雑拾遺

斎藤茂吉・中村憲吉と永平寺

 

斎藤茂吉・中村憲吉と永平寺(昭和29年)

 

「永平寺吟」 斎藤茂吉
『大き聖(ひじり)いましし山ゆながれくる水ゆたかにて心たぬしも』
『もろともにここに明暮るる大衆の淋汗の日にわれもこもれり』
『あしびきの山のはざまに白雲のうごくがごとく人は住みけり』

 

「大仏寺途上」
『ひんがしにむかひいくたびか踏みわたる谷川の香は親しくもあるか』
『ひるながら人のおとせぬ山なかに入りて来にけり百鳥ぞ啼く』
『うつせみの苦しみ嘆くこころさへはやあはあはし山のみ寺に』

 

「門外・帰途」
『ほのぐらき承陽殿のあかつきに石のたたみに額(ぬか)を伏したり』
『昼すぎし竜門外にわれは来て氷水をばむさぼりて飲む』
『門外の極楽橋のほとりにて少女(をとめ)の尼と今か別れむ』

  以上、「傘松」昭和29年5月 第237号 8頁より

 

「永平寺玲瓏巖」 斎藤茂吉
『いにしへの聖(ひじり)はこひし山中(やまなか)のここに明暮れしことぞこひしき』
『大き聖この山なかの岩にゐて腹へりしときに下(お)りゆきけむか』
『谷に生(を)ふる高杉(たかすぎ)の秀(ほ)のゆらぎをぞかく目(ま)ぢかくに見るは楽(たぬ)しき』
『谷川の音たえまなきあかつきにいにしへびとぞここに居りける』

  以上、「傘松」昭和29年9月29日 通巻第239号 9頁より

 

「永平寺の夏」 中村憲吉
「杉林奥の寺」
『山なかの大禅寺のおく谷は植田のあるが物しづかなる』
『志比谷寺にいただく飯(いい)や御開祖の食事偈よみて心つつしむ』
『ころも着てあはれなるかな山門へ野良の作務より僧かへりけり』
『志比谷の大禅院にきて薪水のいとなみもする修行僧あはれ』
『人里はちかくにあれど谷の戸を杉のとざして寂かなる寺』

 

「門前浴川」
『この夕は風呂をはぶきて門前のながれにひたる杉のしたびに』
『谷川のながれの石に枕して胸越すみづを嬉しみにけり』

 

「雨後の山内」
『むしむしと谷のゆふべの明るきはなほ雨雲の去り切らざらむ』
『暑き日のゆふぐれ方のいとまどき浴室にのぼる僧のつらなり』
『ひぐらしの谷のみ寺に今日もこもり静かに過ぎし事のうれしき』

  以上、「傘松」昭和29年5月 第237号 8頁より

 

皆川無庵居士と仏殿の聯

「皆川無庵居士と仏殿の聯」

 

皆川無庵居士と云う不思議な人がいた。
その人は森田悟由禅師を始め、福山黙童禅師、日置黙仙禅師、北野元峰禅師の四禅師に随侍した居士である。

この四禅師関係の本を読んでいると、皆川無庵居士の名は時々出てくる。
居士と云うからには在家の得度した人であるが、四禅師に仕えたにも拘わらず、その人物はどういう人なのか、よく分かっていない。
昭和13年「傘松」七月號に髙橋竹迷が「佛殿新聯餘録」を寄稿し、その中に皆川無庵居士のことが書かれているので多少はその人となりを知ることができる。

 

「佛殿新聯餘録」 竹迷生(髙橋竹迷)
 佛殿の聯が森田禅師の時に出来なかったことを慨いたことから、図らずも尊い御因縁を聴いた。
それは森田禅師の偉大な徳風に帰依して豁然として大悟し、精神的に出家され、その御一代に常随給侍せられたのみならず福山、日置、北野の各禅師にも随侍して地方親化の調法人として篤信なる結縁をされ、更に現貫首猊下(北野元峰禅師)にも随供しておられる皆川無庵居士である。
佛殿の大建築が出来ると共に、人一倍之を喜んだ無庵居士は、是非とも悟由禅師の御揮毫を得て、聯を掲げたいと、自ら発願してその聯を寄附すると願い出された。
それは無庵居士が地方随侍中、篤信の方々から往々御布施を貰らわれた。
敬虔真率なる居士は、それを大切に保管されて、何か有意義に使いたいと考えておられたので、これ屈強と、聯の寄進を発願せられ、門前の棟梁九左衛門に依頼されて先ず材料の調製を頼まれた。
同時に森田禅師にも御揮毫の内諾を得られた。
以てその布施の篤信者方の御回向にもと、その卒業を待って居られた矢先、何の不幸ぞや、九左衛門が丹誠して漸く出来た聯の板、九尺の長さに一尺一寸の巾、如何にも見事に出来上がったが、御多忙の森田禅師の御揮毫はなかなか出来ぬ。
折柄、総門側にあった作事小屋が火を失して焼けてしまった際、その聯も一朝にして灰燼に帰してしまった。
 聯の板は焼けたが、無庵居士の願心はますます熾烈で、復た九左衛門に第二の調製を頼んでをられた時、何たる不幸ぞや、父の如く仰いでいた森田禅師、遽然として脱落脱落、一箭離弦の遺偈を留めて御遷化になった。
無庵居士の慟哭悲痛は人一倍であった。
 森田禅師は御遷化になったが禅師御追恩のためにも、これを成就せねばならぬと堅き決心を無庵居士は持たれた。
即ち福山禅師に御揮毫を願われたが、これこそ直ちに御遷化になって成就することが出来なかった。
次いで日置禅師に依頼されたが、禅師は御多忙で御無理を云い兼ねておるうちに復た御遷化、無庵居士もつくづくその薄縁を慨かれた。
 北野禅師の御晋住になると共に、既に三代空しく過ぎて、四代相続のこの発願を是非成就せしめ給えと願われた。
禅師(北野元峰禅師)は御老体にも拘わらず矍躒として近頃の御永住であり、殊に書がお好きであったので、元気よく幸いに御揮毫を得た。
棟梁九左衛門氏は今度こそはと丹誠を籠めて刻った。
発願より正に三十餘年、悟由禅師より四代相続して漸く出来た。
これを掲げた時の喜び、無庵居士は感極まって泣いた。
実に尊い此の因縁、喜んでここに附記する次第である。

 


■皆川無庵居士

不老閣侍掌として全国的に馴染まれていた皆川無庵氏は寄る年波に近来頓に衰弱を加えつつあり、引き続き元永平寺出張所東京麻布長谷寺に在って静養中のところ、去月初め頃より病勢俄かに加はりしため最寄りの病院に入院、急を聞いて馳せ参じたる親族の手篤い看護を受けつつあったが、去月十四日薬石功なく遂に長逝された。遺骸は直ちに長谷寺に移され、同夜は秦管長猊下代理として秦慧錦師の焼香諷経あり、翌十五日不老閣猊下の授三歸の後、長谷寺現董水上興基師秉炬のもとに慇懃なる葬儀が営まれた。無庵氏は新潟県新発田の産、明治三十二年本山六十四世森田悟由禅師に奉侍してより以来、歴代禅師に随侍して全国を巡錫、地方御親化の至宝の如く看做されていた。(「傘松」昭和十七年拾壹月號28頁より)

 

大佛寺の血脈池

「大佛寺の血脈池」

 

大佛寺の舊蹟と傳へたる所より、尚ほ登ること四五丁にして血脈池と稱するものあり。
今その因縁をたずぬるに、開基(波多野)義重公の未だ大師(道元禪師)に參見せられざる時、越前吉田郡に志比村に居られし日、一人の美人を妾として置かれたり、今も昔も珍らしからぬこと。

公の夫人は嫉妬の念に堪へず、如何にしてか鬱憤を晴さんかと苦悶しつゝありしに、公は上命に依て上京せらるゝ事となりたるも、愛妾を率ゐ行く譯にもならざる故、別荘を設けて居らしむ。

夫人は時節到来なりと心の内に悦び、密かに人をして背後の山上に誘い出さしめ、山頂の深き池中に沈めて謀殺せしめたり。

夫人は平素の鬱憤を晴らしたりとて喜び居たりしが、さて女人の一念は恐れつべきものなり。

其の故は謀殺せられたる無念の晴れやらで、彼女は夫れより幽靈となりて其處に迷い出づるにぞ、自然、村民の見聞に觸れ、誰あつて其の近辺に寄り附く者もなかりしが、或る時、一僧の山頂に閑静なる菴室のあるを聞知し、路を村民に尋ねしに、村民の曰く、近頃妖怪の其の近辺に出づるなりとて誰一人往く者なし、故に貴僧も往くことを休めたまえと。

僧の曰く、其は却て我の望む所なりとて、山を登り池の傍に在る老樹の下に坐禅しけるに、夜半の頃に至り、俄に風波起りて、池中の水面に一女子の現はれ、徐々として僧の前に跪きサメザメと泣き入にける。

僧は口を開き、汝はそも何物ぞと。

女の曰く、妾(わたくし)は此の國の領主義重に侍りつる婢女なりけるが、その夫人嫉妬の爲にこの池中へ沈められし恨みの解けぬのみか、ただに一片の追福をも營み呉(くれ)る者なき故、時々刻々冥府の譴責(せんせき)を蒙りつゝあるもの、何卒貴僧には御慈悲を以て、此の事を京都に在勤せらるゝ義重へ告げられ、妾が冥福を營ませらるゝ様、御取成したまへと。

僧の曰く、其は最(い)と易き事なれど、何ぞ其の證據(しょうこ)と成る物なければ信を得難し如何と。

時に彼女は自己の着物の袖を解て其の僧に與へ、之を證としたまへかしと言ひ訖(おわつ)て見えず。
時に其の僧は急ぎ京都に走り、義重公に面會して事の仔細を通じたるに、公は大に驚き、且く頭を傾け居られしが、やがて頭を挙げ申されける様、是れは先づ當時深草に在して有名なる道元禪師にお縋(すが)り申すより外なかるべしとて、其の僧を伴ひ疾く走りて大師に頼まれしかば、大師傍(かたわ)らより一物を把り、僧に與へて曰く、此は是れ佛祖正傳菩薩大戒の血脈なり、之を得る者は菩提を成ぜずと云ふことなし、我は是を以て幽靈の爲にすと。
仍て僧はまた急ぎ越前に走り、その戒脈を池中へ投げ込み、亦樹下に安坐しけるに、忽ち空中に聲あり、我今無上の妙法を得て、頓に幽冥の苦を脱れ、生天の樂を得たりと。
僧また都に出で此の事を義重公に告げたれば、公大に之を奇特とし、深く御開山(道元禪師)に歸依し、時々に參見聞法して弟子の禮を取られたり。
されば御開山を越前に請待し、永平寺の開基となりて、生涯随侍せられしも、亦この因縁に原由せしものならんか。(後略)
 高田道見・著「永平寺案内記」39~42頁より

 

この「血脈池」の話の原典は「訂補建撕記」の巻末附録「血脈度霊」であり、高田道見が漢文を和文に直し、さらに自身の見解を加え書き直したもの。

 

道元和尚と蛇女

「道元和尚と蛇女」

 

この道元和尚(禅師)の逸話は事の真偽は定かでないが、「傘松」で笛岡自照師が三宅正太郎著の「嘘の行方」に記載されていると紹介された。

 

 

妖蛇(えうじや)女子を慕う事

 

筑前の博多に、富み栄えたる商家の女子愁色あり。
十四五歳の頃より三尺許りの蛇来たりて、其の傍らを離れず。
之を殺して捨つれば、其の者の帰らざる先に蛇又来る。
坐する時は前に輪を作り、女の方を見て舌を出し身を動かす事なし。
行く時は一尺許りあとより這うて、遅速は女の歩むに随へり。
父母深く之な憂ふれどもせん方なし。
女は之を苦しみてあをみ痩せぬ。
十七八になれども嫁す可きやうなし。
時に道元和尚入唐の志にて、博多に到りて風待(カゼマチ)するに間に、かの商家崇き僧なりと聞きて、其の旅亭に往き爾々(シカジカ)の事の候、あはれ御覧ぜられて法力を以てやめらるゝ道も候はゞ、御慈悲を仰ぎ候といへば、道元法力を以てやむ覚えなし、されど希有の事なる間、見置(ミオカ)ばやと思ふはいかにと問はれけるに、元より望む所なりと云ひ、頓(ヤガ)て其の母かの女とともに来る。
聞きしに違はず、道元つらつら見て長坐(ナガザ)は入らざる事也、この僧が前の閾(シキミ)を越えて帰られよ、子細ありといはれければ、其の母承(ウケタマハ)りぬとて先に立てば、其の次に歩み蛇女に随ひて行く。
蛇閾(シキミ)をこす時道元扇の要(カナメ)を以て、蛇の尾を痛む程強く押へらるれば、首にて尾を押へたる要を喰はんと戻る處を、黒衣の下より髪剃(カミソリ)を以て蛇の首を斬つて之を殺す。
母も女も驚きければ、道元徐(シズ)かに蛇二度(フタタビ)来らじ、此の後は心安かれと云はれければ、案の如く蛇終に復(マタ)来らず。
蛇の念を別物にうつして、女につく心を転ぜしが故也。

 

「武将感状記(砕玉話)・巻之八」より

 

 嘘の行方・三宅正太郎著
 嘘の行方・三宅正太郎著

 

三宅正太郎は「嘘の行方」(昭和十三年十月二十一日・中央公論社発行)の中、37頁から46頁で「非科学論議」の冒頭に、この「妖蛇女子を慕う事・武将感状記」を記載し“念の存在の有無”を論じている。

 

森田悟由禅師の巡行

 

森田悟由禅師の人となりは「禅師、人と為り温厚端正、己を持すること厳粛、人を待つこと寛厚、常に宗風の繁興と民衆の化導とを念とし、一挨一拶、人皆其の徳に化せざるはは無し、是れ以て故伊藤公爵を始め一代の名流多く其の徳に帰す。」と云われている。その森田悟由禅師の巡行行列の話。

 

森田悟由禅師の巡行

 

「森田悟由禅師を偲びて」祖山副貫首 福井天章
(前記述略)
森田悟由禅師の地方巡化の場合は随行が十人近くいて、実に物々しい出で立ちであった。
衲(福井天章師)は学生時代、偶々日曜に禅師の御出発を新橋駅に御見送りしたことがあるが、日比野雷風という俗弟子で、名の示すように大兵肥満の相撲人のような仁が、金襴の絡子を横掛絡にして先導し、天鬼と称する侠客の親分といった仁が木刀を杖にして跛足(片足が不自由なこと・差別用語)でお伴をする。
随行長、説教師、侍局三四人、おなじみの皆川無庵居士、直檀嶽尾泰苗、室侍嶽岡大道の方々を相具して御出向なされ、駅頭には多数の善男善女がお見送りするという大がかりの御旅行であった。
衲の記憶中に丹羽仏庵師の侍者ぶりが実に丁重を極めたものであることと、侍局の古橋孝道があった。(後記述略)

 

「傘松」昭和39年3月号(森田悟由禅師五十回忌特集)7頁より

 

越路句行脚 与謝野晶子・寛


越路句行脚 与謝野晶子・寛


与謝野晶子

「戒保つわざならはんと越路なる法の御山の白雪を分く」

「拭はれし琥珀の板の段と廊つきぬみてらの雪の夕ぐれ」

「雪沓をうかち行けなと呼びかくる吉田の奥の渓あひの驛」

「何の木ぞいみしき白衣観音のみ姿をつくる中門の雪」

「永平寺法の都の石橋をくゝれ水のうつくしきかれ」

「わが車吉田郡に入りぬれば右も左も雪けぶりする」

「山法師追ひ給はねど日に入りて一ときのちの永平寺出づ」

「法の鐘御山の口の小家にて爐をかこむ身もすくはんと鳴る」

「旅人があはらの湯場に昨日見し夢かと思ふ永平禪寺」

「階長し須彌山に入る道としぬ雪の越路の永平禪寺」

「雪白き田の藁塚のをかしけれ永平寺なる大衆のごと」

「添ひ行くは法のみやまの清き川分くるは越の三尺の雪」


与謝野 寛


「越に来て雪と吹ふきのきびしきにみつからためす永平の山」

「永平の山に三尺の雪わけてあとさきとなり呼びかはす人」

「永平の渓ちかつきてにはかにも吹雪がはりぬ銀白毛の獅子」


昭和6年「傘松・二月號」より与謝野氏夫妻、永平寺参拝


古池眞傳(芭蕉古池因縁著語-環渓密雲禅師

 

環渓かって俳句を学ぶ者の為に、芭蕉古池因縁に著語し、古池眞傳という。
曰く、常州鹿島根本寺佛頂長老、博覧大悟知識なり。
桃青翁旧交の師たり。 (注ー桃青は松尾芭蕉の前俳号)

近来江戸深川長慶寺へ移転せられたるに、桃青を訪わんとて、六祖五兵衛を供して、芭蕉庵にいたり、六祖五兵衛(是箇俗漢。醜最不堪見)先づ庵に入りて、如何なるか是れ閑庭草木中の佛法。
桃青答えて曰く、葉葉大底者大、小底者小(似則似。可惜乎)
夫より長老内に入り(這自點胸。毒気最甚)近日何の有る所ぞ。
桃青答えて曰く、雨過ぎて青苔を洗う。(什甚道何不與三十棒)
又問う、如何なるか是れ青苔未生前の佛法(好箇一拶何早恁麼不道)とある時、池辺の蛙一躍して、水底に入る音に応じて(錯錯)蛙飛込む水の音と答う(聞千金見一文。漸是八成底)
佛頂長老、珍重珍重と唱えて(和池水何不一蹈蹈倒)持ちたもう所の如意を桃青に授与す。(這箇破木杓為那麼用)
長老、席上に紙毫をとりて(憐兒不覺醜。果然百千後禍及兒孫)本分無相(塞壑盁溝。)我是什麼物(六祖来也緇素難辨)若未會。為汝等諸人下一句子(會後作什麼。箇瞎禿子為類矮子見戯)看看。一心法界。法界一心(這老年老心孤。説一説二。老々大々。作這般語。宛是経者発意見席打令呵呵大笑)と書して諸風子にしめしたまえば(這小賣弄)そのとき、初めて法界と一心の水音に耳ひらけて(貴耳勿賤目好)実に桃青翁の省悟を各随喜しけるとなり。
このとき杉風謹んで桃青翁を賀して(子者順父不順不孝)我が師、風雅に参禅の功を積みて(果然果然)今に水音大悟の一句に(元来水音大悟這什麼)佛頂長老証明附法の如意を授け給へば(先不道乎破木杓)今は天下に宗匠たるべしとて賀儀をのぶ(目送不少)
嵐雪が云う(一盲引衆盲)水音に俳骨ことごとく連続すといえども、いまだ冠の五文字をきかず、師、是をさだめ給へ(好消息)
翁の云う、我もこの事を思へり(逐塊者不獅子兒)
しばらく諸子の高論を聞いて、爾後に定めんと欲す(這老賊)
二三子、試みにこの冠五字をいへ、聞かん(鵓鳩鳴樹上)
各首をかたぶけて錬思す(勿妄想)
やや有りて(三十年後)杉風、宵闇の五文字を出す(棺木裡瞠眼子)
嵐蘭は淋しさにと伺う(鬼窟裡活計)
其角、ひとり(大尊貴生)山吹や(一莖草不無丈六金身夢不得)と色即是空空即是色の曲をつくしてその姿を調へんとす(擔板漢)
翁、つくづくと見て云う、吾子等が冠五各一理を含んで平常の句にまされりと云うべし(暫放過一著)
就中、其角が山吹のはなやかさ、ちから有りて好し(實恁麼耶恐不是)
さりながら、かかる五七の冠たてんは(履冠無顛倒乎)、観相見様の理をはなれて(有些些響)、只この庭のこのままに、我は古池や(勿作古池深深看)とおき侍らんとあるに(平地起骨堆)各あっと感じ入る(嚮謂一盲引衆盲)古池や蛙飛込む水の音(等閑一句動天地)。妙なるかな(贊歎有餘)
爰に俳諧の眼ひらけて(見来瞎漢)天地をうごかし鬼神を感じしめぬべし(蛙聲咄々有何奇異)
是こそ敷島の道ともいうべく(本朝別風趣)、佛をつくる功徳にもたくらふべけれ(始値知音峨洋曲高)
人丸の陀羅尼、西行の讚佛来も、わづかに十七字の中にこめて、向上の一路に遊び(豈啻十七字。瞿曇四十九年 一字不説。潑轉其地来與汝相見)真如法性の光をはなされて(出透光明裡好作家)遠く天下の俗俳をやぶる(可謂萬夫不當)
今時の俳人を正風の真路にみちびかんこと此の翁なり(婆心一片徹三世)
あゝ天地風雅也、萬象風雅也(傍若無人。雖然如是。有一人不肯。却知哉)
是、風雅、佛祖の肝膽也(誰家無清風明月。阿呵呵)

 

(環渓禅師の著語) 

 

「近世禪林言行録」「近古禪林叢談」より