久我家と永平寺


「永平が拄杖一枝の梅、天暦年中殖種し來る。五葉の聯芳今未だ舊(ふるび)ず。根莖果實、誠に悠なる哉。」

これは道元禅師が建長二年(1250)(永平広録による推定)に育父、源亜相の為にした上堂法語である。
ここに「永平が拄杖一枝の梅、天暦年中殖種し來る。」とある。天暦(てんりゃく)年中とは、天慶(947)年の後、天徳(957)年の前までの期間であって、村上天皇の時代。道元禅師が村上天皇の末裔とするのはこの上堂語に依ると考えられる。
久我家は村上天皇を祖とする源氏一門(源氏長者)。

 

承陽大師と久我家
承陽大師と久我家


明治三十五年三月に高祖大師六百五十回大遠忌記念として芳川雄悟著「承陽大師と久我家」と云う小冊子が発行されたが、その冒頭には下のような系図が記載されている。

 

永平寺御開山道元禅師は久我家の出身、父は源通親(通具との異説有り)、母は松殿(藤原)基房の娘である藤原伊子であると云われている。
三歳で父を失い、八歳で母を失ったことにより世の無常を感じ、十四歳で出家した。
道元禅師は出家して久我の姓を名乗ることは無かった。

 

尚、道元禅師は育父源亜相の為に二度上堂し法語を残している。

(永平廣録、第五、巻七、参照)
育父源亜相とは育ての父、村上源氏の大納言「堀川通具」のことらしい。

育父といえども、実父である可能性がある。
(参考、岡野友彦「道元禅師と村上源氏」・駒澤大学佛教学部論集第36号)

 

又、京都市上京区の北村美術館にある宝篋印塔(別名・鶴の塔)は道元禅師が建てた亡父母の供養塔ではないかとも云われています。

 

入宋、帰朝の頃より久我家一族との関係があったとも云われているが、定かではない。

又、正法眼藏隨聞記第三(七)に「我身も田園等を持たる時もありき、亦財寶を領ぜし時もありき。」とあるが、この田園等は久我家関係のものかは不明である。

 

しかし後年、道正庵を通して、久我家と永平寺の関係が出来てきた。

 

「永平寺史・下巻」977頁には次のようにある。

密巖(永平四十三世央元密巖禅師)は宝暦二年(1752)八月に二万数千人の随喜を得て高祖500回忌を奉修された。・・・・・翌二年(三年の間違い)春には京都道正庵省順をして「久我家の系譜」を献納せしめている。


「永平寺史・下巻」980~981頁には次のようにある。

 久我家系譜の奉納
道元禅師の生家である久我家と永平寺が親しい関係を持つようになったのは、安永八年(1779)のことである。それ以前については四十三世密巖が参内の折、道正庵二三世法眼省順をして系譜を書写せしめて、永平寺常住に奉納している。この『久我家之系譜』は現在も永平寺に伝えられているが、その末尾に次の如く識語している。

(識語)
右久我家の系譜にして吾か高祖の自出(てる)所なり。今茲(ことし)の春、余本山に視篆し勅黄を京師に奉す。因に諸(これ)を久我家に質(ただして)其の要略を得る。而して之を寫す。且つ道正法眼省順、其の家に藏(をさむる)先久我權中納言の眞蹟を謄(うつして)而して焉を寄納す。蓋し吾祖乃ち、通親公の子爲(たり)。而して通忠具房の息に非ること、辮得し著明、復た遺憾無し焉。因て併(あわせて)附して以て後に貽すと云。
 寛延四年辛未六月下浣 (寛延四年?寶暦三年?)
   勅特賜廓然大行禪師見住越前國
   吉祥山永平寺 央元 謹誌 □ □


これによると、従来道元禅師の父方を「源亜相通忠公」とした説を訂正して、通親公とするところに主眼が置かれているようである。
面山の『訂補建撕記』(乾)でも通親公説を取り、この系譜に依ったとして次の如くみえる。(中略)

ところで道正庵古記録の『備忘録』には次の如くあって、密巖の求めた久我家系譜の顛末が知られる。

 

一、寶暦三年春 永平寺役者得州和尚爲轉衣上京 乞當家所持開山和尚之系譜寫與如左
   越前州吉祥山永平禪寺 ――――― ――― 依道正庵法眼ト順之求書以應之云
                        權中納言源通名
 右書予家甞所藏也應 央元禪師之求今寫以與之
   寶暦三癸酉年三月二十八日
     道正庵二十三世 法眼省順謹書


以上のことより、宝暦四年(三年の間違い?)の久我家系譜は道正庵の書写を基として成ったことが知られる。これは面山等によって道元禅師の伝記等が研究された結果とみられると共に、道正庵を通して永平寺と久我家が関係を持たれるための架橋となったといえる。それは高祖の500回忌を記念して奉鑽されたことによる。
享保一六年(1731)五月、塔頭長寿院寬明の書写した道元禅師の伝記『行録』等は通忠公の説を取っているから、密巖はこれらの説を訂正する意味でも久我家の系譜を必要としたものと考えられる。

 

「永平寺史・下巻」1214頁には次のようにある。

久我家と永平寺の関係が明らかにされ始めたのは近世になってからである。
宝暦元年(1751)春(宝暦三年1753の間違い)、四三世央元密巖は道正庵に命じて、久我家の系譜を奉納させていることについては前章で述べた。
永平寺との交儀(交誼?)が明確になったのは安永八年(1779)のことである。
これは寛政七年(1795)九月の書翰に次の如くあることにより知られる。(文面略)
この文面から、これまで正式に道正庵とも往来がなかったとみえる。
次いで道正庵がお礼を永平寺に達してある。(文面略)
この時より道正庵を通して親交が始まったとみえる。玄透晋住の年九月一三日に、久我内大臣信通は薨去したので、この時に先例を通知して来たのである。この後、永平寺との関係は密接となった。 

(以上「永平寺史・下巻」より)

 

さらに、嘉永7年(安政元年)(1854)2月24日、道元禅師の御生家久我家の上奏と、井伊直弼候の助力により、孝明天皇より道元禅師へ「佛性伝東国師」の謚号が下賜された。

永平六十世臥雲童龍禅師の時代)
  
だが、久我家との関係がより強く結ばれたのは永平寺六十一世環渓禅師の時であろう。

環渓禅師が「久我」姓を名乗ったことは知られているが、なぜ久我の姓を名乗ったかはよく分かっていない。
ただ僧侶も苗字を名乗ることになったことと深く関係しているようである。

 

明治4年4月4日、新戸籍法が公布される。

 

明治5年4月25日、太政官布告第一三三号
「自今僧侶肉食妻帶蓄髪等可為勝手事
 但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」

 

明治5年9月14日、太政官布告第二六五号
「自今僧侶苗字相設住職中ノ者ハ某寺住職某氏名ト可相称事」

仏教界では上記の布告に対して「各宗本山ニ住職スル者ハ其開山祖師ノ苗字ヲ以テ標出ス可シ」と意見もあったが、各々僧侶は教部省に新設の姓を届け出た。
このことは僧侶の得度僧籍を破棄することでもあった。

 

明治6年9月9日
「自今僧尼得度ヲ被廃其身分ニ依テ華士族平民ニ編籍シ一般ノ戸籍法ニ帰セシメ度」の文言は教部省の同意を得て太政官から認可された。

 

明治7年1月20日付 太政官布告
僧尼の輩自今族籍被定候儀条各自元身分を以て本人望の地へ本籍相定其管轄庁へ可届出尤本末寺とも宗教事務管理の儀は従前の通取扱一般の職分同様に可相心得此旨僧侶へ布告すべき事
但原籍へ復帰し及師僧或は親戚へ附籍の儀は情願に任せ不苦尤も一寺住職の者は平民たりとも身分取扱士族に准し候儀は従前の通候事

 

参考
「一元身分制の成立-明治維新期における僧尼身分の解体について-・森岡清美著」

明治政府の以上のことは、曹洞宗及び環渓禅師は反対する意見を持っていたが、結局同意せざるを得なくなってしまう。

このことがあって、環渓禅師は一端は「細谷」の姓を名乗ることになる。

 

しかし次の歌にもある通り、環渓禅師は久我通久候と久我附籍について相談していたことが分かる。

 

 明治七年六月久我通久へ入籍を語らひて帰山の時道元祖師へ告る心を
  「恐母我祖遁し都途の家に帰るは君のみ心」


    上歌『環渓禅師語録』三十一より

 

明治7年 この歳、細谷環渓は久我通久の許可を得て、本籍を同家に移す。

 

明治8年6月、環渓禅師は久我家と相談の上、道元禅師の御生家の「久我」の姓を名乗りたいと「改姓願」を提出したのである。

 

明治8年(1875)6月17日
永平寺六十一世住職細谷環渓禅師は東京府知事宛に「改姓願」を提出した。


改姓願
  久我家附籍
   越前国永平寺住職
       細谷環渓
右之者儀 従来永平寺住職相勤罷在候処 先達テ之御布令ニ基キ族籍相立 細谷ト称シ候
右細谷ト相名乗候次第ハ 環渓儀 元新潟県士族越前国頸城郡高田細谷勘四郎次男ニ付 不取敢実家之姓ヲ冒シ候得共 元来永平寺開基祖道元禅師者 当家之先代内大臣兼右大将通親ノ七男ニテ 当環渓ニ至リ六十一代之法孫ニ御座候 其由緒ヲ以今般当家エ附籍仕候儀ニ御座候間一端道元之法流ヲ汲 其跡ヲ相続仕候儀ニ付 族籍相立 姓氏ヲ唱エ候ハゞ久我ト為相名乗候間 何卒願之通リ改姓之儀 御許允相成候様願上候也
 明治八年六月十七日
    第五区三小区竹町八番地
   華族 正三位 久我通久 印
 東京府知事 大久保保一翁 殿

 

明治8年(1875年)6月18日

この「改姓願」は受理され「細谷環渓」から姓を転じて「久我環溪」を名乗ることになった。

 

この時、環渓禅師は59歳、久我建通は61歳、久我通久は34歳である。

 

 従一位久我通久・書
 従一位久我通久・書

 

【久我建通・こがたけみち】


文化12年(1815)2月1日

 ~ 明治36年(1903)9月26日(89歳)
実父は関白一条忠良で、実母は熊本藩第八代藩主細川斉茲の娘、富子である。久我家に養子として迎えられ、養父は内大臣久我通明で養母は熊本藩第七代藩主細川治年の娘の就。正室は関白鷹司政通の娘の麗子。
久我家は日本の氏族、村上源氏の総本家に当たる。
文政5年に叙爵し、従三位、正二位、大納言と昇進を重ね、安政元年に議奏となる。
宮内省麝香間祗候や賀茂神社宮司、大教正、皇典講究所副総裁などをつとめた。
尚、岩倉具視は同じ村上源氏久我一門です。

 

 

【久我通久・こがみちつね】


天保12年(1842)11月28日

 ~ 大正14年(1925)1月10日(84歳)
内大臣久我建通の長男で母は後藤言中の娘の松島。
安政5年に従三位。安政6年に正三位となり、慶応3年に権中納言となる。
明治新政府参与、陸軍少将、元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官や東京府知事などを歴任する。

 

 (参考 wikipediaより)

 

 久我建通・和歌短冊
 久我建通・和歌短冊

 

久我建通・和歌短冊


「和気公 波風はあしにふけども真心の 
        その一ふしは折られぜりけり  八十四翁 建通」


「葦間鶴 あしたづはあしのかりねのひとよにも
        ながき千とせの夢やみるらむ  八十五翁 建通」


「庭松 年毎の子日に植し庭のまつ
         ちよのはやしと立栄えけり  八十八翁 建通」

 

久我建通、久我通久、父子とも和歌に優れていた。

 
明治8年 久我環溪禅師が「正法眼藏辨注」二十二巻を上梓しようとした時、久我建通、久我通久等はその「序」を寄せている。

 

環渓禅師は久我家附籍になってより久我家には自由に出入りしていたようである。

 
明治11年(1878)10月
岩倉具視、永平寺に参詣する。

 

明治12年5月3日(1879年)
大本山永平寺の承陽殿、孤雲閣を焼失する。

 

明治12年11月22日(1879年)
久我環渓禅師、宮中に参内し、道元禅師(佛性傳東國師)への「承陽大師」諡号(しごう)を拝受する。

 

明治14年(1881年)9月
大本山永平寺承陽殿・承陽門・孤雲閣等を再建し遷座式(せんざしき)及び諡号慶賛会を挙行する。

 

明治15年(1882年)2月15日
笠間龍跳編輯「承陽大師傘松道詠集」の巻頭に久我環渓禅師題を寄せる。
さらに久我建通、久我通久も賛歌を寄せる。

 

  承陽大師傘松道詠集・久我環渓禅師題
  承陽大師傘松道詠集・久我環渓禅師題
  承陽大師傘松道詠集・久我建通・久我通久・賛歌
  承陽大師傘松道詠集・久我建通・久我通久・賛歌

 

明治16年(1883)久我建通は皇典講究所の副総裁となる。

尚、この縁で久我家の平安末期より明治までの数千点に上る貴重な「久我家文書」を昭和6年に國學院に寄託する。

 

特別展観・中世の貴族・國學院大學
特別展観・中世の貴族・國學院大學

 

明治16年(1883)久我環溪禅師は永平寺退董の意志を固め、久我家に御礼手書を出している。

 

佳名を禀けてより両閣下の懇篤を蒙るもの十数年一日の如し 加うるに過る七年中 環渓が附籍を許さるゝのみならず 次て台家の姓氏改むるを得せしめ玉うもの 実に無上の幸福にして 剰え 環渓を召して老閣下の弟と称せらるゝんの親密を得たり 是れ宗祖大師の遺徳に由ると雖も蓋し両閣下の環渓を愛撫せらるゝの深き子視し玉うにあらずんば豈に情誼の此に至るを得んや 誠に知る一世に縁より来すの結果にあらざることを然る 而て啻(タダ)に環渓が身の栄誉を獲るのみならず 本宗末派の幸福も亦一にしてかしこみ嗚呼感泣して措く所知らざるなり 今瓏を得て蜀を望むは固より環渓の深く愧る所なりと雖も、明治七年の公布に據り梺の緇流に至る迄、族籍及び姓氏を定むべきは不称の法律たり
是以 環渓が乞骸の後歴世本山に後董たるの公許を得る者 即ち世の養嗣子と称するの列に傚い代々 台家に附籍し姓氏も得 貴姓に改むるを許さるゝこと 環渓が蒙る所の幸福の如く 世々御当主の二三男に列せらるるを獲るときは 本山の薫職の者は無論 末派及び信徒の者流に至る迄 大師の御生家に対し必ず無窮の恩誼の在る所を忘失せざるや疑いなし 是環渓が情款を聖察し玉うて 之が証憑を恵与せられ 永く本山の宝庫に存置し歴世住職の明鑑に備ること得ば即ち環渓が畢生の志望を満足せりと云うべし 伏て冀は諒照し玉へ 敬白
         永平寺住職
          大教正 久我環溪 印
  明治十六年三月二十九日
正二位 久我建通 殿
正三位 久我通久 殿  両閣下

 

  (上文はカタカナ表記をひらかな表記に直す。)


これを受けて久我家からの返信。

 

十六年三月二十九日手書を忝ふ
宗祖大師は当家の出なり 閣下其の後董たるを以て 七年の公布に據り当家に附籍し姓氏を改められたり 因て今後 歴世本山に後董たる之公許を得る者 即ち世の養嗣子と称するの列に傚い代々当家に附籍し姓氏を改め当主の二三男に列する事を以てせらる 此の建通等も所望なり 今後本山に住職たる者 必ず閣下の志を嗣ぎ此の挙あらんことを望む   敬白
     正二位 久我建通 印
     正三位 久我通久 印
  明治十六年四月八日
永平寺住職
大教正 久我環溪 殿 閣下

 

  (上文はカタカナ表記をひらかな表記に直す。)

 

尚、久我建通公、久我通久公の御厚情に報いるため、また高祖御生家の今後の隆昌を祈って環渓禅師は御手許金から四千円を同家に奉納した。

 

  (参考「久我環溪禅師祥傳」262~263頁、387~389頁より)

 

以上の事々により、環渓禅師が「久我家」への附籍改姓を決定したのは明治7年1月20日付の太政官布告に反発した結果、「久我家」附籍改姓に踏み切ったものと考察します。

明治4年の新戸籍法に始まり、明治7年に至るまで、次々と出された太政官布告は、それまでの僧籍を無視し、出家得度を形骸化させる布告であったのである。

 

 

永平寺六十一世久我環溪禅師の後を継いだ永平寺六十二世青蔭雪鴻禅師も久我家附籍手続きをするが東京府知事より脚下される。

 

明治17年4月14日(1884)
久我通久、東久世通禧、北畠通城等連署して青蔭雪鴻禅師を久我通久の養子に許可せられんことを宮内卿伊藤博文に出願する。

 

明治17年9月9日(1884)
青蔭雪鴻禅師、久我家への附籍手続きをする。


明治18年1月23日(1885)
青蔭雪鴻禅師の久我家への附籍は東京府知事芳川顕正によって却下される。

 

その後も、永平寺住職が久我家に附籍することは無く、久我の姓を名乗る禅師はいなかった。


しかし、禅師が久我の姓を名乗ることは無くもと、久我家との関係は続き、久我通久は永平寺六十六世日置黙仙禅師と共に京都山城久我の荘に道元禅師ゆかりの誕生山妙覚寺(現在は妙覚山誕生寺と称している)を建立する。

 

時は前後するが明治14年、承陽殿御遷座式の折は拝殿正面より内陳に登る正中に右大臣従一位岩倉具視の揮毫なる「承陽殿」の額が掲げられていた。

岩倉家は村上源氏久我家より分家した、久我家一門である。  

 

 「承陽殿」従一位岩倉具視
 「承陽殿」従一位岩倉具視

 

尚現在、承陽殿入口には久我通久侯の「承陽殿」の額が掲げられている。 

 

 「承陽殿」久我通久書
 「承陽殿」久我通久書

永平寺紋・久我竜胆紋

 

久我家の家紋は笹竜胆、五つ竜胆車です。
永平寺の定紋は明治以前は無かった。
丸に永の字の紋が用いられることは間々あったが、御撫物を賜った寺院として永平寺では菊花の紋を専ら使用していた。

(永字の紋章等については「永平寺雑考」559,560頁参考)


 

明治12年5月3日(1879年)永平寺の承陽殿、孤雲閣が焼失し、同年、7月1日 承陽殿、孤雲閣の再営を全国末派寺院に論達し、明治14年(1881年)9月承陽殿・承陽門・孤雲閣等を再建し遷座式(せんざしき)及び諡号慶賛会を挙行した。
この再建時に使用された紋が久我竜胆紋であった。

この時、永平寺で初めて久我竜胆の紋が使用された。
本来、道元禅師の祖廟としての承陽殿であるので、その出身、久我家の紋(久我竜胆)が使用されても何等問題が無い。
 (尚、承陽殿はその後にある御真廟の拝殿である。)
さらに環渓禅師が久我家に附籍され、後の永平寺住職も久我家に附籍されることを望んでいた。
このことが永平寺承陽殿に久我家の家紋、久我竜胆を使用することを容易にした。
この時は久我竜胆を永平寺の紋にするなどと云うことは考えていなかったに違いない。
その後も菊花の紋は永平寺で使用されていたのであるから。
特に禅師号は勅賜あるいは勅特賜されていたので、菊花の紋を積極的に用いた。

承陽殿の後に永平寺で建立されたのは、永平寺六十四世森田悟由禅師の代、高祖道元禅師六百五十回大遠忌に合わせ、不老閣改築、庫院改築、諸回廊改築、佛殿新築、僧堂新築などがなされた。
この時に瓦など建築に伴う紋をどうするか、菊花の紋か、久我竜胆の紋か、あるいは別な紋か検討されたに違いない。

 

  永平寺大庫院の瓦
  永平寺大庫院の瓦
  永平寺仏殿の瓦
  永平寺仏殿の瓦
  永平寺僧堂の瓦
  永平寺僧堂の瓦

 

現在は永平寺の紋は久我竜胆と定められている。

 

   久我竜胆・永平寺紋
   久我竜胆・永平寺紋

 

尚、蛇足だが西山浄土宗でも久我竜胆の紋が用いられている。

西山上人は源通親の猶子となった為、道元禅師とは義兄弟の間と云われています。

 

アクセスカウンター