訂補建撕記図会(坤)

 

永祖行實・訂補建撕記図会 坤)

 
ここからは前述「訂補建撕記図会(乾)」よりの続きです。

 
この面山本の「訂補建撕記図会」は現在、その道の參究者からはまったく顧みられていない。

河村孝道著「諸本對校・永平開山道元禪師行状建撕記」206頁には「昭和三十年、永久岳水による元禄七年書寫の『建撕記』が発見紹介され、更に古い天正十七年書寫本の発見紹介がなされ、従来面山本『建撕記』(流布本)を道元禅師伝の唯一のものと思っていただけに、是等の新資料によって訂補本が建撕原本と相違する改悪本であると考証指摘された事は非常な衝撃であった。」と書かれている。

又、同書の櫻井秀雄師「序」に「漸次、古寫本の発見に伴い、それとの比較研究の結果、いわゆる訂補本が他の古寫本に比して、訂補の名において、面山和尚による取捨増減がなされ、また行實の場所や時代の変更を加えられていることが判明するに及んで、更に系統的な研究が渇望され続けてきたのである。」と書かれている。

 

  訂補建撕記図会-43
  訂補建撕記図会-43

 
訂補建撕記図会 坤 

 訂補建撕記圖繪坤巻 永福面山訂補 輪王大賢等圖繪


嘉禎元年乙未


 補 この乙未の八月十五日に、理觀と云、僧に菩薩戒を授けらる。その戒脈は永平寺に遺在せり。この比までは開堂已前ゆへか、天童の正傳をあらわされず。榮西、明全、道元と聯續せり。年號は文暦二年とあれども、實は嘉禎元年なり。血脈の様は當用ならぬゆへに、こヽに畧す。


嘉禎二年丙申冬安居の初に、興聖寺に於て開堂あり。


 補 開闢初住本京宇治縣興聖寺語録巻の第一、侍者詮慧編す。師、嘉禎二年丙申十月十五日に於て、始て當山に就て、開堂拈香、祝聖罷て、上堂。山僧、叢林を歴ること多からず。只是れ等閑に天童先師に見て、當下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞せられず。便乃、空手にして鄕に還る。所以に一毫も佛法無し。任運に且く時を延ふ。朝朝日は東より出、夜夜月は西に沈む。雲収て山骨露し、雨過て四川低る。畢竟如何。良久して曰く、三年一閏に逢、難は五更に向て啼く。久立下座と。廣録の第一の初に出たり。


嘉禎二年この冬、懐弉和尚、首座に充て秉拂なり。


 補 随聞記云、嘉禎二年朧月除夜、始て懐弉を興聖寺の首座に請じて、即ち小參の次で、初て秉拂を首座に請。是興聖寺最初の首座なり。小參の趣は、宗門の佛法傳來の事を擧揚する也。初祖西來して少林に居して、機をまち、時を期して、面壁して坐せしに、其の年の窮臘に神光來參しき。初祖最上乘の器なりと知て、接得して、衣法共に相承傳來して、兒孫天下に流布し、正法今日に弘通す。當寺始めて首座を請し、今日秉拂を行はしむ。衆の少きを憂ること莫れ、身の初心なるを顧る事莫れ。汾陽は僅に六七人。薬山は十衆に満たざる也。然あれども皆佛祖の道を行しき。是を叢林のさかんなると云き。見ずや竹の聲に道を悟り、桃の花に心を明めし。竹豈利鈍あり。迷悟あらんや。花何そ浅深あり。賢愚あらんや。花は年年開くれども、皆得悟するに非ず。竹は時時に響けども聞者盡く證道するに非ず。唯久参修持の功により、辨道勤労の縁を得て、悟道明心する也。是竹の聲の、獨り利なるに非ず。又花の色の殊にふかきに非ず。竹の響妙なりと云へども、自ら鳴らず。瓦の縁を待て、聲を起す。花の色美なりと云へども、獨り開くるにあらず。春風を得て花開くるなり。學道の縁も又かくのことし。此の道は人人具足なれども道を得ことは衆縁による。人人利ならども道を行することは、衆力を以てす。故に今、心を一つにし、志を専らにして、參究尋覓すべし。玉は琢磨に依て器となる。人は錬磨に依て仁となる。何れの玉か初より光りある。誰人か初心より利なる。必しも須く是琢磨し錬磨すべし。自ら卑下して、學道をゆるくすること莫れ。古人の云、光陰空くわたること莫れ。今問ふ、時光は惜むに依て、とヾまるか。惜めども、とヾまらざるか。須く知べし、時光空くわたらず。人空くわたる。時光いたずらに過す事なく、切に學道せよとなり。かくのことく參究同心にすべし。我ひとり擧揚するも、容易にするにあらざれども、佛祖行道の儀みなかくのことくなり。如來の開示に随て得道するもの多けれども、又阿難に依て、悟道する人もありき。新首座非器なりと、卑下すること莫れ。洞山の麻三斤を擧揚して、同衆に示すべしと云て、座を下て後ち、再び鼓を鳴して、首座秉拂す。是興聖最初の秉拂なり。懐弉三十九歳也。


嘉禎三年丁酉、結制日。出家授戒作法を撰せらる。


 補 右作法の跋に云、嘉禎三年丁酉結制の日、之を撰す。講戒と受戒と其の儀別なり。之詳にするもの少し。何況や、大僧菩薩の戒相、之を明る者多からず。今撰する所者、講戒の流なり。而して菩薩戒の儀式、之を傳授する者稀なり。今聊か畧作法を存して、而して受授の儀を示す也。諸阿笈摩教、及び諸の教家に云所に同じからず。若し此の儀に依て、受授す可きは、得戒す可し。唐土我朝、先代の人師、釋戒の時、詳に菩薩戒體を論す、甚だ以て非なり。體に論す其の要如何ん。如來世尊、唯戒の得否を説て、體の有無を論ぜず。但だ師資相授すれは、即得戒する而已(のみ)


暦仁元年戊戌(九月十九日に改暦す)


 補 今年四月八日に、一顆明珠巻を示さる。嘉禎四年と題す。これ改暦の前月ゆへなり。


延應元年己亥(二月七日改暦す)


 補 今年示衆の法語下の如し。十月二十三日に洗面巻、同月同日に洗淨巻。


仁治元年庚子(七月十五日改暦す)


 補 今年示衆の法語下の如し。開冬の日に、有時巻。同日に傳衣巻。同日に袈裟功徳巻。この同日に、傳衣と袈裟功徳とを示さる様にあるは、兩巻とも一巻なるを、後に袈裟功徳を添削して傳衣と題號をかへられしより、前後共に今に遺在して、二巻共に同日の年月を記せり。清明の日に禮拝得髄巻、結制後五日に、溪聲山色巻、五月二十五日に即心是佛巻、月夕に諸惡莫作巻、十月十八日に、山水經巻、已上の中に末に延應庚子とあるは、改暦以前の示衆ゆへなり。


仁治二年辛丑


 補 今年示衆の法語下の如し。正月三日、佛祖宗禮巻、三月七日、嗣書巻、夏安居の日に、法華轉法華巻、これは慧達禪人に授けらる。名字に付て法達の曹溪に參ぜし因縁を示さるなり。同日に心不可得巻、九月九日に古鏡巻、九月十五日に看經巻、十月十四日に佛性巻、同中旬に行佛威儀巻、十一月十四日に佛教巻、十一月十六日に神通巻。

 

  訂補建撕記図会-44
  訂補建撕記図会-44
  訂補建撕記図会-45
  訂補建撕記図会-45

 
仁治三年壬寅四月十二日、近衛殿に謁して、法談の次で問有り、我朝先代、此の宗傳來るや否や。答、我朝名相の佛法傳來以来、僅四百餘歳也。而今佛心宗流通、正に此の時に當る。神丹國、後漢明帝永平年中に、始て名相の佛法傳ふ。以後梁朝普通八年に、時代を撿(かんかふるに)、僅に四百餘歳也。其の時、當て、始て西來直指の祖道を流通、爾し自以来、六代曹溪、青原南岳下、五家の宗を分と云。我朝欽明天皇の時代、始て佛法の名字を聞く、以来百済高麗從り、傳る所の聖教、亦國城に満れとも、未た以心傳心の宗匠有ず。只た鎭護國家靈験の僧のみ有て、閒(まヽ)出て踵を継、絶こと無し云云。永平六世和尚筆蹟を以て之を寫す。

同年五月一日、義尹和尚に大事を授け玉ふと云云。


 補 この時、義尹二十六歳なり。この一件に依て、後來義尹を祖師の法嗣と思ふもあれども、大慈室中法系の嗣書に、義介の下(もと)に列すれば、祖師の法嗣にはあらず。義尹この翌年、二十七にて入宋、天童淨和尚に參見と。近世興聖寺懶禪の記せられし義尹の傳に見ゆれども、淨祖の入滅は、宋の紹定元年戊子七月十七日にて、日本の安貞二年なれば、その年義尹は生年十二なり。古記にもこの様なる差誤多ければ、この大事を授らると、建撕の記せられしも、嗣法のことの證にはなりがたし。たヾその法孫の用る所を以て證とすべし。


同年中、由良開山深草に掛錫あり。衣を改め菩薩戒を受く、元亨釋書にも見へたり。


 補 法燈國師年譜に云、仁治三年壬寅、師三十六歳、城南深草極樂寺の元和尚に依り、菩薩戒を受く。元入宋の時、天童淨和尚從り、相傳の血脈也。元は永平開山佛法上人也。又云、寺に扁して(由良)西方と曰く。永平寺の佛法上人道元をして、額の篆字を書せ。この年譜の天童淨和尚從り、相傳の血脈也とあること、今日の永平門下、授菩薩戒の血脈を授受する根源なり。


同年八月五日、天童如淨和尚語録、はじめて到る。同六日、上堂有り。


 補 上堂の法語は廣録の第一に出たり。こヽに擧す。師乃ち起立し、録を捧げ香を薫じ云、箇は是れ天童□(足孛)跳を打して、東海を蹈翻して龍魚驚く。清淨大海衆、如何が證明せん。良久して云、海神貴きこと知り、也(また)價を知て、人天に留在して光、夜を照しむ。下坐して大衆と三拝(已上)。今年示衆の法語下の如し。正月十八日に大悟巻、三月二十三日に佛向上事巻、三月二十六日に恁麼巻、四月五日に行持巻、孟夏二十日に海印三昧巻、四月二十五日に授記巻、四月二十六日に觀音巻、五月菖節に栢樹子巻、五月十五日に阿羅漢巻、六月二日夜に光明巻、九月重陽日に身心學道巻、九月二十一日に夢中説夢巻、十月五日に道得巻、十一月初五日に畫餅巻、十二月十七日に全機巻。

 

  訂補建撕記図会-46
  訂補建撕記図会-46


同年十二月十七日。檀那雲州の私宅に於て、其の證正法眼藏二十二、全機の巻奥書に云く、爾の時仁治三年壬寅十二月十七日、在雍州六波羅蜜寺側雲州史幕下に在、衆に示。


 補 雲州は波多野出雲守藤原義重なり。系圖は大織冠鎌足の七代、田原藤太秀鄕より十四代の孫波多野義通が妹は、中宮大夫進朝長の母なり。保元の比、義通、左馬頭義朝と不和にて、洛陽を辭し、相州の波多野に居す。ゆへに名字とせり。義通より五代を義重と稱す。東鑑に云、承久三年五月十五日、相州(北條泰時)十九萬騎を率て、京都に赴き見る。尾州筵田の合戦、波多野五郎義重、先發に進む處、矢石、右の目に中る、心神、違亂すと雖も則、荅の矢を射ると云云。官軍逃亡す。凡そ株河洲の俣市腸等の要害、悉く敗れ畢と。寬元四年丙午正月十日、将軍家始て甲冑を著せ令む。義重参候。寬元五年十一月十五日、鶴岡八幡宮の放生會なり。将軍家、御参詣、先陣随兵、波多野出雲前司(第一)三浦五郎左衛門尉(第二)十六日、三浦五郎左衛門尉盛時、狀を捧け、訴申事有り。詮句は昨日随兵風記の如は、盛時を以て出雲の前司義重か下に書き載せて訖す。當家代代、未だ超越の恨を含る處、啻(たヽ)一眼の仁に書番つがは被るのみに匪。剩又、其の名の下に註せらる。旁、面目を失ふ閒。供奉の儀を止め可れ、云云。出雲前司義重、此の事を聞、殊に憤申して云、累家の規模に於は、誰か肩を比しや。一眼の事に至は、承久兵亂の時、抜羣の軍忠を抽、名誉を都鄙に被むる上、還て面目の疵なり。今夏、盛時か嫌難に覃ひ叵と云云。陸奥前司掃部助、奉行相州、並左親衛等の評定を凝して、兩方を宥め被か爲めに、但し五位の爲るの間、義重を以て上に註せらる所なり。午の刻、将軍家御出。十七日、出雲前司義重、猶申す旨有り。是れ昨日は、御出障碍を成さざる爲、強て所存を竭ず、盛時か申狀、太た以て傍若無人、後日の爲、尤糺明せられんと欲す云云。殊に宥して御沙汰畢て、重て鬱憤有るべかず旨、仰せ出さる云云。右東鑑三十八巻に出たり。義重生質の武氣を推察すべき爲にこヽに記す。在京の時、祖師に歸依して、深草に參ぜられ、後に入道して大佛寺と號し、戒名を如是と稱す。永平寺の開基なり。正嘉二年戊午正月二十三日卒去。祖師入滅建長五年より六年後なり。また祖師の御説法の事を、經豪和尚の記せらるヽに云く、故嵯峨の正信上人、佛を乾尿橛、殺佛なむど、開山説法の時、仰せられたりけるを聽聞して、あなくちをし、佛をかヽる物にたとへらる。禪宗をそろしきものかなとて、落涙せられけり。此の事を開山もれ聞て、あれほどに愚癡にて、人に戒をさづけ、歸依せられし事、不便の次第なり。我もいや目ならば、落涙しつべき事也と仰せらるるなり。見解の黒白、之れを以て準知すべし。比興の物語なり(已上)。

 
宇治の寺御住の間は、天福元癸亥の年より寬元元癸卯の年に至る、十一箇年なり。此の深草の寺は皇城に近ふして、月鄕運客、花族車馬、往來斷えず。縁に随う説法の大家、一百餘所。また受菩薩戒の弟子、二千有餘輩なり。度生の方便は、佛祖の古風なれども、我は安閑無事を望む所也とて、常に山林泉石の便宜を求めまします。有縁の檀那より、安閑なる在處とてまいらする山林園地、十有二箇處なれども、或は遠国、或は畿内、何の地も皆意に合はず。爰に波多野雲州太守藤原義重白(もふ)されけるは、越前吉田郡の内、深山に安閑の古寺候、某甲知行の内なり。御下向ありて度生説法あらば、一國の運、また當家の幸なるべしと言上す。師、答て云く、吾先師、如淨古佛は、太宋越州の人なれば、越國の名を聞くもなつかし。我が望む所なりとて、御下向あるべしと御返答あり。


 補 この古寺とあるは、永平寺の地、もと古寺の趾なり。今の地藏院は、弘法大師の開闢にて、自作の千體佛の地藏尊あり。また徹通和尚記せらる、御遺言記録に、靈山院の庵室と云ことあり。今もその所を靈山院谷とて、小菴あり。眞言天台家の寺ありし舊跡なるべし。

 

  訂補建撕記図会-47
  訂補建撕記図会-47

 
寬元元年癸卯(二月十六日改暦す)


 補 今年の示衆は兩所なり。三月十日、興聖寺に在て空華の巻、卯月二十九日、六波羅蜜寺に在て古佛心の巻、七月某日、興聖寺に在て葛藤の巻、この末は越前にての示衆、後に記す。


この年七月十六日の比、京を御立あるかと覺ふ。同月末に、志比荘へ下著あると見へたり。正法眼藏三十二巻の奥書に、寬元元年閏七月初一日、越宇吉峯頭に在て示衆と云り。


 補 吉峯は、今の永平寺の主山の背に當て、松岡の溪の奥なり。祖菴の舊趾あり。これも永平寺と同前にて、古寺の跡なり。ゆへに密語の巻の末に、吉峯の古精舎とあり。余行脚の時、松岡天龍寺の雄峯英公と、同行して登る。後に英公、松岡の城主に告て、一菴を再建せられて、今に相續す。上の三十二巻の奥書とは、三界唯心の巻なり。義雲編集の、六十巻の目録に合せり。吉峯にて示衆の法語下のごとし。閏七月初一日に三界唯心の巻、九月十六日に佛道の巻、九月二十日に密語の巻、九月に佛經の巻、九月に諸法實相の巻、癸卯に説心説性の巻、同く陀羅尼の巻、十月二日に無情説法の巻、十月二十日に面授の巻、孟冬に法性の巻、十一月六日に梅花の巻、十一月十六日に方便の巻。


七月十六日に深草を發出し、越に著して、最初は吉峯に住せられて、閏七月初一日に開示始まれり。十一月十六日までに、十二巻を示さる。今年の十一月六日まて、吉峯に寓在にて、その後に禪師峯に移寓にて、今年中は留在なり。


 補 この禪師峯は天台平泉寺の近所にて、古は山師峯(やましふ)と書す。山法師の居する峯と云意か。後に禪師峯と書す。今も禪師峯(やましふ)村と云く。祖師もと叡山の僧なれは、この禪師峯に天台の僧侶多きゆへ、聞法の爲に請せしなるべし。この禪師峯にて、示衆の法語下のごとし。十一月十九日に見佛の巻、十一月二十七日に遍參の巻、十二月十七日に眼睛の巻、同く家常の巻、十二月二十五日に龍吟の巻。


雲州太守並に今の南東郡の左金吾禪門覺念相共に、寺を建立せんと欲し、荘内にて山林の便宜の處を尋ぬ。則ち市野山の東、傘松の西に、寺菴相應の地を得て歡喜す。同年閏七月十七日、雲州太守、自手(みづから)山を平げ地を拽き、吉峯の茅舎より此の地へ移り玉ふと云云。


 補 この禪門覺念は、續七國志の三巻に見へたる眞柄備中守、眞柄左馬助等の先祖なり。


寬元二年申辰、この年は吉峯とこの寺の間を往來あり。


 補 今年は大佛寺を建立の事あるゆへに、居處定まらざるか。


今年正月には、平泉寺の麓、禪師峯と云處に居住と見へたり。寬元癸卯年十二月十七日に、正法眼藏示衆と之れ有り。同二年申辰、侍者懐弉之れを書寫す云云。寬元元年霜月一日の時分より二年二月の比まで、禪師峯と吉峯との間を往來と覺なり。


 補 この十二月十七日に正法眼藏示衆とは、眼睛の巻、家常の巻、二巻なり。この後にも十二月二十五日に、龍吟の巻を示さる。向(さき)に記するがごとし。


同年二月四日、越宇深山裡に在りて示衆と。正法眼藏五十二巻に之れ有り。彼の永平寺にての儀か、不審。


 補 この五十二巻とあるは、祖師西来意の巻なり。義雲の目録と合す。


同年二月二十五日に、天神宮に参籠ありて、天神月夜、梅花を見ると云題の詞あるを見て、和韻をめされたり。天神十一歳にして、月夜に梅花を見て始て志を言、其の詞に曰、月の輝きは晴たる雪の如、梅花の照れる星に似。憐れむ可、金鏡轉して、庭上玉房馨ことを。師和して云、青松何怕ん岩冬の雪、老樹の梅花飛んで星に似、天上人間三界の裏、眼睛鼻孔、幽馨を見。


 補 この本韻和韻共に、廣録の第十巻に載す。文字小異あり。録に云く、天満天神諱辰に、月夜に梅花を見る韻を次、齋衡二年、天神年十一歳、月夜に梅花を見て始て志を言、其の詞に曰、(此下四句二十字、上與記す所と同じ、但し房は廣録に芳に作る、非、文草に房と作)師和に曰、妙年の韻字清して雪の如し、老樹の梅花飛んで星に似、天上人間藏こと得ず、長、鼻孔を穿て、幽馨有り、(文字の差異考知すべき焉)この天満宮は、吉峯の同じ溪にあり。菴の向への村にて、今に神殿あり。これ吉峯よりの参詣なるべし。今年吉峯にて示衆せらる法語、下のごとし。二月四日に祖師西來意の巻、同十二日に優曇花の巻、同十四日に發菩提心の巻、同十五日に如來全身の巻、同日に三昧王三昧の巻、同二十四日に轉法輪の巻、同二十九日に自證三昧の巻、三月九日に大修行の巻。

 

  訂補建撕記図会-48
  訂補建撕記図会-48

 
同年二月十九日、大佛寺法堂の地を平げ、四月二十一日、礎居柱立、上棟は次の日なり。陰陽少允安倍晴宗、勘へ白して、申の時に儀式之れ有り。


 補 大佛寺は如是居士の號なり。其の比までは諸大名、院號を憚かりて、多く寺號を稱す。最明寺などの類なり。如是の開基ゆへに、大佛寺と號せらる。

 
同年七月十八日、開堂説法云云。師、今日より此の山を吉祥山と名づけ、寺を大佛寺と號す。乃ち頌有り曰く、諸佛如來大功徳、諸吉祥中最無上、諸佛倶來入此處、是故此地最吉祥。この日諷経の間、龍神の起雲降雨、草木樹林みな吉祥の瑞氣をあらわすと見へたり。


 補 上の四句の偈は、華厳經夜摩天宮品の偈の例を以て、文字を易へて自作して唱へらる。直の經文にはあらず。またこの時には、傘松峯と號して、吉祥山の號には、寶治二年に初て改めらる。額字の寫し、今洛下道正菴にあり。こヽに記す。南閻浮提、大日本國、越前國、吉田郡、志比荘、傘松峯、從今日名吉祥山。諸佛如來大功徳、諸吉祥中最無上、諸佛倶來入此處、是故此地最吉祥。寶治二年十一月一日と、八行に書せり。これ眞筆の寫しなり。自今日とあれば、昨日までは傘松峯なり。こヽは記者の失考なり。


檀那雲州太守、一心に随喜す。この法筵に、参詣の人衆は、前大和守清原眞人、源蔵人、野尻入道實阿、左近将監安主公文等、皆參て行事す。


 補 已上の衆、未考。


説法の後、師雲州に謂く、この一片の地、主山は北に高く、案山は南に横ふ。東岳は白山の神廟に連り、西流は滄海の龍宮に曳く。吾在唐の時、天童先師、坐禪の法要、三十餘箇條を示し玉ふ。其の一に云く、大海を見ることなかれ、青山渓水を見るべしと。此の地この記に應ず。林泉の風景、望む所亦足る。珍味必ず良器に盛る。香稲は必ず満足すべし。是れ勝行の地にあらざらんや。尤も興法の道場なり。鎭西關東より南北四維に勝地を撰ぶ。今ま此に到て自休す。


 補 この法要三十餘箇條は寶慶記に委し。


是を吉祥山と名けらるヽことは、吉祥は帝釋宮の名、又佛の成道の時、吉祥草をしき玉ふ。今地を平げ、伽藍を建立する處吉祥なり。


 補 吉祥の山號のこと向(さき)に記するが如し。洞に瑩山和尚の洞谷記と題する一冊あり。永平寺の室内にありしを一覧せしに、開山瑩山記録とはあれども、瑩祖の滅後の事も見ゆ。また自稱して羅漢果を證せし等の詞は、佛説に背する捏怪なり。考えふるに、これは滅後に徒の中に瑩祖を褒稱し過て、祖言にまじへて加へ謂しと察せらる。その外にも自分に謂れまじき言句ををし。今こヽに一件を擧す。永光寺の事なり。云く、正和二年癸丑八月、始て茅屋を結、假の庫裡と爲。其の夜の感夢に曰く、羅漢第八の尊者、來て告示すること在、山に入、山を看。此の山を眺望すれは、小所爲と雖も、頗る勝地爲、尚を永平寺に勝れり。永平寺は方丈の立ち處ろ山の凹に當。是障礙神の居所の際た、古へ自、一切障礙有り。(異本是故有る也)當山は然らず。興化、如意なる可と。(云云異、誠字有り)卓菴自り以來、一切障礙無し。無爲修練して、年を逐て繁昌すと。この語中に、永平寺の境は、障礙神の所居とあれども、五百年後も祖師と仰て、往來たへず繁榮す、永光寺は年を逐て繁昌すとあれども、それほどにも見へず。箇様にいかヾしき詞の相違ををし、全篇が瑩祖の作とは云ひ難し。後人の祖に托して増加せし綺語ありと察せらる。


亦、衆に告て云く、食は須く足ことを知り、衣は須く倹約なるべし。是は古今道者の用心にて、從來衲僧の眼睛なりと慇懃に示し玉ふ。今この意を註するに、食は落果などを食してなりとも、其の日の命を養わば、これより上を望むことなかれ。紙ぎぬ計りにても、寒をふせぐべしとなり。又示て云く、諸方を見るに、道心の僧はまれにして、名利を求る僧は多し。佛法を慕はず、一心に朝廷の賞をこいねがふ。此の類は皆、誰か是れ佛祖、誰か是れ外道と云ことをも識らざるなり。


 補 和論語巻八に道元の曰く、さとりと云は、別事にあらず。形式戒法立て後の事なり。今時の僧、みだりに祖師の語を見て、思量し分別して、戒行不足にして、さとれりといへり。是末世法をみだり、人をまどはす大罪人なり。佛一代の説法、一切諸経は皆是小玉をよぶ手段なる事をしらず。さとれる者は、戒法正しく、物我なく、大慈圓満にして、もろもろをすくへり。あさましきかな、末世の法は、俗家をたぶらかし、時にあへるに心をよせ、時に合はざるの人ありといへども、かつてみる事なく、いまの法は、俗家の世渡業にもおとりてあさまし。なかなか渡世のなす事をみれば、なす事ありて、取る事有り。是にははるかにおとれるは、此の比の佛者のありさまなり。眼をさまして、佛の眞理を辨へ、向上の大路をあゆむべし(已上)、この和論語は、古賢の正語ばかりを揀み集めし書なり。


同年九月一日、法堂功成て開堂あり。法堂の礎あり。法會の來衆、男女一千餘人あり。これより清規を行ぜらる。


 補 今佛殿と方丈との間に、法堂の礎あり。天龍夢窓國師の弟子の義堂和尚の日工集に、天童清規の事を載られしに云く、建長の衆寮に就て、長老中岩の清規を講を聴くに云、天童淨和尚、小參は必しも法堂に不、處に随て説く。故に今日の永平寺、猶を此の禮を講す云。(已上)右の趣なれば、天童永平の清規の中には、濟下と異なる例も多くあるべし。


同月七日に、宇治の興聖寶林寺より、木犀樹到來。義準上座送て到りて、今孤雲閣の前に植と云云。


 補 義準は慧鑑の剃度にて、義介義尹の法弟なり。準書状、慧鑑上人の爲に請する上堂一章。廣録に載たり。祖師越に移られて後に、興聖の消息は、この木犀の一件のみ。餘事古記に見へず。

○檀那義重への返書の艸、一通、文言左の如し。

當寺は、二位殿、右大臣殿御菩提の奉らん爲に、御建立候之上は、始て布薩説戒を行はされ候天、廻向し奉らる可き候之由、謹承候ひ了す。折節在國在り候。勤仕令す可候。且つ六波羅蜜殿の御書、畏れ拝見仕候ひ了す。早、寺庫に納む可候。今月十五日、布薩説戒、已に勤仕令め候ひ了す。謹惶、謹言。十月二十日、道元。

右の祖筆、現今永平寺の室中にあり。年號見へず。しかれども、始行布薩とあれば、寬元二年の比と察せらるゆへに、ここに補す。この二位殿とあるは、尼将軍にて、右大臣殿とは、實朝将軍なり。義重は重代鎌倉に勤仕せられ、恩顧ある故に、兩靈の御菩提として、伽藍建立せらるなるべし。

 

  訂補建撕記図会-49
  訂補建撕記図会-49


同年霜月三日(康子)僧堂の上棟(むねあげ)あり。此の時も龍天の小雨少風を降す。吉例なり。建立信心の檀那左金吾禪門覺念は、庫下の南簷の下に、鹿皮を敷き令めて行事す。子息左兵衛尉藤原時澄も庫下西簷下に在て行事す。師は庫下の前に在て、上棟を見たまふ。大工幣を捧て三拜す。其の幣五色なり。大工に馬一匹を賜ふ。小工已下皆絹一匹を賜ふ。見に参詣の男女一千餘人に白餅一枚づつ賜ふ。一年の中に法堂僧堂共に功成なり。然れとも師の在世には七堂は未建立と見へたり。行状記に曰、土木未だ備らず、殿閣僅に兩三有りと云云。


寬元三乙巳の年、三月六日に、初て正法眼藏五十六巻を示せり。

同年四月結夏の日、上堂の前後に天花亂墜して、法席及び、衆僧の座上、茶盞の中まて散り入る。古今未曾有なりと、記せらる。(永平寺囘祿の後、殿堂建立ありて、観應二年四月二十一日開堂供養。六世曇希和尚陞座説法に、師の在世の威徳を擧揚せらるヽ。其の中に此の天花の説。六世自筆あり。其を以て之を寫す。)

 

 補 天華の降しと云こと、支那の僧史に往往に見ゆれども、花の相状を委くせず。たヾ續高僧傳第六巻の釋法雲の章に、法華經を講せられし時の、奇瑞を記するに云く、嘗て一寺に於て此の經を講散す。忽ち天華を感す。状、飛雪の如し。空に満ち下る。堂内に延て、空に升(昇)て墜ちず。講訖て方に去とあり。これにて祖席の天華を想像すべし。攝州浪花、天満の天徳寺に、一幅の法語、祖師の眞蹟あり。字計五十有一、御名の下に華押有り、近年は河州の大日寺に頑愚長老秘蔵せらると云ふ。文言左のごとし。

乾坤大地百雑砕、大死底無天無地。飜自己云、過去心不可得、現在心不可得、未來心不可得。

寬元乙巳五月日、道玄、附、波多野廣長。


寬元四年(丙午)六月十五日の上堂より大佛寺を改め、永平寺と稱す。

 

 補 廣録第二、大佛寺を改て、永平寺と稱す。上堂。天、道有り以て高清、地、道有り以て厚寧、人、道有り以て安穩。所以世尊降生は、一手は天を指し、一手は地を指す、周行七歩して曰く、天上天下唯我獨尊。世尊道有り、是れ恁麼なりと雖も、永平道有り、大衆證明。良久云、天上天下、當處永平。この永平の號は後漢の永平年中、佛法東漸せし暦號を采なり。永平(ながひら)と云ふ稱(なのり)を采とある説は妄談なり。


知事清規、此の日より行はる。

 

 補 これは知事清規の末に、于時寬元丙午夏六月十五日、越宇永平開闢沙門道玄撰すと記せらる語によれり。別に一幅の眞蹟、現今(いま)永平寺にあり。この比の事なり。左に記す。

永平寺佛前斎粥供養侍僧事。第一比丘懐弉。第二比丘覺佛。周而復次。恭敬供養。

寬元四年七月十日住山沙門道玄。この軸長短八行。字計四十餘六にて、法諱の下に華押有り。


同八月六日示衆に曰く、永平、庫院に示す。禪苑清規に云く、齋僧法は敬を以て宗の爲、はるかに西天竺の法を正傳し、近くは震旦國の法を正傳す。如來をよび、佛滅度後、或は諸天の天供を佛ならびに、僧に奉獻したてまつり。或は國王の王膳を、佛並に僧に供養したてまつり。其の外、長者居士の家よりたてまつる。毘舎首陀家よりたてまつるもありき。如是供養ともに敬重すること、ねんごろなり。天上人間の中の極重の敬礼を用ひ、至極の尊言を存し、敬ひ奉りて、飯饌等の供養の具、造作せり。香積局の其の禮儀言語したしく、正傳すべきなり。天上人間の佛法を習學するなり。謂(いはゆ)る粥をは、御粥(をかゆ)と申すべし。齋は御齋(をとき)と申すべし。齋時とも申すべし。時と申すべからず。よねしろまいらせよ、といまいらするをば、淨米しまいらせよと申すべし。米かせと申すべからず。御汁ものしまいらせよと申すべし。汁によと申すべからず。御羹(あつもの)しまいらせよと申すべし。御羹しまいらせると申すべし。汁にへたると申すべからず。御粥は熟せさせたまいたると申すべし。齋粥とヽのへまいらするとき、人の息にて、米菜及ひ、何れのものをも吹くべからず。たとひ、かわきたるも綴袖に觸することなかれ。かしらかをに觸たる手、いまたあらはずして、齋粥の器もの、及ひ齋粥に手ふれることなかれ。米菜はゑりまいらするより、乃至飯羹につくりまいらする。經營の間、身のかゆき所を、かきては、かならず其の手をあらふべし。齋粥とヽのへまいらする所にては、佛經の文を誦じ、祖師の語を諷誦すべし。世間の語、雑穢の語をいむべし。をヽよそ米菜鹽醬等の、諸の物ましますと申すべし。米菜ありと申すべからず。齋粥のをわしまさん處を過るには僧行者問訊したてまつるべし。零菜零米等ありとも、齋粥の後、使用すべし。御齋粥をわらざるほど、犯すべからず。齋粥とヽのへ、まいらする調度、ねんごろに護供すべし。他事に用ふべからず。在家より來ん輩の未淨手なるは、御菜菓子等觸るべからず。必ず酒水し、行香し、行火して後に、三寶衆僧に奉るべし。現在太宋國の諸山諸寺には、若し在家より來れる、饅頭、乳餅、蒸餅等は、重てむしまいらせて衆僧に奉る。蒸はきよむるなり。いまだむさヾれば、奉ざるなり。是示は多かる中に少計なり。是の大旨を得て、庫院香積を執行すべし。萬事非儀なりことなかれ。右條條、佛祖の命脈、衲僧の眼睛なり。外道は知らず、天魔も堪えず。唯、佛子のみ有る乃能傳也。是れ庫院の知事、明察して失う莫れ。開闢沙門道玄華押。(靈梅院の開基檀那、勝義の筆跡にて、之れを寫すなり。この勝義は、永平三世の檀那の二男にて、四世檀那の兄なり。屋敷の名字、是れ自り始まる。)

 

 補 この示庫院文、元來上のとほり、假名なり。今時は正法眼藏の拾遺に編入せり。紀年祿、此の詞を以て、眞字と爲して、而加焉者は、祖師の親語に非る也。

 

  訂補建撕記図会-50
  訂補建撕記図会-50
  訂補建撕記図会-51
  訂補建撕記図会-51


寬元五丁未歳、正月十五日、布薩の時師説戒し玉ふに、五色の彩雲、方丈の正面の障子に立て、半時ばかり在り。聽聞の道俗あまた見奉るなり。其の中に河南荘、中鄕より参詣せし人、この子細を後證の爲とて、起請文を以て申し置く。其の文に云く、志比方丈、不思議日記の事。

寬元五年(歳次丁未)正月十五日説戒。然に未の始め自り申の半分に至り、正面の障子に五色の光有り。聽聞の衆、貴賤之を拝見す。其の中、吉田河南荘中の郷自り、参詣を企て、之を見奉る輩、二十餘人。但だ説戒の日は多しと雖も、當て斯の日に相、参詣するの條、然ら令むる故なり。此の條、虚言と為す者、永く三途に堕在せしむ。仍て今自以後、傳え聞て随喜せん為に、之を記置の状、件の如し。此の正本、開山の寶函の中に之れ在る也。


 補 この瑞雲の事は、祖師御眞筆に、三箇條の瑞雲の事を記せらるヽ中の一條なり。右の祖筆は、末にうつす。上の不思議日記は、本書と小異あり。こヽに本書を一字も差ずして記す。

┌滅

└○○○(志比荘)方丈不思議日記の事

寬元五年(歳次丁未)正月十五日説戒。此の日未の始め自り申の半分に至り、正面の障子(仁)五色の光有り。聽聞の衆、貴賤之を拝す。其の中、吉田河南の荘中の郷自り、人、参詣を企て、之を見奉る輩二十餘人。但だ説戒の日多しと雖も、當斯の日に相、参詣之條、然ら令むる故也。此の條、虚言と為す者、永く罪三途に堕在さ令め歟。仍て今自以後、傳え聞て随喜の為めに、之を記置の状、件の如し。

              佛子尊慶華押

              同 昌圓 同

              藤井光成 同

             大中臣眞安 同

              坂田守宅 同

              久瀬有光 同

             ┌本書磨滅

             └○○○○ 同

永平寺

寬元五年丁未正月十五日、布薩説戒之時、興五色彩雲於方丈。門前聽聞衆中、見之人人。

              源 満約 華押

              源 時幸 同

              僧 昌圓 同

              僧 尊慶 同

              藤 定政 同

右二通共に、紙は越前鳥の子なり。


永平二代懐弉和尚、自筆を以て之を註して曰く、當山開闢堂頭和尚、方丈に就いて布薩説戒の時、五色瑞雲正面の明障子に現ず。彼障子、年歳を経て破損す。彼の舊破の骨紙等、當寺の重寶、而、之れを安置す。其の現瑞の日時等、別紙に記す。今暫く方丈天井の上に安置して證據と爲すべき也。文永四年九月二十二日之れを記す。小師比丘懐弉、華押。この正本、今に至り永平寶藏に在之。


 補 この書余拝見す。今と少異あり。ゆへに不差一字、本書をこヽに擧す。

當山開闢堂頭和尚、就方丈布薩説戒之時、現五色瑞雲於正面之明障子。經年歳而破損。彼舊破骨紙等、當寺之重寶而安置之。其現瑞日時等之記。在別紙。今暫安置方丈天井之上。後之可爲重寶也。

文永四年九月二十二日記之。小師比丘懐弉華押。

右の通り九行、紙幅、堅に九寸二分、横九寸八分、越前奉書の古びて鼠色の白き様に見ゆる。

今年の立春の日、自筆に立春大吉を書せられたる眞蹟、今京の道正菴に秘蔵す。一幅長短八行、字數八十有五なり。文言左のごとし。

南謨佛法僧寶大吉、立春大吉、一家祖師祖宗大吉、佛法弘通大吉大吉、祖道光揚大吉、寺門繁昌大吉、門子多集得人逢時、天下歸崇吾道大吉、大吉大吉、立春大吉大吉、開山永平大吉、道玄

寬元五丁未、立春大吉、大吉。華押あり。

また攝州浪華天満の天徳寺の室中にも、冬至の大吉あり。字數七十有八、左に記す。

南無歸依佛法僧寶、七佛二十八祖、東土六祖、一家祖師、洞家師資、建立寺院、傳道授業、教化人天、安穩太平、雲衲大集、壽運繁昌、萬事如意豐足、弘法大吉大吉大吉、一陽佳節大吉大吉大吉大吉。希玄。華押あり。

 

  訂補建撕記図会-52
  訂補建撕記図会-52
  訂補建撕記図会-53
  訂補建撕記図会-53


寶治元年(二月二十八日に改暦)丁未八月三日、鎌倉に御下向のことは最明寺殿、法名道崇のかたく請し申さるる間、御下向。すなはち菩薩戒を授け玉ふ。其の外道俗男女、受戒の衆數しらずと云云。


 補 祖師の鎌倉に寓居のこと、東鑑に失記す。往來の年月は廣録に記す。時頼の宅に、八月より明年の三月まで半年餘の寓居なり。この間、定て開示の法語多かるべし。古記に一向に見當らず。武家には、記録も遺りて秘するにや。天龍義堂の日工集の中に、京の将軍義満の義堂に密話せられしことを記せられしに、永平長老の平氏に勸るがごとくなるべしとあれば、天下の大事をも開示あられしなるべし。日工集の文左のごとし。永徳元九月二十五日、余及太清、府に參し、楞厳疏第五下之六根證入の章を講す、君密語天下の政事に及ふ云、満一變有るは、天下を棄んと欲こと、當に永平長老の平氏を勸るが如くなるへし。余太清と、密に賛して慰労して云く、世を視こと弊屣の如く、是れ安樂長久の基と云云。


時頼固く師を留め申され、寺院建立して開山祖師と仰ぎ申すべきむね、再三言上あれども、越州の小院も檀那ありとて、堅く辭し玉ふ。其の時、師を請じ申る寺は、すなはち今の建長寺なり。開山に蘭溪道隆を請し申されしなり。


 補 蘭溪の傳は、元亨釋書に委し。こヽに擧るに及ばず。

 
蘭溪和尚よりの状に曰く、道隆和南悚息上啓、序を揆るに金風普扇、玉宇高寒。恭く惟は、名刹を坐鎭して、人天を警悟す。道體起居清勝。道隆宋國の晩生、無知の者を謬る。拙を衆底に藏す。動止、策ことを亡す。伏して累年より仙國の弟兄と、太白に同處す。了に固必無く、一家事を作。或る日齋餘、覺玅房、和尚法語並に偈頌等を出示す。棒讀再三、恍として面晤の如し。路、滄溟を隔と雖、大光明藏中、間隔無し。春暮、舟に附て博多に抵る。聞く近年、深山窮谷に遷て、此の道を以て後昆を開示して、朱門豪戸と友と爲ることを欲さずと。上古風規を存ことを見るべし。攀企、已まらず人をして使しめむ。設ひ管中に豹を窺て短を論し長を言ふ者有るも、何そ與に較るに足ん。久久日消ん。伏して望む槌拂に倦ずして、庶幾くは瞿曇之風墜ず、曹洞の派永流れ、幸幸。近聞く京中文武櫌攮。想ふ冬の盡に到、諸兄と同く衣を樞て、丈室に往、拝謁も未だ閒(ひまあら)ず。切に大法の爲に、崇重不宣。右謹て呈す。宋朝西蜀の人事、太宰府の博多圓覺寺に寓する比丘、道隆和南上啓と。


 補 本朝高僧傳巻十九、道隆の章に云く、海に泛び太宰府に著く。本朝寬元四年也。時年三十三。筑の圓覺に寓す。明年都城に入る。泉湧寺の來迎院に憩う云云。この書の趣なれば、隆公と覺玅房と、在宋の時、天童山にて同狀なり。來朝にて博多圓覺寺より、祖師へ呈柬あり。紀年録には、圓覺を削り、書柬の文字を改革して事實を失却せり。


祖師の返狀に曰く、道元咨目悚息、圓覺和尚大禪師几前に上復、即辰孟冬輕寒。伏て惟は、尊候神相萬福。道元二十年前、曾て太宋に到り、錫を太白に掛。一瞬の間、未だ叢林を歴さず。旋、本國に來。蓋し業風の吹く所なり。行解俱に闕、愚を守て日を過す。近年深山に菴し、戸を閉し残命を終らんと欲す矣。去冬詮慧慧達兩禪人、雲遊之次、敬て和尚の書を領す、熏香拝見、欣感惶恐。宛か是れ寒谷之温至也。本と寺に詣して拝謝せんと欲す。未だ鄙願を遂。期せ不りて今年八月、檀越に勾引せられて、忽ち相州鎌倉郡に到る。東西山川二千餘里、風に嚮ふ之至、一日三秋、承聞く和尚既に王城に到と。時の運なり。人の幸なり。迢迢たる萬里、海に航して來る。普通遠年の儀に一如す。且喜らくは、祇園の風云に扇き、曹溪之流能傳ことを。幸如草草伏冀は慈照。

寶治元年丁未孟冬、比丘道元、悚息咨目、圓覺堂上和尚禪師尊前に上復。

 
(注)此の二通の書、見合するに心得難き事多し。然れ雖も凡そ之を註す。建長開山大覺禪師は、弘安元戊寅年七月二十日示寂なり。此の狀は圓覺寺寓住の中、寬元四年丙午三月の暮博多に御下向在てござある時、覺明房と申す人、師の法語並に偈頌等を見せ奉りしなり。其の冬師の會裡の僧、詮慧慧達兩僧、行脚の次で博多に行に、其の時此の狀を大佛寺に寄せらると見へたり。寬元四年の冬の比の進書なり。返書は師の鎌倉に在し時、發せられ、京にて進すと見へたり。寶治元丁未年十月の日付なり。其の時分大覺は、博多より上洛ありて在京と見へたり。寶治元年の返事に、去冬とあるは、寬元四年の冬なり。


 補 蘭溪禪師は、寬元四年丙午の三月に來朝して、筑前博多の圓覺寺に寓居あり。この書中に春暮舟を附けて博多に到るとあるがそれなり。その秋博多より呈せらるヽ書が、翌寶治元年丁未、祖師の鎌倉に寓在の所に達せり。其の冬鎌倉より返書せらるヽ節は、蘭溪は京に著せらる。其の旨尊書の中に見へたり。しかるに上の細注に、二通の書見合するに心得難き事多しとあれば、考策未到ゆへか。先は蘭溪の來朝して、博多に著の時節を考へず。またこの圓覺寺とあるを、鎌倉の圓覺と取り違へ解せられしゆへに、博多に御下向とあり。また覺妙房の法語を見せられたるは、天童山にての事なるを、博多の事と思ひて記せらる。上件は考への不足なり。心得難き事多しとあれども、少しも相違の事はなし。

○ この寶治元年に懐弉和尚、豊後國大分郡に、下向ありて、大龍山永慶寺を草創せられしこと、古記に載たり。

 

  訂補建撕記図会-54
  訂補建撕記図会-54

 
寶治二戊申の年


 補 この春の尊偈あり。録に記す。相州鎌倉に於て驚蟄を聞き作す。半年飯を喫す白衣舎、老樹の梅花霜雪中、驚蟄一聲、霹靂を轟す、帝鄕の春色少桃紅。

永平室中の古記に謂く、寶治元年鎌倉に在し時、時頼の請に依て、不立文字の意を詠む。歌に云く、荒磯之波茂元與勢奴高岩爾(あらいそのなみもえよせぬたかいわに)加幾毛津具扁起能利奈良者古曾(かきもつくべきのりならばこそ)と。時に鎌倉の貴賤道俗稱美曰く、元和尚啻た佛法之奥旨を得たまふのみに不ず、兼て風雅の道も亦世に越へたりと。遂に皆扇面に書して之を詠歎す。冷泉爲家卿、此の歌を聞き、之を稱して曰く、詞正く意明に、哀を含て感情尤も深し、是れ和歌の本意なり、今世の好士、誰か之に及んや云云。


三月十三日、鎌倉より寺に歸る。

同十四日上堂曰く、山僧昨年八月初三日、山を出、相州の鎌倉郡に赴く。檀那俗弟子の爲に説法す。今年今月昨日、寺に歸る。今朝陞座。這の一段の事、或、人有り疑著せん。幾許の山川を渉て、俗弟子の爲、説法す。俗を重、僧を輕に似たりと。又未だ曾て説ざる底の法、未だ曾て聞かざる底の法有りやと疑はん。只、他の爲に説く、修善の者は昇り、造悪の者は堕す。修因感果、塼を抛、玉を引き而已、然も是の如くと雖も、這の一段の事、永平老漢、明得説得、信得行得す。大衆這箇の道理を會んと要や麼。良久して曰く、□(叵寸)耐なり永平か舌頭。因と説、果と説、由無し。功夫耕道多少の錯り。今日憐む可し水牛を作もとを。這箇は是れ説法底の句。歸山底の句作麼生か道ん。山僧出去て半年餘、猶、孤輪の太虚に處るか若し。今日、山に歸れは雲喜氣、山を愛の愛は、初よりも甚し。右廣録三巻に之有り。師、越前に歸りて後、最明寺殿、願心を遂んが爲に、越前國六條の堡、二千石の所を、永平寺の領に寄進ありけれども、師ついに受られず。玄明首座と申す僧、この寄進状を將て、使ひせられしなり。彼の堡御寄進を歡喜して、衆中に觸れありき玉ふを師聞玉ひて、この喜悦の意、きたなしとて、すなはち寺院を擯出し、玄明の坐禪の牀までも、載り取りたりと云傳ふ。前代未聞の事なり。彼の玄明は、師の滅後、百三十年ほど後に、伊豆國箱根山にて、行脚の僧行逢て、我は是れ越前國永平寺の玄明首座と云者なりとて、師の在世の物語し、竹杖にすがり立たまいるを見たるとて、その行脚僧、永平寺に來て語れりと申し傳ふ。


 補 御遺言記録の中の尊語に義介和尚の事を稱して、玄明等に似ず、當時、事に依て罸、院門例也とあり。その外に、玄明のこと古記に見へず。

 

  訂補建撕記図会-55
  訂補建撕記図会-55
  訂補建撕記図会-56
  訂補建撕記図会-56


今年四月より十一月十二日まで、時時に殊勝なる異香あり。僧堂の内外に、熏じわたりたると、師のあそばしたる眞筆あり。


 補 この異香のこと、後に擧する三箇條の靈瑞の一つなり。この比、庫院に示さるヽ眞蹟二幅、余が拝見せしを左に記す。

自今以後可從停○○○(二字消へ・止事)

一施主齋僧時 將銭爲料○○(二字消へ)

雖用公界米算計其所費

而早買米以可辨置也 不可以其

銭使他用

一費公(界)米而不可營冬年之菓子等

一將米不可買菜等料物

一公(界)米不可借與甲乙人

一費公米而不可營薪炭等

以前五箇條 庫院須知

寶治二年十二月二十一日

開闢永平沙門希玄華押 この一幅は、現今永平寺の室中にあり。

永平寺今告知事 自今已後、若遇午後檀那供飯 留待翌日 如其麺餅菓子諸般等 雖晩猶行 乃佛祖會下藥石也 況太宋國之内 有道之勝躅也 如來曾許雪山僧之褁腹衣 當山亦許雪時之藥石矣

開闢永平沙門 希玄華押

この一軸は、今濃州今洲の妙應寺の室中に在り。余行脚、正徳辛卯の秋、主席笑山東堂に請じて、拝見して記を作る。記は別に録す。


寶治三年己酉正月一日、羅漢供法會あり。この時、請を受玉ふ。木像畫像の羅漢、其の外諸聖相共に放光して、供養を受たまふなり。大唐には天台山に五百の在世羅漢あり。我朝には、此の山中に在と、師、自筆を以て書き置たまふなり。此の記の正本、檀方義重の書箱に之れ在り。


 補 この時十六尊者の像、今は常陸州若柴の金龍寺にあり。祖師の眞蹟にて、その像の上に書せられし語あり。左に記す。

寶治三年酉の正月一日巳午時、十六大阿羅漢を吉祥山永平寺に供養す。方丈時于瑞を現じ筆記。佛前特に殊勝美妙現、木像十六尊者皆現、繪像十六尊者皆現、瑞華を現之例は、太宋國台州天台山石橋而已。餘山に未だ嘗聞ず也。當山已に現こと數番。寔是祥瑞の甚し也。側知尊者哀愍して、當山當寺の人法を覆蔭することを。所以に是如く開闢當山沙門希玄(已上)

この供養の時、十六尊者、諸眷属等、寺の東岩の長松の上に、應現ありしゆへに、其の老松を今に羅漢松と號す。その時に羅漢の遺在(のこ)せりとて、異様の團扇一柄、今に室中に傳秘す。其の様擯榔扇に似て大きなり。今比なきものなり。案ずるに、祖師の在宋の時、徑山の羅漢堂の前にて老僧に出逢て、その指揮にて淨祖へ參見あり。これ羅漢なるべし。歸朝の後も右の趣の羅漢供あり、又羅漢講式を手撰せらる。今時一派に依行する本それなり。余この艸稿の眞蹟を拝見す。文字小異ありて、流布本を考讎す。希有の冥感なり。

 

  訂補建撕記図会-57
  訂補建撕記図会-57


同年正月十一日より、衆寮箴規を始て讀ませらる。今に于て退轉せず。毎月朔日、十一日、二十一日に、後生晩學をとはず、寺僧輪次に、湯茶菓を調へ、大衆集來して衆寮に喫茶湯了て、首座之を讀むなり。其の箴規の意は僧中の起居動静、賓主の禮儀等を愚人の耳に落る様に書き玉ふなり。


 補 箴規の末に、寶治三年正月日記とあり。これはまさしく、永平寺衆寮の、看讀法の常規なり。


師五百年際、この吉祥山を離れずと云うの誓約ありと、今に申し傳ふ。九月十日衆に示して云、今從り盡未来際、永平老漢、恒常に人間に在。晝夜、當山の境を離れず。國王の宣命を蒙ると雖も、亦誓て當山を出ず、其の意如何、唯晝夜無間に精進經行積功累徳せんと欲す故なり。此の功徳を以て、先づ一切衆生を度し、見佛聞法、佛祖窟裏に落在して、末後永平老漢、佛樹下に坐して、魔波旬を破り、大事を打開し、最正覺を成せん。重て此の義を宣んと欲し、偈を以て説曰く、古佛の修行多く山に在、春秋冬夏亦山に居、永平、古蹤跡を慕と欲、十二時中常に在山。


 補 この開示並に偈、廣録等に見へず。


建長元年己酉(三月十八日改暦す)


 補 この中秋に、翫月せられしに、傍在の僧、その仰月の姿を直に寫して贊を請じて述贊せらる。畫贊の眞蹟、大幅にて、今越前大野の寶慶寺にあり。文言左の如し。

氣宇爽清山、秋に老。相覰て天井皓月浮ぶ。一も寄こと無く六も収めず。任騰騰粥足飯足。活□□(魚發・魚發)尾を正、頭を正。天上天下雲自水由。建長己酉月圓日。越州吉田郡吉田上山、永平寺開闢沙門希玄自贊と。廣録の第十にこの贊をのせたり。文字少異あり。六不収を一不収と録にあるは誤りなり。月圓の日とあれば、定て中秋なるべし。尊顔も仰月の模樣なり。

○ この冬、鎌倉将軍か、亦は六波羅へか、言上の一幅を上られし事あり。その艸書と見へて、眞蹟一幅、今越前角鹿の永嚴寺に秘在す。十六行ありて、字計一百九十二字なり。行書の中文字なり。文言左の如し。

 千釋出家之因縁の如は制の限に在ず。

一當寺の住侶、應に諸方の御持僧の参勤を停止すべき事。

一當寺の住侶、應に縦ひ道理ありとも陣に參じて訴訟を停止すべき事。

一當寺、應に成功の僧綱を補し諸寺の有職を補ふことを停止すべき事。

一當寺の僧侶、諸家の例時僧の請を受くべからざる事。

一當寺の住侶、自他の寺院の勧進職を補すべからざる事。

一當寺の住侶、地頭守護の政(まん)所に跪て、訴訟を致すを應に停止すべき事。

一當寺の住侶、験者の請を受くべからざる事。

一當寺の住侶、他所の僧徒の交り列て利を受くべからざる事。

一當寺の住侶、諸方の墓堂の供僧三昧僧を補すべからざる事。

以前の條條、佛法興隆の爲め、御偈知を下んと欲して之状、件の如し。

建長元年十月十八日永平寺上。

これは、まぎれもなき眞蹟なれども、名印は見へず。艸稿(したがき)なるべし。

 

  訂補建撕記図会-58
  訂補建撕記図会-58
  訂補建撕記図会-59
  訂補建撕記図会-59


建長二年(庚戌)開闢檀方、雲州太守より、一切經、書寫して、永平寺に安置すべき状到來して上堂あり。


 補 この上堂法語は、廣録の第五巻にあり。左に擧す。

雲州太守、大藏經を書寫して當山に安置せんと欲す之書到上堂。擧す。僧、投子に問ふ、一大藏經還て奇特の事有りや無しや。投子曰く、演出す大藏經。投子古佛既に恁麼道。山門多幸。因に一偈有り、雲水の爲に道はん、乃云く、演出大藏經、須く知る大丈夫、天人賢聖類、幸に護身の符を得たり。正當恁麼の時如何。良久して曰く、世間必ず阿羅漢有り、善悪豈に因果の途無んや。


雲州太守より、寫經了畢して、安置の状と共に至るにも上堂あり。


 補 この上堂法語も、同巻にあり。左に擧す。

大藏書寫、其功既に畢て、太守の書重て到る。上堂。毗盧藏海古今傳ふ、三び法輪を大千に轉し、千峯萬峯黄葉の色、衆生の得道一時に圓なり。


師、吉祥山に於て、山居頌十五首あり。最初の三首を左に擧す。

幾悦山居の尤寂寞たることを。斯に因、常に讀む法華經。専精樹下何そ憎愛あらん。月色看る可く雨は聴く可し。

西來祖道我、東に傳ふ。月に釣り雲に耕し古風を慕ふ。世俗の紅塵飛で到らず。深山雪夜草菴の中。

夜坐更に闌眠未だ熟さず。情知す辨道は山林なるべし。溪聲耳に入り月眼に到る。此の外更に須く何の用心をかせん。

また、後嵯峨院、師の道譽を聞き、紫衣を賜ふ。再三辭亦不許。之を受て用いず。偈を作し上謝するに云く。永平、谷浅と雖も、勅命重こと重重、卻て猿鶴に笑は被る、紫衣の一老翁。


 補 この記に、勅號の事なし。近世撰の傳に、佛法禪師の號を賜ふとあるは誤なり。深艸に在住の時より、佛法上人と稱す。佛法は祖師の房號なり。この四句偈は、諸傳遺却あり。今は永平祚球和尚の朝倉義景に擧示せられし説を以て寫すなり。

 

  訂補建撕記図会-60
  訂補建撕記図会-60


建長三年(辛亥)當山の奥に常に鐘聲聞る事、檀那自り尋ねらる状の御返事に曰く、御尋に付て申し候。此の七八の間、たびたび候也。今年正月五日子の時、花山院宰相入道と靈山院庵室に、佛法談義候處、鐘二百聲計聞候。随喜して聞候。そヾろにとふとく覺候。宰相も不思議の靈地なりと随喜し入り候き。入道ぐせられて候。中将兼頼朝臣、一室に候ひながら聞かず候。めのと子に右近蔵人入道径資法師、是も聞かず候。其の外女二三人、或は七八人之れ在り侍も、うけたまわらずと申し候なり。


 補 この一件、記の文言具らず。御眞蹟は平假名なり。左に寫す。

當山につきかねのこゑきこへ、候事、御たづねにつきて申候。この七八年のあいだにたびたび候也。今年正月五日子時、花山院宰相入道と希玄と靈山院の庵室に、佛法の談義しるところに、かねのこゑ、二百こゑばかりきこゑる。そのあほきさ、京の東山の清水寺のかね、もしは法勝寺のかねのこゑほどに候へば、ずいきしてきヽ候。そヾろにたふとくおぼへ候。宰相もふしぎのれいちなりと、ずゐきしいりて候き。入道ぐせられて候。中将(兼頼朝臣)一室に候ながら、きかず候。めのと子に、右近蔵人入道(径資法師)これもきかず候。そのほか女房二三人、さぶらひ七八人候も、みな承り候はず候。そのほか寬元五年(寶治元年)正月十五日、説戒時、五色のくも、方丈の正面にたち候て、半時ばかり候てけり。聽聞の道俗、あまたこれをみる。

寶治二年戊申四月より、十一月十二日にいたるまで、ときどき異香の殊勝なる、僧堂の内外にくんじ候。

以前の三箇條、みな勝地の靈瑞歟。かねのこゑは、東土の天台山に、ときどき候也。(この末紙斷ず)

 

  訂補建撕記図会-61
  訂補建撕記図会-61


建長四年壬子、今夏の比より微疾まします。最後の教誨は、正法眼藏の八大人覺巻なり。この教誨は、遺教經をもととして、御遺言と見へたり。一者少欲、この意は名利を求むこと莫れ。無欲なれば愁い無くして、諸の功徳、自ら生ずるなり。二者知足、この意は世間の苦悩をのがれふと思ふ。富貴の人も、其のうまれつきまで、貧人も生れつきまで、我より下の貧をあはれむべし。我より上を望むことなかれ。たヾ人人、我身の上を思へば足らずこと無きなり。三者樂寂静、これは人間をすて、山林に深く閑居すれば、諸天にも諸人にも、うやまひ、をもんぜらるヽなり。四者勤精進、これ出家たる人、勤行してよくおこたらざれば、求むこと皆満足するなり。五者不忘念、善知識にならふと思はヾ、一念もさしをくこと莫れ。其の時は煩悩も自ら來らざるなり。六者修禪定、これは心を静に収て、坐禪するなり。此の時自ら世間の無常の道理を得るなり。七者修智慧、もし智慧有る人は、よろずの物を貪ることなし。此の理をよく察して、失ふことなかれとなり。教の如くすれば、暗に燈を得る如くなり。八者不戲論、この意はなにの邊にも、たわれ論ずることなかれ、戲論は心亂る間、ただ死すべきことを思へとなり。此の八大人覺の理を知らざるは、佛弟子にはあらずとをヽせらるヽと云云。


二代懐弉和尚曰く、右の本、先師開山和尚、最後御病中の御草案なり。仰(おおせに)云く、以前撰する所の假名正法眼蔵等、皆書き改め、竝に新草具に都廬一百巻、之れを撰すべし云々。此の後御病、漸々重増、之れ仍て教勅するなり。我等不幸にして、一百巻の御草を拝見せず。最も恨む所なり。若し先師を恋慕し奉る者は、必ず此巻を書写して、護持すべき。此れ釈尊最後の教勅、且つ先師最後の遺教なり。如今建長七乙卯年十月十四日、義演書記をして書写せじめし畢す。同一に之を校す。懐弉之れを記す。正本の奥書に云く、建長四年暮より、乃ひ建長五年正月六日に至て永平寺に書す。古より此の巻を拝見の輩は感涙を催し、住持も此の巻を談ずる時は聲を擧て泣き給うと云ひ傳ふ。末代に於て此の遺言を守らば、宗風永扇、門派流通して、退轉すへからず。この巻多きあいだ、八之名目ばかりを載るものなり。


 補 これは八大人覺をよくよむべし。遺教經にも出たり。又八大人覺經と題して、別に藏中に一巻あり。


建長五年癸丑七月十四日、開山御在世、二代懐弉和尚、永平寺に入院なり。


 補 この補席の時、祖師自縫の袈裟を二代和尚に傳付せらる。相承して大智和尚に至る。その古記の眞蹟等、今大智の開山處、肥後の廣福寺に遺在す。文言不差一字、左に擧す。傳附相傳の衣一領(納袈裟堂)

右件の法衣は、永平開山初祖の袈裟なり。其の地は細布なり。初祖の在俗の弟子の中に、山城國生蓮房と云う人有り。彼妻室、初祖に於て信心無貳なり。自ら精進潔齋して、調へ織り。遙に越州永平寺に持參して、供養し奉る所なり。初祖、信心無貳の志を感して、自ら裁縫して尋常著用す。終に寶治二年の夏、袈裟嚢を縫て之を納む。建長五年癸丑七月、永平の住持職を以て、二代和尚に付せらる時き、此の袈裟を以て、同、二代和尚に付嘱す。然間た、住持十八年間の間、上堂布薩等に此の法衣を著用す。凡そ滅後二十八年、暫時も衣を離れて宿すること無し。護持頂戴す。最後病中、弘安三年戊寅の八月十五日、義介を召して示して云く、公は懐弉か長嫡なり。此の法衣は、先師住持職を與ふるに、付嘱袈裟なり。身に於て最も尊重の重寶なり。然は法嗣、人多しと雖も、公は長嫡に依て、即ち付授せんと欲す。于時、義介三拜して傳領す。其の後十六年、之を頂戴して、護持來る。永仁三年乙未正月十四日、法を紹瑾に附す。時に此の法衣を以て同く傳授す。即示して云く、此の法衣は、已に三代頂戴す。最も尊重し奉るべき法衣なり。你入院開堂、傳法の外、著用すべからず。一生恭敬頂戴すべし。今延慶二年己酉九月日、病狀に在て之を記す。

 大乘第二代、當住紹瑾傳領

紹瑾示す、今に此の傳衣並に當寺住持職及ひ、聖教道具當寺に寄進狀譲狀等を以て、素哲侍者に付囑す。于時、應長元年辛亥十月十日、大乘第二代、紹瑾記。

諸佛法要、本と凡夫の爲に説く。祖師の來意、法を傳て迷情を救ふ。法幢を建て、叢席を設け、祗、入を得る有り。今已に是れを得たり。所謂我大智首座、壮年より以来、文字の學を絶す。解脱の道を慕う。寒巖和尚、受具の小師、後釋運西堂傳法の弟子、和漢兩朝に師を尋ね道を訪ね、操履を古人に學び、志気を千聖に類す。深く宗門の棟梁に上んと願ひ、進て洞水の嫡流を汲と欲す。故正中乙丑十二月十三日、再ひ西堂に參して、重て密意を啓。即聴許せられ、祈願茲に満足す。加之、昔年、先師の密室に詣して、佛祖の正脈を傳受す。今日、老僧も堂奥に入り、自家の大事を決澤す。實に是れ椙樹第一の枝、永光正傳燈なり。燈燈連續、枝枝繁榮して、周く扶桑を覆ひ、遠く萬古に傳ふ。證契の旨を印して、半夜法燈に挑む、正嫡の仁を顯し、傳衣同く付授す。願は護持堅密にして、望は断絶することを莫れ。聊か偈句を以て傳衣の事を表す。至禱偈曰く、飲光大士保任の事、頂戴奉持す。鶏足中、祖室の傳燈、断絶無く、龍華會上に心宗を續かん。時元亨三年癸酉正月十七日、大智首座に傳授す。永光第二代住持素哲(素哲華押之面亦重朱印を押す也)

 

  訂補建撕記図会-62
  訂補建撕記図会-62
  訂補建撕記図会-63
  訂補建撕記図会-63


同年八月初五日、師御上洛なり。御病気に就て、檀那雲州太守より、御上洛ましませと、頻に望み申るヽ間、二代和尚も御伴あり。醫師にもあはせたまふべき爲なり。


 補 御遺言記録云く、同八月六日、義介、脇本の御旅宿の於て、暇を賜ひ因に拝問して云く、今度御供尤も本望と雖も、仰せに随ひ歸寺す。若し御延引有ん時は、拝見の爲、參洛せんと欲す。御許を蒙るべきや。和尚示して曰く、應諾尤も然可ん。左右に及ばず。但し我れ寺院を思ふ故に、留置云云。義介畏て之を承る。是れ則ち最後の拝顔、最後の厳命なり。尋常肝に銘zし忘れず也。


御上洛の時の頌歌あり。曰く、

十年飯を喫す永平場、七箇月来て病狀に臥す。薬を人閒に討て暫く出嶠して、如來手を授け醫王に見しむ。

草の葉にかどでせる身の木部山、雲に路あるこヽちこそすれ。

丹波路より御上りありと云云。


 補 昔しは、越前より京へ行に、若狭を過て丹波にかヽりて、京へ出しと云ひ傳ふ。

 

御入洛ありては、高辻西洞院、俗弟子覺念が宅に先づ宿し玉ふ。御違例、増減無し。


 補 紀年録に、太上皇、醫官に詔、診候焉とあり。此の記に見へず。

 

  訂補建撕記図会-64
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  訂補建撕記図会-65
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  訂補建撕記図会-66
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  訂補建撕記図会-67
  訂補建撕記図会-67
  訂補建撕記図会-68
  訂補建撕記図会-68

 

或る日一旦、室内を經行し、低聲に誦して言く、若於園中、若於林中、若於樹下、若於僧坊、若於白衣舎、若在殿堂、若山谷曠野、是中皆應起塔供養。所以者何、當知是處、即是道場。諸佛於此、得阿耨多羅三藐三菩提、諸佛於此、轉於法輪、諸佛於此、而般涅槃と誦し了て後ち、此文を頓て面前の柱に書付けたまふ。亦妙法蓮華經菴と、書きとヾめたまふなり。この蓮華經の文をあそばしたる心は、今俗家にて入滅あるほどに、昔の諸佛も如是との玉ふなり。

 

建長五癸丑の年八月二十八日甲戌子の時、自ら偈を書し涅槃したまふ。偈に曰く、

五十四年、照第一天。打箇□(足孛)跳、触破大千。咦。渾身無覔、活陥黄泉。筆を擲(ながうち)て入寂まします。雲州義重、天を仰ぎ地に伏して、五十四年の早逝ををしみたまふこと比類なし。覺念其の外僧俗遺弟等、悲歎の聲絶えず。懐弉和尚肝を潰し、半時計り死入り玉ふ。御入滅後、洛陽天神の中の小路の艸庵に先ず入れ奉り、事を調べ、其の後、雲州の太守、然るべき所を尋ね、東山赤辻に小寺のあるに、龕を移し奉り、法に依て火葬す。(赤辻は赤築地なり)

 

 補 この時の秉炬とて、肥後流長院の開山、傳志麟的和尚の行巻に記し置れしを左に擧ぐ。誰の作と云ことは未だ考えず。

玄路通來て全く不藏、夢は醒む五十四星霜、木人涙を濺く落花の雨、一夜満城流水香しと。紀年録に遂に龕を興聖移こと三日とあるは、この記と相違せり。この比に興聖寺は、あることいぶかし。

 

九月六日に設利羅を収めて、京を出、同十日の酉の刻、越州國志比荘吉祥山に到りたまふ。同十二日申の刻、方丈に於て入涅槃の儀式あり。如法に茶果珍羞燈燭を備て、供養を致し、法事勤行、孝禮悉く如在なり。本山西北隅に搭す。今の承陽菴是れなり。覺念其の後、妙法蓮華経菴とあそばしたる柱を、揀抜取て越州へ下り、越國の今の南東郡月尾山の下に、初めて塔婆を建立し、此の柱を以て則ち中心の柱として、日々供養すと云。今の別院是れなり。覺念、今の北村眞柄の先祖なり。

 

(注)『設利羅』梵:śarīra。火葬した後の遺骨。 舎利。

 

師入滅中秋夜御詠歌。

題法華經詠歌五首。

寬元二年九月二十五日、初雪御詠。

寶治元年在鎌倉、最明寺の請に依る詠歌。

 

草菴偶詠、三十四首

 補 この歌、皆傘松道詠にあり。こヽに略す。この歌の末に云く、右謹て永平初祖大和尚之御詠歌若干首を書寫して、機公首座禪師に付授し奉、伏して乞ふ洞宗大に興て、門派流通焉。至祝至祝。至祷至祷。應永二十七年六月六日、寶慶寺八世、洞雲比丘喜舜判とあり。建撕記この末に雑記あり。祖師の在世にかヽらぬことゆへに、こヽに略す。

 



 
附録

 

 祖席舊參

祖席に參ぜし衆の名の、記録に見へたるばかりをこヽに擧す。傳あるは除く。

僧海 首座。 慧顗 上座。 懐鑑 首座。 慧義比丘尼。 義準 書状。

慧運 直歳。 懐照 上座。 行玄 禪人。 慧信比丘尼。 巢雲 禪人。

慧達 禪人。 義演 首座。 玄明 首座。 了然比丘尼。 義存 上座。

義運 上座。 覺佛 上座。 道荐 上座。 圓智 上人。 經豪 和尚。

普燈 都正。 佛僧 上人。 玉泉 法明。 永貞 寂光。 覺 妙 房。

實 智 房。 示 眞 房。

 

 教家古參

教家の積徳の祖師に參ぜし人、定て多かるべけれども、古記に失録せり。こヽに一二を擧す。

京の九品寺の長西は覺明と號す。讃州の人、法然房の末年の弟子なり。參深艸道元禪師と、本朝高僧傳の十四巻に見ゆ。

鎌倉光明寺の開山然阿上人良忠は、法然房の弟子なり。參永平道元、問教外宗と。右の高僧傳の十五巻に見ゆ。

 

 血脈度靈

(肥前州。探牛首座。寛文癸丑に板行する所の行録の末に此の一件を載す。誰の作と云ふことを知らず。今采て附す。)

波多野雲州の刺史、藤の義重、越前を知り、一女有り。資貌都雅、召して左右に侍しむ。夫人之を悪むこと甚し。然とも如之何ともする能はず。義重上命を奉て、京師に往く女を擕ふる能はず。別に室を造りて居しむ。是に於て、夫人、人をして密に女を取て山中の深池に沈ましむ。女恨を懐て死。既に厲(れい)と爲て出つ。往往に叫喚の聲を作す。凛として懼れつべし。時に僧有り菴地を尋て、路を村民に問ふ。村民云く、近日妖怪出て、往來既に絶たり。請ふ住こと莫れ。僧曰く、待て我れ驗と云ふて乃ち往く。深池の傍ら老樹下に到て、定坐三更に到て、俄爾として風起り、波濤震鼓す。暫くあつて一女、髪を被り水面に浮ふ。急に僧の前に到り跪坐して涕泣す。僧云く、汝は是れ何人そ。女云く、妾は是れ義重に侍する婢女なり。夫人の爲めに此の池に沈められたり。鬱憂解けず。吊祭到らず。是れ故に、冥府の拷譴を蒙り、時として安を得ること無し。願は之を義重に告て、妾か爲めに冥福を修せしめよ。僧云く、何を以てか證(しるし)と爲ん。女、袖を解て僧に與て隠る。僧即京師に往て、事を告て、袖を出して證と爲す。義重大驚、茫然として安からず。明日に至るに及て、僧と同く深艸に到り、救濟を元禪師に乞ふ。師、一物を把て、僧に度與して曰く、此は是れ佛祖正傳菩薩戒血脈なり。之を獲る者は、菩提を成ぜずこと無し。我今、是を以ての爲にす。僧、疾(すみやかに)歸て、池中に投す。忽ち空中に聲有るを聞くに、曰く、我今無上の妙法を得て、頓に幽冥の苦を脱し、疾かに菩提の果を成すと。遠近聞く者、希有と稱ざるは無し。義重大に喜て、新たに梵宇を構へ、堅く師を請して、開山第一祖と爲す。今の永平寺此れなり。池は永平の境内に在り。今血脈池と號す。大凡菩提を成せんと欲する者は、盡く師の血脈を受けずこと無く、血脈を世俗に授與すること、斯(ここ)に權與す也。

 
 天童山諸堂額

(外山門)萬松關、(中門)天童山、(山門)勅賜景徳之寺、(佛殿)三世如來、(法堂)法堂、(前方丈)寂光堂、(後方丈)大光明藏、(寢堂)妙高臺、(僧堂)雲堂、(前衆寮)明厳、(後衆寮)照心、(厨庫)庫院、(浴室内)香水海、(浴室外)宣明、千佛閣、了然齋。

これは永平寺の諸堂の額を祖師の題せらるに、天童に例せらる事多し。ゆへに考策の爲にこヽに記す。


 永平業識圖(已下四條辨偽)

世に永平業識圖と題號せる、平假名の書二冊あり。これは暦應改元開罏前一日、丹山隠子毒海叟宗性と云ふ僧の所述なり。參州龍溪院室内に、明暦年中の寫本あり。末に作者の名及び年號を載たり。古來右の本、祖師の正法眼藏と一篋に納たり。龍溪の本も爾り。今印版の本に、作者の名字等、疎脱せるゆへに誰の作としれず。正法眼藏と一篋にありしゆへに、祖師の作かと思ひ、悞て、無知の者、題號の上に、永平の二字を加へしなるべし。一部の始末を讀校するに、邪悟の禪僧の少少台家の判釋を知りたる分の述作なり。祖師の法語と天地懸隔、比擬の論に及ぶ品にはあらず。一唾して放擲すべし。


 梅花嗣書

梅花嗣書巻と題する寫本一巻あり。妄説なり。祖意にあらず。祖言にあらず。これは、二百年前の代語僧が、古記を摘て、偽作して名を祖師に託せるなり。焚く可し。


 假名法語

印版の永平開山假名法語と題する一冊の初めの十八條の中の第十六條、一條のみ祖師の語にて、別處にも出たり。餘はみな祖語にあらず。他師の作に祖語を加へしなるべし。


 伊呂波歌

印版流布する伊呂波歌、もと寛文九年に、濟洞兩家道歌と題して一冊印版して、濟家は大燈國師の名を出し、洞家は永平祖の名とせり。余紫野の有徳に質せしに、大燈の歌にあらず。偽作なり。もとより永祖の歌も偽作なり。それを知らずして鈔作て印版するは、洞家の暗昏と云べし。

この外に、永平祖の作と稱して、怪き書多し。法華經の仮字(かな)鈔八冊あり。陰陽和合を大乘とす。五位鈔一冊あり。胎内五位を引て證とす。天童參問代語三冊あり。その鈔三冊あり。その綱要三冊あり。縁思宗と題する代語一冊あり。天童參問の三十四話一冊あり。或は願文と號する一篇あり。或は轉讀般若斷紙あり。また室内の斷紙三十幅に及ぶ。共に永平祖より相承とあれども、多代作にて、正法眼藏、廣録等の家訓を一向に知らぬものヽ説と見へたり。


訂補建撕記圖繪 終

 

尚、下の承陽菴祖塔の図、及び永平寺境内図は文化三年(1806)頃の図。

 

  訂補建撕記図会-69
  訂補建撕記図会-69
  訂補建撕記図会-70
  訂補建撕記図会-70
  訂補建撕記図会-71
  訂補建撕記図会-71