道元禅師

曹洞宗大本山永平寺御開山

道元禅師

 曹洞宗大本山永平寺御開山・道元禅師

 高祖・道元禅師

 佛性傳東国師

 承陽大師

 

        基本の年表は大久保道舟・編集「曹洞宗大年表」より抜粋 

 

高祖・道元禅師(この道元禅師像は永平寺所蔵の道元禅師掛け軸をより鮮明に編集子が手を加えた画像)
高祖・道元禅師(この道元禅師像は永平寺所蔵の道元禅師掛け軸をより鮮明に編集子が手を加えた画像)

 

正治2年(1200)正月2日(陰暦)1月26日(陽暦不確実な推測
道元禅師、京都に生まれる。

 

道元禅師の生年月日の生年は遷化の年と遺偈で逆算すればこの年に当たるが、月日については古い建撕記には記載が無く、旧暦正月2日は面山等の勝手な推測であると云わざるをえない。


建仁2年(1202)10月21日 3歳
道元禅師 祖父?、久我通親(こがみちちか)薨去(享年54歳)。

 (久我通親とは源通親であり土御門通親とも呼ばれる。)

 

従来は久我通親を父親と見なされていたが、現今は父親を源亜相(源通具)となすのが定説となりつつあります。 (育父と雖も父親である例は沢山ある。)

 (源通具とは源通親の次男で堀川通具のこと。)

 詳しくは「道元禅師と村上源氏」岡野友彦(駒澤大学講演記録)参照のこと。

 

しかし、道元禅師の父母が誰であれ、道元禅師の尊厳が左右されることは一切無い。

 

道元禅師 育父(父?)、源亜相(堀川大納言・源通具みなもとのみちとも)、あるいは母方(猶父)松殿・藤原基房のもとで育てられる。


建仁3年(1203)是冬 4歳
道元禅師「李嶠百詠」を読む。


建永元年(1206)是歳 7歳
 道元禅師「春秋左氏傳・毛詩」を読む。

 

正法眼藏隨聞記第二(八)に「(外典等)我れ本と幼少の時より好のみ學せしことなれば、今もやヽもすれば外典等の美言案ぜられ、文選等も見らるヽを、詮なき事と存ず・・・」とあり、又、正法眼藏隨聞記第二(十一)に「我れ幼少の時、外典等を好み學しき。」とある。


承元元年(1207)是冬 8歳
 道元禅師 母を喪う。(母は松殿「藤原基房」の女・外諸説有り)

  


 

永平高祖行状建撕記」には下記のように書いてある。

 

正治二年庚申、土御門の御宇
道元大和尚、此の年御誕生、洛陽の人なり。
源氏村上天皇九代の苗裔なり。后中書王八世の遺胤なり。
其の母懐妊の時、空中に聲有り、告げて云く、此の児五百年以来、齋肩無し大聖人なるべし。今倭国に正法を興隆せんが為に生れ給うと云々、此の児常の童児に異なるなり、必ず聖人ならん、七處平満にして骨相奇秀なり、眼に重瞳まします、是れ凡流にあらずと云う。又、古老の名儒見て賛(ほめて)云く、凡人の類に非ず大器と作る可し、須く是れ神童と称すべしと云々。
建長(元年、二年、)三年癸亥、御四歳にして李喬百詠を讀給う。(元久元年、二年)建永元年、七歳にして左傳、毛詩を讀み給う。

承久元年、八歳にして御母逝去。此の時、悲母の葬に逢うて香火の烟を観じて、竊(ひそか)に世間の無常を悟り給いて、深く求法の大願を立て給う。

 

后中書王・後中書王(のちのちゅうしょおう)とは村上天皇の第七皇子の具平親王(ともひらしんのう)のことであり、下記参照。

参考 Wikipedia・具平親王

参考 Wikipedia・村上源氏 



 

永平高祖行状建撕記(天正本・瑞長本、建撕記)」に依る訂正


道元禅師の伝記は従来「面山本・訂補建撕記」に依るところが多い。
しかし昨今は面山本より古い「天正本・瑞長本」の正確な記述を参照するようになった。
昭和37年1月15日発行の小川霊道編集の「永平高祖行状建撕記」の「序」(永久岳水・著)には概略、次のように書かれている。
『建撕和尚の永平高祖の行状記は一般に建撕記と言われている。これは最初に面山和尚が出版した建撕和尚の永平高祖行状記が「永平開山行状建撕記」或は「永祖行状建撕記訂補」と標題されたいたからで、宗典の名称としては適当であると言えない。建撕は正しく永平高祖行状記の著者である。面山和尚出版の永平開山行状建撕記は面山和尚が修訂したところがあるに加えて削減した部分が多く、建撕和尚が書き残されたものの全体ではない。這回発見されたもの(天文本)は建撕和尚が著述された当時の本来の容姿を伝えているもので、其の内容も面山本に較べて非常に多く、謄写上の過誤も無く、文体も整えられている。この完全な永平高祖行状記が現れたので、永平高祖の御伝記の中でも書き直さねばならぬことが起り、傘松道詠や永平寺上代史の研究には新資料を豊かに供給することとなろう。

 

尚、この書の中では「天文本・建撕記」としているが、この本は色々な呼び方がされていて、天正本・瑞長本等一定していない。


上記のことにより、この「永平寺御開山・道元禅師」も、「天正本・瑞長本・建撕記」に依ることとし、以後、逐次書き換えてゆきます。尚、ここでの「天正本・瑞長本・建撕記」は小川霊道編集の永平高祖行状建撕記に依った。

 

尚、河村孝道著「諸本對校・永平開山道元禪師行状建撕記」にある「大乗寺所蔵・明州本」等も参考させていただきます。

 

 訂補建撕記図会 乾(面山本)

 訂補建撕記図会 坤(面山本)

 



 

承元2年(1208)是春 9歳
道元禅師 世親の「倶舎論」を読む。

 

同(承久)、二年九歳にして世親の倶舎論を讀給う。 

利根なる事、文珠の如し、學門の時、睡眠来たれば針を以て膝をさし給う。昼夜意を厲す(みがく)事、尋常ならず。其の時代、松殿禪定尊閤とて摂関家の識者なり。此の松殿、天下に雙びなき學匠なり。古今明鏡王臣の師範なりと申し伝う。此の人、師を取りて猶子とす。国の要切を教え家の大事を授け、以て朝家の要臣とせんと思うて、元服せしめんと欲する日、師自ら思えり。是れ我が望む処に非ず、出家學道すべしとて、(同三年四年)建暦(元年)二年、十三歳の春、夜中に忍び出て、木幡の山荘に至り、其れより尋ねて叡山の麓に至り、良顕法眼の室に入り給う。

(面山本、良顕を良観の誤りとす。元禄本も良顕とす。)

永平高祖行状建撕記より


建暦2年(1212)是春 13歳
道元禅師 比叡山の麓に良顕良観の庵室を訪う、ついで横川般若谷千光坊に入る。

 

此の法眼と申すは師の外舅なり。師、法眼に向かって出家を求め給う。法眼大いに驚きて問うて云く、元服の期近し、親父猶父、定めて其の瞋りあらん、如何。師、云く、我が悲母逝去し給う時、遺囑して云く、汝相い構えて出家して我が後世を弔うべしと云うなり。祖母姨母等の養育の恩、最も重し、出家し彼の菩提を弔わんと思う。法眼感涙を催し、即ち聴きて室に入れ給う。
即、横川の首楞厳院、般若谷の千光坊へのぼせ給う。

永平高祖行状建撕記より

 

ここに『親父猶父、定めて其の瞋りあらん』と書かれていること等から、この時、父親は健在であったとし、父を『堀川大納言、源亜相通具』となすのが現在は定説となりつつあります。

尚、猶父は藤原基房。

 

建保元年(1213)4月9日 14歳
道元禅師 天台座主公圓に就いて剃髮し、翌10日、戒壇院に於いて菩薩戒を受く。

 

建保元年癸酉、十四歳の四月、初めて座主公円僧正に任せて剃髪しまします。

同十日、延暦寺戒壇院に於いて、公円僧正を以て和尚とし菩薩戒を受け比丘と作る。

爾れより天台の宗風、南天の秘教、並びに大乗小乗の義理を悉く習い給う。

夫れ諸の出家、皆な四月八日に落髪するを以て望す、此の和尚は四月九日に落髪ある事は、名童にまします間だ、一山評義を以て押さえ申すに依て、九日の不暁に密かに御落髪あり。此の公円僧正は横川の麓奥義の里と妙法院殿の御事なり。一代の門首なり。中か比顯密無雙の碩学、浄行持律の高僧と申すなり。

永平高祖行状建撕記より

 

参考 鎌倉時代童子人形・絵葉書 東川寺所蔵
参考 鎌倉時代童子人形・絵葉書 東川寺所蔵

 

横川解脱谷に明治二十五年十一月、三玄(みくろ、後、小川と改姓)見龍は「承陽大師之塔」を建て、明治四十二年九月、永平寺六十四世森田悟由禅師の揮毫なる「承陽大師得度霊蹟」が建てられた。(現在は周辺も広く整備されています。) 

 承陽大師得度霊蹟 (比叡山)・絵葉書 (東川寺所蔵)
 承陽大師得度霊蹟 (比叡山)・絵葉書 (東川寺所蔵)

 

建保2年(1214)是春 15歳

道元禅師 建仁寺の栄西に参ず。

 

建保二年、行状記云く、千光禅師の室に入りて初めて臨済の宗風を聞く。千光は建仁寺開山栄西の御事なり。又、明菴和尚とも申す。

(面山本、本来本法性の話を建保二年の事とす。元禄本・天正本とも建保五年の出来事とす。)
〈建保〉三年、今年七月五日、建仁寺開山栄西和尚七十五歳にして涅槃なり。然れば建仁開山の會下に在す事四ヶ年なり。至今に永平寺に建仁開山並びに二代和尚の御影之れ在り。二代の御影には道元和尚賛を有りて自筆にあそばし置きたり。其の賛に云く、平生行道徹通親、寂滅以来面目新、且道如何今日事、金剛焔後真身を露す、小師道元拝賛とあり。
建仁寺二代の御名は明全、又は佛樹とも申し、又は行勇禅師とも申すなり。(行勇禅師は別人であり、明全の別名ではない。)永平集の中の法語に佛樹先師忌陞座あり、是れ以て恩に紛れざるなり。佛樹は道元の師匠にて在す。同建仁寺開山の御為にさせ給いたる法語もあり。其の事を書きて云く、千光禅師前権僧正法印用詳大和尚之忌辰とあり。其の末に云く、師翁千光和尚即今在何處と云う語あり。爰にても紛れず、祖父師の御房と仰せ被りたり。 

永平高祖行状建撕記より

 

建保3年(1215年) 7月5日 栄西禅師、京都建仁寺で入滅、享年75歳。


 建保5年(1217)秋 18歳
 道元禅師 京都建仁寺に掛錫し、明全に参ず。

 

建保四年、五年八月二十五日より建仁寺二代和尚の室に入給うと云々。
此れ已前は山(比叡山)と建仁寺との間を往来あり鳧(けり)か。
十八歳の此れより渡唐の望み在りて便ち船を待ち給う。
住山六年の間に一切経を看給う事、二遍なり。
(面山本、大蔵経看讀の記事を貞應元年に移す。)
宗家の大事、法門の大綱、本来本法性、天然自性身、此の理を顯密の両宗にても不落居、大いに疑滞ありて三井寺の公胤僧正の所へ参し、問い給う様は、如來自法身法性ならば諸佛甚麼の為に更に発心して三菩提の道を修行し玉う。

(面山本、本来本法性の話を建保二年に移す。)
公胤僧正教示して云く、此の問う所我れ輙(すなわ)ち答えからず、吾が宗家の訓訣ありといえども未だ其の美を尽さずなり。我れ伝え聞く大宋国に仏心印を伝える正宗あり、直に入宋して尋ぬべしと。
師、公胤の教示を聞きて其の秋十八にして本山を出て建仁寺に掛錫し、明全和尚に随順して猶を顯密の奥源を窮め、律蔵の威儀を習い、臨済の宗風を聞き給い、即黄龍の十世に列しまします者なり。
(面山本、公胤僧正の指示入宋云々を変じて建仁寺栄西への指示とす。)

(永平高祖行状建撕記より)

 

承久3年(1221)9月13日 22歳

 道元禅師 明全に師資の許可を受く。

 

建保六年、建仁寺に在り。
承久(元年、同二年、同)三年九月十三日に建仁の二代より師資の相傳あり。
永平二代弉和尚の挙揚ありたると介和尚の宣べ給うなり。

(永平高祖行状建撕記より)


貞應2年(1223)2月22日 24歳
 道元禅師 明全、廓然、亮照等と共に京都を発し、入宋の途に就く。

 

正法眼藏隨聞記第三(七)に「我身も田園等を持たる時もありき、亦財寶を領ぜし時もありき。」とあるが、渡宋費用等にこの田園等財寶を充てたかは不明。

 

貞應元年、建仁寺に在り。
今年の(天文本「今年の」は貞應二年の誤りならん)二月二十二日渡宋、御歳二十四歳、建仁二代和尚同船あり。

(永平高祖行状建撕記より)

 

吾れ昔、入宋の時、船中にて痢病をやみし時、俄に悪風吹来、船中の動揺尋常ならず。人々皆な瞻を消し、今を限りと云うて、手と手を取り合うてありしに、愚僧一心に観音経を読む、入於大海、假使黒風、吹其舩舫、飄堕羅刹、鬼國其中、若有乃至一人稱觀世音菩薩名者、是諸人等、皆得解脱、羅刹之難、以是因縁、名観世音と頻りに念じ奉りし時、風雨漸く穏やかに成りし。其の時、瞻をけしてより我が痢病平腹す。是れを以て思うに、學道勤學して他事を忘却せば、自ら病も起こる間敷かと、覺ると云々。今推量するに、一葉の観音は此の時出現し給うか、但し本記録なし。

(面山本、此の船中の記を入宋時とせず、帰朝時に変更途中の記事として掲ぐ。また内容にも多少の変更をなす。) 

(永平高祖行状建撕記より)

 

正法眼藏隨聞記第五(十六)に「我もそのかみ入宋の時、船中にて痢病せしに、惡風出來て船中さはぎける時、やまふ忘れて止りぬ。」とある。

 

 一葉観音像・永平寺(東川寺撮影)
 一葉観音像・永平寺(東川寺撮影)

 

同年4月
 道元禅師 明州慶元府(浙江省寧波)に著す。

 

同年五月已前に著唐付岸ありと云う事、永平開山の記録なされたる典座教訓と申す記録の中に見えたり。
(永平高祖行状建撕記より)

 

「嘉定十六年(1223)癸未四月のなかに、はじめて大宋に諸山諸寺をみるに、僧侶の楊枝をしれるなく、云云」(正法眼蔵・洗面巻より)

 

尚、明全は上陸し、景福律院に登り、5月13日には太白山天童景徳寺に掛錫したが、道元禅師は掛錫を許されず、約三ヶ月間に亘って船裏の生活を余儀なくされた。
その間に明州慶元府の諸山諸寺を歴訪し、宋禅林の規矩、風習等を巡視した。

 

平成10年(1998)11月22日、中国寧波市江厦公園に「道元禅師入宋記念碑」が建立され、永平寺七十八世宮崎奕保禅師が開眼除幕式をされた。


 同年5月
道元禅師 明州慶元府の船裏に於いて阿育王山の典座に相見す。

嘉定十六年(1223)癸未五月の中、慶元の舶裏に在り。倭使頭と説話の次で一老僧來る有り。 

 

 倭椹(椎茸)を買いに来た阿育王山の老典座と「文字」「弁道」の問話あり。「外国の好人,未だ辨道を了得せず。未だ文字を知得せざること在り」「若も問處を蹉過せずんば,豈に其の人に非ざらんや」。(典座教訓(参考1)


貞應2年(1223)7月
道元禅師 明州天童山景徳寺に掛錫す。時の住持・無際了派に見ゆ。

 

先ず最初、明州太白天童景徳禪寺に上り掛搭を望む。

其の時の住持は無際和尚なり。

戒臘次第には立てず、新戒の位に列すべきとて、即時に成りたる僧の如く、大衆の末に列すべしと云ふ。

道元聞き給ひて云く、七佛已来未聞未見の御法なり、いはれなしとて不審を立て給ふ。

其の表書に云く・・・・・戒臘に立つ事は道元和尚より始めて定まるなり。

(永平高祖行状建撕記より)

(尚、戒臘順に是正すべくの表書等は省略する。)

 

◎ 船裏で問話した老典座と再会し、文字は「一二三四五」、弁道は「徧界不曾藏」を知る。(典座教訓)(参考1)


◎ 天童山景徳寺で、天日熱下、佛殿前で苔(海苔?)を晒す、用典座に「他不是吾」「更待何時」を教えられる。(典座教訓)(参考2)

 

 高祖道元禅師750回大遠忌記念品・他はこれ吾にあらず・・・(東川寺所蔵)
 高祖道元禅師750回大遠忌記念品・他はこれ吾にあらず・・・(東川寺所蔵)
 天童禅寺 (天童山景徳寺)(東川寺蔵本)
 天童禅寺 (天童山景徳寺)(東川寺蔵本)

この「天童禅寺」は日本では入宋した道元禅師により「天童山景徳寺」と呼ぶほうが多いが、 中国宋の時代は「太白山天童景徳禅寺」となり、明の時代より「天童寺」(天童禅寺)と称すようになった。

 

参考 天童寺

 

道元禅師・搭袈裟の偈(東川寺作)
道元禅師・搭袈裟の偈(東川寺作)

貞應2年(1223)秋

道元禅師 明州阿育王山廣利寺に詣す。

同年 秋

道元禅師 隆禪により龍門佛眼派の嗣書を看る。

「嘉定十六年癸未あきのころ、道元はじめて天童山に寓止するに、隆禪上座(日本國の人)ねんごろに傳藏主に請して嗣書を道元にみせし。云云。」(傳藏主は龍門佛眼禪師清遠和尚の遠孫)(正法眼蔵・嗣書巻より)


同年 是歳
道元禅師 惟一西堂により法眼派の嗣書を、宗月長老により雲門派の嗣書を看る。

「道元在宋のとき、嗣書を禮拝することをえしに、多般の嗣書ありき。惟一西堂とて天童に掛錫せしは越上の人事なり。(中略)ときに西堂いはく、『吾那裏に壱軸の古蹟あり。甚麼次第なり、与老兄看』といひて、携来をみれば嗣書なり。(中略)雲門下の嗣書とて、宗月長老の天童の首座職に充せしとき、道元にみせし(後述略)」(正法眼蔵・嗣書巻より)

 

元仁元年在宋、大宋は嘉定十七年に當る。

(永平高祖行状建撕記より)


元仁元年(1224)正月21日 25歳
道元禅師 智庚に依り了然寮に無際了派の嗣書を看る。

「・・・・・これは阿育王山佛照禅師德光、かきて派無際にあたふるを、天童の住持なりしとき、小師僧知庾、ひそかにもちきたりて、了然寮にて道元にみせし。ときに大宋嘉定十七年甲申正月二十一日、はじめてこれをみる、喜感いくそばくぞ、すなはち佛祖の冥感なり、燒香禮拜して披看す。」(正法眼蔵・嗣書巻より)


同年10月
道元禅師 明州慶元府に於いて、高麗僧智玄、景雲等に見ゆ。

「大宋嘉定十七年癸未冬十月中に高麗僧二人ありて、慶元府にきたれり。一人は智玄となづけ、一人は景雲といふ。云云。」(正法眼蔵・袈裟功徳巻より)


元仁2年・嘉禄元年(1225)是歳

 如浄禅師、勅により明州天童山景徳寺に住す。

 

同年 是歳
道元禅師 杭州徑翁如琰、並びに台州小翠岩の盤山思卓等の門を訪う。


同年 是歳
道元禅師 平田の萬年寺に元鼎に見え、嗣書を看る。

「のちに寶慶のころ道元、台山鴈山等に雲遊するついでに、平田の萬年寺にいたる。ときの住持は福州の元鼎和尚なり。(中略)長老すなはちみづからたちて、嗣書をさヾげていはく、(中略)道元、信感おくところなし、嗣書を請ずべしといへども、たヾ燒香禮拜して、恭敬供養するのみなり。(後述略)」(正法眼蔵・嗣書巻より)

 

同年 是歳
道元禅師 台山より天童山に帰る路程に大梅山護聖寺の旦過に宿し、法常の梅花を授くる霊夢を感ず。

「道元、台山より天童にかへる路程に、大梅山護聖寺の旦過に宿するに大梅祖師きたり、開花せる一枝の梅花をさづくる霊夢を感ず。祖鑑もとも仰憑するものなり。その一枝花の縦横は壱尺餘なり。梅花あに優曇花にあらざらんや。夢中と覺中と、おなじく眞實なるべし。道元在宋のあひだ、帰国よりのち、いまだ人にかたらず。」

(正法眼蔵・嗣書巻より)

 

遍參學道問訪問答之次第、太白山天童景徳寺住持派無際なり。此の住の時、道元掛錫す。

其の次に徑山明月堂に於いて琰老和尚に見ゆ、琰問うて云く、幾時に此の間に到る。元答えて云く、四月の間。琰云く、群に随って恁麼来る。元云く、群に随わず恁麼来る時作麼生。琰云くなり是れ群に随って恁麼来る。元云く、既に是れ群に随って恁麼来る、作麼生か是れ。琰掌一掌して云く、這多口噁子。元云く、多口噁子即ち無さず作麼生なるか是れ。琰云く、且く座して喫茶す。

此れ琰和尚に相見の為に徑山に登り給う時、路で虎に逢うて拄杖を以てはねのけ給うなり。

台州小翠岩にて卓老和尚に参見す。道元の問い、如何なるか此れ佛。老答えて云く、殿裏底。元云く、既に是れ殿裏底、甚の為め遍恒沙界。

其の次に惟一西堂、宗月長老、亦傳藏主、及び萬年寺の元鼎和尚等に相見して道を問い法を求め給うに、何も未だ心に契さず。殊に派無際和尚よりは嗣書を拝見し玉へども未だ大事を決せず、請取し給す。

(天文本・元禄本、嗣書拝見は派無際よりの場合のみ記す。面山本は其の他四回の嗣書拝見を記す。又面山本、袈裟頂戴被肩並びに衣鉢の事を補記す。)
此の七人の長老達の眼睛、吾よりも劣れりと思い給うて、去りては日本大唐の間に、吾れに益れる大善知識は無けりと、大憍慢を起こし、帰朝せんと思い給ひ、徧參の後、天童に帰り給う處に、派無際和尚入滅す。彌(いよいよ)帰朝を志し給う。

 

其の時、老璡と云う者あり、道元に進めて云く、大宋国理に知識多くましませども、如浄和尚只だ獨り(而已)明眼の知識なり、佛法を學んと思はば、此の如浄和尚の會理に参ぜば必ず所得有りと云う。然れども参他は遑わず、帰国の心のみ坐す處に、如浄和尚、天童住持の請状、寧宗より賜うて、越國より入院の為に来座す、希代の不思議の機縁なり。

(永平高祖行状建撕記より)

 

嘉禄元年(1225)5月1日 26歳
道元禅師 諸国を遍歴していたが如浄禅師が天童山に住持されたのを聞き、天童山に再び上り、如浄禅師に面授し堂奥を聴許せらる。

 (如浄禅師は天童如浄禅師行録参照のこと)

 

「大宋宝慶元年(1225)乙酉五月一日、道元はじめて先師天童古仏を妙高台に燒香礼拝す。先師古仏はじめて道元をみる。そのとき道元に指授面授するにいわく、佛佛祖祖、面授の法門現成せり。」正法眼蔵・面授巻)より

 

「道元大宋宝慶元年乙酉五月一日、はじめて先師天童古佛を禮拜面授す、やや堂奥を聽許せらる、わづかに身心を脱落するに面授を保任することありて、日本國に本來せり」(正法眼蔵・面授巻より)

 

「道元大宋國寶慶元年乙酉夏安居時、先師天童古佛大和尚に參侍して、この佛祖を禮拜頂戴することを究盡せり、唯佛與佛なり。」(正法眼蔵・佛祖巻より)


(5月27日 明全、明州天童山景徳寺了然寮に寂す。)


同年 是夏
道元禅師 阿育王山廣利寺に詣し、西蜀の成桂知客と語る。


同年7月2日
道元禅師 如浄禅師の室に入って拜問する。

 

宝慶元年(1225)七月初二日

方丈に参ず。道元拝問す。諸方今、教外別傳と称し、祖師西来の大意を看ると為すは、其の意如何。

和尚示して云く、佛祖の大道、何ぞ内外に拘ん。然に教外別傳と称するは、唯摩謄等の所傳の外に、祖師西来、親しく震旦に到つて、道を傳へ業を授く、故に教外別傳と云うなり。世界に二つの佛法有るべからず。祖師未だ東土に来たらざる先き、東土に行李有りて、而して未だ主有らず、祖師既に唐土に到る。譬えば民の王を得るが如し。爾の時に當つて國土國寶國民、皆な王に属するなり。・・・・・
 「宝慶記」より


同年9月18日(26歳)

道元禅師 如浄禅師より傳授相承を畢る

 

大宋寶慶元年丁亥九月十八日、傳授相承畢る、御歳二十六なり。

(永平高祖行状建撕記より)
 

◎   是より先、如浄禅師より証契され「身心脱落」の大事了畢す。

 

『身心脱落』

天童(如浄)、五更に坐禅す。入堂し巡堂す。衲子の坐睡するを責めて云く。参禅は必ず身心脱落なり。祗管に打睡して恁麼を作す。師、聞きて豁然として大悟す。早晨に方丈に上り。焼香礼拝す。天童問うて云く。焼香の事、作麼生。師、云く身心脱落し来たる。天童云く。身心脱落。脱落身心。師云く。這箇は是れ暫時の伎倆。和尚乱りに某甲を印すること莫れ。童云く。吾、乱りに儞を印せず。師云く。如何なるか是れ、乱りに印せざる底。童云く。脱落脱落。

この時、福州廣平侍者。侍立して云く。細にあらざる事なり。外国の人、恁麼地の大事を得たり。師、珍重して去る。

 「越州吉祥山永平開闢道元和尚大禅師行状記」より 

 

嘉禄2年(1226)3月 27歳
道元禅師 如浄禅師に妙高臺に於いて大梅法常佳山の因縁、霊山釋迦牟尼佛安居の因縁等の法話を聴く。

 

大宋宝慶二年春三月のころ、夜半やや四更になりなんとするに、上方に鼓声三下きこゆ。坐具をとり搭袈裟して雲堂の前門よりいづれば入室牌かかれり。・・・
大光明蔵の西階をのぼる、大光明蔵は方丈なり。・・・
ときに普説あり、ひそかに衆のうしろにいりたちて聴取す。
大梅の法常禅師佳山の因縁挙せらる。衣荷食松のところに衆家おほくなみだをながす。
霊山釋迦牟尼佛の安居の因縁、くはしく挙せらる。
きくものなみだをながすおほし。・・・

「正法眼藏・諸法實相」より

 

嘉禄3年(1227)是秋 28歳

道元禅師 如浄禅師より師資證契の嗣書を相承される。
 尚、如浄禅師より芙蓉道楷の法衣、宝鏡三昧、五位顕訣並びに自讃頂相等を受ける。

 

(大宋寶慶元年丁亥九月十八日、傳授相承畢る、御歳二十六なり。)
同三年の秋、帰朝せんと思ひて、如浄和尚の法席を拝辞して問い給う次第は、和尚甚の為に斑衣を著し給わず、黒衣にして平僧の如くなるなり。浄老答えて云く、今諸方に無鼻孔の長老多く、名利を捨てずして皆通順して是れを著す。吾れ彼等に異ならんが為に著けず。汝、帰国して人天を化導せば斑衣を著すべし。是れ又妨げなからん。吾れ異形なる而已也と云々。
来日帰朝を定め給う。
其の夜、碧岩(巌)集一部百則の公案を書写し給う。至今一夜碧岩(巖)と是れを云うなり。大權修利菩薩助筆し給い灯明挑け給う、故に今土地神と安置し給うなり。此の助筆の事傳説これ多く、本記録に不分明、後來に至り能々之れを尋ぬるべき。

(面山本、斑衣の事を削り、楷祖の法衣其の他の傳授と淨祖最後の示誨を記す。)

(面山本は大權修利菩薩を白山権現に変す。)
如浄和尚示して云く、浮山圓鑒法遠禪師は本と大陽下の學人なり、(後述略)

(永平高祖行状建撕記より)

 

如浄和尚、道元に示して云く、帰国後、国王大臣に近付することなかれ。聚落城隍に居ぜず、須く深山窮谷に住むべし。雲集の閑人を要せず、虚多く實少しが如くせず、真箇の道人を撰取して、以て伴う為り、若し一箇半個の接得有れば、佛祖の惠命を嗣續して、古佛の家風を扶起する者なり。此の五箇條の示誨により、吾が先祖ついに王城の富貴をへつらわせ給わず。京城を離れ越山に栖せ給う。同く衆僧をも多く聚めず、其の會理の衆二十人を満たさず、飢寒を堪忍し、眞實の道心有る人を伴と為して、佛法修行しまします者なり。

(永平高祖行状建撕記より) 

 

又、随聞記に云く、或る時道元示して云く人を恥づべくは明眼の人を恥づべき。予、在宋の時、天童浄和尚、吾を侍者に請するに云く、外国の人たりといえども、元子又器量の人成りとて請す、予、堅く是れを辞す。其の故は倭国に聞こえん為も、學道稽古に為めも大切なれども、衆中に具眼の人有りて、外国の人を為し大叢林の侍者たらん事も、国に人無きが如しと難すること有らん、最も辱ずべきと思うて、書状を以て此の旨を述べしかば、浄和尚も国を重くし人を恥じる事を知つて、許して更に請せざりしと也。

(永平高祖行状建撕記より) 

 

道元禅師と如浄禅師との対話集として「宝慶記」がある

 

『宝慶記』

 道元、幼年より菩提心を発し、本国に在て道を諸師に訪ひ、聊か因果の所由を識る。
然も是の如くなりと雖も、未だ佛法僧の実帰を明らめず、徒に名相の懐幖に滞る。
後に千光(栄西)禅師の室に入りて、初めて臨済の宗風を聞く。
今、全(明全)法師に随て炎宋に入る。
航海万里、幻身を波涛に任て、遂に和尚の法席に投ずることを得たり。
蓋し是れ宿福の慶幸なり。
(如浄)和尚、大慈大悲、外国遠方の小人、願う所は、時候に拘わらず、威儀を具せず、頻頻に方丈に上て、愚懐を拝問せんと欲す。
生死事大、無常迅速、時は人を待たず、聖を去て必らず悔む。
本師堂上大和尚大禅師、大慈大悲、哀愍して道元が道を問ひ、法を問ふことを聴許したまへ。伏して冀くは慈照。
  小師道元百拝叩頭上覆。
(如浄)和尚示て云く、元子が參問今自り已後、昼夜の時候に拘わず、著衣衩衣、而も方丈に来て道を問ふに妨げ無し。
老僧は親父の子の無礼を恕すに一如す。・・・・

 

下は面山の賛題のある明和本と云われる「宝慶記」(面山序)である。

 

  「宝慶記」明和本(東川寺蔵本)
  「宝慶記」明和本(東川寺蔵本)
  宝慶記・明和本文
  宝慶記・明和本文
  宝慶記・最初と最後の頁
  宝慶記・最初と最後の頁

「宝慶記」(承陽祖師彈虎像)
祖像因縁

案に永祖、昔、宋に在て獨り江西に往く。路に、猛虎の牙を鼓して逼るに値ふ。

爾の勢、幾ど人を食んと欲るなり。祖、直に手杖を虎に◆(扌竄)向し、了て巖上に避て坐し、且つ、虎、瞋て杖尾を齧て飜然として失糞して、因に巖を下に丁て去を視る。之を視れば巖に非ずして杖頭の龍頭と化するなり。此の事、在世、知る者有ること無し。滅後寒巖尹公入宋して、彼の地の叢林處處、圖を画て崇稱するを視る。自ら畫を好くす。之を寫して帰東して以来(このかた)、普く知て傳て虎の彈す(とらはね)拄杖と謂ふ。今其の手澤一軸、現に江州の青龍寺に在り。寛延午の夏、瑞方親く青龍に到て之を寫して掲焉や。乃ち此の記は則ち在宋の消息なるを以てなり。

 

『彈虎の拄杖』

この『彈虎の拄杖』については、元禄本建撕記には『是れを虎はねの拄杖と云ひ今に寶慶寺にてあり』と、面山本は『寶慶寺在』を削り補に於いて『寒巖傳來記と其の寫畫の青龍寺在』を記す。尚、「永平高祖行状建撕記」には『此れ琰和尚に相見の為に徑山に登り給う時、路で虎に逢うて拄杖を以てはねのけ給うなり。』とあり、後述に、『波著寺に置給物は、一、涅槃像、一、十六善神畫像、一、傳燈録一部、一、鐵鉢、一、虎掀の拄杖、此の拄杖と十六善神は盗人取りて今はなし』とある。

(永平高祖行状建撕記より)

下は「首書傍訓 宝慶記 完」

 首書傍訓・宝慶記・完(東川寺蔵本)
 首書傍訓・宝慶記・完(東川寺蔵本)

 

◎ 又、帰国の前夜「碧巌録」を書写しようとした時、どこからか白山妙理大権現が現れて、この書写を手助けしたと伝えられている。このとき書写した碧巌録は「一夜碧巌」と云われている。(面山説)

「一夜碧巌」書写の手助けは大權修利菩薩の間違いか。

 

大宋寶慶3年(1227)7月17日
如浄禅師、示寂す。一説安貞2年(1228)

 

(面山本、船中遭難記を帰朝の時とし、内容にも多少の取捨あり。)

 

嘉禄3年・安貞元年(1227)8月以前 28歳

道元禅師 明州天童山を辞し、肥後川尻に帰著す。ついで京都建仁寺に入る。

 

安貞元年丁亥(1227)八月已に帰朝し給う。28歳の辰なり。
九州肥後國求麻の庄の中、川尻の大渡と云う處に居住あり。
今に至り、三日山如来寺大慈寺とて両寺之れ有り。三日山と號する事は、師、帰朝在て、三日の内に彼の精舎造り畢したりとて、萬民申し伝えたり。此の寺には義伊和尚住持し給うと云々、此れ即ち法王長老の御事なり。

同二年戌子、寛喜元年、同二年、同三年、貞永元年に至るまで、建仁寺に止まりて暫く隠居の地を求めんとす。

(永平高祖行状建撕記より)

 

道元禅師 帰国してより暫くの間、建仁寺に掛錫す。
「山僧、帰国より以降(このかた)錫を建仁に駐(とど)むること一両三年

典座教訓)

 

嘉禄3年・安貞元年(1227)9月2日

道元禅師の 育父(父?)、堀川大納言:源通具(みなもとのみちとも)57歳で逝去す。

 

同年10月5日
道元禅師 明全の遺骨将来記(舎利相傳記)を撰す。
同年10月
道元禅師 覚心の需めにより紀伊西方寺の額の篆字を書す。

 

同年 是歳
道元禅師 自身の画像に自賛を題す。
「嘉禄丁亥建仁比丘道元赴請賛」熊本・本妙寺所蔵)


同年 是歳
道元禅師「普勧坐禅儀」一巻、「普勧坐禅儀撰述由来」を撰述す。

 

原ぬるに夫れ、道本円通、争か修証を仮らん。 宗乗自在、何ぞ功夫を費さん。 況んや、全体迥かに塵埃を出ず、孰か払拭の手段を信ぜん。大都、當處を離れず、豈に修行の脚頭を用うる者ならんや。 然れども毫釐も差有れば天地懸に隔たり、違順、纔かに起れば、紛然として心を失す。 直饒、会に誇り悟に豊かにして、瞥地の智通を獲、道を得、心を明めて、衝天の志気を挙し、入頭の辺量に逍遥すと雖も、幾ど出身の活路を虧闕す。矧んや彼の祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡見つ可し。 少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名、尚聞こゆ。 古聖、既に然り、今人盍ぞ弁ぜざる。・・・
「普勧坐禅儀」より (永平寺僧堂では夜座の後半、常にこれを読誦す。)

 

下は「普勧坐禅儀」の写本。 (この写本は江戸末期頃か?)

永平高祖普勧坐禅儀・写本・東川寺蔵
永平高祖普勧坐禅儀・写本・東川寺蔵
 永平高祖普勧坐禅儀・写本 東川寺蔵
 永平高祖普勧坐禅儀・写本 東川寺蔵

 

道元禅師の帰朝は1228年?

「正法眼藏辨道話」に『予、かさねて大宋國におもむき、知識を兩浙にとぶらひ、家風を五門にきく。つひに大白峰の淨禪師に參じて、一生參學の大事ここにをはりぬ。それよりのち大宋紹定のはじめ、本鄕にかへりし。』とある。

宋の紹定元年は西暦1228年である。

だが同じ「正法眼藏辨道話」に『その坐禪の儀則は、すぎぬる嘉祿のころ撰集せし普勸坐禪儀に依行すべし。』とあり嘉禄は西暦1225~1227なので疑問が残る。

 

安貞2年(1228)
 

◎ 寂円が道元禅師を慕って来朝す。

◎ 懐奘、道元禅師を尋ね聞法す。

 (懐弉は永平寺2世・孤雲懐奘禅師参照のこと)

 

寬喜2年(1230) 是歳 31歳
道元禅師 京都建仁寺より山城深草に閑居す。(深草極樂寺の別院・安養院)

 

「道元禅師、深草閑居」

生死可憐雲変更。 生死、憐む可し、雲の変更。

迷途覚路夢中行。 迷途、覚路、夢中に行く。
唯留一事醒猶記。 唯だ一事を留めて、醒めて猶、記す。
深草閑居夜雨声。 深草の閑居、夜雨の声。

 

この安養院は幾多の時代の変遷を経て、現在は曹洞宗欣浄寺となっていて「道元禅師深草閑居の旧蹟」である。境内には上記の「生死可憐雲変更・・・」の碑が建っている。(欣浄寺ごんじょうじ-京都市伏見区西桝屋町)


寬喜3年(1231)7月 32歳
道元禅師 山城深草安養院に於いて了然尼に法要を説く。
同年 中秋日
道元禅師正法眼藏辨道話一巻を記す

 

諸佛如来ともに妙法を單傳して、阿耨菩提を證するに、最上無為の妙術あり。これただ、ほとけ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。

この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならんや。かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。・・・・・

寬喜辛卯中秋日 入宋傳法沙門道元記
「正法眼藏・辨道話」


天福元年(1233)是春 34歳
道元禅師 藤原教家並びに正覚尼等の請により山城観音導利院興聖寶林寺を開く。

 

天福元年癸巳夏安居より御住居と見えたり。正法眼蔵第二巻の奥書に云く、天福元年の夏安居、観音導利院に在り示衆と云々、此の寺をば観音導利院興聖寶林寺とも號するなり。此の寺の法堂をば正覺禪尼の御建立あり。同法座は弘誓院殿の御造作なり。此の境地は本と深草の里、極楽寺の旧跡なり。極楽寺は昔し昭宣公の御草創の所なり。 (永平高祖行状建撕記より)


同年4月
道元禅師 越前妙覺寺鎮守勧請の文を撰す。
同年 夏安居
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼蔵摩訶般若波羅蜜」一巻を撰す。

 爾時天福元年夏安居日 在観音導利院示衆

 

同年 中元日

道元禅師「普勧坐禅儀」一巻を浄書す。

 普勧坐禅儀 入宋傳法沙門道元撰
  天福元年中元日 書于観音導利院 (華押)

 

  普勧坐禅儀・入宋傳法沙門道元撰(永平寺所蔵)
  普勧坐禅儀・入宋傳法沙門道元撰(永平寺所蔵)


 同年 中秋
道元禅師「正法眼藏現成公案」一巻を書し、鎮西の俗弟子楊光秀に與う。

 

諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。・・・・・
佛道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。万法に證せらるるといふは、自己の身心および佗己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。・・・・・
「正法眼蔵・現成公案」


天福2年(1234)3月9日 35歳
道元禅師 學道の用心を示す。「學道用心集

 

 冠導傍解・永平初祖学道用心集   (東川寺蔵本)
冠導傍解・永平初祖学道用心集   (東川寺蔵本)

「學道用心集」
 第一、菩提心を発すべき事
 右、菩提心は、多名一心なり。龍樹祖師の曰く、唯、世間の生滅無常を観ずる心も亦菩提心と名くと。然れば乃ち暫く此の心に依って、菩提心と為すべきものか。誠に夫れ無常を観ずる時、吾我の心生ぜず。名利の念起らず。時光の太だ速かなることを恐怖す。所以に行道は頭燃を救う。・・・・

 第二、正法を見聞しては必ず修習すべき事

 第三、佛道は必ず行に依て證入すべき事

  右、俗に曰く、学べば乃ち祿其の中に在りと。佛の言はく・・・・。

  天福二甲午三月九日書す。

 第四、有所得の心を用つて佛法を修すべからざる事
 第五、參禪學道は正師を求むべき事
 第六、參禪に知るべき事

  右、佛法は諸道に勝れたり、所以に人之を求む。・・・・。

  天福甲午清明の日書す。

 第七、佛法を修行し出離を欣求する人は須らく參禪すべき事
 第八、禪僧の行履の事
 第九、道に向つて修行すべき事
 第十、直下承當の事  (以上十章よりなる。)
 

文暦元年(1234) 是冬
 懐奘、山城深草に道元禅師に参ず。

 

   懐奘正法眼蔵随聞記 を筆録する。
道元禅師の言葉を、學道の至要にて聞くに随って記録する。

この「正法眼蔵随聞記」はすべて嘉禎年間の三、四年間の記録である。

 

下の「永平・正法眼蔵随聞記」は「重刻正法眼蔵随聞記 」で永平寺蔵版を基に面山瑞方の宝暦八年戊寅二月元旦、若州永福開闢面山瑞方拝題が有り、明和己丑仲秋二十八日遠孫方面山謹記とあり、明和第六己丑冬日嗣祖遠孫州菴僧參謹識「跋」が有る。 

 永平・正法眼藏随聞記(東川寺蔵本)
 永平・正法眼藏随聞記(東川寺蔵本)

 

嘉禎元年(1235)8月15日 36歳
道元禅師 明全所伝の戒脈を理観に授く。


同年8月15日
道元禅師 佛祖正傳菩薩戒法を懐奘に授く。

 

嘉禎元年(1235)8月31日

太宰府の野公大夫(儒林の学士)、甲午の冬(文暦元年)、初めて以て相見す。乙未の夏(嘉禎元年)、再び以て入室す。賓主往來し、正偏相い交わる。夏自り秋に之く月余の日、古則を請益し、新条を挙拈す。(前後略)

(祖山本 永平廣録 考注集成 下巻 229~231頁より)

 

嘉禎元年(1235)12月
道元禅師 山城興聖寺僧堂建立の勧請を興す。

 宇治観音導利院僧堂勧請之疏 (参考3)

 

当世の人、多く造像起塔等の事を仏法興隆と思へり、また非なり。・・・ただ草庵樹下にても、法門の一句をも思量し、一時の坐禅をも行ぜんこそ、実の仏法興隆にてあれ。今僧堂を立てんとて勧進をもし、随分に労する事は、必ずしも仏法興隆と思わず。ただ当時学道する人も無く、徒に日月を送る間、ただあらんよりもと思うて、迷徒の結縁ともなれかし、また当時学道の輩の坐禅の道場のためなり。・・・・
 「正法眼蔵随聞記」三の六より


嘉禎元年 冬至日
道元禅師「三百則序」を撰す。(正法眼藏三百則・真字正法眼藏)

正法眼藏序

正法眼藏也大師釋尊已拈擧矣拈得盡也未直得二千一百八十餘歳法子灋孫近流遠派幾箇萬萬前後三三諸人要明來由麼昔日霊山百萬衆前世尊拈華瞬目迦葉破顏微笑當時世尊開演之日吾有正法眼蔵涅槃妙心付嘱摩訶大迦葉迦葉直下二十八代菩提達磨尊者親到少林面辟九年撥艸瞻風得可付髄震旦之傳肇于之也六代曹谿淂青原南嶽師勝資強嫡嫡相嗣正灋眼藏不昧本来祖祖開明之者三百箇則今之有也代以得人古之美也
于時 嘉禎乙未一陽佳節
住持観音導利興聖寶林寺 入宋傳法沙門道元序

「冠註・拈評三百則不能語」より

 

嘉禎2年(1236)10月15日 37歳

道元禅師 山城興聖寺にて始めて上堂説法する。

 

「開闢本京宇治郡興聖禅寺語録 第一 侍者 詮慧 編」

『師、嘉禎二年丙申十月十五日に於いて、始めて当山に就て集衆説法す。

上堂に、云く、依草の家風、附木の心、道場最好なり、叢林なるべし。

床一撃、鼓三下、伝説、如來微妙音。

正当恁麼の時、興聖門下、且く道え、如何と。

良久して云く、湘の南、潭の北、黄金国、限り無き平人、陸沈を被むる、と。』

(祖山本 永平廣録 考注集成 上巻 33頁より)

 

「眼横鼻直・空手還郷」

上堂。山僧、叢林を歴すこと多からず。

只だ是れ、等閑に天童先師に見えて、當下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞ぜ被れず。
便乃ち空手にして郷に還る。所処に一毫も佛法無し。
任運に且く時を延ぶ。
朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。
雲収て山骨露れ、雨過ぎて四山低る。畢竟如何。
良や久して云く、三年、一閏に逢い、雞は五更に向て啼く。久立下座。
 「永平廣録注解全書」上巻 三頁より

 

尚、「永平廣録」(祖山本)の巻一から巻七までは、嘉禎2年(1236)10月15日、宇治興聖寺において初めて上堂説法して以来、建長4年(1252)末に至るまでの上堂語が、年代順にほぼ正確に記載されている。
「永平寺史・上巻」257頁より

 

同年12月除夜
道元禅師 懐奘を興聖寺首座に充て秉拂せしむ。

 

嘉禎二年臘月除夜、始めて懷奘を興聖寺の首座に請ず。即ち小參の次(ついで)、秉払を請う。初めて首座に任ず。即ち興聖寺最初の首座なり。

「正法眼蔵随聞記・五巻四章」


嘉禎3年(1237)是春 38歳
道元禅師典座教訓一巻を撰す。

 
典座教訓
佛家に本より六知事有り、共に佛子たり、同じく佛事を作す。就中(なかんずく)典座の一職は是れ衆僧の辨食を掌る。禪苑箴規に云く、衆僧を供養す、故に典座有り、古(いにしえ)より道心の師僧、発心の高士、充てられ来りし職なり。蓋し一色の辨道の猶(ごと)き歟。若し道心無き者は徒に辛苦を労して畢竟益無し。禪苑箴規に云く、須く道心を運(めぐ)らし、時に随つて改変し、大衆をして受用安樂ならしむべし。・・・・

 嘉禎三年丁酉春、記して後来学道の君子に示すこと爾り。
 観音導利興聖寶林禪寺住持傳法沙門、道元記す。

 
同年 是歳
道元禅師「出家授戒作法」(得度略作法)一巻を撰す。

 

(参考)

「出家授戒作法」を基に面山瑞方は延享改暦甲子秋八月二十有八日に「永平祖師得度畧作法」を永平寺四十二世圓月江寂禅師の題を得て版を起こし出版した。

 

 永平祖師得度略作法(東川寺蔵)
 永平祖師得度略作法(東川寺蔵)
 永平祖師得度略作法・円月江寂謹題
 永平祖師得度略作法・円月江寂謹題


嘉禎4年(1238)4月18日 39歳
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏一顆明珠」一巻を示す。

 爾時嘉禎四年四月八日在雍州宇治縣観音導利興聖寶林寺示衆

同年冬のはじめ
道元禅師 参禅學道の法語一篇を草す。

(永平高祖法語)

「人身を受くる幸運は、佛法に値ふをすぐれたりとす。佛法にあふには修行するを親切なりとす。佛法を修行するには、參禪學道を正嫡とすることは、まさしく證契の祖祖あひうけて、嫡嫡相承いまにたえざるがゆゑにあやまざるべきなり。・・・・・・・ 嘉禎つちのえ戌冬のはじめにかく 沙門道元 在判 」

 

暦仁2年(1239)4月25日 40歳
道元禅師 山城興聖護國寺に「正法眼藏重雲堂式」一巻を示す、尋で堂主宗信之を書写す。

 暦仁二年巳亥四月二十五日観音導利興聖護國寺開闢沙門道元示


延應元年(1239)5月25日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏即心是佛」一巻を示す。

 爾時延應元年五月二十五日在雍州宇治郡観音導利興聖寶林寺示衆

同年10月23日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏洗浄」及び「正法眼藏洗面」各一巻を示す。

 爾時延應元年巳亥冬十月二十三日在雍州宇治縣観音導利興聖寶林寺示衆


延應2年(1240)是春 41歳
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏禮拝得髄」一巻を記す。

 延應庚子清明日記観音導利興聖寺

 

延應2年(1240)5月25日

(祖山本 永平廣録 考注集成 下巻 233頁より)

「永平道元和尚廣録第八・法語より」

慧運直歳充職、乃ち延応庚子の歳なり。去冬除夜に請を承けて、今、供衆す。五月二十五日、梅雨霖霖として、草屋漏滴す。因みに、山僧入堂坐禅するに、照堂と雲堂と、両堂の薝頭、平地に波瀾を起す。清浄海衆、進歩退歩、中間に兀立す。時に直歳に告ぐるに、匠人と等しく綴(とつ)を脱ぎ笠をきず、屋上に上って管す。雨脚、頂に灌げども辞労の色無し。予、潜かに発意を感ず、一句、他(かれ)に与えん、と。乃ち、本祖の時、他を鑑憐する而已(のみ)なり。爾して自り以来(このかた)、月六箇を経、日、二百に將(なんな)んとす。未だ工夫有らず。其の意(こころ)忘れ難し。暑中に未だ筆をとらず。寒至って墨を使う、是、則ち先仏の骨髓なり。一身の卜度(ぼくたく)に滞ること勿れ。吾子充職より已来、光陰將に一年に近づきなんとす。堂宇漸く数堵を成す。幸に是、縁成果熟の弁肯なり。或は、北方より来って下載、是、大なるを見る。或は、対面に玄機を呈す。尊子の励力為り、他の喜ぶ所なり。況んや、此の刹、道路深遠にして、閑人到らず、唯、挑嚢の高人、畳足して至り、逞尽の英雄、出格入草す。耳に聞き心に喜ぶ、悉く是、白契を執って、祖父の田園を争んとす。或は、千手眼を具す。伝法継祖、誰か作者の能に非ずと道ん者や。供衆務力の句、有りと雖も、且く、作麼生の道か他に与うる一句。動は必ず百当、作は必ず十成、と。

 以上は、慧運直歳に与えた法語であるが、当時の観音導利院の様子をうかがい知ることが出来る。

 

仁治元年10月18日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏山水経」一巻を示す。

 爾時仁治元年庚子十月十八日在観音導利興聖寶林寺示衆
同年10月
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏有時」一巻を書し、「正法眼藏袈裟功徳」一巻を示す。

 仁治元年庚子開冬日書于興聖寶林寺

 

道元禅師 また「正法眼藏傳衣」一巻を記す。

 仁治元年庚子開冬日記于観音導利興聖寶林寺 入宋傳法沙門 道元

同年 是歳

道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏谿聲山色」一巻を示す。

 延應庚子結制後五日在観音導利興聖寶林寺示衆

道元禅師「正法眼藏諸悪莫作」一巻を示す。

 應庚子月夕在興聖寶林寺示衆

 

 仁治2年(1241)正月3日 42歳
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏佛祖」一巻を示す。

 仁治二年辛丑正月三日書于日本國雍州宇治縣観音導利興聖寶林寺而示衆

同年3月7日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏嗣書」一巻を記す。

 于時日本仁治二年歳次辛丑三月七日観音導利興聖寶林寺 入宋傳法沙門道元記

 

同年 是春

道元禅師 山城興聖寺に「天童如淨禪師續語録跋」を撰して、天童如浄の行歴を記す。
同年 是春
 懐鑑、義介、義尹、義演等、道元禅師に参ず。

 (義介は永平寺3世・徹通義介禅師参照のこと)

 (義演は永平寺4世・義演禅師参照のこと)

 

同年 是夏
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏法華轉法華」一巻を書し、慧達に授く。

 仁治二年辛丑夏安居日、これをかきて慧達禪人にさつく。

 仁治二年、辛丑夏安居日、これをかきて慧達禪人にさづく。これ出家修道を感喜するなり。ただ鬢髪をそるなほ好事なり、かみをそりまたかみをそる、これ眞出家兒なり。今日の出家は、從來の轉法華如是力の如是果報なり。いまの法華、かならず法華の法華果あらん。釋迦の法華にあらず、諸佛の法華にあらず、法華の法華なり。ひごろの轉法華は、如是相も不覺不知にかかれり。しかあれどもいまの法華、さらに不識不會にあらはる、昔時も出息入息なり。今時も出息入息なり。これを妙難思の法華と保任すべし。開山觀音導利興聖寶林寺入宋傳法沙門 道元記 押華


同年 是夏
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏心不可得」一巻を示す。

 爾時仁治二年辛丑夏安居于雍州宇治郡観音導利興聖寶林寺示衆

道元禅師 また、「正法眼藏(後)心不可得」一巻を書す。

 仁治二年辛丑夏安居日書于興聖寶林寺

 

同年9月9日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏古鏡」一巻を示す。

 仁治二年辛丑九月九日在観音導利興聖寶林寺示衆

同年9月15日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏看經」一巻を示す。

 于時仁治二年辛丑秋九月十五日在雍州宇治縣興聖寶林寺示衆

同年10月14日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏佛性」一巻を示す。

 爾時仁治二年辛丑十月十四日在雍州観音導利興聖寶林寺示衆
同年10月
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏行佛威儀」一巻を記す。

 仁治二年辛丑十月中旬記于観音導利興聖寶林寺沙門道元
同年11月14日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏佛教」一巻を示す。

 于時仁治二年辛丑十一月十四日在雍州興聖精舎示衆
同年11月16日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏神通」一巻を示す。

 爾時仁治二年辛丑十一月十六日在於観音導利興聖寶林寺示衆 

 

同年 是歳

顕慧禅人、浄司に充す。仁治辛丑の歳なり。

 

顕慧禅人、鄕を離れ親を辞す。自ら古来佛祖の行履に合す。幾多の慶快、須らく保任すべし、須らく愛惜すべし。東南北方の人、未だ伊(かれ)と齊(ひと)しく爲せず。向後亦然かなり。夫(それ)参學に多般有り。一には参頭、二には隨衆。今、浄司に充す。仁治辛丑の歳なり。忝く十方の佛祖に侍奉するなり。参頭爲り、隨衆爲り。一回拈起して、一回新たなり。作麼生か是れ、拈起、打失大悟なり。作麼生か是れ、新、忽然大悟なり。且く道え、甚と爲てか恁麼なる。還(また)委悉せんや。河裏に失銭して河裏に求む。山前に馬を放つて山前に訪ぬ。興聖宝林寺草創沙門。

(祖山本 永平廣録 考注集成 下巻 235頁) 

 

仁治3年(1242)正月28日 43歳
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏大悟」一巻を示す。

 爾時仁治三年壬寅春正月二十八日住観音導院利興聖寶林寺示衆
同年3月18日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏坐禪箴」一巻を記す。

 爾時仁治三年壬寅三月十八日記興聖寶林寺
同年3月23日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏佛向上事」一巻を示す。

 爾時仁治三年壬寅三月二十三日在観音導利興聖寶林寺示衆
同年3月26日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏恁麼」一巻を示す。

 爾時仁治三年壬寅三月二十六日在観音導利興聖寶林寺示衆
同年4月5日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏行持」一巻を書す。

 爾時仁治三年壬寅四月五日書于観音導利興聖寶林寺

 

仁治3年(1242)4月12日

道元禅師 近衛殿と法談す。

 

仁治三年壬寅四月十二日、近衛殿に謁の法談の次で問う、我が朝先代此の宗、傳來するや否や、師答えて云く、我が朝に名相の佛法傳え來て、佛法名相を傳え聞きしより以来、僅か四百餘歳なり。而今、佛心宗の流通正に這の時節に當る。神丹国、後漢明帝永平年中に始めて名相佛法が傳わり、以後、梁朝の普通八年に至る(まで)、時代を検するに僅か四百餘年なり。其の時に當り始めて西来直指の祖道を流通す。爾れより以来、六代曹谿青原南岳の下、吾が宗を分つと云々。我が朝欽明天皇の時代、始めて名字佛法を聞きしより以来、百済国高麗国所傳の聖教、国城に満つ、未だ以心傳心の宗匠有らず、只だ国家を鎮護する霊験の僧有る(のみ)、間出の踵すら継ぎて絶うること無しと云々。
 永平六世和尚、事跡を以て之れを寫し奉る。
 (永平高祖行状建撕記より)

 

同年4月20日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏海印三昧」一巻を記す。

 爾時仁治三年壬寅盂夏二十日記于観音導利興聖寶林寺
同年4月25日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏授記」一巻を記す。

 爾時仁治三年壬寅夏四月二十五日記于観音導利興聖寶林寺
同年4月26日
道元禅師「正法眼藏観音」一巻を示す。

 爾時仁治三年壬寅四月二十六日示衆
同年5月1日
道元禅師 義尹に大事を授く。
同年5月15日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏阿羅漢」一巻を示す。

 爾時仁治三年壬寅夏五月十五日住于雍州宇治郡観音導利興聖寶林寺示衆
同年5月21日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏柏樹子」一巻を示す。

 爾時仁治三年壬寅五月菖節二十一日在雍州宇治郡観音導利院示衆
同年6月2日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏光明」一巻を示す。

 爾時仁治三年壬寅夏六月二日、夜三更四點示衆、于観音導利興聖寶林寺示衆、于時梅雨霖霖、簷頭滴滴、作麼生是光明在、大衆未免雲門道覗破。

 

同年8月5日
  如浄禅師の語録、宋より到来す、翌6日、道元禅師、上堂す。

 

天童和尚の語録、到る。
上堂(繁詞不録)師乃ち起立し、語を捧げ香を薫じて云く、箇は是れ天童◆(足扁に孛)跳を打し東海を蹈翻して龍魚驚く。清淨の大海衆、如何が證明せん。
良や久して云く、海神貴きことを知り、也(また)價を知て、人天に留在して光夜を照らさしむ。下坐して大衆と三拝す。
 「永平廣録注解全書」上巻 二〇六頁より

 

同年9月1日
道元禅師 一葉観音画賛を撰す。

 一花五葉開 一葉一如来 弘誓是深海 回向運善財
 仁治壬寅歳九月初一日 沙門道元賛


同年9月9日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏身心學道」一巻を示す。

 爾時仁治三年壬寅重陽日在于寶林寺示衆
同年9月21日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏夢中説夢」一巻を示す。

 而時仁治三年壬寅秋九月二十一日在雍州宇治郡観音導利興聖寶林寺示衆

 

同年10月5日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏道得」一巻を示す。

 仁治三年壬寅十月五日書于観音導利興聖寶林寺示衆
同年11月5日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏畫餅」一巻を示す。

 而時仁治三年壬寅十一月初于観音導利興聖寶林寺示衆
同年11月7日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏佛教」一巻を示す。

(于時仁治二年1241辛丑十一月十四日在雍州興聖精舎示衆)

  

同年12月17日
道元禅師 山城六波羅蜜寺側雲州刺史幕下に「正法眼藏全機」一巻を示す。

 爾時仁治三年壬寅十二月十七日在雍州六波羅蜜寺側雲州史幕下示衆

 
同年十二月十七日、檀の越、雲州私宅の御座ありて説法す、其の支證は正法眼蔵第二十二全機巻の奥書に云く、爾時仁治三年壬寅十二月十七日雍州六波羅蜜寺の側に前の雲州史幕下に衆に示して、云々。
 (永平高祖行状建撕記より) 


同年 是歳
 覺心、道元禅師に参じ、菩薩戒を受く。


仁治4年(1243)正月6日 44歳
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏都機」一巻を書す。

 爾時仁治癸卯端月六日書于観音導利興聖寶林寺示衆 沙門道元

 

寬元元年3月10日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏空華」一巻を示す

 于時寬元元年癸卯三月十日在観音導利興聖寶林寺示衆

同年4月29日
道元禅師 山城六波羅蜜寺に「正法眼藏古佛心」を示す。

 爾時寬元元年癸卯四月二十九日在六波羅蜜寺示衆
同年5月5日
道元禅師「正法眼蔵菩提薩埵四攝法」一巻を記す。

 仁治癸卯端午日入宋傳法沙門道元記
同年7月7日
道元禅師 山城興聖寺に「正法眼藏葛藤」一巻を示す。

 爾時寬元元年癸卯七月七日在雍州宇治郡観音導利興聖寶林寺示衆

 

宇治の寺に御住の間を筭合すれば、天福元年より寬元元年至る十一箇年なり。
此の深草の寺は王舎城に近くして、月卿雲客花族車馬の往来絶えず、随縁説法の大家一百餘、菩薩戒を受けし弟子二千有餘輩なり。
度生方便は佛祖の古風なれども、吾が望む所は安閑無事なりとて、常に山林泉石の便宜を求めましますに、有縁の檀那、安閑の在所とてまいらする山林園地十二ヶ所なり。然れども何れの地も皆な和尚の御意に合わず。
波多野雲州太守藤原の義重参じて申される様は、越州吉田郡の内に、深山に安閑の古寺あり、某甲知行の内なり、御下向ありて度生説法あらば一国の運、又、當家の幸いなるべしと言上す。
和尚答えて云く、我が先師天童如浄古佛、大唐越州の人事なる間、越の名を聞くもなつかし、今我所望也、即ち御下向あるべしと御返事あり。
 (永平高祖行状建撕記より)

 

道元禅師の北越入山

道元禅師の北越入山の外延的諸条件の一つに比叡山僧の厭迫のあったことを證明するものである。その史料とは「渓嵐捨葉集」所載の左の記事である。

「渓嵐捨葉集」
後嵯峨法皇の御時、極樂寺の仏法坊、宗門を立て、教家を毀(そし)る。覚住坊といふ止観を読む者之れ有り。護国正法義を造りて宗門を奏聞に及びし時、佐法印(すけのほういん)御房に是非を判ずべき由、仰せ下されけり。護国正法義の心は、二乗の中の縁覚の所解(しょげ)なりとて之れを下す。仏の教に依らず、自ら開解(かいげ)する分に尤も相似たり。然るに、ものものしく沙汰に及ぶべからずと云ふ。彼の極樂寺を破却し、仏法坊を追却し畢(おわ)んぬ。今其の義有るべし。其の上、仏法の心地修行を以て是非有るべき所と云ふ。一々其の沙汰に及ばざる条、然るべからざる事なり。(仏法坊とは道元禅師のことを指す。)

(中略)
右の史料において重要と思われる事項を摘出すると、だいたい次の三項目に要約される。
一、禪師が自己の宗旨を建立して教家の所説を論破せられたこと。
二、禪師が「護國正法義」を著して之を奏聞せられたこと。
三、極樂寺(興聖寺)が破却せられ禪師が追放に處せられたこと。
  「修訂増補 道元禅師傳の研究」 大久保道舟・著 190~196頁より


同年7月16日
道元禅師 波多野義重の勧請により、山城興聖寺を詮慧(あるいは義準)に譲り、越前志比荘に向かう。

 

寬元元年癸卯七月十六日のころ、京を御立ちありて御下向かと覚うなり。(中略)
同月末に志比荘に下着あるかと覚う、正法眼蔵三十二巻の奥書に、爾時寬元元年癸卯閏七月初一日在越于吉峰頭示衆、同年月二十五日院主坊に書写す、懐弉。
雲州太守幷今南東の左金吾禪門覺念相い共に寺を建立せんと欲して、庄内にて山水の便宜を尋ぬ、即ち一野山の東、傘松の西に寺庵相應の地を得て歓喜す。
同年閏七月十七日に、雲州太守自手(みずから)山を夷(たいら)げ地を曳き、吉峰茆舎を此の地へ移し給う。

(永平高祖行状建撕記より)


同年閏7月1日
道元禅師 越前禪師峰に「正法眼藏三界唯心」一巻を示す。

 爾時寬元元年癸卯閏七月初一日越于禪師峰頭示衆
同年9月16日
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏佛道」一巻を示す。

 爾時寬元元年癸卯九月十六日在吉田縣吉峰寺示衆
同年9月20日
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏密語」一巻を示す。

 爾時寬元元年癸卯九月二十日在吉田縣吉峰古精舎示衆
同年9月24日
道元禅師 越前吉峰古寺草庵に掛錫す。(参考4)
同年9月
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏諸法實相」

 爾時寬元元年癸卯九月日在于日本越州吉峰寺示衆

 及び「正法眼藏佛經」各一巻を示す。

 爾時寬元元年癸卯秋九月菴居于越州吉田縣吉峰寺示衆
同年10月2日
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏無情説法」一巻を示す。

 爾時寬元元年癸卯十月二日在越州吉田縣吉峰寺示衆
同年10月20日
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏面授」一巻を示し、

 爾時寬元元年癸卯十月二十日在越宇吉田縣吉峰精舎示衆

道元禅師 重ねて「正法眼藏洗面」一巻を示す。

 爾時寬元元年癸在越州吉田縣吉峰寺重示衆
同年10月
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏法性」一巻を示す。

 爾時寬元元年癸卯孟冬在越州吉峰精舎示衆
同年11月6日
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏梅華」一巻を示す。

 爾時日本國仁治四年癸卯十一月六日在越州吉田縣吉嶺寺

 深雪参尺大地漫漫
同年11月13日
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏十方」一巻を示す。

 爾時寬元元年癸卯十一月十三日在日本國越州吉峰精舎示衆
同年11月19日
道元禅師 越前禪師峰に「正法眼藏見佛」一巻を示す。

 爾時寬元元年癸卯冬十一月朔十九日在禪師峰山示衆
同年11月27日
道元禅師 越前禪師峰下の茅菴に「正法眼藏偏参」一巻を示す。

 而時寬元元年癸卯十一月二十七日在越宇禪師峰下茅菴示衆
同年11月
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏坐禪箴」一巻を示す。
同年11月
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏坐禪儀」一巻を示す。

 爾時寬元元年癸卯冬十一月在越州吉田縣吉峰精舎示衆
同年12月17日
道元禅師 越前禪師峰に「正法眼藏眼睛」

 于時寬元元年癸卯十二月十七日在越州禪師峰下示衆

及び「正法眼藏家常」各一巻を示す。

 于時寬元元年癸卯十二月十七日在越宇禪師峰下示衆
同年12月25日
道元禅師 越前禪師峰に「正法眼藏龍吟」一巻を示す。

 于時寬元元年癸卯十二月二十五日在越宇禪師峰下示衆
同年 是歳
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏説心説性」

 爾時寬元元年癸在于日本國越州吉田縣吉峰寺示衆

及び「正法眼藏陀羅尼」各一巻を示す。

 爾時寬元元年癸在越于吉峰寺示衆

 

寬元二年の正月をば平泉寺の麓、禅師峰と申す所に居住と見えたり。

寬元元年十一月朔日より今年二月のころ迄は、禅師峯と吉峰の間を往還しましまして見えたり。然りと雖も在處は分明せず。
 (永平高祖行状建撕記より) 

 

寬元2年(1244)正月27日 45歳
道元禅師 越前吉峰古寺に「正法眼藏大悟」一巻を示す。
同年2月4日
道元禅師 越宇深山裏に「正法眼藏祖師西来意」一巻を示す。

 于時寬元二年甲辰二月四日在越宇□(?)山裏示
同年2月25日
道元禅師 越前吉峰の天神宮に参詣す。

 
當年二月二十五日、天神の宮に参籠ありて見たり、其の證據には越前へ御下向ありてより御作りありたる頌詩を集められたる其の第一に云く、天満天神偉辰、月夜に梅花を見る本韻を次、齋衡二年天神歳十一歳にして月見に梅花を見る始めて言志す其の詞に云く、月は輝くこと晴れたる雪の如く、梅花は照る星に似たり、憐れむ可し金鏡の轉す、庭上に玉房馨し、是れは天神の御作なり。道元此れに和韻して云く、春松何ぞ怕(おそれん)岩冬の雪、老樹の梅花飛んで星に似たり、天上人間三界の裡、眼睛鼻孔幽馨を見る。
 (永平高祖行状建撕記より)

 
同年2月12日
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏優曇華」一巻を示す。

 于時寬元二年甲辰二月十二日在越宇吉峰精藍示衆
同年2月14日
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏発無上心」

 于時寬元二年甲辰二月十四日在越州吉田縣吉峰精舎示衆

及び「正法眼藏発菩提心」各一巻を示す。
同年2月15日
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏如来全身」

 于時寬元二年甲辰二月十五日在越州吉田縣吉峰精舎示衆

及び「正法眼藏三昧王三昧」各一巻を示す。

 于時寬元二年甲辰二月十五日在越于吉峰精舎示衆
同年2月29日
道元禅師 越前志比荘に大佛寺法堂造営の工を起こす。

 
當年二月小丁卯二十九日庚子に大佛寺法堂の地、之れを夷(たいら)げる。
 (永平高祖行状建撕記より) (面山本は2月19日)


同年2月24日
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏三十七品菩提分法」一巻を示す。

 于時寬元二年甲辰二月二十四日在越于吉峰精舎示衆
同年2月27日
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏轉法輪」一巻を示す。

 于時寬元二年甲辰二月二十七日在越于吉峰精舎示衆
同年2月29日
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏自證三昧」一巻を示す。(一説、3月29日)

 于時寬元二年甲辰二月九日在越于吉峰精舎示衆
同年3月9日
道元禅師 越前吉峰寺に「正法眼藏大修行」一巻を示す。

 爾時寬元二年甲辰三月二十四日在越于吉峰古精舎示衆
同年3月21日
道元禅師 越前吉峰寺に「對大己五夏闍梨法」一巻を撰す。

 

對大己五夏闍梨法
第一、大己五夏の闍梨に對せば、須く袈裟の紐を帯し、及び坐具を帯すべし。
第二、通肩に袈裟を被(おおう)ことを得ざれ、経に曰く比丘、佛、僧及び上座に對して通肩に袈裟を被(おおう)ことを得ざれ、死して鐵鉀地獄に入る。
第三、邪脚倚立して上座を視ることを得ざれ。・・・・・

 寬元二年甲辰三月二十一日在越州吉峰精舍示衆

 

 對大己五夏闍梨法(東川寺蔵)
 對大己五夏闍梨法(東川寺蔵)

寬元2年4月21日
道元禅師 越前大佛寺法堂、立柱、上棟す。

 
同四月小巳巳二十一日、法堂の居礎(いしずえ)立柱、上棟の日なり。 
(永平高祖行状建撕記より)


同年7月17日
道元禅師 如淨禪師の諱辰に丁り、門弟等をして身心脱落の話を講ぜしむ。


同年7月18日 吉祥山大佛寺、開堂説法あり。

「開闢越州吉祥山大仏寺語録 第二 懐弉 編」

師、寬元二年甲辰七月十八日に於いて、当山に徙る。明年乙巳、四方の学侶、座下に雲集す。(祖山本 永平廣録 考注集成 上巻 149頁)

 

同年七月十八日、和尚を請し奉りて開堂説法す。爾の時和尚云く、
今日より此の山を吉祥山と名づけ、寺を大佛寺と號す、即ち頌を作りて云く、
 諸佛如来大功徳。 (諸佛如来大功徳。)
 諸吉祥中最無上。 (諸吉祥の中最も無上。)
 諸佛倶來入此處。 (諸佛倶に此の處に入る。)

 是故此地最吉祥。 (是れ故に此の地、最吉祥。)
  
其の日諷経の間、龍天雨降らし、山神雲を興す。草木樹林。共に皆吉祥の瑞気を顕(あら)はしたると見ゆ。雲州太守、一心に随喜し給う。此の法筵に参詣の人数、前の大和守清原の真人、源の蔵人、野尻の入道實阿、左近将監、案主等、皆参じて行事す。
説法の後、開山和尚、雲州に謂いて云く、這の一片の地、住山北に高く、案山南に横たう、東岳、白山の神廟に連なり、西流は滄海の龍宮を曳く、峰巒重畳として人烟遠く隔たる。予、在宋の時、天童、坐禅の法要三十餘箇條を示して、其の一に云く、大海を見ること莫れ青山渓水を観るべし。此の地、此の記に応じ林泉風景望む所亦足ぬ、珍味必ず良器に盛る、香稲必ず満足すべし、是れ勝形の地に非ず乎。最も興法道場なり。鎮西關東に従い、四維南北に至りて、勝地を擇(えら)んで、今此に至る。自ずから休す。是れ吉祥山と名す事は、帝釋宮の名、又、佛成道の時、吉祥草を敷き給う。今地を夷(たいら)げて伽藍を建立する處、吉祥なり。又、衆僧に告げて云く、食須く以て知足なるべし、衣は倹約なるべしと慇懃に示し給う。是れ古今の道者の用心なり。従来衲僧の眼睛なりと宣べ給う。今此の意を註するに、食は知足なるべし、とは葉蕗ばかり成すとも食すべし、其れにて其の日の命を養うは満足すと思え、此れより上の望みを作す事なかれ也。(面山本は葉蕗を葉果とす。)
又、衣は倹約なるべしとは、紙衣ばかりても寒さを防ぐべしと也。
亦示して云く、今、諸方を見るに道心ある僧、稀にして名利を求める僧多し、彼等は佛法を慕わず、一心に只、朝請を希う、此の類は誰か是れ佛祖、誰か是れ外道と云う事をも知らずなり。 

 (永平高祖行状建撕記より)


同年9月1日
道元禅師 越前大佛寺法堂竣工し開堂法會あり。

 
同九月小甲戌一日己亥、法堂功成りて開堂す、法會に來集する男女一千餘人なり。
 (永平高祖行状建撕記より)

 
同年9月7日
 義準、山城興聖寺より木犀樹を越前大佛寺に送る。

 
同七日、宇治の興聖寺より木犀樹来たる、義準上座、送り到る。而今孤雲の前栽と云々。 (永平高祖行状建撕記より)
 
同年霜月 大佛寺僧堂、上棟。

 
同年霜月小丙子三日庚子、僧堂の上棟、此の時も龍天、小雨を降らし、小風を吹す、吉例なり。建立信心の檀那左金吾禪門、覺念は庫裡の南の簷(のき)に鹿皮を敷かしめて行事す。子息右衛尉藤原時澄は庫下に西簷にありて行事す。開山和尚は庫裡の前に在りて上棟を見給う。大工は幣をささぐ、其の色、五色なり。三拝す。大工は馬二疋賜う、引頭已下皆賜う、鍛冶杣人壁塗皆各馬一疋充(づつ)を賜う、見聞の男女一千餘人、白餅一枚づつ賜う、一年の中に法堂、僧堂共に功成るなり。  
 (永平高祖行状建撕記より)

 
開山御在世の時は七堂皆までは立たざる耶。 行状記に云く、土木未だ備わらず。堂閣僅か両三とあり。
 (永平高祖行状建撕記より)

 
同年9月25日
道元禅師 初雪の歌を詠ず。

 
寬元二年九月二十五日、初雪一尺あまりふるに御詠。
「長月の紅葉の上に雪ふりぬ見ん人誰か歌をよまさらん」
  (永平高祖行状建撕記より)


同年 是歳
道元禅師 越宇山奥に再び「正法眼藏春秋」一巻を示す。


同年 是歳
道元禅師 義介を永平寺典座に充つ。


寬元3年(1245)3月6日 46歳
道元禅師 越前大佛寺に「正法眼藏虚空」一巻を示す。

 爾時寬元三年乙巳三月六日在于大佛寺示衆

 
寬元三年乙巳三月六日、初めて正法眼藏を示す。

 (永平高祖行状建撕記より)

 
ただ一行の記述であるが、これは『正法眼蔵』の成立を語る重大な意味を持っている。周知のように『正法眼蔵』は当初「現成公案」巻が、「鎮西の俗弟子楊光秀に与」えた法語であったし、「摩訶般若波羅蜜」巻が天福元年夏安居の時の示衆であった。「仏性」巻も「山水経」巻もそれぞれ独立の法語であったが、興聖寺を引き払うころ、道元禅師は、百巻の『正法眼蔵』の構想を抱くようになっていた。禅師峰、吉峰寺で酷寒に堪える生活の後、ようやく、大仏寺に移った時、初めて『正法眼蔵』という総題を附して示衆が行われたと見ることができる。
 水野弥穂子著「道元禅師の人間像」158~159頁より


年3月12日
道元禅師 越前大佛寺に「正法眼藏鉢盂」一巻を示す。

 爾時寬元三年三月十二日在越宇大佛精舍示衆
同年4月15日
道元禅師 越前大佛寺に結夏す。

 
同四月、始めて當寺にて結夏す、上堂の前後天華乱墜して開山の法席及び衆僧の座上に、茶盞の中までも散り入る、古今未曾有の瑞相なりと、記せらる。
 永平高祖行状建撕記より


開山御滅後に當山回録す、殿堂再興し大概の造り畢りて、観應二年(1351)四月二十一日、六世曇希和尚開堂供養す。陞座説法の次いで開山御在世の威徳を挙揚す。其の中に天華乱墜の説、分明なり。六世の御自筆を以て之れを寫す。
 (永平高祖行状建撕記より)


同年5月
道元禅師 波多野廣長に法語を與う。

 
乾坤大地百雑砕、大死底無天無地、飜自己云、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得。 寬元乙巳五月日 道玄  附波多野廣長
 「訂補建撕記」より


同年6月13日
道元禅師 越前大佛寺に「正法眼藏安居」一巻を示す。

 寬元三年乙巳夏安居六月十三日在越宇大佛寺示衆
同年7月4日
道元禅師 越前大佛寺に「正法眼藏他心通」一巻を示す。

 爾時寬元三年乙巳七月四日在越宇大佛寺示衆

 

同年10月23日
道元禅師 越前大佛寺に「正法眼藏王索仙陀婆」一巻を示す。

 爾時寬元三年十月二十三日在越州大佛寺示衆

 

寬元3年(1245)

上堂に、去年の冬間、特に兄弟に示す。若し、堂内・廊下・谿辺・樹下に於いて、兄弟相見の処毎に、互いに相い合掌低頭して如法に問訊すべし。然る後に説話せよ。未だ問訊せざる前、大小の要事を相い語ることを許さず。・・・(後略)

(祖山本 永平廣録 考注集成 上巻 159頁)

 

寬元3年11月25日

冬至上堂。(上堂法語略)

当山は北陸の越に在り。冬より春に至るにも積雪消えず、或は七・八尺、或は一丈余、随時増減なり。又、天童に雪裏梅花の語有り。師、常に之を愛す。故に当山に住して後、多く雪を以って語と為す。(祖山本 永平廣録 考注集成 上巻 165頁)

 

寬元3年「弁道法」を大佛寺にて撰述か?

「辨道法」     大佛寺
佛佛祖祖、道に在りては而ち弁じ、道に非ずしては而ち弁ぜず。法有れば而ち生じ、法無ければ而ち生ぜず。所以に大衆若し坐すれば、衆に随つて坐し、大衆若し臥せば、衆に随つて臥す。動静大衆に一如し、死生叢林を離れず。群を抜けて益無し、衆に違すれば未だ儀ならず。此れは是れ佛祖の皮肉骨髓なり。亦た乃はち自己の脱落身心なり。然あれば則はち空刧已前の修證なり。現成に拘はる無し。朕兆已前の公案なり。未だ大悟を待たず。・・・・・ 「永平大清規通解」99頁より

 

寬元4年4月

知客を請するを賀する上堂。

當山今日初めて知客を請す。所謂知客は雲を見、水を見る。雲水を相い見る時、雲水を以て面と爲し目と爲す。諸佛の行李たりと雖も宛も一色の辨道なり。(後述略)

(祖山本 永平廣録 考注集成 上巻 191頁)

 

寬元4年(1246)6月15日 47歳
道元禅師 大佛寺を永平寺と改め、上堂を修す。

 
寬元四年丙午六月十五日、上堂より。
大佛寺を改めて永平寺と称す。
知事の清規も今日より行なわる。
 (永平高祖行状建撕記より)

 

大佛寺を改めて永平寺と称する上堂。 寬元四年丙午六月十五日
天、道有て以て高く清めり。
地、道有て以て厚く寧(やす)し。
人、道有て以て安穩なり。
所以に世尊降生して、一手は天を指し、一手は地を指して、周行七歩して曰く、天上天下唯我獨尊と。
世尊、道有り、是れ恁麼なりと雖も、永平、道有り、大家證明せよ。
良久して云く、天上天下當處永平。
 「永平廣録注解全書」上巻 四一一頁より


同年6月15日
道元禅師「日本國越前永平寺知事清規」一巻を撰す。

日本国越前永平寺知事清規
知事は貴にして尊為り、須く有道の耆徳を撰ぶべし。其の例。
如来の俗弟難陀、知事に充ちて阿羅漢を証す。胎蔵経に云く、世尊迦毘羅城に在す。佛、難陀の受戒の時至れるを知しめして、門に至りて光を放ちて一宅を照したまふ。難陀云く、必ず是れ世尊ならんと。使をして看せ遣むるに、果して是れ世尊なりき。難陀自ら看えんと欲す。・・・・

 爾時寬元丙午夏六月十五日  越宇永平開闢沙門道元撰

 「永平大清規通解」279頁より


同年7月10日
道元禅師 永平寺佛前斎粥供養侍僧の順位を定む。

   第一比丘・懐奘、第二比丘・覺佛。

 

同年8月6日
道元禅師 永平寺に「正法眼藏示庫院文」一巻を示す。

 寬元四年八月六日示衆

 

寬元4年

懐鑑首座、先師覚晏道人の為に上堂を請する。

(祖山本 永平廣録 考注集成 上巻 239頁)

 

同年9月15日
道元禅師 永平寺に「正法眼藏出家」一巻を示す。

 爾時寬元四年丙午九月十五日在宇永平寺示衆

 

寬元4年秋頃「赴粥飯法」を永平寺にて撰述か?

「赴粥飯法」     永平寺
経に曰く、若し能く食に於いて等なれば、諸法も亦等なり、諸法等なれば食に於ても亦等なり。方に法をして食と等なら令教め、食をして法と等なら教しむ。是の故に法若し法性なれば、食も亦法性なり。法若し真如なれば、食も亦真如なり。法若し一心なれば、食も亦一心なり。法若し菩提なれば、食も亦菩提なり。・・・・・

 「永平大清規通解」157頁より

 

寬元5年(1247)正月15日 48歳
道元禅師 永平寺に布薩説戒を行う、時に五色の彩雲方丈の正面に映ず。

 
寶治元年、寬元五年丁未正月十五日の布薩の時、開山和尚説戒し給えば、五色の雲、方丈正面の障子に立ち移りて半時斗あり。聴聞の道俗あまた之れを見奉る。其の中に河南庄の中郷より参詣申す人達、此の子細を起證文を以て申し上ぐ、其の文に云く、
志比荘方丈不思議の日記の事
寬元五年歳次丁未正月十五日、説戒。然る日、未の始め自り申の半分に至り、正面の障子に(仁)五色の光有り。聽聞の貴賤之を拝す。其の中に吉田河南荘中郷自り、参詣を企て之を見奉る輩二十餘人。但だ説戒の日多しと雖も、斯の日に相当して参詣の條、然ら令むる故なり。此の條、虚言と為す者は永く三途に堕在せしむ。仍て今自り以後は傳え聞きて随喜せん為、記置の状、件の如し。
二代和尚御自筆を以て書して云く、當山開闢堂頭大和尚、方丈に就いて布薩説戒の時、五色瑞雲正面に明らかに障子に現ず、彼の障子は千歳を経て破損すとも、彼の舊破の骨紙等、當寺の重寶として之れを安置す。其の現瑞の日時等の記、別紙に在り、今暫く方丈天井の上に安置す、後々重寶と為すべきなり。文永四年九月二十二日之れを記す。小師比丘懐弉判(此の正本今に至り方丈の寶藏に之れ有り。)
  (永平高祖行状建撕記より)

 

寬元5年(1247)

同年 是春
道元禅師「立春大吉文」一篇を撰す。

 

 南謨佛法僧寶大吉
 立春大吉一家祖師祖宗
 大吉佛法弘通大吉大吉
 祖道光揚大吉寺門繁昌
 大吉門子多集得人逢時
 天下歸崇吾道大吉大吉
  大吉立春大吉(華押)
 大吉開山永平大吉道玄
 寛元五年丁未立春大吉大吉

 

宝治元年(1247)
同年 是夏
道元禅師 義介を永平寺監寺に充つ。

 

同年8月3日
道元禅師 鎌倉に向かい、北条時頼に菩薩戒を授く。

 
寶治元年八月三日、鎌倉御下向の事。
西明寺殿、法名道宗、堅く請い申されるに依り御下向。やがて菩薩戒を受け給う。其の外の道俗男女、受戒の衆、数を知らずと云々。
寺院を建立して開山祖師と仰ぎ奉るべき由、再三言上ありつれども、越州に小院の檀那なりとて、堅く辞して蘭溪禅師を請し出し給うべしとて、我われ竊(ひそ)かに鎌倉を出、越前永平寺へ帰りまします。其の時の建立寺院は今の建長寺なり。
 (永平高祖行状建撕記より)

 

寶治元年丁未、鎌倉西明寺殿に在りて、(北の御方より) 道歌を御所望の時、教外別傳を詠み給う。
 

 「荒磯の浪(波)もえよせぬ高岩にかきもつくへき法(のり)ならばこそ。」

 (永平高祖行状建撕記より)


(面山の『傘松道詠』には『最明寺道崇禅門の請によりて題詠十首』とあるが、『建撕記』には題詠十首の言葉無し。また
面山本は和歌題名のみをあげ、皆傘松道詠にありとて上記以外の和歌を省略する。

 

その他の歌は下の「道元禅師・御詠和歌」参照のこと。

  

平成十四年三月、道元禅師七百五十回大遠忌を記念し、鎌倉鶴岡八幡宮の休憩所に「曹洞宗高祖道元禅師顕彰碑」が建てられ、永平寺七十八世宮崎奕保禅師の揮毫なる「只管打坐」と刻まれた石碑が建立された。


同年10月
道元禅師 宋僧道隆(蘭溪)の送簡に答う。

 
蘭渓とは今の建長開山道隆禅師の御事なり、道隆禅師は楊岐十世の孫、無明慧性に嗣ぎ、松源岳に性嗣するなり。

建長開山より永平開山へ来たる書札の事。(略)
 (永平高祖行状建撕記より)


同年 立冬
道元禅師「弘法大吉文」一篇を撰す。

 

同年 孟冬

道元禅師「発願文」を鎌倉にて撰す。

 

「承陽大師発願文」

願は我と一切衆生とともに今生より乃至生々をつくして
正法をきくことあらん、聞ことあらんとき、正法をぎじゃくせじ、ふしん
なるべからず、まさに正法にあわんとき、世法をすてて佛法受持せん、
遂に大地の有情と共に成道する事を得ん、願は我過去の
悪業多くかさなりて障道の因縁ありとゐへども、佛道によりて得道せり、諸佛諸祖、われをあわれみて業累を
げだつせしめ、學道さわりなからしめ、そのくどく
法門、普くむじん法界に充満彌淪せらん、あわれみを
われにぶんぷすべし、佛祖の往昔は我等なり、我
等の當來は佛祖ならん、佛祖をごうくわんすれば
一佛祖なり、發心を觀想するにも一發心なるべし、
あわれみを七通八達せんに、得くべんぎなり
落べんぎなり
 寶治元年丁未孟冬
  比丘道玄 鎌倉におゐて

     「永平寺史・上巻」129,130頁より

宝治2年(1248)2月14日 49歳
道元禅師 相模鎌倉郡名越白衣舎に、阿闍世王六臣の法語を草す。

 阿闍世王之六臣
 一者月稱大臣
 二者蔵徳大臣
 三者實徳大臣
 四者悉知義大臣
 五者吉徳大臣
 六者無所畏大臣
 大臣月稱言、如王所言、世有五人、不脱地獄、誰往見之、・・・・
 寶治二年戊申二月十四日書于相州鎌倉郡名越白衣舎

 

相州鎌倉に在て驚蟄を聞いて作す。
半年飯を喫す白衣舎、老樹の梅花霜雪の中。驚蟄一聲霹靂を轟す、帝鄕の春色、小桃紅ならん。

 「永平廣録注解全書」下巻 六六四頁より


同年3月13日
道元禅師 鎌倉より永平寺に還る、翌日上堂す。

 

寶治二年戊申三月十三日、鎌倉より御帰りあり。同十四日上堂して云く、
山僧、昨年八月初三日、山を出て相州鎌倉郡に赴き、檀那俗弟子の為に説法す。
今年今月昨日、寺に帰て今朝陞座す。這一段の事、或は人有り疑着せん。
幾許の山川を渉て俗弟子の為に説法す。俗を重くし僧を軽くするに似たりと。
(此の次き数多くなる故、之れを略す。其の末句に云く、)
山僧出去て半年餘、猶孤輪の大虚に處するが若し、今日帰山雲喜氣、愛山の愛初めより甚だし。
 (永平高祖行状建撕記より)

 

「玄明首座追放の件」

道元和尚、越前へ御帰りの後、西明寺殿、願心を遂んが為、越前国の内六條の保と申す二千石の在所を永平寺領に寄進申さるる、然りと雖も、師、終(つい)に之れを受け給わず返進し給う。
永平寺の玄明首座と申す老僧、此の寄状の使いをせらる。六條保寄進の事は愚僧が高名なりとて、歓喜し衆中をふれあるき給う事を、師聞きたまいて、悦喜する心中きたなしとて、軈(やが)て寺を擯出し給うて、玄明の坐禅せし僧堂の床縁をきり、地を七尺ほり捨て給う、前代未聞、見ざる事なり。

此の玄明首座は生(いき)羅漢と申し伝う。開山御入滅後、百三十年已後にて、伊豆の国箱根山にして行脚の僧に逢うて、我は永平寺の玄明首座なりとて、開山和尚の御時代の事を委しく物語して、竹杖にすがりて立ち給いたるを見てありつると、其の行脚の僧、永平寺へ来て物語りしあると申し伝うるなり。
  (永平高祖行状建撕記より)

しかし、大久保道舟著の「修訂増補 道元禅師傳の研究」276~279頁には下記のようにある。
「(道元)禅師の會下に玄明なるものがいて、何か放逸な行いをしたために罰せられたことはあったらしく(中略) 、玄明の人物は『聞書』に見える程度のもので、一會の首座たる資格をもってはいなかった、況んや入祖堂牌を贈られるほどのものでもない、これは全く建撕記の記事に惑わされ結果であると思う。
現今永平寺承陽殿に『玄明首座』と書いた位牌があって、その裏に『高祖六百五十回大遠忌ニ際シ、仁藤巨寬以下十二名ノ発願ニテ、真前ニ於テ特ニ懺悔ヲ行ヒテ恩赦を蒙リ、併セテ入祖堂牌ヲ建立スル者也』と識されている。」 (以上)

 

明治35年(1902)5月8日

仁藤巨寬以下十二名の発願にて、森田悟由禪師、高祖真前に懺謝を行い、玄明上座の恩赦を蒙り、あわせて入祖堂せしむ。

 

同年4月

 永平寺僧堂に芳香の瑞相現る。

 

今年四月より十一月十二日迄、時々異香の殊勝なるが僧堂の内外に薫じ渡りたるに、開山和尚、書し置かせ給う。
 永平高祖行状建撕記より)


同年 是夏
道元禅師 是より先、山城生蓮房妻室の寄する所の細布を以て自ら袈裟一領を縫う、是夏、袈裟嚢を縫うて之に納む。

 

寶治二年十一月一日 傘松峰を吉祥山と名く。

 南閻浮提日本國越前 吉田郡志比庄傘松峯 從今日名吉祥山 諸佛如来大功徳

 諸吉祥中最無上 諸佛倶来入此處 是故此地最吉祥 寶治二年十一月一日

 (花押) 

 永平寺山門額・寶治2年11月1日 (東川寺撮影)
 永平寺山門額・寶治2年11月1日 (東川寺撮影)

 (現山門のこの額面の揮毫は面山瑞芳の筆。)(参照1)

 

現在、永平寺の山門にこの額が掲げられているが、この額には疑問が残る。

既に、『寬元二年七月十八日、和尚を請し奉りて開堂説法す。爾の時和尚云く、今日より此の山を吉祥山と名づけ、寺を大佛寺と號す。即ち頌を作りて云く、諸佛如来大功徳、諸吉祥中最無上、諸佛倶來入此處、是故此地最吉祥。』と吉祥山と名付けられているのである。

 宝治2年(1248)・寬元2年(1244)

この額字文面は「訂補建撕記」よると道正庵に真筆寫があるとされるのだが疑問

 

同年12月21日
道元禅師 永平寺庫院制規五箇條を草す。

 

宝治3年(1249)正月1日 50歳
歳朝上堂。(祖山本 永平廣録 考注集成 上巻 351頁)

道元禅師 羅漢供法會を行う。

 

寶治三年正月一日、羅漢供の法會あり。此の時、供養を受け給うべき為に、生(いき)羅漢達、光を放ち、山の奥より法會道場へ降臨あり。寺中の木像畫像の羅漢、また諸佛相い共に光りを放ちて供養を受け給う。
大唐には天台山に五百の生羅漢まします。吾朝には此の山中ならでは生羅漢の在所はなしと、開山和尚の御自筆にて書し置せ給う。此の正本は檀那の重書箱にあり。
 永平高祖行状建撕記より

 

寶治三年酉正月一日
巳午の時、十六大阿羅漢を吉祥山永平寺の方丈に於いて供養す。
于時、瑞華を現ずるの記。
佛前、特に殊勝美妙に現ず。
木像十六尊者、皆現ず。
繪像十六尊者、皆現ず。
瑞華を現ずるの例は大宋國台州天台山石橋而已、餘山未だ嘗た聞かず也。
當山已に現ずること數番なり。寔に是れ瑞祥の甚しき也。測り知りぬ。
尊者當山を哀愍し覆護して、當寺の人法是如き所以なり。
  開闢當山沙門 希玄
    「承陽大師御傳記」225~226頁より

 

宝治3年正月
道元禅師「吉祥山永平寺衆寮箴規」一巻を撰す。

 

吉祥山永平寺衆寮箴規
寮中の儀、當に佛祖の戒律に敬遵して、兼ねて大小乗の威儀に依随し百丈清規に一如す應し。清規に曰く、事の大小無く、並びに箴規に合(かな)う。然らば即ち須く梵網経、瓔珞経、三千威儀経等を看るべし。
寮中に應に大乗経並びに祖宗の語句を看るべし、自ら古教照心の家訓に合ふべし。
先師衆に示して云く你ち曽て遺教経を看るや・・・・・
 寶治三年正月日記 

今年正月十一日より初めて衆寮清規を読み始めらる。
毎年毎月朔日十一日二十一日に、後世晩學の僧達、輪次につとめて菓子と湯とを調え、大衆、衆寮へ集来して湯を飲み畢んぬ。首座の役にて此の清規を読み聞かせらる。此の義規開山以来今に至るまで退轉せず。此の清規は僧中一生涯の起居動静の間、主賓の禮子、修善遮悪の示しなり。如何なる愚人の耳裏にもおつるやうに書し給うなり。
 (永平高祖行状建撕記より)

 

下記載は「永平寮中清規」(面山老禪師校正)で明和九年壬辰九月、京師書林・風月庄左衛門の発行したものです。
内容は「吉祥山永平寺衆寮箴規」その他が掲載されています。

 

 寮中清規・衆寮清規-1(東川寺蔵)
 寮中清規・衆寮清規-1(東川寺蔵)
 寮中清規・衆寮清規-2
 寮中清規・衆寮清規-2

建長元年8月
道元禅師 観月画像に自賛を題す。(福井県宝慶寺所蔵)

 
気宇爽清山老秋、◆(虚見)天井皓月浮、一無寄六不収、任騰騰粥足飯 足、活◆(魚發)◆(魚發)正尾正頭、天上天下雲自水由。
 建長己酉月圓日
越州吉田郡吉田祥山永平寺開闢沙門希玄自賛
  「修訂増補 道元禅師傳の研究」 384頁より

 

建長元年9月10日
道元禅師 盡未来際、吉祥山を離れざるを誓う。

 
開山和尚五百年の際、此の吉祥山を離れずと云う御誓約之れありと古今に申し傳う。然かれと雖も本記録に未だ見い出せず。今に思量するに此の法語其れかと覺う。
九月初十日、師衆に示して云く、今より盡未来際、永平老漢、恒常、山に在りて、晝夜當山の境を離ず、國王の宣命を蒙ると雖も、また誓て當山を離れず、其の意如何、唯(ただ)晝夜間断無く精進経行し積功累徳せんと欲するが故なり、此の功徳を以て先づ一切衆生を度し、見佛聞法して、佛祖の窟裏に落とさんと、其の後、永平、大事を打開し、樹下に坐し、魔波旬を破り、最正覺を成ぜん。重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を以て説きて云く、古佛修行多有山、春秋冬夏亦居山、永平欲慕古蹤跡、十二時中常在山。  (永平高祖行状建撕記より)

 

同年10月18日
道元禅師 永平寺住侶心得九箇條を制定す。

 

建長2年(1250)正月11日 51歳
道元禅師 永平寺に重ねて「正法眼藏洗面」一巻を示す。

 建長二年庚戌正月十一日越州吉田郡吉祥山永平寺示衆

 

建長2年6月10日

六月初十、祈晴上堂。(祖山本 永平廣録 考注集成 上巻 429頁)

 

六月初十、晴れを祈る上堂に、去年今年、春夏秋冬、天下降雨、昼夜息(や)まず。百姓憂愁し、五穀登(とう)せず。今、永平長老、国土の憂愁を済様(さいよう)せんが為に、先師天童、清凉に住せし時、晴れを祈る上堂を挙して、亦、以て晴れを祈る。所以は何んとなれば、仏法、如(も)し加せずば、人天の苦しみ若(いか)が為(せ)ん。大衆、還(また)、永平の意旨を委悉すや。先師、未だ上堂せざりし時、諸仏諸祖、未だ曾て上堂せず。先師、上堂の時、三世の諸仏、六代の祖師、一切鼻孔、万箇眼睛、同時に上堂す。一刻も先(さきん)ずることを得ず。半刻も後(おくる)ことを得ざるなり。永平、今日、上堂、亦復(また)是の如し。良久して云く、一滴息まず、両滴三滴。滴滴瀝瀝、連朝至夕なり。変じて滂沱を作す、奈何(いかん)ともすること忽し。山河大地、風波を袞ず。打噴嚏(たふんしょう)一下して云く、総じて衲僧の噴嚏一激を出ずして、雲開き日出ずることを得たり。拂子を挙して云く、大衆、者裏(しゃり)に向って看るべし。朗朗たる晴空八極を呑む。若し、還(また)旧(ふるき)に依って、水漉漉せば、渾家、羅刹国に飄堕(ひょうだ)せん。稽首、釈迦、南無弥勤、能救世間苦、観音妙智力。咄。

(この上堂は永平広録の中にあっても、異質な法語である。建長の始め長雨の為に凶作となった。そこで道元禅師は晴天を祈願して上堂したのである。尚、噴嚏はクシャミのこと。

 

同年8月12日
道元禅師 永平寺山下居住の輩に法語十八條を説く。

 「永平開山 道元和尚仮名法語」

 

建長2年(1250)(永平広録による推定) (注1)

 育父、源亜相の為にする上堂。
永平が拄杖一枝の梅、天暦年中殖種し來る。
五葉の聯芳今未だ舊(ふるび)ず。
根莖果實、誠に悠なる哉。

「永平道元和尚廣録巻之五 永平寺語録巻第五

(祖山本 永平廣録 考注集成 上巻 419頁)

「永平廣録注解全書・中巻」212頁より

ここに「永平が拄杖一枝の梅、天暦年中殖種し來る。」とある。天暦(てんりゃく)年中とは、天慶(947)年の後、天徳(957)年の前までの期間であって、村上天皇の時代。道元禅師が村上天皇の末裔とするのはこの上堂語に依ると考えられる。

 

同年 是歳

 波多野義重、一切経を書写せしめて永平寺に供養す。


建長二年開闢檀那雲州太守より一切経を書写して永平寺に安置すべしと云う書状當來の日、上堂して云く、擧す僧投子に問う、一大蔵経還て奇特有りや無しや、投子云く、大蔵経を演出す、投子古佛既に恁麼道、山門の多幸、因に一偈有り、雲水の為に道ん、乃云、大蔵経を演出して、須く大丈夫を知るべし、天人賢聖の類、幸いに護身符を得たり、恁麼の時如何ん、良久して云く、世間必ず阿羅漢有り、善悪豈に因果の途無しや。
(護身符とは身を護る符なり、佛経を誦み書けば生前死後其の身を守る符なり、一切経を指してのたまう。)

大蔵経當山に書写すべきの由、雲州太守悦書重而到来する日、亦上堂して云く、毘慮藏海、古今に傳う、三び法輪を大千に轉ず、千岳萬峯黄葉色、衆生道を得て一時に圓なり。 (永平高祖行状建撕記より)

 

建長3年(1251)正月5日 52歳
道元禅師 越前志比荘霊山院の庵室に花山院宰相入道某と佛法を談ず。

 
建長三年、當山の奥に常に鐘聲の聞こゆる事、檀越より相い尋ねについて、御返事なり。
御尋ねについて申し候。此の七八年の間は、度々に候なり。今年正月子の時、花山院宰相入道と希玄と、霊山院の菴室に、佛法の談議し候處に、鐘聲二百聲ばかり聞こえ候。其の本京の東山清水寺の鐘、若しは法勝寺の鐘の聲かと聞こえ候、随喜して聞き、そゞろにたふとくおほえ候。宰相も不思議の霊地なりと、随喜し入りて候ひき。
入道ぐせられて候(えども)、中将兼頼(かねより)朝臣、一室にありなから聞かずとあり。めのと子に右近蔵人入道経資法師、これも聞かずと候。其の外か女房二三人侍(さふらひ)、七八人候も、皆なうけたまはらす候よし申し候。
(鐘聲について開闢檀那へ御返事なり、希玄とは和尚の御名なり。)

 
(面山本ここに賜紫衣の記事をかかぐ、天文本、元禄本何れにも此の記なし。)

  (永平高祖行状建撕記より)

 
 道元禅師 後嵯峨院より紫衣を賜う。(面山本のみ記載あり)

「永平谷浅しと雖も勅命重きこと重重、却って猿鶴に笑われん紫衣の一老翁」

 

建長3年(1251)9月9日

「山居」

「三間の茅屋清凉に足れり。鼻孔瞞じ難し秋菊香し。鉄眼銅睛何ぞ潦到せん。越州にして九度重陽を見ん。」(祖山本 永平廣録 考注集成 下巻 427頁)

 

建長4年8月13日?

準書状、懐鑑上人忌辰の為に上堂を請す。(祖山本 永平廣録 考注集成 下巻 137頁)

 

建長4年(1252)7月 53歳
 某、道元禅師の命により「志比荘方丈不思議日記事」を写し進ず。

 

建長4年(1252)9月2日

 源亜相忌上堂。
曰く、父母の恩を報するは乃ち世尊の勝躅なり。恩を知て恩を報ずる底の句作麼生か道はん。恩を弃て早く入る無爲の郷、霜露盍ぞ消せらん慧日の光。九族生天猶を慶ぶ可し、二親の報地豈に荒唐ならんや。
擧す、薬山坐する次で、僧有り問う、兀兀地什麼をか思量す。山云く、箇の不思量底を思量す。僧曰く、不思量底如何が思量す。山云く、非思量。永平今日這の則の因縁を頌、二親の為に報地を荘厳す。
良久して云く、非思量の處思量を絶す、切に忌む玄を將て喚で黄と作ことを。剝地に識情倶に裂断すれば、鑊湯爐炭も也た清凉。
「永平廣録注解全書・中巻」644頁より

「道元禪師語録」大久保道舟譯註(昭和54年:特装版 79頁)

 

この時の「源亜相忌上堂」法語の中に『父母の恩』『二親の報地』『永平今日這の則の因縁を頌、二親の為に報地を荘厳す』とある。
育父とされる源亜相の忌日に上堂した法語であるが、源亜相に対して『父母』あるいは『二親』と唱えかけているのは、明らかに源亜相を『父』『二親』と意識した言葉であろう。(尚、永平広録に慈父とあるのは釈尊のこと。)

 
この上堂法語、「祖山本永平廣録考注集成 下巻」 159~160頁には下記のようにある。

「永平道元和尚廣録巻之七 永平寺語録巻第七」

源亜相忌の上堂に云く、父の恩を報ずる、乃ち世尊の勝躅なり。知恩報恩底の句、作麼生か道ん。恩を弃て早く入る無爲の郷。霜露盍ぞ消えざらん慧日の光。九族生天、猶、慶ぶべし、二親の報地、豈、荒唐ならんや。擧す。薬山坐する次に、僧有って問う「兀兀底思量作麼」と。山云く「思量箇不思量底」と。僧曰く「不思量底、如何が思量せん」と。山云く「非思量」と。今日、殊に、這箇の功徳を以って報地を荘厳す。良久して云く、思量兀兀、李と張と、談玄を畢んと欲するに、又、黄を道う、誰か識らん、蒲団禅板の上、鑊湯爐炭自ら清凉なり、と。


同年 是秋
 道元禅師、病む。

 

建長四年、今夏のころより微疾まします。

最後の教誨は正法眼蔵八大人覺の巻なり。
此の教誨は佛の遺教経をもととして遺言なりと見えたり。
一者少欲 此の心は名利を求ることなかれ、無欲ならば憂いもなし、諸の功徳を自生する也。
二者知足 此の心は世間の苦悩をのかれんと思はヽ、富貴の人も其の生れつきまて、貧人も生れつきまて、我れより下の貧を憐み上の望なしそとなり。人々我か身の上を満足と思へは更に不足なし。
三者寂静を楽しむ 心は人間の事を捨て、山林に深く閑居すれは、諸天にも萬人にも敬い重せらるる也。
四者勤て精進せよ 心は出家人我か勤行を能くつとめすれは、求る事皆な叶う、をこたれは不叶也。
五者不忘念 心は善知識にならんと思はヽ、一念もさしをく事なかれ、其の時は煩悩も自ら来たらず。
六者修禪定 心は心を静にをさめて坐禪せよと也、此の時自ら世間無常の道理を得る也。
七者修智慧 心は若し智慧ある人は、萬の物をむさふる事なし。此の理りを能く察して失念すること莫れと。教えの如くならば暗き時に灯りを得るか如し。
八者不戲論 心は何事にも戯れ論する事なかれと也。戯れは心ろ乱る也、静かに死すへき事思へと也。
此の八大人覺の理(ことわり)を知らずんは、佛弟子に非すと仰せらるると云々。
 (永平高祖行状建撕記より)

 

建長5年(1253)正月6日 54歳
道元禅師 永平寺に「佛遺教経」を提唱し、是日「正法眼藏八大人覺」一巻を輯成す。

 

「正法眼蔵八大人覚」 (注2)
建長五年正月六日、永平寺にて書す。

 
 二代和尚云く、右の本は先師開山和尚最後御病中の御草案なり。
仰者(あをぎらくは)以前に撰する所の假名正法眼蔵等、皆な書き改め、竝びに新草具さに都廬一百巻に之れを撰すべし云々。既に御草案始めて此の巻は第十二に當るなり。此の後、御病、漸々に重増するに依て、御草案等の事、即ち止むなり。所以に此の御草等、先師最後の教勅なり。我等不幸にして未だ一百巻の御草を拝見せず。もっとも恨む所なり。若し先師を恋慕し奉る人は、必ず此の十二巻を書写して之れを護持すべし。此れ釈尊最後の教勅、且は先師最後の遺教なり。
 如今建長七年乙卯十月十四日、義演書記をして書写し畢る。同じく之れを一校す。懐弉之れを記す。
正本の奥書に云く、建長四年の暮れより建長五年の正月六日に及び永平寺にて書す。
 昔し老僧達は此の巻を拝見せらるヽ時は感涙をもよをされ、住持も是れを談せらるヽ時は聲をあけて啼き給う。此の巻を捧て云く、是れこそ開山和尚の御遺言よ、此にしての旨をまほらは宗風永扇、門派流通、退轉すへからすと云う。開山大和尚は五十四歳御早逝なり。その遺言ある、聲に御早逝ををしみ奉てなけき給うなり。此れは八つの名目はかりを記す、志し親切の輩は本祿を委しく拝見すべしと云々。
  (永平高祖行状建撕記より)

 

同年4月27日
道元禅師 越前志比荘霊山院庵室に於いて、懐鑑終焉の事を義介に問う。


同年7月14日
道元禅師 永平寺住持職を懐奘に譲り、併せて自縫の袈裟一領を附す。

建長五年七月十四日、二代弉和尚御入院あり。開山御在世の内なり。
 (永平高祖行状建撕記より)


同年7月8日
道元禅師 病重ねて増発す、義介之に侍る。 永平寺3世・徹通義介禅師参照)
同年7月23日
 義介、一週日の暫暇を道元禅師に請うて永平寺を出て、尋で帰寺す。
同年8月3日
道元禅師 八齋戒の印板を義介に與う。


同年8月5日
道元禅師 京都六波羅波多野義重の勧説により、懐奘、義介等を伴い、療養のため上洛の途に就く。

 
八月初五日開山御上洛、二代弉和尚も御伴なり。是れは開山御病起こるについて檀越雲州太守頻りに上洛有れと望み申さるる、故は名医に逢せ申し、御養性の為なり。御上洛の其の日、御頌歌之れ在り。

頌に云く、
十年喫飯す永平寺。十箇月来、病状に臥す。
薬を人間(じんかん)に討て、暫く嶠を出ず。
如来、手を授て醫王に見しむ。

同歌
草の葉にかとてせる身の木部山、雲にをかある心地こそすれ。

 (永平高祖行状建撕記より)

 
同年8月6日
 義介、越前脇本の宿に道元禅師に別れ永平寺に帰る。

 

現在、道元禅師が宿泊され、義介と別れた元「脇本の旅館」跡には「道元禅師御旧蹟」の碑が建てられている。

これは昭和四十二年に「道元禅師脇本旅館御遺跡顕彰会」によって建立され、永平寺七十三世熊沢泰禅禅師が揮毫された。

 さらに、木の芽峠には永平寺五十七世載庵禹隣禅師が「道元大禅師」の顕彰碑を建立し、後、昭和十五年九月二十九日に懐奘禅師・義介禅師の碑を左右に建て永平寺六十八世秦慧昭禅師導師のもと改修落成法要が厳修された。


同年8月15日
道元禅師 中秋の和歌を詠ず。 

 
御入滅の年八月十五日夜御詠歌に云う。
「又見んと思いし時の秋たにも今夜の月に子(ね)られやはする。」
  (永平高祖行状建撕記より)


建長5年(1253)8月28日(陰暦)(陽暦9月29日)
 道元禅師、京都高辻西洞院覺念の邸に示寂す、五十四歳。

  尋で東山赤辻に於いて荼毘に付す。

 

丹波路より御上洛と云々。高辻西の洞院覺念の私宅に御宿し給うて、御違例、増減無し、或る日一日室内を経行あつて、低聲に誦して云く、「若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於いても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在りても、若しは山谷曠野にても、是の中に皆應に塔を起てて供養すべし。所以は何ん、當に知るべし、是の處は即ち是れ道場なり、諸佛此に於いて、阿耨多羅三藐三菩提を得、諸佛此に於いて法輪を轉じ、諸佛此に於いて、般涅槃したもう。」と誦し畢て後ち、此の文を軈て面前の柱に書きつけ給う、妙法蓮華経菴と書し留め給う。
同八月二十八日甲戌寅の時、御辞世の偈を自ら書して云く「五十四年、照第一天、打箇◆(足扁に孛)跳、触破大千、渾身無覔、活陥黄泉」、乃咦を謂い畢り筆を擲(ながうち)て逝く。(行状記には大千の次に咦の字あり。)
 御入滅の形相、現厳たる時の如し、雲州義重、天を仰ぎ地に卧し、五十四年の御早逝ををしみ給う事、比類無し、覺念其の外僧俗の遺弟等、悲歎の聲更に絶えず、懐弉は膽をけして半時ばかりは絶え入り給う。御形躰をば洛陽の天神中小路の草庵へ入れ奉る事を調う。
其の後、雲州然るべき在所を尋ねらる。東山の赤辻に小寺のありしに尊龕を移し奉りて法に依りて火葬し奉る。
九月六日に設利羅(舎利・遺骨)を収めて、京城を出て、同十日酉の刻に越州吉祥山へ至り給う、同十二日申の刻に方丈にて入涅槃の儀式の如く、茶果珍饈香華灯燭を備え供養を致し、法事勤行孝禮悉く之れ有り、本山西隅に搭し、承陽と號すと。
其の後、覺念、妙法蓮華経菴と書付けまします柱をえりぬいて、以て越前の國今南東の郡月の尾を山の下(ふもと)に塔婆を建立し、此の柱を即ち中心柱として日々供養し奉ると云々。 (永平高祖行状建撕記より)

 
道元禅師 遺偈

「五十四年、照第一天、打箇◆(足扁に孛)跳、触破大千、

 咦、渾身無覔、活陥黄泉」

 道元禅師・遺偈(画像・東川寺作)
道元禅師・遺偈(画像・東川寺作)

 

如浄禅師の遺偈は「六十六年 罪犯彌天 打箇◆(足扁に孛)跳 活陥黄泉 咦」とされており、道元禅師はこの如浄禅師の遺偈を念頭に御自身の遺偈を遺されたものか。

 

昭和十三年、京都市下京区高辻西洞院西入ル北側(松原郵便局側入口)に「道元禅師遺蹟之地」、昭和五十五年に「道元禅師示寂聖地」の碑が建てられた。


道元禅師の荼毘塚は昭和二十九年、西行庵裏の五輪塔奉安の地を整備し、「曹洞宗高祖道元禅師荼毘御遺跡之塔」が建てられ曹洞宗管長高階瓏仙禅師により開眼された。

 

建長5年(1253)9月6日
 懐奘等、道元禅師の舎利を収め、京都を出て越前に向かう。

同年9月10日
 懐奘等、永平寺に著す。
同年9月12日
 懐奘等、道元禅師の入涅槃の儀式を行う。

 

以後、道元禅師の遺骨を永平寺の西北隅に奉祀し、塔を建てて「承陽庵」とし、懐奘の朝夕その真前に給侍すること、恰も生ける道元禅師に接するが如くであった。

 

永平寺にはその時点で既に如浄禪師の塔として承陽塔があり、寂円がその塔主だったとも云われています。

 

                             (本文終)

 



 

「道元禅師・御詠和歌」

 

盡十方界眞實體を詠み給う。
世の中に眞(まこと)の人やなかるらん限(かぎ)りも見へぬ大空の色。


見桃花悟道を詠む。
春風に綻びにけり桃の花枝葉にわたる疑いもなし。


十二時中不空過を詠む。
過にける四十(よそじ)餘りは大空の兎(うさぎ)烏(からす)の道にこそありける。


父母初生眼を詠む。
尋子(ね)入るみやまの奥の里なれば本とすみなれし京(みやこ)なりけり。


本來面目を詠む。
春は花夏ほとときす秋は月冬雪きえてすゝしかりけり。


應無所住而生其心を詠む。
水鳥の行くも帰るも跡たえてされ共路はわすれさりけり。


不立文字詠む。
謂(いい)すてし其の言葉の外なれは筆にも跡を留めさりけり。


即心即佛を詠む。
鴛(おし)とりか白鷗(かもめ)とも又見えわかす立つ浪あいの泛(うき)つ白浪。

 

行住坐臥を詠む。
守るとも覺えすなから子山田のいたつらならんかゝし成けり。


正法眼藏を詠む。
波も引き風もつなかぬ捨小舟(すてをふね)月こそ夜半のさかい成けり。

 


涅槃妙心を詠む。
いつも只我か古里の花なれは色もかはらぬ過し春る哉。

 

題法華経五首云く


夜もすから終日(ひねもす)になす法(のり)の道ち皆な此の経の聲と心ろと。


渓に響き峯に鳴く猿妙々(たえたえ)に只此の経を説くとこそ聞け。


此の経の心を得るは世の中に売買(うりかう)聲も法を説くかわ。


峯の色谷の響も皆なから吾か釈迦牟尼の聲と姿と。


誰れとても日影の駒は嫌わぬを法りの道ち得る人そ少なき。

 
草庵の隅詠三十首


草の庵にねてもさめても申す事南無釈迦牟尼佛憐み給え。(「かえり見給え」とも)


をろかなる吾れは佛けにならすとも衆生を渡す僧の身ならん。


嬉(うれし)くも釋迦の御(み)法のあふみ草かけても外の道をふまはや。


駟(よつ)の馬四つの車に乗らぬ人と眞(まこ)との道ちをいかてしらまし。


山深み峯にも谷(に)も聲たてゝ今日もくれぬと日暮そなく。


春風に吾か言の葉の散ぬるを花の歌とや人のなからん。


あつさ弓春の山ま風せ吹ぬらん峯にも谷も花な匂いけり。


頼(たの)みこし昔のしゅうやゆうたすき哀(あわれ)をかけよあさのそてにも。


をろかなる心ろ一つの行く末えを六つの道とや人のふむらん。


足ひきの山ま鳥の尾のしたり尾の長(なか)々し夜も明けてける哉。


六つの道ち遠近(をちこち)迷う輩(ともがら)は吾か父そかし吾か母そかし。


賤士(しつのを)のかき根に春の立ちしより古るせにをうる若菜をそつむ。


早苗(さなえ)とる春の始の祈(いのり)には廣瀬龍田の政(まつり)をそする。


大空に心ろの月をなかむるも闇(やみ)に迷いて色ろにめてけり。


安名尊(あなとうと)七(なら)の佛けのふる言はまなふに六つの道に越えたり。


(此歌不審、安名尊ナヽノ佛ノ宣言ノフルコトハ學-タリ、若シ如此ナルヘキカ)
(七ノ佛ハ三如來四菩薩ナリ)
欄外に記す
(我かたのむ七のやしろのゆうたすきかけても六の道にかえすな 自賛にあり)


本と末えも皆な偽(いつわ)りのつくもかみ思い乱るゝ夢をこそ説け。


夏つも冬も思いに分(わか)ぬ越(こし)の山ふる白雪も鳴るいかつちも。


都には紅葉しぬらん奥山の今夜(こよい)もけさも霰(あら)れふりけり。


我か庵は越しの白(しら)山ま冬ゆ籠り氷も雪も雲かゝりけり。


あつさ弓春る暮れ果(はつ)る今日(けう)の日を引き留めつゝをちこちやらん。


花な紅葉冬の白雪(しらゆき)見ることも思へはくやし色ろにめてけり。


草庵に起きてもねても申す(いのる)こと我れより先に人を渡さん。


閑(いたつ)らに過す月日わ多けれと道をもとむる時そすくなき。


いたゝきに鵲(かさゝき)巣(す)をやつくるらん眉ゆにかゝれり蜘蛛(さゝかに)のいと。


聲つから耳の聞ゆる時されは吾か友ならんかたらいそなき。


草の庵夏の初めの衣もかえ涼(すゝし)き簾(すた)れかかるはかりそ。


如何なるか佛けと謂と人と問はゝかいやか下につらゝいにけり。


心ろとて人に見すへき色そなき只露(つゆ)霜もの結ふのみ身て。


世の中わまとより出るきさの尾のひかぬにとまるさわり斗(ばか)りそ。


朝さ日待つ草葉の露のほとなきに急(いそ)きな立ちそ野邊の秋風。


心ろなき草木も今日はしほむなり目に見たる人と愁へさらめや。


隙もなく雪はふれゝり谷深かみ春きにけりと鶯そなく。


此心ろ天(あま)つ虚(そら)にも花そなを三(み)世の佛けにたてまつらなん。

 
右謹で永平初祖大和尚の御詠歌若干首を書写し奉る、□(扌弟)公首座禪師に附授し奉る、伏して乞う洞宗大に興て派流通焉、至祝至祝、至祷至祷。
 應永二十七年六月朔、寶慶八世洞雲比丘喜舜在判。

 
(上記の歌は「永平高祖行状建撕記」より)

 

尚、道元禅師御歌集として「傘松道詠集」面山瑞方編があるが、「永平高祖行状建撕記」に収められている歌とは多少の違いがある。(歌の数、内容とも)
しかし、上記の道元禅師御歌とされている歌の中にも道元禅師御自身が歌われた歌では無い歌が混在しているとの説もある。

 

尚、「新後拾遺和歌集」には道元禅師の和歌一首がある。

『山のはに ほのめくよひの 月影に 光もうすく とぶ蛍かな』(新後拾遺699)

 



(参照1)

 

永平寺山門の額について

 

南閻浮提日本國越前 吉田郡志比庄傘松峯 從今日名吉祥山 諸佛如来大功徳 諸吉祥中最無上 諸佛倶来入此處 是故此地最吉祥 寶治二年十一月一日(花押)

 

この額は現在も永平寺の山門の正中上に掲げられている。

しかし、この額の文面は偽作と疑われている。

この文面とほぼ同様の文言が寬元二年七月十八日の開堂説法に存在する。

だが、残念なことに寶治、寬元の両方の法語とも「永平広録」には記載されていない。

永平寺史」上巻113~114頁には次のようにある。

 

大佛寺と傘松の峰

 

「傘松峰」と称したとするのは面山の訂補本「建撕記」で寬元二年七月の吉祥山大佛寺開堂の頌を挙げた条下に次の如く補註をしている。

「またこの時には、傘松峯と號して、吉祥山の號には、寶治二年に初て改めらる。額字の寫し、今、洛下道正菴にあり、こヽに記す。『南閻浮提大日本國越前國吉田郡志比荘傘松峯、從今日名吉祥山、諸佛如來大功徳、諸吉祥中最無上、諸佛倶來入此處、是故此地最吉祥。寶治二年十一月一日』と、八行に書せり、これ眞筆の寫しなり。自今日とあれば、昨日までは傘松峯なり、こヽは記者の失考なり」(原片仮名表記)

「傘松」の語は他に面山の「傘松日記」や、「吉祥艸」の十境第一「傘松峰」にもみえるところで・・・・・永平寺の東南峰に老傘松があったことから(『吉祥艸』)、多分に「傘松峰」とは面山によって呼称されたものであろう。・・・『面山廣録』(巻二六)の「永福開山面山和尚年譜」には、 この額についてふれ、それが明和六年(1769)五月のこととして、應永平寺禪師之需、書山門之額、堅五尺、横壹丈二尺、字數六十二字、と記述している。この額は、安永元年(1772)八月、永平寺四七世天海董元の代に修復されて奉掲されたもので、内容は訂補本『建撕記』で延べる如くであるが、一字の相違がある。右の面山の語によって、この額字が面山により道元禪師に擬せられて写されたものであることが判明する。・・・(後略)

永平寺史」上巻より

(尚、相違は二ヶ所ある。大日本國→日本國。志比荘→志比庄。)

 

 さらに、笛岡自照著「永平寺雑考」の「第一永平寺開創考」に「五 永平寺の山号と寺号」(24~31頁)として、山号については、「傘松峰という山号を伝えているのは、建撕禅師の『建撕記』に面山が書き加えた『訂補』だけなのである。」と、この額についての疑問が記載されている。

同著216~221頁には「第六 山門再建と江寂禅師」の中、「九、山門の扁額とその筆者考」として、さらに詳しく、この扁額に関して面山瑞方と江寂禅師との関係を述べている。

 

また、小倉玄照著「永平寺の聯と額」32~35頁には次の様にある。

「・・・ところで、この山門の梁にかかった、いわゆる『吉祥の額』は、江戸時代の曹洞宗教学復興の祖といわれる面山和尚の筆になるものである。もともとは御開山道元禅師の御真筆であったというのだが、山門は文明五年(1473)の火災で焼失してしまったのだから定かではない。現在の額は長い間道元禅師の御真筆を模したものとか、四十二世江寂禅師の筆とか、いろいろせんさくされていた。しかし、最近になって、雲衲の森田忠興君は、山門上に登って寸法をはかり、(堅二一三センチ×二九二・五センチ)裏面の銘文を読み取って考証した結果、面山和尚の筆にほぼ間違いないと判明した。(注、森田忠興『山門の聯額は面山和尚の揮毫』(傘松・第三七六号・昭和49年)」


 

(注1)

 

道元禅師は育父・父親?(源亜相)の為に二回上堂していますが、亡き母親(先妣)の為にも二回上堂し法語を残しています。

 

 先妣忌の上堂。
廃村禿株の梅、洪爐一點の雪。驪珠草鞋に背す、誰か怨みん長天の月。向來は且く致く、永平門下又且つ如何ん。山僧今日報恩の句、拄杖他に向て親く解脱す。
永平道元和尚廣録巻之五 永平寺語録巻第五」

「永平廣録注解全書・中巻」337頁より

 

 先妣忌辰上堂。
乞兒鉢盂を打破する時、桃李縦に霜と雪とを經。吾が佛の毫光十方を照す。光々微妙にして法演説す。這箇は是れ佛祖處分底、更に衲僧行履の處に向て又且つ如何。拄杖を擲下して大衆を顧視し、右手の指を以て指して云く、看よ看よ。衲僧の拄杖巾斗を打すれば觸處一時に業識裂す。
永平道元和尚廣録巻之七 永平寺語録巻第七」

「永平廣録注解全書・中巻」519頁より

 


(注2)

 

上記の正法眼藏の外に撰述年代不明の「正法眼蔵」があります。

 

「正法眼藏」撰述年代不明(十二巻)

 

「正法眼藏三時業」
「正法眼藏四馬」
「正法眼藏出家功徳」
「正法眼藏供養諸佛」
「正法眼藏帰依三寶」
「正法眼藏深信因果」
「正法眼藏四禅比丘」
「正法眼藏生死」
「正法眼藏唯佛与佛」
「正法眼藏道心」
「正法眼藏受戒」
「正法眼藏一百八法明門」

 



 道元禅師・自賛軸 (永平寺所蔵)
 道元禅師・自賛軸 (永平寺所蔵)

佛性傳東國師

 佛性伝東国師(永平寺所蔵)
 佛性伝東国師(永平寺所蔵)

 

佛性傳東國師

 

嘉永7年(1854)2月24日
孝明天皇より道元禅師へ「佛性伝東国師ぶっしょうでんとうこくし」の謚号が下賜される。

 

勅す、吉祥山永平寺開基道元禪師は、本、華冑より出でて便ち桑門に入る。重瞳、室を照して夙に人天の師を表し、一葦、海に航して、遥かに佛祖の道を求む。禪慧圓淨にして彼の震旦の雲を辞し、身心解脱して我が日出の邦に帰る。有爲の法を観じて、萬物を普濟し、無礙の慈を以て、衆生を覺悟す。興聖を城南に創め、吉祥を北越に闢く。玄化偏く覆いて、芳聲遠く播き、九重、想を延きて、萬里、誠に契う。相門は貴を降り、武夫は勇を銷す。盛んなる哉、妙機、大いなる哉、道徳。爾来、瓜瓞綿綿として永平六百の星霜を閲みし、馨香芬芬として楓宸、一脈の天風に薫ず。緬に厥の人を懐う。豈に徽號無からんや。宜しく佛性傳東國師と諡すべし。

 嘉永七年二月二十四日

 

執奏勧修寺前左少辨副翰

越嶺吉祥山永平寺開基道元禪師は、道を幼冲に踏み、法を天童に極む、豊荘を謝め、猿鶴に伴い、竟に邈世に祖たり、綿々たる道場、美なるかな裔戚、潔なるかな道心、其の徳聲遠く昆代に響き、高く天朝に達す、聖旨を降して、爰に徽號を賜い、佛性傳東國師と諡す、是れ偏に祖師の流徳、當任至誠の致す所なり、加之(しかのみならず)上洛参内の令者は寔に以て桑門の紹隆永林の光輝と為るか、因て微意を染め祝毛の状、件の如し。
 嘉永七年四月三日  前左少辨(華押)
永平寺明覺禪師 (永平六十世臥雲童龍禅師)


 (参考、「承陽大師御傳記」267,268頁)

 



承陽大師

 承陽大師(永平寺所蔵)
 承陽大師(永平寺所蔵)

承陽大師

 

明治12年(1879)11月22日 明治天皇より「承陽大師號」を賜る。 

 

 佛性傳東國師
諡 承陽大師
 太政大臣從一位勲一等三條實美 奉
 明治十二年十一月二十二日

 

 承陽大師・副達(永平寺所蔵)
 承陽大師・副達(永平寺所蔵)

(太政官副達)

  永平寺
 今般特旨を以て其宗祖
 佛性傳東國師
 大師號宣下被
 仰出候事
 明治十二年十一月二十二日
  太政官

 

 

明治35年(1902)5月3日 明治天皇より「承陽」の勅額を下賜される。

 

 勅賜「承陽」額(永平寺所蔵)
 勅賜「承陽」額(永平寺所蔵)


 

永平清規

 

「永平清規」は道元禅師が撰述した「典座教訓」、「辨道法」、「赴粥飯法」、「吉祥山永平寺衆寮箴規」、「對大己五夏闍梨法」、「日本國越前永平寺知事清規」の六冊を寛文七年(1667)丁未夏に永平三十世光紹智堂禪師が纏めて「永平清規」(日域曹洞初祖道元禅師清規)として出版したもの。
その後、これを寛政六年(1794)甲寅春に永平五十世玄透即中禅師が旧刊の誤錯を正し「冠註永平元禅師清規」(永平清規)を再版した。
名称も「永平清規」、「永平大清規」、「永平道元禅師清規」、「永平元禅師清規」等があり一定していない

 「永平大清規通解」12頁参考

 

 冠註・永平元禅師清規(東川寺蔵)
 冠註・永平元禅師清規(東川寺蔵)
 永平元禅師清規・光紹跋
 永平元禅師清規・光紹跋
 永平元禅師清規・永平玄透盤談
 永平元禅師清規・永平玄透盤談


 

永平廣録

 

【永平廣録】


別名 「永平道元和尚廣録」「道元和尚廣録」「元祖禅師廣録」などという。


道元禅師の興聖寺・大佛寺・永平寺に於ける上堂・小参・頌古・真讃(佛祖賛)・自賛および偈頌を、門弟の詮慧・懐奘・義演等が輯録したもので、その時期は道元禅師の寂後間もないころと思われる。初めの七巻は前記の三寺における上堂を輯録したもの。全10巻あり、本書は久しく伝写されていたが、寛文十二年八月二十八日に卍山道白が序を付けて翌年刊行した。
伝写本として現存するものに永平寺蔵の門鶴本、日光輪王寺藏の輪王寺本、興聖寺藏の興聖寺本等がある(禅学大辞典参考)


だが大きく分ければ「卍山本」と「祖山本(門鶴本)」の二種類と云えよう。
この二つの本にはかなり異なった箇所が存在する。

 

「永平廣録注解全書」(卍山本)では永平道元和尚廣録巻之一は興聖寺語録巻第一であり、永平道元和尚廣録巻之二は大佛寺語録巻第二、永平道元和尚廣録巻之三は永平寺語録巻第三となっていて、永平道元和尚廣録巻之三から同巻之十までは永平寺語録巻第三~同巻第十となっている。

 

「永平広録」(祖山本)の巻数順に、題簽・説処・内容・編者・説示年月日を示せば次のようになる。


 巻・題簽(説処)・内容・編者・説示年月日

第一・宇治興聖寺語録・上堂・詮慧・嘉禎2年10月15日~寬元元年初夏

(1236~1243)

第二・越州大仏寺語録・上堂・懐弉・寬元2年7月18日~同4年7月17日

(1244~1246)

第三・永平禅寺語録・上堂・懐弉・寬元4年8月~宝治2年4月15日

(1246~1248)

第四・永平禅寺語録・上堂・懐弉・宝治2年4月20日~建長元年8月20日

(1248~1249)

第五・永平禅寺語録・上堂・義演・建長元年8月25日~同3年正月15日

(1249~1251)

第六・永平禅寺語録・上堂・義演・建長3年正月~同3年11月中頃

(1251~1251)

第七・永平禅寺語録・上堂・義演・建長3年11月中頃~同4年冬

(1251~1252)

第八・永平禅寺語録(興聖・大仏・永平)・小参法語・懐弉・嘉禎2年~建長4年

(1236~1252)

第九・永平禅寺語録(興聖寺)・頌古・詮慧等

第十・永平禅寺語録(宋・永平寺)・真賛・自賛・偈頌・詮慧等・貞応2年~建長4年(1223~1252)

(祖山本 永平廣録 考注集成 下巻 448~449頁より)


下の写真は「永平廣録注解全書」と「祖山本 永平廣録 考注集成」である。

 永平廣録注解全書(東川寺蔵本)
 永平廣録注解全書(東川寺蔵本)
 祖山本 永平廣録 考注集成(東川寺蔵本)
 祖山本 永平廣録 考注集成(東川寺蔵本)


 

道元禅師の伝承

 

道元禅師に纏わる色々な伝承がある。
上記の「彈虎の柱杖」、「一葉観音」を始め「神仙解毒万病円」(木下道正)、「陶祖・加藤藤四郎景正」、「大工・玄源左衛門」、「久我肩衝」、「道元緞子」、「玄明首座」、「蛇女と道元和尚」など、その他にも色々と道元禅師に纏わる事柄が伝承されている。

 



(参考1)

嘉定十六年癸未五月中、慶元の舶裏

 

「典座教訓」  観音導利興聖寶林禪寺住持傳法沙門、道元記

 

嘉定十六年(1223)、癸未五月中、慶元の舶裏に在り、倭使頭(わしず)、説話の次で、一老僧有り来る。年六十許歳(ばかり)。一直に便ち舶裏に到て、和客に問うて倭椹を討ね買ふ。山僧他を請して茶を喫せしむ。他の所在を問へば、便ち是れ阿育王山の典座なり。侘云く、吾は是れ西蜀の人なり、鄕を離るること四十年を得たり、今年是れ六十一歳、向来(こうらい)粗(ほぼ)諸方の叢林を歴たり。先年孤雲裏に権住し、育王を討ね得て掛搭し、胡乱(うろん)に過ぐ。然るに去年、解夏了に、本寺の典座に充てらる。明日五日にして、一供渾て好喫する無し。麺汁を做さんと要するに、未だ椹の在らざる。仍て特特として来るは椹を討ね買うて、十方の雲衲に供養せんとすと。山僧侘に問ふ、幾ばくの時にか彼を離るや。座云く、斎了。山僧云く、育王這裏を去つて、多少の路か有る。座云く、三十四五里。山僧云く、幾ばくの時にか寺裏に廻へり去るや。座云く、如今(いま)椹を買い了らば便ち行かんと。山僧云く、今日期せずして相ひ会し、旦らく舶裏に在つて説話す、豈に好結縁に非ざらん乎。道元典座禅師を供養せん。座云く、不可なり、明日の供養、吾若し管せずんば、便ち不是にして了らん。山僧云く、寺裏何ぞ同事の者の斎粥を理会する無らんや。典座一位不在なりとも、什麼の欠闕か有らん。座云く、吾老年にして此の職を掌る乃ち耄及の弁道なり。何を以てか侘に譲る可ん乎。又来る時未だ一夜宿の暇を請わず。山僧又典座に問う、座尊年、何ぞ坐禅弁道し、古人話頭を看せずじて、煩わしく典座に充てて、只管に作務す。甚の好事か有ると。座大笑して云く、外国の好人、未だ弁道を了得せず、未だ文字を知得せざる在りと。山僧侘の恁地の話を聞き、忽然として発慚驚心して、便ち侘に問ふ、如何にあらんか是れ文字、如何にあらんか是れ弁道。座云く、若し問処を蹉過せずんば,豈に其の人に非ざらんや。山僧当時(そのかみ)不会。座云く、若し未だ了得せずんば、侘時後日、育王山に到れ、一番文字の道理を商量し去ること在らんと。恁地に語り了つて、便ち座を起つて云く、日晏了(くれなん)、忙ぎ去かんと。便ち帰り去れり。

 

同年七月、山僧天童に掛錫す時に彼の典座来つて相見して云く、解夏了に典座を退き鄕に帰り去かんとす。適ま兄弟の老子箇裏に在りと説くを聞く。如何ぞ来つて相見せざらんやと。山僧喜踊感激、侘を接して説話するの次で、前日舶裏に在りし文字弁道の因縁を説出す。典座云く、文字を学ぶ者は文字の故を知らんと為す。弁道を務むる者は、弁道の故を肯わんと要す。山僧侘に問ふ、如何にあらんか是れ文字。座云く、一二三四五。又問ふ、如何にあらんか是れ弁道。座云く、徧界曾て藏さず。其の余の説話、多般ありと雖も、今録さざる所ろなり。山僧聊か文字を知り弁道を了ずることは、乃ち彼の典座の大恩なり。向来一段の事、先師全公に説似す。公甚だ随喜するのみ。

 

「永平大清規通解」 著者・安藤文英、補遺・伊藤俊光 57~65頁参照

 


(参考2)

「典座教訓」

 

山僧、天童に在りし時、本府の用典座、職に充てりき。余、因みに斎罷、東廊を過ぎ、超然斎に赴く路次、典座仏殿の前に在りて苔を晒す。手に竹杖を携へて、頭に片笠無し。天日熱し、地甎(ちせん)熱し、汗流れて徘徊すれども、力を励まして苔を晒す。梢(やや)苦辛を見る。背骨弓の如く、龍眉鶴に似たり。山僧近前して便ち典座の法寿を問ふ。座云く六十八歳。山僧云く、如何んぞ行者、人工を使わざる。座云く、侘は是れ吾れにあらず。山僧云く、老人家如法なり、天日且つ恁(かく)のごとく熱す、如何んぞ恁地(かくのごとく)なる。座云く、更に何れの時をか待たん。山僧便ち休す。廊を歩する脚下、潜かに此の職の機要為ることを覚ゆ。

 

「永平大清規通解」 著者・安藤文英、補遺・伊藤俊光 54~56頁参照

 


(参考3)

「宇治観音導利院僧堂勧請之疏」

 

宇治観音導利院僧堂勧請之疏  稽首和南敬白
十方一切諸佛菩薩、賢聖僧衆、天上人間、龍府八部、善男子善女人等、壹銭の浄信を以て、一所の道場を建立せんと欲する事、右菩薩戒経に曰く、若し佛子、常に應に一切衆生を教化して僧坊を建立し山林園田に佛搭を立て作すべし、冬夏安居坐禪の處所、一切行道の處所、皆な之を立つ可し、若し不爾(しからずんば)軽垢罪を犯す、然而(しかして)寺院是れ諸佛の道場なり、神丹の佛寺は天竺の僧院を移し、日本の精舎、亦、彼を學ぶに當る、契徳篤く国に傳へ人に施す處有る。道元入宋帰朝より以来、一寺草創の願志、年久しく月深しと雖も衣盂の拄に應ずる無し、而今、勝地一所を獲て、深草の邊、極楽寺の内に在るは、初めて観音導利院と號し、薙草の上、叢林未だし、此の所に於いて甲刹を構えんと欲す、寺院の最要は佛殿法堂僧堂なり、佛殿は本より有り、法堂未だし、僧堂最も切要なり、今、玆に建てんが為、厥の為躰(ていたらく)七間の僧宇を立て、堂内隔て無く長牀を儲(かまえ)て僧衆、集住す、昼夜行道暫くも懈らず、中正に聖像を安じ、僧衆は圍遶し住す、三寶を一堂に於いて帰崇するの儀䡄行い来たること久しし矣。功徳多く佛事廣かる可し矣。爰(ここ)に一力の終功を覔(もとむ)可きと雖も、偏に良縁結ばんが為に十方に廣化す、竺土漢土の是れ勝躅なり、正法像法の是れ僧儀なり、檀主の名字、聖像の腹心に納め、能く萬字の種智の為とす、自他の文彩を為せん、此れ箇の中に先て、得道の人有るは渠を此の衆の導師と為す、豈に善知識に非らんや、人中を獨進のみにせず、天上龍宮を化す可し、仙界冥府も聴く可し、啻(ただ)是れ釈尊所傳の法輪なり、法界の内外に及ぶこと有り矣。謹んで疏す。
 嘉禎元年十二月日 都勧縁、観音導利院に住す沙門釋。

 

永平六世和尚奥書に云く、佛祖方便門を開き眞實相を示す、不可思議なり、秘密蔵裡の重寶なり、痴人の面前に向て顕示すべからず也。
 貞和三年十一月七日、住永平曇希書

 

 (永平高祖行状建撕記より)

 


(参考4)

吉峰寺 福井県吉田郡上志比吉峰35-13-2

老梅山 吉峰寺

荒廃していた吉峰寺を明治36年(1903)田中仏心和尚が艱難辛苦の末、諸堂を再興し、永平六十四世大休悟由禅師を請し、中興開山とした。

 

さらに、田中仏心和尚は禅師峰寺」(福井県大野市西大月13-17)も再興した。

 

 吉峰寺(東川寺撮影)
 吉峰寺(東川寺撮影)
  吉峰寺・参拝の栞
  吉峰寺・参拝の栞
 吉峰寺・山号額(東川寺撮影)
 吉峰寺・山号額(東川寺撮影)
 吉峰禅寺・永平悟由禅師 (寺号額)(東川寺撮影)
 吉峰禅寺・永平悟由禅師 (寺号額)(東川寺撮影)
  補陀落山・禅師峰寺
  補陀落山・禅師峰寺
 禅師峰・大休悟由禅師 (寺号額)(東川寺撮影)
 禅師峰・大休悟由禅師 (寺号額)(東川寺撮影)
 「道元禅師御絵傳」(東川寺蔵本)
 「道元禅師御絵傳」(東川寺蔵本)

「道元禅師御絵傳」

 

これは立派な絵傳であるが残念な事が一つある。

それは「弁道話」が現在ある宇治の興聖寺の場所で書かれたように記述されていること。当初、興聖寺は山城深草にあり、その後荒れ果て、慶安元年(1648)宇治の現在地に移され再興されものである。