傳光録・上下
傳光録・上下

伝光録 第五十一祖 永平元和尚

伝光録 第五十一祖 永平元和尚
伝光録 第五十一祖 永平元和尚

 

第五十一祖 永平元和尚

 

天童淨和尚に參す。
淨一日、後夜の坐禪を衆に示して曰く、參禪は身心脱落なりと。
師、聞て忽然として大悟す。
直に方丈に上て燒香す。
淨、問て曰く、燒香の事作麼生。
師曰く、身心脱落し來る。
淨曰く、身心脱落、脱落身心。
師曰く、這箇は是れ暫時の伎倆なり、和尚亂りに某甲を印すること莫れ。
淨曰く、我れ亂りに汝を印せず。
師曰く、如何が是れ亂りに印せざる底。
淨曰く、脱落身心。
師、禮拝す。
淨曰く、脱落身心と。
時に福州の廣平侍者曰く、外國の人、恁麼の地を得る。實に細事に非ず。
淨曰く、此の中幾くか拳頭を喫し、脱落雍容し又霹靂すと。

 

師、諱は道元、俗姓は源氏、村上天皇九代苗裔、後中書王八世の遺胤なり。
正治二年、初て生る。

時に、相師見奉て曰く、此の子、聖子なり、眼に重瞳あり、必ず大器ならん。

古書に曰く、人、聖子を生ずる時は、其の母命あやうし。

この兒七歳の時、必ず母死せん。
母儀是を聞て驚疑せず、怖畏せず、増々愛敬を加ふ。
果して師八歳の時、母儀即ち死す。
人悉く道ふ、一年違ひ有と雖とも、果して相師の言に合すと。
即ち四歳の冬、初て李嶠が百詠を、祖母の膝上に讀み、七歳の秋、始て周詩一篇を、慈父の閣下に獻す。

時に古老名儒悉く道ふ、此の兒凡流に非ず、神童と稱すべしと。
八歳の時、悲母の喪に逢て、哀歎尤も深し。
即ち高雄寺にて、香烟の上るを見て、生滅無常を悟り、其より發心す。
九歳の春、始て世親の倶舎論をよむ。
耆年宿徳云く、利なること文殊の如し、眞の大乘の機なりと。
師、幼稚にして耳の底に是等の言をたくはへて苦學を作す。
時に松殿の禪定閣は關白摂政職の者(ひと)なり、天下に並なし、王臣の師範なり。
此の人、師を納て猶子とす、家の秘訣を授け、國の要叓を教ゆ。
十三歳の春、即ち元服せしめて朝家の要臣となさんとす。
師、獨り人にしられずして、竊かに木幡山の荘を出て、叡山の麓に尋ね到る。
時に良觀法眼と云うあり、山門の上綱顯密の先達なり、即ち師の外舅なり。
彼の室に到て出家を求む。
法眼大に驚て問て曰く、元服の期ちかし、親父猶子定て瞋り有んか如何。
時に師曰く、悲母逝去の時、囑して曰く、汝ち出家學道せよと。

我も又、是の如く思ふ。

徒に塵俗に交らんとおもはず、但出家せんと願ふ。

悲母姨母等の恩を報ぜんが爲に、出家せんと思ふと。
法眼感涙を流して、入室を許す、即ち横川首楞嚴院般若谷千光房に留學せしむ。
卒に二十四歳、建保元年四月九日、座主公圓僧正を禮して剃髮す。
同十日、延暦寺の戒壇院にして、菩薩戒をうけ、比丘となる。
然しより、山家の止觀を學し、南天の秘教をならふ。
十八歳より内に、一切經を被閲すること一遍。
後に三井の公胤僧正、同く外叔なり、時の明匠、世にならびなし、因て宗の大事をたずぬ。
公胤僧正、示して曰く、吾宗の至極、いまだ汝が疑處なり、傳教慈覺より、累代口訣し來るところなり、この疑をして、はらさしむべきにあらず、遥かに聞く。

西天達磨大師、東土に來て、まさに佛印を傳持せしむと、その宗風いま天下にしく、名けて禪宗といふ、もしこの事を決檡せんとおもはば、汝建仁寺榮西僧正の室に入て、その故實をたずね、はるかに道を異朝に訪ふべしと。
因て十八歳の秋、健保五年丁丑八月二十五日に建仁寺明全和尚の會に投して、僧儀をそなふ。
彼の建仁寺の時は、もろもろの唱導はじめて參ぜしには、三年をへて、後に衣をかへしむ。
然るに師のいりしには、九月に衣をかへしめ、すなはち十一月に、僧伽梨衣をさずけて、以て器なりとす。
かの明全和尚は顯密心の三宗を、つたへてひとり、榮西の嫡嗣たり。
西和尚建仁寺の記を、録するに曰く、法藏はただ明全のみに囑す。
榮西が法をとふらはんと、おもふと、亡がらは、すべからず、全師をとむろうべし。
師、其の室に參じ、重て菩薩戒をうけ、衣鉢等を、つたへ、かねて、谷流の祕法、一百三十四尊の行法、護摩等をうけ、ならびに律藏をならひ、また止觀を學す。
はじめて臨濟の宗風をききて、おほよそ顯密心三宗の正脈みなもて、傳受し、ひとり明全の嫡嗣たり。
やや七歳をへて、二十四歳の春、貞應二年二十二日、建仁寺の祖塔を禮辭して、宋朝におもむき天童に掛錫す。
大宋嘉定十六年、癸未の曆なり。
在宋の間だ、諸師をとふらひし中に、はじめ徑山琰和尚にまみゆ。
琰、問云、幾時か此閒に到る。
師、答曰、客歳四月。
琰曰、群に随て恁麼にし來るや。
師曰、既に是れ群に隨て恁麼にし來る、作麼生か是れならん。
琰、一掌して曰く者多口の阿師。
師曰、多口の阿師は即ち無きにしも不らず、作麼生か是れならん。
琰曰、旦坐喫茶。
又、台州の小翠巖に造る、卓和尚に見て便ち問ふ、如何是れ佛。
卓曰、殿裏底、
師曰、既に是れ殿裏底、什麼と爲てか恒沙界に周遍す。
卓曰、遍沙界。

師曰、話隨也。
かくの如く、諸師と問答往來して、大我慢を生じて、日本大宋に、われにおよぶ者なしとおもひ、歸朝せんとせし時に、老璡と云ふものあり。
すすめて曰く、太宋國中ひとり道眼を具するは淨老なり、汝まみえは、必ず得處あらん。
かくのごとくいへとも、一歳餘をふるまて參ぜんとするにいとまなし。
時に派無際去て後ち、淨慈淨和尚、天童に主となり來る。
即ち有縁宿契なりとおもひ、參じてうたがひをたずね、最初にほこさきをおる。
因て師資の儀とす。
委悉に參ぜんとして、即ち状を奉るに曰く、某甲幼年より菩提心を發し本國にして、道を諸師にとふらひて、いささか因果の所由をしるといへども、いまだ佛法の實歸をしらず、名相の懐標にとどこふる。
後ちに千光禪師の室にいりて初めて臨濟の宗風をきく。
今全法師にしたがひて、大宋にいり、和尚の法席に投ずることをえたり。
これ宿福の慶幸なり。
和尚大悲外國遠方の小人願は時候に拘わらず、威儀不威儀を檡らばず、頻々に方丈に上り、法要を拝問せんとおもふ、大慈大悲哀愍聴許したまへ。
時に淨和尚示して曰く、元子いまより後ちは著衣衩衣をいとはず晝夜參問すべし。
われ父子の無禮を恕するが如し。
然しより晝夜堂奥に參じ、親く眞訣を受く。
ある時、師を侍者に請せらるるに、師辭して曰く、われは外國の人なり。
かたじけなく大國大刹の侍司たらんこと、すこぶる叢林の疑難あらんか、ただ晝夜に參ぜんとおもふのみなり。
時に和尚いはく、實に汝はいふところ、もつとも謙卑なり、そのいひなきにあらず。
因て問答往來して、提訓をうくるのみなり。
然るに一日後夜の坐禪に淨和尚入堂。
大衆のねむりをいましむるに曰く、參禪の身心脱落なり、燒香禮拝念佛修懺看經を要せず、祇管打坐して始て得んと。
時に師、きひて忽然として大悟す。
今の因縁なり。
おほよそ淨和尚にまみへてより晝夜に辨道して、時しばらくもすてず。
ゆえに脇席にいたらず。
淨和尚よのつね示して曰く、汝古佛の操行あり、必ず祖道を弘通すべし。
われ汝ぢをえたるは釋尊の迦葉をえたるがごとし。
因て寶慶元年乙酉、日本嘉祿元年たちまちに五十一世の祖位に列す。
即ち浄和尚囑して曰く、早く本國にかえり祖道を弘通すべし。
深山に隠居して、聖胎を長養すべしと。
しかのみならず、大宋にて五家の嗣書を拝す。
いはゆる最初、廣福寺前住惟一西堂といふにまみゆ。
西堂曰く、古蹟の可觀は人間の珍玩なり、汝ぢいくばくか見來せる。
師曰く、未だ曾て見ず。

ときに西堂曰く、吾那裏に一軸の古蹟あり、老兄が爲にみせしめんと。
いひて擕來るをみれば、法眼下の嗣書なり。
西堂曰く、ある老宿の衣鉢の中より得來れり。
惟一西堂のには、あらず。
そのかきよう、ありといへども、くわしく擧するにいとまあらず。
又、宗月長老は天童の首座たりしに、ついて雲門下の嗣書を拝す。
即ち宗月に問て曰く、今五家の宗派を、つらぬるに、いささか同異あり。
そのこころいかん。西天東土、滴滴相承せば、なんぞ同異あらんや。
月曰く、たとひ同異はるかなりとも、ただまさに雲門山の佛法は、是れの如くなりと學すべし。
釋迦老子なにによりてか、尊重他なる、悟道によりて尊重なり。
雲門大師なにによりて尊重他なる、悟道によりて尊重なり。
師この語をきくにいささか領覽あり。
又、龍門の佛眼禪師、清遠和尚の遠孫にて傳藏主といふ人ありき。
彼の傳藏主また嗣書を帯せり。
嘉定のはじめに、日本の僧、隆禪上座、かの傳藏主やまひしけるに、隆禪ねんごろに看病しける。
勤勞を謝せんが爲に嗣書をとりいだして、禮拝せしめけり。みがたきものなり。
汝ぢが爲に禮拝せしむといひけり。
それより半年をへて、嘉定十六年癸未の秋のころ、師、天童山に寓止するに、隆禪上座ねんごろに、傳藏主に請して、師にみせしむ。
これは楊岐下の嗣書なり。
嘉定十七年甲申正月二十一日に天童無際禪師了派和尚の嗣書を拝す。
無際曰く、この一段の事、見知を得ること少しなり。
如今(いま)老兄知得す、便是れ學道の實歸なり。
時に師、喜感勝ること無し。
又、寶慶年中、師、台山雁山等に雲遊せし序に、平田の萬年寺にいたる。
時の住持は福州の元鼐和尚なり。
人事の次てに、むかしよりの佛祖の家風を往來せしむるに、大潙仰山の今嗣話を擧するに、元鼐曰く、曽て我箇裏の嗣書を看るや、也た否や。
師曰く、いかにしてみることをえん。
鼐自らたちて嗣書をささけて曰く、這箇はたとひ親き人なりといへとも、たとひ侍僧のとしを、へたるといへども、これをみせしめず。
これ即ち佛祖の法訓なり。
しかあれども、元鼐ひごろ出城し、見知府の爲に、在城の時、一夢を感ずるに曰く、大梅山法常禪師とおぼしき高僧あり。
梅華一枝をさしあけて曰く、もしすでに舩舷をこゆる、實人あらんには、華をおしむこと勿れといひて、梅華をわれにあたふ。
元鼐おぼえずして、夢中に吟じて曰く、未だ舩舷を跨ざるに好與三十棒。
しかあるに五日を經ざるに老兄と相見す。

いはんやすでに舩舷に跨り來る。
この嗣書また梅華綾にかけり大梅のおしふるところならん、夢中と符合する。
ゆへにとりいだすなり。
老兄もし、われに嗣法せんと、もとむや。
たとひもとむとも、おしむべきにあらず。
師、信感おくところなし。
嗣書を請すべしと、いふともただ、燒香禮拝して、恭敬供養するのみなり。
時に燒香侍者、法寧といふあり、はじめて嗣書をみるといひき。
時に師ひそかに思惟しき。
この一段の事、實に佛祖の冥資に、あらざれば見聞なをかたし。
邊地の愚人として、なんのさいはひありてか、數番これをみる、感涙袖を霑す。
この故に、師、遊山の序に、大梅山護聖寺の旦過に宿するに、大梅祖師來りて、開華せる一枝の梅華を、さずくる靈夢を感ず。
師、實に古聖と、ひとしく、道眼をひらく故に數軸の嗣書を拝し、冥應のつげあり。
是の如く諸師の聽許をかふむり、天童の印證を得て、一生の大事を辭じ、累祖の法訓をうけて、大宋寶慶三年、日本安貞元年丁亥歳、歸朝し、はじめに、本師の遺跡建仁寺にをちつき、しばらく修練す。
時に二十八歳なり。
其の後、勝景の地をもとめ、隠栖を卜(ぼく)するに遠國畿内有縁檀那の施す地を歴觀すること、十三箇處。
皆意にかなはず。
しばらく洛陽宇治郡深草の里、極樂寺の邊に居す。
即ち三十四歳なり。
宗風漸くあをき雲水あひあつまる。
因て半百にすぎたり。
十歳を經て後、越州に下る。
志比の荘の中、深山をひらき、荊棘を拂ひて、茅茨をふき、土木をひきて、祖道を開演す。いまの永平寺これなり。
興聖に住せし時、神明來て聽戒し、布薩ごとに參見す。
永平寺にして、龍神來て八齋戒を請し、日々囘向に預んと願ひ出見(まみ)ゆ。
これによりて、日々に八齋戒をかき、囘向せらる。
いまにいたるまでおこたることなし。


夫れ日本佛法流布せしより七百餘歳に、はじめて、師、正法をおこす。
いはゆる佛、滅後、一千五百年欽明天皇一十三壬申歳、はじめて新羅國より、佛像等わたり、十四歳癸酉に、すなはち佛像二軸をいれて渡す。
然しより漸く佛像の靈験あらはれて後、十一年といひしに聖德太子佛舎利をにぎりてうまる。
用明天皇三年なり。
法華、勝鬘等の經を講ぜしより、このかた名相教文天下に布く。
橘の太后所請として、唐の齊安國師下の人、南都に來りしかども、その碑文のみ殘りありて、兒孫相嗣せざれば、風規つたはらず。

後覺阿上人は瞎堂佛海遠禪師の眞子として、歸朝せしかども、宗風おこらず。
又、東林惠敞和尚の宗風、榮西僧正相嗣して、黄龍八世として宗風を興さんとして、興禪護國論等をつくりて奏聞せしかども、南都北京よりささへられて純一ならず。
顯密心の三宗をおく。
然るに師、その嫡孫として臨濟の風氣に通徹すといへども、なを淨和尚をとふらひて、一生の叓を瓣じ、本國にかへり、正法を弘通す。
實にこれ國の運なり。
人のさひはいなり。
あたかも西天二十八祖達磨大師はじめて、唐土にいるがごとし。
これ唐土の初祖とす。
師、またかくのごとし。


大宋國五十一祖なりといへども、今は日本の元祖なり。
ゆへに師はこの門下の初祖と称したてまつる。


そもそも正師、大宋にみち、宗風天下にあまねくとも、師もし眞師にあふて、參徹せずんば、今日いかんが祖師の正法眼藏を開明することあらん。
時き澆運にむかひ、末法にあふて、大宋も佛法すでに衰微して、明眼の知識まれなり。
ゆへに派無際琰淅翁等、みな甲刹の主となるといへども、なほいたらざるところあり。
ゆへに大宋にも人なしとおもふて、歸朝せんとせしところに、淨和尚ひとり、洞山の十二世として、祖師の正脈を傳持せしになを神秘して、もて嗣承をあらはざずと雖も、師にはかくすところなく、親訣をのこさず、祖風を傳通す。
實にこれ奇絶なり、殊特なり。
しかもさいはひに、かの門派として、かたじけなく、祖風を、とふらはん。
あだかも震旦の、三祖四祖に相見せんがごとし。
宗風未だ地に落ちず。
三國にあとありといへども、その傳通するところ、毫末もいまだあらたまらず。
參徹するむね、あに他事あらんや。
先ず須く明心すべし。
いはゆる、師、最初得道の因縁、參禪は身心脱落なり。
實にそれ參禪は身をすて、心をはなるべし。
もしいまだ身心を脱せずんば、即ちこれ道にあらず。
まさにおもへり、身はこれ皮肉骨髓と。
子細に見得せし時、一毫末もえ來る一氣なし。
今おもふところの心といふは二あり。
一つには思量分別、この了別識を心とおもへり。
二つには寂湛として、不動一知なく半解なし。
この心すなはち、これ識根未だまぬがれさることを。
古人これをよんで、精明湛不揺のところとす。
汝等ここにとどまりて心なりとおもふこと勿れ。
子細に見得する時、心といひ、意といひ、識といふ三種の差別あり。

それ識といふは、いまの憎愛是非の心なり。
意といふは、いま冷暖をしり、痛痒をおぼゆるなり。
心といふは、是非をわきまへず、痛痒をおぼへず、墻壁のごとく、木石のごとし。
よく實に寂々なりとおもふ。
この心、耳目なきがごとし。
ゆへに心によりていふ時、あだかも木人のごとく、鐵漢の如し。
眼あれどもみず、耳あれどもきかず。
ここにいたりて言慮の通ずべきなし。
かくのごとくなるは、即ちこれ心なりと、いへども、これはこれ冷暖をしり、痛痒をおぼゆる種子なり。
意識ここより建立す。
これを本心とおもふこと勿れ。
學道は心意識をはなるべしといふ。
これ身心と、おもふべきにあらず。
更に一段の靈光歴劫長堅なるあり。
子細に熟看して、必ずやいたるべし。
もしこの心をあきらめえば、身心の得來るなく、敢て物我の擕來なし。
故にいふ、身心もぬけおつと。
ここにいたりて熟見するに、千眼を囘しみるとも、微塵の皮肉骨髓と、稱すべきなく、心意識とわくべきなし。
いかんが冷暖をしり、いかんが痛痒をわきまへん。
なにをか是非し、なにをか憎愛せん。
ゆへにいふ、みるに一物なしと。
このところに承當せし、すなはち曰く、身心脱落し來ると。
すなはち印して曰く、身心脱落、脱落身心。
卒に曰く、脱落脱落と。
一度この田地にいたりて、無底の籃子のごとく、穿心の椀子に似て、もれども、もれども、つきず。
いれども、いれども、みたざることを得べし。
この時節にいたるとき、桶底を脱し去るといふ。
もし一毫も悟處あり、得度ありと、思はば、道にあらず。
ただ弄精魂の活計ならん。
諸人者子細に承當し、委悉に參徹して、皮肉骨髓を帯せざる身あることを、しるべし。
この身、卒に脱せんとすれども、脱不得なり。
すてんとすれども、捨不得なり。
ゆへに、このところをいふに、一切みなつきて、空不得のところありと。
もし子細にあきらめえば、天下の老和尚、三世の諸佛の、舌頭をうたがはじ。
いかならんか、この道理、聞んと要すや。

 

明皎々地、中表無し。豈に身心の脱し來る可き有んや。

 



 

伝光録 第五十二祖 永平弉和尚

第五十二祖 永平弉和尚

 

元和尚に参ず。
一日請益の次に、一毫衆穴を穿つ因縁を聞て即ち省悟す。
晩閒に禮拝し問て曰く、一毫問わず如何なるか是れ衆穴。
元微笑す。日く、穿ち了なり。師礼拝す。

 

師、諱は懐弉、俗姓は藤氏。謂ふ所九条大相國四代の孫、秀通の孫なり。
叡山圓能法印の房に投じて、十八歳にして落髪す。
然しより倶舎成實の二教を學し、後に摩訶止觀を學す。
ここに名利の學業は、すこぶる益なきことをしりて、ひそかに菩提心を起こす。
然れどもしばらく師範の命にしたがいて、學業をもて、向上のつとめとす。
然るにある時、母儀のところにゆく。
母すなわち命じて日く、われ汝ぢをして出家せしむるこころざし、上綱の位を補して、公上のまじはりをなせと思わず、ただ名利の學業をなさず、黒衣の非人にして、背後に笠をかけ、往來ただかちよりゆけと、おもふのみなり。
時に師聞きて承諾し、忽に衣をかえて、ふたたび山にのぼらず。
浄土の教門を學し、小坂の奥義をきき、後ち多武の峰、佛地上人遠く佛照禅師の祖風をうけて、見性の義を談ず。
師ゆきてとふらう、精窮群に超ゆ。
ある時首楞厳經の談あり、頻伽瓶喩のところにいたりて、空をいるるに空増せず、空をとるに空減せずと、云にいたりて、深く契處あり。
佛地上人日く、いかんが無始曠劫よりこのかた、罪根惑障悉く消し、苦みみな解脱しおわると。
時に會の學人三十餘輩、みなもて、奇異のおもいをなし、皆ことごとく敬慕す。
然るに永平元和尚、安貞元丁亥歳、はじめて建仁寺にかへりて修練す。
時に大宋より正法を傳て、ひそかに弘通せんといふきこえあり。
師きひておもわく、われすでに、三止三觀の宗に、くらからず、淨土一門の要行に、達すといへども、なをすてに多武の峯に参ず。
すこぶる見性成佛の旨に達す。
何事の傳へ來ることかあらんといひて、試におもむきて、すなはち元和尚に参ず。
はじめて對談せし時、兩三日は、ただ師の得處におなじく、見性霊知の事を談ず。
時に師歡喜して違背せず。
わが得所、實なりとおもふて、いよいよ敬歎をくはふ。
やや日數をふるに、元和尚すこぶる異解をあらわす。
時に師おどろきて、ほこさきをあぐるに、師の外に義あり、ことごとくあひ似ず。
ゆへに更に發心して、伏承せんとせしに、元和尚すなはち日く、われ宗風を傳持して、はじめて扶桑國中に弘通せんとす、當寺に居住すべしといへども、別に所地をえらんで、止宿せんとおもふ。
もしところをえて、草菴をむすばば、即ちたずねていたるべし。

ここにあふひしたがわんこと不可なり。
師命にしたがひて時をまつ。
然るに元和尚、深草の極楽寺の、かたわらに、はじめて草菴を結びて、一人居す。
一人のとふらふなくして、兩歳をへしに、師すなはちたずねいたる時は文暦元年なり。
元和尚歡喜して、すなはち入室をゆるし、昼夜祖道を談ず。
やや三年を、すぐるに、今の因縁を請益せらる。
いはゆるこの因縁は、一念万年、一毫衆穴を穿つ、登科は汝が登科に任す、抜萃は汝か抜萃に任す。
これをききて師、即ち省悟す。
聽許ありしより後、あひしたがうに、一日も師をはなれず。
影の形ちに、したがふが如くして二十年をおくる。
たとい諸職を補すといへども、必ず侍者をかぬ。
職務の後は、また侍者司に居す。ゆえに予(螢山祖戒を孤雲祖に受て、奉侍年久なり)
二代和尚の尋常の垂示をききしに日く、佛樹和尚の門人數輩ありしかども、元師ひとり参徹す。
元和尚の門人またおおかりしかども、われひとり函丈に獨歩す。
ゆえに人のきかさるところをきけることありは、ありといへども、他のきけるところを、きかさることなし。
卒に宗風を相承してより、後、尋常に元和尚、師をもて重くせらる。
師をして永平の一切佛事をおこなはしむ。
師そのゆえを問へば、和尚示て日く、わが命ひさしかるべからず、汝ぢわれより、ひさしくして、決定わが道を弘通すべし。
ゆへにわれ、汝を法の爲に重くす、室中の禮あだかも師匠のごとし。
四節ごとに太平を奉らるること是の如く、義をおもくし、禮をあつくす。
師資道合し、心眼ひかりましはり、水に水を入、空に空を合するに似たり。
一毫も違背なし、ただ師ひとり、元和尚の心をしる、他のしるところにあらず。
いはゆる深草に修練の時、すなわち出郷の日限をさだめらる。
牓に日く、一月兩度、一出三日なり。
然るに師の悲母、最後の病中に、師ゆきてみること、すでに制限をおかさず。病すでに急にして最後の對面をのぞむ。
使ひすでに、かさなるゆえに、一衆悉くゆくべしといふ。
師すでに心中におもひきわむといえども、また一衆の心をしらんとおもふて、衆をあつめて報じて日く、母儀最後の相見をねがふ、制をやぶりてゆくべしやいなや。
時に五十餘人みないふ、禁制かくのごとしなりといえども、今生悲母ふたたびあふべきにあらず、懇請してゆくべし。
衆心悉くそむくべからず、和尚なんぞゆるさざらん。
事すでに重し、少事に準ずべからず。衆人の儀みな一同なり。
この事上方にきこゆ。和尚ひそかにいう弉公の心、定ていづべからず、衆儀に同せじと。
はたして衆儀おはりて後、師、衆に報して日く、佛祖の軌範、衆議よりも重し。
まさしくこれ、古佛の禮法なり、悲母の人情に、したがひ、古佛の垂範にそむかん。

すこぶる不孝のとが、なんぞまぬがれんや。
ゆへいかんとなれば、今まさに、佛の制法をやぶらん、これ母最後の大罪なるべし。
夫れ出家人としては、親をして、道にいらしむべきに、今一旦、人情にしたがひ、永劫沈淪を、受けしめんやといひて、卒に衆儀にしたがわず、ゆえに衆人舌をまく。
はたして和尚の所説にたがわず。諸人讃歎して、實にこれ、人おこしがたき志なりと。
かくのごとく、十二時中、師命にそむかざる、こころざし、師父もかかみる。
實に師資の心通徹す。
しかのみならず、二十年中、師命によりて療病せし時、師顔に向かわざること首尾十日なり。
南嶽懐譲、六祖に奉侍せしこと、未徹以前八年、已徹して以後八年、前後十五秋の星霜をおくる。
その外、三十年、四十年、師をはなれざる、おほしといへども、師のごとくなる。
古今未だ見聞せざるなり。
しかのみならず、永平の法席をつぎて、十五年のあひだ、方丈のかたわらに、先師の影を安じて、夜間に珍重し、暁天に和南して、一日もおこたらず。
世々生々奉時を期し、卒に釈尊阿難のごとくならんと、ねがひき。
なほ今生の幻身も、あひはなれざらん爲に、遺骨をして、先師の塔の、侍者の位にうずましむ。
別に塔をたてず。
塔はもて、尊を表するを、おそれてなり。
同寺において、わが爲に別に佛事を修せんことを、おそれて、先師忌八箇日の、佛事の一日の囘向に、あづからんとねがひ、果して同月二十四日に、終焉ありて、平生の願樂のごとく、開山忌一日をしむ、志気の切なることあらはる。
しかのみならず、義を重くし、法を守ること一毫髪も開山の會裏にたがはず。
ゆえに開山一會の賢愚老少、悉く一帰す。
今諸方に永平門下と称するみなこれ師の門葉なり。
かくのごとく、法火熾然として、とふくあらはるるが故に、越州大野郡にある人、夢みらく。
北山にあたりて、大火たかくもゆ、人ありてとふて日く、これいかなる火なれば、かくのごとくもゆるぞと。
答て日く、佛法上人の法火なりと。
夢さめて、人にたづぬるに、佛法上人といひし人、うざかの、きたの山に住して、世をさりて、年はるかなり、その門弟いま彼の山に住すと、ききて、不思議のおもひをなし、わざと夢をしるして、恣參しき。
實に開山の法道を伝持して、永平に弘通する事、開山の來機にたがわざるゆえに、児孫いまにおよびて、宗風未だ斷絶せず。
これによりて、當寺老和尚价公、まのあたりかの嫡子として、法幢をこのところにたて、宗風を當林にあぐ。
因て雲兄水弟、飢寒をしのび古風を學で、萬難をかえりみず、晝夜參徹す。
これ然しながら、師の徳風のこり、靈骨あたたかなるゆへなり。

 

夫れ法ををもんずること、師の操行のごとく、德をひろむること、師の眞風のごとくならば、扶桑國中に宗風いたらざるところなく、天下徧ねく永平の宗風になびかん。
汝等今日の心術、古人のごとくならば、未來の弘通、大宋のごくならん。
そもそも一毫衆穴を穿つのこころは、師已に一毫は問ず、如何が是れ衆穴と問。
纖毫の立すべきなく、一法のきざすべきなし。
ゆへに古人曰く、實際理地に、一塵を受けず、一旦の清虚に毫髪のきざし來るなし。
かくのごとく會得せし時、元老すなはち許可するに、穿了也といふ。
實に百千の妙義無量の法門、一毫頭上に向て、穿却し、をはりぬ。
終に微塵の外より、來るなし。
ゆへに十方界畔なく、三世へだてなし、玲々瓏々として明々了々たり。
この田地千日ならび照すとも、なほ其の明におよばず。
千眼囘しみれども、そのきはをきはむべからず。
然れども、人々ことことく、うたがはず、覺悟了々たり。
ゆへに寂滅の法にあらず、差別の相にあらず。
動なく、静なく、聞なく、見なし。
子細に精到し、恁麼に覺了せり。
もしこのところに承當せずんば、たとひ千萬年の功行あり、恒河沙の諸佛に、まみゆとも、ただこれ有爲の功行のみなり、一毫もいまだ祖風を辨ぜず。
故に三界苦輪まぬがるべからず、四生の流轉、斷ずることなからん。
汝等ら諸人、かたじけなく、佛の形儀をかたどり、佛の受用をもちいる。
もしいまだ、佛心に承當の分なくば、十二時自己の欺誑するのみにあらず、諸佛を毀破す。
ゆへに無明地を、やぶることなし、業識薀に流浪す。
たとひ、しばらく善根力によりて、人天の果報を感じ、自ら有爲の快樂にほこるとも、車輪にばらく、しめれる、ところに、をし、かはけるところに、をすがごとし。
をはりなく、はじめなく、ただ流轉業報の衆生ならん。
然れば、たとひ三乘十二分教を通利すとも、八萬四千の法門を開演すとも、畢竟これ、ねずみをうかかふ、ねこのごとし。
かたち、しづまれるに似たれども、心はもとめ、やむことなし。
たとひ修行綿密なりとも、十二時中、心地いまだ、をだやかならず。
これによりて、疑滞いまだはれず。
きつねの、はやく走るといへども、かへりみるによりて、すすむこと、おそきがごとし。
野狐精の變怪、未斷弄精魂の活計なり。
然れば多聞を、このむことなかれ、廣學をいとなむことなかれ。
ただ暫時なりといへども、刹那なりといへども、こころざしを、發すること、大火聚の纖塵をとどめざるがごとく、太虚空の、一針をもかけざるが、ごとにに(く)似て、たとひ思量すといへども、必ず思不倒の、ところにいたらん。
たとひ不思量なりとも、必ず空不得の、ところにいたらん。
もしよく、かくのごとく、志し實ありて、志しすでに、かたからん時、人々悉く通徹して、三世佛の所證と絲毫もへたつべからず。

ゆへに永平開山曰く、人道をもとむること、世にかたきいろにあはんと、おもひ、こはきかたきを、うたんとおもひ、堅城をやふらんと、おもふが、ごとくなるべし。
志しすでに、ふかきによりて、このいろの、終にあはざることなし。
彼の城、やぶらざることなし。
この心をもて、道にひるがへさん時、千人は千人ながら、萬人は萬人ながら、みな是れ悉く得道すべし。
然れば諸人者道は無相大乘の法、かならず機をえらぶ、初機後學のいたるべきに、あらずと、おもふことなかれ。
このところに、すべて利鈍なく、すべて所務なし。
一度憤發して深く契處あるべし、
旦道如何是れ這箇の道理、さきにすでに衆に呈す。
虚空從來針を容れず、廓落無依誰か有てか論せん。
この田地にいたる時、一毫の名を立せず。
なにいはんや、衆穴あることあらんや。
然れども萬法泯ずといへども、泯ぜざるものあり。
一切つくすといへども、つきえざるものあり。
得得として、おのづから杲然たり。
空空として、もとより靈用なり。
故に淨躶々といひ、赤洒々といひ、惺々歴々地といひ、明々皎々地といふ。
纖毫の疑慮なく、毫髪の浮塵なし。
百千萬の日月よりも、あきらかなり。
ただこれ白といふべからず、赤と云べからず。
あだかも夢のさめたる時のごとし。
已に活々たるにみなり。
これをよんで活々といふ。
惺々といはすなはち、さめさめたるのみなり。
明々といふは、またあきあきとなるのみなり。
内外なしといふべきにあらず。
古に、わたるともいふべからず。
今に、わたるともいふべからず。
ゆへに謂ふこと莫れ一毫衆穴を穿つと。
なんの徹了かあらん。
よんで一毫とすれば、すでにこれ二代和尚の所得底。
更にいかんがこれ一毫の體、聞かんと要すや。

 

虚空從來不容針。廓落無依有誰論。莫謂一毫穿衆穴。赤洒々地絶瘢痕。