永平寺2世・孤雲懐奘(懐弉)禅師


孤雲懐奘(懐弉)禅師(こうんえじょうぜんじ)

永平寺二祖孤雲懐奘(懐弉)禅師

懐奘(懐弉)禅師(えじょうぜんじ) 
道光普照国師(どうこうふしょうこくし)

 

二祖国師・孤雲懐奘禅師真像(東川寺着色作成)
二祖国師・孤雲懐奘禅師真像(東川寺着色作成)

 

建久9年戊午(1198)是歳
 懐奘(懐弉)、京都で生まれる。

 

実父は藤原伊輔。母は不詳。


中納言藤原伊實(これざね)の孫。
九條相國藤原伊通(これみち)の曾孫。

 

(道元禪師と懐奘(懐弉)禅師は姻戚か?)

 

※ 懐奘禅師の「奘」が一定していない。「懐弉」と書く場合もある。


正治2年(1200)1月26日 道元禅師、京都に生まれる。

 

元久2年(1205)8歳
 叔父の実修法印の紹介で、比叡山に上り、圓能法印のもとに参じ、修学す。

 

建保3年(1215)18歳
 横川圓能法印のもと剃髪得度す。
 倶舎成實の二教を學し、後に摩訶止観を學す。
 又、天台密教、浄土教をも兼修す。

 

建保6年(1218)是歳 21歳
 懐奘、近江延暦寺戒壇院に於いて菩薩戒を受ける。

 

建保6年(1218)3月 21歳
 実父藤原伊輔、死去。65歳

 

母親を訪ねたのはこの頃か? (注1) 

 

この頃、比叡山を下りて、浄土教・法然の弟子(小坂光明寺開祖)善慧房証空上人(西山派)の門に入る。

 

貞應2年(1223)是歳 26歳 
 多武峰(とうのみね)日本達磨宗大日能忍の上足、佛地覺晏の會下に参入する。
「首楞厳経」第二の二節、「頻伽缾喩」の公案を透過し、佛地上人より證明される。

 

貞應2年(1223)4月 道元禅師、入宋。
嘉禄3年(1227)是秋 道元禅師、帰国して建仁寺に入る。

 

安貞2年(1228)4月 31歳
 興福寺衆徒が多武峰の堂舎僧坊六十余宇を焼き払う。
 日本達磨宗は離散し、懐奘は覺晏と行動を伴にする。

 

安貞2年(1228)是歳 31歳 
 懐奘、建仁寺に道元禅師を尋ね聞法す。

 

永平元(道元)和尚、安貞元丁亥年はじめて建仁寺にかへりて修練す。時に大宋より正法を傳へて、ひそかに弘通せんといふきこえあり。師(懐奘)、きいておもはく、われすでに三止三観の宗にくらからず。浄土一門の要行に達すといへども、なほすでに多武峰に參ず。すこぶる見性成佛の旨に達す。何事の傳へ来ることかあらんといひて、試みにおもむきてすなはち元和尚に參ず。はじめて対談せし時両三日はただ師(懐奘)の得處におなじく、見性霊知の事を談ず。時に師(懐奘)歓喜して違背せず。わが得所實なりとおもふて、いよいよ敬歎をくはふ。やや日數をふるに、元和尚すこぶる異解をあらわす。時に師(懐奘)おどろきて、ほこさきをあぐるに、師(懐奘)の外に義あり、ことごとく相似ず。ゆゑに更に發心して伏承せんとせしに、元和尚すなはち曰く、われ宗風を傳持してはじめて扶桑國中に弘通せんとす、當寺(建仁寺)に居住すべしといへども、別に所地を選んで止宿せんとおもふ。もしこころを得て草庵をむすばば即ち尋ねて至るべし、ここに相随はんこと不可なりと。師(懐奘)、命にしたがひて時をまつ。・・・・・
「伝光録」より(「永平二祖孤雲懐奘禅師」63頁参照)


この後、懐奘は多武峰の覺晏の補佐をして時を待つ。


又、覺晏は入滅の際、次の様に諸弟子に遺命された。
「先師能忍の得法、もと面授にあらぬゆゑに正しからず。門人向後倶に道元禪師に依属せらるべしと」(「建撕記補」坤)

 

寬喜2年(1230)道元禅師、京都建仁寺より山城深草に閑居す。

天福元年(1233)是春 道元禅師、山城観音導利院興聖寶林寺を開く。

天福2年(1234)3月9日 道元禅師、學道の用心を示す。「學道用心集」

 

文暦元年(1234)是冬 37歳
 懐奘、山城深草に道元禅師に参ず。

 

元(道元)和尚尚深草の極樂寺のかたわらに、はじめて草庵をむすびて、一人居す、一人のとふらふなくして、両歳をへしに、師(懐奘)すなはちたずねいたる時は文暦元年なり、元(道元)和尚歓喜して、すなはち入室をゆるし昼夜祖道を談ず、・・・
「傳光録」より

 

嘉禎元年(1235)8月15日 38歳
 道元禅師、佛祖正傳菩薩戒法を懐奘に授く。

 

   これより懐奘、正法眼蔵随聞記の筆録を始める(注2)
道元禅師の言葉を、學道の至要にて聞くに随って記録する。

この「正法眼蔵随聞記」はすべて嘉禎年間の三、四年間の記録である。

 

 正法眼蔵随聞記全・永平寺蔵版   (東川寺蔵本)
 正法眼蔵随聞記全・永平寺蔵版   (東川寺蔵本)

正法眼藏隨聞記第一   侍者 懷奘 編

 一日示して云く、續髙僧傳の中に、或禪師の會下に一僧あり。金像の佛と、亦佛舍利とを、あがめ用ひて、衆寮等にありても、常に燒香禮拜し、恭敬供養しき。有時禪師の云く、汝ぢが崇る處の佛像舍利は、後には、汝がために、不是あらんと。其の僧うけがはず。師云く是れ天魔波旬の作す處なり、早く是を棄つべし。其の僧、憤然として出ぬれば師すなはち、僧の後へに云ひ懸て云く、汝箱を開て是を見べし。其の僧いかりながら、是を開てみれば、毒蛇わだかまりて臥りと。是を以て思ふに、佛像舍利は、如來の遺像遣骨なれば、恭敬すべしと云へども、また偏に是を仰ひて、得悟すべしと思はヾ、還て邪見なり、天魔毒蛇の、所領となる因縁なり。佛説の功德は定まれる事なれば、人天の福分となること、生身と等しかるべし。總じて三寶の境界を、恭敬供養すれば、罪滅び功德を得、また惡趣の業をも消し、人天の果をも感ずることは實なり。是によりて法の悟りを、得んと思ふは、僻見なり。佛子と云は佛敎に順じて、直に佛位に到る爲なれば、只敎に隨て、工夫辨道すべきなり。其の敎に順ずる、實の行と云は、即今の叢林の宗とする、只管打坐なり。是を思ふべし。・・・・
「正法眼蔵随聞記全・永平寺蔵版」より

 

嘉禎元年(1235)12月  道元禅師、山城興聖寺僧堂建立の勧請を興す。

 

嘉禎2年(1236)10月15日 39歳
 興聖寶林寺、僧堂を開單す。

 

嘉禎2年(1236)10月15日 道元禅師、山城興聖寺祝国開堂す。

 

 懐奘、「一毫衆穴を穿つ」の話のよって大悟す。
(やや三年をすぐるに)今の因縁を請益に擧せらる、いわゆるこの因縁は一念萬年、一毫衆穴を穿つ、登科汝登科に任す、抜萃汝抜萃に任す、これをききて師(懐奘)省悟す。

奘(懐奘)和尚、元(道元)和尚に參ず、一日請益の次で、一毫衆穴を穿つの因縁を聞て即ち省悟す、晩間禮拝し問うて曰く、一毫を問わず、如何が是れ衆穴、元(道元)、微笑して曰く、穿了也、師(懐奘)禮拝す。

 『傳光録』より

 

嘉禎2年(1236)丙申11月18日
 師資面授、嘉禎二年丙申十一月十八日夜半、道元授与懐奘。(懐奘嗣法相続)

 

嘉禎2年(1236)12月除夜 39歳
 道元禅師、懐奘を興聖寺首座に充て秉拂せしむ。

嘉禎二年臘月除夜、始めて懷奘を興聖寺の首座に請ず。即ち小參の次(ついで)、秉払を請う。初めて首座に任ず。即ち興聖寺最初の首座なり。

「正法眼蔵随聞記(長円寺本)・五巻四章」 (注3)

懐弉、「洞山麻三斤」を提唱す。

 

仁治2年(1241)是春
 懐鑑、義介、義尹、義演等、道元禅師に参ず。

 

仁治3年(1242)11月2日 45歳
 懐奘、「正法眼藏道得」一巻を書写す。
同年11月7日
 懐奘、「正法眼藏畫餅」一巻を書写す。

仁治4年(1243)正月18日 46歳
 懐奘、「正法眼藏行持」一巻を書写す。
同年正月19日
 懐奘、「正法眼藏佛性」及び「正法眼藏全機」一巻を書写す。
同年2月2日
 懐奘、「正法眼藏身心學道」一巻を書写す。
同年2月25日
 懐奘、「正法眼藏嗣書」一巻を書写す。
寬元元年3月23日
 懐奘、「正法眼藏夢中説夢」一巻を書写す。
同年4月8日
 懐奘、山城興聖寺に「正法眼藏谿聲山色」一巻を書写す。
同年4月14日
 懐奘、「正法眼藏行持」一巻を書写す。
是夏
 懐奘、「正法眼藏有時」一巻書写す。


寬元元年7月16日
 道元禅師、波多野義重の勧請により、山城興聖寺を詮慧(あるいは義準)に譲り、越前志比荘に向かう。

 

同年閏7月3日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏柏樹子」一巻を書写す。
同年閏7月23日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏一顆明珠」一巻を書写す。
同年10月15日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏無情説法」一巻を書写す。
同年10月16日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏密語」一巻を書写す。
同年10月23日
 懐奘、越州の御本を以て重ねて「正法眼藏嗣書」一巻を校合し、また「正法眼藏佛道」一巻を書写す。
同年12月27日
 懐奘、越前禪師峰下の茅菴に「正法眼藏偏参」一巻を書写す。
同年12月28日
 懐奘、越前禪師峰下に「正法眼藏眼睛」一巻を書写す。

 

寬元2年(1244)正月11日 47歳
 懐奘、「正法眼藏説心説性」一巻を書写す。
同年正月13日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏陀羅尼」一巻を書写す。

同年正月20日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏授記」一巻を書写す。
同年正月27日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏空華」一巻を書写す。
同年正月
 懐奘、越前禪師峰下に「正法眼藏家常」一巻を書写す。

 

同年2月29日
 越前志比荘に大佛寺法堂造営の工を起こす。

 

同年3月3日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏葛藤」一巻を書写す。
同年3月9日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏三十七品菩提分法」一巻を書写す。
同年3月13日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏大修行」一巻を書写す。
同年3月20日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏大悟」一巻を書写す。
同年4月12日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏自證三昧」一巻を書写す。
同年5月12日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏古佛心」一巻を書写す。
同年5月14日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏佛祖」一巻を書写す。
同年6月3日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏山水経」一巻を書写す。
同年6月7日
 懐奘、越前吉峰寺に「正法眼藏面授」一巻を書写す。

 

同年9月1日
 越前大佛寺法堂竣工し、道元禅師開堂法會あり。

 

同年10月16日
 懐奘、越前大佛寺に「正法眼藏見佛」一巻を書写す。

同年12月13日
 懐奘、越前大佛寺に「正法眼藏光明」一巻を書写す。

 

寬元3年(1245)6月26日 48歳
 懐奘、「正法眼藏佛道」一巻を校合す。

同年7月8日
 懐奘、越前大佛寺に「正法眼藏看經」一巻を書写す。
同年12月24日
 懐奘、越前大佛寺に「正法眼藏十方」一巻を書写す。


同年 是歳
 懐奘、豊後永慶寺を開く。 (疑問?)

 (豊後永慶寺の勧請開山か?)

寬元4年(1246)6月15日 大佛寺を永平寺と改める。

 

寬元4年(1246)7月10日 49歳
 道元禅師、永平寺佛前斎粥供養侍僧の順位を定む。
 第一比丘・懐奘、第二比丘・覺佛。

 

宝治元年(1247)是歳 50歳
 懐奘、豊後永慶寺より永平寺に還る。(疑問?

 

宝治元年(1247)8月3日
  道元禅師、鎌倉に向かい北条時頼に菩薩戒を授く。

 

宝治2年(1248)3月13日  道元禪師、鎌倉より永平寺に還る、翌日上堂す。 

宝治2年(1248)11月1日 傘松峰を吉祥山と名く。

建長4年(1252)是秋 道元禅師、病む。

 

建長5年(1253)3月9日 56歳
 懐奘、永平寺首座寮に「正法眼藏三時業」一巻を書写す。

 

建長5年正月六日、道元禅師「正法眼蔵八大人覚」を永平寺にて書す。

 

建長5年(1253)7月14日 56歳
 道元禅師、永平寺住持職を懐奘に譲り、併せて自縫の袈裟一領を附す。

 

建長5年(1253)8月5日
 道元禅師、京都六波羅波多野義重の勧説により、懐奘、義介等を伴い、療養のため上洛の途に就く。

 

建長5年(1253)9月29日
 道元禅師、京都高辻西洞院覺念の邸に遷化す、世壽五十四歳。

 

(道元禪師)建長五癸丑の年八月二十八日甲戌、子の刻に自ら偈を書きて涅槃したまふ。偈に曰く、五十四年、照第一天、打箇◆(足+孛)跳、触破大千、咦、渾身無覔、活陥黄泉と、筆を擲って入寂まします。雲州義重、天を仰ぎ地に伏して五十四年の早逝を惜みたまふこと比類なし。覺念其の外の僧俗遺弟等、悲歎慟哭の聲絶えず、懐奘禪師は、肝を潰し半時(はんとき)許り死に入りたまふ。・・・・(「建撕記坤四十五」より)


 尋で東山赤辻に於いて荼毘に付す。

 

建長5年(1253)9月6日
 懐奘等、道元禅師の舎利を収め、京都を出て越前に向かう。
同年9月10日
 懐奘等、永平寺に著す。
同年9月12日
 懐奘等、道元禅師の入涅槃の儀式を行う。

 

以後、道元禅師の遺骨を永平寺の西北隅に奉祀し、塔を建てて「承陽庵」とし、懐奘の朝夕その真前に給侍すること、恰も生ける道元禅師に接するが如くであった。


同年12月10日
 懐奘、永平寺に「宝慶記」一巻を集録す。

 

  宝慶記 (明和本)(東川寺蔵本)
  宝慶記 (明和本)(東川寺蔵本)

 宝慶記 懐奘書写

建長五年十二月十日

越前吉祥山永平寺の方丈に在て、之れを書写す。右は先師遺書の中に於いて之れ在り。之れを草し始む、猶を餘残有るかのごとし。恨むらくは㓛を終へざることを、悲涙千萬端なり。懐奘。

  寶慶記・巻末
  寶慶記・巻末


建長6年(1254)正月 57歳
 懐奘、義介に伊王舎利等の法事を示す。
同年9月9日
 懐奘、「佛祖正傳菩薩戒作法」を義伊に授く。
同年12月23日
 懐奘、嗣書傳法の記録を義介に示す。

建長7年(1255)正月2日 58歳
 義介初めて懐奘に入室す。
同年正月3日
 懐奘、嗣書並びに傳衣の事を義介に示す。
同年正月6日
 義介、諸悪莫作の法要を懐奘に問う。

同年正月7日

 義介、道元禅師の身心脱落の話に就いて、自己の所信を懐奘に述ぶ。
同年正月13日
 義介、懐奘に就いて嗣書を看る。
同年2月2日
 義介、先師道元禅師弘通の佛法に就いて自己の所信を懐奘に述ぶ。
同年2月14日
 義介、懐奘に嗣法す。
同年4月9日
 懐奘、道元禅師の草本を以て「正法眼蔵發菩提心」一巻を書写す。
同年 是夏
 懐奘、道元禅師の草本を以て「正法眼蔵四馬」、「正法眼蔵歸依三寶」、「正法眼蔵深信因果」、「正法眼蔵四禪比丘」等各一巻を書写す。
同年 是夏
 懐奘、義演をして「正法眼蔵袈裟功徳」一巻を書写せしむ。
同年 是秋
 懐奘、義演をして「正法眼蔵八大人覺」一巻を書写せしむ。

 

如今建長七年乙卯、解制之前日、義演書記をして書写し畢り、同じく之れを一校せしむ。

右本は先師最後御病中の御草なり。
仰げば以前に撰する所の仮字正法眼蔵など皆な書き改め、竝びに新草を具して都廬一百巻に之れを撰すべし云々と。
既に始草の御此巻は第十二に当るなり。
此の後、御病、漸々重き増せり。仍って御草案等の事、即ち止むなり。
ゆえに此の御草等、先師最後の教勅なり。
我等不幸にして一百巻の御草を拝見せず。もっとも恨む所なり。
若し先師を恋慕し奉る人、必ず此の巻を書きて之れを護持すべし。
此れ釈尊最後の教勅にして、且つ先師最後の遺教なり。
 懐奘之れを記す。

 

正嘉2年(1258)4月25日 61歳
 懐奘、道元禅師の再治本を以て「正法眼蔵佛性」一巻を校合す。


正元元年(1259)是夏 62歳
 懐奘、道元禅師の再治本を以て「正法眼蔵佛向上事」一巻を書写す。


正元2年(1260)4月11日 63歳
 懐奘、「正法眼蔵法性」一巻を書写す。


文応元年(1260)7月
 懐奘、道元禅師の再治本を以て「正法眼蔵三昧王三昧」一巻を校勘す。


亀山元年(1261)是夏 64歳
 懐奘、永平寺に道元禅師の草本を以て「正法眼蔵佛性」一巻を書写す。


文永4年(1267)是歳 70歳
 懐奘、病む。


文永4年(1267)4月8日 70歳
 懐奘、永平寺を退き、義介、永平寺に住す。
同年9月22日
 懐奘、「現瑞記」一篇を撰して、道元禅師の布薩説戒を行う時、五色の彩雲の現ぜる由来を記す。

 

文永9年(1272)2月
 義介、永平寺を退き、山下に養母堂を構え生母を養う。

 懐奘、再び永平寺に住持す。

 

永平高祖行状建撕記
建長五年七月十四日永平寺ヱ入院、文永四年迄十五年住持ス。病起ニ依テ、御退院、其後ヨリ六年ノ間義价和尚住シ給ウ。文永九年ノ二月价和尚退院シ給、同年亦二代和尚御再住アリ。 

 

文永9年(1272)4月

 懐奘、結夏小参法語
介公東堂老は吾が法嫡なり、また當山に於いて大功有り、況んや當山前住ならんや、徳、山に重なり、道、天に高し、誠に是れ人天の導師、又、乃ち當山の至尊なり、縦い當住にあらざると雖も、須く尊重恭敬し奉るべし。(永平寺三祖行業記)

  

 義介が永平寺退董後、孤雲懐奘が再び永平寺に上ったという、永平寺再住説に異説もある。。

 また、孤雲懐奘永平寺を退いた後の約十年間についても確かな事は判っていない。

 

「永平高祖行状建撕記」より (註4)

建治元年(1275)八月二十八日
 先師開山大和尚二十三年遠忌の辰に値う、報恩の為め、自ら誓願文を立て講経す。
次に衆に示して云く、願くは我れ生々の中、三寶を存念して、衆生を救濟し、三悪八難の處に生すと雖も、此の願いを以ての故に永く退失せん。
二代和尚、衆生済度の願文なり。
之れ依り菩提園を我が塔頭と定め置き給いて、毎月二十七日を以て、一衆、菩提林に下て安楽行品を諷経す。此の功徳を以て菩提園裡の諸霊魂を救べき為なり。
承陽孤雲閣に就て諸方の入牌する心は、此の願文に依て至今、退轉せずなり。
此の和尚の御月忌は八月二十四日なり。
御遺言に依て、年忌月忌の時は、菓子茶湯斎粥香花灯燭等、二代の真前には備えずして、開山の御真前に備えて、諷経をも開山の御前にてせらる。
今に至る迄、毎月此の如くなり。
此の御心は常に随て給仕の故なり。
阿難尊者は釋迦牟尼佛に常住給仕し給うて、終に佛邊を離れ給はず。
懐弉和尚も此の例に依て開山の尊邊を離れずとの願文なり。
此れ依り別に塔頭を立てず、開山塔に雙べて其の霊骨をば石櫃に蔵して収め置くなり。
今に至るまで之れ在り。
侍者の役にて御座ますとて冬安居帽子をも木像にかぶせ申さずなり。
何も是れ御遺戒なり。

 二代典座の時、開山鼓を鳴らし入室を令す、開山即室に入り立つ、弉、開山に向て問うて云く、二祖三拝し位に依りて立つ、未審し甚麼法をか傳す、開山答えて云く、老僧が答話且く露柱に寄る。
開山和尚に給仕し給う事、二十年の間、病起によつて開山御許しについて十日開山に尊邊を離れ給いしなり。
御入滅の後も巾瓶随侍し給う事、御在世の時の如きなり。

開山御現在の内、永平寺の行法おこない始め給う事は、皆な懐弉を以て行せさせ給うなり。
 有る時、二代、開山和尚に此不審あり、開山云く當山は佛法の勝地なり、法をして久住せしめんこと吾れ望む所なり。
吾れは公より少しといども必ず短命なる可し、公は又、吾れより老たりといえども必ず長命なる可し、吾が佛法公に至り、未来際に廣く傳う可し、かるが故に勤行出ししめんと云々。

 

 

弘安元年(1278)8月28日 81歳
 懐奘、「光明蔵三昧」一巻を撰す。

 

「光明蔵三昧」

正法眼蔵中に光明の巻あり。今更に此の一篇を示すことは、偏に佛家の面目は、光明蔵三昧なることを脱體ならしめんとなり。これ久參入室の人の自行他化の潜行密用なり。
それ光明蔵とは、諸佛の本源、衆生の本有、萬法の全體にて、圓覺の神通大光明蔵なり。三身四智普門塵數の諸三昧も、みな此の中より顕現す。
華嚴経第十六、升須彌山頂品の偈に云く、燃燈如来大光明、諸吉祥中最無上、彼曽來入此殿、是故此處最吉祥と云云。・・・・
 弘安元年戊寅八月二十八日懐奘謹記

 

 洞上二世光明蔵三昧 (明治12年発行) (東川寺蔵本)
 洞上二世光明蔵三昧 (明治12年発行) (東川寺蔵本)

 

弘安3年(1280)是歳 83歳
 瑩山紹瑾、懐奘に就いて剃度を受く。
弘安3年(1280)4月
 懐奘、病む。

 

「懐奘病む」を聞いた波多野重通は京都六波羅蜜より三十日の暇を請うて、越前に下国して懐弉に会った。懐弉は大衆を集め、檀那波多野氏を顧みて次のように語り、殷勤に垂示した。


予、生々世々、乃至先師の成道度生の時節に至る、一日も之れ先師を離れず、影の形に随う如く給侍を致す有り、願はくば是の故に死期の人、八月下旬を期す、此の願い差ふべからず、成道度生の時節に至る、檀那三十日の請暇、芳恩謝し難く、須く還上の所なるべし、其の身私ならず、国法恐るべし。(永平寺三祖行業記)

 

さらに門人に示して


吾歿せば、遺骨を以て、元(道元)師の搭の旁(からわら)侍者位に安んじ、別に搭を立つること勿れ、今現存の居所は、又、元師の搭の旁に搆ふ、昔は六祖塔主として瑫ましめ、古の住持を慕ふ、退きて後、東堂に居ると雖も、介公又退院す、一寺両堂の名字あるは、迷うべけれど、吾搭主を號すは、蓋し勝躅を瑫ましめんとなればなり。(永平寺三祖行業記

 上記「永平二祖孤雲懐弉禅師伝」竹内道雄著、276~277頁より


同年5月
 懐奘、「碧巖集穿却儞鼻孔話」を書写し、永平寺に施入す。

同年8月15日
 懐奘、道元禅師所伝の袈裟を義介に授く。


弘安3年8月24日
 孤雲懐奘禅師、遷化す。83歳

 

八月二十四日沐浴常の如し、夜に入りて示して曰く、先師半夜円寂す、予又焉れを慕う、丑の尅に至つて往くべしと、師日々夜々記事す、其の日に至つて曰く、今日予既に死すと云々、世の奇異とする所なり、時至つて鐘を鳴らして衆を集む、笔を求めて偈を書して云く、八十三年夢幻の如し、一生の罪犯彌天を覆う、而今足下絲無くして去る、虚空を蹈翻して地泉に没すと、筆を擲つて大衆を顧視し、珍重して逝く。
「元祖孤雲徹通三大尊行状記」

 

遺偈 八十三年夢幻の如く。 一生罪犯彌天を覆う。
       而今足下無絲に去る。 虚空に蹈翻して地泉に没す。

 

 

 

昭和3年(1928)11月1日 
二祖孤雲懐奘禅師六百五十回大遠忌を記念し、村上素道編輯兼発行「永平二祖孤雲懐奘禪師」が出版された。

 

 永平二祖孤雲懐奘禅師・村上素道著(東川寺蔵本)
 永平二祖孤雲懐奘禅師・村上素道著(東川寺蔵本)

 

昭和5年(1930)5月12日
二祖孤雲懐奘禅師に「道光普照国師」の諡號を賜う。

 

 道光普照國師(永平寺所蔵)
 道光普照國師(永平寺所蔵)

(注1)

懐奘禅師の母

 

母親の訓誡

「ある時、母儀のところへゆく、母すなはち命じて曰く、われ汝をして出家せしむるこころざし、上綱の位を補して公上のまじはりをなせとおもはず。ただ名利の学業をなさず、黒衣の非人にして、背後に笠をかけ、往来ただかちよりゆけとおもふのみなり。時に師(懐奘)ききて承諾し、忽ちに衣をかへて、ふたたび山(比叡山)にのぼらず。・・・・」
『傳光録』より


「今、彼の語を補足してみれば、『ナヨ懐奘どの、善く聴きてヨ。我が身はソナタが、そのやうに麗しき聖となり、尊き僧となられしを見れば、学業のほどもさこそと察せられて、かつは逝きし殿に対し、かつは親族知己に対し、冥加であり、驕(ほこ)りであり、感激の涙に耐へませぬ。しかしながら、ソは凡夫の浅はかなる料簡ヨ。つらつら近頃の出家沙門の有様を見れば、内道心を磨かず、後世の営みを事とせず。外綾羅を飾つて唯、公上の交りに傲り、出づるに乘與侍衛を厳かにし、入つては其の座を錦繍にして其の食を金玉にす、是れしかしながら槿花一朝の榮、浮べる雲の如く夕べの電に似たり。抑も吾が身が割き難き恩愛を割き、断ち難き愛惜の絆を断ちて、ソナタを出家せしめし事は朧気の志しではありませぬ。上綱の位に補せよと思はず、一山の貫首と仰がれよと願はず。唯朝な夕な神かけて願ふところは、どうぞどうぞ名利の韁にほだされず、但遁世の志しを固うして仮りにも名利の学業を為さず、道心を磨きて佛の本意を明め、禅定解脱を以て我が身及び一切衆生をも導き給へ。然らば一生黒衣の非人にして、往来ただ徒歩より行き給ふとも、吾が身に取りては本懐に存じまする。本望に存じまする。・・・・』」
「永平二祖孤雲懐奘禅師」35~36頁より

 

母親の重病、臨終

「いはゆる深草に修練の時、すなはち出郷の日限を定めらるる榜に曰く、一月両度一出三日也。然るに師(懐奘)の悲母最後の病中に、師ゆきて看ること已に制限を犯さず。病すでに急にして最後の対面をのぞむ。使いすでにかさなる、ゆゑに一衆悉く往くべしといふ。師すでに心中に思ひきはむといへども、また一衆の心を識らんとおもふて、衆をあつめて報じて曰く、母儀最後の相見をねがふ、制をやぶりて往くべしや否や。時に五十餘人みないふ、禁制かくの如くなりといへども、今生悲母ふたたび値ふべきに非ず、懇請して往くべし、衆心悉くそむくべからず、和尚なんぞ許さざらん、事すでに重し小事に準ずべからず、衆人の議みな一同なり。此の事上方にきこゆ。和尚ひそかに奘公の心定んで出づべからず、衆議に同ぜじと。果して衆議をはりて後、師、衆に報じて曰く、佛祖の規範衆議よりも重し、正しくこれ古佛の禮法なり、悲母の人情にしたがひ、古佛の垂範にそむかん、頗る不幸の咎なんぞまぬがれんや。ゆゑいかんとなれば、今まさに佛の制法を破らん、これ母最後の大罪なるべし。それ出家人としては親をして道に入らしむべきに、今一旦人情にしたがひ、永劫沈淪をうけしめんや。といひて、卒に衆議にしたがわずゆゑに衆人舌をまく。果たして和尚の所説にたがはず。諸人讚歎して、實にこれ人おこし難き志しなりと。・・・・」
『傳光録』より

 

 首書傍訓・瑩山傳光録・上下・吉田義山編輯・明治二十年(東川寺蔵本)
 首書傍訓・瑩山傳光録・上下・吉田義山編輯・明治二十年(東川寺蔵本)

 

(注2)

「正法眼蔵随聞記」

 

「正法眼蔵随聞記」はその書写により従来「慶安本」と「流布本」とがあり、流布本は慶安本を基に面山が校訂を加え刊行したもの。全六巻より構成されている。

「長円寺本」は昭和十七年に大久保道舟が愛知県長円寺に江戸初期の随聞記を発見し発表されたもの。

しかし「流布本」と「長円寺本」は全六巻とも内容はほぼ同じだが「長円寺本」の一巻目が「流布本・面山本」の六巻目となっていて、その他は一巻づつずれている。

又別に「大安寺本」が伝わっている。

 

上記の写真「正法眼藏随聞記全」(永平寺蔵版)は「宝暦八年戌寅二月吉旦、若州永福開闢面山瑞方拝題」のある、いわゆる「流布本・面山本」が基である。

その『正法眼蔵随聞記第一』を掲載した。

 

尚「長円寺本」の最初には
『 正法眼藏隨聞記第一  侍者 懷奘 編
示に云く、はづべくんば明眼の人をはづべし。予、在宋の時、天童浄和尚、侍者に請ずるに云く、外国人たりといへども元子器量人なり、と云てこれを請ず。予、堅く是れを辞す。その故は和国に聞えんためも、学道の稽古のためも大切なれども、衆中に具眼の人ありて外国人として大叢林の侍者たらんことを、国に人なきがごとしと難ずる事あらん、尤もはづべし、といひて、書状をもてこの旨を伸べしかば、浄和尚、国を重くし人をはづることを許して更に請ぜざりしなり。』
とあり、
「流布本」「長円寺本」共、その最後には
『 先師永平奘和尚学地に在りし日、学道の至要、聞くに随て記録す。所以に随聞と謂ふ。雲門室中の玄記の如く、永平の宝慶記の如し。今、六冊を録集して巻を記し、仮名正法眼蔵拾遺分の内に入る。六冊倶に嘉禎年中の記録なり。
 康暦二年五月初三日 宝慶寺浴主寮に於て書す焉
    三州旛頭郡中島山 長円二世暉堂が写しなり
 寛永二十一甲申歳 八月吉祥日 』
とある。

 

下は水野弥穂子訳「正法眼蔵随聞記」で昭和38年5月30日に(株)筑摩書房より発行された。長円寺本を基に書かれている。 

正法眼蔵随聞記・水野弥穂子訳(東川寺蔵本)
正法眼蔵随聞記・水野弥穂子訳(東川寺蔵本)

(注3)

「嘉禎二年臘月除夜」

 

 嘉禎二年臘月除夜、始めて懷奘を興聖寺の首座に請ず。即ち小參の次(ついで)、秉払を請う。初めて首座に任ず。即ち興聖寺最初の首座なり。
小參に云く、宗門の仏法伝来の事、初祖西来して少林に居(こ)して機をまち時を期して面壁して坐せしに、その歳の窮臘に神光来参しき。初祖、最上乗の器なりと知つて接得す。衣法ともに相承伝来して兒孫天下に流布し、正法今日に弘通す。
 始めて首座を請じ、今日初めて秉払をおこなはしむ。衆のすくなきにはばかる事なかれ。身、初心なるを顧みる事なかれ。汾陽(ふんやう)は纔に六七人、藥山は十衆に満たず。然れども仏祖の道を行じて是れを叢林のさかりなると云ひき。見ずや竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らめし、竹豈(あに)利鈍有り、迷悟有らんや。花何ぞ浅深有り、賢愚有らん。花は年々に開くれども皆得悟するにあらず。竹は時々に響けども聴く物(者)ことごとく証道するにあらず。ただ久参修持の功にこたへ、弁道勤労の縁を得て悟道明心するなり。是れ竹の声の独り利なるにあらず。また花の色のことに深きにあらず。竹の響き妙なりと云へども自(おのずか)らの縁を待つて声を発す。花の色美なると云へども独り開くるにあらず。春の時を得て光を見る。
 学道の縁もまた是(かく)のごとし。人々皆道を得る事は衆縁による。人々自ら利なれども道を行ずる事は衆力を以てするが故に、今(いま)心を一つにして参究尋覓すべし。玉は琢磨によりて器となる。人は練磨によりて仁となる。何(いづれ)の玉かはじめより光有る。誰人か初心より利なる。必ずみがくべし、すべからく練るべし。自ら卑下して学道をゆるくする事なかれ。

 古人云く「光陰虚しくわたる事なかれ。」と。今問ふ、時光はをしむによりてとどまるか、をしめどもとどまざるか。また問ふ、時光虚しく度(わたら)ず、人虚しく渡るか。時光をいたずらに過ごす事なく学道せよと云ふなり。
 是(かく)のごとく参、同心にすべし。我れ独り挙揚せんに容易にするにあらざれども、佛祖行道の儀、皆是(かく)のごとくなり。如来にしたがつて得道するもの多けれども、また阿難によりて悟道する人もありき。新首座非器なりと卑下する事なく、洞山の麻三斤を挙揚して同衆に示すべしと云つて、座をおりて、再び鼓を鳴らして、首座秉払す。是れ興聖最初の秉払なり。弉公三十九の年なり。
「正法眼蔵随聞記(長円寺本)」五巻四章より(水野弥穂子訳 183~185頁参照)

 

(註4)

 

永平高祖行状建撕記
 編集者・小川霊道
 昭和三十七年一月十五日・発行
 発行所・日本仏書刊行会

  永平高祖行状建撕記・編集者・小川霊道 (東川寺蔵本)
  永平高祖行状建撕記・編集者・小川霊道 (東川寺蔵本)
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