正法眼藏辨道話
諸佛如來ともに妙法を單傳して、阿耨菩提を證するに、最上無爲の妙術あり。
これただ、ほとけ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。
この三昧に遊化(戯)するに、端坐参禪を正門とせり。
この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし。
はなてばてにみてり、一多のきはならんや。
かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。
諸佛のつねにこのなかに住持たる、各各の方面に知覺をのこさず、群生のとこしなへにこのなかに使用する、各各の知覺に方面あらはれず、いまをしふる功夫辨道は、證上に萬法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。
その超關脱落のとき、この節目にかかはらんや。
予、發心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき。
ちなみに建仁の全公をみる。
あひしたがふ霜華、すみやかに九廻をへたり。
いささか臨濟の家風をきく。
全公は祖師西和尚の上足として、ひとり無上の佛法を正傳せり。
あへて餘輩のならぶべきにあらず。
予、かさねて大宋國におもむき、知識を兩浙にとぶらひ、家風を五門にきく。
つひに大白峰の淨禪師に參じて、一生參學の大事ここにをはりぬ。
それよりのち大宋紹定のはじめ、本鄕にかへりし。
すなはち弘法救生をおもひとせり、なほ重擔をかたにおけるがごとし。
しかあるに弘通のこころを放下せん、激揚のときをまつゆゑに。
しばらく雲遊萍寄(ウンユウヒヤウキ)して、まさに先哲の風をきこえんとす。
ただしおのづから名利にかかはらず、道念をさきとせん、眞實の參學あらんか。
いたづらに邪師にまどはされ、みだりに正解をおほひ、むなしく自狂にゑふて、ひさしく迷鄕にしづまん。
なにによりてか般若の正種を長じ得道の時をえん。
貧道はいま雲遊萍寄をこととすれば、いづれの山川をかとぶらはん。
これをあはれむゆゑに、まのあたり大宋國にして禪林の風規を見聞し、知識の玄旨を禀持(ボンヂ)せしをしるしあつめて、參學閑道の人にのこして、佛家の正法をしらしめんとす。
これ眞訣ならんかも。
いはく大師釋尊靈山會上にして、法を迦葉につけ、祖祖正傳して、菩提達磨尊者にいたる。
尊者みづから神丹國におもむき、法を慧可大師につけき、これ東地の佛法傳來のはじめなり。
かくのごとく單傳して、おのづから六祖大鑑禪師にいたる。
ことき(このとき)眞實の佛法、まさに東漢に流演して、節目にかかはらぬむねあらはれき。
ときに六祖に二位の神足ありき。南嶽の懷讓と青原の行思となり。
ともに佛印を傳持して、おなじく人天の導師なり。
その二派の流通するに、よく五門ひらけたり。
いはゆる法眼宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨濟宗なり。
見在大宋には、臨濟宗のみ天下にあまねし。
五家ことなれども、ただ一佛心印なり。
大宋國も後漢よりこのかた、敎籍あとをたれて、一天にしけりといへども、雌雄いまださだめざりき。
祖師西來ののち、直に葛藤の根源をきり、純一の佛法ひろまれり。
わがくにもまたしかあらんことをこひねがふべし。
いはく、佛法を住持せし諸祖ならびに諸佛、ともに自受用三昧に端坐依行するをその開悟のまさしきみちとせり。
西天東地さとりをえし人、その風にしたがへり。
それ師資ひそかに妙術を正傳し、眞訣を禀持せしによりてなり。
宗門の正傳にいはく、この單傳正直(眞)の佛法は、最上のなかに最上なり、參見知識のはじめよりさらに燒香禮拜念佛修懺看經をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することを得よ。
もし人一時なりといふとも、三業に佛印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな佛印となり、盡虚空ことごとくさとりとなる。
ゆゑに諸佛如來をして本地の法樂をまし、覺道の莊嚴をあらたにす、および十方法界、三途六道の群類、みなともに一時に身心明淨にして、大解脱地を證し、本來面目現ずるとき、諸法みな正覺を證會し、萬物ともに佛身を使用して、すみやかに證會の邊際を一超して、覺樹王に端坐し、一時に無等等の大法輪を轉じ、究竟無爲の深般若を開演す。
これらの等正覺、さらにかへりて、したしくあひ冥資するみちかよふがゆえに、この坐禪人、礭爾として、身心脱落し、從來雑穢の知見思量を截斷して、天眞の佛法に證會し、あまねく微塵際そこばくの諸佛如來の道場ごとに、佛事を助發し、ひろく佛向上の機にかうぶらしめて、よく佛向上の法を激揚す。
このとき、十方法界の土地艸木、牆壁瓦礫、みな佛事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあづかるともがら、みな甚妙不可思議の佛化に冥資せられて、ちかきさとりをあらはす。この水火を受用するたぐひ、みな本證の佛化を周旋するゆゑに。
これらのたぐひと共住して同語するもの、またことごとくあひたがひに無窮の佛德そなはり、展轉廣作して、無盡無間斷、不可思議、不可稱量の佛法を、遍法界の内外に流通するものなり。
しかあれども、このもろもろの當人の知覺に昏(混)せざらしむることは、靜中の無造作にして直(眞)證なるをもてなり。
もし凡流のおもひのごとく、修證を兩段にあらせば、おのおのあひ覺知すべきなり。
もし覺知にまじはるは、證則にあらず、證則には迷情およばざるがゆゑに。
また心境ともに靜中の證入悟出あれども、自受用の境界なるをもて、一塵をうごかさず、一相をやぶらず、廣大の佛事、甚深微妙の佛化をなす。
この化道のおよぶところの艸木土地、ともに大光明をはなち、深妙法をとくこときはまるときなし。
艸木牆壁は、よく凡聖含靈のために宣揚し、凡聖含靈はかへつて艸木牆壁のために演暢す。
自覺覺他の境界、もとより證相をそなへてかけたることなく、證則おこなはれて、おこたるときなからしむ。
ここをもて、わづかに一人一時の坐禪なりといへども、諸法とあひ冥し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに。
無盡法界のなかに去來現に、常恒の佛化道事をなすなり。
彼彼(ひひ)ともに一等の同修なり、同證なり。
ただ坐上の修のみにあらず、空をうちてひびきをなすこと橦の前後に妙聲綿綿たるものなり。
このきはのみにかぎらんや、百頭みな本面目に本修行をそなへて、はかりはかるべきにあらず。
しるべしたとひ十方無量恒河沙數の諸佛ともにちからをはげまして、佛智慧をもて、一人坐禪の功德をはかりしりきはめんとすといふとも、敢てほとりをうる事あらじ。
(十八問答・第一問)
いまこの坐禪の功德高大なることをききをはりぬ。
おろかならん人うたがふていはん、佛法におほくの門あり、なにをもてかひとへに坐禪をすすむるや。
しめしていはく、これ佛法の正門なるをもてなり。
(十八問答・第二問)
とふていはく、なんぞひとり正門とする。
しめしていはく、大師釋尊、まさしく得道の妙術を正傳し、また三世の如來、ともに坐禪より得道せり。
このゆゑに正門なることをあひつたへたるなり。
しかのみにあらず、西天東地の諸祖、みな坐禪より得道せるなり、ゆゑにいま正門を人天にしめす。
(十八問答・第三問)
とふていはく、あるひは如來の妙術を正傳し、または祖師のあとをたづぬるによらん、まことに凡慮のおよぶにあらず。
しかはあれども、讀經念佛は、おのづからさとりの因縁となりぬべし。
ただむなしく坐してなすところなからん、なにによりてかさとりをうるたよりとならん。
しめしていはく、なんぢいま諸佛の三昧、無上の大法を、むなしく坐してなすところなしとおもはん、これを大乘を謗する人とす。
まどひのいとふかき、大海のなかにゐながら、水なしといはんがごとし。
すでにかたじけなく諸佛受用三昧に安坐せり。
これ廣大の功德をなすにあらずや。
あはれむべし、まなこいまだひらけず、こころなほゑひにあることを。
おほよそ諸佛の境界は、不可思議なり。
心識のおよぶべきにあらず。
いはんや不信劣智のしることをえんや。
ただ正信の大機のみよくいることをうるなり。
不信の人はたとひをしふとも、うくべきことかたし。
靈山になほ退亦佳矣(タイヤクケイ)のたぐひあり、おほよそ心に正信おこらば、修行し參學すべし。
しかあらずば、しばらくやむべし、むかしより法のうるほひなきことをうらみよ。
又讀經念佛等のつとめにうるところの功德を、なんぢしるやいなや。
ただしたをうごかし、こゑをあぐるを佛事功德とおもへる、いとかなし。
佛法に擬するにうたたとほく、いよいよはるかなり。
又經書をひらくことは、ほとけ頓漸修行の儀則ををしへおけるをあきらめしり、敎のごとく修行すれば、かならず證をとらしめんとなり。
いたづらに思量念度(シリヤウネンタク)をつひやして、菩提をうる功德に擬せんとにはあらぬなり。
おろかに千萬誦の口業(クゴフ)をしきりにして、佛道にいたらんとするは、尚これ、ながえをきたにして越にむかはんとおもはんがごとし。
又圓孔(ヱンク)に方木をいれんとせんとおなじ。
文をみながら、修するみちにくらき、それ醫方をみる人の合藥をわすれん、なにの益かあらん。
口聲をひまなくせる、春の田のかへるの晝夜になくがごとし、つひに又益なし。
いはんやふかく名利にまどはさるるやから、これらのことをすてがたし、それ利貪(貪利)のこころははなはだふかきゆゑに、むかしすでにありき、いまのよになからんや、もともあはれむべし。
ただまさにしるべし、七佛の妙法は得道明心の宗匠(シウシヤウ)に、契心證會の學人あひしたがふて正傳すれば、的旨あらはれて禀持せらるるなり。
文字習學の法師のしりおよぶべきにあらず。
しかあればすなはちこの疑迷をやめて、正師のをしへにより、坐禪辨道して諸佛の自受用三昧を證得すべし。
(十八問答・第四問)
とふていはく、いまわが朝につたはれるところの、法華宗、華嚴敎(宗)ともに大乘の究竟なり。(尚、ここで云う法華宗とは天台法華宗を指す。)
いはんや眞言宗のごときは、毘廬遮那如來したしく金剛薩埵につたへて師資みだりならず。
その談ずるむね卽心(身)是佛、是心(身)作佛といふて、多功の修行をふることなく、一座に五佛の正覺をとなふ、佛法の極妙といふべし。
しかあるにいまいふところの修行、なにのすぐれたることあらば、かれらをさしおきてひとへにこれをすすむるや。
しめしていはく、しるべし佛家には敎の殊劣を對論することなく、法の淺深をえらばず。
ただし修行の眞僞をしるべし。
艸華山水にひかれて、佛道に流入することありき。
土石沙礫をにぎりて、佛印を禀持することあり。
いはんや廣大の文字は、萬象にあまりてなほゆたかなり。
轉大法輪、また一塵にをさまれり。
しかあればすなはち卽心(身)卽佛のことば、なほこれ水中の月なり。
卽坐成佛(成道)のむね、さらにまたかがみのうちのかげなり。
ことばのたくみにかかはるべからず。
いま直(眞)證菩提の修行をすすむるに、佛祖單傳の妙道をしめして、眞實道人とならしめんとなり。
又佛法を傳授することは、かならず證契の人をその宗師とすべし。
文字をかぞふる學者をもてその導師とするにたらず。
一盲の衆盲をひかんがごとし。
いまこの佛祖正傳の門下には、みな得道證契の哲匠をうやまひて、佛法を住持せしむ。
かるがゆゑに冥陽の神道もきたり歸依し、證果の羅漢もきたり問法するに、おのおの心地を開明する手をさずけずといふことなし。
餘門にいまだきかざるところなり。
ただ佛弟子は佛法をならふべし。
又しるべし、われらはもとより無上菩提かけたるにあらず。
とこしなへに受用すといへども、承當することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおふ(おもふ)によりて、大道いたずらに蹉過す。
この知見によりて、空華まちまちなり。
あるひは十二輪轉、二十五有の境界とおもひ、三乘五乘有佛無佛の見つくることなし、この知見をならふて佛法修行の正道とおもふべからず。
しかあるをいまはまさしく佛印によりて、萬事を放下し、一向に坐禪するとき、迷悟情量のほとりをこえて凡聖のみちにかかはらず、すみやかに格外に逍遥し、大菩提を受用するなり。
かの文字の筌罤(センテイ)にかかはるものの、かたをならぶるにおよばんや。
(十八問答・第五問)
とふていはく、三學のなかに定學あり、六度のなかに禪度あり、ともにこれ一切の菩薩の、初心よりまなぶところ、利鈍をわかず修行す。
いまの坐禪もそのひとつなるべし。
なにによりてかこのなかに如來の正法あつめたりといふや。
しめしていはく、いまこの如來一大事の、正法眼藏、無上の大法を、禪宗となづくるゆえに、この問きたれり。
しるべしこの禪宗の號は、神丹以東におこれり、竺乾(チクゲン)にはきかず。
はじめ達磨大師嵩山の少林寺にして、九年面壁のあひだ、道俗いまだ佛正法をしらず、婆羅門となづけき。
のち代々の諸祖、みなつねに坐禪をもはらす。
これをみるおろかなる俗家は實をしらず、ひたたけて坐禪宗といひき、いまのよには坐のことばを簡して、ただ禪宗といふなり。
そのこころ諸祖の廣語にあきらかなり。
六度および三學の禪定にならつていふべきにあらず。
この佛法の相傳の嫡意なること一代にかくれなし。
如來むかし靈山會上にして、正法眼藏、涅槃妙心、無上の大法をもて、ひとり迦葉尊者にのみ付法せし儀式は、現在して上界にある天衆、まのあたりみしもの存せり、うたがふべきにたらず。
おほよそ佛法はかの天衆とこしなへに護持するものなり。
その功いまだふりず。
まさにしるべし、これは佛法の全道なり。
ならべていふべき物なし。
(十八問答・第六問)
とふていはく、佛家なにによりてか四儀のなかに、ただし坐にのみおほせて、禪定をすすめて證入をいふや。
しめしていはく、むかしよりの諸佛、あひつぎて修行し證入せるみち、きはめしりがたし。
ゆゑをたづねば、ただ佛家のもちゐるところをゆゑとしるべし。
このほかにたづぬべからず。
ただし祖師ほめていはく、坐禪はすなはち安樂の法門なり。
はかりしりぬ四儀のなかに安樂なるゆゑか。
いはんや一佛二佛の修行のみにあらず。
諸佛諸祖にみなこのみちあり。
(十八問答・第七問)
とふていはく、この坐禪の行は、いまだ佛法を證會せざらんものは、坐禪辨道してその證をとるべし。
すでに佛正法をあきらめえん人は、坐禪なにのまつところかあらん。
しめしていはく、癡人のまへにゆめをとかず、山子(サンス)の手には舟棹をあたへがたしといへどもさらに訓をたるべし。
それ修證は一つにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。
佛法には修證これ一等なり。
いまも證上の修なるゆゑに、初心の辨道、すなはち本證の全體なり。
かるがゆゑに修行の用心をさづくるにも、修のほかに證をまつおもひなかれとをしふ。
直指の本證なるがゆゑなるべし。
すでに修の證なれば、證にきはなく、證の修なれば、修にはじめなし。
ここをもて釋迦如來、迦葉尊者、ともに證上の修に受用せられ、達磨大師、大鑑高祖、おなじく證上の修に引轉せらる。
佛法住持のあとみなかくのごとし。
すでに證をはなれぬ修あり。
われらさいはひに一分の妙修を單傳せる初心の辨道、すなはち一分の本證を無爲の地にうるなり。
しるべし修をはなれぬ證を染汚せざらしめんがために、佛祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ。
妙修を放下すれば、本證手の中にみてり。
本證を出身すれば、妙修通身におこなはる。
又まのあたり大宋國にしてみしかば諸方の禪院、みな坐禪堂をかまえて、五百六百、および一二千僧を安じて、日夜に坐禪をすすめき、その席主とせる、傳佛心印の宗師に、佛法の大意をとぶらひしかば、修證の兩段にあらぬむねをきこえき。
このゆゑに、門下の參學のみにあらず、求法の高流、佛法のなかに眞實をねがはん人、初心後人をえらばず、凡人聖人を論せず、佛祖のをしへにより、宗匠の道をおふて、坐禪辨道すべしとすすむ。
きかずや、祖師のいはく、修證はすなはちなきにあらず、染汚することはえじ。
又いはく、道をみるもの道を修すと。
しるべし、得道のなかに修行すべしといふことを。
(十八問答・第八問)
とふていはく、わが朝の先代に敎をひろめし諸師、ともにこれ入唐傳法せしとき、なんぞこのむねをさしおきて、ただ敎をのみつたへし。
しめしていはく、むかしの人師、この法をつたへざりしことは、時節のいまだいたらざりしゆゑなり。
(十八問答・第九問)
とふていはく、かの上代の師、この法を會得せりや。
しめしていはく、會せば通じてん。
(十八問答・第十問)
とふていはく、あるがいはく、生死をなげくことなかれ、生死を出離するに、いとすみやかなるみちあり、いはゆる心性の常住なることはりをしるなり。
そのむねたらく、この身體は、すでに生あれば、かならず滅にうつされゆくことありとも、この心性はあへて滅することなし。
よく生滅にうつされぬ心性、わが身にあることをしりぬれば、これを本來の性とするがゆゑに、身はこれかりのすがたなり、死此生彼さだまりなし。
心はこれ常住なり、去來現在はかるべからず。
かくのごとくしるを生死をはなれたりとはいふなり。
このむねをしるものは、從來の生死ながくたえて、この身をはるとき、性海にいる。
性海に朝宗するとき、諸佛如來のごとく、妙德まさにそなはる。
いまはたとひしるといへども、前世の妄業になされたる身體なるがゆゑに、諸聖とひとしからず。
いまだこのむねをしらざるものは、ひさしく生死にめぐるべし。
しかあればすなはちただいそぎて心性の常住なるむねを了知すべし。
いたづらに閑坐して一生をすぐさん、なにのまつるところかあらん、かくのごとくいふむね、これはまことに諸佛祖の道にかなへりや、いかん。
しめしていはく、いまいふところの見、またく佛法にあらず。先尼外道が見なり。
いはく、かの外道の見は、わが身、うちにひとつの霊知あり。
かの知すなはち縁にあふところに、よく好惡をわきまへ、是非をわきまふ。
痛痒をしり、苦樂をしる。みなかの靈知のちからなり。
しかあるにかの靈知は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにうまるる、ゆゑにここに滅すとみゆれどもかしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり。
かの外道が見かくのごとし。
しかあるを、この見をならふて佛法とせん、瓦礫をにぎりて金寶とおもはんよりもなほおろかなり。癡迷のはづべき、たとふるにものなし。
大唐國の慧忠國師ふかくいましめたり。
いま心常相滅の邪見を計して、諸佛の妙法にひとしめ、生死の本因をおこして、生死をはなれたりとおもはん、おろかなるにあらずや、もともあはれむべし。
ただこれ外道の邪見なりしとしれ、みみにふるべからず。
ことやむことをえず、いまなほあはれみをたれてなんぢが邪見をすくはは(はん)。
しるべし佛法にはもとより身心一如にして、性相不二なりと談ずる、西天東地おなじくしれるところ、あへてたがふ(うたかふ)べからず。
いはんや常住を談ずる門には、萬法みな常住なり。身と心とをわくことなし。
寂滅を談ずる門には、諸法みな寂滅なり、性と相とをわくことなし。
しかあるをなんぞ身滅心常といはん、正理にそむかざらんや。
しかのみならず、生死はすなはち涅槃なりと覺了すべし、いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし。
いはんや心は身をはなれて領解するをもて、生死をはなれたる佛智に妄計すといふとも、この領解知覺の心は、すなはちなほ生滅して、またく常住ならず。
これはかなきにあらずや。甞觀すべし。
身心一如のむねは、佛法のつねの談ずるところなり。
しかあるになんぞこの身の生滅せんとき心ひとり身をはなれて生滅せざらん。
もし一如なるときあり、一如ならぬときあらば、佛説おのづから虚妄にありぬべし。
又生死はのぞくべき法ぞとおもへるは、佛法をいとふつみとなる、つつしまざらんや。
しるべし佛法に心性大總相の法門といふは、一大法界をこめて、性相をわかず、生滅をいふことなし。
菩提涅槃におよぶまで、心性にあらざるなし。
一切諸法(諸佛)萬象森羅ともにただこれ一心にしてこめずかねざることなし。
このもろもろの法門、みな平等一心なり、あへて異違なしと談ずる、これすなはち佛家の心性をしれる樣子なり。
しかあるをこの一法に身と心とを分別し、生死と涅槃とをわくことあらんや。
すでに佛子なり、外道の見をかたる狂人のしたのひびきをみみにふるることなかれ。
(十八問答・第十一問)
とふていはく、この坐禪をもはらせん人、かならず戒律を嚴淨すべしや。
しめしていはく、持戒梵行は、すなはち禪門の規矩なり、佛祖の家風なり、いまだ戒をうけず、又戒をやぶるもの、その分なきにあらず。
(十八問答・第十二問)
とふていはく、この坐禪をつとめん人、さらに眞言止觀の行をかね修せん、さまたげあるべからずや。
しめしていはく、在唐のとき、宗師の眞訣をききしちなみに、西天東地の古今に佛印を正傳せし諸祖、いづれもいまだしかのごときの行をかね修すときかずといひき。
まことに一事をこととせざれば、一智に達することなし。
(十八問答・第十三問)
とふていはく、この行は在俗の男女もつとむべしや、ひとり出家人のみ修するか。
しめしていはく、祖師にいはく、佛法を會すること男女貴賤をえらふべからずときこゆ。
(十八問答・第十四問)
とふていはく、出家人は、諸縁すみやかにはなれて、坐禪辨道にさはりなし、在俗の繁務は、いかにしてか一向に修行して、無爲の佛道にかなはん。
しめしていはく、おほよそ佛祖あはれみのあまり、廣大の慈門をひらきおけり、これ一切衆生を證入せしめんがためなり。人天たれかいらざらんものや。
ここをもてむかしいまをたづぬるに、この證これおほし、しばらく代宗順宗の帝位にして萬機いとしげかりし、坐禪辨道して佛祖の大道を會得す。
李相國、防相國、ともに輔佐の臣位にはんべりて、一天の股肱(ココウ)たりし、坐禪辨道して、佛祖の大道に證入す。
ただこれこころざしのありなしによるべし。身の在家出家にかかはらじ。
又ふかくことの殊劣をわきまふる人、おのづから信ずることあり。
いはんや世務は佛法をさゆとおもへるものは、ただ世中に佛法なしとのみしりて、佛中に世法なきことをいまだしらざるなり。
ちかごろ大宋に馮相公(ヘウシヤウコウ)といふありき。
祖道に長ぜりし大官なり。
のちに詩をつくりてみづからをいふにいはく、公事餘喜坐禪、少曾將脇致牀眠、雖然現出宰官相、長老之名四海傳。(公事の餘、坐禪を喜む。曾て脇を將て牀に致て眠こと少しなり。然も宰官相に現出すと雖も。長老の名、四海に傳ふ。)
これは官務にひまなかりし身なれども、佛法にこころざしふかければ、得道せるなり。
佗をもわれをかへりみむかしをもていまをかがみるべし。
大宋國には、いまのよの國王大臣士俗男女、ともに心を祖道にとどめずといふことなし。
武門文家、いづれも參禪學道をこころざせり。
こころざすものかならず心地を開明することおほし。
これ世務の佛法をさまたげる、おのづからしられたり。
國家に眞實の佛法弘通すれば、諸佛諸天ひまなく衛護するゆえに、王化太平なり。
聖化太平なれば、佛法そのちからをうるものなり。
又釈尊の在世には、逆人邪見みちをえき。
祖師の會下には、獵者樵翁(レウシヤセウオウ)さとりをひらく、いはんやそのほかの人をや。ただ正師の敎道をたづぬべし。
(十八問答・第十五問)
とふていはく、この行は、いま末代惡世にも修行せば證をうべしや。
しめしていはく、敎家に名相をこととせるに、なほ大乘實敎には、正像末法をわくことなし、修すればみな得道すといふ。
いはんやこの單傳の正法には、入法出身、おなじく自家の財珍を受用するなり。
證の得否は、修せんものおのづからしらんこと、用水の人の冷煖をみづからわきまふるがごとし。
(十八問答・第十六問)
とふていはく、あるがいはく、佛法には卽心是佛のむねを了達しぬるがごときは、くちに經典を誦せず、身に佛道を行ぜざれども、あへて佛法にかけたるところなし。
ただ佛法はもとより自己にありとしる、これを得道の全圓とす。
このほかさらに佗人にむかひてもとむべきにあらず、いはんや坐禪辨道をわずらはしくせんや。
しめしていはく、このことばもともはかなし、もしなんぢがいふごとくならば、こころあらんもの、たれかこのむねををしへんにしることなからん。
しるべし佛法はまさに自佗の見をやめて學するなり。
もし自己卽佛としるをもて得道とせば、釋尊むかし化道にわづらはじ。
しばらく古德の妙則をもて、これを證すべし。
むかし則公監院といふ僧、法眼禪師の會中にありしに、法眼禪師といふていはく、則監寺なんぢわが會にありていくばくのときぞ。
則公がいはく、われ師の會にはんべりてすでに三年をへたり。
禪師のいはく、なんぢはこれ後生なり。
なんぞつねにわれに佛法をとはざる。
則公がいはく、それがし和尚をあざむくべからず。
かつて靑峰禪師のところにありしとき、佛法におきて安樂のところを了達せり。
禪師のいはく、なんぢいかななることばによりてかいることをえし。
則公がいはく、それがしかつて靑峰にとひき、いかなるかこれ學人の自己なる。
靑峰のいはく、丙丁童子來求火(ビヤウヂヤウドウジライグカ)。
法眼のいはく、よきことばなり、ただしおそらくはなんぢ會せざらんことを。
則公がいはく、丙丁は火に屬す、火をもてさらに火をもとむ、自己をもて自己を求むるににたりと會せり。
禪師のいはく、まことにしりぬなんぢ會せざりけり。
佛法もしかくのごとくならば、けふまでにつたはれじ。
ここに則公燥悶(サウモン)して、すなはちなちぬ。
中路にいたりておもひき、禪師はこれ天下の善知識、又五百人の大導師なり。
わが非をいさむる、さだめて長處あらん。
禪師のみもとにかへりて、懺悔禮謝してとふていはく、いかなるかこれ學人の自己なる。
禪師のいはく、丙丁童子來求火と。
則公このことばの下に、おほきに佛法をさとりき。
あきらかにしりぬ、自己卽佛の領解をもて佛法をしれりといふにはあらずといふことを。
もし自己卽佛の領解を佛法とせば禪師さきのことばをもてみちびかじ。
又しかのごとくいましむべからず。
ただまさにはじめ善知識をみんより、修行の儀則を諮問して、一向に坐禪辨道して、一知半解を心にとどむることなかれ。
佛法の妙術それむなしからじ。
(十八問答・第十七問)
とふていはく、乾唐(ケンタウ)の古今をきくに、あるひはたけのこのこゑをききて道をさとり、あるひははなのいろをみてこころをあきらむるものもあり。
いはんや釋迦大師は、明星をみしとき道を證し、阿難尊者は刹竿のたふれしところに法をあきらめしのみならず、六代よりのち五家のあひだに、一言半句のしたに、心地をあきらむるものおほし。
かれらかならずしもかつて坐禪辨道せるもののみならんや。
しめしていはく、古今に見色明心し、聞聲悟道せし當人、ともに辨道に擬議量なく、直下に第二人なきことをしるべし。
(十八問答・第十八問)
とふていはく、西天および神丹國は、人もとより質直なり。
中華のしからしむるによりて、佛法を敎化するにいとはやく會入す。
我朝はむかしより人に仁智すくなくして、正種つもりがたし、番夷のしからしむるうらみざらんや。
又このくにの出家人は大國の在家人にもおとれり。
擧世おろかにして心量狹少なり。
ふかく有爲の功を執して、事相の善をこのむ。
かくのごとくのやから、たとひ坐禪すといふともたちまちに佛法を證得せんや。
しめしていはく、いふがごとし。
わがくにの人いまだ仁智あまねからず、人また迂曲なり。
たとひ正直の法をしめすとも、甘露かへりて毒となりぬべし。
名利にはおもむきやすく、惑執とらけがたし、しかはあれども佛法に證入すること、かならずしも人天の世智をもて出世の舟航とするにはあらず。
佛在世にもてまりによりて四果を證し、袈裟をかけて大道をあきらめし、ともに愚暗のやから、癡狂の畜類なり。
ただし正信のたすくるところ、まどひをはなるるみちあり。
また癡老の比丘默坐せしをみて、説齋の信女さとりをひらきし。
これ智によらず、文によらず、ことばをまたず、かたりをまたず、ただしこれ正信にたすけられたり。
また釋敎の三千界にひろまること、わづかに二千餘年の前後なり。
刹土のしなじななる、かならずしも仁智のくににあらず。
人またかならずしも利智聰明のみあらんや。
しかあれども如來の正法、もとより不思議の大功德力をそなへて、ときいたればその刹土にひろまる。
人まさに正信修行すれば、利鈍をわかず、ひとしく得道するなり。
わが朝は、仁智のくににあらず、人に知解おろかなりとして、佛法を會すべからずとおもふことなかれ。
いはんや人みな般若の正種ゆたかなり。
ただ承當することまれに、受用することいまだしきならし。
さきの問答往來し、賓主相交することみだりがはし。
いくばくかはななきそらにはなをなさしむる。
しかあれどもこのくに坐禪辨道におきて、いまだその宗旨つたはれず。
しらんとこころざさんもの、かなしむべし。
このゆゑにいささか異域の見聞をあつめ、明師の眞訣をしるしとどめて、參學のねがはんにきこえんとす。
このほか叢林の規範、および寺院の格式、いましめすにいとまあらず。
又草草にすべからず。
おほよそ我朝は龍海の以東にところして、雲煙はるかなれども、欽明用明の前後より、秋方の佛法東漸する、すなはち人のさひはひなり。
しかあるを名相事縁しげくみだれて、修行のところにわづらふ。
いまは破衣綴盂(ハエトツウ)を生涯として、靑巖白石のほとりに茅(チガヤ)をむすんで、端坐修練するに、佛向上の事たちまちあらはれて、一生參學の大事、すみやかに究竟するものなり。
これすなはち龍牙の誡勅なり。雞足の遺風なり。
その坐禪の儀則は、すぎぬる嘉祿のころ撰集せし普勸坐禪儀に依行すべし。
それ佛法を國中に弘通すること、王勅をまつべしといへども、ふたたび靈山の遺屬をおもへば、いま百萬億刹に現出せる、王公相將、みなともにかたじけなく佛勅をうけて夙生(シユクシヤウ)に佛法を護持する素懐をわすれず、生來せるものなり。
その化をしくさかひ、いづれのところか、佛國土にあらざらん。
このゆゑに佛祖の道を流通せん、かならずしもところをえらび、縁をまつべきにあらず。
ただけふをはじめとおもはんや。
しかあればすなはちこれをあつめて、佛法をねがはん哲匠、あはせて道をとぶらひ雲遊萍寄せん參學の眞流にのこす。ときに、
寬喜辛卯中秋日 入宋傳法沙門道元記
※かっこ()には他異本にある言葉とフリガナを挿入した。
正法眼藏辨道話
「正法眼藏辨道話」は単行本として発行されているものは少ない。
ほとんどが「正法眼藏」の中に組み込まれていて、その最初に「正法眼藏辨道話」がある。
ここで参照したのは主に「鈴木天山述 正法眼藏辨道話講話」である。
「鈴木天山述 正法眼藏辨道話講話」
昭和十四年八月二十日 道元禪師鑽仰會刊行部 発行
衛藤卽應著「正法眼藏序説(辨道話義解)」
昭和三十四年五月三十日第一刷 岩波書店 発行
尚、この衛藤卽應著「正法眼藏序説(辨道話義解)」には一般的な「正法眼藏」には掲載されていない、正法寺本の「辨道話」が問答の一つに加えられていて、十九問答となっている。
「正法眼藏序説(辨道話義解)」189頁には第五問として、次の様に書かれている。
四 教主論の批判
本文 (正法寺本)
問曰、法華、眞言、華厳教等は其の教主勝れたり、樹下の應身にあらず、説く所の法も亦すぐれたり、今云所は釋尊迦葉に對せり、是應身の佛け、聲聞に蒙らしむる處、先きの大乘教の宗に及ぶべきにあらず、如何、
示曰、一翳眼に有れば空花亂れ墜つ、委しく顧るべし、況汝は云處の顯密の大乘教に釋迦の外に教主ありと知れる、己れが教主をも知らざるなり、此外に覓ば捨父逃逝の初めなるべし、迦葉は偏へに聲聞と思える、村人愚なるが、王宮の臣位の列排を定んが如し、佛法の大道を錯るのみにあらず、教家の旨にも暗し、汝は外道か、天魔か、暫く歸つて、己が宗師に語れ、再び來らば、汝が爲に説ん、我れ法を惜むべからず。
義解
この一問答は現行本には全文が削除されているが、正法寺本によつてこれを本文として增補することにした。 (以下省略)