永平寺4世・義演禅師

 

永平寺四世義演禅師

 

義演禅師像 (写作成・東川寺)
義演禅師像 (写作成・東川寺)

義演禅師

 

出生、その他、不詳。

 

「永平高祖行状建撕記」には下記の様にある。

 

前住永平義演和尚の本記録行状等未だ分明せず、故に出生入滅の次第を知らず、永平寺へ入院退院の年月も分明せず。
然りと雖も大方た今ま思量するに、价(演の誤り)和尚弘安十年より御入寺ならば、二十七年か八年か御住あるべし、御住の内にあそばされたると見えて、正和元年の年月以て開山和尚の御衣の書付をなされたり。
此又支證也。
弘安十年自り正和元年に至り二十七(六か)年也。
爾る時んば、正和元年か又二年か三年かの比ろ、御退院あるか、然からずんば正和三年十月二十六日迄で御住ありて、寺家にて御入滅あるかと覚う。
其の故は、正和三年十二月初二日に中興義雲和尚御入院なり。
十月二十六日、十二月初二日との間た、三十日斗(と)、寺を無主なるかと覚る程に、中興和尚の入院の年月を以て、演和尚御示寂正和三年十月二十六日かと思量し記する也。
後来能々尋覔して之を知るべき者也。

 

「本山四世義演禅師略伝」天藤全孝著(傘松・昭和38年8月285号13~18頁)より

四代さまが三代さまよりも「チット老僧」であられたと語る、聖一国師の俗弟子雲章一慶のことばを参考に、そのお誕生をわたくしは建保四、五年と推定申し上げております。(中略)出家求道の志を立てておられた四代さまは、何かの機縁によりその懐鑑さまの得度を受けて出家されたのでありました。

 建保四年(1216)、五年(1217)。


(年月不詳)

 義演、越前波著寺懐鑒(日本達磨宗)の下で修学する。
 比叡山に上り、具足戒を受けたかは不詳。

 

安貞2年(1228)4月
 興福寺衆徒が多武峰の堂舎僧坊六十余宇を焼き払う。
 日本達磨宗は離散し、懐奘は覺晏と行動を伴にする。

 

文暦元年(1234)是冬
 懐奘、山城深草に道元禅師に参ず。

 

仁治2年(1241)是春
 義演懐鑒、義介、義尹等と共に道元禅師に参ず。

 

建長元年(1249)八月末より、建長四年(1252)四月末頃
 義演、「永平廣録」巻五、六、七を編集書写する。


建長5年(1253)9月29日
 道元禅師、京都高辻西洞院覺念の邸に遷化す。

 

建長7年(1255)是夏
 懐奘、義演をして「正法眼蔵袈裟功徳」一巻を書写せしむ。
 建長七乙卯夏安居日令義演書記書写畢 同七月初五日一校了 以御草案為本

同年 是秋
  懐奘、義演をして「正法眼蔵八大人覺」一巻を書写せしむ。

 

如今建長七年乙卯、解制之前日、義演書記をして書写し畢り、同じく之れを一校せしむ。右本は先師最後御病中の御草なり。
仰げば以前に撰する所の仮字正法眼蔵など皆な書き改め、竝びに新草を具して都廬一百巻に之れを撰すべし云々と。
既に始草の御此巻は第十二に当るなり。
此の後、御病、漸々重き増せり。仍って御草案等の事、即ち止むなり。
ゆえに此の御草等、先師最後の教勅なり。
我等不幸にして一百巻の御草を拝見せず。もっとも恨む所なり。
若し先師を恋慕し奉る人、必ず此の巻を書きて之れを護持すべし。
此れ釈尊最後の教勅にして、且つ先師最後の遺教なり。
 懐奘之れを記す。

 

弘安3年(1280)8月24日
 孤雲懐奘禅師、遷化す。

 

弘安10年(1287)是歳
 義介、永平寺を退董す。
 後、義演が住持す。

 

正応5年(1292)8月19日
 是より先(8月13日)、瑩山紹瑾、永平寺妙高台に「佛祖正傳菩薩戒作法」一巻を書写す。
 此の日、義演、之を瑩山紹瑾に読校せしめ尋で傳授す。
 「加賀大乗寺所蔵・佛祖正傳菩薩戒作法奥書」「曹洞宗大年表」

 

永仁4年(1296)是歳
 瑩山紹瑾、永平寺義演に就いて授戒作法を受く。
 「洞谷記」「曹洞宗大年表」

 

永仁5年(1297)3月24日
 永平寺回録(火災)す、山門と方丈を残すのみ。
 この永平寺回録は「安樂山産福禪寺年代記」のみの説であり疑問視されている。

 

延慶2年(1309)9月14日
 徹通義介、遷化す。

 

正和元年(1312)是歳
 四世(三世?)義演、道元禅師の法衣に書付けをす。

 

永平寺を退董した後、越前報恩寺に閑居す。(時期は不明)
「暮年報恩に閒居し、世と接せず」

 

正和3年(1314)10月26日

  義演、遷化す。(90余歳)


正和3年(1314)12月2日
 宝慶寺義雲、永平寺に住す。

 

「本山四世義演禅師略伝」天藤全孝著(傘松・昭和38年8月285号13~18頁)より

四代さまはその住山の末年、門前に地藏院を建てられ、二代さまをご開山に勧請し、そこに起居して祖塔をお守りになったようでありますが(地藏院秘蔵古軸裏書)、その晩年には因縁に任せて報恩寺に閑居されたようであります。もっとも学者は「その真否は明瞭でない」といっておられますが「伝」には「報恩寺義演禅師伝」と題されており、且つその晩年は非常に高齢であられたことを考え合わせますとき、やはり報恩閑居は事実ではなかったかとおもわれます。
その報恩寺につきましては、「曹洞宗全書系譜」に「越前報恩寺」とありますが、福井県には現在報恩寺なる宗門寺院はありません。
六百五十年前のことであり、すでに廃寺になって久しいのでありましょう。
「伝」にはその報恩閑居中「画餅に題す」という、次の一偈のあったことを伝えております。一読三誦そのご風懐が偲ばれます。
 甘辛苦□(氵圣)舌に関せず。
 王饌画成、何にをか飢え息せん。
 詩客未だ飱せず風月の味。
 数、便路、遺し拾い経る。 (元漢文)
四代さまの示寂は、正和三年十月二十六日でありました。その五年前の延慶二年九月十二日に三代さまが、九十一歳で示寂されております。そういたしますと、三代さまより二つ三つお年上で、しかも五年長生きされた四代さまは、九十七、八歳の高齢で示寂されたことになります。
その提唱や語録は存じませんし、その法嗣や門下につきましても、今日では不明であります。
ご真蹟としましては「越州吉祥山永平寺開山法被、第四代沙門義演記」(写真)という布地裏書が一品、祖山一華蔵に秘在するだけではないでしょうか。
(「伝」は重続洞上諸祖伝第一のこと。)

 

 開山祖師法被・第四代沙門義演紀(永平寺所蔵)
開山祖師法被・第四代沙門義演紀(永平寺所蔵)

「永平高祖行状建撕記」 三代相論之事

 

「永平高祖行状建撕記」三代相論之事

 

三代相論之事、本記録分明せず、正和元年か二年か三年かなるべし。
演和尚は正和元年まで御在世は必定なり、故は中興和尚御入院の年號を以て之れを勘破し了る也。
正和二年か亦三年に當るかと之れを記す、後來之れを尋ねる可きなり。
价演両尊老何も滅度の後ち、遺弟子門人互に集会して両老の牌を永平祖師堂に立てんと欲し、价和尚の門人は我等が師、當寺三代に為る可し、演の遺弟は我等が師、三代に紛れず、前後の相論止まず。
价和尚の徒、支證を引きて云く、价和尚は二代弉和尚御在世の際に住院す。
中間に价和尚、病有りて依り弉和尚再住なり。
二代御入滅の後、价老また住す。
其の後、演老、永平に住居の内、价老は大乗寺に於いて入滅す、爾時大乗の衆僧永平寺に就き、价老の為に齋を設く。
次に住持演老、自筆を以て牌を書きて云く、前住當山大乗義价和尚、其の時、价老受戒の弟子一人、永平あつて病して延寿堂に居る、師忌齋有ることを聞て、病ながら延寿堂從り出て諷経に逢う、その諷経畢りて此の僧、尊牌を拝して思量するは、吾師价和尚の尊牌、當住和尚自筆に書し給う事、愚僧の為に一代重宝可しとて便ち取て血脈袋ろに入て之れを護持す、相論の時に及て之れを取り出して云く、常住の演老、前住當山价和尚と書せ被れ為たる者、是れ豈に三代分明なるに非んや。
亦演老の徒、出語る所の支證は、開山大和尚御法被の裏ら書に演老自筆に書して云く、開山大和尚法被を献じ奉る者也三代義演と之れを記してあり、是れ則ち吾師三代為る可し証文なり。
吾が師は開山大和尚の受業、亦弉師の法嗣の為め人天の大師なり、豈に虚頭筆を澁らんや、我が師若し虚頭ならば价等以下の法嗣皆な一人も實頭らず。(澁は染の誤り)
此の相論、門下に於て決却せず、鎌倉に於て批判を得る、鎌倉の判断の云く、両方共に支證明鏡なり、熟(つらつら)憶著するに両鏡相對が如く雙掌相合するに似り、両理甲乙無し、判言無き奈何炱。
所詮牌上に書る處、三代四代に位字を載せる可からず、唯當山前住价和尚、當山前住演和尚と之れ書か被る可きと定めなり、其の上管見を以て両尊霊位を窺うに、霊位更に三四諍論の意無し、後昆、小智を以て大徳を埋み、愚雲に迷て岐路多しとす、異見に就て論量止ま被る可き者の最も然なり。
仍て両尊老の入牌、詮議の如く立て畢ぬなり。
今思量するに、演和尚は价和尚御入滅の後まで御在世と見えたり。
然りと雖も演和尚も軈て入滅ありけるか、なぜになれば、御位牌を同時分に立るとて相論あるける羊は、如何様程ど近きかと覚えたり。
其の間た遠く隔たらば价和尚の御位牌三代とも四代とも先ず立てしかと定め給う可きなり。
演和尚御存生の中ならば、价和尚を何にかと一途つけ給ばし。
然とも両和尚御入滅の間近き故に門弟子此の如く論するかと覚うなり。
大方演和尚は四世の羊に見え給えども自筆を以て三代とあそばしたるは如何様其の謂れ之れ在る可き。
然りと雖も永平寺へ御住山の年月未だ見い出せずの間、其の徹證を記さず、後來能々尋覓すべし。

 

義演禅師伝考

 義演禅師伝考(東川寺蔵本)
 義演禅師伝考(東川寺蔵本)


義演禅師伝考


永平寺四世義演禅師七百回遠忌にあたり、平成二十五年八月二十九日、花井寺住職・井上義臣著の「義演禅師伝考」が発行された。


その「序」に永平寺副貫首・南澤道人老師は次のように言葉を寄せている。


 本書「義演禅師伝考」は、永平寺名古屋別院現監院 花井寺住職井上義臣老師は禅師七百回忌の遠忌に当り、特に心魂を傾けて考究されたもので、誠に有難いご労作である。

 古来義演禅師ご一代の消息を伝えるものは余りにも少なく、古文献・資料などにも、そのお名前は僅かに散見されるだけであった。

 例えば禅学大辞典にも『義演(?~1314)曹洞宗。本貫不詳。越前(福井県)波著寺懐鑑に受業す。仁治二年(1241)にはじめて道元に謁し、弟子となる。道元滅後、二世孤雲懐奘に師事し、のち法兄徹通義介の後をついで、永平寺第四世となる。正和三年十月二十六日、報恩寺にて示寂。(重續洞上諸祖傳)(洞上聯燈録)』と述べられているだけである。

 然し乍ら禅師は仁治二年(1241)初めて道元禅師に謁せられ、以後巾瓶に奉事して後には、永平寺の侍者或いは書記となって、高祖・二祖を補佐して、綿密に法を護り永平寺を支えてこられものと思う。而も時代は文永・弘安の役以後、国の内外が不安となり、又疫病の流行・天変地異等にようり正和と改元された二年後、禅師は示寂されておる。

 此の書はご事績が表に現れなかった永平四世禅師を、あらゆる角度から資料を集めて考究されたもので、著者の推考なども述べられておって、後学の参究にも多くの裨益を与えられることと思う。(後略)

 永平寺副貫首 南澤道人 合掌