10月8日 愛知県勝楽寺佐藤泰舜、専任隨行長に就く。

 

昭和30年(1955)3月より7月
名古屋にて病気療養する。一時、名古屋医大付属病院に入院。
7月20日、百数十日ぶりで永平寺に帰山する。

 

  帰山偶感 不老閣泰禅
 半年病に依って人間に在り。夢衷超として此の山を繞る。
 不老親しく開く再生の主。帰来まず対す石仙顔。


昭和31年(1956)9月15日 84歳 

祖山五十周年と五十世玄透即中百五十回忌を記念して、本山版「正法眼藏」の重版事業を完了する。

 

宜哉称不二・永平泰禅 (東川寺所蔵)
宜哉称不二・永平泰禅 (東川寺所蔵)

 

 宜哉稱不二。 (宜ムベなる哉カナ不二フジと稱ショウす。)
 萬仞聳雲間。 (萬仞バンジン雲間ウンカンに聳ソビゆ。)
 雪積千年瑞。 (雪ユキは積ツむ千年センネンの瑞ズイ。)
 乾坤第一山。 (乾坤ケンコン第一ダイイチの山ヤマ。

 


 
昭和32年6月15日 山門の五百羅漢の補修工事が完了する。

 

永平泰禪八十五翁    (東川寺所蔵)
永平泰禪八十五翁    (東川寺所蔵)
「菩提座」泰禅八十五翁 (東川寺撮影)
「菩提座」泰禅八十五翁 (東川寺撮影)


昭和33年(1958)2月17日 86歳 

熊沢泰禅禅師、入山十五周年祝賀会。妙高園に石碑を建立する。

 

 題仏石厳詩並序
妙光台前、在大厳石、埋地中。年代不詳焉。今掘其周辺、顕一岩、築山、植樹木、瀉水、造瀑布。雖一小仮山乎、頗似具大宇宙壮観、有帯雲烟趣矣。経営方成、乃称山之全体、名仏石厳。因賦七絶一首、刻于石建方隅云。
 詩曰
仏石厳高雲樹閒。積嵐生処孰路攀。
遙看飛瀑幾千仞。浩浩源来従白山。
 七十三世 泰禅 八十六翁

 

昭和33年(1958)7月1日
仏舍利奉安供養
先年祖山監院本多喜禅師がネパールにおける世界仏教徒会議に、日本仏教団の団長として出席の途次、タイ国から贈られた仏舍利が、仏舍利塔(高さ三尺五寸)に納められ、仏殿の本尊釋迦牟尼仏の坐像の正面に安置され、その奉安供養法要が厳修された。


同年9月23日 此の日より三日間、徹通義介六百五十回大遠忌を修す。

 

昭和34年(1959)元旦 87歳

 

「元旦偶作・不老閣主」

傘松峰下領蒼天 斯道安貧幾十年

山寺迎春何所記 梅経寒熱綻窓前

  昭和己亥元旦偶作

 永平泰禅八十七翁

   (傘松262号15頁参考)

 

熊沢泰禅禅師八十七翁・昭和34年元旦偶作(東川寺所蔵)
熊沢泰禅禅師八十七翁・昭和34年元旦偶作(東川寺所蔵)


昭和34年(1959)4月1日
名古屋奉安殿護国院、永平寺名古屋別院となる。
初代監院は護国院住職大洞良雲師、又、副寺には名古屋市宝藏寺住職加藤黙堂師が就任。

 

昭和34年(1959)6月15日 東京仙翁寺中野東英師、隨行長となる。

 

昭和34年(1959)8月5日


偃月橋の架け替え
腐朽した偃月橋(えんげつ橋)は7月末、コンクリート製に掛け替えられ、8月5日、不老閣猊下が渡り初めされた。
この偃月橋は永平寺四十世大虚喝玄禅師の「祖山十境」の第六に数えられ、又、宝暦二年の面山和尚著の「吉祥草」には「此の橋も亦総門の下に在り。其の様反って曲がれり。形半月の如し。故に『偃月橋と』称す」とある。

 

愛宕公園の整備
愛宕公園も昨年より直歳木村師により大巾に整備された。
この愛宕公園は六十四世森田悟由禅師の代、皇太子嘉仁殿下(後、大正天皇)永平寺行啓記念として開設されたもの。

 

昭和34年(1959)11月17日
大石順教尼は順教後援会代表徳田淳久氏ら一行七名と共に永平寺に宿泊。
同夜、「無手の法悦」を雲衲に物語りし、翌朝は絵筆を口にくわえて絵画された。

後、大石順教尼は昭和36年12月22日にも永平寺に上り施食会一坐の法供養を設け、不老閣に拝問している。 

無手の法悦・大石順教著・1968春秋社発行
無手の法悦・大石順教著・1968春秋社発行
壽康-永平泰禅八十七翁 (東川寺所蔵)
壽康-永平泰禅八十七翁 (東川寺所蔵)
永平雪庵八十七蘭画賛(東川寺蔵)
永平雪庵八十七蘭画賛(東川寺蔵)

昭和35年(1960)1月 米壽

 溪雲千古静。 溪雲千古静かに。

 暦日与年新。 暦日年とともに新たなり。

 雪霽深山暁。 雪は霽れる深山の暁。

 草庵梅吐春。 草庵、梅、春を吐く。

  昭和庚子早春偶作

   永平現住泰禪八十八翁

 

「永平不老閣熊沢禅師米寿賀頌」 管長瓏仙八十五叟

  其一 山中安息

 童顔円満徳光鮮。米寿新年不老仙。独愛梅花無俗気。雪庵深処打安禅。

  其二 応請巡化

 矍鑠童顔不老仙。更迎米寿法光鮮。十方敬仰無安息。飛錫応縁徳化円。

 

昭和35年(1960)1月1日 88歳 熊沢禅師「参同契 宝鏡三昧 提唱」を不老閣より発行する。 

参同契 宝鏡三昧 提唱

「参同契 宝鏡三昧 提唱」 熊澤泰禅禅師(東川寺蔵書)
「参同契 宝鏡三昧 提唱」 熊澤泰禅禅師(東川寺蔵書)

「参同契 宝鏡三昧 提唱」


老衲、後堂当時、この参同契・宝鏡三昧を、十数回にわたって提唱せしことあり。
いま、その当時の手鏡を筺底より発見するに、曲調に応ぜざる点多々あり。
よって、巡錫の余暇、これが修正補足につとめたり。
しかして、このごろ、ようやくその稿を脱するに至れり。
もとより、完全無缺にはあらざれども、わが宗としては、日々の法會にも諷誦する歌曲であれば、齊しくその宗旨を心得ておく必要あり。
よって、これをこゝに刊行し、有志の者に頒布することゝせり。
  昭和三十五年庚子年一月吉日
         永平現住 泰禅 識

 


「提唱手鏡を拝して」


大光圓心禪師御自身の、参同契、宝鏡三昧手鏡を拝覧するに、一読、再読、また三読して感受したる印象は、まづ第一に、宗乗の極意を毫もその格式曲調をくずすことなく、佛心如是の第一義を端的に提示されてあることと、第二には、祖意内容を字句文言と照し合せて、審細、緻密に探求考察せられてあること、第三に、その用語成分極めて簡潔明白にして、全篇の理路整然たる点である。
参同契宝鏡三昧の拈提、提唱、乃至講義等は、古今にわたって枚挙に暇ないが、今この手鏡に見る三特長は、あらゆる註書に比して遥かに群を抜く活文字である。
もしその人を切る寸鉄の短文に接して、その深意を汲み兼ねる人あらば、他の平明な註書を並べ見ることによって、禪師の提唱が、如何に卓越し、閑文字を避けて、全篇の皮肉骨髓を直露せられてあるかが伺われて、深くその真意に参ずることができるであろう。
なお、二三御自作の偈を附して、原意の幽玄な趣きをそのままに、縹渺(ひょうびょう)たる余韻をもって、味読せしめられる懇切な老婆心と、反古紙に毛筆を以て、丹念に書き記された手鏡の原文を拝して、その綿密な家風に対し、限りなき法悦歓喜を覚える次第である。
  昭和三十五年一月吉日
       監院 佐藤泰舜 謹記

 


永平泰禅八十八翁(東川寺所蔵)
永平泰禅八十八翁(東川寺所蔵)

(昭和庚子春迎八十八歳所感 不老閣主)

 長生吾道廊 雪屋守清貧
 一鉢幸無恙 又迎庚子春
  昭和三十五年早春偶作
   永平泰禅八十八翁

 


 

昭和35年(1960)4月13日、14日 88歳


昭和34年4月に大本山永平寺名古屋別院となった奉安殿護国院は戦災で焼失した本堂を新築再建(間口九間、奥行十一間、総桧材)し、不老閣猊下御親修にて本堂落慶入仏供養と法脈会を修行。その折、熊沢泰禅禅師は「奉安殿」の額書を揮毫された。 

 

  奉安殿・熊沢泰禅禅師書額 (東川寺撮影)
  奉安殿・熊沢泰禅禅師書額 (東川寺撮影)

 

昭和35年(1960)10月 88歳 

 

北海道の摩周湖畔に熊沢禅師の詩碑が建てられることになった。
碑は天地一丈、重さ五百貫で台座を合わせると凡そ十八尺となる。
碑面の文字は既に札幌の石屋で彫り上がっているが、摩周湖は国立公園内にあるため、所管当局へ手続き中である。

 

 萬岳雲晴歸一眸。千年紺碧大摩周。

 総忘苦楽人間事。湖上閑吟極勝游。

 萬岳、雲晴れて一眸に歸す。千年の紺碧、大摩周。

 総に忘ず、苦楽人間の事。湖上に閑吟し、勝游を極む。

 昭和壬辰秋曳杖於此勝景賦一詩
   永平泰禅叟

 熊沢泰禅禅師・摩周湖畔碑(禅法寺・鎌田宏淳師・撮影提供)
 熊沢泰禅禅師・摩周湖畔碑(禅法寺・鎌田宏淳師・撮影提供)

この書は昭和27年秋、釧路定光寺へ戒会御親修の折、杖を摩周湖に曳かれて作詩されたもの。

詩碑建立は「札幌市樋口良太郎氏、老衲八十八寿を祝い此の詩碑を建てる」と『雪庵廣録 第四 詩偈・歌句』146頁に記載されている。

 

尚、除幕式は昭和37年9月25日に挙行された。 

 


昭和36年(1961)4月23日 89歳 不老閣猊下発願の永平寺一華蔵、落成式。

 

 後、昭和36年秋、一華蔵左右に禅師揮毫の聯を掲げる
 「一華開老梅」「五葉此包藏」

 

昭和36年(1961)9月25日 89歳
祖山承陽殿の承陽門頭の高祖大師坐禅石の顕彰詩碑を玉垣の右前に建立。
不老閣猊下、除幕式法要を厳修。

 

昭和37年(1962)2月17日 90歳 

熊沢泰禅禅師、「正法眼藏讃偈」一巻を著し、不老閣より発行する。

 

「正法眼藏讃偈」熊沢泰禅著 (東川寺蔵書)
「正法眼藏讃偈」熊沢泰禅著 (東川寺蔵書)

 

正法眼藏讃偈(全)


高祖承陽大師之正法眼藏者、其旨最上最尊深遠ニシテ而発心求道之釣耕者ヲ俟ツニ非レバ即チ容易ニ究辨シ難シ矣。
是ニ於テ乎本山中興五代尊義雲禪師ハ正法眼藏品目頌六十首ヲ裁成シ、以テ釣月耕雲之遺響ヲ闡明提示セラル。
詞意深幽ニシテ而以テ實参ス可ク、復タ以テ實究ス可キナリ也。
老衲浅学義雲禪師之遺韻ヲ崇敬シテ而、庚子歳二月一日従リ七日ニ至ル。
常例攝心會ニ丁リ、辨道話摩訶般若現成公案之巻ニ基キ、七首ヲ賦シテ日日大衆ニ垂示シ以テ兀坐非思量之旨を勤ム。
其ノ後尚ホ眼藏ヲ拝閲シ孜孜トシテ懈怠無ク巡錫ノ途上ト雖モ、輙チ輟メ不。
巻中ノ字句ヲ拈用シ巻毎ニ一偈を賦シ、此ノ年ノ歳杪ニ迨リ、九十五巻全部完結シ都慮總頌合メ一百首ヲ成シ、始テ其ノ業を卒フ
焉辭意浅蕪格調又高不ト雖モ、眼藏參究初學者ノ為メニ少補スル所有ルニ庶幾カラン乎。
艸稿再三推敲シ之を於筺底ニ秘蔵ス。
已ニ半歳ヲ経タリ。今也住山二十年壽度九十之記念ニ値フ。
是ニ於テ乎辨道話従リ八大人覺ニ至ル本山版ノ藏本ニ據テ、頌之列次ヲ定メ、訂シテ一巻ト為シ、簽シテ高祖大師正法眼藏讃偈ト稱シ、之ヲ於世ニ印布セント欲ス矣。
於戯西来之祖道嫡嫡相承シテ大師之ヲ于本邦ニ傳フ。
片言隻字ト雖モ、又タ載道ノ句ニ非ル靡シ。
世ノ洪璧之類ニ同ラ不ル也。
若シ語句中ニ向テ穿鑿セハ釗去テ久シ矣。
徒ニ舷ヲ刻ムノ漢ト為ラン。
讀者親シク不染之修證不傳之妙趣ヲ認得セバ即チ何ノ幸カ之ニ過キン矣。
昭和三十七年歳壬寅ニ在リ二月十七日不老閣一塵不到ノ處ニ序ス。

 

永平七十三世 祖學泰禪九十翁

 


松樹千年翠・永平泰禅九十翁
松樹千年翠・永平泰禅九十翁

 

昭和37年(1962)9月1日
吉田郡志比村は町制施行により「永平寺町」となる。

 

昭和38年(1963)1月 永平寺雪害
1月初頭より異常寒波が日本を襲い、特に北陸奥羽地方は大雪が強雪となり豪雪となった。
1月11日頃より俄に強まった降雪により、永平寺の大伽藍大屋根、古い建築、処狭く建ち並んだ七十余棟の建物、法堂も仏殿も庫裡山門も見分けのつかぬ一塊の雪達磨と化した。
雪の重圧は危険の度を増し、門前衆のみならず一山総出仕にて昼夜を分かず雪作務に当たる。
1月25日、本山雪害対策本部を設け、組織的に除雪排雪に当たる。
1月29日、法堂正面の軒屋根が崩落する。
2月17日、本山雪害復旧本部を設ける。

 

昭和38年(1963)7月28日 91歳 

鐘楼堂落慶、大梵鐘撞初式を挙げる。

 

永平寺・鐘楼堂 (東川寺撮影)
永平寺・鐘楼堂 (東川寺撮影)

 

同年同月30日、赤堀禪稲作「永平寺大全景図」完成奉讃会法要を修す。

 

永平寺大全景図・赤堀禅稲和尚・画 (永平寺所蔵)
永平寺大全景図・赤堀禅稲和尚・画 (永平寺所蔵)

 

同年、龍門頭の改修、偃月橋等の改修をする。

 

昭和39年(1964)迎春 92歳

 

「年毎に歳を迎えて壽古やかに九十二回の春に逢うとは」 永平泰禅

 

永平泰禅九十二春
永平泰禅九十二春

 

昭和39年(1964)3月 92歳
3月上旬より四大不調にて四十五日間、名古屋大学付属病院に入院。
授戒会前に帰山する。

 

昭和39年(1964)秋 92歳
総門(名古屋市伊藤万蔵、堀内茂右衛門、寄贈)の無字の門柱に、熊沢禅師揮毫の「杓底一残水」「汲流千億人」を左右の門に刻み込む。
今までこの門は「総門」と呼ばれていたが、今回より「正門」と称することとなる。
  題正門(熊沢泰禅禅師)
 正門当宇宙。(正門、宇宙に当たる。)
 古道絶紅塵。(古道、紅塵を絶す。)
 杓底一残水。(杓底の一残水。)
 汲流千億人。(流れを汲む千億の人。)

 

 正門「此の門はわが永平の第一義 往き来の人を雲のごとくに 雪庵」 

 

下記「門に入る魚は竜となる」参照

 

尚、蛇足だが、永平寺の三黙道場の一つ「浴司(浴室)」には古来より

「洞家沐浴莫恣水 須懐 永平杓底残一滴 倘存容易意 徳波名盡久無残」

と書かれている。

 

さらにこの言葉「杓底一残水」「汲流千億人」は単に水だけのことを言っているのでは無く、嫡嫡相承されてきた仏法(永平寺の第一義・御開山道元禅師の只管打坐)のことを合わせ云っているのです。

 

 杓底一残水 汲流千億人
 杓底一残水 汲流千億人
大本山永平寺・正門 (東川寺撮影)
大本山永平寺・正門 (東川寺撮影)

 

昭和39年(1964)11月11日 92歳 

東京別院本堂並びに庫裡落慶入佛式を挙げる。

 

 松竹梅-永平泰禪九十二翁(東川寺所蔵)
 松竹梅-永平泰禪九十二翁(東川寺所蔵)

  竹 是無我之禅心
 松 是操持之妙相
  梅 是参学之善友
   永平泰禅九十二翁

 

昭和39年(1964)秋 92歳
三十年振りに禅師は生誕の地、得度の地である故郷愛知県一宮市丹陽町を訪れる。
受業師の寺、父母の宅、先祖の墓を巡り、丹陽町に栄える熊沢各家の人々、熊沢家の菩提寺(西山浄土宗常念寺)の人々と歓談する。
(次年40年春の偈)
昨朧親しく尋ぬ生誕の鄕。老心喜び観る旧風光。
人間此の処頭べを回し去れば。九十三年夢一場。

 

昭和40年(1965)7月1日 93歳 

「曹洞宗宗憲」を変更し、曹洞宗管長は両本山貫首の交替就任制とし、その任期を二年とする。

 

熊沢泰禅禅師九十三翁・一顆珠 (東川寺所蔵)
熊沢泰禅禅師九十三翁・一顆珠 (東川寺所蔵)

 

昭和41年(1966) 94歳

曹洞宗宗務庁に頼まれ「石徳五訓」を作成、揮毫する。

 

石徳五訓-永平泰禪九十四翁(印刷)(東川寺所蔵)
石徳五訓-永平泰禪九十四翁(印刷)(東川寺所蔵)
熊沢禅師九十四翁・一段風光画不成(東川寺所蔵)
熊沢禅師九十四翁・一段風光画不成(東川寺所蔵)

 

同年、1月28日 佐藤泰舜、副貫首に当選する。


昭和42年(1967)95歳 

旧菩提園跡に「聖宝閣」を新築する。
さらに、小庫院を解体して、新たに檀信徒研修道場「南香積台」(後に吉祥閣と改称される)を建築すべく指示を出す。

 

永平寺聖宝閣聯・熊沢泰禪禅師九十五翁(撮影・東川寺)
永平寺聖宝閣聯・熊沢泰禪禅師九十五翁(撮影・東川寺)

永平寺聖宝閣・聯

(勅賜大光圓心禪師)

聖光醫王遊化吉祥靈苑

立願常照令得福壽長生

(現住泰禪九十五翁)

壽・永平泰禅九十五叟 (東川寺所蔵)
壽・永平泰禅九十五叟 (東川寺所蔵)
夢虚乎実乎永平泰禅九十五翁(東川寺所蔵)
夢虚乎実乎永平泰禅九十五翁(東川寺所蔵)

「夢 虚乎実乎」

 

この「夢 虚乎実乎」に関して、以前(昭和34年)熊沢泰禅禅師は次の詩を詠んでいる。

昨秋本多監院率三十五衆、登白山、礼権現修泰澄大師千二百年法会、老衲随喜此挙、夢中感全山、試五律一詩
     不老閣主

大哉権現境。千古絶人寰。
仰礼全躯頂。俯臨銀雪斑。
碧渓聞水歩。厳壁踏雲攀。
夢裡飛長錫。飄乎上白山。
自注曰、仰山夢中為実、南泉覚時為虚。
老衲昨夜登白山、以虚乎、以為実乎、諸師乞判夢。

 

熊沢泰禅禅師九十五翁(印刷)(東川寺所蔵)
熊沢泰禅禅師九十五翁(印刷)(東川寺所蔵)

 

魚似魚行 (雪庵広録・第三、提唱・垂示より)

 

高祖大師の御作「坐禅箴」の最後を結ぶ一偈に、次のごときお言葉がある。
水清うして地に徹す、魚行いて魚に似たり。
空闊うして天に透る、鳥飛んで鳥の如し。
仏法の世界は、大空のごとく、無常、無我、空そのものである。
鳥飛び魚行くも、沒蹤跡である。
脱落身心に宿る万物万象は、空中の鳥のごとく、水中の魚のごとく、応に住する所無うしてその心に生ずである。
お互いまたこの一年、高祖大師のお示しに導かれて、仏法の大海に安住し、鳥のごとく、魚のごとく、無心に努力を続けて行きたいものである。
 恭しく新年の御題「魚」を賦す
滄海洋洋波浪平 一眸千里接天明
新年須究禅箴句 魚似魚行水自清

(滄海洋洋として波浪平かに、一眸千里天に接して明かなり)
(新年須らく究むべし禅箴の句、魚、魚似て行くや、水自ら清し)

 


◇不老閣猊下ご遷化

お元気で新年を迎えられた九十六翁猊下には、年頭の行事も無事すまされ、一月六日には午前九時過ぎまでご就床であったが、依頼の揮毫と拝問客のため十時にはご起床になり、元侍局石原良耕師の拝問を受けられ、北海道の「大徹山」「曹光寺」の全紙額をご揮毫になった。その後薬石のお粥を召し上り午後九時ご就床になったが、胸が苦しいと仰せになるので松原侍者師、及び山中孝淳尼が安川病院長の往診を願おうとすると、夜分迷惑をかけるからその必要はないと固辞された。午前零時、孝淳尼をお呼びになり小水を捨てさせになったあと、痰を大中小と三回自分でお取りになり、「今何時か」とお問いになったので、「十二時過ぎです」とお答えすると「白山水でも呑むか」と仰せられ、自ら小瓶を執ってお呑みになると、しばらくは胸をさすっておられたが。零時十分に到って突如「カーッ!」と大喝一声、びっくりする孝淳尼が「禅師さま!」と絶叫する。お手にぐうっと力が入ったかと思うと、コトリと首を横にされ、それっ切り忽焉として化を他界に遷されてしまった。

(「傘松」308号50頁より)

 

昭和43年(1968)1月7日、遷化。世壽九十六歳。

 

遺偈 「如愚如魯 九十六年 若形現影 影幾百千 喝 玲瓏巌畔 水澄月圓」


1月13日、密葬。(秉炬師 高階瓏仙曹洞宗管長)

 

4月20日、本葬(荼毘式)

 

秉炬師 岩本勝俊(大本山總持寺貫首)
奠茶師 山田霊林(永平寺副貫首)
奠湯師 金剛秀一(總持寺副貫首)
掛真師 川口賢龍(新潟県大栄寺)
起龕師 五十嵐顕道(山形県善宝寺)
移龕師 上田大賢(函館市高龍寺)
鎖龕師 福原英巖(広島市国泰寺)
入龕師 中野東英(東京都仙翁寺)
大夜  植本勝道(京都府興聖寺) 

 



曹光寺山号額、寺号額・熊沢禅師絶筆 (東川寺撮影)
曹光寺山号額、寺号額・熊沢禅師絶筆 (東川寺撮影)

 

上の書は熊沢泰禅禅師の絶筆となった北海道曹光寺の山号額と寺号額です。

 


昭和43年(1968)4月18日、午後2時半

熊沢泰禅禅師の「別れても吾がゆくさきはほかになし、祖師のみ山の雪のふるさと」というお歌が本山直歳松倉源雄師の発案により、自然石に彫刻されて承陽殿の庭に建てられ、除幕式が行なわれた。

 

昭和43年(1968)4月18日、午後3時

熊沢泰禅禅師がお書きになった、高祖大師の「峰の色渓のひびきもみなながら、わが釋迦牟尼の声と姿と」というお歌の石碑が出来上がり、総門参道土堤上に建てられ、承陽殿庭の禅師の歌碑除幕式に続いて除幕式が行われた。高さ一丈、巾四尺、仙台石、寄付者宮城県梅花講、世話人宮城県永厳寺住職本多泰禅師。

 


 

門に入る魚は竜となる (熊沢泰禅)不老閣主

 

福井駅より四里、車に乗って志比谷に入り、門前駅を降りて祖山に上るに、まづ半杓橋を渡らなければならない。
昭和四年十月竣工のとき、当時監院であった老衲命名するところの一橋である。
正法眼藏洗浄の巻の中に「身心これ不染汚なれども、浄身の法あり。浄心の法あり。ただ身心をきよむるのみにあらず、国土樹下をきよむるなり。国土いまだかつて塵穢あらざれどもきよむるは、諸仏之所護念なり。仏果にいたりてなお退せず廃せざるなり、その宗旨、はかりつくすべきことがたし。作法これ宗旨なり、得道これ作法なり」とあるが、半杓橋の命名に当たって、老衲は幾度となくこのお示しを味わった。
高祖大師は御生前、谷川の水を使われるにも、一杓の半分をお使いになり、残り半分の水は、いつも谷川へお戻しになったと伝えられるが、高祖大師におかれては、そのようにされることが、諸仏の所護念であり、作法これ宗旨であり、得道これ作法であったと推察されるのである。
同時に、高祖大師は、日常生活の上に、たとえば、一杓の水を使用する上にも、仏が仏の行いを続けるという自覚に立って親切に使用してゆかねばならないことを、門下及び兒孫のために、身を以てお示し下さったものと云ってよい。
高祖大師はまた、「一粒米の重きこと須弥山の如し」と仰せられ、「常住物を護惜すること自己の眼睛の如くせよ」とも仰せになっている。
実に一粒の米、一個の物、一杯の水といえども、高祖大師の慈訓を想い出し、真恩の高大を忘れることなく、大切に、親切に取り扱ってゆかねばならないのである。
御征忌が近づいて、今年も例年のごとく、大衆力を一にして川掃除を行ってくれたが、それにつけても、高祖大師の半杓の余恩を想起して、ますますお互いは、報恩行持の一念を振い起さなけれなならない。
今回、名古屋市の伊藤万蔵、堀内茂右衛門両氏が寄進して建てられ、久しく無字のまま総門左右に立っていた石の門柱に「杓底一残水」「汲流千億人」と老衲が書いて刻み込んでもらったのも、いまの宗旨作法が、そのまま高祖大師の真面目であり、暖皮肉であり、その高祖大師の真面目を拝し、暖皮肉に触れることが、とりもなおさず、祖山安居の眼目であり、永平寺参拝の根本義であることを、年年上山の兄弟(ひんでい)、日日参拝の人々に知ってもらいたいからに外ならない。
また、その石の門柱で出来ている祖山の総門を、今回より「正門せいもん」と呼ぶことにしたのも、およそいま申した意味を含めてのことである。
すなわち、この大門は、永平寺に入る総門であると同時に、宇宙法界に向かって開かれている正門である。
この大門は、一個半個の真実求道者が来たって古道、すなわち永遠絶対の道を究めるところである。
杓底の残水淙淙と流れるところ、千万億の人来たって、斉しく高祖大師の恩徳を掬するところである。
といった意味で、特に「正門」と呼ぶことにしたのである。
  題正門
 正門当宇宙。古道絶紅塵。
 杓底一残水。汲流千億人。
ところで、従来「龍門」と呼ばれていたこの呼び方を、今回廃止したのであるかというに、そうではない。
その龍門の位置をはっきりせんがために、実は半杓橋より真っ直ぐ上って来て、そこに在る石門柱の門を「正門」と呼ぶことにしたといってもよいのである。
では、その龍門はどこに在るのであるか、それは、半杓橋を渡って、コンクリートの道を真っ直ぐ上らず、永平寺川の流れに沿うて旧道を上って行く、そして柏樹庵の前を通って進むと、やがてそこに、盤根が地面の上に乗り出して、あたかも大龍の蟠るような大杉群の根元に出る。
そこが元々、龍門と呼ばれていた旧総門の位置である。
そこをこれからも龍門と呼んでゆくことにしたい。
今回自然石に「龍門」と書いて刻み、新たに参玄の人々のために榜碑を建てた。
そんなわけで、龍門と正門を一応区別したが、しかし、新旧、「正」「龍」の別はあっても、共にこれ祖山の大門たることに変わりがない。
つまり、半杓橋を渡って新道を上っていくと正門に到り、旧道を上っていくと龍門に着する。
という風に永平寺到着の法には二通りの道があるということを表示したわけである。


 題龍門 二首
山深雲気静。 山深うして運気、静かに。
水浄妙功濃。 水浄うして妙功、濃やかなり。
君識霊源境。 君、識るや霊源の境。
入門魚化龍。 門に入れば魚、龍と化す。

 

此処人如問。 此の処、人もし問はば。
古今蟠大龍。 古今、大龍蟠る。
龍門難思議。 龍門、思議し難く。
正好瑞雲濃。 正に好し瑞雲濃やかなり。

 

なお、龍門の典拠は、正法眼藏随聞記の中の次の一節である。
この機会にその全文を挙げておこう。
「示に曰く、海中に龍門と云う処あり、浪頻りに作(う)つなり、諸の魚、彼の処を過ぐれば必ず龍と成るなり。故に龍門と云うなり。今は云く、彼の処、浪も他処に異ならず。水も同じくしははゆき水なり。然れども定まれる不思議にて、魚この処を渡れば必ず龍と成るなり。魚の鱗も改まらず、身も同じ身ながら、忽に龍と成るなり。衲子の儀式も是れをもて知るべし。処も他処に似たれども、叢林に入れば必ず佛となり祖となるなり。食も人と同じく食し、衣も同じく服し、飢を除き、寒をふせぐ事も同じけれども、ただ頭を円にし、衣を方にして斎粥等にすれば、忽ち衲子となるなり。成佛作祖も遠く求むべからず。ただ叢林に入ると入らざるとなり。龍門を過ぐると過ぎざるとなり。」以上


「此の門を過ぐれば魚は龍となる これ不可思議の徳とこそしれ 泰禅」


  昭和39年11月「傘松」291号 1頁~3頁より

 「雪庵廣録・第三・提唱・垂示」三四五頁~三四九頁より

 

永平寺龍門(東川寺撮影)
永平寺龍門(東川寺撮影)
慎桑亀-永平泰禅九十三翁 (昭徳寺所蔵)
慎桑亀-永平泰禅九十三翁 (昭徳寺所蔵)

慎桑亀

「慎桑亀」
よく熊沢泰禅禅師はこの「慎桑亀・しんそうき・そうきをつつしむ」という言葉を揮毫されているが、その意味は判りづらい。

時たま熊沢禅師の「雪庵廣録」を読んでいると出ていたので、ちょっと長いが、その箇所を下に記す。


山陽の有名な詩に「雲乎、山乎、呉乎、越乎」とある。

その呉の時に、或る樵夫(きこり)が山に登って大きな亀を見つけた。

これを生け捕りにして山の麓の川に用意してあった舟の中に持ち込み、その舟を河岸の大きな桑の木につないで、一夜をそこで明かすことになった。
ところが夜半になると、桑の木と亀が問答を始めた。
桑が亀に向かって云うことには「お前は近日中に、呉の王様に献上されて、やがては焼き殺されるぞ」と。
亀のいわく「なあに、大丈夫だ、わしは此のように堅固な甲羅があるから、たとい南山の樹木を切りつくして薪となし、以て焼き殺さんとするも、決して焼き殺されるようなことはない」。

桑のいわく「それでも、此の桑の木を薪としたならば、さすがのお前も、必ず焼き殺されること請け合いだ」というような話を、頻りに取り交わしているのを、樵夫は夢うつつに聞いていた。
その亀は、果たせる哉、後日、呉王に献上された。
呉王はその大きな亀を焼いて、甲羅に浮かぶ模樣によって吉凶を判断しようとして、薪を山の如くに積み上げ、三日三晩、燃やし続けたが、亀はなかなか焼けなかった。
そこで、呉王は臣下の諸葛恪という者に命じて、これを処置せしめられた。
恪は此の亀は桑の老木を薪として焼けば直ちに死すべしということを探知し、国に就いて桑の老木を見定めさしめた。
たまたま、かって亀と話をした河岸の桑の木が、その選に当たり、桑は伐り倒されて薪となった。
この桑の薪を以て亀を焼いたところ、果たせるかな、さすがの大亀も、たちどころに焼き殺されて、その甲羅に吉凶を占う模樣が鮮やかに浮かび出たという。
これは「述異記」という書物の中に出ている故事であるが、口ゆえに桑の木も伐られて、木としての天寿を完うすることを得ず、亀もまた焼き殺されたという所から「桑亀を慎め」というのは、口を慎めということである。


~「雪庵廣録」第三 二八四、二八五頁~

 

慎桑亀
「亀と桑のひそひそばなし やがてすぐ わが身失ふ ことの葉となる 雪庵」

 


 承大師愛山吟詠 永平泰禪敬書 (東川寺所蔵)
 承大師愛山吟詠 永平泰禪敬書 (東川寺所蔵)

 (永平広録)
 山中人可愛山人。
 去去来来山是身。
 山是身兮身未我。
 更尋何處一根塵。

  承大師(承陽大師)愛山吟詠 永平泰禪敬書

 


 

熊沢泰禅禅師について

  

吉祥山永平寺におけるご住山期間は二十三年間であった。
その間の消息を一言に掩うならば、年々歳々、春秋二季には、全国に巡錫して各地の人々を教化され、夏冬二季には、雨や雪の祖山に帰坐して一山大衆とともに高祖大師のいわゆる「住山の頑石」となっておられた。
昭和二十七年には「衆寮」、「接賓」、「浴室」、「東司」、「不老閣」などを改築し、高祖大師七百回忌大遠忌を親修された。
昭和三十四年の三世徹通禅師六百五十回遠忌厳修の後、旧承陽殿跡に「一華蔵」を一寄進された。
昭和三十八年の四世義演禅師六百五十回遠忌後には、篤信者を得て「大梵鐘」改鋳と「鐘楼堂」の改築をされ、続いて「龍門頭」の改装、「偃月橋」その他の橋も改修された。
昭和四十二年には旧菩提苑跡に宝物展示館の「聖宝閣」を新築し、さらに元小庫院を解体して、新たに檀信徒研修道場としての「南香積台」(後に吉祥閣と改称)の建築を指示されながらご遷化の年を迎えられたのであります。
 ~「雪菴廣録」第一より抜粋 ~

 


  衆寮・七十三世泰禅叟 (永平寺衆寮)(東川寺撮影)
  衆寮・七十三世泰禅叟 (永平寺衆寮)(東川寺撮影)
非思量-永平泰禪叟 (東川寺より昭徳寺へ贈呈)
非思量-永平泰禪叟 (東川寺より昭徳寺へ贈呈)
子細看-永平泰禪叟 (東川寺所蔵)
子細看-永平泰禪叟 (東川寺所蔵)


昭和43年(1968)11月20日

昭和37年(1962)2月に熊沢泰禅禅師が「正法眼藏讃偈」を上梓されたが、この讃偈に簡訳を付された「泰禅禅師・正法眼藏讃偈簡訳」を木田仁学師が著し鴻盟社より出版された。


泰禅禅師・正法眼藏讃偈簡訳 (東川寺蔵書)
泰禅禅師・正法眼藏讃偈簡訳 (東川寺蔵書)

 

昭和55年(1980)秋
熊澤泰禅禅師十三回忌を記念して、句碑が花鳥俳句會により永平寺鎮守堂の横に建てられました。
この句碑は熊澤泰禅(雪庵)禅師と高浜虚子、伊藤柏翠の三人のものです。
句碑には

熊澤泰禅禅師の「殊にこの御法(みのり)の梅の早きかな 永平雪庵」

高浜虚子の「道元禅師 今も尚承陽殿に紅葉(もみじ)見る 虚子」

伊藤柏翠の「雪深く佛(ほとけ)も耐えて在しけり 柏翠」

の三句が刻まれています。

 

この句の元は永平寺高祖大師七百回忌奉賛として、伊藤柏翠が編者となり、句集永平寺刊行会が昭和27年4月16日発行した「句集 永平寺」の中に有る三句より写し、彫られたものです。

 

熊沢泰禅(雪庵)禅師、高浜虚子、伊藤柏翠の句碑 (東川寺撮影)
熊沢泰禅(雪庵)禅師、高浜虚子、伊藤柏翠の句碑 (東川寺撮影)


参考資料

「雪菴廣録」 天藤全孝編 永建寺・発行

「参同契宝鏡三昧提唱」 熊沢泰禅著 不老閣・発行

「正法眼藏讃偈」 熊澤泰禪著 不老閣・発行

「傘松」 道元禅師七百回大遠忌記念号