永平寺5世・義雲禅師

 

永平寺5世・義雲禅師

 

永平寺五世中興義雲禅師

 

義雲和尚肖像(写・作成・東川寺)
義雲和尚肖像(写・作成・東川寺)

 

建長5年(1253)12月

 義雲、京都に生る。

 

 義雲和尚略傳

  遠孫寶慶住持比丘 龍堂撰

 師の諱は義雲。建長五年癸丑の朧月を以て、洛陽縉紳の家に産る。

幼きより英竒、常の童に異なり、始めて洛の教院に投じて薙染す。

専ら華嚴法華の疏を習う。

 

【搢紳・縉紳-しんしん】笏(しゃく)を紳(おおおび)に搢(はさ)む意から、官位が高く、身分のある人。

 

(参考)

建長5年(1253)8月28日(陰暦)(陽暦9月29日)

 道元禅師、京都高辻西洞院覺念の邸に示寂す。 

弘長元年(1261)
 寂円、永平寺を去り、越前大野木本野銀椀峯に入り、後、宝慶寺開山となる。

 

出家得度・年月不詳

 上記「義雲和尚略傳」によれば『始めて洛の教院に投じて薙染す。専ら華嚴法華の疏を習う。』とあるので、京都の教院(比叡山か?)にて出家得度し、華嚴法華を学んでいたものと推察する。

 

建治2年(1276)是歳 24歳
 義雲、教学を捨てて、宝慶寺の寂円を尋ねる。

 

「発願文」 「義雲和尚略傳」より
 伏して惟んみれば、生死輪傳の閒、人閒に生まれること甚だ難し、佛法流布の代、正法に遇うこと最も稀なり、浮木喩えに非ず、曇華爭ひ、然して適ま正嫡之室に投ず、直に無上の道を修し、未曾の聞を聞き、未曾の行を行く、豈に歓喜せざらんや、是れ小縁に非ず、正に是れ大因縁なり、乃至常啼東尋、善財南方、古尚斯の如し、今容易なる可き哉、之れを観て断臂難に非ず、之れを念じて燒身何ぞ辞せん、仰ぎ願わくは、此の誓約朽ちず、無盡未来際に至らんことを。

 

弘安2年(1279)5月17日 27歳
 義雲、越前中浜新善光寺に「正法眼藏虚空」一巻を書写す。


同年5月20日
 義雲、越前中浜新善光寺に「正法眼藏安居」一巻を書写す。


同年5月21日
 義雲、越前中浜新善光寺に「正法眼藏帰依三寶」一巻を書写す。

 

永仁3年(1295)4月20日 43歳
 義雲、寂円に入室嗣法す。

 

正安元年(1299)9月13日
 寂円、九十一歳にて遷化す。(法嗣は義雲一人)

 

正安元年(1299)10月18日 47歳

 伊自良氏より寶慶寺新寺領を沙弥智円ほか一族四名連署で寄進される。

 

正安元年(1299)11月21日 47歳
 義雲、越前宝慶寺に開堂式を挙ぐ。

 

「義雲和尚語録」より
 師、正安元年巳亥十一月二十一日、當山に就いて開堂す。拈香祝聖罷。
上堂して云く、百川、大海に向かって到るは、到り了りて異名無し。一心、萬境に従って轉ず、轉じて後、本位に住す。鏡を將て像を鑄れば鑑照して得ず。像を將て鏡を鑄れば光明自ずから新なり。住、閫外出ずして、遍身の手を招いて、往来に接し、賓、途中に受用して、通身の眼を活して、古今を鑑す。且く道へ大衆、賓主、相い對するが如くんば、什麼の手眼、還て會すや麼。覿面、呈し難し向上の機。家風萬古、人の為めに施す。

同年11月23日
 義雲、越前宝慶寺に於いて初めて道元禅師の「寶慶記」を看る。

 

  寶慶記(東川寺蔵本)
  寶慶記(東川寺蔵本)

 正安元年巳亥十一月二十三日、越州大野の寶慶寺に於て、初て之を拝見す。開山の存日之を許すと雖も、今に延遅す、今正に是れ時なり。而今(いま)、聖王髻中の明珠を得たり、大幸中の大幸なり。懽喜千萬、感涙襟を濕すのみ。 義雲 

(宝慶記巻末より)


  寶慶記・巻末(東川寺蔵本)
  寶慶記・巻末(東川寺蔵本)

 

延慶2年(1309)9月14日
 徹通義介、遷化す。

 

義雲、永平寺住職辞退。

 永平寺住職之事
 貴命に預り候、面目極まり無しと雖も、且つ食、被知し如く、病躰候之上、一方ならず治し難し、計い會之閒、仰せに應ぜざりし候事、殊に恐れ入り候、殷勤之仰せ、畏れ入り候と雖も、持病常に相い催し打ち臥する事多く候條、力及ばず、御免蒙る可く候、恐惶謹言。
 九月十八日
    比丘義雲(華押)
進上三條殿
 「義雲和尚語録」より

 

正和3年(1314)12月2日 62歳
 宝慶寺義雲、永平寺に住す。宝慶寺後席を法嗣曇希に譲る。)

 

 吉祥山永平禪寺語録  侍者曇希編

 師、正和三年甲寅十二月初二日入院。

山門、金雞、暁を報ず。解脱門開く、依然として歩を引けば脚下風雷。

佛殿、世尊に密語有り、長舌、唇を離れず、迦葉、覆藏せず。家國、茲れ從より富めり。安樂兠率、左方右邊。

據室、一丈の水、一丈の波、中に於いて能く巴歌をを唱ふ。毘耶の小神通を勘破し了れり。。許くの如して閑坐、什麼にか在る。縦横疑議を容れず、亦た是れ葛藤舊窠。

陞座、祝聖罷て、又、香を拈じて云く。

此の香、佛佛の鼻孔を穿鑿して、混沌未分の霊熏を通じ、、包容祖祖の髓皮を包容して、全兒孫繁茂の根帯を全うす、爐中に爇向して、薦福開山圓和尚大禪師に供養し、用いて法乳の恩に酬いん。 (嗣承香)

 「義雲和尚語録」より

 

 永平入院小参

 法は法に随つて行じ、法幢は處に隨つて建つ。一出六出、薬山の師子。異類同類、青原の麒麟。自家の鑰子を拈堤して、向上の玄関を打開す。恁麼の時に當つて祖宗の爐鞴、魔を錬り佛を錬る。鑊湯消融、本分の鍵(鉗)鎚。自を鍛ひ、他を鍛て、面目儼爾。既に恁麼の手段を得て、作麼生か的當ならん。道ふこと莫れ鯤鯨、羽翼なしと。今日親しく鳥道より回る。復た擧す、薬山因に僧問ふ、祖師未だ此の土に到らず、此の土に祖師の意有りや、他た否や。山曰く有り。僧曰く、已に祖師意あらば又來つて什麼にか作さん。山云く、有るが爲めの所以に來る。師の頌に曰く、劫前の消息誰人にか属す。五葉の聯芳芬馥として新なり。少林眞の妙訣を識らんと要せば、一聲の鐵笛陽春を奏す。(「義雲和尚語録・小参」より)

 

 

 この頃の永平寺は堂塔伽藍も人心も荒廃の事態に直面していた。
 義雲、宝慶寺の什物をもって永平寺を整備する。
 さらに六十巻本「正法眼蔵」編集する。(義雲本)
 (永平寺史・上巻)307頁より

 

 

文保2年(1318)是歳 66歳
 円月(中巖)、永平寺に義雲に参ず。

 

元応元年(1319)是春 
 円月(中巖)、永平寺を辞して鎌倉に帰る。

 

正中元年(1324)是歳 72歳
 宗可、元の淨慈寺如芝(霊石)、及び霊隠寺淳朋(獨孤)より義雲の壽像に賛を賜る。

 

  泰定改元歳在甲子春

 霊隠山獨孤叟淳朋、賛。

 淨慈八十有三歳霊石叟如芝、賛。

 

嘉暦元年(1326)4月16日 74歳

   義雲、永平寺内で、虚空に鐘聲鳴るを聴く。

 

「永平高祖行状建撕記・永平中興和尚之御事」には『中興和尚永平寺に御住の中ち、虚空に鐘聲鳴る、此れ嘉暦二年四月十六日なり』とあるが、『鐘聲鳴る』を聞いて『梵鐘鋳造の化』を興しているので「嘉暦元年」の誤りと推察する。

 

嘉暦元年(1326)孟夏 74歳
 義雲、永平寺檀越波多野通貞及び巨宏、韶林等の助縁を得て梵鐘鋳造の化を発す。

 

嘉暦2年(1327)7月

 

 泰定丁卯(1327)秋七月

 宗可侍者、天童南谷庵に永平初祖(道元禅師)の牌を祖師堂に立て換え、その支證を天童住持楚俊が書し渡す。

 

 泰定丁卯秋七月望、大白閑房老僧楚俊書。
  乾坤を坐断し。全身を獨露す。喚び本師と作す。和尚當甚。
      冬瓜茄瓠更に好く笑い。金剛倒上梅花樹。

    徒弟智琛乞語。 (此正本は賀州大乘寺にあり。)

 

嘉暦2年(1327)8月24日 75歳
 義雲、梵鐘鋳造の功を遂ぐ。

 

(梵鐘銘の末尾)
 嘉暦二年歳次丁卯八月二十四日鋳造
  鋳匠 沙弥 蓮念
  化主 巨宏 知蔵
     韶林 維那
 本寺第四世檀那雲州左金吾藤原朝臣通貞
 住持 第五代 義雲 銘記

嘉暦4年(1329)中夏 77歳
 義雲、「正法眼藏」六十巻の品目頌並びに序を撰す。

 

 永平正法眼蔵品目頌并に序

 正法眼蔵、密伝密付。古と今と、嫡仏嫡祖。永平元祖入宋し五葉の根蔕を穿鑿し、帰朝して能く一天の蔭涼と為る。忒煞た婆心、和字を以てし漢の語を柔(にんえ)る。竒玅の善巧、人をして文言に累はらざら令むに、石の玉を含むが如く、地の山を擎るに似たり。聊か、卑語を綴て、其の大旨を述ぶのみ。後昆此の八字を打開せず、玅心源未だ通徹せずば、一大蔵教、少林の玅訣、夢にもや、未だ見在せざること矣。

 嘉暦四年中夏、曾孫義雲和南拝書  (「拾遺義雲語録」より)

 

元弘元年・元徳3年(1331)9月13日 79歳
 義雲、寂圓三十三回忌に当たり、寶慶寺齋に赴き上堂す。

 

 當山初祖三十三回忌、陞座。
(師此の時永平に在り、齋に當山に赴く。)
香を拈じて云く、此の一瓣香、胸襟従り拈出す。恩に酬いんと欲せば、恩還つて怨の如し、怨に報ぜんと欲せば、怨も亦恩に似たり。恩を越え怨を越ふ、是れ一本分。上み、日月星辰の爲に光彩と作り、下も、萬木百艸の爲め霊根と作る。爐中に爇向して、先師當山初祖に供獻して、用つて、法乳の恩に酬ふ。
 座に就いて乃ち云く、萬機休罷、一物長なへに霊なり。太虚寂爾、霹靂轟轟。未審し先師平生、是れ甚麼の心行ぞ。吉祥孤雲嶺の風月を、薦福深岳林の巖扉を排びらか使む。此の風、西来三周の棹に随つて満ち、此の月、南海一葦の船を逐て来る。正恁麼の時、去来の路に渉らず、阿(た)誰か敢て拾遺せん。
 擧す、先師曾て永平に在りし時、二祖に問うて云く、如何なるか是れ師子吼の一音。祖曰く、更に外に出でず。師云く、甚の爲か出でざる。祖曰く、百獣脳裂す。師云く、恁麼ならば太だ益無きに似たり。祖曰く、一人も恩を承けざるなし。師云く、某甲會得す。百獣皆な師子吼を作す。祖曰く、如何が恁麼に會す。師云く、萬曲是れ一聲。祖印して曰く、汝ち能く観音入理の門に達す。師、作禮拂袖して嘯き去る。
 頌に云く、獅子吼する時、衆獣喪す。死中に活を得て却つて和同す。一聲奏し出す新豊の曲。觀自在門此れ従り通ず。
 上堂、心心異心無し、一心一切法、念念異念に非らず、一念是れ萬年。
  (「義雲和尚語録・寶慶禪寺語録」より)

 

元弘元年・元徳3年(1331)是歳 79歳
 義雲、宗可の持ち帰った画像に自賛す。

 

 日本元徳辛未永平禪寺五世義雲自賛
 體曾て扶桑國を離れず、影普く大宗朝を歴遊す、二老美賛□衝天の氣を増し、一霊の宛爾□侘の功を假りず、汝快に携え來る無孔の笛、今に至り一調して新豊を調す。

 

元弘3年・正慶2年(1333)5月4日 81歳
 義雲、雲居道膺の像に賛を撰す。(宝慶寺蔵画像賛)

 

 雲居膺和尚賛 (「拾遺義雲和尚語録」より)

 郁芳たり鷲嶺拈華の瑞。端的新豊珍曲の吟。河を渡つて水波の曽ち混らはざることを會し。菴を焼きて一法の□(匃月)襟に棤く毋し。獨座年を経て天供更に日の欠くる無し。旨を得て以後而かも通眼窮へども針を容れず。性潔うして碧潭の秋月を蔑如し。□(月郤)尖として盡地の黄金を蹈断す。知見倶に忘滅して命脈今に連なる。

 

元弘3年・正慶2年(1333)9月27日 81歳
 義雲、「佛祖正傳菩薩戒作法」を曇希に授ける。

 

元弘3年・正慶2年(1333)9月27日 81歳
 義雲、永平寺を曇希(永平六世)に譲り、永平寺を退董す。

 

元弘3年・正慶2年(1333)10月12日
 永平寺義雲、遷化す。世壽八十一歳。

 

 「義雲和尚語録」より

 師、正慶二年癸酉十月十二日辞世の頌に曰く

教を毀り禪を謗す。八十一年。天崩れ地裂して。 火裡の泉に没す。

 

遺偈 毀教謗禪。八十一年。天崩地裂。没火裡泉。

 

『全身を吉祥山に塔す。號して霊梅と曰ふ。』(霊梅塔)

 

 

この後、永平寺住職は代々義雲禅師の法孫、寂円派によって受け継がれることになる。

 

 

義雲和尚略傳 (拾遺義雲和尚語録より)

  義雲和尚略傳1(東川寺蔵本)
  義雲和尚略傳1(東川寺蔵本)
  義雲和尚略傳2(東川寺蔵本)
  義雲和尚略傳2(東川寺蔵本)

 

義雲和尚略傳
 遠孫寶慶住持比丘龍堂 撰

 

 師、諱は義雲。建長五年癸丑の朧月を以て、洛陽縉紳の家に産る。


(近世の僧史、師の伝を載せて、皆な師は大宋国の人、道元和尚の帰朝に随って来たると曰うは非なり。師、建長五年に産る。是れ元祖示寂の年にして、帰朝に相い後るること殆んど二十有七年なり。況んや随逐して来たるの事あらんや。失考知るべし)


 幼きして英竒、常の童に異なり、始めて洛の教院に投じて薙染し、専ら華嚴法華の疏を習う。年三十八に垂にとして自歎して云く、金麟合に龍と化すべす、曷ぞ煩はしく教綱に拘はらんや。奮起して衣を更へ、寂圓和尚の越の薦福に參じて服膺す。圓、常に孤坐淵默、誨勵を屑とせず、學者其の機に合ふ有ること無し。師、自ら發願文を製して、其の志を圓に告ぐ。其の畧に曰く、伏して惟んみれば、生死輪傳の間、人間に生まるること甚だ難し、佛法流布の代、正法に遇うこと最も稀なり、浮木も喩えに非ず、曇華爭(いかで)か比べん。然り而して適々(たまたま)正嫡の室に投じて、直に無上の道を修す。、未曾聞を聞き、未曾行を行ふ。豈に歓喜せざらんや。是れ小縁に非ず、正に是れ大因縁なり。乃至、常啼は東尋し、善財は南訪す。古へ尚ほ斯の如し、今に容易にす可き哉。之れを観ずれば断臂も難に非ず、之れを念ずれば燒身も何ぞ辞せん。仰ぎ願くは、此の誓約朽ちず、無盡未来際に至らんことを。乃ち左右に侍して採薪汲水、苦行辛修、殆ど二十年、遂に堂奥の密旨を證契す。永仁三年乙未四月二十日入室得法す。正安改元己亥九月十三日圓入寂す。師、遺囑を禀けて、後席を董す。同年十一月二十一日開堂演法す、一住十有六歳、玄侶輻輳す。正和の初め、永平の義演禪師戢化す。祖燈漸く微にして、叢規荒涼たり。大檀那雲州の太守藤の通貞、師を請して席を補せしむ。乃ち請に應じて進山開堂す、嗣香、寂圓に供ず。實に正和三年甲寅朧月初二日なり。時に師、六十有二歳、槌佛の下、頗る千衆に減ぜず。家風峭峻、諸方之れを憚る。任住すること十有餘年、大いに頽廃を興し、鴻業を潤色す。時に稱して永平の中興と爲す。晩に嗣子曇希に命じて席を譲り、榻を東堂に移して老を頥ふ。正慶二年癸酉十月十二日、疾無うして沐浴、衣を更へ偈を書して云く、教を毀り禪を謗す、八十一年、天崩れ地裂して、火裡の泉に没す。筆を擲ちて化す。世壽八十有一、僧臘六十有五。全身を吉祥山に塔す。號して霊梅と曰ふ。師の在日、參徒宗可肖像を描きて、之れを持して入宋し、霊石の芝、霊隠の朋、共に語を爲て賛す。師、曾て寶慶に在る日、山門境致一十六處に掲げて、題を安ず。所謂、銀椀峯、寶鏡池、虎頭岩、虹影橋、安禪石、臥龍池、三曲路、萬杉關、紫蕨嶺、乘雲峯、長鯨橋、般若嶺、法華峯、假山林、霊鷲峯、薝蔔林是れなり。其の法を嗣ぐ者は只だ曇希一人のみ。

 

嘉暦梵鐘銘文

嘉暦梵鐘銘文

 

夫れ永平は佛法東漸の暦號にして、扶桑創建の祖蹤(そしょう)なり。鷲嶽の一枝、此に於て密々。少林の五葉、今に至て芬々たり。薙草(ちそう)より以降、年序幾(ほと)んど一百。棟甍粗列、樓鐘空たり。大家宏道者禪林人を勧誘し、去歳孟夏化を發し、方に遠近緇素の助力を以て、今秋酉月、功を成す。
開山和尚在(いま)せし日、鐘聲許多(そこばく)、山奥に鳴る。今夏後朝、梵鐘忽爾として嶺頭に響く。先兆冥符、貴ぶ可き者か。昔し青葉髻、竺土に於て青石の大鐘を造り、化佛日を逐うて光を放つ。今二禪人、吉祥に在て青銅の寶器を鋳る。祖宗、時と護念する者なり。往時と今時と函蓋乾坤。洪韵、劫前劫後に継ぐを疑はず。銘を作て曰く。
當吉祥山は方外の深巒。帝都雲隔て、峻嶺雪寒し。曹源の派を受け、洞水の潭を湛え、殿堂年旧、樓鐘未だ安ぜず。他化の功を以て箇の梵鐘を得たり。槌發則有り、聲揚窮りなし。千佛同會、一音是れ從う。前後際断し、緊漫相い交る。欄に臨むの月を迎え、林に度るの風を送る。債魚業淨く、化蝶夢回ぐる。邪定の牀、斡り、焼煮の鑊摧く。寶珠頂に輝き、長鯨胎に吼ゆ。神空谷に諾し、響當來に及ぶ。

 嘉暦二年歳次丁卯八月二十四日鋳造
   鋳匠 沙弥 蓮念
   化主 巨宏 知蔵
      韶林 維那
 本寺第四世檀那雲州左金吾藤原朝臣通貞
  住持 第五代 義雲 銘記

 

 (「永平寺雑考」笛岡自照著、484~485頁参照)

 

 永平寺・嘉暦梵鐘(永平寺所蔵)
 永平寺・嘉暦梵鐘(永平寺所蔵)

永平高祖行状建撕記・永平中興和尚之御事

永平高祖行状建撕記・永平中興和尚之御事

 

△永平中興和尚之御事

 法諱、義雲、建長五年に生下洛陽の人なり。二十五歳にして出家す、永平懐弉和尚の(法)孫、寶慶開山寂圓和尚の法嗣なり。永平五世の位なり。寶慶二世の位なり。正和三年十二月永平寺え御入院の後、吾が眞を寫して宗可侍者にもたせて渡唐させらる。並びに永平寺再興の由来を書きて渡し給えば、大唐淨慈寺の長老、霊隠寺の長老、両尊して中興を永平第一世と許し、其の來暦を眞の賛にして日本え宗可侍者を帰し給うなり。其れに從いて永平中興和尚とは申すなり。其の像、寶慶寺御在すなり。

其の賛に云く。

 馮掖衣を製し、輕方袍毳、選佛場及び心空第に登り、洞上の宗風を闡(ひら)き、寶慶の密意を得て、逸格の機を振るう、大法施を弘む、春草を枯木枝頭に糝(こなかけ)し、霜蟾を夜明簾外に眈(み)る、若し玉殿瓊樓を現ずと曰はば、咄嗟す叢林の百癈を起し、其の俤績を紀(ただ)す、豊功是れ中興永平第一世と為す。永平堂上雲和尚繪相、徒弟宗可、賛を請う、因に為に筆を點じ賜う。

  佛鑒禪師住持杭の淨慈八十有三歳霊石叟如芝賛。

亦賛に云く。

 早歳冠を掛け、萬縁倶に棄つ、澗飲木飡、氷懐蘗志、三天に趣向し、十地に歩驟す、道、群生に蔭し、徳、品類に周し、赤手にして洞上の派宗を起こす、談笑して君臣を五位に措(さしお)く、若し願力に乗ずるに非ば、再来又安(いずくんぞ)得ん廻然として獨り異る者なり。永平禪寺住山雲和尚壽像其の徒、宗可、賛を請う。

 泰定改元歳在甲子春、霊隠山獨孤叟淳□?。

 日本正中元に當る、英宗皇帝時代。

亦自賛云く。

 體曾て扶桑國を離れず、影普く大宗朝を歴遊す、二老美賛□?衝天の氣を増し、一霊の宛爾□?侘の功を假りず、汝快に携え來る無孔の笛、今に至り一調して新豊を調す。 日本元徳辛未永平禪寺五世義雲自賛。

 唐土従り渡す賛の意は、永平寺を中興し給いたる事のみ也。又一の賛には出家してより難行苦行して、後に永平寺を再興させたまうと云意あり。是れは如何様開山の再来にてましますとほめ給う也。まさしく開山和尚の再来にて御在支證には開山御涅槃の季建長五年に生下し給う也。開山京城にて御涅槃あれば、又此の和尚洛陽の人にて在す處再誕疑い無し、去ながら本記録無し古今恨む所なり。

△中興の眞持して渡唐ある宗可侍者、天童南谷庵に永平初祖の牌を祖師堂に立てたるが、年月を経て盡くふりたるを見て、大願を起し御位牌を改て重て立て給う、其の支證を天童住持楚俊と申す長老書せ給うて、かの宗可侍者にたひて日本え渡す。

其の書に云く。
 四明大白峯下、南谷庵有り、迺ち天童淨和尚歳骨の塔所なり、淨和尚、夜、洞山价禪師相見を夢みて、次ぎの日、禪者有り元公來深、洞上宗旨を明らめ、淨、芙蓉楷祖所付法衣竹篦白拂寶鏡三昧五位顯訣を將し、密授元公に與え此の法を得る竟、日本國開山永平禪寺に歸る、洞上の一宗旨を興隆し、是れより元禪師の道望、東國に重く、示寂の後復た位牌を南谷祖堂に立て、歴年既に久しく、其の牌は損滅し、今直下の子孫宗可禪人有り、海を逾え唐に遊し、其の祖牌已滅を見るに忍ばず、乃ち大心を發し工刻を命じ祖堂位に入牌す、惟だ祖宗の名を憫念し唐にて泯滅す、亦且つ祖道を隆すの心切々焉、謂う可し洞宗の下の代、賢に乏しからず也、原(たずぬるに)夫(それ)迺(なんじ)の祖、元公既に法を受けて本國に囘る、是れ符契大法東漸の識、宗可禪人、大唐諸禪徳を遍參し必ず亦た印授する所有り、若有、便請、呈露老僧に與え看、是れ則ち儞與、證據、不是、儞與剗却、禪人即ち両手を展じて余に示して云く、是れ什麼故、其の機然り、據て且つ當の書を以て贈りて云く。泰定丁卯秋七月望、大白閑房老僧楚俊書。
 乾坤を坐断し、全身を獨露す、喚び本師と作す、和尚當甚、
 冬瓜茄瓠更に好く笑い、金剛倒上梅花樹。
  徒弟智琛乞語 此正本は賀州大乘寺にあり。

△中興和尚永平寺に御住の中(う)ち、虚空に鐘聲鳴る、此れ嘉暦二年四月十六日なり、開山和尚御現住の時も常に鐘聲鳴しか、今吾住山の中にも亦鐘聲ありとて、中興和尚御悦尋常ならず、此の鐘聲により聴きて勧進に思食(おぼしめ)し立ち、今の大鐘を鋳立し給う、此の義即ち鐘の銘に書き付け給うなり。四世檀那通貞の時代なる間、通貞之の二字をも銘し給うなり。

 

△義雲和尚寶慶寺御住の時、永平寺へ御住有る可き旨、檀那より請い申されし時、御辞退の状
 云
永平寺住持職の事、貴命に預かり候こと、面目極まり無しと雖も、且つ知ろしめさるるが如く、病躰に候の上、一方ならず治し難く、計會(けえ)の間、仰せに応ぜず候事、殊に恐れ入り候。殷勤の仰せ畏れ入り候へども、持病常に相い催し打臥する事多く候條、力及ばず、御免を蒙る可く候。恐惶謹言 九月十八日比丘義雲(在判)

進上三條殿 (今推量するに大宮に二字落たる故此状今に爰に留か)

 

 

「義雲禅師大宋国人也。随道元禅師東渡。」は誤り

 

「義雲禅師大宋国人也。随道元禅師東渡。」は誤り
 「日域洞上諸祖伝」上巻「宝慶寺義雲禅師伝」収蔵

 

「この記述の全く誤りであることは、既に正徳五年に竜堂和尚(宝慶寺三十世)が『(補遺)義雲和尚略伝』において指摘している通りである。
『近世の僧史、師の伝を載する、皆な師は大宋国の人、道元和尚の帰朝に随って来たるというは非なり。師は建長五年の産。是れ元祖示寂の年にして、帰朝に後るること殆んど二十有七年なり。況んや随逐して来たることあらんや。失考なること知るべし』(原漢文)とあるのが即ちそれである。
正慶二年(1333)に示寂された義雲禅師の遺偈に、「毀教謗禪。八十一年。云々」とあるから、逆算すると生誕は高祖大師の入滅の年すなわち建長五年(1253)ということになり、高祖が帰朝されたのは嘉禄三年(1227)であるから、それは義雲禅師の生誕より二十七年も前のことになる。従って、義雲禅師は大宋国の人で道元禅師に随伴して日本へ渡ったという、自澄の『日域洞上諸祖伝』の所伝は全くの誤りといわねばならない。」(「永平寺雑考」笛岡自照・著110~111頁より)

 

この誤りの元は「于洛陽縉紳之家ニ産ル」からきていると思われる。
洛陽は中国の都であるが、ここでの洛陽は日本の京都を指しているので、中国の洛陽ではない。

また「寂円」と混同したかとも考える。

 

義雲和尚語録

 義雲和尚語録・義雲和尚肖像(東川寺蔵)
 義雲和尚語録・義雲和尚肖像(東川寺蔵)
   義雲和尚肖像・賛(東川寺蔵)
   義雲和尚肖像・賛(東川寺蔵)

 

 

 「義雲和尚肖像・賛」

 

 早歳、冠を掛け、萬縁倶に棄つ。澗飲木飡、氷懐蘗志。三天に趣向し、十地に歩驟す。道、群生を蔭ひ、徳、品類に周す。赤手にして洞上の孤宗を起し、談咲し君臣を五位に措く。若し願力に乘じて再來するに非ずんば、又、安んぞ逈然して獨異なることを得ん。
永平住山雲和尚の壽像、其の徒宗可、賛を請ふ。


 泰定改元歳在甲子春
  霊隠山獨孤叟淳朋題

 義雲和尚語録 序1 (東川寺蔵本)
 義雲和尚語録 序1 (東川寺蔵本)
 義雲和尚語録 序2 (東川寺蔵本)
 義雲和尚語録 序2 (東川寺蔵本)

 

「義雲和尚語録」

 

義雲和尚語録序

 

 或る云く、拈華微笑、真宗を黙露し、面壁立雪、玄旨を密證す。言語道斷、心行處滅、只だ後の來る者は本分を守らず。樺脣を鼓動して、禪と説し道と説す。所以に真宗玄旨、殆ど将に地を拂せんとす、亦た怨ならずや。予が云く實に所説の如し。然も未だ槩して言うべからず。夫れ佛祖の宗旨、専ら妙悟に在りて、必ずしも語黙に拘わず。苟も妙悟の田地に到るに及びては、語なり、黙なり。同じく性源に歸して、始めより兩般無し。昔者(そのかみ)黄面老子、一大藏教を演出して、天上人間、龍宮海中、處として流通せずと云うこと無し、末杪の頭に於いて、自ら告示して云く、我れ四十餘年、未だ曾て一字を説かず。又、我が永平高祖云く、言語道斷とは、一切の言語を謂うなり、心行處滅とは一切の心行を謂うと。佛佛祖祖親言親口、譬へば蜜を食して中邊皆な甜きが如し。誰か一味上に妄に濃淡を分たん。義雲禪師は寂圓の嫡子、知見一時に高く、道聲千古に轟く。初め寶慶の法席を捕らえて、妙に先師の脈を續ぎ、後に永平の棠隂に坐す。能く高祖の道を興すに、當時四方推して洞上の中興と稱す。謂つ可し、傑然たる老宗匠なり。二會の語録、幸いに未だ磨滅せず。我が門の光輝、豈に怡悦せざらんや。寶慶今の住山龍堂和尚、遠く一本を寄せ、山僧が序して以て梓行せんことを乞う。盛意(ふかしこころ)謭謭とせず。我れ辞し得ず。巻を開きて目耕、覚えず編を終う。句句、黙露の真宗を發し、文文、密證の玄旨を吐く。古人云く、佛語心を宗と爲し、無門を法門と爲すと。是れ獨り楞伽を云うや。漫に禿筆を染めて之れが序と爲ると云う。

維れ時、正徳乙未季夏祥且、卍山老衲欽んで、洛北鷹峯の艸堂に序す。

 

義雲和尚語録目次

 序 寶慶語 上堂 永平語 上堂 小参 法語 賛 小佛事 偈頌 跋

目次終

 

 義雲和尚語録・宝慶寺語録1 (東川寺蔵本)
 義雲和尚語録・宝慶寺語録1 (東川寺蔵本)

 

義雲和尚住越州鷹福山寶慶禪寺語録

  侍者 圓宗空寂 編

(上堂法語略)

寶慶禪寺語録終

 

 義雲和尚語録・永平禅寺語録1 (東川寺蔵本)
 義雲和尚語録・永平禅寺語録1 (東川寺蔵本)

 

吉祥山永平禪寺語録

  侍者 曇希 編

(上堂法語略)

永平寺語録終

 

小参

法語

佛祖賛

 観音(略)。布袋(略)。

 

 永平初祖

  揵俊たる竒相。傳大の心量。曹溪の淵源を吸盡して、性海に湛へ。太白の柱杖を扶桑に返る。鼻孔端しうして衝天の氣有り。眼瞳重つて人を射る光を具す。一花五葉春日暖かに。嶺月洞風秋夜涼し。

 永平二祖
肝膽眉目に彰れ、乾坤寸心に歛む。洞水の泒を湛へて眼睛碧海の如く、吉祥の踵を継いで頂毛雪林に似たり。寶鑑の萬象を含むが若く、虚空の鍼りを掛けざるに同じ。閃電の威光舒又た巻。儼として猊座に居して雷音を震ふ。

 初祖

全相の妙、通身の照、洞山頂上の眼睛を奪ひ得て、吉祥堂奥の心要に透徹す。塵塵三昧の座床に據り、刹刹常説の曲調を暢ふ。拂柄を拈弄して殃ひ兒孫に及ぶ。雲を打し水を打す好一場の笑ひ。

 自賛
聖も他た慕はず、凡も他た疎ならず。曲彔に身を倚せて未だ箇の言路に渉らず。龜毛横に握つて能く卦爻の圖を質す。衣薄うして洞峯の風骨に徹し、年邁て嵩岳の雪顱を侵す。鐵樹を攀ぢて紅血を注ぐに堪へたり。天堂に處して妙娯を受くるに倦し、朝三千暮八百、喫粥了洗鉢盂。

 同(自賛)
面容醜にして彼れが欺瞞を受け。一世貧にして物の人に與ふるなし。拂子毫頭眼睛綻ぶ。佛魔験み了つて齋隣を絶す。吉祥峯の月孤り輝き、薝蔔林の花春を累ぬ。

 

小佛事

 戒善大姉起龕。戒智大姉下火。思達上座下火。慈元侍者下火。寬海塔主下火。

 長樂開山圓機和尚下火。祥榮侍者入骨。

偈頌

 

 山居二首。

吉祥峯頭、人間にあらず。四時遷變の看を作すこと莫れ。兀坐寥寥として對待なし。清山深き處白雲閑なり。

林下幽閑なり一世の貧、外に向つて疎親を問ふに由なし。清風白月、賓と兼主。去就平常人を誑せず。

 

   氷。和雪韻。佛涅槃。送宗䂓西堂帰関西。送僧。

 

 師、正慶二年癸酉十月十二日辞世の頌に曰く

 教を毀り禪を謗す。八十一年。天崩れ地裂して。 火裡の泉に没す。

義雲和尚語録終

 

 義雲和尚語録・後書き(東川寺蔵本)
 義雲和尚語録・後書き(東川寺蔵本)

 

延文丁酉受菩薩戒弟子寶慶大檀那野州太守

藤原朝臣知冬發願開版矣所集鴻福上報四恩下資三有者

 助縁奉行比丘瑞雄維那

 刋字奉行比丘等理藏主

 洛陽永興比丘宏心書字

住持永平兼寶慶法嗣比丘曇希校勘

 

 義雲和尚語録・跋(東川寺蔵本)
 義雲和尚語録・跋(東川寺蔵本)

 

雲禅師、千古未發の道を句後聲前にて霹靂して、頓に俾して盡大地をして蘇息一番せしむに、宐へなるかな當時、永平中興の道誉を盛んにすることを。今日此の録の再び世に行る。國の運なり。人の幸いなり。然りと雖も若し巻中に向て相見せんと欲せば、猶を山を隔つることの在らんや。呵呵。

正徳第五龍次乙未龝九月旦

 城州竆谷(クタ)小衲愚中拝撰

 

拾遺義雲和尚語録

  拾遺義雲和尚語録・序1 (東川寺蔵本)
  拾遺義雲和尚語録・序1 (東川寺蔵本)
  拾遺義雲和尚語録・序2 (東川寺蔵本)
  拾遺義雲和尚語録・序2 (東川寺蔵本)

 

拾遺義雲和尚語録 序

 

 宗眼、日月を懸けて豁かに、玅辨、江河を傾けて瀉ぐに非る自りは、安んぞ能く長夜に晃燭として枯焦に津潤たらん哉。惟るに夫れ雲嚢祖、幼くして教海を掀翻し、長じて宗燈を挑起す、智光烜赫、慧澤淼茫。其の祖庭衰晩の日に當て、奮然として出て永平を董すに曁では、實に俾して積闇を頓に朗かに乾叢をして忽ち蘇へらしむ。謂つ可し祖道に回復して勳を百代に策すと。芝霊石、師の影に賛して謂く、洞上の宗風を闡き寶慶の密意を得たり。逸格の機を振ひ、大法の施を弘む。是れを中興永平の第一世と爲すと云う者も亦た敢えて誣いざるなり。然して其の語録、先彫存せず、後學焉れを憾む。今ま、鷲峰老和尚の序を爲て重刊するに逢ふ。誰か感喜せざらん哉。仍て我山の室内を搜て、又た其の遺篇を拾ひ輯めて一巻と爲す。同く梓に壽す焉。是れ時節因縁の現成する所以なり。希い冀くは前録と輝きを交へて照臨し、源を同ふして流通せんことを。
 惟れ時
正徳第五歳在乙未孟秋 穀旦 遠孫嗣祖比丘龍堂叟 即門 盥沐焚香九拝。
龔て越州寶慶練若の含光室中に題す。

 

拾遺義雲和尚語録目次
序。永平語。上堂。小参。賛。偈。銘。正法眼藏品目頌。義雲和尚傳。跋。

 

拾遺義雲和尚永平禪寺語録 遠孫寶慶住持比丘龍堂 揖。

 

  拾遺義雲和尚語録・永平禪寺語録 (東川寺蔵本)
  拾遺義雲和尚語録・永平禪寺語録 (東川寺蔵本)
  拾遺義雲和尚語録・跋 (東川寺蔵本)
  拾遺義雲和尚語録・跋 (東川寺蔵本)

(跋)
 身心脱落の道を鼓吹して、大雅を永平に和せんと欲する者の多からずと爲さず。然るに能く其の音響節奏を審にして、和し得て奇絶なるに至ては、則ち惟り霊梅の雲和尚のみ。今古未だ匹儔有ることを見ず。故に其の提唱の發越せる也。木人方に歌ひ石女起て舞ふ焉。嗚呼、彼の金色の頭陀をして特地に猖狂せ俾むることも、亦た胡ぞ獨り乾闥婆王の玅指に在るのみならんや。
 正徳乙未菊月良晨
   竹斯肥後沙門瑞方謹跋

 

 

義雲録と宏智録


 「永平寺史・上巻」310~316頁には義雲が宏智の語を多用していることを指摘している。
(概略)
義雲は宏智の詩句を多く借用している。
『義雲録』における『宏智録』からの引用は、おおよそ三つの類型に大別分類できると思われる。(中略)
第一は『宏智録』にしばしば出てくる慣用句をそのまま引用して、義雲自身の一転語として用いている。
第二は宏智の上堂や小参の語をほとんどそのまま引用して、義雲自身の示衆語として説示している。
第三は明らかに宏智の語や宏智の主張を意識しながら、これを自家薬籠中のものとして充分に咀嚼し、その内容を駆使して自己の宗教を説示している。
 尚、詳しくは「永平寺史・上巻」310~316頁で、その実例を挙げながら示しているので参照のこと。

 

【宏智覺禪師語録】
 全四巻。宋、宏智正覚撰、浄啓重編。清、康煕11年(1672)刊。
「天童宏智覺禪師語録」、「明州天童景徳禪寺宏智禅師語録」とも云う。
巻首の逸亭居士の序によると、宏智正覚は大慧宗杲と同時に宗風を振るい、洞山の再來を思わしめるものがあったが、すでに数百年を経て、語句が散逸して、全録を見ることができないので、晴雲法兄が他家に雑見しているのを拾い集めて編集したものであると述べている。巻一は明州(浙江省)天童景徳寺語録の抄録、巻二は拈古、巻三は頌古、巻四は機縁、四転霊機、崇先真歇了禅師塔銘、大用庵銘、正覚隰州宏智禅師行実、塔銘、祭文、大慧宗杲禅師縁讃を収めている。宏智正覚の語録には元版四巻本が存在したことが知られているが、本語録、および六巻本語録との関係は不明である。 『新版禪學大辭典』より

 

【従容録】
 全六巻。宋、宏智正覚頌古、宋、万松行秀評唱(離知録)。嘉定17年(1224)刊。「從容菴録」とも。詳しくは「萬松老人評唱天童覚和尚頌古従容菴録」という。
宋の紹興年間に宏智正覚が古徳の妙則百則を纂集し、その一、一に頌古したものが「宏智頌古」である。その宏智正覚禅師の『頌古百則』に万松行秀が評唱を加えて著わしたもの。その頌古は風格が高く、宏智の技量古今越格と称されている。「碧巌録」が看話の臨済宗で用いられるのに対し、本書は曹洞宗の宗風を挙揚したものとして、広く用いられている。 『新版禪學大辭典』より

 

 

義雲の禅と五位説

 

五位説とは中国曹洞宗の祖洞山良价、曹山本寂によって創唱唱道された機関の一で曹洞宗旨の指標となるものであり、・・・この五位説を道元禅師は少なくとも形式的な一面では宗旨の根本とすることを激しく嫌っている。
ところが、あれほど道元禅師を追慕したとされる義雲も、『義雲録』によるかぎり、五位説に依拠してなしている上堂示衆がいくつか見られるのである。(中略)
義雲における五位説の受容は、少なくとも字句の上からは、宏智の五位説を承けたものであり、極論すれば、宏智の語そのままの祖述といっても過言ではない一面を持っている。 (「永平寺史・上巻」319~322頁参照)

 

【五位】

一般には偏正五位(正中偏・偏中正・正中来・偏中至・兼中到)の略。
洞山良价の創唱により、法の実態を分類したもの。
曹洞宗ではおおむねこのまま伝承されたが、臨済宗では列位や名称の名目が、汾陽善紹により正中来・正中偏・偏中正・兼中正・兼中至・兼中到、石霜楚円のより正中偏・偏中正・正中来・兼中至・兼中到と変えて伝えられた(新版禪學大辭典より)

 

【偏正五位】
① 洞山良价が正(平等)と偏(差別)を組み合わせた五形式によって、佛法の大意を示したもので、正位却偏・偏位却正・正位中来・偏位中来・相兼帯来をいう。
② 洞山の法嗣、曹山本寂はこれを正中偏・偏中正・正中来・偏中至・兼中到と名称を改め、五位に逐位頌を作り、さらに揀語(著語)を付した。
曹山本寂の法嗣、曹山慧霞が洞山・曹山の五位説を編纂し、慧霞門人広輝がその釈を作って「洞山五位顯訣」として世に流布したので、中国・日本に大いに行われるにいたった。その説くところは、正(平等)と偏(差別)を借りて、平等即差別、理事円融の究極の世界を示すにある。
五位は洞山・曹山の所説であるため、中国・日本の曹洞宗において重んじられた。(新版禪學大辭典より)