天童如浄禅師行録

 

天童如淨禪師行録

 

この「天童如浄禅師行録並序」は弘津説三編輯の「承陽大師御傳記(全)」(明治34年6月17日・鴻盟社発行)巻末に「承陽大師御傳記附録」として掲載されているもので、面山瑞方撰述の「天童如淨禪師行録」を転載したもの。

  承陽大師御傳記 全
  承陽大師御傳記 全


 

【天童如浄】

 

諱は如浄、在世自ら道號称せず、然し人は頎然として豪爽な、その人となりから浄長と呼ぶ。明州葦江の出身で、趙宋の隆興元年(1163)癸未七月七日に生まれる。出家の後、経論を学び、19歳で経論を捨て、あまねく諸方の叢林を経て、後、雪竇足菴鑑和尚(雪竇智鑑)に参ず。智鑑曰く「曾て染汚せず、箇の什麼をか淨めん、若し道得は汝に淨頭を許さん」と。且して智鑑、さらに同問して「便ち打つ」と、如浄、豁然として大悟し、淨頭となる。其の後、江湖に游泳すること二十餘年。嘉定三年(1210)庚子、如浄、四十八歳の時、華蔵褒忠禪寺に於て請を受け、建康府の清涼寺に住職す。また移りて台州の瑞岩淨土禪寺、臨安府南山淨慈報恩光孝禪寺、明州の定海縣瑞岩寺を歴住し、再び淨慈寺に住す。寶慶元年(1225)乙酉、六十三歳、勅により明州太白名山天童景徳禪寺の住職となる。(一説、嘉定17年《1224》天童山景徳寺の住職となる。)同年五月朔日、道元禅師初て妙高臺に上って、如浄禅師に見ゆ。道元禅師、如浄禅師のもとで大悟す。「師、因に一禪衲の坐睡を責て曰く、參禪は須く身心脱落なるべし、、只管に打睡して什麼を爲すに堪ん、。永祖傍に在て之を聞て、豁然として大悟し、乃ち方丈に上て燒香す、師云く燒香の事、作麼生、永祖云く、身心脱落、師曰く、身心脱落、脱落身心、永祖云く、者箇は是れ暫時の伎倆、和尚妄りに某甲を印すること莫れ、師曰く、吾妄りに汝を印せず、永祖云く、如何か是れ妄りに印せざる底、師曰く、脱落身心、永祖禮拜して退く。」さらに如浄禅師より、芙蓉楷祖の法衣、及び竹篦白拂、自賛頂相、宝鏡三昧、五位顯訣、佛祖正傳嗣書等を授かる。紹定元年(1228)戊子七月十七日(日本安貞二年)入寂。六十六歳。遺偈、「六十六年 罪犯彌天 打箇◆(足+孛)跳 活陥黄泉 咦」。尚、藏骨の處は南谷菴と號す。

 



  天童如浄禅師行録-1
天童如浄禅師行録-1

 

 

天童如浄禅師行録 並 序


  遠孫 面山瑞方 謹撰

 

古に言く、身歿して名垂ことは、先哲の韙とする所、行は號を以て彰れ、徳は述を以て美はし、所以に、歴世、史有り、我が法中も亦爾り、本行集経、付法藏傳の澆季に烜赫たる所以なり、乃ち支那に到ては則ち高僧傳、傳燈録有り、爾来、僧史續出す焉、時移り地隔り、其の先徳を今日に見るが如くなることを得るは、豈に因縁の一大幸に非らざらんや、然れども後世の作者、必ずしも薫狐に非ず、私案僻説、額を蹙(せまる)こと頗る多し、趙宋以来、我が洞上の祖傳、皆他派の手に出でて、訛畧少なからず、大休足菴長翁浄祖に至ては、則ち示寂の歳月尚記せず、況んや行實に於いてをや、法裔為る者、以て憾とすべし、但だ浄祖の如くは永平祖師入宋して親しく宗旨を承け、昔、見聞する所の行實、往々之を遺語に見る、以て徵と爲に足れり、此に由て今之を採拾し、次いで之を序し、謹んで行實を述す、亦、已ことを獲ず也、伏して冀は、眞慈大圓鏡中、霊光を吝(おし)まずして照鑑せんことを恭く惟は、

 


  天童如浄禅師行録-2
天童如浄禅師行録-2

 

祖師諱は如浄、在世自ら道號称せず、其の人爲りや、頎然として豪爽、是の故に當時の叢林、號して淨長と曰ふ、玆を用て後來、傳を爲る者も亦随て淨長と呼ぶ也、越上の人事、未だ族姓を考えず、母、山神兒を授と夢て孕めり、趙宋の隆興元年(注1)癸未七月七日を以て産る焉、其の襁褓に在るや、岐嶷常童に類せず、出家の後、勤めて經論を学び、齢十九に到て之を棄て、直に雪竇足菴鑑和尚(注2)に参ず、鑑問う汝名は什麼ぞ、師云く如淨、鑑曰く曾て染汚せず、箇の什麼をか淨めん、師、措くこと莫し、師或時、鑑に曰して言く、願は乞う某甲淨頭に充よ、鑑曰く曾て染汚せず、箇の什麼をか淨めん、若し道得は汝に淨頭を許さん、師復た措くこと莫し、數月を経て、鑑因に師を室内に召して、問うて曰く、前来の一拶道ひ得や未しや、師擬議す、鑑大に叱出す、是の如く激發すること數番、師一日忽ち方丈に上り鑑に白して言く、某甲道ひ得り、鑑曰く、縦ひ臼窠を脱するも即ち便宜に落つ、如何か道ひ得ん、師進語せんと擬す、鑑、便ち打つ、師、豁然として大悟し、連聲に叫て云く、某甲道ひ得り、某甲道ひ得り、鑑微笑して、即ち請して淨頭に充つ、其の後江湖に游泳すること二十餘年、嘉定三年(注3)庚子、師歳四十有八、華蔵褒忠禪寺に於て、請を受け、建康府の清涼寺に住す、十月初五日進山す、山門を指して云く、程途を截断して直に來る、乾坤洞徹して此の門開く、左邊に拍兮、

 


  天童如浄禅師行録-3
天童如浄禅師行録-3

 

右邊に吹く、關棙を倒翻して風雷を起す、佛殿を指して云く、殿を開て佛を見る、眼中の毒刺、咄、刺を抜却して、禮拝燒香、顛倒鈍置、方丈に踞(うずくま)り云く、達磨の眼睛を抉(えぐ)り出して、泥団子と作して人を打す、“高聲云く”看よ、海枯て底に徹過す、波浪天を拍して高し、法座前に至り帖を拈じて、筆頭禿盡して一毫通ず、至治寥寥たり、静極の中、帖を挙して云く、看よ、風雲を點起して、號令を傳え、雷霆墨を潑で、綱宗を振しむ、共に相證據す底有ること莫や、切に忌む耳を側ことを、請疏を拈じて云く、瞿曇の頂骨、夫子の眼睛、両彩一賽、玉振ひ金聲る、法座を指して云く、大地平沈、此の座高廣、千變萬化して、功無く賞を受く、衣を歛け座に就く、乃云く、露柱懐胎、忽然として爆裂す、無孔の鐵槌を突出して、歴劫都盧敗缺す、直に得り金粟大士、玉麟堂を陞る、親く毛錐子上に從い、一陣の業風を吹く、其れをして水牯牛と變作し、徹顛徹狂、東撑西撑、南倒北擂せ使む、未だ免れず、太平の水草を犯し、清涼の田地を破り、深く荊棘を栽へ、偏く蒺蔾を布ことを、此れを以て臨済の命根を断つ、此れを以て衲僧の眼目を瞎す、手を以て膝を拍して云く、叱叱、この畜生、驢腮馬頷相勾引して、閻浮を悩乱して人を笑殺す、與麼なりと雖も、畢竟功何れの處にか帰す、總て吾が皇聖化の中に在り、復た擧す、三聖道く、我れ人に逢うは則便ち出ん、出れば則ち人の為めにせず、興化云く、我人に逢うは則便ち出ず、出ては則

 


  天童如浄禅師行録-4
天童如浄禅師行録-4

 

便ち人の為にせん、此の両則の公案、衲僧を験盡す、着眼を爲し難し、忽ち我が大檀那建康府主に、等閑に覷破して清涼に擧似せ被む、謂う可きか龍吟すれば雲起こり、虎嘯(うそぶく)は風生ずと、未だ免れず、尚書の鼻孔を借り、叢林の爲に気を出すことを、箇の口號有り、諸人に擧似す、一擧首めて登る龍虎の榜、太平親く到る鳳凰の池、全生全殺、言像を超え、更に機先に透る向上の機、衆寮を建てて上堂す、喝一喝、大地平沈、徧く黄金を布く、虚空透闊、高く栴檀を架す、稀として馬厩に依り、牛欄に彷彿たり、鶻眼鷹晴、看ることを許さず、所以に無功の功を立て、不賞の賞を受く、鐵漢痛く抜毛し、金剛齊しく合掌す、風吹き雨打す日頭サラス、坐臥経行相慶快、咄と、移りて台州の瑞岩淨土禪寺に住す、山門を指して云く、曾て歩を動ぜずして天台に上り、金鎖玄関盡く豁開す、坐断す輓峯第一句、萬機倶に透て風雷を起す、方丈に踞て云は、飢來れは喫飯し、困來れば打眠す、爐鞴天に亘り、鉗鎚を透す底有ること莫や、咄、倒退三千、法座を指して云く、大地を平沈して、高く虚空に出、機先に坐断して、遊戲神通、須彌燈王、下風に立つ、 《提綱遺落》 上堂、今朝九月初一、打板普請して坐禪す、第一切に忌む豁睡することを、直下猛烈を先と為し、忽然として漆桶を爆破すれば、豁如として雲秋天に散じ、劈脊の棒迸胸の拳、晝夜方に纔も眠るべからず、虚空消殞して更に

 


  天童如浄禅師行録-5
天童如浄禅師行録-5

 

消殞す、透出す、威音未朕の前、咦、栗棘金圏恣(ほしいまま)に交袞す、凱歌高く賀して風顚に徹す、住すること未だ幾くならず、歳を逾て淨慈の勅請有り、乃ち退院す、上堂云く、半年飯を喫して輓峯に坐す、鎖断す煙雲の千萬重、忽地一聲霹靂、轟く、帝鄕の春色杏花紅なり、便ち移て臨安府南山淨慈報恩光孝禪寺に住す、山門を指して云く、淨慈門下、牛欄馬厩、一拶に透關して、宇宙を豁開す、咦、切に忌む風を追い影を捕ことを、法座前に至て、香を焚き恩を謝して、勅黃を捧て云く、黄金殿上の一轉語、烜爀たる紅輪萬方を照す、草木叢林正覺を成し、磚頭礫、毫光を放つ、勅黃を擧して云く、看よ、恩大にして酬い難し、衣を歛て座に就く、乃ち云く、千差を裁断して、一著を單提す、那辺、亀毛を放下し、者裡、兎角を拈起す、咦、歓喜妙楼閣を敲開すれは、瑞靄祥雲、碧落に充つ、轉じて梅花爛熳の看に入る、春風撼動す玉欄干、所以に、人天普く會し、佛祖透関す、大機を發し大用を顯す、鐵鎚、隊に混して骨毛寒し、正當恁麼の時、衲僧の鼻孔、切に忌む相瞞することを、畢竟如何ん、四海五湖皇化の裏、太平、象無く來端有り、復た擧す、僧趙州に問う、如何なるか是れ大道、州云く、大道、長安に通ず、今則大家、者裡に到る、大衆且く道へ、理事相應じて、什ん麼の語をか着得せん、還て委悉すや麼や、四五千條花柳の巷、二三萬座管

 


  天童如浄禅師行録-6
天童如浄禅師行録-6

 

絃の樓、中宮銭を賜て、祝聖の水陸會を建つ、陞座云く、佛祖根を同し、寂然として動ぜず、乾坤徳を合す、感しめ遂に通ず、十方三世の寰區、億萬斯年の景運、巍々乎として自化し、蕩々乎として無爲なり、當今雨順ひ風祥に、時清め道泰かなり、所以に、三軍歌笑し、萬姓歓呼す、乃至草木昆蟲、塵沙瓦礫、盡く正慧を開き、皆悉く朝宗す、且く道へ、林下の臣僧如何が擧唱せん、還て相委悉麼すや、長く日月を將て天眼と爲す、須彌を指點して壽山と作す、復た擧す、僧、古徳に問う、如何が是れ佛、答て云く、殿裏底、師云く、大衆還て知るや麼や、大海は汪洋、須彌は突兀、現在の説法、不思議、稽首す光明最も奇特、方丈を建る偈云く、方々一丈の牯牛欄、佛祖驅來て透関を要す、聊か眉毛を借て相架搆す、天を遮り地を蓋て黒漫漫、退席の後、請に依り明州の定海縣の瑞岩寺に住す、山門を指して云く、回避するに門無し、此の門大に開く、且く道へ如何が進歩せん、家私都て脱盡して、平白に風雷を起す、佛殿を指して云く、黄金の妙相、著衣喫飯、我に因て汝を禮す、早く眠り晏く起く、咦、談玄談妙太た端無し、切に忌む拈花して自熱瞞することを、法座に據て云く、舞衫歌扇、華皷拍板、總に是れ者箇、戯棚の賣弄、許(そこは)多くの伎倆、咦、任他れ千聖出頭し來て、下風に立在して高く眼を著ことを、法幢を建て宗旨を立つ、明々たる佛

 


  天童如浄禅師行録-7
天童如浄禅師行録-7

 

勅曹溪是なり、拂子を擧して云く、法幢已に建て宗旨已に立す、且く道へ、如何が是れ曹溪の佛勅、還て相ひ委悉すや、麼や、太平、有道を歌い、萬化、無爲を樂す、庭前柏樹子の話を擧し、了て曰く、西來の祖意、庭前の柏、鼻孔寥々眼睛に對す、落地の枯枝纔に□(足+孛)跳すれば、松羅の亮隔笑惞騰、再び淨慈の勅請有り、因て退院上堂云く、瑞岩一隻の破木靴、幾く箇か挽き來て盡く拕せんと要す、唯老僧のみ有て能く踢脱、門を出れば、赤脚笑い呵々、直に淨慈に赴く、山門を指して云く、淨慈屋裡の門、淨慈屋裡に開く、昔日、淨慈曾て此に去り、淨慈此に從り又還り來る、且く道へ、如何が進歩せん、咦、、淨慈の關棙、風雷を袞す、佛殿を指して云く、大に此の殿を開き、靦面一見す、合に作麼生、眼裡に釘を抽て、腦後に箭を抜く、本來無象、機變に通す、方丈に踞して云く、維摩の方丈を坐断して、閻羅の地獄を発露す、相見底有ること莫や麼、千古萬古黒漫々、劒樹刀山轉轆々、法座の前に至て、香を焚き恩を謝し、勅黄を捧て云く、當天の一句、萬機顯露す、呈起して云く、看よ、衲僧頂戴奉行することを、鼻孔機先に證據す、法座を指して云く、淨慈法座、木頭一棚、橫撑堅撑、黑漆光生す、衣を歛しめ座に就き、乃ち拂子を以て、禪床の左邊を撃て云く、者箇は是れ主、右邊を撃て云く、者箇は是れ賓、大衆昔主中に從り去を以て賓となり、今

 


  天童如浄禅師行録-8
天童如浄禅師行録-8

 

日、賓中從り來を而も主と爲る、還を知るや麼、去來無間笑忻々、元と是れ南山の舊主人、拂子を以て圓相を打して云く、面目分明、復た拂子を擧して云く、者裡に向い變し去れりや、牛頭は角を載せ、馬脚は蹄を踏む、雲は龍に從り、風は虎に從る、萬象軒騰して、森羅舞を作す、謂る所、人天の眼目を瞎して、眼目開明し、佛祖の門庭を破り、門庭振耀することを、皇都の花錦を毗賛し、太古の風光を発揮し、普く群機に應して聊か時節に随侍し、若し衲僧の向上に約せば、未だ曾て親近せず、早く大千を隔て、太虚を耕破して、一钁を消(もちい)ず、直饒(たとい)恁麼なるも猶を草窠に落ち、向下文長し、如ずんば且く置くには、只知恩報恩の一句の如くは又作麼生、四海五湖、鏡に似て明らかなり、太平、象無く堯天を賀す、復た擧す、古來両人の尊宿有り、一人云く、我、人に逢ては則ち出ず、出れば則便ち人の為にす、一人云く、我人に逢ては則ち出つ、出れば則便ち人の為にせず、淨慈、両人の尊宿を借り、箇の檐子を作して、肩上に擔在して、四海五湖の衲子をして遞代相傳せ令めんと要す、恁麼の擔、之を佛祖を荷擔すと謂ふ、且く道へ、淨慈只今作麼生、擔ひ來、擔ひ去て又、擔ひ來る、風光を憾動して九垓に透る、時に無際の了派、天童に寂す、遺書、淨慈に到る、師上堂云く、萬派朝宗して一派に収む、清を揚げ、濁を激して幾か秋を経、忽然として到底都て乾却す、露柱灯籠笑て休せず、且く道へ箇の什麼をか笑わん、下座して

 


  天童如浄禅師行録-9
天童如浄禅師行録-9

 

同く霊几に詣して、法供養を羞めん、乃ち淨慈を退て、天童に赴く、上堂、挂杖を拈じて云く、衲僧の挂杖子、漫々して黑きこと煙に似たり、西湖九箇月、悪むべし亦憐むに堪り、
挂杖を卓して云く、忽然として鄞江を飛過し去る、滄溟を攪動して浪、天を拍つ、寶慶元年(注4)乙酉、師歳六十有三、勅を奉して明州太白名山天童景徳禪寺に住す、山門に到て云く、天童の大解脱門豁開す、衲僧の自己乾坤を透し、表裡無し、然りと雖も萬古清風八面より來る、前樓後閣玲瓏として起る、佛殿に到り云く、黄金妙相、驢腮馬觜、咦、、賊は是れ小人、智、君子を過ぐ、方丈に到り云く、横一丈堅一丈、文珠維摩壁を隔てて痒を抓く、挂杖を卓して云く、盡大地の人、釣ずして自ら上る、法座前に至て、香を焚き恩を報じて勅黄を捧げ衆に示して云く、雲、九天に開き呈起して云く、看よ、彩鳳銜で出つ、且く道へ如何が委悉せん、急々如律令の勅、法座を指して云く、爐炭を牀と爲し、鑊湯を座と爲し、口、黒煙を吐く、彌天の罪過、衣を歛け座に就て云く、問有り答有り、屎尿狼藉、問無く答無し、雷霆霹靂、是に於て眉毛慶快し、鼻孔軒昻たり、直に得たり大地平沈、虚空迸裂することを、正當恁麼、且く宏智古佛と相見せん、拂子を擧して云く、相見已に了る、何事をか談すべき、從前の汗馬人無しを識る、只、要す重て蓋代の功を論すことを、然りと雖も知恩報恩の一句如何ん、四海

 


  天童如浄禅師行録-10
天童如浄禅師行録-10

 

浪平にして龍の睡穏に、九天雲淨めて鶴、空を摩す、復た擧す、僧、百丈に問う如何が是れ奇特の事、百丈云く獨座大雄峯、師云く、大衆、動着するを得ず、且く者の漢を坐殺せしめよ、今日忽ち人有り淨上座に問は如何が是れ奇特の事と問は、只他に向て道ん、甚の奇特か有ん、畢竟如何ん、淨慈の鉢盂天童に移過して喫飯と、當晩小参に云く、淨慈の牛欄を跳出して、太白の馬廐に撞入す、一團の罪業黑漫々、風吹き日炙り天薫して臭し、恁麼に見得すれば、今夜小参答話せず、賊を引て界に入る、界に入る底有ること莫や麼、牙劔樹の如く、口、血盆に似り、霹靂雷電、尤も紹續し難し、且く道へ如何が紹續せん、佛殿に東司を掘り、懽喜して地獄に入る、其れ或は未だ然らざれば、疥狗生天を願わず、却て雲中の白鶴を笑う、擧す僧、當山の啓禪師に問う、學人卓卓として上來す、請ふ師的々、啓云く、我が者裡一屙して便ち了す、甚麼の卓卓的々か有ん、師云く、大衆好箇の一屙便了、只是れ雷聲洪大にして、雨點全く無し、且く合に作麼生、一棒に打飜して連底脱す、太平、象無く山歌を唱う、新に妙嚴を建て 《天童の衆寮》 慶讃の陞座に云く、多年の老鼠窠を推倒、平地を掃空して笑呵々、空從り架起して頭角を生し、驢牛を蓋覆して多ことを厭ず、今朝大縁を成就し、千古大事を発揮す、且く道へ如何、斫額任他門外の客、家に到ことは我が箇中の人に還す、

 


  天童如浄禅師行録-11
天童如浄禅師行録-11

 

復擧す、文殊、無着に問う、近離甚麼の處ぞ、着云く、南方、殊云く、南方佛法如何か住持す、着云く、末法の比丘少かに戒律を奉ず、殊云く、多少の衆ぞ、着云く、或は三百或は五百、殊云く、春風勾引して鷓鴣啼く、着、文殊に問う、此の間の佛法如何か住持す、殊云く、凡聖同居、龍蛇混雑す、着云く、多少の衆ぞ、殊云く、前三三後三三、師云く、平地の波瀾、鐵船を鈎す者の兩轉語、諸方とに眉毛厮ひ結ことを要す、更に兩轉語有り、諸方のために點眼せんと要す、或は三百或は五百、銅銭鐵銭省數足陌、前三三後三三、蘿蔔芋嬭、淺く貯へ滿を憺ふ、諸方忽然として眼開は、決定手を拍して大笑せん、箇の什麼をか笑ん、巴人は笑ずは、便ち杜撰を笑ん、然りと雖も笑う者、還て稀なり、忽ち人有りて天童に多少の衆ぞと問は、但し他に向て道ん、新に妙嚴を起して第一と誇る、一齋都て畫圖の中に在り、師常に容易に雲水の掛搭を許さず、且つ謂く無道心慣頭、我が箇裡に不可なり也と、便ち逐出す、出了を謂く、是れ一本分の人にあらず、什麼を作すを要す、此の如き狗子騒人は掛塔不得、一日智愚 虚堂 來參す、師問て云く、汝還て處生の父母通身紅爛して荊棘林中に在ることを知るや麼、愚云く、好事匇忙に在らず、師便ち一堂を與ふ、愚、兩手を展開して云く、且く緩々、師乃ち休す、此の歳五月朔日、永平祖師初て

 


  天童如浄禅師行録-12
天童如浄禅師行録-12

 

妙高臺に登て、 《天童寝堂》 師に見ゆ、師、永祖の到を見て便ち云く、佛々祖々面授の法門現成すと、永祖便ち燒香禮拜す、終に堂奥を許す、師、常日黄昏の坐禪は、必ず二更の三點に到りて休す、後夜は四更の二點從り坐す、懈弛有ること無し、時に衆僧の睡有を見ては、則ち拳を以て之を打つ、或は履を以て之を打て恥かしむ焉、尚を眠る者有は、則ち忽ち行者に命して、照堂の鐘を鳴しむ、燭を照して普説し、且つ示して云く、汝等何ん爲れそ噇眠して虚く光陰を度るや耶、世間の帝皇百官、誰か其の身を安逸にする者有や耶、君と爲ては帝道を務め、臣と爲ては忠節を奉す、乃至農家は春耕に苦み秋穫の辛し、四民未だ一人の安逸以て世を度る者有らず、今汝等民を迯れて佛家に入るは、只生死事大無常迅速なるか爲めなり、然るに飽食高眠して時光を空ふす、何ぞ自ら恐れざるや耶、生死事大無常迅速の旨は、禪教共に誡む、露命幻身、明日を期し難し、知らずして今も亦何の病を受け、何の死を致んことを、常に之を慮て、且く呼吸の未だ歇まざるの頃、精進して打坐すべし、古來大法隆興の時は、叢林只打坐を専らとす、近世諸方、打坐緩し、所以に祖道漸く衰ふと、或る時、近侍白して言く、僧堂裡の衆、坐の久きに苦むか故に、或は発病し或は退惰す、乞ふ坐時刻を促めよ、師、大に怒て云く、本より道心無くして、假りに僧堂に居する者は、任他れ坐の久きに苦ことは、若し道心有る者は、可

 


  天童如浄禅師行録-13
天童如浄禅師行録-13

 

坐時の短からざるを喜ぶべし、我昔行脚の時、特立の師家は皆此の如く學者を勸勵す、所以に我も亦た頻に拳頭を以て、汝等を激發するのみと。上堂して云く、衲僧打坐す、正恁麼の時、乃ち能く盡十方世界諸佛諸祖を供養す、悉く香華燈明妙衣種々の具を以て、恭敬供養間斷無し、汝等知るや麼、見や麼、若し也た知得せば、道ことなかれ空く過くと、若し也た未だ知らず、當面に諱却することを得ることなかれ、又或る時、衆に示して云く、跏趺坐は古佛の法也、參禪は身心脱落なり、燒香禮拜念佛修懺看經を用いず、祇管に打坐して始て得ん、我十九歳より以來、遍く諸方の叢林を歴るに、爲人の師に乏しし、我一日一夜と雖も、未だ曾て蒲團に坐せざるの時有らず、未だ住院せざる時從り、今に至り郷交と語話せず、昔し掛錫の所在、菴裡寮舍、都て訪尋せず、况乎、游山翫水を事とせんや、是れ別事にあらず、光陰を惜むに因て也、雲堂公界の坐禪の間(ひま)、或は閣上或は巖下、所々の屛處に、獨り穏便を求めて、常に蒲團、袖裏に携て到處に打坐す、専ら金剛坐を坐破せんと誓ふ、是れ所期のみと、或は臀肉の壊爛するに値ふ、爾の時、彌激して弛ふこと無し、今年六十五歳、老骨事懶にして、坐禪を會せず、然れども十方の兄弟を憐愍す、故に山門に住持し、方来を暁諭して、衆の爲め道を傳なり、諸方長老の那裡に、什麼の佛法か有んや、是の故に止ことを得ざるのみ、

 


  天童如浄禅師行録-14
天童如浄禅師行録-14

 

耳、上堂普説の次で、多く是如の教示あり、師、因に一禪衲の坐睡を責て曰く、參禪は須く身心脱落なるべし、、只管に打睡して什麼を爲すに堪ん、。永祖傍に在て之を聞て、豁然として大悟し、乃ち方丈に上て燒香す、師云く燒香の事、作麼生、永祖云く、身心脱落、師曰く、身心脱落、脱落身心、永祖云く、者箇は是れ暫時の伎倆、和尚妄りに某甲を印すること莫れ、師曰く、吾妄りに汝を印せず、永祖云く、如何か是れ妄りに印せざる底、師曰く、脱落身心、永祖禮拜して退く、師有る時永祖に示して曰く、諸佛必ず嗣法有り、謂所は釋迦牟尼佛は迦葉佛に嗣法す、迦葉佛は拘那含牟尼佛に嗣法す、拘那含牟尼佛は拘留孫佛に嗣法す、是の如く佛々相續して今に至る、須く此の旨を信受すべし、是を學道と爲すと、時に永祖白して言く、迦葉佛涅槃に入て後に、釋迦牟尼佛、出世して成道す、況や賢劫の佛、荘厳劫の佛に嗣法すること有んや、此旨如何んと、師曰く、汝か解する所の如は則但た経論階級の説に滞るのみ、佛祖正傳の旨は、終に是如くならず、須く迦葉佛は法を釋迦牟尼佛に付して而して後に涅槃に入と諦了すべし、則恐は天然の外道に同からん、誰か之を信せんや、其劫量壽量は、阿笈摩経の所説に拘はるべからず、是を佛祖嗣法の義と名く、是の時、永祖從來の舊窠を脱落して、

 


  天童如浄禅師行録-15
天童如浄禅師行録-15

 

始て佛祖に嗣法有ることを信受す也、師、此の夏、七佛列祖の嗣法五十世の系譜名號を以て、永祖に授け、禮拜頂戴せしむ、此を佛祖宗禮と名く、師又秋九月十八日に於て、佛祖正傳の菩薩戒を以て永祖に授け、且つ告て曰く、佛戒は、宗門の一大事因縁也、昔し霊山少林曹溪洞山、嫡々相承して吾に到る、吾今汝に付すと、時に祖月侍者、廣平侍者、宗端知客等周旋して戒儀を行す、其の式妙密逈として情量を超え、大に教家所立の儀に異れり、今永平門下に傳ふる所の作法是れなり、師、或る時、永祖をして法堂に秉拂説法せしめて自ら其の提唱を聴き、尋て芙蓉楷祖の法衣、及び竹篦白拂、自賛頂相、宝鏡三昧、五位顯訣、佛祖正傳嗣書等を授け、示て云く、汝、外国の人なるを以て之を授て信と爲す、帰郷の後、大法を宣布して廣く人天を利濟すべし、又、城邑聚落に住すること莫れ、國王大臣に近くこと莫れ、須く深山幽谷に居して一箇半箇を接得して吾か宗を嗣續せしむるべし、断絶せしむる勿れ、師、又、永祖に示て云く、浮山の圓鑑は本、大陽の門人爲り、圓鑑将に大陽の衣履を得て供養せんとす、大陽可きからず、又、頂相を畫て大陽に呈す、陽、笑て云く、惟し肖らず矣、世に謂ふ、大陽嗣を絶す、是の故に圓鑑に託し、滅後に投子の靑を求むと、是れ史を爲る者の妄誣に惑ふ由也、夫れ大

 


  天童如浄禅師行録-16
天童如浄禅師行録-16

 

(大)陽の法嗣は興陽の剖・羅浮の如・雲頂の鵬・乾明の聡・白馬の春・福嚴の承等、皆是れ法器なり、豈に興陽の如く、一一大陽の先て下世せんや、猶を嗣ぐ者の無きに由て圓鑑に託して以て來者を待つと言ふ、甚、笑うべしと爲す、但た投子年最も少し、若し嗣承を顯さは則恐は難有り、是を以て、預しめ圓鑑に付して、以て投子を記す、是れ大陽智通明白の致す所也、後の傳を撰する者、典故を剽掠そ、先徳を誣謾す悲むべしと、自餘の親密の示誨は、寶慶記に永祖自録するか如く、此に擧せず焉、師尋常雲水の人事に、其の禮儀の土産を受けず、或る時、嘉定の皇胤、知明州軍州事・管内勤農使・趙提擧、因に師を請して州府に就て陞座せしむる次で、銀子壹萬鋌を以て布施す、師陞座罷に、提擧に向て謝して云く、如浄例に依て、山を出て陞座、正法眼藏涅槃妙心を開演し、謹て以て福を冥府の先公に薦む、但た是れ銀子は、敢て拝領せず、僧家這般の物子を要せず、千萬賜恩舊に依て拝還すと、提擧言く、和尚下官忝くも皇帝陛下の親族を以て、到る處且つ貴し、寶貝見に多し、今先父冥福の日を以て、冥府に資せんと欲す、和尚如何して納めざる、今日多幸大慈大悲、切に小襯を留めよ、師云く、提擧台命且つ嚴なり、敢て遜謝せず、只道理有り、如淨陞座の説法、提擧聰なり聴き得る否や、提擧云く、下官只聴て

 


  天童如浄禅師行録-17
天童如浄禅師行録-17

 

喜す、師云く、提擧聡明にして、山語を昭鑑す、惶懼に勝へず、更に望らくは台臨鈞候萬福、山僧陞座の時、甚麼の法をか説き得たる、試に道へ看ん、若し道得は銀子壹萬鋌を拝領せん、若し道ひ得ずは、府使便ち銀子を収よ、提擧起て師に向て云く、伏して惟れは即辰和尚法候動止萬福と、師云く、這箇は是れ擧し來る底、那箇か是れ聴き得る底、提擧擬議す、師云く、先公の冥福圓成す、襯施は且く先公の台判を待と、言ひ訖て便ち請暇す、提擧云く、未だ領せざることを恨まず、且つ喜すらくは師に見ことを、乃ち師を送る、淅東淅西の道俗皆讃歎す、嘉定の皇帝勅して紫衣徽號を賜、乃ち表を修して辞謝す、帝亦た更に咎めず、御茶を賜ふ、諸方希代の盛事と讚歎す、師、常に帝者に親近せず、又、丞相及び諸官員に親厚ならず、生涯、斑襴の袈裟を搭けず、上堂入室、共に黑直綴皂袈裟を用ふ、常に衲子を教訓して謂く、參禪學道は、第一に道心有るべし、是れ學道の最初也、或る時、示して云く、二百年來祖師の道廢す矣、悲むべき哉、況や一句を道得る漢有んや、我昔徑山に掛錫す、時に光佛照、粥飯頭爲り、上堂して謂く、佛法禪道必ずしも他人の言句を須ひず、只須く各自に理會すべし、云云、是の如く示衆して、都て僧堂理の雲水を管せず、尋常只管に官客と相ひ親しむのみ、佛照殊に佛法の機關を知らず、専ら貪(名愛利を)事とす、

 


  天童如浄禅師行録-18
天童如浄禅師行録-18

 

名愛利を(事とす)、佛法若し各自の理會に在らは、則ち豈に師を尋ね道を訪ふの老古錐有らんや、光佛照是れ真箇に曾て參禪せず、如今諸方の長老無道心なる者は、但た光佛照の箇の兒子なり、佛法何ぞ他の手理に帰すること得ん乎、惜むべし惜むべし佛照の兒孫時に之を聞くと雖も、亦た曾て恨まず、但た恐怖するのみ、師、常に三教一致を談する者を呵して、以て大法の根源を知らずなり、又、常に僧家の長爪長髪を誡て謂く、浄髮を會せず、是れ俗人にあらず、是れ僧家にあらず、便ち是れ畜生なり、古來の佛祖誰か是れ浄髮せざる、真箇是に畜生なり、此の示誨を傳へ聞て、年來剃頭せざる者、多く忽ち浄髮す、上堂或は普説の時、頻に彈指呵責を爲め謂く、什麼の道理を知らずして、胡亂に長爪長髪ならしむ、憐むべし南閻浮の身心を受て、之を非道に置く、近く二三百年、祖道荒廃す、是の故に非法を行する輩多し、是の如くの輩、寺院の主と爲て、妄に師號を署して、衆の相を作す、人天の無福なる所以なり、而今天下の諸山、渾て箇の有道心の者無し、久く箇の得道の者を絶す、祇管に破落黨のみと、諸方の名位に署する者、之を聞て退縮し、陳ぶる所無きを恨まず、師常に大に諸方の五家の宗風を競ふことを嫌ひ、衆に示して云く、近年祖師道廃す矣、魔黨畜生多く、頻々五家の門風を擧、苦なる哉苦なる哉、箇々祇管に雲門法眼潙仰臨済曹

 


  天童如浄禅師行録-19
天童如浄禅師行録-19

 

(曹)洞等の家風別有りと道ふ者は、是れ佛法にあらず、是れ祖師道にあらず、師、松源和尚の寄する拄杖の頌に曰く、七尺の鳥藤、東壁に掛け、春風忽ち來て両翼を生す、飛龍鞭起して趁、得ず、洞庭攪碎す瑠璃碧、去れ兮去れ兮明歴歴、梅花影の裡、相覔ことを休よ、雨と爲り雲と爲て自古今、古今寥々として何の極か有らん、化炭の偈に曰く、一刀両段没商量、透出す無明の大火坑、再ひ死灰に入て烹得して活す、歳寒の聲價轉崢嶸、風鈴の頌に云く、通身是れ口、虚空に掛け、管せず東西南北の風、一等渠か與めに般若を談す、滴丁東丁滴丁東(ちちんつんりんちちんつん)、師淨慈に在する時、源山主頂相を賛せんことを求む、乃ち題して云く、箇は是れ淨慈の毛和尚、口、禍福を言て定當有り、日を逐て縁に随い去て齋に赴く、是れ両脚の功徳藏と謂う、千佛を彫装し、両廊に布砌し、一切の魍魎鬼を判断し、五百の羅漢堂を主管す、橋を修し路を造るに至るまで、夫の浴主街坊と與に、一切の善事を聞ては、蠅の血を見か如し、一切の悪事を聞ては、蟹の湯に落ちるに似たり、有る時は樓搜に随て、萬回老子の懽喜するか若く、有る時は歇蹶を放して、布袋和尚の顚狂するか若し、一文錢を得て、曾て地に落さず、十爪掌を合して、常に乃ち天に謝す、只一味朴直にして、些子の埃塵無し、所以に好事の檀那を打動して、這般の面觜を畫出す、且く道へ如何か比擬せん、八月十五中夜凉し、一輪の月は西湖の水を照す、

 


  天童如浄禅師行録-20
天童如浄禅師行録-20

 

(湖水)剃度智琛 《寂圓と號し後に日本に來て永平二代懐弉和尚に得法して越前大野寶慶寺」を開く》 師の像を繪て賛を乞ふ、題して云く、乾坤を坐断して全身獨露す、喚て本師和尚と爲は、甚の冬瓜茄瓠にか當ん、更に好し笑ふに、金剛倒に上る梅花樹、徒弟智琛語を乞ふ、太白老僧 《此の軸現に今ま寶慶寺に在り、字計四十、淨祖の眞蹟、老僧下に華押有り》 紹定元年戊子、師、天童に住する、四年忽ち疾を感じて、自、起た不ことを知て退席す、上堂に云く、進院住すること得は便ち住す、退院行と要すれは便ち行く、還て相委悉すや麼、箇條の鳥拄杖、怪こと莫れ太た生獰なることを、拄杖を擲て下座し、直に涅槃堂に下る、師六ひ道場に坐して、未だ禀承を示さず、衆或は之を請すれは、即ち云く、我が涅槃堂に拈出せんを待てと、果して臨終に香を拈して曰く、如淨行脚、四十餘年、首して乳峯に到る、失脚して陷穽に堕す、此の香今免れず拈出して我が前住雪竇足菴大和尚を鈍置することを、幷せて遺偈を書して云く、六十六年、罪犯彌天、箇の◆(足+孛)跳を打して、活を黄泉に陷る、咦、從來生死相ひ干に不すと、乃ち大宋紹定元年(注5)戊子七月十有七日矣、 《日本の安貞二年に丁る也》 師入寂の時、侍者告るに法堂の寶葢の鏡、座上に堕ることを以てす、師曰く鏡枯禪至らんと矣、果して其の言の如く、補席は枯禪の自鏡也、乃ち天童山に葬る、藏骨の處は南谷菴と號す、其の法を得る者、無外の遠・田翁の頃・癡翁の瑩・孤蟾の營・石林の秀・雪屋の韶・及び永平(祖翁也)

 


  天童如浄禅師行録-21
天童如浄禅師行録-21

 

(永平)祖翁也、其の餘は未だ考ず、 《古篆の宗派の圖に、短蓬の遠を列し、永覺の繼燈錄に、鹿門の覺、雪菴の瑾を列か、則共失考なり、短蓬は明極の祚に嗣、枯崖漫録に見、鹿門の覺は芙蓉の楷に嗣、雪菴の瑾は心聞の賁に嗣て、黄龍南の六世爲り、共に増集續傳燈に見、雪屋の韶の如は、無文印に塔の銘を載す、近年新刻する所の如淨續録は、日本洞下好事の者の贋撰、是の故に今采らず。》 如上の數人共に是れ法中の英傑、但た語録の傳らず、傳記詳ならず、法系の短長聞こと莫し焉、豈に惜まざらんや、若し永祖微せは、則青原の正脉、幾んと乎、今日に到らず、示寂十五歳る経て、吾か仁治三年壬寅八月五日に至て廣宗禪師編む所の語録到る焉、永祖上堂、法語を唱て頂戴す、嗚呼、師の出世の始末、器宇の廣大は、我が輩の屛營悚慄する所以なり、爭か舌頭に動著せん、但た當時の諸大宗匠、廣長舌を出し、誠實言を説を讃揚する所以、今一二を擧て、雲孫千歳の後をして師の丰範を瞻仰せしむ也、霊隠の高原祖泉禪師語録を序して云く、淨禪師無師の句を得、逸格の機を用ふ、婁至徳の前、青葉髻の後、突出す無面目底、糙暴生獰、通身是眼なるも、此の録を看んと要せは、予れ保す渠れ未だ夢にたも此の老脚跟下の汗臭氣をたも見せず在ん、天衣の嘯岩文蔚禪師、跋を爲て云く、師子吼無畏の説、百獣之を聞て皆脳裂す、天衣擧似す箇中人、古を邁へ今を超て途轍を離れ、薦福の無文道璨禪師、雪屋録を序して云く、嘉定の間、淨禪師、足菴の道を(天童に)倡へ

 


  天童如浄禅師行録-22
天童如浄禅師行録-22

 

(于天童)洞宗の玄學語言の爲めに勝こと有ることを懼て、悪拳痛棒を以て學者を陶冶す、口を肆し談を縦にして、落枝葉を擺、花滋の旨味無し、蒼松の壡に架し、風雨の空に盤か如し、曹洞の正宗之か爲めに一變す、又桐柏の呂瀟、師の語録を序して、云く、其の寶華座に登て猛虎の踞か若く大法皷を撃、師子吼を作すを觀るに、直に人天をして鑽仰し、魔鬼をして帰降せしむ、一偈一頌一話一言に至て風を呼、雲を吐、雷を轟し、電を掣き、千態萬貌、窮盡ずべからず、近世の尊宿絶無にして僅有なる者、凡そ四大寶刹を歴て、孤雲野鶴、去住自如、皆是に於て見る焉、故に勇猛精進の者は、之を得て猶を暗室に入て、大光明に遇ひ、種々の色を見かごとし、退縮して未だ諭さずは、之を畏ること子弟の嚴父師に對するか如し、殊に知らず薬瞑眩して厥の疾瘳て終に益有ことを、師の得力の處、出生入死の處、固に形迹を以て求め、實法の會を作し難し、無外の遠和尚、永平録を序して云く、超宗異目、糙暴生獰、峭壁乖崕、孤危嶮絶に非んば、何そ以て衲僧瞑眩の疾を起し、邪見枝蔓の根を抜に足んや、古に在、乏からず、今に居て誰とか爲す、太白老人淨禪師、驀然として一ひ出て、獨、此の風を振、諸方之を憚り、學者之を畏と、今上來諸賢の讃揚する所に由て、之を仰くときは則縦ひ二十八祖を九にして、六代祖を七にするも、亦た豈に譲る所有らんや哉。

 



 

(注1)

紹興32年(西暦1162年)11月16日、孝宗の即位により、翌年から「隆興」と改元する。隆興元年は西暦1163年。

 

(注2)

雪竇足菴鑑和尚は雪竇智鑑(1105~1192)のこと。

 

(注3)

(南宋)嘉定三年は西暦1210年。

 

(注4)

寶慶元年は西暦1225年。

 

(注5)

紹定元年は西暦1228年。

 



 

【面山瑞方】(1682~1769)


肥後の人。十五歳、母の喪に遭って求道の念を起こし、翌年、熊本流長院遼雲に就いて出家す。臨済の性天に「臨済録、正宗賛」を律師湛堂に「梵網經」の講を聴き、二十一歳、江戸青松寺に掛錫し、卍山道白、損翁宗益、徳翁良高の諸老に参見した。損翁が仙台泰心院に帰るや随侍して赴き、日夜参請す。宝永二年(1705)春、関東の諸老宿に参叩したが皆飽参と称したという。泰心院に帰り損翁に法を嗣ぐ。同三年相模老梅庵に入り、閉関打坐すること一千日に及ぶ。また常陸東昌寺にて「大蔵経」を播読す。享保三年(1718)肥後禅定寺に晋山し、同十四年春、若狭の空印寺に転住す。寬保元年(1741)秋、法席を瞎堂に譲り永福寺に退棲した。その後諸方に応請して佛経祖録を提唱し専ら祖風の宣揚に努め、また「面山廣録・二十六巻」の外、聞解・渉典録・頌古称提・清規・史書・紀行等五十余種の著述を残し、その懇切さは世に「婆婆面山」と称される。明和六年(1769)九月十七日、建仁寺西来庵にて示寂。世壽八十七。法嗣二十七人があったという。
(面山廣録二六、面山和尚年譜、續日本高僧傳七(新版禪學大辭典より)