永平實録(正譌新刻 )

 

永平實録(正譌新刻 )について

 

この『(正譌新刻 )永平實録)』は寶永7年(1710)に面山瑞方が『日國洞上初祖永平開山和尚實録』として述したものに、卍山道白が「巻頭題・巻尾跋」を寄せ、正徳元年(1711)に刊行された「永平道元禅師伝」である。

しかし『永平實録』と銘してあるにも拘わらず、現在「道元禅師伝」探究に、これを参照する者は少ない。

この『永平實録』は行業記、紀年録、行録などを参考に面山瑞方が書き上げた記録であるが、面山独自の見解が随所に見受けられる。

面山瑞方はこの『(正譌新刻 )永平實録)』を述した後、宝暦3年(1753)に跋を載せ翌年に道元禅師伝として『訂補建撕記』を刊行した。

この『(正譌新刻 )永平實録)』での面山瑞方独自の見解が、更に『訂補建撕記』で拡張展開され、後世の「道元禅師伝」に多大な悪影響を及ぼすことになる。

 

永平實録-1
永平實録-1
永平實録-2
永平實録-2

正譌新刻 永平實録

(日國洞上初祖永平開山和尚實録)

 

(巻頭題)鷹峰卍山老衲拜題(省略)

 

凡例十條

 

 凡そ永平傳を撰するもの四家、曰く行業記、曰く紀年録、曰く行録、曰く道行碑。僧史に載するもの五家、曰く元亨釋書、曰く扶桑僧寶傳、曰く繼燈録、曰く洞上諸祖傳、曰く延寶傳燈録。上の九件、盛に世に流ふと雖も、而も各脱誤有りて、是非相ひ半なり。是れ但だ口碑耳譜の説に随ふ所以のみ。故に今考證する所、單に永平所撰の正法眼蔵に據り、又た之れを諸書に訂めて、以て述ぶ。覧る者、之れを思へ。

 

一 行業記、行録、延寶傳燈録、永平を以て源の亞相通忠の子と爲す。紀年録、忠通の子と爲す。此の説倶に非にして、唯だ諸祖傳に通親の子に作るを以て、得たりと爲す。按に久我氏の家譜に曰く、永平元禪師は通親の季子、通光の弟、通忠の伯父なりと。又、公卿補任に曰く、建長二年十二月二十四日通忠行年三十五にして卒すと。

時に永平五十有一歳なり。是れ通忠の永平の族姪爲ること明けし矣。

 

一 永平の公胤僧正を見るや、前傳の記する所、大藏を閲して以後、入宋少許り前に在るに似り。若し然は應に永平二十二、三歳の間なるべし。而して公胤、健保四年丙子六月二十七日を以て歸寂す。爾の時、永平年始て十七歳、則は前傳一一失考なり。

想に夫れ永平九歳、倶舎論を看て以降、博く經論を繙(ひもとき)て、法身自性の旨を疑ふ。是れを以て十四薙染の翌年、三井に詣て公胤の誨(おしえ)を聞て、徑に叡山を下て西公に見ゆ。而して後十年入宋、是れに由て言ふ則は永平、始終公胤の誨に依る者と知ぬ可し。

 

一 諸祖傳に曰く、永平十八歳にして建仁の西公に見と。是れ失考なり。按に健保元年癸酉、永平十四歳にして落髪、翌年西公に見ゆ。同三年乙亥七月五日西公示寂す。時に永平十六歳なり。餘傳共に正と爲す。

 

一 前傳倶に永平、建仁に止まること六白に作る者は失考なり。按に永平所撰の辨道の話に曰く、建仁の全公を見る。相ひ從ふ霜蕐速に九回を經たりと。蓋し健保乙亥從り貞應二年癸未に至る。是れ永平入宋の年にして、大藏を閲する者は霜蕐九回の中に在るなり。

 

一 道行碑に曰く、明菴禪師の室に入て、始めて臨濟の宗を聞く。今ま禪師に随て海に萬里に航すと。按に明菴西公の示寂、永平入宋の歳に先つこと、凡そ十年なる。

則は禪師に随ふを、改して全公に随ふと改して可なり。今傳、全公に随て入宋とする者は、宋の虞樗か千光祠堂の記及び寶慶記に據る。

 

一 前傳、倶に寧宗の嘉定十六年癸未に天童淨公に見るにする者は太だ誤れり。淨公、天童に住する者は實に理宗の寶慶元年乙酉にして、嘉定癸未に相ひ後ること也た三年矣。然る則は寧宗、淨公を請して天童に遷らんとする者亦、是れに非ず。續通鑑綱目第十八を按るに、曰く嘉定十七年甲申秋き閏八月帝崩しぬ。史彌遠、詔に矯て沂王の子貴誠を立て、名を昀と更むと。(乃ち理宗なり。)正法眼藏鉢盂の巻に曰く、大宋寶慶元年乙酉、先師古佛、天童に住すと、云云。今傳、寶慶元年五月一日、淨公を見るに作る者は、正法眼藏面授の巻を以て所據と爲る。

 

一 前傳多く、永平の得法、寶慶二年に在りと爲る者は非なり。按に正法眼藏佛祖宗禮の巻き及び自餘の秘記等倶に是れ寶慶元年乙酉にして而。(嗣書を得る者は三年丁亥に在り明し。)

 

一 前傳、倶に永平歸朝、安貞元年丁亥に在ると爲る者は非なり。按に辨道話に曰く、大宋紹定の初め本郷に歸ると。然る則は實に二年戊子の春なり。

 

一 繼燈録に興聖開堂の法語を載て、改換し眞を失するなり。恐は傳寫の誤か。覧る者の應に本録を以て證とすべし。

 

一 前來、祖傳を撰する者の宗派を編する者の、大慈寒巖禪師を以て永平の嗣と爲る者往往にして有り。考へざるの甚きなり。大慈の祖堂靈根塔中、法系の牌を立てて、天童・永平・懐奘・徹通・寒巖恁麼の次第、四百餘年前從り直に今日に至る。且つ寒巖、如來寺に在て(肥後州に在り寒巖初開の道場)淨熈に授る所(斯道と號す乃ち寒巖の上足)の嗣書は法鎭と爲て、現に大慈の室中に秘在する者の道元・懐奘・義介・義尹・淨熈恁麼の次第、昭昭明明、日月を掲るが如し。後人縦ひ相似の言句を僞撰して、徹通の嗣子を遮んと欲すと雖も、又、風前の片雲のみ。懐奘生年は永平に先つこと二歳にして、永平に嗣ぎ、寒巖生年は徹通に先つこと二歳にして、徹通に嗣ぐ。前後一轍、偶然ならざるに似たり。但た空蕐の日工集、延寶傳燈録等、將錯、就錯する者のは是れ他派の文字、責るに足らず。洞門の雲仍、覆轍に陷ること莫んば好し。

 

凡例 尾

 


日國洞上初祖永平開山和尚實録

  遠孫肥後州沙門瑞方述

 

師諱は道元、一に曰く希玄、或は曰く希玄は是れ號と。

族姓は源氏京兆の人、人皇六十二代村上天皇九世の苗裔、

内相府通親の子、相國通光の弟。

母は九條の攝政、基房の女(むすめ)なり。

懐孕の時、空中に聲有り曰く、此の兒五百年來の聖人、

將に正法を我が邦に興隆せんとす、故に降生すと。

處胎十有三月、産するに迨て、祥光室に滿ち、奇香氤氳たり。

時に正治二年庚申なり。

日者相して曰く、此の兒凡に非ず。七處平滿、天骨雄偉、眼に重瞳有り。

必ず是れ俊傑ならん。

只だ恐くは父母天年を保つこと能はざらんのみと。

其の冬十月、通親薨ししめ、通光僅に十四歳。

故に母子倶に基房の館に育せ被る。

師、四歳、李巨山が百詠を讀む。

七歳、毛詩左傳を讀む。

此れ自り、一切の經史を閲して師訓を假らず、自ら能く通曉す。

時の名卿鉅公、稱して神童と曰ふ。

八歳、母喪す。

果して日者の言の如し。

師、喪に居て其の孝を盡す。

因て、世相無常の理を觀じて、即ち脱白求法の志有り。

九歳、倶舎論を閲す。

或は、其の旨を問はば則、辯拆流るが如し。

基房、其の氣宇の羣ならざることを察し、嗣子と爲して、

攝家の重職を補んと欲す。

師心、從ふこと無かりき。

十三歳の春、熟々思へらく吾が齢ひ飛騰に近し。

恐くは門族、吾が大志を奪んと、脱然として夜る逃て、

潜に皇城を出て、舅氏の良顯法師に叡山にて謁して、薙染を求む。

顯、愕然として其の端由を問ふ。

師曰く、我が母歿するに埀んとして顧命して曰く、

汝ち出家して父母を度せよと。

願くは母の顧命に隨て、出塵の法を學して、以て罔極を酬ん。

顯、之れを聞て逆はず。

基房も亦た其の覊絆すべかざることを知て、之れを許す。

建保元年夏四月九日、横川の首楞厳院に於て、

天台の座主公圓僧正を禮して鏟髪す。

乃ち登壇納戒、時に十四歳なり。

聰慧絶倫、宿師多く之れに下る。

二年甲戌の春、三井寺の公胤僧正、觀心に粋なりと聞て、

往て法身自性の旨を問ふ。

胤曰く、此の旨幽玄、縦ひ子が爲めに説くも恐くは善を盡くさざらん。

且く去て、佛心宗に問へと。

師乃ち、衣を更て榮西禪師に建仁にて參じて、臨濟宗を扣く。

西、一見深く之れを器とす。

便ち命じて巾瓶に侍せしむ。

三年乙亥秋七月、西示寂す。

乃ち西の嗣、明全禪師に師とし事へて、禪壇の菩薩戒を傳ふ。

相從ふこと九年、且つ大藏を披閲して顯密の奥旨を研究して、

疑滯未だ決せず。

貞應二年癸未の春、明全の入宋に隨逐して、商舶を買ひ、

帆を二月二十有二日に發して、夏四月、岸に明州の界に抵る。

乃ち寧宗の嘉定十六年なり。

五月の初め、師、猶を舶中に在り。

因に一老僧の至るに値ふ。

云く、吾は西蜀人なり、郷を離て四十年、齢已に六十一、

向來粗々、叢林を歴す。

今夏、育王に在て典座に充つ。

明日端五、麵汁を做して、衆に供せんと要す。

特に來て和椹を買ふ。師と問答して去る。

(詳に永平清規上巻に出つ)

師、其の夏中略々宋土の勝概を探り、秋七月天童に登て無際禪師に見ゆ。

際、器許して衆に隨はしむ。

然も其の外域の僧なるを以て、臘序に依らず。新戒に列次す。

師曰く、縦ひ國の大小有るも佛法豈に二有らんや。

法既に無二なれば則ち僧臘、何ぞ差ふ可ん。

佛祖の鴻規明として、日月を超ふ。

臚列の何ぞ是の若く混するや。

時に一衆、喧聒視て猶を蔑如たり。

師、之れを責めて止まず。

衆僉な曰く、前朝、子が邦より來る者、空海最澄、

乃至、子が祖翁榮西の如き亦た然り。

師、竊に歎す。七佛の聖制、人情に陷ること悲き哉。

是に於て、表を禁庭に上る者の三ひ仰て天裁を待つ。

時に帝親ら表を見て數々、叡歎を加ふ。

遂に天童に詔して曰く、倭僧の申る所ろ理有り、宜く僧臘を序て倫差すべしと。

爾より來た師の聲名、中蕐に籍甚たり。

自の後、日國の僧、支那の叢席に入て、戒次紊れざる者は師の功なり。

十七年甲申(日本元仁元年に當る)春る正月二十一日、了然寮に在て、

佛照禪師の堂頭無際禪師に授る所の嗣書を覧る。

尋て宗月首座に請て、雲門派の嗣書を覧る。

師、無際に依ること二歳。

連りに許可を稟くと雖も、未だ究竟と爲さず。

徑山に登て琰浙翁に見ゆ。

琰問ふ、幾く時か此の間に到る。

師曰く、客歳四月。

琰云く、羣に隨て恁麼に來る。

師曰く、羣に隨て恁麼に來らざる時き作麼生。

琰云く、他た是れ、羣に隨て恁麼に來る。

師曰く、既に是れ、羣に隨て恁麼に來る作麼生か是ならん。

琰、一掌して云く者の多口の阿師。

師曰く、多口の阿師は即ち無に不ず作麼生是ならん。

琰云く、且坐喫茶。

又た台州の小翠巖に造て、卓公に見ゆ。

便ち問ふ、如何が是れ佛。

卓云く、殿裏底。

師曰く、既に是れ殿裏底、恁麼と為してか遍河沙。

卓云く、遍河沙。

師曰く、話墮也。

又た、平田に到て、萬年の元鼒(げんし)禪師に謁す。

禮遇見らること殊に渥し。

話、潙仰下の事に及て、鼒自ら所傳の嗣書を出して、

師に與て之れを覧しむ。

師、拜謝して去る。

更に兩浙の諸山を歴て、五家の尊宿、見へざる所無し。

各々問答機縁有り。

師、謂(おもは)く、天下の知識千箇萬箇都盧阿轆轆地、頭脳相似たり。

箇の過量の漢を覓るに、他た無し、只々派無際のみ有て些子に較れり。

將に再び天童に上んと中路、乍ち際已に遷化すと聞て、乃ち止む。

是に於て、鄕國の念數々起て只だ日に東歸の便りを待つに過ぎざるのみ。

時に僧老璡と云う者有り。

師に語て云く、子遠く鯨波に駕し來て大法を求む。

撥艸瞻風、諸名宿に參見す。

所得無きはある可からず矣。

然も人天の導師、一代の宗匠に至ては、則ち長翁淨公、其の人なり。

初志を償んと欲せば、則ち速に甘露門に入んと。

師、璡が言を聽て懽ぶこと也た甚し矣。

寚慶元年乙酉の春(日本嘉禄元年に當る)適々理宗、淨公の道風、

寰宇に溢るを聞て、敕して天童に遷らしむ。

師、乃ち天童に上る。

五月朔日、淨和尚を玅高臺に見る。

和尚目撃して道く、佛佛祖祖面授の法門現成せりと。

師、便ち拜を設く。

和尚、待せ見ること之れ甚だ渥し。

宗端知客、怪て云く、新到甚の長處有てか、和尚の爲に眷顧せる所、是の如くなるや。

和尚曰く、前夜、悟本大師を迎ふと夢む、恐は此の子大師の復肉ならん。

他日、吾が宗、他に依て大に興ん矣。

師乃ち白して言く、道元幼きより菩提心を發し、曽て本國に在て、

諸師を參訪し、經論を繙き、因果を識る。

然も未だ大法を明めず。徒に名相に滞る。

今ま全師に隨て海に萬里に航し、波濤を歴盡して、

和尚の法席に投ずることを得たり。

實に多生の大幸なり。

願は和尚、大慈大悲、道元が不時に入室して法要を咨問せんことを聽許し玉へ。

蓋し生死事大、無常迅速、時は人を待たざるなりと。

和尚、其の誠懇を察し、忻然として之れを許す。

是れ從り相從ふこと三歳、晝夜參請、虚暇有ること無し。

秋七月初二日、入室の次で問て曰く、

今ま諸方、佛祖單傳の正宗を以て、教外別傳と稱す、何の典據か有る。

和尚曰く、佛祖の大道、何ぞ内外に拘ん。

然も此の稱有る者は達磨西來、是れ特に佛祖の正嫡にして、

彼の摩騰等の唯だ經論を傳へ來るに異なるのみ。

一佛乘中、二法有らず。

達磨未到の先き、震旦の佛法、譬ば行李有て其の主無きが如し。

既に來るの後、猶を國民の王を得て、山川人物悉く其の王に歸るが如し。

師、因に雲堂に在て坐す。

和尚巡堂の次で忽ち一禪客の坐睡を責て曰く、

參禪は須く身心脱落すべし、只管打睡して恁麼か爲んと。

師、傍に於て之れを聞て、豁然として大悟す。

直に方丈に上て燒香す。

和尚曰く、燒香の事、作麼生。

師曰く、身心脱落。

和尚曰く、身心脱落、脱落身心。

師曰く、者箇は是れ暫時の伎倆、和尚亂に某甲を印すること莫れ。

和尚曰く、我れ亂に汝を印せず。

師曰く、如何が是れ亂に印せざる底。

和尚曰く、脱落身心。

時に福州の廣平侍者云く、外國の人、恁麼地なることを得たり。

實に細事に非ずと。

師、珍重して出ず。

秋九月十有八日に至て、傳戒嗣法方に畢る。

乃ち系を洞山正宗第一十四世に聯ぬ。

和尚一日、師に語て曰く、世に言ふ大陽嗣を絶すと、大だ惑へり。

大陽の法嗣、投子の前きに在る者の興陽の剖、羅浮の如、雲頂の鵬、

乾明の聰、白馬の喜、福巖の承等の數人。

若し法器に非ず則は大陽甚に因か、洞上の正宗を付ん。

豈に興陽の大陽に先て一一下世せんや。

而も猶を嗣ぐ者無きに由て法遠に託し、以て來者を待つと言ふ。

哂つ可し矣。

但だ中に就て貽厥の餘裕有る者は、其れ唯だ義靑か乎。

然も年し最も少し、速に嗣ぐ則は恐は難有ん。

是を以て法遠に託して證を他家に取る。

其の旨深し矣。

是れ大陽智通明白の致す所なり。

後の僧史を撰する者の典故を剽掠し、先徳を誣謾す。悲む可し。

師一日問て曰く、今日諸名刹の住持を視るに、多く斑斕の衣を著く。

和尚獨り墨衣を著く、未だ知らず孰か是なることを。

和尚曰く、如今、法服の斑にして且つ蕐なるは是れ僧儀の衰たるなり。

諸方、無鼻孔の長老、名利を捨てず、杜撰の禿子と通じて斑衣を著く。

我れ彼に異が爲めに故に著けず。

汝、他日、國に歸て道を弘めば必ずしも我に效は不れ。

自餘の種種の示誨具に別記に載す。

師、偶々江西に行有り。暮に荒村に宿す。

乍ち一虎の馳せ至るに値ふ。

師、拄杖を攛向する。則ち虎、怖畏して去る。

黎明、一童子有り來て云く、師當に急に本國に歸て以て祖道を唱ふべし、

玆に滞ること莫れと。

師問ふ、卿は是れ何人ぞ。

云く、吾れは是れ韋將軍なりと、言ひ訖て見へず。

(韋駄天の事、于重編諸天傳の上巻及び法苑珠林第二十二巻敬佛の篇に見ゆ)

寚慶三年丁亥(日本安貞元年に當る)竆臘、和尚に別を告ぐ。

和尚、付するに、芙蓉楷祖の法衣、寚鏡三昧五位の顯訣

及び嗣書(自賛の頂相)を以てす。

曰く、伱と異域の人なるを以て此等の物を授て、法の信と爲し、

國に歸て化を布き、廣く人天を利せよ。

國王大臣に近くこと莫れ、城邑聚落に居すること莫れ。

只だ須く深山幽谷に住して、一箇半箇を接得して佛祖の慧命を嗣續し、

宗祖の家風を起すべしと。

其の薄暮、佛果の碧巌破關撃節を得て、之れを繕寫す。

雞鳴の後、白衣の神人有り來て助筆す。

未だ明相に到らざるに速に書功を竟ふ。

師、其の姓名を問へば、則云く、吾は是れ日域男女の元神なりと。

倐然として即ち隠る、因て知る白山權現なることを。

(其の書は乃ち一夜碧巌是れなり。今ま現に加州大乘寺の碧巌、室中に在り。)

既に舶を發す。

天寒の飛雪、織が如し。

忽ち異人有て船舷に現じて云く、弟子は是れ招寚七郎大權修理菩薩なり。

師の祖印を佩て本國に還ることを知る。我れ隨て大法を護ん。

師、諾して神、形を隠す。

(劉煦が唐書宣宗本紀に云く、上郎當の辰鹽官の安師に抵て剃度して僧と爲る。會昌五年會諬に至て釋提桓因の祠に詣りて法の興復を祈る。神即ち夢に托して告ぐ、三年後帝位に登ん、自ら勤て法を興すべしと。果して會昌六年武宗崩す。上郎位、大中と改元す。大中元年二月敕して釋提桓因の祠を以て詔して招寚七郎大權修理菩薩と号す。以て廃寺を復し僧尼を度すと云云。又北澗文集に云く、玉几藏す所の眞身舎利は則阿育王の所造八萬四千塔の一なり。乃至共の護塔の神を大權修理菩薩と曰ふと云云。)

又、海風俄に悪くして波濤怒激し、滿船人の色無し。

師、乃ち黙坐して時を移す。

忽ち補陀大士、蓮葉に乘して海面に泛ぶ。

少頃て風波恬如たり、故を以て歸帆恙が無く歳を逾て、

肥の後州河尻の津に著く。

實に本朝安貞二年戊子の孟春なり。(宋の紹定元年に當る。)

乃ち上都に入て建仁寺に寓すること三歳。

寬喜三年辛卯の春、菴を深艸に占て、榻に移す。

偈有り曰く、生死憐む可し雲の變更、迷途覺路夢中に行く、

唯だ一事を留て醒て猶を記す、深艸の閑居夜雨の聲。

天福元年癸巳の春、尼大姉弘誓院正覺等、攸を宇治縣に相て、

大禪苑を構ふ、觀音導利院興聖寚林寺と名く。

即ち師を請して開山第一祖と爲す。

嘉禎二年丙申、殿堂・廊廡・厨庫・三門・凡そ伽藍の有るべき所の者、

悉く皆な僃成す。

冬十月十五日に進院、祝聖上堂曰く、山僧叢林を歴ること多からず、

只だ是れ等閑に天童先師に見て、當下に眼横鼻直なることを認得して、

人に瞞ぜ被れず、便乃ち空手にして郷に還る、所処に一毫も佛法無し、

任運に且く時を延ぶ、朝朝日は東より出で、夜夜月は西に沈む、

雲収て山骨露はれ、雨過て四山低る、畢竟如何、

良久して曰く、三年一閏に逢ふ、雞は五更に向て啼く。

是れ從り毳侶奔湊して水の壑に赴が如し。

懐奘、僧海、慧詮等皆な膝下の神足にして法中の麟鳳なり。

是に由て法席の盛なること諸方に卓冠たり。

天童和尚忌(宋の紹定二年戊子七月十七日に寂す。)

上堂曰く、先師今日精魂して弄す、佛祖の家風扇て雲を起す、

娑婆を悩亂す多少の恨、無明業識兒孫に及ぶ。

仁治二年辛丑の春、瑞嵓の遠公、天童録を贈て至る。

師、喜て上堂し録を捧て曰く、箇は是れ天童■(足孛)跳を打し、

東海を蹈翻して龍魚驚く、清淨の大海衆如何が證明せん、

良久して曰く、海神貴きことを知り、也た價を知て人天に畱在し、

光り夜を照しむ、下座、大衆と三拜す。

由良の覺心、師の化を熾にするを聞て來參して磋磨の功を得、

又、菩薩戒を受く。

寬元元年癸卯に至て、師、寚林に住すること一十餘年。

縉紳貴介車馬駢闐、日に法筵に陪すること、賈客の市に歸が如し。

衆に隨て參請する者、亦た其の幾多と云うことを知らず。

遂に重雲堂の設有り。

是に於て師念く、説法度人、方に是れ恰好、

吾が天童別れに臨て垂誡有り、豈に懐に兢兢せんや、

希ふ所は長く王公を揖し、衣を拂て遠く青山白石の間に入らん、

法喜も亦た少なからず、知らず何の地か之れ好からん、

吾れ其れ行んと矣。

時に於て、公卿大臣、卓錫の地を施して、師を延く者の十有餘人。

後に波多野雲州の刺史義重、勝地を越の志比に得て、師を請す。

師曰く、何そ言ふことの晩き、吾が淨和尚の郷貫は越上なり。

吾れ越に於て、名を聞くも尚を慕ふと。

乃ち瓶錫、身に隨て、決然として寶林を出つ。

時に秋七月十六日なり。

其の下旬、志比に到る。

義重遽に山阿就いて一菴を締て寓せしむ。

居、未だ幾くならずに、四方の衲僧麏が如くに至る。

二年甲辰義重、大佛寺を剏む。

秋七月十八日進院開堂、其の叢規一に天童に則る。

扶桑禪林の規範、師に至て、集めて大成する者、

叢林清規の由て就る所以なり。

此の日、山神出現、瑞氣霞然たり。

因て山を號して吉祥と云ふ。

四年丙午夏六月十五日、大佛寺を改て、永平寺と云ふ。

蓋し漢の永平中に佛法始て中國に至る。

而今、洞上の正宗、始て東に傳ふ。

故に其の暦號を擧て、以て寺に名く。

上堂曰く、天、道有て以て高く清めり、地、道有て以て厚く寧し、

人、道有て以て安穩なり、所以世尊降生一手天を指し、一手地を指して、

周行七歩し曰く、天上天下唯我獨尊と、世尊道有り、

然も恁麼なりと雖も、山僧道有り、大家證明せよ、

良久云く、天上天下當處永平。

(紀年録、永平の寺号を以て、奈我比羅と訓して檀那の名に取るを爲する者は非なり。義雲和尚、本山の鐘の銘を作て、夫れ永平は震旦佛法東漸の暦号にして扶桑創建の祖蹤なりと云ふは則ち知ぬ、檀那の名に非りを。)

源の亞相上堂、永平が拄杖一枝の梅、天暦年中に植種し來る、

五葉の聯芳今未だ舊りず、根莖果實、誠に悠なる哉。

上堂、正法眼藏涅槃玅心、是れ佛佛の所護念と雖ども、

佛法の爲めに汚染す所ならず、羅漢を正傳せしめんと雖も、

聲聞の法に堕せず、凡夫を正傳せしめんと雖も、衆生の法に堕せず。

若し斯の如く不んば、豈に今日に到らんや。

甚と爲めか是の如くなる。

大衆、者箇の關棙子を委悉せんと要すや、也た否や。

良久曰く、三更月落て夜巣寒し、瓊林には宿せず千年の鶴。

臘八上堂、日本國先代曽て佛生會、佛涅槃會を傳ふ。

然れども未だ曽て佛成道會を行ふは傳へず。

永平始て傳て已に二十年、自今已後盡未來際傳て行ずべし。

良久曰く、十方世界、光明を蒙り、一切衆生佛説聞く、

拄杖袈裟共に笑忻、僧堂佛殿鉢盂悦ふと。

凡そ日國の諸山、上堂小參及び佛成道會を行ふ者は

師を以て最初と爲すなり。

後嵳峩帝、師の道譽を聽て、賜ふに紫衣徴號を以てす。

師、再三力して辭れども許さざる。

即ち之れを高閣に奉じて、身を終まて體に挂けず。

偈を上て叡恩を謝す、帝増々欽慕を加ふ。

寚治元年丁未秋八月、鎌倉の副元帥平の時頼の懇請に應じて、

相陽に赴く。

時頼、弟子の禮を執て旦夕道を問ひ、菩薩戒を受く。

敬崇日に熾にして東方の緇白、踵を繼で來謁す。

宋の隆蘭渓、東渡して筑の博多に寓す。

師の高風を聞て書を致す。

其の畧に云く、金風普く扇ぎ玉宇高寒、恭く惟れば名刹を坐鎭し人天を警悟す。或る日、某僧、和尚の法語并に偈頌等を出し示す。棒て之れを讀むこと再三、恍として面晤の若し、路隔と雖も大光朙藏中了ゆ、間隔無し。春暮舟に附て博多に抵る。聞くに近年深山窮谷に遷り、此の道を以て後昆を開示して、朱門豪戸と友たることを欲せずと。上古の風規を存ることを見つべし。人をして攀企已まさらしむと。云云。

師の答書に曰く、今年八月檀越に勾引せ被れて、忽ち相州鎌倉郡に到る。東西山川二千餘里、風に嚮ふの至り一日三秋、承り聞く和尚既に王城に到ると、時の運なり。人の幸いなり。超超たる萬里海に航して來る。普通遠年の儀に一如すと、云云。

師、淹畱して春に至る。

驚蟄を聞て偈有り、曰く、半年飯を喫す白衣舎、老樹の梅花霜雪の中、驚蟄一聲霹靂を轟す、帝都の春色小桃紅ならん。

時頼、伽藍を建て請すれども就かず。

二年戊申の春三月、錫を牽て越に還る。

是に於て、時頼、越の六條の堡を抜て、山厨に充つ、師、受けず。

時に永平の元明首座、鎌倉に在り。

時頼、明が越に還るに便りしめ、以て寄附の帖を囑す。

明、帖を齋て相州を出つ、竟路太た驩ふ。蓋し常住の豐饒を樂也。

山に抵て乃ち之れを出して、衆中に慶耀す。

師、之れを聽て曰く、嗟(あ)乎陋し者の漢、一片の利心、八識田中に落て、

油の麵に入るが如し。永劫にも除くべからず。

又、恐は辱を大法に貽んと。急に擯して山を迩ひ出し、加旃す。

僧堂の其の單を捲卻し、其の榻を斷取し、其の地を掘ること七尺。

蓋し穢を去るなり。

本州に妬婦有り、凶て毒虵と成りて、池中に出沒す。

山民悩む爲に、師憐て戒を授け血脈を池中に投ず。

當時謝禮感慈して天に生ず。

(今ま吉祥山中に血脈池有り、乃ち其の遺蹤なり)

建長元年己酉の春正月、羅漢供會を立す。

其の勧請の時に及て、應眞、光を放て長松の上に降臨す。

人皆な未曾有の勝會なりと感歎す。

又、菩薩戒の大布薩を行ふ。規式厳粛見聞信順す。

二年庚戌、義重、大藏經を繕寫して、之れを本山に納む。

師、上堂して謝す。

四年壬子の夏、遺教經を講す。

預め前途の促迫することを知て、是の講有る者は、

如來最後の埀範に擬するなり。

五年癸丑の夏、微恙を示す。

王公親族使を遣しめ之れを迎ふ。

秋八月五日、駕に命して洛に入り、西の洞院に館す。

十五夜、月に對して和歌を詠して曰く、

莫多蜜武登於茂委思登幾能阿幾朶膩茂古搖伊能都機爾禰羅禮也和須畱

(マタミントヲモヒシトキノアキタニモコヨイノツキニ子ラレヤワスル)、

人口に膾炙す。

是れに由て諸方逆め知る、師の將に示寂せんとすることを。

緇素奔走、瞻禮虚晷無し。

師、眞慈を一にして機に隨て化を設く。

帝、官醫を使して病を眎せしめるに、語笑平時の如し。

二十八日の夜、沐浴し衣を整て、筆を索めて偈を書して曰く、

五十四年、第一天を照す、箇の■(足孛)跳を打して、大千を觸破す、

咦、渾身著るに處無し、活ら黄泉に陷ると。

筆を投じて怡然として坐化す。

朝野、訃を聞て哭慟せざる者無し。

即ち龕を寚林に遷し、畱ること三日。顔貌、生るが如し。

室に異香有り、闍維して駄都を得ること無數。

秋九月五日門人、靈骨を收めて、永平寺に塔す。

名て承陽と曰く。

閲世五十有四、法臘四十有一。

嘗て正法眼蔵、叢林清規、學道用心集等を著す。

又た、語録若干巻有り。

文永の初め(滅後十一年に當る)曾孫寒巖の伊、之れを攜て入宋、

瑞巌無外の遠、序跋を作る。見易して、識し難きことを歎す。

靈隠退耕の寧、徑山虚堂の愚、倶に跋を作る。

或は巨海の變を以て之れを稱し、或は超師の作を以て之れを贊す。

其の中蕐の名匠の爲に重せらるる所、此の如し。

(又、數厳の贋書の名を師に託して世に流行する者有り。

覧り者應に之れを辨すべし。)

蓋し師、生平許可を重んず。

故に嗣法の弟子、僅かに懐奘、僧海、詮慧、尼了然

(法明と號す高麗國の人、久しく師に參じ得法の後、羽州の玉泉に住す。本録中、示す所の法語二篇有り)、四人のみ。

自餘の剃度、三百人に餘る。

其の歸依得戒の者に至ては、則ち算數も得べからざるなり。

鳴呼、師、大悲の願輪に乘じて、來て法の檀度と爲る。

道徳、主上幕下を動し、聲譽、日國振丹に震ふ。

其の逸格高風、翰墨の得て名邈する所に非ず焉。

行業事録の如きも、亦徧く觀て盡く識ること能わず。

故に今ま前傳に就いて、繁を芟り、欠を補ひ、實を考へ、

譌を正し、略々梗既を紀するのみ。

伏して冀は大恩海の一滴に酬ん者なり。

 

惟れ時、寶永第七龍、庚寅(1710)に飛る中秋二十八日焚香九拜して

謹で洛北鷹峰復古堂の侍者寮に識す。

 


(巻尾「跋」)

書永平實録尾(永平實録の尾に書す)

 

夫れ語、十成を忌み、敢て諱を犯さざる者のは、但だ語句の回互のみに大。凡そ門庭の行事も亦復是の如し。是れ洞門護法の深志なり。譬ば富家の財を護することを知らずして、受用、度無き、則は富み一世に畱て子孫飢凍毫も餘慶の屋を潤す可き無が如し。我が永平高祖、蕐冑の家より出て、大法王と爲る。興聖開堂以後滿朝の朱紫往來憧憧として參禪問道、容るる所無きに及て、遂に重雲堂の設け有り。謂つ可し、光前絶後と。若し是の如にして止らざる。則は禪を簾前に演へ、勢を炙手に領して、大法の富貴、一世に畱る者の知ぬ可し。然れども永平、常に天童の誡約を忘れず。急流勇退、閙中に身を抽て、俄に北越の山中に隱る。是れ十成を忌み諱を犯さざる。護法綿密、慶を子孫に餘すの眞慈遠く謀り全く、他家閙熱の企て及ぶ所に非ず。思て此に恩大にして酬ひ難し。雲居の居山好に比して、青は藍より過きたり。興善の大好山に擬して、氷は水より冷なり。是の故に、法派汪洋、六十餘州に流通して、永平を以て上祖と爲る者の二萬餘寺。其の中大小の寺院、或は千餘指、或は五百餘指、乃至二三十衆、首を處處の僧堂に聚て、香枝の紅を守り、手を人人の心頭に著て、鼻端の白を擧揚して祖風を凝し、故家を忘れず。寸陰是れ惜み、己事を究めんと欲す者の枚擧に遑き不る。則は中蕐日國、祖有てより以來、永平より盛なるは莫く、而して錬虎關、釋書を撰して、永平の略傳を載せ、係るに贊を以てして云く、元の化、北地に播て、中土に及ばざる、遺意無きことあたわずと。錬公、是の如し。予が見る所は爾らず。永平の永平爲る、單に其の化、中土に及ばずして、北地に隱るに在り。若し其れ化長く、中土に行れて北地に隱れざる。則は今古の兒孫盡く中土に集て、王公大人の談友と成り、或は權貴の車塵を望て、涎れを埀れて匍匍せんのみ。若し唯恁麼ならば、甚の好永平か有らんや。隆蘭溪來朝、博多に在て、先ず書を永平に致す。其の略に云く、聞く近年、深山竆谷に遷り、此の道を以て、後昆を開示して、朱門豪戸と友たることを欲せずと。上古の風規を存ることを見つ可し。人を使して攀企已ま不ら使むと。錬公、若し此の書を見は、遺意無きこと能はざると言ふべからず。然も隆公の言ふ所、是れ猶を永平の上古の風規を存することを、未だ兒孫の爲めに福を惜む底の深意に到らず。恰も、靴を隔てて療りを抓が如くに相ひ似て一般なり。我れ今ま忍俊不禁口角吧吧地にして、休せず。猶を舌頭の短きを恨るなり。且つ諸家、撰する所の永平傳中、始終の履歴年月の相ひ違する者の最も多して、行事の跡と雖も之に隨て蹉過する。則は恨み無きこと能わず。而今、方子が此の巻中、直に永平の言を以て、永平の跡を證する、則明歴歴地、又た誰か氷を聴んや。其の梓行するに及て前言の滔滔たる。之を巻尾に附して、以て護法の微忱を泄すと。爾か云ふ。

 寶永庚寅(1710)朧月穀旦

  復古老人卍山白杜多和南撰 印 印 印

 

 正徳元辛卯(1711)歳仲夏穀旦

  洛陽教業坊書林

  林傳左衛門敬刻